先日の伊勢カブさんの記事で知った悲報により、急きょ(すでに遅れてるけど)この隧道を採り上げることにした。いわゆる追悼記事、であります。
2009年11月15日、志摩半島の西半分を中心に徘徊した第三次三重県遠征、その最後。
時刻は16:10。
ここは三重県道22号伊勢南島線・新野見坂トンネル南側から旧道に入ったところ。
そうそう、旧道は今も進入できるようだ…2018年6月時点では。
当時からこんな感じで
寂れた感じではあったが、一部こんなセンターラインも残っていた。
そんな旧道を進むこと6分…
出ました!野見坂隧道・南伊勢側坑口。
堂々たる、煉瓦隧道。東紀州の正統派ですな~。
扁額。
「道隧坂見野」。
右書きの扁額。これまた堂々たる逸品ですな。
しかし、このご面相は…。
先ほど、「東紀州の正統派」と書いた。どういう意味かというと…。
この隧道のビジュアル…すなわち「帯石とピラスターがない煉瓦ポータルに盾状迫石を用いたアーチ環」というフォーマットは、長島(明治44年)、海野(大正3年)、道瀬(大正4年)、三浦(大正6年)、相賀(大正5年)、尾鷲(大正5年)といった東熊野街道筋の古洞たちと瓜二つなんである。
これは相賀隧道だが、どうでしょう?クリソツでしょ?
ならば、これら東熊野街道筋の隧道群と同時期に建造されたのかと思いきや、実はこの野見坂隧道、昭和5年建造なんである。
これはおおいに謎。もはや完全にコンクリートが主流となっていたこの時期に、なぜ煉瓦を用いたポータルが誕生したのだろうか?
そのあたりに触れているかもしれなかったのが、この
手前にあった隧道紀念碑。
だが当時のわたくし、ろくすっぽ内容も確認せず。
そもそも建造年も時代性からの特異性も、後知恵に過ぎず。ここを訪ねた当日は、単に「東熊野街道筋の隧道に似てるな~」ってだけだった。
碑の近くには、
このような祠。
これまたろくすっぽ見ず。いやはやなんとも…。
さて、それでは…
入洞の儀(笑)。
限られた隧道でしかやらないこの撮り方。隧道のサイズ感がよくわかるし、なにより記念になる。この隧道が閉じられた今、これも貴重なショットになった。
おもむろに入洞。
洞内の煉瓦は
かなり白華が目立つところもあった。
真ん中あたりは、
素掘りのモルタル固め。
長い、そしてデカイ隧道。ちなみにそのスペックは、
延長390m、幅員4.2m 有効高3.6mとのこと。
抜けまして~。
度会側坑口。
なんか、こっちはワッサ~としてるな…。
扁額も含め、
ポータルの様式は同じなようだった。
鉄板の構図で。
あ~、結局この日が最初で最後になってしまったな~。
最後にちゃんと出しておこう。
野見坂隧道にも、ほど良い眠りを。88年間の現役生活、お疲れ様でございました。
以上、完結。