キリスト教徒とイスラム教徒が平和に座談会している動画を見たんだが、何故日本はキリスト教もイスラム教も普及していないのに社会が平和でモラルがあって上手く動いているのか?本気で不思議がっているのが興味深い。

 

おそらく答えは、一神教である宗教を信じていないし、社会の根幹にそれを据えていないからだと思う。

 

社会を上手く機能させるには、人々に共通の感覚や考えを持たせなければいけないのだが、そういう意味では宗教というのは非常に安直で便利な道具である。宗教以外で共通の感覚や考えを持たせ維持させるのは相当な困難があると思う。だから、世界の殆どの社会では宗教ベースの社会になっていると思う。ところが日本は珍しく宗教が非常に希薄な社会なのだ。だから、理解されない。

 

宗教ベースで、その宗教が一神教だと唯一人の神の存在が非常に攻撃的で排他的な考えの下地になってしまう。これが非常に怖いところである。そういう元々が構造的に持っている毒には、生まれながらに一神教ベースでの教えで育つと気が付けないのか?良く分からないが、彼らの日本を不思議がる意見を聞いていると、その偏りに驚かされる。人間の知性はもっとフラットに考えることが可能の筈なんだがなぁ〜って思ってしまう。

 

これは、古くからの西洋の哲学者もかなりの影響を受けているので、知性と切り離すのは難しいのかもしれない。絶対的な真理がある筈だと疑わない疑いもしない思考は、かなりの問題だと思ってきたが、そういう毒がもう世界中に蔓延しているからね。

 

 

 

 

今はFlutterというクロス開発の環境を学んでいるんだが、これの公式解説サイトが何故か動画が多い。

見る気にならんので、動画のリンクをGeminiに投げて、コードだけ抜き出してもらっている(笑)

 

動画見て学習しろって流行っているが、この手法は、自律的に考えることが出来ない層にしか有効でない。ただ、学習させたというエビデンスが得やすいので、推進派が多い。eラーニングが何故ものすごい学習効率が悪いのに流行っているのか?と同じ理由である。

 

高専で数学の担当になったときに授業を全部解説動画にまとめろって言われてまとめたが、これって意味あるんか?ってかなり疑問だった。本当に頭が良くて自発的に学習できる学生には苦痛でしかないのでは?って思っていた。

 

紙で渡されれば、ざっと全体を見るだけで大まかな考えが把握でき、後はじっくり考えるところだけ重点的に見れば終わる。解答だって解き方がわかればダラダラと動画を見るのは苦痛でしかない。

 

動画だと、一定のペースでダラダラと拘束される。本当に分からないとことは時間をかけたいのに全部一定の世界だからね。

 

従来の授業だって効率は悪いだろ?って言われれば、そりゃ効率は悪い。だから出来る学生は暇だから寝ている。ただねぇ〜黒板授業が非効率だって批判して導入した新しい(と言われている)形式が、同様に非効率だと意味ない気がする。

たださ、黒板の授業はライブだったので、何が起こるか分からないというワクワク感はあったと思うがね。

 

こういうの推進する人って、自分で学んだ時の気持ちを忘れているのかメタ的視点で見れないのか分からんが、あんまり賢くはないと思うね。

 

動画で見ないと分からないものは確かにあるから、そういうのを解説するのには向いている。ダンスとか楽器演奏とか歌ですね〜

これらは言葉でいくら説明されても全然分からないし、伝わらない分野ですね。

 

 

 

ギターのセーハが難しいからやり方を教えてくれって依頼がネットで時々ある。

 

ただ、こんなの一年間ぐらいがむしゃらに練習しなければ絶対に出来るようにはならない。そもそもセーハという動作は日常生活で全く類似の動作がないから、ゼロからの習得だ。難しいのは当たり前なので、根気よく練習するしか習得方法はない。

 

自分は不器用だったので、ある程度納得してセーハが出来るまで、一年半以上かかっている。

 

例えば、セーハにおいて自分が分かった身体感覚で、人差し指を少し寝かせて硬めの側面で押させるとか、身体全体を使ってテコの原理で押さえると楽とかあるが、これが理解できるレベルになるには、ある程度出来ることが前提で、そうでないとこの感覚は共有できない。

 

確かに、その人特有のクセみたいなものを感じることも多いから、誰かにできるだけ一般的な感じで習得できているのかをチェックしてもらうのは大事だが、それは身近にいる人(先輩とかギター教室の先生)でないと出来ない。

 

 

結局、新しいことを習得する場合には、多くの場合に近道なんて無いことが多く真面目にコツコツと反復練習するしかないのだが、どうもその単純で基本的な道理が分からない人が増えてきた。なんか魔法のような近道があるって考えてる人が多いんだが、そんなものある訳がない。

 

見れば答えが分かるものは多いが、それは目指す目標が分かるだけで、努力しないと身につかない。

例えば、ピッキングのフォームをどうすればよいのか?とかいう疑問は、見ればほぼ解決する。沢山の演奏動画を見れば自然と自分にあった方法が分かる。ギター演奏においての多くの技術は教わるよりもお手本を見ればそれで解決するものが多いのだが、見せてくださいとお願いしないで教えてって言う人が多い。そもそも言葉で教えることが難しいんだが、聞いてくる人はそれが分からない。目標が分かったら後はひたすら反復練習しか習得する方法はない。

 

料理の時の包丁の使い方とかは基本的な原則は教えることが出来る。自分の手前側に刃は動かすとか、刃を引く時に切れるとかが基本原則だが、それを守りながらどう包丁を動かすのかはお手本を見て、あとは反復練習するしかない。

 

こんなの当たり前のことなんだが、それもこうやって言語化しないと分からない人が増えたと思うのでブログに書いてみた。

 

 

 

 

 

今はギター本体も機材も低価格なものが存在し品質も良い。

 

ただ、これがしあわせな状態なのかを考えると不思議な感覚に襲われる。

 

昔は、安い機材って誰が聞いてもショボい音しか出なかった。だからどうやったら少しマシになるのかと色々と試した。特にシステムが単純だったのもあって、色々な改善点が思いつけた。そうやって試しているうちに技術が上がって、ひたすら気に入った音を追い求めることを楽しめるようになれた。

 

現在の安い機材は、マルチエフェクターでもデジタルモデリングアンプが入っていて、音は最初から6割から8割程度の満足度を得れるレベルの音がでる。ここまで品質が良いとそもそもあんまり変更する気にならない。またシステムも複雑で分かりにくい。ギター初心者がマルチで音が鳴らなくて途方にくれているという動画も見たが、あんまり不思議だとは思わない。

 

納得できる音を追い求める能力があると、人間は本当に幸福なのか?という根本的な疑問もあるので、冒頭で述べたように不思議な感覚なのだが、このように状況は劇的に変わってしまった。

 

技術やテクノロジーが進歩すると、人間はどうなるのか?という考察には、こういうギタリストに関する技術の変化が人間に与える影響を例に用いると色々と考えやすい。

 

便利になる事とその分野の特化した能力を得ることは、幾分にトレードオフの関係があるように感じる。便利になればなるほどその分野での能力は育ちにくいのではないか?っと思う。

 

こういう安い価格の商品が与える影響とは?

ちょっと前に衝撃を与えた1万円ギターも、よく考えると経験者が騒いだだけのような気もする。本当にこれからギターを始める人は、そもそもがギターの値段なんて知らないから、10万円だろうが1万円だろうが、日常的な金銭感覚でしか捉えないだろう。だから1万円ギターに驚いた人は、ギターの事をある程度知っている人になる。

 

また、さらに考えると、真剣にギターを始めたい人は、1万円ギターは選ばないだろう。自分が初心者の時に選んだかって言われれば選ばない。なぜなら、普通は価格の分布を調べて、高級ギターから中級ギター、最安値のギターまで値段の幅を見るので、中級ぐらいの価格帯で選ぶ。あんまり安いとおそらく将来的に不満が出ると予想できるので、値段だけでは判断しない。

 

これは、ファインマン先生の本で紹介されていた歯車の適性な歯数の選び方と似ている。カタログの真ん中ぐらいを選べば、大抵の場合は不満が出ない設計になるという極意が書いてあるんだが、人間って無意識のうちにそういう選択をしていることが多い。

 

それに、ギターをどうしてもやりたい人が、最安値が10万円だから諦めるか?って考えたら諦めないだろう。値段が高かったらバイトするだけの話だ。こうやって思考実験すると、値段でギターをやるのかやらないのかって判断している人は、そもそもギターを本当にやりたいと思っている訳ではないと思えてくる。

 

コスパとタイパ基準での行動の真意とは?

おそらく人間はほんとうにやりたい事ってコスト度外視でやっている。コスパとかタイパって発言すること自体、それで左右される程度の行動なので、もうあんまり実行する価値もないんだが、そういう価値がない行動に対してコスパをひたすらに考えているんだから面白いなって思う。

 

ゲームとかは、ゲームをやらない人間から見ると、コスパ最悪でタイパも最悪な行為だが、それがほんとうにやりたい事だから、コスパとかタイパが悪いという意見は全くでないし実際に見たことがない。だから、コスパとかタイパの議論に隠れている構造はそういう事なんだと思う。

 

 

フォン・ノイマンの人生には深く関心があったので、書店で「フォン・ノイマンの生涯」という本を見つけた時に即購入したのだが、これが大変な厄介事の種になった。

 

とにかく訳が酷すぎて、一文毎にうんざりしてしまう。変な形で大言止めが多用されているのも辟易するが、言葉の意味が通常の日本語の用法と違っていて、かなり首をひねる様な使い方をされている。実際にあんまりにも気になるので調べると、そのような用法や言葉使いは無かったりする。

 

自分が気になった訳文の特徴は以下だ。

  • 日本語の単語の意味が適切でないところがかなりある。
  • ひらがな表記、漢字表記の使い分けが標準的なものから離れている。
  • 大言止めが異常に多い。
  • 何故か主語が必要な場合でさえ省略されているため、文章が誰のことを述べているのか判定できないことが多い。
  • 文章の時制も適切でないことが多い。
  • 句読点の使い方もおかしい。
  • 論理的に意味が通じない箇所もある。

本当にうんざりしてしまったので、原著を購入し、英語で読んでいる。最初からこうすれば良かった。

原著の英語は普通の文章だと思う。内容もそこそこ面白い。なんで一ヶ月近くも日本語訳に取り組んで時間を浪費したのか不思議に思うし、本当に時間の無駄だった。

 

最高峰の頭脳の持ち主と言われていたフォン・ノイマンの伝記の日本語版が、こんな悪夢のような本に訳されているというのは、なかなかのブラックジョークである。

 

 

 

 

 

高専生が優秀な理由は、早い時期から専門的な実践教育が受けれることが大きいと思っていたが、学びのマインドの観点で考えると、彼らのマインドがそもそも学習と成長にかなり有効な気がしてきた。

 

学問の習得で有効なのは、主体性である。自分はこれを学びたいという意思が極めて大事である。高専生は中学卒業時点で、自分の専門性をかなり絞って高専に進学してくる。大学生になっても自分の専門性が決められない世の中の大多数に比べて、相当異なるマインドである。

 

理系か文系かを、楽であるかとかお得かどうかという判断基準で選ぶ事自体が違和感があるんだが、こういう人はかなり多そうだ。40年前の自分の高校生時代でも、高校で理系か文系かさえ決められない人が多かったんだが、今はもっと悪化しているようだ。

 

高専生は、大学の進学先を選ぶような人生の選択を中学卒業時点で行えているから、かなり主体的に自分の人生を考えている。こういうメンタルの違いが、優秀さを左右しているのでは?という気が最近している。

 

高専生を語る時に、教育システムの話ばっかりされるのだが、この早い段階で自分の人生の方向性を決められるメンタルというのは、誰も指摘しない。時間的には、中学生までである程度自分のやりたいことが見えるし決められると思うんだが、そういう発言をSNSですると、急に決められるわけないだろ!とか怒られる。それは、貴方に決める意思がないだけで、決める人はさっさと決めているし、人生はそういう決断の素早さがかなり重要だと思う。決めなければならないタイミングは小学生の頃から分かっているし、いつかは決めなければならないなら、さっさと動いて試して考えれば、中学卒業時点で普通は決めれる。要するにあんまり主体的に生きていないと思うし、そこが高専生は明らかに違う。

別に皆が努力しなきゃいけないと主張するつもりもないのだが、最近の世の中をSNSを中心に見ていると不思議な感じを受ける。

 

例えば、「努力すれば報われる」とかは、努力して報われるのかどうかなんて分からないんだから、報われるのを期待するのもバカバカしいという雰囲気で語られ、「勉強という努力をすれば、家の財力とはあまり関係なく有名大学に入れる」という発言は、自分自身への認知能力が足りなくて個人的な成功体験を普遍化する知能が足りない人の言葉と言われる。

 

こういう雰囲気で語られるSNSでの動画の主張を見ていると、努力を避け続けあらゆる事をめんどくさがる人間に言い訳を提供しているようにしか見えない。

 

この根底にある科学的なエビデンスは、行動遺伝学の研究成果で「努力の継続性は遺伝的な才能で3割から5割程度は決まる」というものである。まあ、これは研究成果であるから、そういう傾向は確かにあるのだろう。

 

しかし、才能なんてそもそも自分では全く分からないから、とにかく何かやってみないとどういう才能があるかなんて分からない。

一般的に努力に見えるような事をある程度やってみないと、自分に才能があるかどうかなんて分からないと思う。

 

だから、自分は小学生からとにかくやってみた。とにかく試すことを延々と高校生までやってみたので、自分にどんな傾向や適性があるのか、かなり分かった。これを努力と呼ぶのか?正直分からない。自分には殆ど遊びと同じ感覚だったからね。

 

自分の主張は、とにかく幼少期から青春期に色々とやってみて、どうやっても持続しないなら、その理由を自分で考える場合の材料として、行動遺伝学の結果も考慮して分析すべきだと思う。そうすれば必要以上に落ち込む事も避けれる。しかし、最初から試みない言い訳として使われそうな現在の雰囲気を見ていると違和感を感じる。なぜなら脳科学や心理学の研究結果を出来ない言い訳に多用する人々を散々見たからだろう。

 

努力が絶対的に必要だと言うつもりはないし、個人の選択で良いと思う。ただ、現状の努力に対する冷めた雰囲気と否定的な捉え方は苦手である。

 

余談)

色々と考えているが、努力した人は結果が出なくても報われなかったとは言わない気がする。報われなかったと発言することは自分の今までの行動を否定する行為だが、人間は自己を否定することを基本的に嫌がる。そうするとますます努力にネガティブな発言を言う人は、努力と呼ばれる行動をそもそもしていない人が多そうだ。

 

こういう行動に依存した考え方の分離は、どんどんと進みそうだ。

 

 

最近は、Claude codeが凄いとか、もう人間がコードをキーボードを叩いて入力する時代は終わったというような動画をSNSで良く見るが、自分なりの見解を述べたい。

確かに、Claude codeで、オーソドックスなコードを生成させてみたが、ざっと見た感じではコンパイルして普通に通る。LLMの基本的な原理を考えれば、かなり凄い。

ただ、それが筋が良いコードかと言われると、大体の感覚だが、正直に言うと30点から40点ぐらいだ。

これをSNSで投稿したら、プロンプトの指定が悪いからだって批判されたが、プロンプトをいくら工夫しても、学習データが非常に乏しい分野で、LLMベースのAIがマトモなコードを生成できる可能性はかなり低い。

自分は、今はGo言語で科学分野のライブラリの整備を始めたが、これはGo言語には、そういうライブラリが殆ど存在しないからである。確かに、LLMでC++の既存のライブラリをGo言語へ翻訳して下さいって指示を出したら、動く結果は得られると思うが、多分80点ぐらいのコードは出てこないだろう。そもそもClaude codeでそういうものが生成出来るなら、既にGithubで見つかる筈なのだ。

プログラマーの方なら分かってくれると思うが、元々の筋が良くないコードを修正するのは非常に大変だ。それをするぐらいなら、自分で書いたほうが速いしストレスもない。

 

有料記事で途中までしか読めないが、Githubとかのコードの増加は横ばいで、実際に調べてみると生産性は下がっているという記事もある。

 

自分は主にGeminiと会話しているが、自分が関心がある世界の誰もやっていない技術的な問題になると、回答は全てトンチンカンなゴミが返ってくるが、それは誰も世界でやってる人が居ないという一種の証明なので、なるほどって思っている。

 

ただ、非常に単純で繰り返しが延々と続くコードもあるから、そういうところではAI使って楽をするのは、有効だなって思う。

 

 

なんか虚しい投稿なんだが、ちょっと言語化しておく。

 

堀江氏が何が分かっていないのかをログとして残しておく。

 

そもそも大谷選手って何が凄いのかって話なんだが、彼は野球という人類が勝手に決めたルールの中で、一種の最適化を極限まで突き詰めた選手ってことなんだよね。

 

野球のルールは、人類が決めたものだが、そういう厳密なルールがあるからこそ、今まで色んな人がそれに魅了され、極限まで自分を追い込み、そのルールの中での最適化を目指した訳だ。ルールが厳密でなかったら、そもそも最適化なんて存在しない。

 

そういうルールの中で、大谷選手は滅茶苦茶ストイックに最適化を目指して、それに成功したある意味究極な存在なんだよ。

 

だから、堀江氏が知のオリンピックとかやるべきだってアホなことを言っているが、人間ってルールがなければ、そもそも最適化を目指せない。知のオリンピックってルールは何なんだ?って思うね。

 

そもそも本当に知的な作業って基本的にはルールを壊すか、新しいルールを作ることっていうことが大前提であることを彼は知らない。

 

彼は興行的にどうか?って議論を好む人間だ。本当の知の改革なんて全く考えていないと思うんだが、じゃあ、どうやって興行的に面白く見せるか?って議論も全く欠落してる。

 

野球とかサッカーとかバスケって、見ている人の解像度は全然違うが、見れば楽しい。例えば、伝説的なイチロー選手が野球の中継を見るのと自分が見るのでは、解像度は天と地ほど違うが、自分でもなんとなく相当低い解像度でも楽しめる。

 

じゃあ、知のオリンピックを仮にやったとして、それって一般人が見て楽しいのかって疑問が凄く生じる。例えば、数学オリンピックなんて昔からあるけど、それって興行的に楽しいかっていわれれば、誰も見ないし解らないよ。今までで成功してる知識を競うのって、クイズ王ぐらいだ。だが、それも答えがある時点で、本当の意味での知の探求にはならない。

 

大谷選手と同じレベルで知の探求をストイックにやるとなると、もう興行的には絶対に成功できない。大谷選手のレベルって、殆どノーベル賞レベルなんだよね。まあ、ノーベル賞って意味があるのか?って議論がそもそもあるしね。

 

だから、彼が主張したい議論の根底がそもそも理解できない。

 

そもそも、あそこまでストイックで素晴らしい大谷選手を自分の意味のない主張の為の材料にする精神性に大きな疑問を抱くね。

 

彼は人間として何か終わっている気がする。最近、日本の国がかなり荒廃してきたが、彼を見ていると、そういう代表格なのかな?って思うよ。除夜の鐘がうるさいから、やめろって苦情をいう人間と彼は殆ど変わりがない。その精神性のベクトルを見ると殆ど同じなんだよね。

 

堀江氏が、大谷翔平選手をいくらディスろうが、まあ、そんなナンセンスな馬鹿な意見にはそもそも誰も耳をかさないし、勝手にやってろって思うんだが、寿司職人を馬鹿にするのは許せんね。

そもそも最近の世間で多い職人を馬鹿にする雰囲気って最悪だなって思う。

 

堀江氏なんて、馬鹿な意見しか言わないから、無視するって決めていたが、寿司職人を侮辱するのにはかなり怒りが湧いた。まあ、馬鹿に怒っても意味がないのは分かっているんだが。小学生が馬鹿な発言したって大抵の人は怒らない。それと同じなんだが、ただ、それが人を傷つけるなら怒って躾けなきゃいけない。

 

自分は、凄い寿司職人を二人知っているが、どっちも人生の化け物のような爺さんだよ。一人はもうとっくに80歳を超えているのに、現役で、凄い美味しいお寿司を1,000円ちょいで食べされてくれる。味を考えれば、2,000円でも安いんだが、大将に聞くと回転寿司に負けちゃうから値上げできないという。こんな美味しい寿司を回転寿司と比べる奴は居ないと思ったが、時代はもうそうじゃないらしい。ちょっと悲しくなってしまう。

 

もう一人も、70歳超えてるのに現役の人だが、色んな人情の機微が凄い分かる人で、すげえなぁって思いながらついつい閉店時間まで居てしまう。今は良いネタを仕入れるのも大変なのに、いつも凄い美味しい。自分も一つの道を極めたいと思って努力してきた人間だから、なんか色々と話していると、なんか本当に人生の先輩だなってつくづく思う。自分もここまで極められたらなぁ〜って本当に憧れる。分野は全然違うんだが、話しているとなんとなく分かるんだ。あぁ〜この人はある境地まで達したんだなって。だから自分も頑張ろうって気になるんだ。

 

誠実に仕事を長い間に高い技術力を持ってすることが、如何に困難かって自分もエンジニアの端くれだから分かる。

高い水準を維持するには絶えず全力で行動しなければ、そもそもそんなの不可能なんだよ。それで全力で絶えず行動するって、ある意味魂を削るって行為なんだ。

 

堀江氏のような魂を削ってまで何かをなしたことがない人には、そもそもそういう行為の意味がわからないんだなって、思えてくるね。彼の今までの人生なんて殆ど知らんけど、職人を馬鹿にするってことは、そういう魂まで削らんと到達できない境地にたったことが一回もないってことなんだろう。そういう低い解像度しか今までの人生で認識できないって哀れなのか、物事の本質をしらないから無知で幸せなのか分からん。最近は、馬鹿で無知なほど人生は幸せなのかもしれんって思っているからね。ある程度の解像度を持ってしまうと、そもそもこんな馬鹿な発言は絶対に出来ないから、ある意味馬鹿で無知って幸せなんだろうなって思う。

 

自分には、寿司職人の高度な技術がどうやって作られているかは全然分からないが、味は分かる。けど、そういうレベルの高い美味しさって考えると、その基盤にどれだけの努力があるのかってなんとなく感じる。多分途方もない時間がかけられている。

 

こういうのって理屈じゃないんだよ。料理人で、本当に美味しい料理を作る人って、物凄い時間をかけているのが、大体直感で分かる。自分がエンジニアとして、そういう一種の魂を削ってまで、性能を追求した経験があるから、直感でなんとなく感じる。

 

けど、そういう自分を極限まで追い込んで追求するって、もう絶滅危惧種なのかもしれないね。

 

実際、凄い寿司職人も凄い高齢者しか居ないもん。

ただ、70歳の大将には、弟子が居るから楽しみだよね。全力で応援したい。そんなにお金無いけどw