乱歩酔歩--Random Walk official blog-- -23ページ目

4月の活動報告

どうも遊木です。

 

相変わらず月末にいろいろ溜め込んでいます。

夏休みの宿題は最終日に本気を出すのだ。

 

 

というわけで今月の活動報告です。

 

 

□制作関連

ネームしつつ、先月末からちまちま始めた制作スタイルの改新メモ……フローチャート(仮)?みたいなものを作っていました。

ネームは一旦区切りのところまで出来たので、この後の数日間でフローチャート(仮)を清書して、分かりやすい形にしたいと思います。

なんで今更そんなもん作ってんだって感じですが……。思っていた以上に専門知識を要する作品の扱いが難しい、その一点に尽きますね。

人生で散々関わってきた専門分野なら別でしょうが、今扱っているものはどうしてもお勉強寄りと言いますか、「自発的にインプットしようとしなければ得られない知識」がメインなので、面白いとは思いつつ、作品に落とし込めるまで自分の血肉になっていないなぁと。

以前までは、自身の漫画制作にフローチャート(仮)を用意する発想はまったくなかったというか、必要と感じたことがなかったので、「はぁああ…専門漫画ってこんなに難しいのね」ってなっています。改めて、医療漫画や歴史漫画描いている作家を尊敬しました。

 

 

 

□国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ

すごく久しぶりに国立西洋美術館に行ってきました。

展覧会の話を聞いたときから「え?西洋美術館が現代アート?」と驚きがあり、タイトルを知ったときには、逆説的なアイデンティティの確認みたいなものかな、と思いました。

実際に鑑賞して感じたのは、「藻掻いてるな」です。

前述のようなアイデンティティの言及的要素はあったものの、それが思っていたより自虐的というか、国立という立場の責任と不自由さに振り回されている感じがありました。

展示作品は興味深いものがあった一方、展覧会全体のキュレートは不慣れというか、「このテーマの現代アート展はどうするのが正解なのか」という考えに縛られている印象が強かったです。

それが特に顕著だったのが最終章です。章キャプションに「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?―――この問いには結果として“Yes”とは答えづらいものがある。」と書いてしまっている。

正直、これを読んだとき「いや、そんなこと書く必要ないだろ」と思いました。「現代アート展で主催者側が答えを出すな」と。

個人的に現代アートの醍醐味って、「問いかけはした、あとはお前たちの好きにしろ」だと思うんですよ。その結果、鑑賞者が自分なりの答えを見つけたり、見つけられなかったり、考える価値がないと判断したり、“鑑賞したあとを委ねる”ことこそ、自由過ぎて決まった型のない現代アート唯一の型だと思うんです。

その点から、今回の展覧会は、主催者がまだ主催の立場ではなく、鑑賞する側から抜け出せていないと感じました。

国立西洋美術館という立場から現代アートに関わるなら、まずは自分達の血肉である所蔵作品、つまりは“西洋美術を使って現代アート展を開く”という段階を挟んだ方が、「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」という問いに、深みが出たような気がします。

まぁ素人なりの考えですが。

とは言いつつ、国立西洋美術館が現代アートに関わる決意をしたのは、アート界全体からすると大きな意味があると思います。

不慣れで、積み上げた実績が枷になりつつも、変化せずにはいられないという足掻きは、不格好である一方美しくもある。

というわけで、諸々の印象をまとめて「藻掻いてるな」でした。

 

 

 

 

 

 

□砕氷艦「しらせ」乗船

横浜には沢山の船が入港しますが、最近話題になったのは砕氷艦「しらせ」です。

山下ふ頭に入港した僅かな期間だけ乗船させてくれるということで、直接見る機会もあまりないだろうし、乗船する機会なんてもっとないだろうと思い行ってきました。

南極観測船というだけあって、氷の中を進む独自の機能や構造は、当然ですが客船とは全然違いますね。

以前海保の「さがみ」に乗船したことがありますが、そちらとは似ている部分がありました。

個人的に、格納庫からヘリを引っ張り出す機械が「タロ」と「ジロ」だったのがウケた。

流石南極観測船。

 

 

 

 

 

 

□花の季節

〇フラワーガーデン

赤レンガ倉庫広場で毎年開催されているものです。今年もお邪魔しました。

毎年、何かしらのテーマを設けて開催されるフラワーガーデンですが、今年は全体的にメルヘンで王道な「お花の世界」という感じでした。

 

 

 

〇花壇展

こちらも毎年山下公園で開催されているものです。

こちらは、ただお花を愛でるというよりは作品鑑賞なので、ひとつひとつコンセプトを読み取ったり造形を見るのが面白いです。

フリーレンがいたのには笑いました。これは狙ってるだろ。

 

 

 

 

 

他にも新港広場や街中でも様々な花が咲いていました。

この季節の横浜は華やかです。

 

 

□BankART Life7「Urban Nesting 再び都市に棲む」

恒例のBankART Lifeです。

トリエンナーレを鑑賞した後に、まとめで感想を書く予定なのでここでは簡単に。

一応メイン会場から、街中の作品まで鑑賞できるものは一通り見てきましたが、個人的に今回は良い意味で分かりやすく、質の高い作品が多かった印象です。

タイトルを“住む”ではなく“棲む”としている点と、“再び”としている点、二つの要素が上手く一環している展覧会で、現在の街を再び見つめ直したり、変わりゆくものに翻弄されたり、時には惜しんだり、多種多様なアプローチがあると感じる一方、マクロの視点で見渡すと、「街で生き続けることに向き合う」という一本の筋がしっかり見えます。

 

〇BankART Station

 

 

 

 

 

〇みなとみらい

 

 

 

 

〇ポートサイドエリア

 

 

 

 

〇伊勢崎

 

 

 

□「黄金町バザール2024—世界のすべてがアートでできているわけではない」

ミーティングの時間を使って、サークルメンバーで行ってきました。

個人的にタイトルの「世界のすべてがアートでできているわけではない」という文言がかなり興味深く、鑑賞を楽しみにしていました。

というのも私自身、かつて大学の課題で似たようなテーマのレポートを書いたことがあったからです。

せっかくなら、ということで展覧会に行く前に、PCの中から自分のレポートのデータを引っ張り出して内容を読み返しました。

レポートを書いたときから大分経っているので、思考の変化があってもおかしくありませんが、主張に知識不足と浅慮な部分はありつつも、根本の言い分は今も変わっていないように感じます。思っていたより確固たる意志が私の中にあるよう。

展覧会自体は相変わらず自由で、トリエンナーレやBankARTほど洗練されていない一方、生々しさが色濃く残る作品が多くて楽しかったです。

個人的には、展覧会挨拶に記載された文章が印象的でした。

アートと世界の関係について、「双方がひとつになることはなく、そこには教育的関係のみが存在しているのではないか」という解釈が、非常に私のイメージに近く、(と言ってもここまで上手い言葉が出て来なかったが)頭の中の霧がすっと晴れる感じがしました。

私は以前から、「社会がアートにすり寄ると失敗する」という考えがあったのですが、今までその理由は判然としませんでした。しかし、この文章を読んで「なるほど、媚びや過干渉が、教育的関係というクールな距離感を崩壊させているのか」と納得しました。

展示時期や時間帯の問題で、まだ全作品鑑賞出来ていないので、近い内に再びお邪魔したいと思います。

また新たな発見があったら、改めて感想を書くかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

□映画「オッペンハイマー」鑑賞

須々木氏も感想を書いているので、私も簡単に。

※※ネタバレ注意※※

第一印象は「難しい作品」です。

専門知識を容赦なくブッ混んでくる、時系列構成が複雑、登場人物が多い、歴史知識、理系知識が皆無の人は一瞬で置いて行かれる作品です。

そして一番の難しさは、オッペンハイマーをどう見るか、でしょう。

実はこの作品、作中で「オッペンハイマーはこういう考えだった」と明示される場面がほぼありません。安易に情報を捏造しないクリストファー・ノーランの拘りは、多方面への配慮と歴史へのリスペクトを感じますが、故に内容の難易度は上がっています。

「このとき、本当はどういう考えだったのか」が提示されない以上、鑑賞者は各自でそれを考えるしかない。

ただ、オッペンハイマーのこと、原爆のこと、戦争のこと、歴史のこと、そういう答えの出ない問題を、鑑賞者に考えさせることがこの映画の役割だと思うので、そういう意味では優れた作品であり、アカデミー賞を取るべき作品であったと思います。

原爆投下のシーン、その後の日本の様子を描かないこと、そういう構成が一部の反感を買っていたようですが、個人的には描かなくて正解だと感じました。

何故なら、オッペンハイマーは見ていないからです。原爆投下も、その後の長崎や広島の様子も。彼には報告という形で自身が作り出した兵器の威力と、日本の様子が伝わった。それがリアルであり、彼が見ていないものを描くのは作品のコンセプトからずれる。

 

この映画に何を思うのか、アメリカと日本で意見が分かれるのは必然。日本人だとしても、長崎、広島の方とそれ以外では違った意見を持つでしょう。

ただ、重要なのは思考を放棄しないこと。その一点を貫くことが、この映画、しいては戦争によって犠牲になった多くの人への敬意だと思いました。

 

 

 

□花見

久しぶりに根岸森林公園でサークル花見をしました。

天候の問題で予定日より遅れましたが、丁度桜吹雪にぶつかったので、満開とは違う乙な花見が出来ました。

今回は近年稀に見るネタが爆誕した花見だったので、エッセイ漫画を描きたいと思ってます。

いや、マジで盛らなくても漫画になるネタでしたよ。

 

 

 

 

 

 

今月はこんな感じでした。

 

インスタは公式アカを結構動かしてました。

よろしければそちらもどうぞ!

 

 

外出はまぁまぁしているのですが、展覧会鑑賞が多くてやや運動不足なので、5月はもう少し動き回りたいと思います。

 

aki

作品投稿SNS『 Xfolio 』が気になる

 こんばんは、寒暖差に振り回されて常に薄っすらと体調が優れない米原です。

 

 ここ数年、生成AIについてとそれにまつわるコンテンンツがざわざわし続けており、SNSに自分の作品を公開することへの漠然とした不安を抱えることが多くなりました。

 

 そんな中、最近オススメされることが多くなって来た『 Xfolio(クロスフォリオ 』を少し触ってみました。

 

『 Xfolio(クロスフォリオ 』 とは

 

BookLive提供クリエイター向け総合プラットフォームサービス(作品投稿SNS)

 

 基本はPixivと同じで『 イラスト・漫画・小説 』作品投稿と公開ができるSNS。

 他にも『 ポートフォリオ機能・DL販売機能・自家通販機能・ファンコミュニティ機能 』等、欲しい機能は既に一通り出揃っている感じでした。

 

 

 現在は一次創作特化という雰囲気で、オリジナル作品を公開する場として注目しています。

 

 

 そして、生成AIについての方針も発表されている&随時対策も取って行くということだったので、ひとまず安心できるかなと思いました。

 

 

 成長も変化も世の常ではありますが、今はとにかく安心して作品投稿できる場が欲しいんだよぉ~~~ッッッ!!!!となっていたので、住み良い自分の城を得る為にもXfolioの動向をこれからも気にして行きたいと思います。

 

 4月は今の所寒暖差と梅雨のような気候で予想以上に外出の機会を逃すことが多く、行きたい展示会や映画もまだ開催していないとい隙間期間で外へインプットにし行く機会にあまり恵まれずムズムズしているので、はやくこの欲求を満たしたいですねぇ。

 

 苦手な春の気候はまだまだ続きますが、これから見たい映画も沢山公開していくのでそれを希望に生き残りたいと思います。それではまた次回。

 

noz

横浜の今昔

どうも遊木です。

 

初夏のような陽気が続いていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

 

今回は、先月の活動報告で抜けていた出来事について触れようと思います。

 

 

約一ヶ月前になりますが、LOCAL BOOK STORE kita.で開催された「横濱今昔写真展」にお邪魔しました。

その名の通り、横浜の今と昔を比較した写真展で、現在でも名残がある場所から、まったく変わってしまった場所まで、様々な街の写真が展示されていました。(インスタに写真を更新しています)

 

 

 

 

 

また、大さん橋で開催されていた「MEMORIES OF THE PORT OF YOKOHAMA」写真展(横浜港振興協会創立70周年記念)にもお邪魔し、まだ観光地となるまえの沿岸部や埠頭の様子を見てきました。

 

 

 

ここ数年、素人なりに横浜の歴史や今昔について勉強している身としては、どちらも非常に興味深い写真展だったと思います。

 

 

横浜は、ペリー来航以降急加速的に発展した街で、その歴史は1859年の開港から数えると165年程度。 世界最古の国ともいわれる日本の中では、赤子も同然の歴史しかありません。

しかも、その165年の中で関東大震災と横浜大空襲を経験しており、震災前の建築などは数えるほどしかない。

短い歴史の中で2度も崩壊した街であり、戦後は都内よりも長くアメリカに接収されていたことで、復興が大幅に遅れた歴史もあります。 みなとみらいの沿岸からは、令和の世になったいまでも返還の目途が立っていない瑞穂ふ頭を臨むことができます。

 

そも、始まりからして“神奈川湊の肩代わりにされた”横浜は、時の権力者、自然災害、戦争など、ざっくりまとめて「歴史に翻弄された街」と言えるでしょう。

 

一方で、横浜市の現在の人口は東京23区に次ぐ380万人。 日本の中でも有数の発展した都市で、多くの観光客や企業が流入する場所でもあります。

 

私が横浜に来てから10年以上経ちますが、実際に街を歩いたり、歴史を勉強したり、写真展に行ったり、アーティストの作品を見たりして感じたことは、横浜の発展は、“とてもスピーディーで力押し”ということです。

京都や奈良のように、人の営み、人の歩みと寄り添いながら今の佇まいになった場所と違い、「歴史なんてあってないようなもんだ、とにかく栄えろ、とにかく復興だ」と、“時代に急かされた痕”がそこかしこにある。

 

壊れて、復活して、また壊れて復活して……この繰り返しと、「なるはやで栄える/復活するためなら、どんな文化でも呑み込んでやろう」という泥臭さが、今日の横浜を形作っているように感じます。

 

つまり横浜は、「ことあるごとに歴史に翻弄されるが、翻弄されたその勢いを動力源に発展した街」なのではないでしょうか。

(「歴史が浅い故の取り組み」もある街ですが、そちらについては、機会があったときにでも触れたいと思います)

 

 

深く考えずにお邪魔した写真展でしたが、どちらの展示も“横浜の在りよう”に思いを馳せる良いきっかけになりました。

規模として小さなものですが、とても良い刺激になりました。

 

 

 

 

あと話は変わりますが、LOCAL BOOK STORE kita.のコンセプトが単純に面白かったです。

詳細はwebサイトを見て欲しいのですが、書店員ごとに「店員のおススメ棚」があり、書籍を並べるだけでなく、自分なりのアレンジをして“推し”を表現していました。

 

あれ、良いですね。 アトリエとかあったらうちのサークルでもやりたいぐらい。

「今月の遊木のおススメコーナー」みたいに、各メンバーにスペースを与えて。

 

ちなみに私は今回、↓↓の本を購入させて頂きました。

 

 

 

というわけで、今後も横浜の今昔について、ちまちま勉強を続けていこうと思います。

 

 

aki

春…行ってしまうのか…

どうもこんばんは霧島です。
今日は久しぶりにイカを捌いたんですが、皮が一生剥けなくて放り投げそうになるのを抑えるのが大変でした。

なかなか立派な肝が入っていたのでパスタとかにしても美味しそうだったんだけど、今回は使わず…。
あの胴から内臓を引き抜く感覚は…なかなか…いいよね…(え?)


話は変わりますが、先日久しぶりにRWメンバーでお花見に行ってきました。コロナ禍以前は根岸森林公園でお花見するのが定番だったので、久しぶりの復活です。
今回ちょっと、もしかしたら仕事の関係で行けないかもな〜と思ってたのですが、なんとか都合がついて参加できたのでよかったです

例年結構花より団子というか、桜が散ってしまっていることもままあるのですが、今年はまだ桜も残りつつ、気候的には穏やかで風もなくという最高のロケーションでした。なおかつお酒もお団子も堪能できたので大満足です。途中ちょこちょこハプニングは…あったが…

そんな感じでお花見を満喫しつつ、今の時期は桜以外にも色々な花が咲いていて世界がカラフルでいいですね。視界に色がいっぱいあるとルンルンしてしまう…

この時の写真はRW公式インスタに載っているのでぜひご覧ください。ついでにフォローもよろしくです。

 

 


さて、またまた話は変わりますが、連載の方今週は休載というかおまけ回でした。今後も基本的に3週更新の1週おまけという形で進んでいくと思います。ストック的には数回分はあるんですが、なんせ週刊なのでそのストックもすぐ…尽きるんだろうな…
とりあえず追いつかれないように頑張りたい所存です。

現在10話まで読めますのでぜひ読んでね。

 

 


原稿の合間にしたためた落書きを告知の際に掲載してるんだけど、しばらくは朝の支度シリーズで進めようと思っていたら早速忘れて急遽フォルダにあった線画に色だけつけました。
グラデーションマッピング使ってみたいという気持ちだけあるんだけどいまいちまだよくわかってない…色塗り難しい…こちらも合間を縫って精進してまいります。


というわけで原稿に戻るかな。
したらば!


rin

映画「オッペンハイマー」を見て

 

 

 

須々木です。

 

先日、 映画『オッペンハイマー』 を見てきました。

 

というわけで、以下、鑑賞間もないタイミングでのツイート。

 

 

 

 

 

 

ツイートではあまり長々と書けなかったので、もう少し補いつつ、改めて思うことなど書いていきたいと思います。

 

 

 

 

 

** 注意 **

これより映画の内容にも触れるので、まだ見ていない人はご注意。

伝記映画なのでネタバレという概念はないかもしれませんが。

また、以下の内容はあくまで個人的見解です。

 

 

 

 

 

まず大前提ですが、とても良い映画でした。

劇場で見られて良かったです。

純粋に質がとても高く、アカデミー賞も納得という圧巻のクオリティでした。

 

180分の伝記映画でここまでずっと惹きつけ続けるというのは、いったいどういうことなんだ?と思わずにはいられません。

実際に見たにもかかわらず謎です。

 

ただ、内容的に考えても、万人に積極的にオススメするタイプの作品というわけではありません。

「最高に面白かった!」と手をたたき称賛したくなる作品を求める人向けではなく、腹の底にずんと響くその重みに鑑賞の価値を見出すタイプの人にこそ薦めるタイプの作品です。

 

また、そもそも容赦のない作品です。

これはクリストファー・ノーランの作品に共通する特徴かもしれませんが、いろいろ遠慮なく進めていってしまいます。

振り落とされないよう、しがみついてどうにかなる感じです。

 

本作では、優れた物理学者であるロバート・オッペンハイマーが原爆を開発するストーリーが展開されるわけですが、歴史的経緯や最低限の科学的知識は事前にある前提となっています。

おそらくアメリカでは第二次世界大戦期の歴史は日本の学校教育以上に詳しく扱うので、そのあたりでも前提知識の差はありそうです。

日本で織田信長の映画を制作するなら、織田信長がどのようなことをしてどうなった人なのか知っている前提で展開すると思いますが、オッペンハイマーもアメリカ人からしたら同レベルの前提知識があるのかもしれません(詳しくは知りませんが)。

 

作中では多くの人物が登場しますが、科学の歴史上よく知られた人も多くいました。

新キャラ登場シーンで「この人もかかわっていたのか……」と思って見るのと、「また新しいのが出てきた。誰だよこれ……」と思って見るのではだいぶ違うでしょう。

科学的知識に関しても、見事な映像表現で直感的に雰囲気はつかめるようになっていましたが、より正確な知識を持っている方が明らかに深く鑑賞できる構成でした。

 

本作の肝は、原爆開発の顛末というより、オッペンハイマーという実在の人物そのものです。

さらに言うなら、オッペンハイマーという人間が有する多面性、複雑性です。

オッペンハイマーという非常に理解しがたい人物を、その理解しがたいまま、確定的な解釈をできるだけ回避しながら描いていきます。

つまり、足掛かりになる確たる情報を安易に積み上げることがないので、歴史的経緯や科学的知識まであやふやだと、情報処理的にいっぱいいっぱいになってしまうおそれがあります。

 

よって、かなり容赦ない作品です。

ゆえに好みは分かれるでしょうし、評価する人、評価しない人がいて、その理由も様々でしょう。

 

僕は「良い作品」だと感じました。

安易に「面白い作品」と形容したくない気持ちはありますが、見る価値のある作品だと強く思いました。

 

そのうえで、もう少し好き勝手思ったことを書いておきたいと思います。

 

すでに触れた通り、本作はオッペンハイマーという人間がもつ複雑性に焦点を当てています。

「一人の人間がどれほどの多面性を内包しうるのか」を実に見事に描いています。

分かりやすいテンプレキャラが溢れる大衆娯楽作品とは一線を画すものです。

 

しかし、複雑性を描いても、その複雑性の具体的な中身はよくわからないまま。

なんとなく察することはできますが、オッペンハイマーの内面を確定的に描くことは回避しているように感じました。

「容易に理解しがたい人間」のまま見事に描かれているのが、本作の凄いところだと感じます。

これは様々なものの積み重ねにより達成されているのだと思いますが、とりあえずオッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィーの演技が圧倒的でした。

 

一方で、オッペンハイマーの複雑性を見事に描くほど、その複雑性のルーツを知りたくなってきます。

本作は複数の時間軸を行ったり来たりする極めて入り組んだ構成ですが、オッペンハイマーの複雑性のルーツを知る上で重要であろう幼少期は一切描かれていません。

これらが多少でも盛り込まれていれば、より「スッキリ」はした気がします。

ただ、ルーツを語って説得力や一貫性を上乗せするという発想自体が、安易すぎるのかもしれませんが。

そして、あまりスッキリするとノーラン作品っぽくない気もしてしまいます。

 

広島、長崎への原爆投下のシーンを作中で描いていないことも多少話題になりました。

これに関しては、なんとも言い難い気がします。

本作では原則として、ストーリーを描くカメラはオッペンハイマーやオッペンハイマーの周囲の直接関係のある人たちに向き続けているので、ここでいきなり日本のシーンを描くのは正直いかがなものかとは思います。

間接的な情報として知ったときオッペンハイマーが見せる反応にフォーカスする方が普通に考えて妥当だとは思いました。

ただ、作中で原爆投下シーンを入れられないというほどではなかったとも思います。

入れられないというほどではなかったとは思いますが、入れたらこの作品は確定的に「反核の映画」になってしまいます。

「原爆の父」であるオッペンハイマーを描く作品と聞いて、自動的に脳内で「反核の作品」と変換してしまう人にとっては違和感があったのかもしれませんが、本作はそのような安易な答えを提示するのではなく、鑑賞者それぞれに考えることを促しているように思えました。

その意味で、描かなかった点には一貫性を感じますし、妥当性があると思います。

 

原爆投下の情報に触れて以降のオッペンハイマーの苦悩も描かれています。

ただ、何に苦悩しているのかはあまり明確にしていません。

自分が大量破壊兵器の実戦使用において重要な役割を果たしてしまったことを悔やんでいるのか、本当に使うことはないだろうという自身の目論見の甘さを恥じているのか、人類の愚かさに絶望しているのか。

なんとなくにおわせていますが、敢えて確定的に語らせてはいません。

 

この「オッペンハイマーの苦悩」ともつながる話ですが、改めて本作を咀嚼しながら「原爆投下後の生き様をもっと描いてほしかった」とは思いました。

原爆投下後のプリンストン高等研究所所長時代、多くの日本人研究者を自ら招聘したこと(これが戦後日本の科学の発展に多大な影響をもたらした)。

1960年の初来日(そして唯一の来日)において、忙しいスケジュールの合間をぬって、それまで関わった日本人やその家族たちのもとを訪ね歩いたこと。

初来日の際にうけた質問に対し、「後悔はしていない。ただそれは申し訳ないと思っていないわけではない」と答えたこと。

広島と長崎の訪問はかなわなかったこと(混乱を避ける目的で止められたか)。

そして、核兵器のある世界が現実のものとなり、それを見ながら何を思い最期の日を迎えたのか。

 

とは言うものの、アメリカの映画としてつくられている以上、「オッペンハイマー事件」に比重を置くのは十分理解できます。

プリンストン高等研究所で、湖畔でアインシュタインと語らう一連の印象的な場面を“創作”して加え、「オッペンハイマー事件」への伏線として仕込んだことから考えても、本作において描く優先度が高いと判断されたのでしょう。

なお、「オッペンハイマー事件」、すなわちオッペンハイマーの事実上の公職追放に関しては、2022年12月に米エネルギー省長官が「不公正な手続きであった」として取り消しを発表しています。

 

本作は非常に丁寧に誠実につくられた作品という印象を受けました。

同時に、細部までこだわり詰めていきながら、最終的にどこかで放り投げる(鑑賞者に委ねる)作品だとも思います。

これはノーランの他の作品でも感じるので、一つの特徴なのかもしれません(ノーラン作品を好むかどうかの分かれ目はこのあたりにある気がします)。

そして、スッキリさせることを至上命題としない作品が一定の評価を受けるのは、個人的には非常に良いことだと思っています。

 

スッキリしないものは、見た人の中で何かが残り続けるし、残るから解釈しようと考える。

これが意図的なものかはわかりませんが、複雑性を許容できず異様にシンプルにとらえたがる(結果として“分断”を招く)現代人の思考回路に何かかましてやろうという意図があるのであれば、それは見事に達成されているとも感じます。

 

・・・などと長々書きましたが、それらを踏まえてなお本作は「落とした国の作品だな」と感じてしまうものであり、言葉を選ばずに言えば、そこに多少の胸糞悪さを覚えました。

本当に誠実につくっていて、誰か特定の考えの人たちに媚びることもなく、バランスもとりつつ本当によくつくられた作品だと思うのですが、これはもうどうしようもないものなのでしょう。

「オッペンハイマーはこうであった」を描きつつ、そこから「オッペンハイマーはこうであったと思いたい」という要素を完全に排除するのは、つくり手もまた人間である以上、原理的に不可能です。

ただ、この胸糞悪さは価値ある胸糞悪さであり、これをもってこの作品の評価が下がることはありません。

ゆえに、極めて意義深い鑑賞体験でした。

 

 

 

sho