わずらわされてしまう時間がふえてしまうと、つい、短気をおこしてしまったり、ええいこのやろう~って、言動をとってしまったり。なかでも、あきらかな姑息や、偽善を、あまりにたくさんみせられると、ほんとうに、不愉快になってしまうものですね。なんとかにつける薬なし、なあんて、ことばがうかんで、極力、それが視界にはいらないところに、場所を移そうと、なってしまう。のです。そして、こんなときに浮かぶのは、池田晶子さんがさいさん著書で言われてた、あのことば。「言ってわかるひとは、言わなくてもわかるし、言わなきゃわからんやつは、言ってもわからん」と。それどころか、へたをすると、間違った相手に、うかつに真理をことばにしたりすると、プライドがどうしたということで、とんでもない愚行のターゲットになりかねない。ほんに、どんな立場も、立ち位置も、それぞれ、それになってみないと、ほんとうの危機感は、わからないのかもしれないですねぇ。身を守るために、賢者になるのは、ときに、とてもとても、むずかしく、どんな頂を目指すことより、エネルギーがとてもいることなのかも。とさえ。
せっかく、ようやく晴れ渡った、気持ちの良い朝に、なして、それも冒頭に、こんなことを書いてるわたしは、たしかに、いささか疲れていますねぇ。むろん、おろかなだめおくんに、悩まされないでずっといられることなどないとは、わかってはいても、よけいなことに神経をつかわないと行けない時間が増えすぎると、情けないけど、ほんにイライラになってしまいます。ここだけの話。いつからか、そう名付けて忌ました。ろんがいだめお。それがもっとひどくなると、へんたいだめお。でも、前者の響きの方が、呼びやすくて、それに定着しています。ともあれ。どう説明したものかと、思いますけれど、やはり、先の池田さんの名言に集約されてしまうのですが。気持ちというのが、もし、気の持ち方、気概の持ち方をいうのだとしたら、そのとおり、それがわるい、間違っている、ものに対して感じるものが、「気持ち悪い」なのでしょう、とおもいます。ことばは、いくらでも嘘をつけるけど、空気は、けっしてうそをつけない。日頃のおこないとは、つまり、日頃どんなふうに、まわりを見て、自分とどう対話して、どう行動しているか、なのでしょう、とおもいますね。誰が見てても恥ずかしくない、いや、人ではなく、自分自身に恥ずかしくない行い、それの積み重ねで、時を経るごとに、なにをしてきたかが、そのひとの風貌、人となり、に、集約されて、いわゆる、見た目というものになるのでしょうかねぇ。
それにしても。コンビニでも、その他の、誰でもが入れる場所で、思うのは、そんな、要注意と感じるにんげんの(割合の)なんて多きかな。あれは、どうしてわかるのかと、言われても。むしろ、直視しないで、視界の隅に映った瞬間に、それとわかるのは、なにかが、つまり、空気がおかしい、のです。動き方が、じつに不自然。相手がどう思うかなどお構いなしに、空間への配慮なんてかけらもない。つまり、含羞が。なにも、レディなんとかのような、とってつけたようなそれのことを意味してるのではなくて。それらの人間がふえてしまうことの、根源はなになのでしょうねぇ。スマホの中に、真実があると真剣に信じているにんげんが、わかものが、増えてしまうことと、関係あるのでしょうかねぇ。いえ、背中で、普段の行動で、わかものが、おやっと、思わず足を止めたくなるような、そんな筋のとおった大人が、少なくなってしまっているのですかねぇ。言われてはいと、できるくらいなら、はじめからできてるでしょし、もし、はいとそれをいともかんたんにできるふりをするにんげんなら、むしろ、かえって、信用できないから、あぶないし、気をつけないといけないわけですし。ひとは、自分自身が、自分のこころが、真に納得して、そうしたいと思わない限り、簡単には、日頃の行いのベースを変えることなどできないようですから。つまり、自分で気づかないと、進化はむずかしい、ということなのですかねぇ。
してみると。なんとも、にんとも。しかるにしこうして。ほんに。かっこよくいきる、かっこよくある、とは、ほんに、たいへんですねぇ。えらいですねぇ。えらいはえらいでも、しんどいほうのえらいですねぇ。自信があるとかないとか、そんなことはいいわけにはならず。要は思いやり。相手のことを考えられるゆとり、気持ち、やさしさを、もてるだけの、つよさがあるかどうか。それに尽きるのではないかなぁと。思うのですがねぇ。ところで。これは確認のしようがないので、なんとも癒えないのですが。ときに、ふと思います。これは、もし、猛獣系の女子なら、このおかしか空気や、背後にまわられることへの不快感は、さして気にならないのか、という、仮説について。それとも。相手にそれをさせないような、空気がオーラが滲み出ている、ということなのですかねぇ。(私の場合、トラなのは外側だけで、ほんしつはたぬきだし、そのこころは、繊細な?草食のぞうさんだし。もしこれが、なかみも、こころも、ライオンやオオカミだったら?雑魚のうごきに、さほどわずらわれない図太さをもちあわせられる?のでしょうかねぇ。永遠になぞですねぇ。別の星をもって、もういちど、生まれてこないと、確かめようがないですねぇ。)
ときどき、思います。そこにいったら、ふらりといったら、『話せる』だれかが、たいていいて、いや、いなくても、心底、ホッと出来るような、そんな場所が、あったらどんなにいいでしょねぇ~と。もし、家族のだかれかが、そんなひとりになってくれてる、そんなひとは、ほんに、ほんとに、ほんまにほんまに、しあわせですねぇ。『話せる』、おんなにことばが、ほぼおんなじ、意味で伝わるということ、の、なんと、むずかしく、ありがたき、ことなのでしょうねぇ。ふとした、愚痴でも、ものごとの、深層でも、なんでもいいので、ふとした、感慨を、おなじように、だれかと共有、共感できることの、なんて、うれしくしあわせな、ことでしょうねぇ。くっだっらん、という、話を、ずうううっと、している場所に、少しなら、それとて、ほほえましくもあるけれど、あまりに度が過ぎると、あほちゃうかぁ~の、ひとことが思わずこころに洩れてくるよな、そんな場所には、あまり長くはいたくないものです。やさしさは、ひとのおおきさは、学歴などは、ほんとにまったく関係ない。むしろ、そんなものに、目がくらむと、肝心はほんとうを、見落としたまま、しょ~もないものにとらわれたまま、せっかくの目の前の時間を、無駄にしてしまう。そんな気もします。
そう書いて、気がつきました。これは、いまのわたしへの、ヒントなのだと。そうです、目の前の、しょ~もないことに、せっかくの時間を無駄にしてまいかねないと、自分の潜在意識からの、ヒントなのだと。かからわないで、そんなものを、目に入れないで、ほんとに、考えるべきこと、生きることに、誇りをもつということに、信念と矜恃を。ひそかに、しずかに、もっていたらば、それでいいのだと。(いやぁ、それでも、であいがしらの、ふこうは、いつでもどこでも、気を抜かずに、気をつけていなければ、それこそ、まったく話にならんものやにんげんに、くっだらんことに、時間を、もぎとられかねないから、やっぱり、油断はいけませんねぇ。はぁ~。それにしても、もてないおすは、めすのそれとは比較にならんぐらいの、どうしようもないまいなすな思考と感情にうごかされてしまうのですかねぇ。つけるくすりは、ほとんにないの?)と、いうことを、なんもかんも、わかっている、ひととはなすことができたら、どんなに安堵できるでせうねぇ。やさしさは、ほんとうのやさしさは、だから、そんなにかんたには、もつことが、だれでもできないものなのだと、気づいて、あらためて、つよさの土台について、思わず、思索を、詩作を?巡らせてしまいます。
なあんて、いくら書いても、いっこうに、こころのこりはほぐれてきません。やはり、もっと、気持ちが、心地が、ほっといいなと、おもえること、ものごとに、こころを向けていかないと、ひとは、こころは、おだやかに、うれしい時間をもてないようにできているのかもしれませんねぇ。ふ~。