2013年3月8日、第四次宮城県探索。この日のネタで記事にしてきたのは、旗立トンネル、天斧巌上の無名橋、宮下橋、日和橋、深沼橋。今宵ご紹介するのは、この日最初に訪ねた物件。
タメなしで、ドン。
なかなか、堂々たるお姿でありましょう?
仙台市内を大きく蛇行する広瀬川に架かる橋。現在地はコチラ。
この親柱とか。
上部に火袋があるが、今も夜には点灯してるんだろうな。
お名前は、
「靈屋橋」。「霊」は旧字が用いられている。
で、その読み方が、
「おたまやばし」。
霊を「おたま」と読ませる、これは非常に日本的な、好きな名前。
上流右岸側からのサイドアングル。
コンクリート開腹アーチ橋である。
この橋は当てずっぽうで出会ったわけではなく、仙台市内の土木遺産橋梁を調べて来たのだった。ちなみに土木学会選近代土木遺産Bランク。記事の最後に詳しく書く。
同じく右岸下流側から。
うむ、アーチ橋ってやっぱいいですな(実際のところなんでも好きなヤツ)。
まあコンクリアーチの場合、
真下から見ると、ちょっと締まらないんだが(個人の感想です)。ソリッドリブアーチだったらいいけどな~。
上路アーチの場合どうしても見てしまうここ。
可能であれば、あそこにも入る。まあさすがに街中でスーツではやらないが(笑)。
で、橋上。
束柱には二種類あって、
親柱と同じタイプのこういうのと、
もう一種類は
擬宝珠…じゃないな、似てるけど。そんなタイプのやつ。
で、渡りまして
東側より。
こちらも向かって右の親柱はお名前だったが、その外側側面を覗きこむと…
あった!お誕生日。「昭和十年四月竣功」。
土木遺産指定されているってことは当然戦前の橋だとわかってはいたが、それでもちゃんと銘板があると嬉しい。
で、左側の親柱は読み方だったのだが、こちらの袖高欄に
情報ぎっっしりな銘板があったのだった。
(今気づいたけど、束柱のもうひとバージョン、袖高欄の柱と似せてあるのか)
それがコチラなんだが…
スニッ●ーズなみにギッシリ(笑)。
到底読めないと思うので、非常に気が進まないが(爆)書き起こしてみる。
靈屋橋沿革概要
本橋は藩祖伊達正宗御靈廟の下に通ずるに依りて此の名あり 往昔は小舟に依り後猶(なお)粗雑なる木橋を架せるに過ぎず改築の要多かりしが偶(たまたま)明治三十四年陸軍東北大演習の擧(きょ)あり
聖上の御統監に當(あた)り藩祖の位階追陞(ついしょう)の御沙汰あり勅使御差遣のことあるに際し僅(わずか)に片板の假橋なりしは市民の恐懼(きょうく)措(お)く能(あた)はざるところにして益改築の要を唱ふるもの多きを加え就中岡濯氏の如き「請宮城縣知事架橋靈廟橋書」を呈し世論のある所を提唱せり
後地方有志の援助により本市は大正五年木造吊橋を架設し稍(やや)舊(きゅう)態を改むるに至りしも材齢既に二十を算し幅員狭隘態様も亦(また)時運に伴はざるものあり
時恰(あたか)も藩祖三百年祭に會せるを以て之が記念事業をも兼ね昭和九年度一般労働者失業應急事業として仝年八月改築に着手し仝十月四月竣功したるなり
記
一、構造 鐡筋混凝土拱橋 橋長六十米六幅員九米〇九
二、工事費 六萬参千六百拾五圓六十五銭
三、労働者延人員 貮萬四千百参拾七人
四、工事日數 貮百四拾四日 自昭和九年八月十六日 至昭和十年四月十六日
昭和十年四月 仙薹市役所
つ か れ た (笑)
つうわけで、伊達正宗公の霊廟下に通じることからこの名前なんですな。右岸側の住所も「霊屋下」だし。
文脈上、聖上ってやっぱ明治天皇を指すんよねきっと。天皇の勅使が来るのに、こんな粗末な橋じゃ市民の恥だとか、リアルな経緯が活き活きと綴られていて面白い。
これだけ詳しく沿革が書かれているっていう情報量もさることながら、改行なし字間なしのギッシリ具合は凄いなと。陰刻じゃなくて陽刻なので、判読しやすいのが救いですな(笑)。
個人的にはなかなか見られない「鐡筋混凝土」に萌え(笑)。皆さま読めますよね?
以上、疲れたので終わり(笑)。