寒き良き夜。
「あのね、本当はスーパーに行こうと思ったんだけど、…寒くて。」
と、精一杯のしおらしい声で、私は言った。
「さみーな。何か食いに行くか。」と、彼が電話口で少し笑ったので、
私はほっとして、「すみません。」と冗談めかして謝った。
出先から電車で直帰してきた彼は、
自転車も、車の鍵も、会社に置いてきていた。
だから私たちは、歩いて近所の中華料理屋さんに行った。
昔ながらの狭いお店には、どんなに忙しくても、
お客には笑顔を見せる、素敵なおばさんが居た。
甘酢の肉団子がとても美味しかった。
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寒い、寒いと言っては、彼の腕に絡みついた。
本当に寒かった。
身を寄せる恋人がいる、というのは幸福なことだ。
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「最近、調子悪いの?」
と、彼が訊いた。
彼は、時々私の日記を読む。
「悪くない。戸惑ってるだけだよ。」と、前を向いたまま言った。
「すごく満たされてるけど、これでいいのかな、って思うだけ。」
シンプルな言葉でも、私が求めるだけの意味を、
彼はきちんと酌んでくれる。
「いいんだよ、それで。」
私は、彼の言葉の続きを待った。
「そういうのは、時期がくれば自然に湧き上がるもんだから。
自分でどうこうするもんじゃないから。」
今はそれでいいんだよ、と彼は笑った。
「そうだよね。」と、彼の顔を見て、私も笑った。
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DVDを借りた。
トニー滝谷。
ソファに2人並んで、
「寒いね。」と言って、ベッドから掛け布団を持ってきた。
名古屋にあった彼の部屋に、二度目に行った時。
同じ毛布をかぶってテレビに向かった。
私はその時を思い出して、「懐かしいね。」と言ったけれど、
彼は、覚えていなかった。
あの時、私はすごくどきどきしていたのに。
悲しかったから、説明した。
観てたテレビ番組とか、その時の台詞とか。
「俺にそんな勇気があったとはな。」
と、彼が、少し恥ずかしそうに言うので、
私はいっぺんに幸せになってしまった。
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今日もこの人と眠れるなんて嬉しい。
私は毎晩、そう思う。
それは奇跡的なことだけれど、
本当に、毎晩。同じだけ感動する。
今日も一緒に眠れるなんて嬉しい。
もう、一人には戻れないよ。
ご結婚おめでとうございます。
いつからか、紀宮様が好きだった。
昔は、垢抜けない大人しい女の人のように見えた。
幼い私は、「皇室の人って可愛くないね。」と、
暴言を吐いては、おばあちゃんを困らせた。
私が皇室になんの関心もなく、歳を重ねる間に、紀宮様は変わった。
変わった、というよりも。彼女もまた、歳を重ねたということ。
気品。その存在だけで、人は美しくなるのだと知った。
紀宮様は、ほんとうに綺麗で、涙が出そうになる。
微笑みも仕草も。
その穏やかさは、とても本当とは思えない。
彼女が民間人になるのは、少し悲しい。
どうか。
あの凪いだ空気を、
汚す世ではありませんように。
ただ、願おう。
かつては私たちの象徴とされた、
長閑でたおやかな笑顔の、
彼女の幸せを。
褪せた短冊。幸せの定義。
「幸せとは、欲望が停止し、苦痛が消滅した負の状態である。」
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私が、ここのところ感じているのは、こういう事なのだと思う。
それでもいい、私はそれがいい、と。
何度も肯定を繰り返している。
今も。
だけど、この言葉は、ある意味では真理だと思う。
私は今、負の状態かもしれない。
昔、似たような気持ちを、感じたことがある。
満たされて、立ち尽くしていた。
向かう先を失って、ただ、立っていた。
だって、ここが目指した場所だから、と。
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中学3年の、1学期の始め。
クラスの全員に、画用紙を切って作った短冊が配られた。
「今年の目標を書きなさい。」と、先生が言った。
色とりどりの紙の中から、私は濃いピンクの紙を選んで、
それから、茶色の、先の太いペンで書いた。
目標。というよりも、それは夢に近かった。
「日本一をとる!」
その時の私はきっと、
大きな夢を、言葉にするだけで誇らしかった。
黒板の上に、並んで貼られたその紙を眺めては、
その響きの強さに憧れた。
憧れて、走り続けた。
あの夏の日に、その場所にたどり着くまでは。
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思い焦がれた、夢を叶えた。
幾度となく、思い描いた、頂点から見えるもの。
あの瞬間の、感動は忘れないだろう。
達成感も、充実感も。優勝旗の重みも。
確かにそこが、私の目指した場所だった。
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夏が終わって、秋が来て。
雪が降り始めて、制服が紺色の長袖に変わっても。
黒板の上には、相変わらず、
「日本一をとる!」と、元気のいい私の字があった。
クラスが受験ムードになっていく中、
私は、ぼーっとその短冊を眺めていた。
高校は、スポーツ推薦で決まっていた。
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そう。
あの時も、こんな風だった。
全国優勝という栄光を手にして、高校も決まって。
それから恋愛も順調だった。
「私は幸せだ。」と、
この言葉どおりに、15歳の私は思ったんだ。
覚えている。廊下にもたれて、友達と話しながら。
不安なことなどなかった。
満たされている、と思った。
それから、卒業間近の作文に、私はこう書いた。
「夢は、叶えることよりも、追うことに意味があると思います。」
ひどく浅はかで、傲慢な言葉だと、今は思う。
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でも、今も変わらない。
ただ、走らずに生きることを知っただけ。
欲望が停止し、苦痛が消滅するなんて、望むところだわ、と。
だって。
と、言い訳をしてみる。
だって、あの頃は。
十代の私は、永遠に生きられると思っていたもの。
いつまでだって走っていられると。
でも、そうじゃない。
人は老いるし、いつか死ぬ。
時の流れの速さを、
感じるようになってしまった私。
どこかで、自分を許して。
鞭を打つのを止めないと。
自分に、飴を与える前に、人生が終わってしまう。
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私の、幸せの定義。
「自分で、自分を好きでいられること。」
この定義づけには自信があったのに。
好きなのかどうか、
本気で迷う日が来るなんて、思わなかった。
裸の休日。
一日中裸で過ごした。
私も、彼も。
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朝起きて、シャワーを浴びた。
私はバスタオルを巻いた恰好のまま出ると、
彼はベッドで本を読んでいた。
私もその横に入って、昨日のつづきの本を読んだ。
―「Fly,Daddy,fly」
もともと彼が持っていた本。
映画化されて、予告編がこの間観たDVDに入っていた。
面白そうだったので、本を読んでみることにした。
そうして、金城一紀ワールドにどっぷりとつかっていった。
私と、それから、
昨日また『ザ・ゾンビーズシリーズ』を買ってきた、私の恋人も。
2人並んで、ベッドで本を読んでいた。
お昼前に「Fly,Daddy,fly」を読み終わって、
「お腹すいた」と、私がうだうだ言っていると、彼がパンを焼いてくれた。
いつもはダブルソフトなのだけれど、
今週は、彼が気まぐれに買った神戸屋の食パン。
耳が甘くてさくさくしていて、とても美味しい。
彼は、自分にコーヒーを、私には紅茶を入れてくれた。
それらは、平日の朝の、私の役割りだ。
こういう、彼の律儀な気遣いが、私たちの円満を支えてくれている。
そう思いながらパンを齧っていると、
彼はにやっとしながら、マーガリンの箱を指差した。
蓋が、開けっ放しになっていた。
「いっつもマーガリンの蓋開けっ放しだよ。」と、
ついこの間、私は彼に小言を言ったばかりだった。
「…あら。」と、私は笑ってごまかしたけれど、
彼は、勝ち誇ったような嬉しそうな顔をしていた。
愛しい愛しい、8歳年上の私の恋人。
それから私は、「SPEED」を読み始めた。
『ザ・ゾンビーズシリーズ』第三弾。
彼は、昨日営業中に本屋に寄って買ったらしい、
「レヴォリューションNo.3」を読んでいた。
本当はこれが第一弾なのだけど、私も彼も、
第二弾「Fly,Daddy,fly」
第三弾「SPEED」
第一弾「レヴォリューションNo.3」
と、スターウォーズ形式で読んでいった。
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夕方、彼はインスタントラーメンを作ってくれた。
「非常食」と言って、私が買っておいた、
サッポロ一番塩ラーメン。
インスタントラーメンの中で、
私はこれが一番美味しいと思う。
私が「SPEED」を読み終えたのは、午後の3時過ぎだった。
さっきまでページをめくっていたはずの彼は、
隣で、静かな鼾をかいていた。
「読み終わったよ?」と言ってキスをしてみても、
なんの反応もなかったので、
私は、少し迷ってから、
彼が読み終わったらしい、
「レヴォリューションNo.3」を手に取った。
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全部読み終わった頃には、外はすっかり日が暮れていた。
金城一紀はページが軽くて、温度がある。
普段は、時間が止まってしまいそうな、
微熱ほどの変化を味わうような本が好きなのだけど、
『ザ・ゾンビーズシリーズ』は、すごく良かった。
「山下」は、あれに似ている。
ノルウェーの森の中の、生真面目な学生。
なんていう仇名だったか、思い出せないけれど。
毎朝ラジオ体操をする、主人公と同じ部屋の男の子。
蛍をくれた…ああ、本当に思い出せない。
つまりは、世界に平和をもたらす、偉大な人たち。
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今日は、一日中、本を読んだだけ。
ご飯は全部、出来うる限りの努力で、
彼が食べさせてくれた。
私は一日中、ベッドでうだうだとしながら、
本を読み続けた。裸で。
明日起きたら、掃除をしよう。
食器を洗って、フローリングを磨こう。
と、こころに決めて。
パジャマを着てから、私は寝ます。
彼はもう寝ています。
グンナイ。
