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映画「オッペンハイマー」を見て

 

 

 

須々木です。

 

先日、 映画『オッペンハイマー』 を見てきました。

 

というわけで、以下、鑑賞間もないタイミングでのツイート。

 

 

 

 

 

 

ツイートではあまり長々と書けなかったので、もう少し補いつつ、改めて思うことなど書いていきたいと思います。

 

 

 

 

 

** 注意 **

これより映画の内容にも触れるので、まだ見ていない人はご注意。

伝記映画なのでネタバレという概念はないかもしれませんが。

また、以下の内容はあくまで個人的見解です。

 

 

 

 

 

まず大前提ですが、とても良い映画でした。

劇場で見られて良かったです。

純粋に質がとても高く、アカデミー賞も納得という圧巻のクオリティでした。

 

180分の伝記映画でここまでずっと惹きつけ続けるというのは、いったいどういうことなんだ?と思わずにはいられません。

実際に見たにもかかわらず謎です。

 

ただ、内容的に考えても、万人に積極的にオススメするタイプの作品というわけではありません。

「最高に面白かった!」と手をたたき称賛したくなる作品を求める人向けではなく、腹の底にずんと響くその重みに鑑賞の価値を見出すタイプの人にこそ薦めるタイプの作品です。

 

また、そもそも容赦のない作品です。

これはクリストファー・ノーランの作品に共通する特徴かもしれませんが、いろいろ遠慮なく進めていってしまいます。

振り落とされないよう、しがみついてどうにかなる感じです。

 

本作では、優れた物理学者であるロバート・オッペンハイマーが原爆を開発するストーリーが展開されるわけですが、歴史的経緯や最低限の科学的知識は事前にある前提となっています。

おそらくアメリカでは第二次世界大戦期の歴史は日本の学校教育以上に詳しく扱うので、そのあたりでも前提知識の差はありそうです。

日本で織田信長の映画を制作するなら、織田信長がどのようなことをしてどうなった人なのか知っている前提で展開すると思いますが、オッペンハイマーもアメリカ人からしたら同レベルの前提知識があるのかもしれません(詳しくは知りませんが)。

 

作中では多くの人物が登場しますが、科学の歴史上よく知られた人も多くいました。

新キャラ登場シーンで「この人もかかわっていたのか……」と思って見るのと、「また新しいのが出てきた。誰だよこれ……」と思って見るのではだいぶ違うでしょう。

科学的知識に関しても、見事な映像表現で直感的に雰囲気はつかめるようになっていましたが、より正確な知識を持っている方が明らかに深く鑑賞できる構成でした。

 

本作の肝は、原爆開発の顛末というより、オッペンハイマーという実在の人物そのものです。

さらに言うなら、オッペンハイマーという人間が有する多面性、複雑性です。

オッペンハイマーという非常に理解しがたい人物を、その理解しがたいまま、確定的な解釈をできるだけ回避しながら描いていきます。

つまり、足掛かりになる確たる情報を安易に積み上げることがないので、歴史的経緯や科学的知識まであやふやだと、情報処理的にいっぱいいっぱいになってしまうおそれがあります。

 

よって、かなり容赦ない作品です。

ゆえに好みは分かれるでしょうし、評価する人、評価しない人がいて、その理由も様々でしょう。

 

僕は「良い作品」だと感じました。

安易に「面白い作品」と形容したくない気持ちはありますが、見る価値のある作品だと強く思いました。

 

そのうえで、もう少し好き勝手思ったことを書いておきたいと思います。

 

すでに触れた通り、本作はオッペンハイマーという人間がもつ複雑性に焦点を当てています。

「一人の人間がどれほどの多面性を内包しうるのか」を実に見事に描いています。

分かりやすいテンプレキャラが溢れる大衆娯楽作品とは一線を画すものです。

 

しかし、複雑性を描いても、その複雑性の具体的な中身はよくわからないまま。

なんとなく察することはできますが、オッペンハイマーの内面を確定的に描くことは回避しているように感じました。

「容易に理解しがたい人間」のまま見事に描かれているのが、本作の凄いところだと感じます。

これは様々なものの積み重ねにより達成されているのだと思いますが、とりあえずオッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィーの演技が圧倒的でした。

 

一方で、オッペンハイマーの複雑性を見事に描くほど、その複雑性のルーツを知りたくなってきます。

本作は複数の時間軸を行ったり来たりする極めて入り組んだ構成ですが、オッペンハイマーの複雑性のルーツを知る上で重要であろう幼少期は一切描かれていません。

これらが多少でも盛り込まれていれば、より「スッキリ」はした気がします。

ただ、ルーツを語って説得力や一貫性を上乗せするという発想自体が、安易すぎるのかもしれませんが。

そして、あまりスッキリするとノーラン作品っぽくない気もしてしまいます。

 

広島、長崎への原爆投下のシーンを作中で描いていないことも多少話題になりました。

これに関しては、なんとも言い難い気がします。

本作では原則として、ストーリーを描くカメラはオッペンハイマーやオッペンハイマーの周囲の直接関係のある人たちに向き続けているので、ここでいきなり日本のシーンを描くのは正直いかがなものかとは思います。

間接的な情報として知ったときオッペンハイマーが見せる反応にフォーカスする方が普通に考えて妥当だとは思いました。

ただ、作中で原爆投下シーンを入れられないというほどではなかったとも思います。

入れられないというほどではなかったとは思いますが、入れたらこの作品は確定的に「反核の映画」になってしまいます。

「原爆の父」であるオッペンハイマーを描く作品と聞いて、自動的に脳内で「反核の作品」と変換してしまう人にとっては違和感があったのかもしれませんが、本作はそのような安易な答えを提示するのではなく、鑑賞者それぞれに考えることを促しているように思えました。

その意味で、描かなかった点には一貫性を感じますし、妥当性があると思います。

 

原爆投下の情報に触れて以降のオッペンハイマーの苦悩も描かれています。

ただ、何に苦悩しているのかはあまり明確にしていません。

自分が大量破壊兵器の実戦使用において重要な役割を果たしてしまったことを悔やんでいるのか、本当に使うことはないだろうという自身の目論見の甘さを恥じているのか、人類の愚かさに絶望しているのか。

なんとなくにおわせていますが、敢えて確定的に語らせてはいません。

 

この「オッペンハイマーの苦悩」ともつながる話ですが、改めて本作を咀嚼しながら「原爆投下後の生き様をもっと描いてほしかった」とは思いました。

原爆投下後のプリンストン高等研究所所長時代、多くの日本人研究者を自ら招聘したこと(これが戦後日本の科学の発展に多大な影響をもたらした)。

1960年の初来日(そして唯一の来日)において、忙しいスケジュールの合間をぬって、それまで関わった日本人やその家族たちのもとを訪ね歩いたこと。

初来日の際にうけた質問に対し、「後悔はしていない。ただそれは申し訳ないと思っていないわけではない」と答えたこと。

広島と長崎の訪問はかなわなかったこと(混乱を避ける目的で止められたか)。

そして、核兵器のある世界が現実のものとなり、それを見ながら何を思い最期の日を迎えたのか。

 

とは言うものの、アメリカの映画としてつくられている以上、「オッペンハイマー事件」に比重を置くのは十分理解できます。

プリンストン高等研究所で、湖畔でアインシュタインと語らう一連の印象的な場面を“創作”して加え、「オッペンハイマー事件」への伏線として仕込んだことから考えても、本作において描く優先度が高いと判断されたのでしょう。

なお、「オッペンハイマー事件」、すなわちオッペンハイマーの事実上の公職追放に関しては、2022年12月に米エネルギー省長官が「不公正な手続きであった」として取り消しを発表しています。

 

本作は非常に丁寧に誠実につくられた作品という印象を受けました。

同時に、細部までこだわり詰めていきながら、最終的にどこかで放り投げる(鑑賞者に委ねる)作品だとも思います。

これはノーランの他の作品でも感じるので、一つの特徴なのかもしれません(ノーラン作品を好むかどうかの分かれ目はこのあたりにある気がします)。

そして、スッキリさせることを至上命題としない作品が一定の評価を受けるのは、個人的には非常に良いことだと思っています。

 

スッキリしないものは、見た人の中で何かが残り続けるし、残るから解釈しようと考える。

これが意図的なものかはわかりませんが、複雑性を許容できず異様にシンプルにとらえたがる(結果として“分断”を招く)現代人の思考回路に何かかましてやろうという意図があるのであれば、それは見事に達成されているとも感じます。

 

・・・などと長々書きましたが、それらを踏まえてなお本作は「落とした国の作品だな」と感じてしまうものであり、言葉を選ばずに言えば、そこに多少の胸糞悪さを覚えました。

本当に誠実につくっていて、誰か特定の考えの人たちに媚びることもなく、バランスもとりつつ本当によくつくられた作品だと思うのですが、これはもうどうしようもないものなのでしょう。

「オッペンハイマーはこうであった」を描きつつ、そこから「オッペンハイマーはこうであったと思いたい」という要素を完全に排除するのは、つくり手もまた人間である以上、原理的に不可能です。

ただ、この胸糞悪さは価値ある胸糞悪さであり、これをもってこの作品の評価が下がることはありません。

ゆえに、極めて意義深い鑑賞体験でした。

 

 

 

sho