こんにちは。
前回まではアメブロ 「真の聖書福音と預言」の記事を拝読しましてその感想などを綴らせていただいてきておりましたが「大事な告知」に書かれている通り著者のミカエルさんは情報発信、御活動の場を他へ移されました。移動先でも他では得られない有益な情報を発信して下さってますので、記事内容をよく御確認いただくことを推奨させていただきます。またツイッター(現エックス)をご利用の方はツイッターに関わる警告事項も残して下さってますので記事の当該箇所の御確認を推奨させていただきます。
ところで私の拙い文章ですが、今回特に以下のような方々には、もし宜しければ最後までお付き合いいただければと思う次第です。
・嫌われる勇気に共感する
・筋が通らないこと、曲がったことは嫌いだ
・どうすれば長生きできるのかよりもどのように生きるのかが自分にとっては大事
・自分のためよりも他者のために自己犠牲できるような人を尊敬し自身もそうありたい
・既に聖書を信じて主イエス・キリストを信仰し教会へ通われるキリスト者(クリスチャン)
あと過去記事で綴ったことと重複するところがありますが、記憶を辿りまして、少し自分のことについても触れてみようかと思いました。
さて「悪人」という言葉を耳にして皆様はどのようなことが想像されたり、思い出されたりするでしょうか。「悪人」という題名の映画「善と悪の境界を問うような重厚な物語は、『本当に悪いのは誰なのか?』という問いを読者に突きつけ、第61回毎日出版文化賞と第34回大佛次郎賞をダブル受賞。さらに2008年度本屋大賞第4位に輝き、2010年11月時点で文庫版が210万部を突破するベストセラーとなりました。2010年には妻夫木聡さん主演で映画化され、社会現象となった話題作です。(中略)テーマは「人間の本質は善と悪」とされています。」(引用 ジャケドロ661ブログ「『悪人』吉田修一さんの衝撃作をご紹介|あらすじ・読みどころまとめ」)という日本映画もあったようです。こちらの記事のあらすじで注目したいところは「善と悪の境界を問う」という点です。では映画の題名にもなっている「悪人」という言葉を辞書ではどのように定義しているでしょうか。
あく‐にん【悪人】
心のよくない人。悪事を働く人。悪漢。⇔善人。
引用 コトバンク
「悪事を働く人」を悪人とすることについては誰も否定する人はいないと思います。そしてこの悪事を働くのは辞書にある通り「心のよくない人」であり、それは悪事の根源がその心にあるということになります。心に悪がなければ悪事を働くキッカケがないわけですから悪事を働くことはないと言えます。そこでここで鍵となってくるのは「悪」ということになります。
あく【悪】
[名]
1 わるいこと。人道・法律などに反すること。不道徳・反道徳的なこと。「悪に染まる」「悪の道に走る」「悪の張本ちょうほん」⇔善。
引用 コトバンク
辞書に「法律などに反すること」とあるように、この世での悪の判断基準のひとつに国が定めた「法律」があります。例えば刑法百九十九条の殺人罪は誰も否定することがない悪の代表例だと思います。しかしこの人間が制定した法律が必ずしも完全な善悪の基準にはなり得ないことは誰しもわかることではないでしょうか。それどころか更に悪いことに、多くの日本人が把握していませんが日本では国民にとっては不利益しかない悪法が既にいろいろと施行されています。この悪法については「真の聖書福音と預言」でミカエルさんが度々取り上げて下さってますので該当する記事を検索抽出されて御確認いただきたいのですが、例えば今から九年も前に御指摘警告して下さっている「共謀罪、刑事手続、反キリストと新世界秩序、RAPT教というカルト」の記事を必ず御確認お願いします。私たち国民にとって非常に危険極まりない法律です。この事実が九年も前に書かれて公にされているにも関わらず、今や誰でも簡単にインターネットを利用して検索や情報発信できる世の中にも関わらず、この警告が全く広がらない、いまだに殆どの日本人がこの共謀罪が施行されてしまった危険性を認識していないのは、やはり日本人が異常な状態にあるからだと思います…。まともな考えを持っていればその危険性を他者へ必死に伝えると思うからです。そしてこの悪法を今は政府が適用しないのは、法律の上位である最高法規日本国憲法に違反するから、他国にはない非常に手厚い人権保障があるお陰です。この憲法を変えられてしまえば既に施行済みの数々の悪法により日本は戦前と同じ社会へ逆戻りいたします。いま国の嘘欺瞞と報道機関の意図的な偏向報道、誘導により憲法改正が推し進められようとしていますが、憲法改正の問題点は九条だけではないこと、改正という名の改悪であることをご存知ない方は、ミカエルさんがわかりやすく憲法改正の危険性をまとめて下さっている「改憲問題」を必ず御確認お願い申し上げます。そして御理解いただいた方は情報の拡散をお願い申し上げます。
話しが少し逸れましたが、悪と判断するにあたり法律に反する以外では、上記辞書で「人道に反すること」「不道徳、反道徳的なこと」としてます。人道にしても道徳にしても、書き記した言葉は一字一句誰の目には全く同じでも、その言葉の概念において大枠では同じでも細かいところを比べると必ず想起される内容に個人差の生じること、この一致しない部分があるということが問題になります。故に悪という概念をこれらのような完全に一致することがない概念で定義したままでは、人により何を悪と判断するのかに差が生じ、何をもってして悪人と判断するのかにも各人で違いが生じてしまうこととなります。このようなことから、先の映画の説明のとおり「善と悪の境界を問う」ということになるのでしょうが、そもそもの話し、善悪を明確に分ける境界に相当するものがこの世には本当に存在しないのでしょうか。実は、現代の殆どの人間、聖書を自分で読んで確認したことがない方々がそのように思い込んでいるだけに過ぎず、決して存在しないのではありません。聖書には神様による被造物である私たち人間が読めば確認できるように善悪の判断基準を明確に記されています。創造主であられる唯一真の生ける神様が、万物創造時世の秩序維持のために制定された慈愛と義を礎とした聖なる完全なる法が「神の律法」であり、これらの規定が旧約聖書で一般に「モーセ五書」として分類される文書に収められているのです。聖書を読んだことがない方でも神の律法の一部分であるモーセの十戒という言葉は、その詳細まではご存知ないかもしれませんが、耳にされたことがあるのではないでしょうか。律法の中でも代表的な十の規定ですがその内容は以下の聖句の通りです。十項目が分かりやすいように漢数字を付け加えてあります。
旧約聖書 申命記五章六節から二十一節 新共同訳
一、わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
二、あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
三、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
四、安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。
五、あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。
六、殺してはならない。
七、姦淫してはならない。
八、盗んではならない。
九、隣人に関して偽証してはならない。
十、あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない。」
私が聖書の神様、唯一真の神様で救い主であられる主イエス・キリストを信じ、今日に至るきっかけとなったのは今から七年前の太陽暦二千十九年頃ですが、初めて聖書を手にしたのはその時ではありませんでした。子どもの頃から何度か聖書に触れる機会があり、先ず小学生のころに家族の中でも私だけが近くの教会へ行く機会があり、その流れで私は自分から子ども向けの日曜学校へ通っていた時期がありました。その教会で上記の十戒を箇条書きにしたものに加え、古代ユダヤ人の中で今で言うところの上級国民に該当するユダヤ教のファリサイ派から神の律法の中で最も大事な掟はどれかと問われた際に主イエスがお答えになられた「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイによる福音書 二十二章三十七節から三十九節 新共同訳)の聖句と合わせて文章を印刷した手札を配布されて毎週必ず皆で声を合わせて読み上げてました。この時の習慣により私はモーセの十戒と最も重要な律法を記憶することになりました。なお、この新共同訳の聖句ですが、正しい底本原語に基づくとミカエルさんが無償公開して下さっているこちらの日本語が忠実な翻訳となります。「『あんたの全心で、魂を込めて、理性を尽くして、あんたの神である主を愛するようになる。』これが最も重要で大切な掟や。更に、第二は、それと同じようであり、『あんたの隣人を自分自身のように愛するようになる。』これら二つの掟にすべての律法と預言者たちが掛かってる。」(マタイによる福音書 二十二章三十七節から四十節 引用「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」) 神様がお定めになられた上記の代表的な神の律法であるモーセの十戒を御確認されてどのような印象を持たれるでしょうか。例えば第六条の殺してはならないは日本の法律とも一致し、勿論人としてもこれが悪であることを誰もが納得するところかと思います。では人間の法律には見られない第四条の安息日はいかがでしょうか。私が子どもの頃に覚えた第四条の文言は「安息日を覚えこれを聖とせよ。」というものでした。この言葉からだけではその制定された理由や背景などがわからず、それ故にその正しさが私にはよくわからず、何故守るべき法なのかその意味もわからず、ただ単純に覚えていただけでした。しかし聖書で該当する聖句箇所からその詳細、神様の想いを知りました。また聖書全体を確認して聖書の言わんとすることを把握しました。これにより、全ての人は万物の創造主により造られた人間であり被造物としては皆同じ立場であり、全ての人間が公平、公正に休めるようにという慈愛に基づき真の神様はお定めくださったということがわかりました。この世を創造されたこの世の真の主権者であられるお方が、この世での完全なる秩序として被造物である全ての人間が遵守すべき事柄を法として定めることで、定められた法に該当する事柄を破れば悪と判断され罰を下される対象とすることで、例えばその心の悪い雇用者が労働者に対して、その心の悪い主人が奴隷に対して、全くの休みも与えず働かせ続けるような理不尽な扱いをしてはならないと、人間の(悪の)本質をよくご存知の神様だからこそ神様の義と慈愛からそのように定めてくださったのだと思います。裏を返せば、悪の本質を持つ人間でも神の律法を遵守することで聖なる神様の慈愛と義の御品性に近付くことができるということになります。なおこの安息日については他にももっと重要な意味があります。そのことについては、神の律法と無関係でいられる方は誰一人としておりませんので、ミカエルさんの記事「安息日の重要性とモーセの律法」にて詳細を御確認お願いいたします。
さて、神の律法である安息日とは、万物の創造主であられる唯一真の生ける神様が定められたこの世の秩序維持のための慈愛と義からなる聖なる法のひとつであり、神様により造られたこの世に属する被造物私たち人間全てに適用される遵守すべき法ということはおわかりいただけたでしょうか。そうであるならば、現時点でこの安息日を遵守していない方はこの真の神様から御覧になれば、たとえ聖書について無知、無関心からその律法を知らなくても、現実として正しい守り方をしている方は真のキリスト者とそれを目指す者のみであとは殆どいないと思われますので、遵守しない世界中の人間全員が律法に違反してしまっている状態にある、言い換えると悪である、というのが厳しいことですが事実ということになります。人間の社会でも自分が知らない法律で、もし行ったことがその知らない法律に違反することが判明したならば法律の違反者ということになります。そしてそれは神の律法においても同じ構図であり、人間は他人のことが全てわかるわけではありませんが、完全なる神様の目には露わにならない人間は誰一人として存在しませんので(ヘブライ人への手紙四章十三節参照)、このことにより、今回の記事の表題にした「多くの人が気付かない最も身近な悪人とは」の答えとなるのは、全ての不信仰者、異教徒、聖書の理解を間違えて律法廃止論を正しいと思い込んでしまっているキリスト信仰者ならぬパウロ教信者、当記事をお読み下さっているあなたご自身が、唯一真の神様の目から御判断されれば神の律法に違反する「悪人」の状態にあるという神様の評価になってしまうということです。もしも安息日のことで今ひとつピンとこないという場合でも、十戒にある他の項目をご自分に照らし合わせてみたらいかがでしょうか。自分にはひとつも当てはまらないという方は善悪を知らない乳幼児以外におられないのではないでしょうか。このように悪人にある状態では神様からは決して赦されることがなく、それに伴う神様からの罰からは逃れられません。そのような状況、罰である永遠の地獄行き(地獄についての正しい理解のために「地獄行きを甘く見るな」の御確認を推奨いたします)の状況から唯一救い出して下さるのが神様の御子であられながら、神様のままではなく私たちと同じ人間にまでへりくだって地上へお越しくださった唯一真の救い主であられる主イエス・キリストということです。そして主イエスは私たち人間に以下の通り仰いました。
マタイによる福音書 四章十七節 新共同訳
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
悪と欺瞞に満ちたこの世にお越しくださり、悪と欺瞞の中に生まれた私たち人間は世の悪に倣い神の律法を犯して悪人(即ち罪人)となってしまい、そのような状態にある私たち人間に主イエスが真っ先に仰ったことは上記聖句の通り「悔い改めよ。」ということでした。そして以下のようにも仰って下さいました。
新約聖書 マタイによる福音書 九章十三節 新共同訳
(『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。)わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
↓
新約聖書 マタイによる福音書 同章同節 ミカエルさんによる正しい底本原語に忠実な訳
我は、自分が正しいと思ってる人を招くためやのうて、悔い改めに招くために来たからや。
このように慈愛の神様は、悪人の状態のままで地獄行きとなってしまう私たち人間が真の救い(永遠の平安)に与ることができるように悔い改めに招いて下さいました。変わることのない神様の想いが旧約聖書にも記されており確認することができます。
旧約聖書 エゼキエル書十八章二十一節から二十三節 新共同訳
悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
この悔い改めは、他者があなたの代わりになることもできませんし、あなたが他者の代わりになることもできません。自分自身が悔い改めることによりご自分の生き方やその心が神様の目に適う水準にまで至ることができるのであれば、主イエスの救いにあずかれる可能性を得られます。以下の聖句「彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ」の記述からもわかります。またそうではない者がどのようになるのかも合わせてわかります。そこからわかることはいずれかの選択肢のみで第三の選択肢がないということです…。
旧約聖書 エゼキエル書 十四章十二節から二十三節 新共同訳
主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、
もし、ある国がわたしに対して不信を重ね、罪を犯すなら、わたしは手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ、と主なる神は言われる。
もし、わたしが悪い獣をその国に横行させ、それによって住む人がいなくなり、獣を恐れて通る人がないために国が荒れ廃れるなら、(中略)
もしわたしが剣をその国に送って、『剣よ、この国を行き巡れ』と言って、その国から人も家畜も絶ち滅ぼすなら、(中略)
もしわたしがその国に疫病を送り、わたしの怒りをその上に血と共に注ぎ、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすなら、(中略)
まことに、主なる神はこう言われる。わたしがこの四つの厳しい裁き、すなわち、剣、飢饉、悪い獣、疫病をエルサレムに送り、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすとき、そこに、わずかの者が残されるであろう。息子、娘たちは逃れて救い出され、お前たちの所に出て来る。お前たちは彼らの歩みと行いを見るとき、わたしがエルサレムにくだした災い、わたしがそこに臨ませたすべてのことについて慰められる。お前たちは、彼らの歩みと行いとを見て、それによって慰められ、わたしがそこで行ったすべてのことは、理由なく行ったのではないことを知るようになる」と主なる神は言われる。
旧約聖書 箴言 一章二十二節から三十三節 新共同訳
「いつまで浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち不遜な者は不遜であることを好み愚か者は知ることをいとうのか。立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎわたしの言葉を示そう。
しかし、わたしが呼びかけても拒み手を伸べても意に介せずわたしの勧めをことごとくなおざりにし懲らしめを受け入れないならあなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。恐怖が嵐のように襲い災いがつむじ風のように起こり苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。」
そのときになって彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず捜し求めてもわたしを見いだすことはできない。
彼らは知ることをいとい主を畏れることを選ばずわたしの勧めに従わず懲らしめをすべてないがしろにした。
だから、自分たちの道が結んだ実を食べ自分たちの意見に飽き足りるがよい。浅はかな者は座して死に至り愚か者は無為の内に滅びる。
わたしに聞き従う人は確かな住まいを得災難を恐れることなく平穏に暮らす。
先に記しましたマタイによる福音書四章十七節では主イエスが天の国は近付いたと仰ってます。主イエスがこの世に来臨された当時からもうすぐ二千年近く経とうしており、聖書を読まれたことがない方は既に二千年もの時が過ぎようとしているのに「近付いた」というのはしっくりこないと思われるかもしれません。私たちとは異なり、永遠を生きておられる神様にとっての時の流れがどのようなものかは以下がご参考になるかと思います。
新約聖書 ペトロの手紙二 三章八節、九節 新共同訳
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
上記聖句を踏まえれば、私たち人間にとって二千年とは非常に長い年月かもしれませんが、神様にとっては人間でいうところの二日間に満たない程度の感覚です。そしてこの世が神様により六日間掛けて造られたことは旧約聖書創世記からわかることですが、その天地創造時から今日に至る年月は、一般にはビッグバン仮説に基づく四十六億年が経っているのような嘘欺瞞がまかり通っていますが、本当の人類史は旧約時代の四千年と主イエスの来臨から現代に至る新約時代およそ二千年の合わせて六千年がこの世の本当の年月であり、この六千年がもうすぐ満了して七千年目を迎える直前にあります。
画像引用 唯一の真理である聖書に依拠して「もし世の悪に屈して生きたら」
先に「世界中の人間全員が律法に違反してしまっている状態にある」と書きましたが、この状態は主イエスご自身が再び地上に起こしになる時に「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(新約聖書 ルカによる福音書十八章八節 新共同訳)と仰っている御言葉に通じます。ミカエルさんが過去記事で以下の通り御指摘されてます。
主イエスの「人の子が来て、地上に忠誠を見出だすであろうか。」(ルカ十八章八節拙訳)という御言葉が実現する。これはキリストの再臨がある時代は、主イエスの御言葉を守り、神の律法、掟、戒めを守って神に忠誠を尽くしてる人が稀少で、地上の殆どの人間たちは不信仰、またはにわか信者で忠誠とは言えへん人が多いという予告や。このこともキリストの再臨の前兆と言える。主イエスは信仰を忠誠という意味で用いてるし、実際同じことを示す。神の律法を守らず口先だけの生温い信仰や利益信仰には神への忠誠が無いさかいな。主イエスの教えや律法から外れ、皆が同じような律法違犯の格好、生活様式、行いをしてる多数派に属するなら、信仰(忠誠)があるとは主イエスから認められへんのが分からんのか。
引用 真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」
読み進めることを途中で止めずに本記事にここまでお付き合いくださっている方は聖書に関わる話しはどうやら本当かもしれないとお感じになられたり、本当かもしれないけれど受け入れ難い、自分は受け入れたいけれど周囲の人間との関係性が心配、これまで教会に通っていたけれど聞いたこともない内容だなど、さまざまに複雑な思いを持たれているかもしれませんが、以下にご紹介する聖句をご参考にしていただきまして、神様の憐れみにより与えられたこの機会を逃すことなく速やかに真剣に向き合って本当によくお考えいただきたいです。
旧約聖書 詩編二十五章二十節、二十一節 新共同訳
御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し恥を受けることのないようにしてください。あなたに望みをおき、無垢でまっすぐならそのことがわたしを守ってくれるでしょう。
いのちには二種類、いずれは朽ち果てるはかない肉のいのちと目には見えない永遠に続く霊的ないのち即ち魂があります。あなたにとってより大切ないのちはどちらでしょうか。
旧約聖書 詩編三十四章十八節から二十三節 新共同訳
主は助けを求める人の叫びを聞き苦難から常に彼らを助け出される。
主は打ち砕かれた心に近くいまし悔いる霊を救ってくださる。
主に従う人には災いが重なるが主はそのすべてから救い出し骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。
主に逆らう者は災いに遭えば命を失い主に従う人を憎む者は罪に定められる。
主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は罪に定められることがない。
上記聖句に主が助けてくださるのは、心が打ち砕かれて自分のこれまでの生き方を悔いて主なる神様に従う者、その者の魂を救うということが記されてます。この従う者には災いが重なるとも書かれてますが、その災いについて、先にご紹介しましたエゼキエル書や箴言に記されたような自分自身の罪を改めない者に対する罰ではないこと、勘違いすることのないように注意が必要です。二千年前に来臨された主イエスが以下の通り予告されておりその予告内容は「主に従う人には災いが重なる」と一致しており筋が通るかと思います。また、論理的に考えても悪と欺瞞で満ち溢れているこの世の中で、全く真逆の慈愛と義の聖なる主イエスに従えばそうならざるを得ないという結論が、まともに思考できれば誰にでも簡単に得られる結論ではないでしょうか。
新約聖書 ヨハネによる福音書十五章十八節から二十一節 新共同訳
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
主イエスの預言(予告)されたことが、主イエスに聞き従う者へ実際に起こっていることが以下の手紙の記録からわかります。
新約聖書 ヘブライ人への手紙 十一章三十五節から四十節 新共同訳
女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
主イエスに従い通して神様にその信仰を認められた方々がその時点では約束されたものを手に入れなかったとあります。その理由が、この手紙を受け取る側の者(手紙の読み手)が除かれている状態であることがその理由であるとわかりますが、そのことが以下の黙示録にも記された内容と一致していると私は考えまして筋が通るかと思いますが、いかがでしょうか。
新約聖書 ヨハネの黙示録 六章九節から十一節 新共同訳
小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。
ここで先に申し上げたことを繰り返します。「いのちには二種類、いずれは朽ち果てるはかない肉のいのちと目には見えない永遠に続く霊的ないのち即ち魂があります。あなたにとってより大切ないのちはどちらでしょうか。」また、永遠のいのちのみなもとであられる神様は以下の通り仰せです。
旧約聖書 エレミヤ書 三十章二十節から二十二節 新共同訳
ヤコブの子らは、昔のようになりその集いは、わたしの前に固く立てられる。彼らを苦しめるものにわたしは報いる。ひとりの指導者が彼らの間から治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけてわたしに近づくであろうか、と主は言われる。こうして、あなたたちはわたしの民となりわたしはあなたたちの神となる。
上記の聖句からこちらの聖句が思い起こされます。
新約聖書 マタイによる福音書 十章三十九節
自分の命を得る者は、それを失うだろうが、我がために命を失う者は、それを得るだろう。
引用 真の聖書福音と預言「畏れるべき者」
最近は、「外部の人」が真のキリスト者に楯突く事象を数々目にしてきました。いよいよ、サタンは、にわかキリスト者を聖書の真理から逸らすだけでなく、外部の人を使って真のキリスト者を攻撃するようになってきています。しかし、恐れることはありません。このように、キリスト者とは無関係の「外部の人」から言われる筋合いのないことを言われたり、迫害を受けることは聖書の預言、イエスの御言葉のとおりです。過去記事でも述べましたので復習がてら何度でも読み返していただきたいです。
今後、ますます世の間違った多数決原理の下、異端が数多くなり、彼らは自分たちの思想やローマ教皇の思想が正統と主張し、少数の真理を主張する者が異端扱いされる時がすぐ来ます。即ち、世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る(マタイ24:21)という大艱難を意味します。これは、ローマ教皇が世界を支配したとき、神の民(真のキリスト者)を徹底的に迫害することを指します。ローマ教皇本人のみならず、彼に従うすべての人々が敵となるということです。
しかし、怖がることはありません。むしろ、喜ぶべきことです。以下、イエスの御言葉です。
新約聖書 マタイによる福音書 5章11〜12節
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
このイエスの御言葉を胸に刻んだ過去の殉教者たちは悪に屈することなく、神に従順のまま死んでいったのです。ですから、兄弟たち、イエスを心から信じてください。イエスのために、あらゆる迫害を受けることや死を怖がるようでは、真のキリスト者とは呼べません。臆病者は不信仰の者と同じ扱いです。(ヨハネの黙示録21:8)だから、大胆に聖書の真理を宣べ伝え、それを声高に主張すべきです。何度も言っているとおり、臆病になって傍観者でいると、あなたは真のキリスト者にはなれません。外部の人と一緒に滅びの運命になります。
引用 真の聖書福音と預言「真のキリスト者であるためになすべきこと 2017年05月16日」
先に、今日の信仰に至るきっかけとなったのが二千十九年ごろと書きました。聖書との接点そのものは最初が子どもの頃の教会の日曜学校、次がキリスト教系の学校への進学でした。その時に旧約聖書と新約聖書が一冊になっている聖書を手にすることになりました。この学校では毎朝の礼拝、週に一度の聖書の授業、帰りの会では生徒が聖句を取り上げ感想を述べ合う、聖書の学びを目的とした宿泊行事などがあり、他のキリスト教系の学校がどのような感じかはわかりませんが、聖書の教育にかなり力を注いでいたのではと思えます。ただし、今では明白なことですが、私の通っていたこの学校も御多分に洩れずキリスト教ならぬ「パウロ教」でしたのでやはり神様の愛の側面ばかりが強調されて義に厳しい側面に関しては耳にした覚えがありませんでした(パウロ教についてはミカエルさんのこちらの記事でご紹介されている「「パウロは偽使徒」の動画」を御視聴下さい)。これらの経験が私に、キリスト教はおかしい宗教ではないと認識させ、聖書には間違ったことは書かれていなさそうだという思いを持たせました。でもそれ以降は長い間教会などとの接点を持つこともありませんでした。ただ、手元の聖書の気になった書物はいくつか読んだりしたことがありました。先に取り上げたヘブライ人への手紙やヨハネの黙示録なども読みました。その中の聖句の記述に驚き少し怖さを感じたと記憶するのですが、それ以上はそのことについてこと更に考えることはしませんでしたが、主イエスの迫害予告とヘブライ人の迫害の記述や黙示録の内容については結びつけられて認識させられたように思います。各聖句がなんとなくつながったものの、では何故迫害のような目に遭うのかの理由までは、当時の私には世の嘘欺瞞、悪の現実を全く知らなかったために考えが及ばなかったのです。また黙示録の預言がいつの頃を指すのかも具体的に考えることはしませんでした。人は自分にとって不都合そうな事柄には往々にして回避する傾向があるように思いますが、この時の私はそういうことだったのだろうとも思えます。生きてきた中で全く気付くことがなかったこの世の現実、世の中の嘘欺瞞に気付くことのきっかけになったのは、自身の花粉症対策や身近な人の服薬など根本的解決に至らない薬と西洋医学への疑問、肌荒れの原因とわかった合成洗剤(所謂ボディソープ、シャンプーと呼ばれるものでもその成分が肌を荒らしていた事実)と石鹸の違いや歴史、その他諸々のことなどからいろいろなことへ疑問が生じ、それらについて調べるとまた更なる疑問を感じまた調べて…ということを繰り返して、この世の中がおかしいことばかりであることを感じとるようになっていたように思います。そして私はかつて通った教会という存在や聖書のことを思い出しました。十戒の四条まではその重要性はわからないけれど、少なくとも残りの六項目が守られているならば、この世がここまでおかしくなることはないだろうと思ったからでした。そのような日々の中で、ある日SNSで注目していた方の投稿が流れてきてその内容は聖書が預言の書でありその預言は過去全て百発百中という今までに全く耳にしたことがない聖書解説で大変驚いたのでした。その切り抜き動画の大元を調べた私はこの動画の方の情報発信を検索して片っ端から古い動画から順を追ってくまなく視聴しました。そしてその中で今の信仰へ至るきっかけとなる動画を見ることになりました。それはこの動画で初めて耳にした「携挙」という言葉でした。その動画の説明では、今後起こる聖書の終末預言の内容は人類がこれまでに経験したことがない程の恐ろしい大艱難時代となるが、聖書と主イエス・キリストを今信じさえすれば信じた人はその大艱難にあうことなく天に引き上げられる「携挙」に与れるというものでした。私はこの説明に違和感を感じました。また旧約聖書の内容もこの頃にはざっくり把握していたので、聖書の神様は非常に公平で公正な義なる神様であり、旧約時代の神様が人間に求める義の厳しさや神様を信じる人々が困難にあっていたにも関わらず、現代に生まれたというだけの理由で信じさえすれば、旧約時代の人々とは異なり義の厳しさを求められることもない、困難にもあうことも全くないという…。これらの違和感から携挙について他にはどんな説明があるのだろうかと思い検索をかけたところ、ミカエルさんの「携挙の真実」へ辿り着きました。先にあげました主イエスの予告、ヘブライ人の手紙の迫害の記録や黙示録の記述、ミカエルさんの記事を知る頃には私なりにこの世の嘘欺瞞や性善説の嘘などを理解していたことなどから、ミカエルさんの艱難期前に携挙はなく全てこの時に生きている人間はこの大艱難の中を生きなくてはならないという御説明や他の記事に書かれている内容が聖書の正しい御説明だと判断がつきました。私は聖書以外からも、例えば自然の理などから神様はおられるのだろう、その真の神様についての説明は聖書の記述が正しいと思い、聖書に預言(予告)されている今後起こるということも必ず起こるだろうと思いましたし、聖書に書かれていること即ち神様の御言葉に従うことは神様により造っていただいた被造物として正しいことだとも思いました。でも従うことによりこの先生きる中で自分の身に降りかかるであろうことに、数々の困難によりこんな自分が最後まで従い抜くことができるのだろうかと悩みました。従う道を選べば、例えばマタイによる福音書十章二十一節や三十六節の主イエスの御言葉通り、同居している者の性格から考えても、この社会から今の表面的な平和さえも失われた社会(憲法改悪後に確実に世の状況が悪化すると思われる、そのような社会)になった時には主イエスの御言葉通り高確率で疎まれ、敵対されるようになるだろうと予想しました。また、周囲には味方になってくれる人は当然に皆無だろうなどの思いも浮かびました。ただ、それら以上に私が一番不安に思ったことは果たして自分には信仰の兄弟姉妹ができるだろうかということでした。仮に与えられたとしても信仰の兄弟姉妹を自分が裏切るような者になることが本当にないだろうかなどと思うと、当時ミカエルさんが提供してくださっていた兄弟の集いの場へ安易に参加申請することは憚られました。その一方で過去に与えられた聖書に関わる数々の経験、身近な者の死から何故それは自分ではなく何故私が生かされているのだろうかなどいろいろ考えさせられてこれは確実にお招きいただいているのだろう、この真の神様のお招きに従い、神様に従って生きるのが被造物として当然のことだろうとも思いました。こうして、私は同居している者へ自分の信仰のことで不都合が生じる場合、出て行けと言われれば私は信仰を選ぶのでそれに従いますと宣言して、親族へも伝えて、集いの場へ参加申請しようと決意ができたのは、ミカエルさんのブログの存在を知ってから半年くらい後のことで、決心に時間を要しました。しかしながら、集いの場の参加について私の申請内容が不十分であったことから御許可をいただくことは結局できませんでした。申請内容が不十分という理由は頭では理解することはできましたがその一方で、私はこの道を歩むにあたり自分の不安が的中して兄弟姉妹が得られなかったとしても、神様から選ばれる、選ばれないに関係なく、被造物として神様に従うことは当然のこと故最後まで歩み通すつもりの決心をしてはいましたが、それでもやはりこの結果で私を言いようもない恐怖に襲われました。聖書を読めば、招かれる者は多いですが招かれただけでその多くの者は選ばれることがないのもまた事実であること、ペトロをはじめとする直弟子たちは主イエスからお招きいただいた時に速やかに従っているそれとは真逆で覚悟を決めるために費やした時間があまりにも長すぎたのだろうかなど、いろいろなことが思い浮かび、気持ちを立て直すにも時間がかかりました。立て直したと思い込んでいるだけで、もしかしたら立て直せてもいないのかもしれません。よくわからないです。そしてこの申請から既に六年以上の月日が過ぎ去ってしまい今に至ります。
新約聖書 マタイによる福音書 十章二十一節、二十二節 新共同訳
兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
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マタイによる福音書 同章二十二節 ミカエルさんによる正しい底本原語に忠実な訳
我が名の故に、あんた方はすべての人に嫌われるだろうが、最期まで耐え忍ぶ者は救われるだろう。
新約聖書 マタイによる福音書 十章三十四節から三十八節
「地上に平和をもたらすために我が来た、と考えるな。平和やのうて、剣をもたらすために来たんや。人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に対して仲違いさせるために来たからや。それ故、人の敵はその家族や。我よりも父、又は母を愛してる者は我に相応しないし、我よりも息子、又は娘を愛してる者も我に相応しない。また、自分の十字架を担わずに我に従う者は、我に相応しない。
引用 真の聖書福音と預言「畏れるべき者」
いま私は六年前に同居人へ約束した通り住まいを出て行かなければならないことになりました。この信仰の道を歩むと決めた時に、もしも私が決心した通りに信仰を保ち続けていられるならば、上記の主イエスの御言葉になる可能性もかなり高いのではないかとも思っていたので、今の時点で住まいから出されることは、家を追い出されるということは世間的な考え方でいえば不幸なことなのだろうと思いますが、全ての人から嫌われる中でそこに身近な同居者が含まれるよりは含まれていない方が多少なりとも辛さは軽減されるように思えますので、私はこのことを神様の憐みからの流れのように捉えてます。
新約聖書 ペトロの手紙一 五章七節、八節 新共同訳
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。身を慎んで目を覚ましていなさい。
新約聖書 マタイによる福音書 六章三十三節、三十四節 新共同訳
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
今回自分の状況のことを少しですが表に出そうと決めたのは、もう自由な時が殆ど残されていませんから、ここまで本記事にお付き合い下さった方が、私の経験をご参考にしていただき、私と同じようなことで思い悩み、残された貴重な時間を無駄に失わないでいただければと考えたからです。聖書にこそ真の希望があるのかもしれないとお感じになられた方の思いが、その方の中で確信になりますことを願っております。
旧約聖書 イザヤ書 五十五章三節、六節から十一節
耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。
最後に、この道を歩むにあたり、主イエスは以下の通り新しい御命令を付け加えられました。
新約聖書 ヨハネによる福音書 十三章十四節 新共同訳
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
新約聖書 ヨハネによる福音書 十五章十二節、十七節 新共同訳
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。
聖書についていろいろな宗教やカルト、いろいろなひとが、いろいろなことを言い広めていますが、永遠であり、不変である真理とは一つしかなく、その他は全て嘘欺瞞になります。この聖書の真理を正しく説かれておられるのはこれまでに当ブログでご紹介してきました「真の聖書福音と預言」の著者であられるミカエルさんだけです。そして主イエスの教えを正しく理解されて忠実に従う方々が集われる教会はミカエルさんが監督なさる教会です。唯一真の父なる神様、唯一真の救い主であられる主イエスがおられるのは真のキリスト者が集まるところのみです。真の神様へ立ち返りたいと思われた方は主イエスの新しい御命令に従うために、ミカエルさんの教会への門を叩いてください。詳細は冒頭でご紹介しましたミカエルさんのアメブロ最後の記事「大事な告知」をよくお読みいただけますようにお願い申し上げます。
長く拙い記事に最後までお付き合いくださりありがとうございました。
主イエスの憐みとお導きがありますようにお祈り申し上げます。

