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穴と橋とあれやらこれやら

初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

先日、訪問させていただいている高橋みさ子さんのブログで、このような記事が上がっていた。リブログ許可をいただいたので、まずはぜひこちらの記事をご覧あれ。

 

 

この岡山臨港鉄道には、わたくし乗り鉄時代に乗ったことがあった。なんか気になって、散り散りになった写真やらなんやら、引っ張り出してきて関連の品を集めてみたので、ここに記事にしておく。改めて高橋みさ子さん、いいきっかけをいただきましてありがとうございました。

 

 

 

さて、改めて当時の記録を紐解いてみたところ、わたくし1984(昭和59)年9月16日にこの鉄道を訪ねていた。同年の12月30日をもって廃線となっていることから、その前に、ということで訪ねたものと思われる。

 

当日は、まず岡山電気軌道を完乗した後、清輝橋線の終点である清輝橋駅から国鉄宇野線・大元駅まで歩いたようだ。所要時間はおよそ20分。「途中にローソンがあった」とか、まあ細かくメモを書いてる(笑)。

 

 

 

 

つうわけで、ここ大元駅が

岡山臨港鉄道の起点であった。

 

 

 

 

 

古き良き風情の当時の駅舎だが、ストビューで現在のほぼ同アングル(たぶん)を見てみると…

思いっきり高架化されていて、面影はナッシン・アット・オール(笑)。

 

 

 

 

 

当日購入した大元駅の入場券がこちら。

硬券は一度印刷してしまうと修正がきかないため、こういう料金変更のスタンプはよく見られたものだ。

 

 

 

 

 

さて、それではさっそく、岡山臨港鉄道の車両をどうぞ。

キハ7002。銘板があったのだろう、当時「S31新潟鉄工所製」とメモしている。

 

 

 

 

 

側面に取り付けられていたサボ。

「大元ー岡南元町」と。

 

車内の様子が少しだけ写り込んでいるが、ビニール張りのクロスシートだったようだ。

 

 

 

 

 

この車両の特徴は、なんといってもこれ。

単行運転できるように、後部に無理くり作られた運転台。ぶっさいくだが、これがまた憎めない感じで(笑)。

 

ちなみに、突っ込み式のホームで気づかれたかもしれないが、岡南元町へはこっちが先頭となる。いや、マヌケよなあやっぱり(笑)。

 

 

 

 

 

始発である大元駅の駅名標。

次は、こうなんしんぼ。高橋みさ子さんが記事にされたとおり、今も駅跡が保存されているところだ。

 

 

 

 

 

その岡南新保の駅名標も撮っていた。

みさ子さんの記事で紹介されている現在の駅跡写真で、ホーム背後に同じような植え込みが写っている。もしかして、当時と同じ植栽がずっと維持されているんだろうか?

 

しかし、駅名標設置場所が謎だ。なぜに植え込みの背後?

 

 

 

ここから岡南泉田、岡南福田、並木町と続いていたのだが、それらの駅名標は撮らなかった(撮れなかった?)とみえる。できる限り各駅の駅名標を撮ってた時期でもあったはずなのだけど、もはや理由は一切記憶なし…。

 

当時のメモでは「岡南泉田~岡南福田の大カーブが撮影に良さそう」とか書いてる。

改めて今廃線跡を地図で確認してみると、確かに大きなカーブを描いているが、市街地のど真ん中。当時は周辺に何もなかったのだろうが、さすがに38年(本記事執筆時)の歳月の流れを感じるなあ…。

 

 

 

 

 

で、終点の

岡南元町、駅名標。

 

 

 

 

 

上の写真をよく見ると、背後に「岡山市立福島小学校校舎増築~」と書かれた看板が見える。

 

これはもしかして…と、またまたストビューで調べてみたら…

あった!

 

特徴的な校舎屋上の塔?でそれとわかる。手前側がこの時の増築で建てられた校舎かな?

 

上のストビューをぐりぐりしていただいても、ここがかつての駅跡だなんて、絶対にわからないだろうな。この写真は貴重なものになった。

 

 

 

 

 

駅舎の写真などが見つからないので、元から駅舎のないホームのみの駅だったのかと思われる。記録によると、大元発11時41分で岡南元町着11時55分、12時16分に折り返して大元着12時30分と折り返し時間に余裕もあったし、あれば絶対に撮ってたはずなので。

 

ただ…気になるのは、この駅についてこれも当時のメモで「もうすぐこの線がなくなるので無人化されていた」と書いていること。無人化ということは、駅舎や出札窓口などがあった、ともとれる。うわ~、どうだったんだろうか。まさかの駅舎撮り忘れか?昔からうっかりさんだったか?

 

 

 

 

 

折り返して大元へ戻り、駅員さんにお願いしてその時の往復切符をいただいた…ようだ。

当時のメモでも「駅員さんがいい人できっぷをくれた」とか書いてる(笑)。

 

しかしこの切符、けっこう貴重じゃないか。全駅名と運賃が書いてあって、社名も入っていて。

 

 

わかりにくいだろうが、発着駅として大元と岡南元町に、日付として9と10と6に、運賃として120円に、それぞれパンチが入っている。社内で車掌さんから購入したもので、あの熟練の手さばきで狙いすまして小さなマスに穴をあける技術に、惚れ惚れしたものだった。

これはもちろんここだけじゃなく国鉄や他の私鉄も含め、あの頃の鉄道の風物詩。今では失われた技術だと言えるかも。

 

 

 

 

 

つうわけで、今回の【追憶】シリーズ(シリーズだったのか?)は、高橋みさ子さんからのインスピレーションで岡山臨港鉄道をお送りした。最後にもう一度御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 

 

とりあえず今回も感じたが、当時の自分のメモ、記録として優秀過ぎる(笑)。

 

 

 

 

 

【2】より続く。

 

 

 

ポータル右側を登っております…ってことで、

何をしてるかというと、もちろん反対側を見に行こうとしている。

 

ならば現道から回り込めば?ってところだが、この時にはそういう頭はなかった。反対側の残存情報と登りやすそうな右側を見ると、自然に登ってました、的な。

 

 

 

 

 

少し登ると、

このような石積み土留めが現れ、

 

 

 

 

 

徐々に道が浮かび上がってきた。

これは、隧道ができる前の山越え道で、通称「朝鮮人街道」(江戸時代に朝鮮通信使が江戸までの往来にこの道を使ったことによる)の一部である。

 

 

今昔マップも貼っておくのでご覧あれ。

 

余談だが、アメブロに今昔マップを地図の状態で貼っている方、どうやっているんだろう。HTML表示にして埋め込みURLを貼り付けたら「禁止タグが含まれているから修正しろ」的な表示が出て、どう直しても表示されないのだが…。なのでしかたなく、このようなリンクURLでの載せ方しかできなくて。わたくしがアホなだけ?やり方のわかる方、ご教示願いたいです~。

 

 

 

 

 

さらに詰めていくと、このような

ステキな掘割が。これは感動した。

 

もういっちょ感動したのが、ここから左手前方向奥に見つけたもの。

 

 

 

 

 

これなんだが、

「八幡宮常夜燈」と刻まれた石柱。

 

常夜灯っぽさは全然ないのだが、どうなってたんだろう。あるいは常夜灯の跡地的なことを示す石柱なのか?そもそも八幡宮ってどこの八幡宮だ?

 

 

 

 

 

いつのものかと見てみたら、

「嘉永七季(年)」の文字が。

 

 

 

 

 

でも他の面もよく見ると、

「明治十四年」「六月」「再發起人」といった文字が読み取れる(たぶん)ので、嘉永七年建立の石柱が失われたか損壊したかで、明治十四年に再建した?

 

でも、嘉永七年って1854年、明治十四年は1881年。江戸時代から明治時代へ、この27年の間に我が国に起こった激動を考えると、感慨深いものがあるなあ。

 

ちなみに佐和山隧道の建造は、以前書いた通り1924(大正十三)年。この石柱から比べればまだ若輩者だが、すでに鬼籍に入ってしまっている。

 

 

 

 

 

掘割は、その姿をよく留めていた。

そういえば先人の記録で、この掘割周辺に「官地界」と刻まれた標柱を見つけたとあったのだが、わたくしは気づけなかった。

 

 

 

 

 

さて、こっからはなぜかあまり写真を撮ってなかった。

 

 

 

掘割を後にしてしばし、隧道反対側の正確な位置やアプローチは知らなかったが、およその見当をつけ、朝鮮人街道を外れた。

 

そして、

現道の隧道を抜けてきた国道8号上を見下ろし。

 

写真中央あたり、国道から右に滑らかに分岐していく道が、かつての朝鮮人街道をトレースする滋賀県道239号。てことは、あの道から手前に向けての延長線上に隧道が眠っているはず。

 

 

 

 

 

…ってことで、さらにガサガサと斜面を降りていくと…

あった。

 

竹藪に埋もれた、煉瓦の壁。あれは埋められたポータルの最上部、パラペット部分に違いない!

 

 

 

 

 

降りてみたら、ビンゴ!

もっと苦労するかと思っていたが、案外あっさり見つけられた佐和山隧道・鳥居本側(東側)ポータル。

 

 

 

 

 

なにしろ、扁額が

こんな目前に!

 

まあ目前でじっくり見たところで、なんて書かれてるのかわからなかったのだが…(笑)。

 

 

 

 

 

上の写真手前側には、

揮毫者のものと思しき落款があった。これはなかなか間近で見られるものじゃない。…まあ、さっぱり判読できないことには変わりないんだが。

 

 

 

 

 

扁額向かって左あたりで、

パラペットにはでっかいクラックが。状態は良くない。

 

埋められてからのものか、こうした変状によって現隧道に切り替えられたのか…。

 

 

ちょうど帯石から上が露出している感じなので、本気で掘り返せば再貫通も可能かもしれない(実際にちょっと誰かが掘り返した痕跡も)。けど、そうしたことはやめておくべきと個人的には考える。このまま寝かしておいてあげようよ、と。やったところであのド水没なんだし。

 

 

 

 

 

なんか色々と写真は撮ったのだが、似たり寄ったり&使い物にならないものも多く、割愛。

 

堪能した。

扁額にタッチして撤収。

 

 

 

 

 

あの廃車群あたりで、

行きには気づかなかった赤い実を見つけた。南天に似てるけど、違うんだろうな。

 

 

 

 

 

最後に、現道の佐和山隧道についてもご紹介しておこう。

こちらが、彦根側(西側)。

 

 

 

 

判読しづらいだろうが、

「昭和参拾(たぶん)年参月竣功」とある。これまたすでにけっこうな古参である。

 

 

 

 

 

で、こちらが鳥居本側(東側)。

西側では離れていた佐和山歩道トンネル(1994年11月竣功)と並列している。

 

今回ご紹介した旧隧道の東側ポータルは、歩行者トンネルの直上あたりに位置している。どっから行くのか?まあそれは各自で見つけていただいて…(笑)。

 

 

老婆心ながら…。上の写真の撮影時期は9月初旬だが、わたくしの横断した斜面はとんでもないマント群落の海、そしてポータル付近もおぞましい激藪(&竹藪)となっているのがわかる。訪問されるには冬季一択、とだけ忠告しておこう。

 

 

 

 

以上で、初訪問時の一部始終は完結。ブレイクを挟んで、それぞれ思い出深い二度目、三度目の訪問も記事にしていく。

 

 

 

【1】より続く。

 

 

 

さて、では…

洞内へ、おもむろに…。

 

一見して水没しているのは明らか。この「陸地」も、すぐ先で尽きることは肉眼でも見えていた。

 

 

 

 

 

上の写真でも色鮮やかに認識できる、

ポータルを一周する大きなクラック。

 

これはよくない兆候だ。これが拡がり、いつの日かポータルの倒壊/崩落を引き起こす。

 

 

 

 

 

そしてこれが、「陸地」の果てからの絶望的な景。

長靴ではとうてい突破不可能な水深。よってここが到達可能な最深部ということに。

 

ウェーダー着用でこの奥へと進軍した猛者たちを知っている(うち女性1名含む)。ウェーダーを入手した今ならば、わたくしもこの奥へのチャレンジが可能だ。けど気は進まない。正直独りじゃ怖い(笑)。

 

 

 

 

 

ここまでの写真でもわかるように、

洞内の煉瓦は白華現象が顕著。つうか天井部…なんか膨らんでない?(大汗

 

気のせいかな…。

 

 

 

 

 

陸地の果てからの振り返り。

一見、水路隧道みたいだ。

 

 

 

 

 

同地点での、

フラッシュオン・ヴァージョン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユンボでも持ち込めば排水工事ができそうだが、

国道8号やその下の住宅地まで水が流れていくかも(笑)。

 

万が一そんなことになったら怒られるだけじゃ済まないだろう。やるなよ、ゼッタイ(笑)。

 

 

 

 

 

脱出。

 

 

 

そしてー。

ここをこんな目前に見ております。

 

 

 

 

 

ハイ、さようで。

ポータル右側を登っております。

 

 

 

 

 

【3】に続く。

 

 

今宵から何回かに分けてご紹介するのは、土木遺産好き、廃モノ好き、そして心霊スポット好きな野郎どもにもつとに有名な、初代・佐和山隧道。我がホーム・滋賀県が誇る、有名物件である。

 

 

いくら拙ブログがマイナー志向であるとはいえ、県内随一の有名物件であるこれをいつまでスルーし続けるか、というモヤモヤがずっとあった。それを言うなら他にもいっぱいあるのだが、さすがにせめてホームの必須物件くらいはちゃんと記事にしておかんと、と、ようやく重い腰を上げた次第。

 

 

 

今回はまず、初訪問となった2012年1月3日の記録から。この日のネタで記事にしているのは、梅ヶ原南架道橋(仮)宇曽川橋梁のみ。

 

 

 

 

つうわけで、まずはこれ。

こちらも有名な、10年前はまだまだきれいだったこの空き家。現在ではおぞましいことになってるんだろうか?

 

現在地はこちら国道8号・佐和山隧道の先代隧道を目指すわけである。

 

 

 

 

 

空き家の前を通り過ぎ、広場的なスペースのどん詰まり。

ここが入口である。

 

ちなみに、ここまではこの時点で過去二度ほど来ていて、いずれもこの先のぬかるみに敗走していた。まだ長靴さえも持ってなかったごくごく初期のこと。懐かしい…。

 

 

 

 

 

ぬかるみゾーンに入ってすぐに現れるのが、【前回】ご紹介した草ヒロの群れ。

真冬だったこの時にはかなりしっかり見えていたが、夏場なんてもう、ほぼグリーンヘルに埋もれて見えない。かなりおぞましい廃道だ、ここは。

 

 

 

 

 

そんな草ヒロに持っていかれて見落としがちなのだが、

反対側の路肩は、このような石積みの擁壁で護られている。

 

おそらくは、草ヒロに隠れているものの、両側に同様のものがあるのではと思われる。

 

 

 

 

 

で、草ヒロから視線を引きはがして行く手に向き直ると、

すでにこのように「見られて」いてビビった。

 

これが、初代佐和山隧道・西側坑口。

極めて見通し不良な写真で申し訳ないのだが、ここのポータルを障害物のない状態で撮った写真は今後連載の中でご紹介するので、今はご勘弁を。とりあえずは、三度目の正直での到達だけに、念願かなって嬉しかった。

 

 

 

 

 

さて、改めて。

 

この佐和山隧道は、稀代の「隧道アーティスト」・村田鶴(むらた・かく)が設計したもので、1924(大正13)年の竣功。村田が手掛けた最初の「作品」である横山隧道が1923(大正12)年の竣功であり、この二洞はほぼ兄弟といっても差し支えない統一感のあるデザインとなっている。

 

 

 

 

 

その横山隧道は、

このようなお姿。残念ながら現在は封鎖されてしまってるが…。

 

 

 

 

 

対して佐和山隧道だが、このカット一枚で

意匠の同一性伝わるものはあると思うが、いかが?

 

今回真剣に見比べてみて驚いたのが、隧道上からの排水溝の位置まで同じってこと。排水溝と笠石の間にあるピラスターの切石の数が、いずれも七つ。ほぼ間違いなく、図面を共有してるんじゃないか、というレベルだ。

 

 

 

 

 

他にも比較カットをちょこっと。

 

これ、佐和山隧道。

 

 

これ、横山隧道。

 

 

 

もういっちょ、これ、佐和山隧道。

 

 

で、これ、横山隧道。

まあ、いずれもちょっと角度が違うけども、「ほぼ同じ」であることはお分かりいただけたかと思う。

 

 

 

 

 

だんだんわからんくなってきた(笑)。これは、

佐和山隧道の扁額。いわゆる篆書体、一番手強いやつである。「門」以外はもうさっぱり。

 

 

 

 

 

さて、では…

おもむろに…。

 

 

 

 

【2】に続く。

 

 

 

わかる人は、一見してわかるはず。

 

 

 

 

 

 

 

 

関西圏廃モノ同好者の間では超有名なこれらの個体だが、季節によって見え方が違うから、見ても気づかなかったりもするかな?

 

 

 

 

まあこれを前フリとして、ついにここらでやっときましょう~。

 

 

 

 

【1】に続く。