【熊本ルポ】生命を守るために私は西を目指した~移住者は語る(下) | 民の声新聞

【熊本ルポ】生命を守るために私は西を目指した~移住者は語る(下)

民の声新聞-肥後のつり手毬
熊本市内で披露されていた「肥後のつり手まり」



【熊本で得た人としての生活】

東京都港区から神奈川県横須賀市に移り住んで約1年が経とうとしていた。

小学生2人に保育園児1人の母親であるCさん(43)はさらに、4人目の子どもを身ごもっていた最中に3.11に遭った。

福島原発事故の後、報道を通じて聞こえてくる国のアナウンスなど、初めから信用していなかった。
「絶対に国が嘘をついていると確信していました。横須賀にはもう、住めないと思いました」

3人の子どもだけでなく、お腹の赤ちゃんを絶対に被曝させてはならない。

窓を開けないようにし、買い物での外出も最小限に抑えた。

当然、ストレスは日に日に高まっていく。移住への思いも募る。都内でレストランを経営する夫とは、毎日のように夫婦喧嘩をした。

「夫にはなかなか理解されませんでした。『お前たちだけで避難しろ』と。仕事もあるし仕方ないんですけどね」

子どもたちには、外遊びを禁じた。内部被曝を避けようと学校給食を拒み、保育園での牛乳も断った。母親として当然の、わが子を守ろうとする必死の行動はしかし、周囲からは好奇の目で見られた。保育園の職員からは、露骨に「頭がおかしいんじゃないか」と侮蔑された。変人扱いされているのを感じ、悔しさで胸がいっぱいになった。今でも当時の事を思うと、涙を抑えられない。

「でも、大人はいいんです。我慢すれば。子どもたちは本当に良く頑張ったと思います。たった一人給食を食べない、牛乳を飲まないのも自分だけ。相当、ストレスがたまったと思います」

出産の時が近づく。迷っている時間はなかった。新しい命を宿した身体が本能的に叫んでいた。

「こういう環境での出産はあり得ない」

「ここでは子どもを育てられない」

鬼気迫る妻に、夫もようやく移住を決意した。経営していたレストランを閉じ、妻に従った。熊本での生活が始まったのは7月下旬。原発事故から実に4カ月が経過していた。

先月、無事に元気な赤ちゃんを出産したCさん。

夫も、九州の農産物を東日本に届ける仕事に本格着手した。

「お金の面など、もちろん楽ではないです。移住で失ったものも多い。でも、今の方が人として生きられる。子どもも外で遊べる。それが何よりなのです」

涙がたまった目が、笑顔で光った。


【男として妻を守りたい】

東京・杉並区から移住したDさん(39)、Eさん(38)夫妻もやはり、福島県いわき市出身のEさんが放射能被曝への危機感を高め、夫を説得して移住を実現させた。

「狂気の沙汰のようでした」と笑って振り返るDさん。妻は自宅窓に目張りをし、マスクを常に着用するようになった。インターネットを駆使して情報収集する姿に、仕事で疲れて帰宅するDさんは、正直なところ辟易していたところが多かったという。

「5月頃までは、言い合いが絶えなかったですね。職場の同僚と話をしても、男ってあまり気にしていないんですよ。やっぱり妻は気にしすぎなんじゃないかと思っていました」

ところが、Eさんは日に日に体調を悪化させていく。

下痢が続き、手がひりひりとした。雨に濡れると背中がやはりしびれた。
水道水への放射性物質混入も報じられた当時、シャワーを浴びると肌が赤くなることもあったという。

「これでは二人とも倒れてしまう」。気分転換に、とDさんが旅行を提案。そこでEさんは熊本旅行をしたいと言った。移住実現に向けた作戦だった。当時、熊本で移住者の相談窓口を開いていた坂口恭平さんの「ゼロセンター」(http://www.0yenhouse.com/house.html )に夫を連れて行きたかったのだった。

0円ハウスには、移住先を探している人が多く訪れていた。

何より、熊本旅行中、隣にいる妻がみるみる元気になっていく姿が衝撃的だった。

旅行の後半にはもう、地元の不動産屋を訪れていた。

「仕事より何より、妻が一番だと分かりました」

退社手続きなどを終え、ようやく二人での新しい生活が始まったのは8月、お盆が過ぎた頃だった。
「40歳という人生の折り返し地点を迎え、男として人生最初で最後の岐路なのではないか。決断するならここしかないのではないか、と思ったんです」

そういって妻を見つめたDさんを、Eさんも笑顔で見つめ返した。


【辛いのは周囲の不理解】

茨城県水戸市で被災したFさん(29)はいま、1歳4カ月の娘と二人、生まれ故郷の熊本に避難している。原発事故直後、夫(30)の勤める会社が家族を避難させるよう指示を出したからだ。

このまま移住を希望してるが、離れて暮らす夫からは「東京に帰ってきてほしい」と求められて悩む日々。「数年後には西日本の支社に異動できるよう書類は出してくれたようなので一歩前進なのですが」。

震災直後は、足を骨折していたこともあり余震への恐怖が高まっていた。ライフラインは寸断され、不便な生活が続く。ようやく電気が通ってテレビの電源を入れた時、そこに映し出されたのは、変わり果てた福島原発の姿。揺れへの不安は、わが子と自分の被曝への危機感に変わった。

理解を示してもらえないのは、夫だけではない。

「本当に避難するほどのことなのか、と良く言われる。首都圏は安全だというイメージは、なかなか崩れないものですね」

熊本に来たことで、喉の痛みや頭痛は治まった。貯金を取り崩しながらの生活だが、何より辛いのが、周囲から理解を得られないことによるストレスだという。

九州から、夫の決断を待つFさん。

「夫には、仕事を辞めてでも熊本に来てほしい」

(了)