民の声新聞 -31ページ目

「ヒバクシャ」を知り尽くした医師・肥田舜太郎が訴える内部被曝の危険性

まぶたの毛細血管からの出血など未経験だった。患者が次々と40℃の高熱を出す。鼻から口から肛門から大量の血を吹き出し、毛髪が毛根ごと抜けて白くなった頭を血の海につけて死んでいった。被曝の地獄絵図。そして現れた火傷の無い患者。原爆投下時は福山市にいた兵士は3日後、この世を去った。これこそ今、福島原発事故で影響が危惧されている「内部被曝」だったのだ。「被曝」という言葉すら知らない28歳の若き医師・肥田舜太郎さんは、米軍の原爆投下で壊滅状態となった広島の町で悲しみに暮れる暇もなく治療に追われた。そして誓う。「こんなむごいヒバクシャを二度と生み出してはならない」。それから60年余。恐れていた第二のヒバクシャを原発事故が作り出した。94歳になった若き医師は、ひ孫世代のために全ての原発を止めようと訴える。原爆の放射線を直接浴びていないのに同じ症状で死んでいった多くの「内部ヒバクシャ」の無念さ。それを知り尽くした医師の訴えは、二度目の被曝を防げなかった贖罪も含んでいて鬼気迫る。



【毛根細胞ごと抜け落ちた毛髪】

福島原発の事故から8カ月が経った11月15日夜、東京・JR水道橋駅近くのたんぽぽ舎で行われた講演会「低線量被曝の時代を生き抜く」は、少しでも被曝回避のヒントを得ようと集まった聴衆で熱気にあふれていた。

「学校で習ったこともない、見たこともない症状が次から次へと出てきて、何が何だか分からないかった」

90歳を過ぎてなお精力的に講演活動をこなす肥田さんは、はっきりと大きな声で話し始めた。

日大医学科から陸軍軍医学校を卒業、広島陸軍病院に軍医として赴任した彼を待っていたのは、米軍の原爆投下。野戦病院と化した町で、40℃の高熱を出す患者の治療に次々と追われる日々。民家は爆風で倒壊しており、患者は村の道や空き地に横たわった。鼻と口から出血し、まぶたの毛細血管からも血を流した。自ら患者と同じように横になり無理やりスプーンで口を開けて扁桃腺を調べようとすると、猛烈な悪臭。口の中が放射能で腐っていたのだ。患者が頭をなでると毛髪が毛根細胞ごとごっそり抜け落ちた。女性は命とも言える髪を失い大声をあげて泣いた。毛根さえも失った頭皮は青くなく白かった。その白い頭を、自分が吐いた血の海につけるようにヒバクシャは死んでいった。

「原爆も放射能も分からず肉体労働を続けた」。数年後、これらの症状は「急性放射能症」だと耳にした。放射性物質をまき散らしたアメリカが名付けた病名だった。

「そんな洒落た病名を付けられても…。むごたらしくて見ていられなかった」

高熱、出血、猛烈な口臭に毛根細胞ごと抜け落ちる毛髪。

これらが全部揃ってなお生き残った患者は皆無だった。

28歳の青年医師が目にした光景は、言葉をどれだけ尽くしても語りきれない惨状だった。
民の声新聞-肥田先生①

「ひ孫の世代のために目の黒いうちに全ての原発を止めよう」

と呼びかけた肥田さん


【ピカに遭わなかったが同じ症状で死んだ兵士】

やがて奇妙な患者を診察した。

「わしはピカに遭ってまへんで」

原爆投下後に福山市内から広島市内に入った救援部隊の兵士だった。

腕には紫色の斑点が確認できた。原爆を直接浴びておらず火傷もしていない。激しくだるいのだという。

とりあえず寝かせておいた。すぐに回復するだろうと思った。

3日後。

兵士の事が気になり看護師に尋ねると予期せぬ答えが返ってきた。

「死にました。他の患者と同じように血が出て臭くなって…」

内部被曝の始まりだった。

「それが皮切りとなり、似たような患者が多く出た」

家族や親戚を探しに県外から多くの人が放射性物質漂う広島を訪れた。そして被曝をした。

内部被曝患者は、勤務地が山口県の国立柳井病院に変わっても続いた。

「患者は身体がだるくて動きません、と言う。他に症状は無い。そんなことで診察を受けに来る患者は初めて見たものだ。あの時ばかりは、プライドの高い医師たちも『分からない』と口にした」

小指一本動かすのもつらい患者。火傷もケロイドも無い。どの医師が診察しても「病気ではない」と診断される。家族からは「怠け者になった」とバカにされた。理解されず「ぶらぶら病」などと揶揄された。

これらが、原爆投下の後に広島市内に入って放射性物質を取り込んでしまった「入市ヒバクシャ」であることが分かったのはずっと後のことだった。

「それらの患者は内科的に殺されていったのだ。内部被曝は確かにあったが公には認められなかった」

治療法はなく「ただ励ますだけ」の日々。死にゆくヒバクシャを前になす術がなかった。

「『内部被曝はない』などと言う奴は張り倒したくなる。『お前、内部被曝患者も診たこともないくせに』と」

当時の無念さを思い出すと勢い、言葉は荒くなった。

子どもたちが福島原発由来の放射性物質を浴びている危険が叫ばれている今と、あの頃の惨状が重なって見えて仕方ないからだ。
民の声新聞-肥田講演会

講演会の会場となったたんぽぽ舎には事前予約無し

の聴衆も多数来場し超満員となった=東京都千代田区


【少量でも怖い内部被曝】

福島原発以降、一貫して「安全」を強調している政府に「外部被曝するであろう放射線量が低いのだから内部被曝の被害も無いというのは政府の嘘だ。内部被曝に線量の多少は関係ない。どんなに微量であっても、吸い込んでしまったら内臓を傷付けます」と語気を強める。「少量の被曝だから問題ない、という主張が嘘であることは、世界の医学者の統一見解だ」とも。原発を全廃するどころか再稼働に向けた取り組みを始めている政府を「これから福島で死ぬであろう赤ん坊の命のことなど考えていない」と斬った。

忘れたくても忘れることのできない惨状。「二度とあんな世の中にしてはいけない」と誓った夏。そして60余年後の原発事故。

「ひ孫の世代が大人になった時、どのような日本になっているのかとても心配です。私の目が黒いうちに原発を全部止めてひ孫の世代に渡す。それがわれわれ大人の責務だと思います」

原発事故によって被曝を免れた人はいないと思っている。誰もがヒバクシャになってしまった今年。満席となった会場を見渡して聴衆に頭を下げた。

「命を守るのは政府でもなんでも無く自分自身。お願いですから明日から、自分の時間を少しでいいから他人のために使ってください。そしてお付き合いではなく、熱意を持って脱原発運動に参加してください」

そして最後に、こう締めくくった。

「『もう原発政策をやめます』と言ったら、政府を信用しても良い」

(了)

【熊本ルポ】生命を守るために私は西を目指した~移住者は語る(下)

民の声新聞-肥後のつり手毬
熊本市内で披露されていた「肥後のつり手まり」



【熊本で得た人としての生活】

東京都港区から神奈川県横須賀市に移り住んで約1年が経とうとしていた。

小学生2人に保育園児1人の母親であるCさん(43)はさらに、4人目の子どもを身ごもっていた最中に3.11に遭った。

福島原発事故の後、報道を通じて聞こえてくる国のアナウンスなど、初めから信用していなかった。
「絶対に国が嘘をついていると確信していました。横須賀にはもう、住めないと思いました」

3人の子どもだけでなく、お腹の赤ちゃんを絶対に被曝させてはならない。

窓を開けないようにし、買い物での外出も最小限に抑えた。

当然、ストレスは日に日に高まっていく。移住への思いも募る。都内でレストランを経営する夫とは、毎日のように夫婦喧嘩をした。

「夫にはなかなか理解されませんでした。『お前たちだけで避難しろ』と。仕事もあるし仕方ないんですけどね」

子どもたちには、外遊びを禁じた。内部被曝を避けようと学校給食を拒み、保育園での牛乳も断った。母親として当然の、わが子を守ろうとする必死の行動はしかし、周囲からは好奇の目で見られた。保育園の職員からは、露骨に「頭がおかしいんじゃないか」と侮蔑された。変人扱いされているのを感じ、悔しさで胸がいっぱいになった。今でも当時の事を思うと、涙を抑えられない。

「でも、大人はいいんです。我慢すれば。子どもたちは本当に良く頑張ったと思います。たった一人給食を食べない、牛乳を飲まないのも自分だけ。相当、ストレスがたまったと思います」

出産の時が近づく。迷っている時間はなかった。新しい命を宿した身体が本能的に叫んでいた。

「こういう環境での出産はあり得ない」

「ここでは子どもを育てられない」

鬼気迫る妻に、夫もようやく移住を決意した。経営していたレストランを閉じ、妻に従った。熊本での生活が始まったのは7月下旬。原発事故から実に4カ月が経過していた。

先月、無事に元気な赤ちゃんを出産したCさん。

夫も、九州の農産物を東日本に届ける仕事に本格着手した。

「お金の面など、もちろん楽ではないです。移住で失ったものも多い。でも、今の方が人として生きられる。子どもも外で遊べる。それが何よりなのです」

涙がたまった目が、笑顔で光った。


【男として妻を守りたい】

東京・杉並区から移住したDさん(39)、Eさん(38)夫妻もやはり、福島県いわき市出身のEさんが放射能被曝への危機感を高め、夫を説得して移住を実現させた。

「狂気の沙汰のようでした」と笑って振り返るDさん。妻は自宅窓に目張りをし、マスクを常に着用するようになった。インターネットを駆使して情報収集する姿に、仕事で疲れて帰宅するDさんは、正直なところ辟易していたところが多かったという。

「5月頃までは、言い合いが絶えなかったですね。職場の同僚と話をしても、男ってあまり気にしていないんですよ。やっぱり妻は気にしすぎなんじゃないかと思っていました」

ところが、Eさんは日に日に体調を悪化させていく。

下痢が続き、手がひりひりとした。雨に濡れると背中がやはりしびれた。
水道水への放射性物質混入も報じられた当時、シャワーを浴びると肌が赤くなることもあったという。

「これでは二人とも倒れてしまう」。気分転換に、とDさんが旅行を提案。そこでEさんは熊本旅行をしたいと言った。移住実現に向けた作戦だった。当時、熊本で移住者の相談窓口を開いていた坂口恭平さんの「ゼロセンター」(http://www.0yenhouse.com/house.html )に夫を連れて行きたかったのだった。

0円ハウスには、移住先を探している人が多く訪れていた。

何より、熊本旅行中、隣にいる妻がみるみる元気になっていく姿が衝撃的だった。

旅行の後半にはもう、地元の不動産屋を訪れていた。

「仕事より何より、妻が一番だと分かりました」

退社手続きなどを終え、ようやく二人での新しい生活が始まったのは8月、お盆が過ぎた頃だった。
「40歳という人生の折り返し地点を迎え、男として人生最初で最後の岐路なのではないか。決断するならここしかないのではないか、と思ったんです」

そういって妻を見つめたDさんを、Eさんも笑顔で見つめ返した。


【辛いのは周囲の不理解】

茨城県水戸市で被災したFさん(29)はいま、1歳4カ月の娘と二人、生まれ故郷の熊本に避難している。原発事故直後、夫(30)の勤める会社が家族を避難させるよう指示を出したからだ。

このまま移住を希望してるが、離れて暮らす夫からは「東京に帰ってきてほしい」と求められて悩む日々。「数年後には西日本の支社に異動できるよう書類は出してくれたようなので一歩前進なのですが」。

震災直後は、足を骨折していたこともあり余震への恐怖が高まっていた。ライフラインは寸断され、不便な生活が続く。ようやく電気が通ってテレビの電源を入れた時、そこに映し出されたのは、変わり果てた福島原発の姿。揺れへの不安は、わが子と自分の被曝への危機感に変わった。

理解を示してもらえないのは、夫だけではない。

「本当に避難するほどのことなのか、と良く言われる。首都圏は安全だというイメージは、なかなか崩れないものですね」

熊本に来たことで、喉の痛みや頭痛は治まった。貯金を取り崩しながらの生活だが、何より辛いのが、周囲から理解を得られないことによるストレスだという。

九州から、夫の決断を待つFさん。

「夫には、仕事を辞めてでも熊本に来てほしい」

(了)



【熊本ルポ】生命を守るために私は西を目指した~移住者は語る(上)

ある母親は、関東に暮らし続けていては子育てができないと思った。ある夫は、日に日に体調を崩していく妻の姿に腹をくくった。人生の大きな決断の背景には、大事な家族のために、原発事故で奪われた「健康で文化的な生活」を取り戻そうという揺るがない決意があった─。福島原発の事故による被曝を回避しようと、西日本へ移住する動きが加速している。安住の地を求めて西へ。仕事を辞め、自宅を売り、長年親しんだ友人とも別れての移住。金銭的にも精神的にも負担が伴う。周囲は温かい視線ばかりではない。それでもなお、涙をこらえて生命を優先させる移住者たち。熊本で話を聴いた6組(一時避難を含む)は皆、移住までの葛藤を振り返りながら最後は口を揃えて言った。「熊本に来て本当に良かった」



【東電社員が九州に避難、で決意】

「葉山にいては子どもを守れない。移住しよう」

異変を感じたのは3/15早朝のことだった。

庭仕事をしていると、初春の心地よい風を直接受けていた顔の半分側だけが、みるみるうちに赤くなっていった。小学4年生の娘が心配するほどの赤み。前日には、福島第一原発3号機で大爆発を起きていた。放射性物質の飛来を直感した。慌ててシャワーを浴びて洗い流すと急速に元の色に戻った。登校の準備をしていた娘に声を掛けた。「今日は学校を休みなさい」。3/11以来、ずっと抱いていた不安が確信に変わった瞬間だった。

ウインドサーフィンと海を愛する杉葉山さん(42、仮名=南阿蘇)は妻と娘、小学1年生の息子、そして2月に生まれたばかりの娘の5人暮らし。5年ほど前,

神奈川県葉山町に転居。湘南の海を満喫していた。

「東日本一帯の海が汚される」。サーファーによる環境保護団体「サーフライダー・ファウンデーション・ジャパン」(http://www.surfrider.jp/ )を通じて、以前から青森県六ケ所村での再処理工場稼働に反対する活動に参加していた。

だから当初、国が会見で盛んに「ただちに影響はない」と安全性を強調しても、信用できなかった。「国が本当のことを言うにしても数年後だろう。嘘をついていると確信していた」

妻の説得には難渋した。

生後1カ月の乳児を抱えては無理もない。放射能に対する危機意識も差があった。「逃げるならあなただけ逃げればいい」。小学校入学を目前に控えた息子のことも移住を躊躇させた。

とりあえず爆発事故から4日後の3/19、阿蘇に一週間の予定で一時避難した。周囲には同じように逃げてきた人が少なくなかった。そして、滞在中に知人から耳にした言葉が、妻を説き伏せてでも移住をしようと決心させる決め手となった。

「その知人の親戚に東電社員がいたんですが、会社の指示で九州に避難してくると言うんです。これはヤバいと思いました。原因者である東電自身が社員を九州に逃がそうとしているということは、相当事態が深刻なのだろうと。あの顔の赤みはやはり、被曝だったんだなと思いました」

実際に移住した女性に妻を説得してもらうなど、移住実現までには2カ月を要した。父親の熱意が伝わったのか、娘は「私だけ一人で避難しても良いよ」と笑った。家族が阿蘇で落ち着いた生活を始めたとき、原発事故から3カ月が経とうとしていた。
住み慣れた葉山の自宅は売りに出しているが、買い手がつく確証はない。収入は退職金と失業保険。電気工事士の職業訓練を受けており、いずれはその資格を生かしてさらなる移住も視野に入れている。決して楽な道のりではないが、子育ての不安は無くなった。自身の体調も安定している。

当初、退社手続きなどで何度か葉山に戻ると、決まって体調が悪くなった。喉や目、首の痛み、倦怠感…。それらは阿蘇に帰ると治った。往復しながら体調の変化を実感するとともに、子どものために葉山を離れて良かったと心から思った。

「後悔しなかったと言えばうそになるが、決断して良かったと思う」
民の声新聞-熊本城

熊本城の天守閣。東からの移住者を見守っているかのようだ


【子どもの命には代えられない】

雨に濡れると肌がヒリヒリした。

身体がだるくなった。

原発事故以来、体調の悪い日が多くなった。放射性物質が飛来しているんだと直感した。

「息子を環境の良いところに移してあげたい」

気付いたら母親の住む熊本行きの飛行機に乗っていた。

千葉県市川市から7月に熊本市内に移住したAさん(40)は、母親、小学6年生と3人暮らし。慣れない土地での生活も、少しずつだが落ち着いてきた。

関東各地で高い放射線量が測定されるようになり、東日本の食物からセシウムなど放射性物質が検出されるニュースが次々と報じられた。元々放射能に詳しいわけではなかったが、息子の被曝を回避するためインターネットなどで勉強をしていくうちに、西への移住を強く考えるようになったという。

福島から遠く離れる熊本でも、空間線量は低くはない。毎時0.1μSVを上回ることも珍しくない。だが、「放射性物質による九州の土壌汚染は、関東と比べ物にならないくらい低い。ほとんどゼロに等しい」という専門家の話もある。

「ここにいれば安全な食べ物が手に入る。食物を通した内部被曝の心配が要らないから安心です」

だから、放射性物質を帯びた可能性のある震災がれきの受け入れには断固として反対している。九州の土地までが放射性物質で汚染されてしまったら、自分たちはもとより、福島の子どもたちに安全な食材を送り届けることができなくなってしまうという思いがあるからだ。がれき受け入れ拒否の先には、福島で被曝し続けている子どもたちの未来があるのだ。

「移住をしたことで、友達も仕事も全部捨ててきた。旅行ではないのだから。生活のために働かなければならないし、収入面での不安は大きい。それでも子どもの命には代えられないんです」

涙ながらに話したAさんは、体調も落ち着き職業訓練に通い始めた。

「私が頑張らないと、ね」


【同じ苦労をするなら人として生きたい】

東京都文京区千駄木から6月に移住したBさん(35)は、移住後にマッサージ師の資格を取得した。「自分だけが安全な土地に逃げて良いのだろうか」という心苦しさがあったというBさん。移住に際して、様々な人の支援を受けた経験から、今度は避難してくる母親を手助けしたいのだという。

「母親は、子育てだけでも大変なストレスを抱えています。その上、放射能に対する不安を抱きながら見知らぬ地での生活では心身ともに疲れるでしょう。そういうお母さんたちをマッサージしてあげたいんです」

原発事故直後から、東京では子育てできないのではないかという思いが募っていた。自分自身も喉が痛む。息子の体調も芳しくない。

息子の通う保育園では、放射線量測定を拒否された。

「国が安全と言っているのに、それを否定するようなことはできない」

そこで、元から別の活動をしていたグループでお金を出し合いガイガーカウンターを購入。5月中旬にはマンションの雨どい直下で毎時2.39μSVを計測するに至って、東京を離れることを決意した。

「外遊びをしないとか、様々な制約の中で子育てなんかできません。子どもも親もかわいそう。どうせ同じ苦労をするなら、人として生きたいと考えたのです」

試しに一週間、熊本を訪れてみると、息子の体調が良くなった。すぐに所属していた劇団を辞めた。雇用促進住宅に入居できたのは幸いだった。

移住後は、被災地からの避難者と関東からの移住者に対する行政の対応に差があることに気付いたという。

「東京は安全な場所だと思っているんでしょう。そもそも、そこから何で逃げてきたんだという思いがあるようです。もちろん、それは行政だけで住んでる方々には大変良くしてもらっていますよ」

笑顔が素敵なBさんの周りを、息子が笑顔で走り回っている。

「半年後、一年後の見通しは完全に不透明、漠然とした不安はもちろんあります。でもね、何が何でも家族を養うんだ、という思いがあれば大丈夫です」

(了)

経産省よ子どもを守れ!女性たちが座り込み抗議~「原発いらない福島の女たち」

福島の女は黙っていないぞ─。東京・霞が関の経済産業省前で27日から、女性たちが原発停止、子どもの被曝回避を求めて座り込み抗議行動を行っている。孫と引き裂かれたおばあちゃん、子どもの健康被害を憂慮する母親、後悔したくないと疎開支援を続ける若い女性…。福島だけでなく都内や横浜からも「被曝は福島だけの問題ではない」と多くの人が駆け付けた。その数、福島県からの70人を含む約800人。経産省職員を前に涙を流しながら声をあげた。幸い雨が降ることもなく、暖かい陽射しに包まれながら子どものために座り込みを続けている女性たち。ここまで民が動かないと未来ある子どもを守れないのは異常な国としか言いようがない。最終日の29日には銀座をデモ行進する。霞が関で闘う女に密着した。


【いま動かなければ後悔する】

「東京は電力消費のメッカ。そこで生活する人々に『福島の女は黙っていないぞ』ということを分かって欲しかった」

郡山市から駆け付けた黒田節子さん(61)は、2人の孫がいるおばあちゃん。さらに来年1月には、3人目の孫が誕生する予定。だが、原発事故のために孫を可愛がる生活を奪われた。子ども夫婦や孫たちは、福島県内でも比較的放射線量の低い会津若松に避難している。

「孫たちを家に呼んで遊ぶこともできなくなった。私が会いに行くしかない。孫たちが置いて行ったおもちゃを目にするたびに悲しくなる。でも、悲しんでばかりもいられない。子どもをこれ以上被曝させるわけにはいかないのです。だから私が闘うのは当たり前のことなのです」

情報不足の震災直後、取るものもとりあえず小さなバッグ一つ持って避難した人、自宅を新築したばかりで多額の住宅ローンが残ったまま自宅に帰れない人…。近所には自分と同じような苦労を味わわされている人が大勢いる。気付けば脱原発や子どもの被曝回避運動の輪に加わっていた。

「首相と話し合いたいが叶わない。『来客中』と言って面会にすら応じない国会議員もいる。政治家は本気で子どもを守る気概があるのか」。小さな身体から怒りを込めて精一杯声を張り上げた。

会津若松市の市民グループ「会津放射能情報センター」代表・片岡輝美さんの姿もあった。「福島の人間として、これだけの仲間がいるんだということを確認できて良かった。私たちの苦しみや訴えは関東の人たちにも届いているな、と思う。それに、今動かなかったら絶対に後悔しますから」。ハイロアクション福島の武藤類子さん(三春町)は「原発事故から7カ月経って、安全な原発を世界中に輸出するという政府の方針が信じられない。今、原発をやめなきゃ。今、反対運動を起こさなきゃ。予想以上の女性が集まっって驚いた。それだけ脱原発、子どもの被曝回避への思いが強いということではないか」と話した。
民の声新聞-黒田さん
民の声新聞-会津若松から

上:福島の被曝の深刻さを訴える黒田さん(左)

下:会津若松からも座り込みに駆け付けた


【放射能という炎から子どもを救え】

時計の針が正午を回ると、女性たちは経産省の通用門前に移動して、昼食のために出てきた職員たちに向かって思いをぶつけた。

福島市渡利地区の福祉作業所で働きながら「福島子どものいのちを守る会」代表も務める佐藤幸子さん(53)=川俣町=は、震災直後に計測した放射線量が忘れられない。

「3/29に、渡利小学校にある雨どいの直下を測ったら、地表から2cmの高さで毎時108.8μSVというとんでもない値になった。除染すれば一時的に数値は下がるが、雨水が集まるからすぐに放射線量は高くなる。火災でも大人が子どもを救い出すのは当たり前のこと。放射能という炎から子どもを助け出してから除染を行うべきだ」と訴えた。
「子どもたちを放射能から守る全国ネットワーク」東京スタッフとして疎開支援などに取り組んでいる疋田香澄さん(25)は、9月の出来事を披露して一刻も早い子どもの県外避難を求めた。

「郡山市で開いた講演会で、初めて参加したというお母さんと出会った。なぜ来たのかと尋ねたら『これまでTVや行政を信じてきたが、計測器を借りて裏庭の放射線量を測ったら針が振り切れた。計測の仕方が悪いのか分からないが何かが起きているとようやく感じた』と話していた。移住やひなんのパンフレットを手渡したが、金銭面や仕事の関係などで難しいと言われてしまった。このように避難したくても叶わない人が多くいる」と涙を流した。「後に健康被害が出てしまった時、自分はあの時何をやっていたのか、と後悔したくない」
民の声新聞-経産省
民の声新聞-経産省②
上:女性が座り込みやアピール活動を行った経済産業省

下:「子どもを守れ」「ふるさと返せ」と職員らに訴えた


【被曝は日本全体共通の問題】

福島の女性を応援しようと、各地から多くの女性も駆け付けている。

都内の母親グループのメンバーは「できることをやっているだけ。普段からデモや署名活動に参加しており、その一環。子を持つ母親として他人事ではない」。横浜から駆け付けた女性も一児の母。「放射能汚染は日本全体に拡大しているわけで、福島だけの問題ではない。横浜でも高い放射線量が計測されている。福島で苦労されている女性たちに精神的・物理的に寄り添いたいと思って来た」と話した。

昼食をとりに庁舎から出てきた職員に、空腹を満たして職場に戻る職員に、女性たちは必死に訴えた。

「子どもを守れ」

「ふるさと返せ」

「福島返せ」

職員たちは困惑する者、苦笑する者、差し出されたチラシを受け取る者、受け取らない者…。

果たして彼らの胸に女性たちの切実な訴えは響いたか。

その中に、私の脳裏から今でも消えることのない言葉があった。

「子どもを守るのに、なぜ証拠が要るんですか?なぜ数値が必要なんですか?」

愚鈍な官僚にぶつけるのに、これ以上の言葉があるだろうか。

10月30日からは、11月5日までの予定で「原発いらない全国の女たち」として座り込みが続く。

国は官僚はいつまで、民の声を無視するつもりなのだろうか。

(了)


「原発即時廃止・子どもたちの疎開に関する要請書」


①、すべての原子力発電所を直ちに停止させ、廃炉とすること

②、定期点検・トラブル等により停止中の原子力発電所の再稼働を行わないこと

③、子どもたちを直ちに、国の責任において避難・疎開させること。また、すでに避難し、またはこれから避難する住民に完全な補償を行うこと

④、原発立地自治体を補助金漬けにし、自立の妨げる原因となっている電源三法を廃止すること

民の声新聞-母親グループ
民の声新聞-予定表
上:福島の女性に連帯して座り込みに参加した都内の母親グループ

下:29日は銀座をデモ行進する

【現地リポート】 210日後の福島は今(下) ~『放射線量測定結果』

10/13-15の3日間の福島取材で計測した放射線量を掲載します。

あくまで参考値ですが、福島県内の、それも原発から60kmも離れていても、決して空間の放射線量が低くないと分かっていただけるはずです。

子どもたちを一刻も早く逃がしましょう。

関東全域での詳細な土壌汚染調査を求めましょう。

こうしている間にも、子どもたちの被曝は進んでいます。


※なお、計測器は今回も、横須賀在住の薗部道代さんにお借りしました。ありがとうございます。


民の声新聞
安達太良サービスエリア



民の声新聞-磐梯熱海

JR磐越西線・磐梯熱海駅



民の声新聞-開成山
郡山市・開成山公園



民の声新聞-紅葉山
福島県庁に隣接する紅葉山公園



民の声新聞-福島市役所
福島市役所



民の声新聞-二本松駅
JR東北本線・二本松駅



民の声新聞-置賜町
JR福島駅付近



民の声新聞-郡山デモ
郡山市の集団疎開デモ



福島県放射能測定マップ ←こちらをクリック



福島の子どもたちの集団疎開裁判に支援のカンパを!

こちらをクリック


【現地リポート】 210日後の福島は今(中) ~『郡山集団疎開裁判を支援しよう』

福島県郡山市の子どもたちが、安全な場所への集団疎開を求めて自ら原告となり、司法の場で市と闘っている。被曝の懸念が消えないまま授業を続ける市側に対し、生徒が訴訟という形で健康的な生活を確保しなければならない異常事態。何とか一日も早い集団疎開を実現させようと多くの大人が立ち上がっている。15日に郡山市内で行われた支援集会とデモ行進には俳優の山本太郎さんも駆け付け、裁判長へ「勇気を持って決断を」とエールを送った。福島県外への転校が実現したのはわずか5%。これ以上被曝させてはならないと、参加者たちの涙ながらの訴えが雨上がりの秋空に響いた。



【紫色になって亡くなったロシア人夫妻の子】

JR郡山駅前広場。

胸を打つスピーチが続いた。

緊張で、怒りで、悲しみで声やマイクを握る手が震える。

遠くでにらみをきかせる警察の無言の圧力に押しつぶされそうになる。

それでも必死に訴えた。子どもたちの健康のために。

避難所で一週間過ごしたのち、妹のいる東京へ避難している女性は「東京で2人の子どもたちと頑張っています。まだまだ避難できずにいる子どもたちが多いことを東京の人たちに伝えたい」

連れてきた娘は郡山駅に降り立った途端「あ~私の故郷だ」と喜んだ。「ここで赤ちゃんを産みたい。できるよね?」と聴かれた。「うん」としjか答えられなかった。放射性物質に汚染されているから難しいかもしれないとは言えなかった。

25年間、反原発運動を続けている「ハイロアクション福島」の武藤類子さんは、涙ながらに「私たち大人は全力で子どもたちの健康被害を防がなければなりません。そのために力を合わせましょう。力をふりしぼって「子どもを逃がしてほしい」と声を上げた人々とつながりましょう。裁判所の勇気ある判断を市民が支えましょう」と訴えた。「原発こそ人権を侵害したもの」と語る武藤さんは「一人一人が幸せになる社会を取り戻したい」と語った。

埼玉県三郷市で「放射能から子どもたちを守ろう みさと」を運営する代表の名取知衣子さんは、小学4年生と1歳半の二児の母親。「今日は一人の日本の親として参加しに来た。それぞれの立場でできることを一生懸命にやるのは大人の責務。一緒にがんばりましょう」と涙。「『心配なら転校すればいい』『遠足が心配なら休めばいい』『給食が心配なら食べなければいい』と教育に責任ある大人が言ってしまったら、子どもは苦しむ。それを見ている親もつらい。でも、子どもに被ばくさせたくない。板挟みになりながら、日々を過ごしている」

「会津放射能情報センター」の一人は、今でも忘れられない事がある。

運営する託児所でロシア人夫妻の子どもを預かった。しばらくして病気で亡くなってしまったが、後に「2人は実はチェルノブイリ原発事故で被曝しており、こういう事態は覚悟していた」と知人から知らされた。その子は亡くなった時、紫色の顔色をしていた。

「今となっては因果関係を証明できないけれど、私はあの時、日本の未来を見てしまったのかもしれない。あの夫妻が味わった悲しみを、自分の子をはじめ、日本の子どもたちにまで味わわせてはいけないんです」と涙を浮かべて話した。

民の声新聞

JR郡山駅から市役所までデモ行進。

中央の男性は弁護団の一人・柳原弁護士


【裁判所は勇気を奮って初心を貫け】

「ふくしま集団疎開裁判」は6月24日、郡山市内の7校の小中学生14人が郡山市を相手取り、年1.0mSV以下の安全な場で教育を実施するよう求める仮処分を申し立てたことに始まる。

これまでに7/5、7/19、8/26、9/9と4回の審尋が開かれた。

その中で、熊本での原爆症集団認定訴訟で内部被曝に関して証言、306人全員の勝訴に寄与した矢ヶ崎克馬琉球大名誉教授が24ページにわたる意見書を提出。

矢ヶ崎氏は「チェルノブイリ事故に匹敵するあるいはそれ以上の放射性埃が放出されている」「今後極めて高い疾病率が郡山市や福島県の子供を襲うことが懸念される」「今からでも『遅すぎることは無い』子どもの疎開措知等は即刻実施されなければない」「未だ日本に安全なところが在る以上、子どもたちの教育は、安全な場所で教育するために政府は最善の努力をすべき」などと述べている。

弁護団の一人で、集会で裁判について報告した柳原敏夫弁護士は「①その後、順調に学校での放射線量は下がってきた。②申立人の子どもも親も転校の自由があって、危険だと思えば転校すればよい、郡山市はそれを妨害していない。③郡山市は子どもの学校滞在時間以外は、関知しない。それは、子どもたちの保護者によって自由に管理されるべきものだ。④子どもたちの安全な環境で教育を受ける権利、これを侵害しているのは東電であって、自分たちではない。⑤自分たちは学校で放射線量の低減化のため可能な限りの努力を尽くしている。だから、子どもたちの安全な環境で教育を受ける権利を侵害していない…以上から、郡山市は子どもたちを安全な場所に避難させる義務は負わない、と言う。これは人権放棄の宣言だ。ここには希望がひとつもありません、あるのは絶望だけ」と怒りに声を震わせた。

疎開を求める裁判に賛同する署名は、24971筆集まった。

「11月、この裁判の判断は下される。裁判所がもし、裁判の原点に立ち返り勇気を奮って初心を貫いたなら、それは14人の子どもの命を守るだけではなく、福島県の子どもたちの命を守る判断となるだろう」
民の声新聞

福島県内外から多くの大人が駆け付けた支援集会。

誰もが被曝から子どもたちを守ろうと必死だ



【裁判長よ勇気ある判決を】

集会・デモの輪の中に、俳優・山本太郎さんの姿があった。

参加者が慣れないスピーチに四苦八苦するなか「国はなめている。目の前のお金を守るため、子どもたちは殺されようとしている。棄民だ」と力強く訴えた。

さらに「今、福島で展開されている不条理は、明日の自分ですよ。どうして子どもたちが裁判に訴えなければならないのか。国が率先して逃がすべきなのに」と語気を強めた。

郡山市役所までのデモ行進でもマイクを手に参加者を先導した山本さん。反原発を明確に表明して以来、芸能界では干されてしまったという。

「地上波では俺を使えないでしょうね。でもね、俺はキレちゃったんですよ。国が年間被曝限度量を1mSVから20mSVに引き上げた時。こんなんじゃ、子どもたちが殺されてしまうと。それに、俺自身、まだ生きたいですから」

デモ行進は、市役所前で申し入れ書を読み上げて締めくくられた。

主宰者側はこの場で市職員に文書を手渡すことを希望したが、市側は「土曜日で人の手当てができない」ことを理由に受け取りを拒否。後日、

1、 子どもたちを放射能が年1mSv以下の地域に集団疎開・避難をさせてください。
2、 既に自主避難している子どもたちに、早急に経済的・その他必要な支援を実施してください。
3、 就学前の子どもたちを持つ家庭・妊婦・これから妊娠の可能性のある方たちに生活支援つきの避難を実施してください。
4、 大人も一時避難もしくは一時保養できるシステムを、他の自治体と共同で、作ってください。
5、 安心して避難出来るように、留守宅の警備をする地域ぐるみのシステムを作ってください。

以上を文書で申し入れた。

参加者の多くが「今、行動しなければ後々後悔する」「子どもを守るのは親として当然」「理屈じゃないんだ」と立ち上がった今回の集会。

子ども自ら疎開のために行政を訴えるという異常事態は解消されるのか。

山本太郎さんは再び降り出した雨の中、商店街を歩きながら大きな声で叫び続けた。

「裁判長に勇気を送ろう」

(了)
民の声新聞

俳優・山本太郎さんも大阪から参加。

デモ行進では「大人よ立ち上がれ」と鼓舞した



福島の子どもたちの集団疎開裁判に支援のカンパを!

【現地リポート】 210日後の福島は今(上) ~『郡山のジャンヌダルク 滝田春奈市議』

社民党党首で弁護士の福島瑞穂さんは、かつて「法曹界のジャンヌ・ダルク」として人気を呼び、政界に乗り込んで行った。そして今、福島原発事故による被曝が懸念されている福島県郡山市で、若い女性市議に期待が集まっている。滝田春奈さん(33)。9月、震災の影響で延期されていた市議選で、初出馬ながらトップ当選を果たした。2位当選も女性で、同市議選で女性が上位2議席を占めるのは極めて異例。自身、7月に入籍したばかりで、被曝による出産への影響を抱いている。同じ立場の女性の味方となり、さらに若者の政治参加を促す先駆者となりたい…走り始めた「郡山のジャンヌ・ダルク」に話を聴いた


【自転車で選挙運動】

手応えなど無かった。

大きな支持母体があるわけでもなく、駅頭で話すことも未経験。

本来なら4月の統一地方選で実施されるはずの選挙戦は、酷暑の8月に延びた。

太陽が容赦なく照り付ける。

福島原発の放射性物質が降り注ぐ。

生まれ育った町を候補者で唯一、自転車で走り回った。

慣れない街頭演説も毎日行った。

貯金は印刷費や郵送費で瞬く間に消えていく。

「立候補して本当に良かったのだろうか」

後悔さえ頭をよぎる。母親は立候補に反対した。

だが、選挙運動を進めていくうちに、市民の期待の大きさが痛いほど伝わってくるようになった。

「見知らぬおじさんが『頑張れよ』と手を振ってくれる、わざわざ車を止めて冷えたジュースを渡しに来てくれる。演説も立ち止まって聴いてくれる人が日に日に増えた。これはもしかしたら、と思うようになりました。あれをいわゆる『手応え』っていうんでしょうかね」

子どもたちを避難・疎開させるプロジェクトに参加していたお母さんたちとも多く話した。選挙公報は子どもの命に絞って書いた。若いお母さんからのカンパも届いた。

気付けば、3979票を集めトップ当選。

「まさか、のひと言ですね。若い世代に投票していただいたのかもしれません」

まだ市民が生活の基盤を立て直すのに必死で投票率は前回比約14ポイント減の43.10%にとどまったが、得票率3.59%は前回選挙のトップ当選者と同じ。胸を張れる支持率と言っていい。

民の声新聞
初出馬・トップ当選で市議会に乗り込んだ滝田春奈さん。

モットーは「子どもたちの生活を守る」


【憲法は『国が守るべき法律』】

郡山市に生まれ育った33歳。

これまでの活動といえば、集会や学習会に参加した程度だった。

原点は東北大学法学部。憲法を学んだ時の衝撃。

「あの時、憲法は『国が守るべき法律』であることを教わった。今、行政も政治家もその意識が薄いのではないか」

卒業後は「みどりの未来運動」に参加。ノルウェーでの女性議員の活躍を学んだ。

その中で、先輩議員の蛇石郁子さんと知り合い、出馬を持ちかけられた。

2カ月あまり悩んだ末の決断。

勝算など無い。

議会は念入りに傍聴。何をやっているのか、姿が見えてこなかったからだ。

「どんな問題でも、市は『国や県の動向を見て検討します』『今後、調査・研究していきます』ばかり。議員もそれ以上追及しない。あまりに酷くて驚きました」。

市民感覚との乖離に唖然とした。その思いは、報告会でこまめに市民に伝えた。

震災3日後に開かれた市議会では、市議の海外研修が例年通り賛成多数で可決された。反対したのはわずか4人だった。

「この状況でよく賛成できるな、と。議員としての姿勢を疑いました。傍聴者は私一人だったけれど、誰が見ても怒ったでしょう」

後に海外研修は中止が決定されたが、いかに市議会が市民感覚とかけ離れているか、実感するには十分な出来事だった。
民の声新聞
滝田事務所前の砂だまりで毎時6.81μSVを計測。

郡山市役所内の芝生も毎時3.0μSV近くある

【拭えない出産への不安】

7月に入籍したが、出産への不安が払しょくされない。

依然として空間放射線量の高い郡山に生活し続け、どれだけ外部被曝したか分からない。

原発事故直後も、祖父が大事にしている家庭菜園の野菜を口にしていた。

内部被曝は分かっていたが、祖父に向かって食べたくないとは言えなかった。

周囲はサポートを約束してくれた。

長崎に移住した知人は「子どもだけ疎開させれば良い」と言ってくれた。

でも、結論はなかなか出ない。

「これから生まれてくる子どもに、親が被曝を押し付けて良いのか悩みます」

今になってさまざまな数値が公表されるようになったが、

「私たちは散々嘘をつかれてきた。信じられません。お母さんたちが被曝を懸念するのは当たり前です。食べ物にしても、生産者も消費者もどちらも被害者なのです」

市議選立候補を決意してからちょうど1年。

大地震があり、原発事故があり、結婚、そしてトップ当選…。
「この1年は、10年分の時間を経た気がします」

しかし、1年生市議は走り始めたばかり。

旧態依然とした政治の閉塞感を打破するため、

若者の雇用を増やすため、

そして、

子どもの生命を守るため…

市民の大きな期待を背負って全力疾走する。
(了)

平成23年9月4日執行郡山市議会議員一般選挙の結果  


滝田春奈市議のブログ

露見しない高線量はある。関東全域で詳細な調査を~足立区のケースは特殊事例ではない

小学校敷地内で毎時3.99μSVという高い放射線量が計測されたのを受けて東京都足立区は18日午後、除染作業を実施した。高さ10cm分土を除去したところで毎時0.15μSV。「目標値をクリアした」として作業は終了し、除去した土はすぐ近くの同校敷地内に埋め戻された。子どもたちと汚染土との〝同居〟は依然として続くうえ、依然として単純年間換算で、被曝量は1.3mSVを超える。区教委は「これを機に区内全校の調査を進めたい」としているが、具体的な日時は未定。今回のケースは決して特殊事例ではない。市民団体が調べて数値を提示するのを待たず、関東全域での詳細な放射線量調査が求められる。露見していない「サイレント高線量」は各地に存在して不思議でない


【深さ10cmでようやく0.15μSV/hに】

「駄目だ、まだまだ高いな。もっと掘ろう」

まず深さ5cmまで掘って土を除去。放射線量を5回測る。テレビ、新聞のカメラが多数見守るなか、依然として0.56、0.57、0.65、0.53、0.57、0.57。平均0.58(すべてμSV/h)と高い値が検出された。これを受けて立ち会った区教委の幹部はすぐに再除去を指示。「0.25になるまでは掘り進めたい。次で下がってくれれば良いのだが」と不安そうに話した。

2回目の除去後の計測では、0.15、0.14、0.15、0.16、0.16。平均0.15(すべてμSV/h)に減少。高さを50cm、100cmと変えて測っても差がなかったため「目標値はクリアできた」として、除去作業を終了。取り除いた土は三重のビニール袋3つに入れられ、さらにコーティングされた袋に入れてすぐ近くに埋め戻された。袋には、高さが少なくとも60cmにはなるように土がかぶせられた。

民の声新聞

深さ5cm掘ったところで放射線量を計測。

0.58μSV/hと高い値だったため、さらに5cm掘ることに


【きっかけは住民の情報提供】

除染作業が実施されたのは、区立東渕江小学校(足立区東和)。住民からの情報提供を受け17日夕に区教委職員が同校プール機械室外壁の雨どい下を測ったところ、毎時3.99μSVの放射線量を検出。区内の工務店に依頼し、雨どい真下の土を5cmずつの深さで除去することにした。

雨どいは、プールに併設された機械室の屋根から壁つたいに地面に降りているが、今回、高線量が計測された部分だけ地面との間にすき間がある。「他の雨どいも測ったが、なぜかここだけ値が高かった」と同幹部。他の雨どいは直接土に刺さるように設置されているため「他の雨どいも土を掘って詳細に調べれば当然、高い放射線量が検出されるのではないか」と水を向けると「確かにそれは考えられる」と答えた。

除去後の放射線量は区の定めた0.25μSV/hはクリアしているものの、年間被曝量に単純換算すると1.3mSVを超える。決して「下がった下がった」と喜べる数値ではない。

この日、区教委職員が花壇など校舎の周辺を20カ所測定したが、やはり0.15μSV/h前後の数値。学校側はこの日だけ外遊びの禁止と校庭での体育授業の自粛、通学路の変更措置をとったが、学校敷地全体が低くくない。安心できるような状態ではないのは明らか。明日からまた校庭の使用が再開されて良いのか、疑問が残る。
民の声新聞

深さ10cmまで土を除去して再び計測。

0.15μSV/hに下がったのを確認して除去は終了した


【早く解消したい汚染土との〝同居〟】

作業後、学校長は「数値が下がって良かった。元々子どもたちが頻繁に立ち入るような場所ではないし、袋から漏れ出すようなことはないと思う。不安はない」。区教委幹部も「とりあえずはひと安心」と話したが、区内には小学校だけで72ある。東渕江小学校だけが例外とは思えない。足立区は7月に校庭や砂場、プールの水に関して全校調査を実施しているが、雨どいは調査対象になっていなかった。「これを機に、全校で詳細な調査を行うよう、上に働きかけたい」(区教委)

今後、他校で同様の事態が起きた場合の汚染土の行方も定まっていない。

区教委幹部は「区内に敷地はあるが、当然、地域住民から反対されるだろう。高圧洗浄をした場合も、果たして下水に流して良いものか分からない。とりあえず仮置きとして敷地内に埋め戻すしかない」と弱り顔。60cmの土で覆うとはいえ、早く敷地外に搬出するべきだ。

除染作業には多くの大手メディアが取材に訪れ、時ならぬ騒動に地域住民が不安そうに作業をのぞく場面もあった。

だが、これは特殊事例ではない。

ここで高線量が計測されたということは、近隣の学校はもちろん、関東全域で同様の値が検出されても何ら不思議ではない。つまり、福島原発から200km以上離れている関東でも、日々子どもたちが被曝の危険にさらされている可能性があるのだ。

区教委は「あなたの言う通りだ」と賛同したが、もはや区レベルで対応できる問題ではない。都県レベルで本格的な調査を行わないと、子どもたちの健康は守られない。

各地で露見しないままになっているサイレント高線量。

意識の高い住民の調査で発覚するのを待たず、行政が積極的に調べよ。今回の事例を例外にするな。

(了)
民の声新聞
除去した汚染土はすぐ近くに埋め戻された。

子どもたちとの〝同居〟は続く

【現地リポート】 半年後の福島は今(下) ~『苦境の会津若松』

放射性物質の拡散による実害は、農産物や食品だけではない。福島県内有数の観光地・会津若松市は、福島原発の事故を契機に始まった観光客の激減ぶりに悲鳴をあげている。浜通りや中通りと比して計測される放射線量の低い同市だが、外国人観光客や修学旅行生の減少が著しく、歯止めがかかりそうにない。冬のスキーシーズンに観光客は戻ってくるのか。いまだ収束しない原発事故に振り回されているのは温泉街も同じだ。福島県内でも有数の米どころでもある会津の現状を取材した。


【放射線量低くても〝福島〟】

JR郡山駅からJR磐越西線で約1時間。福島原発からは約100kmの距離にある会津若松市。野口英世が生まれ育ち、新撰組、白虎隊など歴史的見どころの多い会津地方の中核的な街だ。白虎隊が自害した鶴ヶ城が、シンボルとして街を見守っている。

福島県が行っている空間放射線量の計測では、3/16(雪)に0.6μSV/hを超えたが、これまでに1.0μSV/hを上回ったことはない。9月に入ってからは、0.13μSV/h~0.14μSV/hを推移している(3/15正午までは0.05μSV/h前後だった)。そのため、早くから中通りや浜通りからの避難県民を市内の食伯施設などで受け入れている。

しかし、市観光課がまとめている震災後約半年間の観光データは、原発事故による被害が直接てきな被曝や食品汚染にとどまっていないことを物語っている。

資料には、減少を示す▲がずらり。

特に顕著なのが外国人の減少で、昨年同時期が3076人だったのが今年は210人。93.2%も減った。修学旅行も学校数ベースで697校から144校に。生徒数では54650人から9861人に大幅に下がった。実に82.0%の減少だ。観光農園の来場者も81.2%も減った。昨年同時期の2割も訪れていない。東山、芦ノ牧の両温泉も、4~7月の4か月間だけで、昨年より半減している。

「改修の終わった鶴ヶ城のお披露目が3月にありまして、今年は多くの観光客を見込んでいました。それが、天候不順や鶴ヶ城の改修工事などで人出が減った昨年より少ない。スキーシーズンに期待していますが…」。市観光課の担当者も、相手が放射線では手の出しようがない。

猪苗代湖周辺など、夏は避暑地としても知られる会津。大学生の合宿などでも利用されるが、今年は少なかったという。街に目立つのは福島ナンバーの乗用車。野菜直売所を営む男性は「観光バスが全然通らなくなった」とため息をついた。旅行会社は「お客さんは、『福島』という言葉が出るだけで敬遠してしまう」と話す。ある関係者は「放射性物質がまき散らされた以上、私も逆の立場だったら避けるだろう。でも、ここで生きている以上、観光客の方々に来て喜んでいただけるように頑張るしかない。このままでは街が…」と辛い胸中を打ち明けた。

2013年のNHK大河ドラマが、福島県出身で「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた新島八重の生涯を描く「八重の桜」に決まった。同志社大学の創設者・新島襄の妻となった八重を綾瀬はるかが演じる。戊辰戦争では、断髪・男装して砲術をもって参戦したという。「主役だけとはいえ、2年先のキャスティングが決まるのは、話題を作ることで会津に配慮してくれているのでしょう」と市観光課。ドラマが放送されるころには、観光客が安心して会津を訪れることができる状況になっているのだろうか。それには、一日も早い原発事故収束しかない。

22、23日に行われた会津まつりには、藩公行列だけで約30万人の人出があったという。友好都市・横須賀からも甲冑隊が参加した。昨年は雨で行列が中止になり、関係者も「一昨年の水準に戻りつつある」とほっとした様子。まだまだ県民の比率が高いようだが、会津再興に向けて動き出している。
民の声新聞-鶴ヶ城

会津若松市のシンボル・鶴ヶ城。自慢の赤瓦の修復も終わり、観光客の来城を待っている


【米の予備検査を注視】

会津若松市は、農業生産の7割を米が占める。稲作中心の農業形態。

財団法人日本穀物検定協会の食味ランキングでも、会津のコシヒカリとひとめぼれが「特A」に認定されている。地元でも「美味しさでは他県に負けない」と胸を張る自慢の米だ。

合併前の旧14市町村について福島県の予備検査が行われているが、いまのところ11市町村でND(不検出)で、市農政課の担当者は「ほっとしている」と胸をなでおろした。現在、すべての農家に対して予備検査が終わるまで今年度産の出荷や販売、譲渡、贈答を禁じている。あと3地区で放射性物質が検出されなければ制限は解除されるため、数値が出るたびに担当者は緊張の連続。二本松市では9/12に採取された検体で500ベクレル/kgの放射性セシウムが検出されてしまったが、万が一、会津若松市でも同様の事態になれば今後の売り上げに大きく影響するだけに、予備検査の推移から目が離せないという。

「安全性を確認しているという情報提供をしていきたい」と、市は9月議会に630万円の補正予算案を退出した。市内の210集落を1km四方に区切り、水田の汚染度合いを調べるという。また、「首都圏に出張しても、会津の米が美味しいと知っている人が少なかった」(市農政課)として、PR活動も精力的に行っていく方針。11月に横須賀市内で開かれる「よこすか産業まつり」にも参加する。

「予備検査の結果が出揃うまで安心できないが、消費者にきちんと理解されていない面もある。196年代の資料には、今以上の放射性セシウムが検出された事例もあったと聞いている。それも含めて情報発信していくしかない」

今年の作柄は「やや良」。

このまま放射性セシウムが検出されなければ、10月にも小売店に会津産の米が並ぶ。

(了)

民の声新聞-会津若松でもレンタル

会津若松でも測定器のレンタルが。放射線量が比較的少ないだけに借りる人は多くないという

【現地リポート】 半年後の福島は今(上) ~『汚された農産物』

震災の被害者であるはずの福島県民が振り回される不条理…。3.11から半年経った福島には、予想以上の大波が押し寄せている。「福島=放射能」というイメージ。福島県産の食品だけでなく、花火や中古車にまで波及する広がりぶり。売れない青果物、訪れなくなった観光客。放射能汚染への不安は風評なのか実害なのか。政治が実効性ある策を打てないなか、未曽有の危機に陥っている福島を訪れ、民の声に耳を傾けた。農家は被害者であり、青果物は放射能に汚されたのだ。消費者の不安に理解を示しつつ、それでも「食べてほしい」と言うしかない流通関係者の立場は、あまりに哀しい


【収穫高減、単価安】

JR福島駅から阿武隈急行で一駅。卸町駅近くに広がる広大な福島市中央卸売市場(同市北矢野目)。段ボールに入った多くの福島県産青果物が積み上げられている。

桃の出荷はひと段落し、果物は梨(豊水、幸水、二十世紀)やブドウ(巨峰)、野菜はキュウリやトマト、インゲンが主流。11社の仲卸業者が忙しそうに動いている。市場年報によると、同市場での青果部門の年間取扱量は、昨年度が6万㌧。産地別では福島が22.4%でトップ。特に果物は3割近くに達し、2位の熊本の倍近くになっている。

「震災の時は、何かにつかまっていないといられないくらいだった」。市場内を歩きながら卸売会社の幹部は振り返った。

福島の農産物が直面しているのは、「収穫高減、単価安」。廃業した兼業農家もいるほどの危機。

「『果たして売れるのか』という不安が払しょくされない。年金をつぎ込んでやっている兼業農家もあるなかで、売れる見込みがないなら、とやめてしまう」

取扱量が、この10年間でほぼ半減していたところに直撃した地震と放射性物質。県内産の果物は半値以下に下がり、各仲卸業者の売り上げへの影響も小さくなくなってきた。九州では、福島のアンテナショップ出店が地元の反対で中止された。いわき市の小名浜漁港で水揚げされたカツオが、東京・築地市場で値がつかなかったという〝事件〟は、すぐにこの市場にも伝わった。長く市場と関わってきて、これまで経験したことのない状況。半年経っても何ら有効策を打てない国への怒りは強い。「政府・行政の対応がもっと速かったら、こんなに苦しまずに済んだのではないか。特に国の動きは酷い」

「検査はきちんとやっている。安全でないものは市場に出していないから食べてほしい。われわれは、いつになったら自信を持って売れるのだろうか」

民の声新聞

市場の一角で開かれるセリ。放射性物質による食品汚染に対しては、流通業者の思いもさまざまだ


【全員移住して総除染せよ】

山形出身の仲卸会社社長は、「消費者の反応は過剰ではない。風評なんかじゃない。床に落ちたおにぎりを食べるかどうか、というのとは違うんだから」としたうえで「戦争のような国難なんだ。小沢一郎のように少し強引な政治家でないと駄目なんじゃないか。クリーンで何もできない政治家より、ダーティでも良いから福島を再興させてくれる政治家がいいよ」と語気を強めた。

この社長は震災直後から、「今年は福島県産はすべて廃棄。全員移住して土地をきれいにして生まれ変わらないと駄目だろう」と仲間内で話していたという。

「農地全体を覆っているわけではないんだから、放射性物質に晒しっぱなし。膨大な数の桃をどうやってチェックするんだよ。俺たちは福島県産の青果物を円滑に流通させるのが仕事だから言いにくいけど、毒をまき散らしているのと何が違うんだ」

「政治家は、もう元の家には戻れないとはっきり言うべきだ。それで、農家も含めきちんと補償をして移住させる。農産物も数年間は出荷停止させる。下手に出荷して、それで基準値を超えるから消費者の不信感が高まるんだ」

大型スーパーの担当者は、他県産がどうしても入手できないとき、やむなく福島県産を買うという現状。

別の古参関係者は「福島の工場で加工されたカット野菜は使わない、と宣告された。中元に贈った桃は送り返された。中古車は、福島ナンバーというだけで3、4割値が下がるという話も耳にした。『福島を応援しよう』は口ばっかりじゃないか。きれい事は言わないでほしい」と怒りを口にした。

民の声新聞


民の声新聞

市場から県外へ出荷されるトマトやナシ。買うか否かは消費者個々の判断だが、売り場を奪ってはいけない



【家族の生活のために売る】
自身も放射線量の高い地域に生活する仲卸業者(44)は「俺にも中二の娘がいるし、買いたくないという人の気持ちも分かる。でも、これで生活している以上、買ってもらわなきゃ。」。なるべく福島県産の果物は食べさせないようにしているという。

しかし、それだけでは家族を養うことはできない。いら立ちの矛先はつい、県外の消費者へ向かってしまう。

「売り上げは3割近く落ちるのではないか。農薬に関しては基準値以下なら食べるのに、どうして放射性物質は食べてもらえないのか。基準値以下の農薬で病気になった人がいるのか」

福島市が東北大学に依頼して行っている検査(9/21発表分)では、ナスやキュウリ、キャベツなどほとんどの農産物が「不検出」だったが、国の暫定基準値(500ベクレル)以下とはいえ、トマトで2ベクレル(セシウム137)、コマツナ3ベクレル(セシウム134)、クレソンが41ベクレル、実がジャムや果実酒に加工できるナツハゼは42ベクレル(ともに134、137合算)と、放射性物質による食品汚染が決してゼロではないことが数字として表れている。

多くの専門家が「いつまでも緩い暫定基準値を使わず、厳しい基準値を設けるべきだ」と指摘するなか、市場でも「他の物質と同じように、放射性物質に関しても政府がきちんと規制値を設定してほしい。それ以下なら、消費者も買ってくれるだろう」という声を多く聞いた。地元の人々は放射性物質が雨のように降り、それが決して生易しい量ではないことを良く理解している。それでも、農産物を売らなければ生きていかれない。誇りを持って長年従事してきた仕事とのはざまで苦しんでいるのだ。

先の仲卸業者は別れ際、一瞬、険しい表情になってつぶやいた。

「福島県産をどうやって売るか、毎日毎日そればかり考えているよ」

(了)


民の声新聞
磐越西線・会津若松駅には、福島を応援する寄せ書きが飾られている。ここにも「風評には負けない」の文字