古代歴史考察シリーズ▶人類誕生→日本神話→日本国成立へ(大富士文書) | 【らくーん別邸】体調も運気もグイグイ回復

古代歴史考察シリーズ▶人類誕生→日本神話→日本国成立へ(大富士文書)

 

壮大なエンタメをお楽しみください

 

注意日本で”正史”と呼ばれる『記紀』

 とは少し異なる古代日本の歴史考察です。

 エンタメとしてお楽しみください

 

36億年前、地球上に生命が誕生した。

 

 

2000万年前

まだ日本が大陸続きだった時代

現在の日本海も、湖だった。

 

それから大陸プレートは

長い年月をかけて少しずつ移動し

日本列島はユーラシア大陸から離れてゆき

温暖化という気候変動も加わり、

島として独立していった。

 

プレートは現在も動き続けており

世界の地形は長い年月をかけ

少しずつ変化を続けている。

 

20万年~25万年前

ホモサピエンスは東アフリカで誕生する。

 

5万年~6万年前

ホモサピエンスはアフリカから

世界各地へと旅立っていった。

 

太陽の出る方角である

東の”聖なる地”を目指し

 

ユーラシア大陸の極東

”日出る”最果ての地

現在の日本あたりまで

 

忍耐強く長距離を移動して到達した

”チャレンジング”な集団がいた。

 

現在の日本周辺は

数万年前の頃、

 

まだ”国”という概念も

国民という概念もなかったが

 

”族”というべき多数の小集団が

各地に形成されていった。

 

3万年前頃には、

その族は、高度な航海技術を

既に持っていたとされ

船で世界中を回っていた痕跡がある。

 

その証拠として

石に刻まれた”古代岩文字”

「ペトログリフ」が

世界各地で発見されている。

 

2万年前頃まで

日本はユーラシア大陸と陸つづきで

島として分離しておらず

日本海もまだ湖だった。

 

現在の地形よりも

140mほど海面か低かったため

 

現在、大陸棚とされる海の部分は

当時はまだ陸地であり

相当大陸は広かった。

歩こうと思えば陸続きなので

移動もできた。

 

1万年前には

富士山は現在に近い形になった。

 

※地球は温暖化と寒冷化を1000年スパンで

 繰り返している

 

📖

「神話」において、

人類誕生の流れは

イザナギとイザナミが

地上世界に降り立つ

ところから始まる。

 

そしてイザナミが

出産時に死んでしまう。

 

イザナミの死は、比喩的に

女神信仰・母系社会の縄文時代から

男神信仰・父兄社会の弥生時代への

ターミングポイントを意味する。

 

イザナミの死後

イザナギが生んだ子どもたち(3貴神=3柱)

の時代がやってくる。神から人間へ。

 姉・アマテラス(左目より誕生、天を支配)

 兄・ツクヨミ(右目より誕生、夜を支配)

   →後に行方不明となり姿をくらます

   ※ユダヤ人⇒一部は秦氏となり、お稲荷さん信仰を日本へ持ち帰る

 弟・スサノオ(鼻から誕生、海を支配)

   →母イザナミの欠乏感を武力に求め本来やるべき事をやらず暴れる

 

※イザナギとは、

 古代シュメール人の「徐福」がモデル。

 始皇帝の時代に中国南部から朝鮮半島(新羅)を通り

 理想の新天地で新しい国づくりをするため

 日本へ3回にわたり来て帰化。

 日本のあちこちを船で巡った。

 徐福が最初に拠点と決めたのは淡路島。

 国産み神話で一番最初にできた島という位置づけ。

 

※「3貴神」とは、古代日本を

 実際に支配していた3勢力(士族)のこと。

 実際に存在した人物を神格化し

 神話の形にして後世に残した

 

 

 

それぞれの族は、

各活動拠点エリアを中心に

それぞれの役割を分担し

全体としてまとまって統治していた。

 

※パワーを3つに分けることで

 絶妙にバランスを保つ手法は昔から使われる

 例 魏呉蜀の三国時代

   司法・立法・行政の三権分立

 

※今の地政学でいうと

ランドパワー→アマテラス(陽)+ツクヨミ(陰)

       ※陰陽合一

シーパワー→スサノオ

 

 

1万年前ごろには、

人間は移動しながらの狩猟採集生活から

定住スタイルへと徐々に

生活様式を変化させていった。

 

そして地形的にはこの頃は温暖化が進み

徐々に海面は上昇していき

陸地は狭くなっていった。

 

日本周辺に目を移すと、

まず現在の北日本(青森)に定住した族がいた。

 

後に古代出雲族となる縄文人だった。

女性中心社会で平和に暮らし

1万年以上続く縄文時代を謳歌した。

 

青森の三内丸山遺跡は特に

5500年前~1500年頃、大いに栄えた。

※この頃、地球は温暖化

 

縄文人たちは船を使い

世界のあちこちへと自由に移動していた。

日本人の原型となる民族は

縄文人である海洋民族であった。

 

ところが

縄文時代を謳歌していた日本、縄文人に

天変地異が襲いかかった。

 

7000年前の「鬼界カルデラ大噴火」により

今の九州・四国はほぼ壊滅。

中国地方と東北以北は被害を免れる。

 

海底火山爆発で、火山灰のみならず

津波も発生したと推測。

 

そこから生き残った西日本側にいた

部族は、日本を船で脱出。

 

縄文時代の頃は、日本列島は

大陸から離れ、既に島として独立していた。

 

縄文時代の日本は、海洋文化が最も発展し

現在の北海道から沖縄まで

 

全国各地、船を使った移動

物資の運搬交流も盛んであった。

 

長野でとれた黒曜石、

糸魚川産の翡翠などは特に人気であり

物流の交流・貿易も盛んに行われていた。

 

翡翠の勾玉が、東北と島根で

たくさん発見されている。

縄文時代は翡翠文明だったことがわかる。

 

縄文文化の信仰(蛇・一つ目・女神)は、

現在も長野の諏訪周辺に残っている。

 

現在の九州で起こった「鬼界カルデラ大噴火」で

被害が少なかった

東日本在住の縄文人(出雲族)は

 

そのまま東日本に定住し

独自の文化を発展させていった。

 

精神文化も土器も芸術的に発展をとげる。

一番華やかであった縄文時代中期をつくった。

 

当時の日本は

水・森林・動植物・食料など自然環境に恵まれ

豊かであったと推測される。

 

自然のすべてが信仰の対象となり

八百万の神が自然に宿るという

アニミズム信仰も広がった。

 

一方、日本を脱出した西日本にいた部族たちは

ユーラシア大陸を中東方面へ(西へ西へ)と

主に陸路(中国南部→南インド経由)で移動していく。

 

ある族は、

チグリスユーフラテス川のある肥沃な土地であった

メソポタミアあたりに拠点を見つけた。

 

後に、膠着語を話すシュメール人の元

となったといわれるアマテラス族(天孫族)である。

 

最初にこの地域を治めた強権のスサノオ族

(中東のエラム国)は、アマテラス族と協力し

 

現在の中東エリア一帯を分割統治した。

アマテラスは祭祀を、スサノオが現場統治を担当した。

 

最初はうまく共同統治を行っていたが、

やがて覇権を争うようになる。


スサノオとアマテラスがバトルした結果

力で勝るスサノオ族が最初は勝つ。

 

負けたアマテラス族(日向族=スメラ族)は

メソポタミアの土地を脱出し

 

逃げるように太陽の出る方向(日の出る方向)

である東へと再び進路をとる。

 

そして

「鬼界カルデラ大噴火」から約1000年経った

日本の地へと再び帰って来る。

 

後に(紀元後)、

アマテラス族は、天皇(スメラ)を中心とする

大和王権(大和王朝)を作り上げることに成功する。

 

※スメラミコト=イスラエルのヘブライ語

 

<民族移動と鉄器の広がり>

紀元前2000年

ヒッタイトが鉄器を使用

 

紀元前1200年

地球の気候変動で大きな民族移動があった

 

紀元前500年頃

鉄器がユーラシア大陸全般に普及

 

紀元前3C~紀元後3C頃に

日本に鉄がユーラシア大陸からもたらされた。

 

鉄が入って来るまで、日本では

青銅(銅と錫の合金)が使われた。

 

鉄>青銅(鉄の方が強いため、戦えば

鉄が勝つ)

 

鉄の導入により、便利になった反面

争い事も増えることになる。

 

 

紀元前220年頃の中国

秦の始皇帝の圧政から逃れ

 

蓬莱山を目指し不老長寿の薬を探す

という名目(建前)で

「徐福」一行は日本全国各地を訪れた。

(最初は日本海の敦賀あたりから日本各地へ入り

集団で移住を図った)

 

※その任務担当グループの総称

 をリーダーの名をとって「徐福」と呼んだ

※徐福は「神仙思想」

 仙人となり不老を得て生きることを目指す

 

合計3度の渡来により徐々に帰化。

あらゆる種族と婚姻(政策とも言える)

することにより、混ざりあっていった。

 

 

富士山(蓬莱山)の麓に風水的にも最適な

理想郷をみつけ「富士王朝」を造り上げる。

徐福は、その後もそこに留まり

中国には結局帰らなかった。

 

後に「宮下文書」を記し

歴史に富士王朝の足跡を刻んだ。

 

 

西暦170年頃の日本

景行天皇(ヤマトタケルの父)の時代

富士王朝の噂を聞きつけ

大和王朝天皇の右腕であり補佐役でもあった

「竹内宿禰」も学びにきていた。

(実際は”敵国調査”に来ていた)

 

※竹内宿禰とは、お札にもなった重要人物

 外務兼大蔵大臣のような「役職名」であり

 何代にもわたり天皇に仕える。

 実際はひとりではなく、役職を数人が担当し入れ替わった

※紀元前~紀元直後は「ツクヨミ暦」のため

 時間・寿命の長さ・数え方が現在の2倍換算となる

 

※わざと長い歴史であることを盛るため

 数字・期間・寿命を長くして誇張した

 

その当時の日本は

”西”の大和王権(王朝)と”東”の富士王朝に

東西2分されていた。

 

※この後に、地球全体の寒冷化がおき

”都”を意味する”大和”の場所は、

しだいに西日本中心へと移っていく

 

大和王朝と富士王朝は

日本を統一すべく覇権を争いバトルした。

 

その結果、

古代出雲と徐福の血をひく富士王朝は

九州のアマテラス族によって滅ぼされた。

 

 

そこからしばらく

アマテラス族の大和王朝である

「ウガヤフキアエズ朝」

が日本の大半を制圧していくこととなる。

 

しかし、

まだ日本全土を統一した訳ではなく

 

全国各地には

抵抗勢力や独自の小国家を名乗る

族集団が点在していたし

 

西日本には渡来人が度々押し寄せ

小競り合いが起こっていた。

 

関東を基盤として富士王朝を併合した

新しい王朝の拠点は

対外国対策も兼ねて

九州中心へと移る。

 

実はこの頃

スサノオ族も日本にきていた。

 

アマテラス族とスサノオ族は、

最初は協力体制をとった。

日本各地に残る

反抗勢力である小部族を次々と倒し

順調に支配領域を広げていった。

 

しかし、のちに覇権争い(日本の陣地取り合戦)

が勃発し、衝突することになる。

この戦いでは最初はスサノオ族が勝利した。

 

その後、二族(二人)は

表面上和解目的で”政略結婚”をする。

つまり共同統治の形をとる。

 

出雲スサノオ優勢(男性優位社会)の状況で

一旦、日本は1つにまとまる。

 

※スサノオの先祖

 →中国を昔統治した神農

 →神農の父は伏犠(ふっき)=日本の蓬莱山から来た

 スサノオ=牛頭天王(インドの祇園精舎を守る王様)ドラヴィタ族(雄牛信仰)

 日本で新しく国づくりをして嫁をえるため新羅王を経、やってくる

 日本で結婚し、後に子孫も定住し古代出雲族となる

 

 

しかし実は、

アマテラスはスサノオが死ぬのを待って

女性中心社会の構築(逆襲)を

腹の底で企てていた。

 

 

同盟期間・共同統治中、

アマテラスはスサノオの暴力性・身勝手さ・悪態

への対応に悩まされてイライラしきれていたし

鬱状態にも陥った。

 

現実では、その当時の世は

男性中心社会が席捲し、戦いばかりで

相当荒れていた(荒廃した)ことを意味する。

 

一旦、アマテラスは

一定期間雲隠れ・閉じこもった時期もあった。

一時的に九州に避難し

王のポジションから退いたと推測。

※アマテラス劣勢の時期

 

そして

スサノオを天界(現支配領域)から追い出し

地上(日本という未開拓の地)へ追放。

※スサノオが全国で暴れ回る時期

 

一旦追放されたスサノオは、

そこで心を入れ替えて功をあげる。

 

何もない新天地の地上世界を

一生懸命整備し、徐々に傘下に入れ、

族をまとめあげていく。

 

※スサノオ→オオクニヌシの神話では、

 徐福集団の3度目渡来を

 神話化したものと推測される。

 最初2回の渡来時に、土着宗教の制限や人殺しなど

 悪態を重ねた徐福集団は

 2度中国へ追放され逃げ帰っているが

 3度目には、技術職の集団とともに

 日本へやってきて様々な技術(稲作など)

 を各地へ教えてまわった。

 その点は”心を入れ替えた”と評価され

 見直されたとも言える。

 

ヤマタノオロチ(越の国の祭祀王ヌナカワヒメ他

大和に抵抗する8氏族)

すべてを倒し日本統一の礎を築く。

 

ヤマタノオロチを退治した時に、

しっぽから草薙の太刀(3種の神器)を手に入れる。

※草薙の太刀は現在、熱田神宮にあるとされる

 

3種の神器とは、統治に必要な3要素を意味し、

この時スサノオは「鉄」を手に入れ、

さらに軍事力が増したことを暗示する。

 

スサノオは、出雲の国を敵から救ったことで

末子相続であった出雲の国の

末っ子「クシナダヒメ」と結婚した。

スサノオと出雲の血がここで混ざる。

 

スサノオの子孫であるオオクニヌシ(役職)が

それを継承し出雲の国を治めるようになる。

その後も日本各地を回って整備し

 

稲作などの技術も教えて回った。

右腕としてスクナビコナが途中まで活躍。

 

しかし、最後の大ボスが

オオクニヌシの前に立ちはだかった。

 

元々飛鳥の大和(ヤマト)の地を中心に

地盤を築き統治していたナガスネヒコだった。

 

屈強な彼と戦ったオオクニヌシは

劣勢に追い詰められる。

 

絶体絶命の状態で琵琶湖に追い詰められた

オオクニヌシを助けにきたのが

 

ニギハヤヒ(=アメノホアカリ、軍神)

すなわち「オオトシ=スサノオの四男」だった。

 

ニギハヤヒは、ナガスネヒコと戦い破った。

計算高く戦略勝ちしたと言っても良い。

 

ナガスネヒコは東北に逃げてその末裔は

後に蝦夷、アテルイ、東北の豪族「安倍氏」

の元となる。

 

こうして古代日本の初代統一王は、

”表面的”には「ニギハヤヒ」となった。

 

※ニギハヤヒは蛇神信仰で子孫は石工

 

大和族と出雲族と秦一族の3部族を

初めてまとめあげた。

 

※3つ葉葵紋(3つ巴紋)

→大和族と出雲族と秦一族

 3種族が「和合融合」して出来た国が古代日本

 

ニギハヤヒが天下統一を果たした時期に

スサノオが亡くなる。

アマテラスはこの時を待っていた。

このタイミングで出雲系をつぶしにかかる。

 

アマテラスは、オオクニヌシに対し

「地上を返せ」(われらの土地を返せ!)と言い

それに応じない彼に対し

 

アマテラスは次々と息子達を使者として

出雲に送り込んできた。

 

表向きには

アマテラスの長男、次男をうまく丸め込み

味方にしたように見えたオオクニヌシではあったが、

 

実は裏ではアマテラスが次々とスパイである使者を

送り込んで出雲族を内から取り込み懐柔していった。

 

結局、出雲は内部から崩れていって、

最後に満を持して

屈強のタケミカヅチが使者として送られ

結局、出雲族は最後、力で負け国を譲ることとなる。

 

※出雲の国譲り=実際には出雲の場所を譲ったのではない。

       出雲は祭祀の場(神殿)。

       その当時政治の中心は大和。

       その大和を中心に統治していた大国主が

       国を奪われる形で現在の出雲の場所に封じ込められた。

       当時は大和を制するものが

       国全体を統治することを意味した

 

オオクニヌシは、出雲の国に籠るという

見返り条件として

出雲に大神殿を建てさせることを約束させる。

(これは建前)

 

※実際には、出雲族を滅ぼしたアマテラス勢が

 祟りを恐れて鎮魂のため神として神殿をつくり祀った

 

オオクニヌシの子、アジスキタカヒコネは

妹のシタテルヒメとともに姿を消した。

 

※アジスキタカヒコネはスサノオの血=出雲の血

をひいていたが、この時出雲に勝ち目がない

と見切った

 

※シタテルヒメは当時ヤマトを治めていた

ニギハヤヒと結婚し、名をタカテルヒメと変え

後にセオリツヒメとなり権力を握った。

 

 

※アマテラスと出雲との間に「密約」があったのでは。

 アマテラス族は、アンチに対して

 徹底的に追い詰めて潰しにかかる一方で、

 味方になるなら、潰さない代わりに

 ずっと裏方として協力・暗躍してもらう・・・という密約、

 アジスキタカヒコネのようなポジション

 

スサノオの一番下の弟タケミナカタは

タケミカヅチと力で勝負して負け、諏訪に逃げた。

 

結局、タケミナカタは

逃げ切れず追い詰められ諏訪に封じ込められる。

ただし、彼は

諏訪に元々いた物部氏と戦って破り

 

諏訪の統治王として後に君臨することとなる。

諏訪には出雲族の文化伝承祭り(御柱祭)

が現在も残る。

※諏訪に縄文と出雲の痕跡が多く残るのはこのため

 

但し、力で負けた物部氏は

祭祀王としてのポジションは譲らず

陰の権力は維持。

 

※物部氏は後に、アマテラスに協力する側と

 組まない側に分かれ、組まない側はアマテラスの

 敵対勢力すなわち”蝦夷”(出雲族の敵対勢力と同様)

 として扱われ東北の上へ上へと追いやられる

 

大和は「ニギハヤヒ」(物部の祖)が政権を握ったが

アマテラスの孫ニニギが宮崎の高千穂から

 

その当時の首都であった「大和」を

手中にすべく日本統一を画策していた。

 

大和には”富の”ナガスネヒコという

古代出雲族、最強の武将が

健在で実権を握っていた。

 

※「富」「倭国」(ヤマト)→出雲族を意味

 「龍」「亀」も出雲を意味

 

ナガスネヒコは、中国から移住してきて

住みついた「徐福」の末裔と言われる。

 

アマテラス族のイワレビコは

最初の戦いで兄を失うが

ヤタガラス(アジスキタカヒコネ)の力を借り

 

最終的にはナガスネヒコを破ってリベンジを果たす。

俗に言う「大和の国譲り」が成立

 

※出雲の国譲りと大和の国譲りは一代の間、ほぼ同時に成し遂げられた

※アマテラス族は最終的に大和を手に入れた

 

ヤタガラス(=アジスキタカヒコネ=事代主)

=オオクニヌシの息子(元は出雲国の神様血統)は、

 

後に「カモ氏」(裏天皇)として暗躍。

ナガスネヒコの独裁を恐れた

タカクラジもナガスネヒコを裏切って

アマテラス側につく。

 

※ニギハヤヒの息子のウマジマジは後に物部氏に、

 タカクラジは尾張氏となって共に後の天皇家を支える

 

 

ヤマトの国譲りの時も

実はアマテラス側は、内部に使者を

潜り込ませるスパイ戦略を行っていた。

 

アマテラス族は、ニギハヤヒ達に

政略結婚の話しを持ちかけるが

 

ナガスネヒコだけはそれに反対したことで

最後はナガスネヒコ1人が

孤軍奮闘し戦うこととなった。

 

もともとナガスネヒコ軍であった仲間達は

みな寝返って敵側のアマテラスサイドに

ついたことでナガスネヒコは敗北。

 

※日本でいうと小早川の裏切りがあった

 「関ケ原の戦い」とも似ている

 

最後の強敵ナガスネヒコを破った

アマテラス族のイワレビコ

 

のちに橿原の地で初代天皇「神武天皇」

として即位(紀元前660年→今の西暦になおすと66年)。

これが現在も続く天皇制の始まりと言われる。

 

※神武天皇はウガヤフキアエズの息子or兄弟(※正史の系図表記は正しくない)

※ウガヤフキアエズはホオリの息子or兄弟

※神武天皇はアジスキタカヒコネの娘イスケヨリヒメと結婚

 その息子は第2代綏靖天皇

       

 

日本から一時的に

姿を消したツクヨミ族の動向

 

ツクヨミ族も「鬼界カルデラ大噴火」から

一度海外へ逃避したが

 

その1部が再びこっそりと

日本へ戻ってきていた。

 

現在の若狭湾あたりに集団で辿り着いたと思われる。

※若狭周辺には「天女伝説」が多数あり

 

そして、当時日本の権力を握り

支配していた出雲族と徐々に交わっていった。

 

王族と交わることで血統を絶やさず生き残る

というのも立派な生存戦略の1つ

であったと考えられる。

 

ツクヨミ

(ツキヨミ→月の暦を読む族=月の民=イスラエル)

の存在は表面的には歴史上ずっと隠されてきた。

教科書には載ってこない。

 

ツクヨミは陰で(裏で)アマテラスを支えて協力して

日本での国づくりを支えることとなる。

 

一旦、現在のイスラエル付近

ユダヤの地に住んだ(ユダヤ人と通常呼ぶ)が

 

秦氏と名を変えて約束を守る(恩返し)ため

日本へ戻ってきたのだ。

 

※イスラエル・ユダヤ国は北と南に分裂=紀元前922年

 北朝(イスラエル王国)

→10支族、多神教、偶像仏OK 紀元前722年にアッシリアに滅ぼされた

 

 南朝(ユダ王国) 

→2支族、一神教、偶像反対 紀元前586年にバビロニアに滅ぼされた→バビロン捕囚

 

 

渡来人である秦氏の先祖は

百済経由で日本にやってきた「弓月君」(弓月の民)。

 

日本に、酒・ハタ織・稲作・建築設計技術も伝え広めた。

後にやってくる古墳時代の基礎をつくった。

 

絹織物は”波陀”(ハダ)→”波多”(ハタ)の姓を賜る。

雄略天皇の時代、うつまさ(太秦)の姓を賜り

現在の京都にある太秦あたりに住んだ。

 

※秦氏一族は、秦の始皇帝の3代孫後の末裔で

日本の歴史では、弥生時代に秦氏一族は

稲作を伝授したとされる。日本に来たのは280年頃と推定。

丹後あたりに最初住み着いた。

 

※聖徳太子のブレーンは秦河勝(ハタのカワカツ)

 但し、最後は秦河勝によって聖徳太子一族は滅ぼされる

秦氏とカモ氏は元は同族だったが分かれて行った

元はスサノオについていた一神教信者だった

日本の宗教観に共鳴し、神道と融合する形で

”お稲荷さん”信仰をもたらし

日本全国に多くの神社を建てた。

 

金融に明るい秦氏は後に、藤原氏とともに

和同開珎を使い貨幣流通も図った。

 

穀物の神様であるウカノミタマ、

トヨウケオオカミという形で

日本各地の多くの神社で

御祀神として現在も祀られている。

 

トヨウケオオカミは、

アマテラスとともに日本最高位の伊勢神宮

に祀られている。

※陰陽思想

 

お稲荷さんの総本宮は京都の伏見稲荷大社。

伏見稲荷の主祀神はウカノミタマ。

カモ系神社(京都の賀茂神社から勧請→賀茂・鴨・加茂)

全国300社ほどあり。

 

 

最終的に、アマテラス族は

ツクヨミの助けを借りて

日本をまとめあげ、すべてを取り込み

統治した形となる。

 

遺伝子的に、元シュメールのユダヤの血、

旧出雲族の血、徐福の血が日本の全国各地で複雑に混ざっており

 

結局、シンプルに言えば

古代3種族が和合融合して出来た国これが古代日本

DNA的にも複雑に血が混ざっており単一民族ではない。

 

日本人はもともと八百万の神を信仰し

海外から来た神様、道教、仏教や渡来人でさえも

少しずつ寛容に受け入れ

現在もたくさんの神様の信仰が共存する形。

なるべくケンカせず、合融合が上手であると言える。

 

<簡単にまとめ>

最初に日本という地には

海洋民族である縄文人が

出雲の縄文精神・翡翠文明を築いた。

気候変動・天変地異や周辺近隣諸国の影響も受け、

人の移動が活発に。

大陸から日本に入ってきて

定住した渡来人の思想も少しずつ入り

実際に人種としても混ざり合い、その文化や宗教観も取り入れて

複雑に融合することで、日本国として

古代の神道・自然崇拝をベースに残しつつ仏教も取り入れて

新たな寛容な思想体系が長い月日を経て

出来上がったのだと考えます。

 

※十七条憲法「和を以て貴しとなす」

※古代日本を訪れたユダヤ人(元はレビ族)

 →秦一族、大国主、猿田彦

 

 

<簡易系図の確認>

※スセリヒメは2氏族の「真の王」

※アジスキタカヒコネ=事代主

※スセリヒメと大国主の子→タケミナタカ、アジスキタカヒコネ、下照姫(末子)

※出雲は末子相続→祭祀王は下照姫

※大年=ニギハヤヒ 

※アジスキタカヒコネの妹は下照姫(結婚前)=高照姫(結婚後)=瀬織津姫(役職)昇格

 瀬織津姫は罪や穢れを洗い流す役割

※下照姫(祭祀王=ニギハヤヒの皇后)とニギハヤヒ(統治王)の二人で大和を統治

 神武天皇以前の大和の初代統一王朝(海部氏)

※劣勢だったアマテラスサイドがスサノオの死をきっかけに再度巻き返し

 大和と出雲の国譲りを同時達成(=アマテラス族がすべてに勝利)

 

<拡大系図>

 

 

<原始~古代 ”一般的”な日本史年表 抜粋>

約13000年前~ 縄文時代 

役6000年前   縄文時代 地球温暖化のピーク(縄文海進)

         今より2度平均気温が高く海面も4m高かった

紀元前500年頃~ 弥生時代 徐福が渡来(何十年単位で3度にわかれて渡来)

紀元前221年  始皇帝が中国を統一

紀元前219年  徐福一行が出航。日本各地を訪れる

57年      倭奴国王が後漢の光武帝に遣使し金印を授かる

紀元1c    弥生時代中期~後期前半 地球寒冷化が起こる

2C後半弥生時代末期 倭国大乱70~80年間つづく     

        邪馬台国成立 30余国の連合国家(「魏志倭人伝」より)

        ※茨城(常陸)を基盤とする日高見国

239年      邪馬台国の卑弥呼が魏に遣使

247年(248年) 卑弥呼が亡くなる。混乱の後、宗女とよ(いよ)が13歳で女王となり一旦治める    

4C       ヤマト政権(連合政権)がほぼ日本全国をまとめる(北東北と北海道除く)

        ※「前方後円墳」はヤマト政権の勢力が及ぶ証でその大王および有力首長のみ

         「円墳」は”富・丸”から連想して昔ヤマトと敵対関係にあったナガスネヒコ陣営

4C~7C長く続く 朝鮮半島で三国時代(高句麗・新羅・百済 三国の争い)

4C後半     倭が朝鮮半島に進出

400年と404年 百済と結び、高句麗と戦う(朝鮮半島に2度出兵)

5C初め~約100年 倭の五王(讃・珍・済・興・武)が南朝に遣使・朝貢

527年     磐井の乱(朝鮮出兵するヤマト政権軍を磐井が阻んで邪魔する)→ヤマト政権が制圧

538年     仏教伝来

587年     飛鳥時代 「丁未の乱」仏教推進派の蘇我馬子が反対派の物部氏を破る

593年     聖徳太子摂政となる 女帝推古天皇即位

600年     最初の遣隋使

601年     聖徳太子法隆寺建立 五重塔

603年     冠位十二階

604年     憲法十七条

607年     第二回遣隋使 小野妹子

630年     第一回遣唐使派遣

645年     乙巳の変→大化の改新 蘇我氏滅亡

663年     白村江の戦い(唐・新羅連合軍に完敗)※中臣鎌足は百済王族の末裔

667年     近江大津京遷都

672年     壬申の乱(天智の近江朝=アンチ唐の保守派による反乱 大友皇子破れる)

        →天智天皇の弟 大海人皇子→天武天皇へ(今後は天武系の血統)

689年     飛鳥浄御原令 天皇の神格化

694年     飛鳥→藤原京遷都(天武天皇発案→持統天皇が遷都)

701年     大宝律令(律令制整える)

702年     遣唐使再開

710年     平城京遷都

712年     古事記編纂

720年     日本書紀編纂 ※「記紀」→天皇による統治の正当化

729年     長屋王の変で藤原氏の権力強化へ

737年     藤原4兄弟が天然痘で死ぬ

781年     桓武天皇即位

        富士山噴火 ※平安時代には10回噴火

784年     桓武天皇長岡京へ遷都決定

785年     長岡京遷都責任者である藤原種継が暗殺

794年     平安京遷都

797年     続日本紀 ※富士山のことを記載

 

 

<歴史の転換点・ポイントとなる歴代天皇>

※紀元前~紀元最初の頃、年齢や在位期間はズレている

大和国=邪馬台国=ヤマトコク

 

ニニギとコノハナサクヤビメ結婚

 ※コノハナサクヤビメ=富士浅間神社の主祭神

            創建当初は男神だったが途中から変わる

   ↓3兄弟

 ホテリ・ホスセリ・ホオリ

           ↓の息子 ※実は親子関係ではなく兄弟

         ウガヤフキアエズ

           ↓の息子 ※実は親子関係ではなく兄弟

         神武天皇誕生

 

1 武 神武登場までは”神代”の時代

     57年頃即位 イスケヨリヒメ(祭祀王)と結婚(統治王<祭祀王※権力強)

     ※イスケヨリヒメ=アジスキタカヒコネの娘

     ※神=統治=大規模な政変実施

 綏靖 神武=イスケヨリヒメの子 男性が祭祀王

 安寧 男性が祭祀王 

 懿徳 ※農業革命 稲作→小競り合い→争い頻発 倭国大乱(約70年間) 

     アマテラス族は九州日向へ戻る

     4代天皇までは出雲族の血筋重視 女性祭祀王中心

 昭 強敵ウラ一族とのバトルが続くも劣勢 

     ※温羅一族征伐に8年ほどかかる

 安 同上

 孝霊 息子2人は桃太郎として鬼(温羅)退治、娘ヤマトトトヒモモソヒメ(卑弥呼)

 元 ※最大の反乱軍 吉備国を平定(桃太郎)→大和(奈良)へ返り咲く

      娘の「日巫女」が祭祀王君臨 

      倒された海部氏(ニギハヤヒ×出雲族)は丹後や若狭へ逃げた

2~9代は欠史八代 全国各地に氏族がバラバラに乱立 統一王不在戦乱状態

 開化 物部系の天皇としてヤマト王権の中心開化スタート 

     日巫女(ヤマトトモモソヒメノミコト)祭祀王

     ヤマトにくだり従った出雲族は島根へ封じ、抵抗し従わない出雲族は東方へ追われる

10 崇 4Cイリ系王朝 出雲族を抑圧し排除を進める 出雲族は抵抗する

     「万世一系」天皇をアピール     

     ※この頃地球は寒冷化へ

     地方部族を倒して近畿ヤマトに本拠地を移し全国統治

     日巫女(ヤマトトモモソヒメノミコト)祭祀王つとめていたが亡くなる

11 垂仁 再び男性が祭祀王→国が荒れる→女王トヨ(崇神の娘)祭祀王になるまで波乱

     疫病流行→各地で反乱相次ぐ→八咫鏡の祟りといって管理を天皇から斉王へ移管

     アマテラスは伊勢神宮内宮へ祀られる(それまで「神宮」は伊勢大神を祀っていた)

     ヤマトVS丹波王国(ヤマトへの抵抗勢力)激しい戦い

     邪馬台国は関東へ その後ヤマト王権と併合

     ※すいにん天皇崩御後から埴輪つくられた

12 行 一神教(ユダヤ景教の血)

     皇子→ヤマトタケルの東征 ※この頃は地球は温暖化

     竹内宿禰→仁徳天皇迄5代に渡り仕える

13 成務

14 仲哀 神託に背いて死 后=神功皇后(新羅の王族)と竹内宿禰で三韓征伐(199年)

15 応 5Cワケ系王家(河内)神功皇后の息子で国がまとまる 

     朝鮮半島混乱で渡来人増(避難民増)新技術流入→応神天皇受け容れ

16 仁徳 質素聖帝 ”国民は大御宝”

・・・・・

21 雄略 (5c古墳時代)倭の五王の「武」 秦氏→太秦の姓

     皇位継承争いで候補を次々と倒す→後に継承者が不在

・・・

25 武烈 暴君説あるが次の継体天皇を持ち上げるため

     ※出雲勢力を圧迫

     18歳で死 子供いなかった

     仁徳天皇の血統がここで途絶える  

26 継体 応神天皇の5世孫

     越前からやってきたヲホド王 渡来人と連携

     ヤマト入りに反対する勢力(葛城氏)の抵抗にあい20年かかる

     任那 百済と仲良くする政策

。。。

29 欽明 仏教公伝(既に2Cに仏教自体は百済から日本に入っていた)

・・・

32 崇峻 天皇は形だけで実権は蘇我馬子が掌握 崇峻天皇暗殺される 

     ※出雲蘇我勢力優勢

33 推古 ※古事記はここで終わる 初の女性天皇 聖徳太子摂政となる

35 皇極 乙巳の変(大化の改新)時 

     ※九州アマテラス勢(大和)一気に形勢逆転

・・・

38 天智 大化の改新の中大兄皇子

40 天武 壬申の乱に勝ち即位 ※出自に疑問

     神道を利用「国家」確立 日本国という「国家観」

41 持統 唐(武則天)にならった国づくり

42 文武

・・・

45 聖武 大仏建立 鎮護「国家意識」

 

 

<日本の歴史の大転換点は「乙巳の変」から「大化の改新」>

日本の正史歴史書は次の2つのみとされている。

国内向けの「古事記」(712年)と

海外向けの「日本書紀」(720年)。

 

その他の古史古伝・歴史書は「偽書」

として扱われている。

竹内文書、宮下文書、九鬼文書、東日流外三郡誌、上記、秀真伝等。

これらは恐らく意図的に辻褄が合わないよう

事実がわからなくなるよう権力者に都合よく書き加えられた

可能生が高い。

 

自分たちの血統の正統性を強調

国内外ともに権威を証明するため

 

時の権力者は、古い歴史書(古文書)を時に書き換え

後付けのネーミングにより印象操作も行い

新たな歴史書を作りかえた。

自分たちと血のつながりがある祖先の

活躍をかなり盛っている。

 

※権威づけるには「神」の子孫であること(祖)が重要

 旧約聖書など世界共通

 

歴史において負けた敵は

徹底的に”悪役”として描かれるのも常。

 

※これも日本に限らず世界でも普通に行われている

 

倭人・出雲族は入れ墨の”蝦夷”としてさげすまれ

ヤマトタケルの”東夷”という名目で討伐の対象となった。

 

大和王朝は、富士王朝・出雲族と戦って滅ぼしている

 滅ぼした相手のことをきちんと葬って祀るのが礼儀

 

 

飛鳥時代より古代~中世の日本全体(政治)を

牛耳ってきた時の権力者「藤原氏」一族は

 

”記紀”を編纂し、自分たちに都合のよい

歴史を広めた。

 

※藤原氏はアメノコヤネノミコトの子孫である

 と書き換えて記した

 

特に、「日本書紀」は

海外(その当時は中国が世界の大国)に対して

舐められないように

 

「日本」という国はちゃんとした歴史ある国であり

きちんとした法律も整備されていて

 

素晴らしい為政者がいるという

威信を示すのには大いに役立った。

 

※実際に大宝律令が701年に制定

(藤原不比等も編纂に関わる)

 

国内的にも崇める対象を作り、内を一致団結させ、

その権威を利用することで民の支配も容易にした。

 

つまり、アマテラスの正統な血と上手に混ざり合い

藤原氏の先祖がいかにも国造りに大いに関わり

 

大活躍したように神話や文書にも手を加えた。

プロデューサーとしての藤原氏の祖先

藤原不比等の手腕はとにかくスゴイ。

 

例えば、

大化の改新(乙巳の変)を見ても分かる通り

藤原氏の敵対勢力であった

 

蘇我氏は、竹内宿禰の流れをくみ

当時のトレンドであった仏教を

日本に取り入れようとした。

 

蘇我氏は仏具や小物飾りなどを作り

財力を手にし、政財界へ進出。権力を持つ。

 

それに反対する古神道の考えを守る保守派の

物部氏とバトル。これを破って実権を握る。

 

大化の改新前の実権者である蘇我氏は

敗者となった後、蝦夷という扱いで

徹底的に悪役として描かれた。

 

藤原氏新体制派は、自分たちに都合の悪い部分は、

「乙巳の変」のどさくさの際

すべて燃やしてしまい

過去の史実の証拠隠滅も図った。

 

蘇我氏(聖徳太子)に関連する功績部分は

 歴史上から抹殺された

 

 

※物部氏は建前上はニギハヤヒの子孫とされるが

 実際は出雲のスサノオの血が入っている

 

但し、蘇我氏は”珍宝”である翡翠のことを

隠して葬り去った。

 

蘇我氏の実績は

聖徳太子という「聖人」を後から作り上げて

すべて聖徳太子のものとした。

※実は聖徳太子=蘇我尊徳=蘇我入鹿

 

※藤原氏は、蘇我氏の権力の握り方を模倣。

つまり天皇に我が娘を嫁がせて

親戚関係を築き政治の実権を握っていくやり方

 

景行天皇の息子「ヤマトタケル」の東征、

後に、征夷大将軍である坂上田村麻呂が

蘇我氏の残党である

東北の蝦夷(アテルイ等)を討伐し一掃する。

 

 

4C頃から関東地方を含む東北全域を統治し

60カ国なる小国をまとめあげていた

日高見国」なるものが存在していた。

士族の連合国家だった。

 

卑弥呼(日の巫女)は

太陽が一番早く昇る場所を「高天原」として

 

今の茨城県(昔は常陸)にある

鹿島神宮、香取神宮周辺を拠点にし

日高見国のトップとして統治した。

 

※鹿島神宮は紀元前660年創建、

 香取神宮は紀元前643年創建と伝えられる

 

当時の日本は

東日本を拠点とする出雲系の日高見国

 

後から日本に戻ってきて西日本を拠点とする

アマテラス系の倭国という

に2つの国に分かれていた。

 

中国が魏の時代には、

日高見国の方が、対外的には

認められていた形跡がある。

 

「乙巳の変」「大化の改新」により

政権(既存勢力の出雲→新興勢力の太陽族へ入替)

があった。

 

その際に、旧出雲(出雲族)に関する歴史

(蘇我氏、邪馬台国、卑弥呼、銅鐸など)と

血統の出自に関する歴史(富士山)は

徹底的に嫌われ抹消された。

 

※富士山の富士浅間神社→アサマ神は縄文の古い神

※伊勢神宮の内宮からは富士山が見えないように設計

※藤原氏は後に、「富士山」も信仰化し

 政治権力強化に利用

 

※一方で、滅ぼした相手の祟りを恐れ

神として神格化し、神社やお寺を建立し

そこに封じ込めた。風水で行うやり方

 

都合の悪い歴史は抹消すると同時に、

「古事記」と「日本書紀」を作ることで

これだけが正史であるとした。

 

「天皇」を確立し

アマテラス系の倭国こそが

正統な血統を受け継いでいることを

国内、海外ともに示すことに成功。

 

アマテラス系が、日高見国を倒し

当時、海外からは「倭国」といわれていた日本を

 

新たに「日本国」という1つの国として

内外ともに正々堂々と名乗った。

 

645年(中大兄皇子と中臣鎌足による)

「乙巳の変」で政権が交代。

※中臣鎌足は、百済王の末裔とも言われる

 

「大化の改新」により、数年かけて

徐々に内政を整え中央集権化を図っていく。

 

701年の大宝律令の制定、

天武天皇(中大兄皇子=天智天皇の実弟)

が初めて「日本国」という国号を使い始めた、

 

藤原鎌足(中臣鎌足)の子である藤原不比等が

記紀編纂や大宝律令制定に関わる。

 

一連の流れは

海外(中国や朝鮮半島での)キナ臭い動きに対応し

 

日本を「国」として中央集権化・統治し

1つにまとめあげることが必須、

外交上急務であったのです。

 

海外に対し、日本という国は

天皇を中心にまとまった歴史あるスゴイ国

であることを示し、外交上の政策として

 

一連の行われた国家体制の整備を

「鹿鳴館政策」と呼ぶ。

 

具体的には、

天皇号、日本という国号、都の整備、律令、記紀編纂等。

 

一方、日本の至宝(富士山)や本当に大事な部分

(外国に知られて欲しくない部分)は

きちんと隠した。

 

当時の価値観で、女王だと

中国から舐められる可能性もあるため

それも隠したのではないか。

 

外に対して

主にその当時の大国である中国(隋や唐に対して)

 

日本という国がきちんとした

「独立国家」であることをアピールした。

 

その辺りのアピールの仕方、外交力の手腕は素晴らしく

藤原不比等と天皇(裏天皇)がうまく協力連携して

内政の統治もこなした。

 

 

アマテラス族との戦いに負けて

その後も反抗し従わない旧出雲族の勢力は

 

”蝦夷”という蔑称をつけられ、しだいに

北へ北へと追いやられ討伐の対象となった。

 

乙巳の変・大化の改新という革命をきっかけに

”日本”という国・国家がアマテラス族によって

整備確立されちゃんと1つにまとまっていった

と考えて良いと思います。

 

『記紀』は、最終的に権力を手にした

アマテラス族である藤原氏によって作られ

政敵に関する情報、新体制にとって

マイナスとなる情報、都合の悪い情報は

意図的に歴史上から一切消された。

 

※「他氏排斥」は藤原氏のお家芸

 

消された情報は、滅ぼした相手を意味する。

具体的には、出雲王朝、徐福、邪馬台国と卑弥呼、

聖徳太子(蘇我馬子)、富士山(富士王朝)、銅鐸など。

『記紀』以外の古文書は偽書とした。

 

滅ぼした相手を神として祀ることで

祟りから守るための措置も万全に行った。

死後、その存在を大きく持ち上げている。

 

 

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