18歳の時に対人緊張を患ってから精神科医をいっぱい見てきたが、彼らが何故無能な人が多いのかという構造的な論考です。

 

自分でかなりガチに精神医学を学んで思ったのだが、有効な薬はかなり開発されているのが現時点だが、医者はそれを適切に処方できないという現実がある。

 

例えば、うつ状態で病院に来た人がいて、本人の訴えから、うつ状態と診断し抗うつ剤を処方するかもしれないが、単極性うつ症状と単なる気分の落ち込みは、違うのです。

 

ところが、精神科では本人の発言が優先されるので、それが単極性うつなのか、ただの一時的な気分の落ち込みかを区別するのは難しい。ところが、多くの精神科医は、その訴えに対しておそらく抗うつ剤を処方するでしょう。作用が弱い抗うつ薬を出すでしょう。

 

ここで、自分が言いたいのは、彼らはなにも考えていないという事実です。

 

一時的な気分の落ち込みなら、抗うつ剤は処方しては駄目です。ところが、彼らの精神薬に関する感覚は麻痺しているので、抗うつ剤ぐらい処方しても別に害はないだろうぐらいの軽いノリがある。害はそれなりに大きいのだが、頭が悪い医者にはそれが分からない。自分の二人目の主治医も、双極性障害ではない可能性が高いから、ラツーダとバルプロ酸ナトリウムの処方を一時的に停止し、どうなるのか分析してみましょうと自分は提案したが、躁転されたら困るからという理由で拒否された。ただ、それは病院側のリクス管理の視点であって、治療という視点ではない。

 

じゃあ、何故感覚が麻痺するのか?

 

それは精神科では患者の意見しか参考にできません。ところが患者の訴えから薬が効いたのか効いてないのかを聞き出すのは、一種の才能が必要で、医学部でただ勉強だけしてきた人間にはどうやってその情報を得ればいいのか全くわからないのでしょう。

 

最初の主治医は、そもそも質問をあまりしない。診察は5分以下だ。「調子はどうですか?」って聞かれても、診察まで1時間以上待たされたうつ病患者が、客観的な視点で自分の状態を話せることは期待できない。自分だったら日常生活の細かい動作を絶えず聞いて、その頻度とかから精神的な状態を逆算する。

 

患者から、自分が処方した薬が効いたかどうがを確認できるような精神科医は10人に1人程度でしょう。だから殆どの精神科医はフィードバックがかからないので、永遠にとんでもないレベルのままなのです。だから薬が時間がかからないと効かないって思っていて時間感覚が非常にロングになっている精神科医が多い。パルプロ酸ナトリウムって、1ヶ月で効果がないなら量が合っていないのか、薬がそもそも合っていないのか?って疑うぐらいちゃんと効く薬だと思うのだが、だらだらと3年も投与された。(そもそも躁エピソードも軽躁エピソードも無い自分に投与しても効果なんて分からないんだよね。)

 

こうやって考えると、自分の主治医が3人連続でとんでもなく無能だったのも、そんなにおかしくない。おそらくちゃんと自分の治療に対してフィードバックを得れる精神科医はかなりレアなのでしょう。

 

また、能力が低い人間ほど、自分は果たして医者をやっていて良いのかという自問自答はしません。だから、無能な医者ほど医者をやめないのです。

 

自分が精神科医と向き合って分かったことは、彼らは全く思考しないし、また医学論文さえあんまり読まない。論理的な議論をするとなんか意味不明に怒り出して、扱いに困ること。つまり非常に感情的で、診断はほとんど勘であることですね。何故診断プロトコルとか治療プロトコルがあるのかさえ理解できないレベルにいる。二人目の主治医は基本的な処方を間違えたので、薬の使用法も真面目に読んでいないのでしょう。こうなるともう空いた口が塞がらないのだが、専門的な職業についているアホはいっぱい居るので、よくよく考えるとあんまり不思議ではない。

 

結局、自分が3年間程度苦しんだ何もやる気が起きなくて強い疲労感を感じ座ることも困難という状態は、双極性障害の治療のために処方されていたラツーダとバルプロ酸ナトリウムによるもので、主治医の説得を諦めて、薬を自分でやめた現在は、完全に消えています。

色々と家事をやることがめんどくさいけど、しょうがないと思ったら風呂掃除も料理も出来るという状態、つまり元の状態に戻りました。

 

ただ、恐ろしいのは、自分が精神医学をかなり学ぶ決心をしないで主治医に任せていたら、自分は死ぬまで苦しんだという事実です。おそらく10年以上は延々と苦しんだでしょう。

 

余談ですが、精神的な悩みを妄想で片付けたがる精神科医ってかなり多いのです。彼らは人間のなんかピリッとした空気とか等のちょっと曖昧な非言語的な感覚が全く理解できない人が多く、そういうちょっと言語化しにくい感覚的な説明を彼らにすると統合失調症と強引に診断されます。医学を学ぶ前に人間という生き物を学べって正直思いますね。

 

前のブログで述べたが、診断ミスで処方されていた双極性障害の治療薬の副作用がめちゃくちゃ強く出ていて、あらゆる身体からのシグナルが痛みを感じるほど強く脳内に響く。歯には異常はないのに、白米を食べるだけで軽い拷問レベルである。ドアを開けるだけで手には痛みを感じるし、歩くだけで床との接触が強すぎて疲れちゃう。

 

引っ越しで主治医が変わった時に、双極性障害は誤診ではないのか?という説得をはじめて一年以上医学的な根拠をもとに説得し続けたのだが、理解されず、あんまり理詰めで説得すると怒ってしまった。

 

それから、大きな疑問が生じてきたのだが、医者って高学歴なのに何故こんなに話が通じないんだろう?論理的な議論は、そもそも話し合いのヒートアップを避けるための技術ではないのだろうか?という不思議な問いが次々と浮かんできた。

 

まあ、何もしていないと軽い拷問レベルが24時間で存在しているので、気を紛らわすために色々と考え出した。

精神科医でかなり辟易したが、そもそも医者という人々は、工学博士の視点で見るとかなり不思議な人々だ。

 

そもそも理学博士とか工学博士と医者ってかなり相性が悪い。

我々が知りたいのはただの事象であるし、できれば事実とそれの背景が知りたいだけである。

 

友人が眼科医にかかった時に、急に目が白内障って言われたのか緑内障って言われてのかは忘れたが、ひと悶着あったのだ。言っておくが放射線関係の研究者は、定期的な眼科医の検診は義務だ。

その時に、目の状態が悪いと言われ、前回の検診で異常がなかったので、友人は「そういうドラステックに変化することはあるんですか?」と聞いた。

これは我々なら、ただの頻度を聞いていることが分かるのだが、医者には自分の診断への挑戦って感じるらしく、眼科医は激怒したらしい。

 

一言、「そういうことはたまにはあるよ」とか回答してくれれば我々は、そういうもんなんだって理解してその後は何も聞かないのだが、医者はそもそも理系のマインドで動いていないので、それが全く分からない。

 

だから、自分の意見としては医学は理系から外すべきだと思う。

 

理系であることは、根本的な原理から複雑な現象をどう理解するのか?という学問であり、思考方法であると思うのだが、医者に関しては、かなり文系的な考え方しかしていない。簡単にいえば暗記でありパターン認識である。裁判官とか弁護士の脳の使い方に近いと思う。膨大な知識は所有しているが、人間という一種の複雑なシステムがどういう流れで動いているのか?って視点では精神科医は特に見ていないと思うね。

 

基本的な原理原則から、全く考える能力がなく、薬理学から薬はこのように作用するとかさえ考えることが出来ないのだから、彼らはただの文系的なパターンマッチングでしか考えることが出来ていない。

 

その学問的な思考のベクトルをみると完全に文系だと思うね。

 

 

 

最近は、誤診で処方されていた双極性障害の治療薬の副作用がめちゃくちゃ強く出ていて、あらゆる身体からのシグナルが痛みを感じるほど強く脳内に響く。歯には異常はないのに、白米を食べるだけで軽い拷問レベルである。

引っ越しで主治医が変わった時に、双極性障害は誤診ではないのか?という説得をはじめて一年以上医学的な根拠をもとに説得し続けたのだが、理解されず、あんまり理詰めで説得すると怒ってしまった。

 

それから、大きな疑問が生じてきたのだが、医者って高学歴なのに何故こんなに話が通じないんだろう?論理的な議論は、そもそも話し合いのヒートアップを避けるための技術ではないのだろうか?という不思議な問いが次々と浮かんできた。

 

まあ、何もしていないと軽い拷問レベルが24時間で存在しているので、気を紛らわすために色々と考え出した。

冷静に考えると、高学歴でも驚くほど頭が悪い人がいっぱい居ることに気がついた。そうなると、そもそも精神科医の主治医が大きな診断ミスを行い、次の主治医も全然話が通じないってそんなに不思議なことではない。

 

工学博士でも、専門がアンテナ工学で学位を取った人が、時間が経つとスミスチャートの使い方が出来ない。これは自分からすると驚いてしまうのだが、多分だが、そのからくりはこういうことだろう。

 

自分にとってスミスチャートを理解するということは、世の中にスミスチャートがなかったら、自分がそれに相当するものを作るレベルでの理解であるのだが、一般的な工学博士にとっては、単純に使い方の理解なのだろう。だから、細かいところを忘れたときに自分でゼロベースから作れないから、非常にトンチンカンなことを平気で言い出す。

 

こういう非常に脆弱な知性というのは、世の中に驚いてしまうのだが非常に多いのだ。

 

工学博士号って、かなり取得するのが難しいのだが、そもそも自分でゼロから物事を考えて、その上で、既存の知識体系にそれではだめだろうって反論できる知性というのはかなりレアだ。自分は北大でたまたまそういう知性を持った博士号取得を目指す人たちと議論していたから、博士ってそれが普通だと思っていたが、世の中の工学博士の基準からいえば、相当なオーバースペックのようだ。

 

世の中の工学博士というレベルは、そもそも世の中の基準を疑うことはしないし、自分が何故それを研究するのかってそもそもの動機が希薄な人が圧倒的に多い。

 

高専の博士を見すぎたのかもしれないが、それでも原子力研究所でも、この人は凄い、見ている視点が違う、レベルが違うって思った人がそもそもあんまり居ないんだよ。だからそういうことなんだろう。情報処理能力とか演算能力は圧倒的に優れているが、学問の根幹を作り直すようなことを考える人はあんまり見たことがない。

 

それは何故かっていうと、最初の話に戻るが、スミスチャートを学んだときに自分は偉大な発明だと驚嘆したが、多分他の誰もそんなことは思っていない。ただの便利なツールという理解であり、それに代わる発明をしようとは誰も考えないということなんだと思う。

 

ただ、これに関して全然悲観的ではない。それが世の中なんだよね。だからアインシュタインのような独創的な人はなかなか出てこないという理由でもあるし、そういう人は大抵は組織からはじかれる。

現在の社会は愚かな雰囲気が漂っているが、これの殆どは西洋起源だと思うね。

 

西洋の文明はどういう文明かというと、

 

1) そもそも高度な相互理解ができない社会だったので、共通に使えるフレームワークとして論理的な考えが広まった。

2)人間の行動にそもそも期待できないので、厳密な契約で縛って、ガチガチの法律を適応した。

3)高度な徒弟制度による継承が期待できないので、論理的なマニュアルにより知識を継承せざる負えなかった。

 

 

会議でディベートとか、本当に高い次元でお互いを理解していたら不要だが、そういう次元で理解できていないからディベートしなくてはいけない。そもそも論理的な妥協点って、選択としては最悪なことが多い。本当にエレガントな選択は優れた直感で決まるので、何故それが正しいのかは後でわかることが多い。

 

人間の善意が期待できない社会では、労働も契約でガチガチに縛らないといけないし、一般的な人間だったらそういうことはしないという日本的な流れがない社会では、法律も本当に細かいところまでガチガチに作るしかない。厳密で細かい法律が存在する社会というのは、そこまで厳密に作らないと人間性が低いので社会が動かないという証明である。

 

最大の教育方法は徒弟制であるが、それができない社会では、マニュアルを作るしかない。例えば相対論だって、論文を読めば理解できる。単純な論理ステップしかそこにはない。論理ステップの数が膨大なだけで、アインシュタインが実際に考えていたイメージの1割も論文にはないんだが、そういう最悪な手段でも1割は継承できるわけだ。

 

そういう意味がだんだんと分かってくると、何故、和魂洋才という言葉を明治維新の頃の日本人が残したのかがよく分かる。科学技術は確かに、論理的なマニュアルによる継承を選んだ西洋は強いし、遥かに進歩した。ただ、西洋の精神性は甚だ疑問だったわけだ。

 

自分は日本に生まれ、西洋的な科学技術の教育を受け博士号まで取得したから良く分かるが、こういう論理的なステップでの教育というのは、どんなバカでもある程度のレベルまで持っていけるが、それだけでしかない。教育方法としては最悪である。

 

かなり偏った意見だと思うが、西洋的な思想で人類が滅びかかっているのを見ると、やはり明らかにナンセンスだと言わざるおえない。

 

自分がこのような投稿をする意味は、東洋的な哲学を見直そうという意味である。西洋的な文明はおそらく人間という生物にはあんまりあっていないと思えるのだ。

キリスト教徒とイスラム教徒が平和に座談会している動画を見たんだが、何故日本はキリスト教もイスラム教も普及していないのに社会が平和でモラルがあって上手く動いているのか?本気で不思議がっているのが興味深い。

 

おそらく答えは、一神教である宗教を信じていないし、社会の根幹にそれを据えていないからだと思う。

 

社会を上手く機能させるには、人々に共通の感覚や考えを持たせなければいけないのだが、そういう意味では宗教というのは非常に安直で便利な道具である。宗教以外で共通の感覚や考えを持たせ維持させるのは相当な困難があると思う。だから、世界の殆どの社会では宗教ベースの社会になっていると思う。ところが日本は珍しく宗教が非常に希薄な社会なのだ。だから、理解されない。

 

宗教ベースで、その宗教が一神教だと唯一人の神の存在が非常に攻撃的で排他的な考えの下地になってしまう。これが非常に怖いところである。そういう元々が構造的に持っている毒には、生まれながらに一神教ベースでの教えで育つと気が付けないのか?良く分からないが、彼らの日本を不思議がる意見を聞いていると、その偏りに驚かされる。人間の知性はもっとフラットに考えることが可能の筈なんだがなぁ〜って思ってしまう。

 

これは、古くからの西洋の哲学者もかなりの影響を受けているので、知性と切り離すのは難しいのかもしれない。絶対的な真理がある筈だと疑わない疑いもしない思考は、かなりの問題だと思ってきたが、そういう毒がもう世界中に蔓延しているからね。

 

 

 

 

今はFlutterというクロス開発の環境を学んでいるんだが、これの公式解説サイトが何故か動画が多い。

見る気にならんので、動画のリンクをGeminiに投げて、コードだけ抜き出してもらっている(笑)

そもそもキーワード検索も出来ないので動画にされると最悪である。

 

動画見て学習しろって流行っているが、この手法は、自律的に考えることが出来ない層にしか有効でない。炎上覚悟でいうとかなり偏差値が低い層でしか有効でない。ただ、単純に学習させたというエビデンスが得やすいので、推進派が多い。eラーニングが何故ものすごい学習効率が悪いのに流行っているのか?と同じ理由である。

 

高専で数学の担当になったときに授業を全部解説動画にまとめろって言われてまとめたが、これって意味あるんか?ってかなり疑問だった。本当に頭が良くて自発的に学習できる学生には苦痛でしかないのでは?って思っていた。

 

紙で渡されれば、ざっと全体を見るだけで大まかな考えが把握でき、後はじっくり考えるところだけ重点的に見れば終わる。解答だって解き方がサクサクと分かる人間には、ダラダラと動画を見るのは苦痛でしかない。

 

動画だと、一定のペースでダラダラと拘束される。本当に分からないとことは時間をかけたいのに全部一定の世界だからね。

 

従来の授業だって効率は悪いだろ?って言われれば、そりゃ効率は悪い。だから出来る学生は暇だから寝ている。ただねぇ〜黒板授業が非効率だって批判して導入した新しい(と言われている)形式が、同様に非効率だと意味は全くない気がするね。

たださ、黒板の授業はライブでアドリブだったので、何が起こるか分からないというワクワク感はあったと思うし、自分は学生の反応をみて常に講義の内容を変えていたから、一方通行ではなかった自信はあるね。

 

こういうの推進する人って、自分で学んだ時の気持ちを忘れているのかメタ的視点で見れないのか分からんが、あんまり賢くはないと思うね。

 

動画で見ないと分からないものは確かにあるから、そういうのを解説するのには向いている。ダンスとか楽器演奏とか歌ですね〜

これらは言葉でいくら説明されても全然分からないし、伝わらない分野ですね。

 

 

 

ギターのセーハが難しいからやり方を教えてくれって依頼がネットで時々ある。

 

ただ、こんなの一年間ぐらいがむしゃらに練習しなければ絶対に出来るようにはならない。そもそもセーハという動作は日常生活で全く類似の動作がないから、ゼロからの習得だ。難しいのは当たり前なので、根気よく練習するしか習得方法はない。

 

自分は不器用だったので、ある程度納得してセーハが出来るまで、一年半以上かかっている。

 

例えば、セーハにおいて自分が分かった身体感覚で、人差し指を少し寝かせて硬めの側面で押させるとか、身体全体を使ってテコの原理で押さえると楽とかあるが、これが理解できるレベルになるには、ある程度出来ることが前提で、そうでないとこの感覚は共有できない。

 

確かに、その人特有のクセみたいなものを感じることも多いから、誰かにできるだけ一般的な感じで習得できているのかをチェックしてもらうのは大事だが、それは身近にいる人(先輩とかギター教室の先生)でないと出来ない。

 

 

結局、新しいことを習得する場合には、多くの場合に近道なんて無いことが多く真面目にコツコツと反復練習するしかないのだが、どうもその単純で基本的な道理が分からない人が増えてきた。なんか魔法のような近道があるって考えてる人が多いんだが、そんなものある訳がない。

 

見れば答えが分かるものは多いが、それは目指す目標が分かるだけで、努力しないと身につかない。

例えば、ピッキングのフォームをどうすればよいのか?とかいう疑問は、見ればほぼ解決する。沢山の演奏動画を見れば自然と自分にあった方法が分かる。ギター演奏においての多くの技術は教わるよりもお手本を見ればそれで解決するものが多いのだが、見せてくださいとお願いしないで教えてって言う人が多い。そもそも言葉で教えることが難しいんだが、聞いてくる人はそれが分からない。目標が分かったら後はひたすら反復練習しか習得する方法はない。

 

料理の時の包丁の使い方とかは基本的な原則は教えることが出来る。自分の手前側に刃は動かすとか、刃を引く時に切れるとかが基本原則だが、それを守りながらどう包丁を動かすのかはお手本を見て、あとは反復練習するしかない。

 

こんなの当たり前のことなんだが、それもこうやって言語化しないと分からない人が増えたと思うのでブログに書いてみた。

 

 

 

 

 

今はギター本体も機材も低価格なものが存在し品質も良い。

 

ただ、これがしあわせな状態なのかを考えると不思議な感覚に襲われる。

 

昔は、安い機材って誰が聞いてもショボい音しか出なかった。だからどうやったら少しマシになるのかと色々と試した。特にシステムが単純だったのもあって、色々な改善点が思いつけた。そうやって試しているうちに技術が上がって、ひたすら気に入った音を追い求めることを楽しめるようになれた。

 

現在の安い機材は、マルチエフェクターでもデジタルモデリングアンプが入っていて、音は最初から6割から8割程度の満足度を得れるレベルの音がでる。ここまで品質が良いとそもそもあんまり変更する気にならない。またシステムも複雑で分かりにくい。ギター初心者がマルチで音が鳴らなくて途方にくれているという動画も見たが、あんまり不思議だとは思わない。

 

納得できる音を追い求める能力があると、人間は本当に幸福なのか?という根本的な疑問もあるので、冒頭で述べたように不思議な感覚なのだが、このように状況は劇的に変わってしまった。

 

技術やテクノロジーが進歩すると、人間はどうなるのか?という考察には、こういうギタリストに関する技術の変化が人間に与える影響を例に用いると色々と考えやすい。

 

便利になる事とその分野の特化した能力を得ることは、幾分にトレードオフの関係があるように感じる。便利になればなるほどその分野での能力は育ちにくいのではないか?っと思う。

 

こういう安い価格の商品が与える影響とは?

ちょっと前に衝撃を与えた1万円ギターも、よく考えると経験者が騒いだだけのような気もする。本当にこれからギターを始める人は、そもそもがギターの値段なんて知らないから、10万円だろうが1万円だろうが、日常的な金銭感覚でしか捉えないだろう。だから1万円ギターに驚いた人は、ギターの事をある程度知っている人になる。

 

また、さらに考えると、真剣にギターを始めたい人は、1万円ギターは選ばないだろう。自分が初心者の時に選んだかって言われれば選ばない。なぜなら、普通は価格の分布を調べて、高級ギターから中級ギター、最安値のギターまで値段の幅を見るので、中級ぐらいの価格帯で選ぶ。あんまり安いとおそらく将来的に不満が出ると予想できるので、値段だけでは判断しない。

 

これは、ファインマン先生の本で紹介されていた歯車の適性な歯数の選び方と似ている。カタログの真ん中ぐらいを選べば、大抵の場合は不満が出ない設計になるという極意が書いてあるんだが、人間って無意識のうちにそういう選択をしていることが多い。

 

それに、ギターをどうしてもやりたい人が、最安値が10万円だから諦めるか?って考えたら諦めないだろう。値段が高かったらバイトするだけの話だ。こうやって思考実験すると、値段でギターをやるのかやらないのかって判断している人は、そもそもギターを本当にやりたいと思っている訳ではないと思えてくる。

 

コスパとタイパ基準での行動の真意とは?

おそらく人間はほんとうにやりたい事ってコスト度外視でやっている。コスパとかタイパって発言すること自体、それで左右される程度の行動なので、もうあんまり実行する価値もないんだが、そういう価値がない行動に対してコスパをひたすらに考えているんだから面白いなって思う。

 

ゲームとかは、ゲームをやらない人間から見ると、コスパ最悪でタイパも最悪な行為だが、それがほんとうにやりたい事だから、コスパとかタイパが悪いという意見は全くでないし実際に見たことがない。だから、コスパとかタイパの議論に隠れている構造はそういう事なんだと思う。

 

 

フォン・ノイマンの人生には深く関心があったので、書店で「フォン・ノイマンの生涯」という本を見つけた時に即購入したのだが、これが大変な厄介事の種になった。

 

とにかく訳が酷すぎて、一文毎にうんざりしてしまう。変な形で大言止めが多用されているのも辟易するが、言葉の意味が通常の日本語の用法と違っていて、かなり首をひねる様な使い方をされている。実際にあんまりにも気になるので調べると、そのような用法や言葉使いは無かったりする。

 

自分が気になった訳文の特徴は以下だ。

  • 日本語の単語の意味が適切でないところがかなりある。
  • ひらがな表記、漢字表記の使い分けが標準的なものから離れている。
  • 大言止めが異常に多い。
  • 何故か主語が必要な場合でさえ省略されているため、文章が誰のことを述べているのか判定できないことが多い。
  • 文章の時制も適切でないことが多い。
  • 句読点の使い方もおかしい。
  • 論理的に意味が通じない箇所もある。

本当にうんざりしてしまったので、原著を購入し、英語で読んでいる。最初からこうすれば良かった。

原著の英語は普通の文章だと思う。内容もそこそこ面白い。なんで一ヶ月近くも日本語訳に取り組んで時間を浪費したのか不思議に思うし、本当に時間の無駄だった。

 

最高峰の頭脳の持ち主と言われていたフォン・ノイマンの伝記の日本語版が、こんな悪夢のような本に訳されているというのは、なかなかのブラックジョークである。

 

 

 

 

 

高専生が優秀な理由は、早い時期から専門的な実践教育が受けれることが大きいと思っていたが、学びのマインドの観点で考えると、彼らのマインドがそもそも学習と成長にかなり有効な気がしてきた。

 

学問の習得で有効なのは、主体性である。自分はこれを学びたいという意思が極めて大事である。高専生は中学卒業時点で、自分の専門性をかなり絞って高専に進学してくる。大学生になっても自分の専門性が決められない世の中の大多数に比べて、相当異なるマインドである。

 

理系か文系かを、楽であるかとかお得かどうかという判断基準で選ぶ事自体が違和感があるんだが、こういう人はかなり多そうだ。40年前の自分の高校生時代でも、高校で理系か文系かさえ決められない人が多かったんだが、今はもっと悪化しているようだ。

 

高専生は、大学の進学先を選ぶような人生の選択を中学卒業時点で行えているから、かなり主体的に自分の人生を考えている。こういうメンタルの違いが、優秀さを左右しているのでは?という気が最近している。

 

高専生を語る時に、教育システムの話ばっかりされるのだが、この早い段階で自分の人生の方向性を決められるメンタルというのは、誰も指摘しない。時間的には、中学生までである程度自分のやりたいことが見えるし決められると思うんだが、そういう発言をSNSですると、急に決められるわけないだろ!とか怒られる。それは、貴方に決める意思がないだけで、決める人はさっさと決めているし、人生はそういう決断の素早さがかなり重要だと思う。決めなければならないタイミングは小学生の頃から分かっているし、いつかは決めなければならないなら、さっさと動いて試して考えれば、中学卒業時点で普通は決めれる。要するにあんまり主体的に生きていないと思うし、そこが高専生は明らかに違う。