冬風というのは、すなわち、だれもそれを歓迎しない、みをきるような?、はたまた、ひたすらすぎてくれるのを、しずかにじっとこらえて待っているしかないような、そんな地吹雪、吹雪のことだからなのですかねぇ。春風も、秋風も、それぞれに、待ちわびていたような、そんなそれぞれ独特のにおいや、肌につくときの感触が、ときには、ふと魅力的ななにか別の感触とも通じるような(ちょっと飛躍しすぎたかな、ともあれ)、そんなうれしく、ときに,風情を全身にまとって風が吹くときの、まわりの色や、雲のながれを想像させてくれたりするのに。かたや、冬風は、さわやかでも、もちろん、和みでもとうていあり得ないような、ひたすら辛抱とつらい時間の象徴のようにも、思えたりするのですけれど。ともあれ、しかし、そこで、ふと、さらに想いをめぐらすと、実はそこには、それぞの家の中での、夏にはとてもありえなかったような、家族だけの濃密で、暖かく、静かに語り明かすような、暖炉の揺らめく明かりが、まっしろに覆われたそれぞれの屋根の下で、いくつものうれし涙や、だきしめあいたくなるようないとおしく悠久の時間が、実はそこには、確かにきっとあった、いえこれからもある、のでしょうねぇと、おもいいたったとき、はて、たしかに、冬風という名前では、どこにも登場しなくても、それが暴れているときには、実は、つぎの時間、時代につながっていく、貴重で、静かで、滋味豊かな厚みのある時間が、いや、そうすることのできる時間がいま、そこに、いや、ここにある!ということなのだ、と、気づいて、はたを手を止め、いまこうして、だれもが、不便でどうしようもなく、是まで通りでないと嘆くだけの時間が、味方をかえると、おいおい、このままこれがもしなかったままだったら、みんな、当たり前の自然のきょういや、あるいは、健康であることの貴重や、友と静かに語り合える時間があるということ、文明の機器にむしろもしかしたら、遊ばれているだけになってしまいがちの、もっと智慧や工夫を重ねるための、考えるチャンスを、そう、おいおい、是が教えてくれているのは,昼寝をゆるされないうさぎのまま、走り続けていたら、ゴールを、向かうべき道をあやまってしまいかねないから、ここらで、昼寝する亀になって、千年生きるつもりで、大きな目で、いろいろなことを、考えてみることが、いまある、是までの当たり前の時間には、まったくそんなチャンスはどこにもなかったような、そんな希有な時間をいま、もらえているのでは、ないでしょうかねぇ。と、ふと、おもった次第なのです。キット、神さまがもし、いるとしたら、その神さまが、この先のずっと先の地球を救うために、あえて、是を乗り越えて、道の進み方、道の作り方に、もういちど、たちどまってじっくりと考える時が来たのですよと、教えてくれているのでは、ないのかなぁ。ふと、そんな風に、おもってしまいました。深呼吸と、おおきなため息の、はざまで。そのかぎりなく、きわどく、すれすれのエッジの上を、それでも、絶対したには落ちないことを信じて、走りぬけようとしている、そんなランナーのようなところに、いま、いるのでは、ないですかねぇ。そして、そんなときは、足下を見るのではなくて、もっとさきいまから駆け抜けようとするところを見つめて走り抜けたら、気がついたら、これまでより、ずっと、地盤のしっかりした、見晴らしの良い、対岸の頼もしい大きな大きな岩の上に、たどりついているのではないでせうかねぇ。ふと、そんなことをおもいました。前代未聞の、息継ぎのない、文章です。読み終えたら、おもいきりしっかり目の前の空気をその厚い胸にすいこんでください。ne。
ともあれ。あしたはかならずそこにあるんです。今のやりくりの智慧と工夫の精神が、きっと是までなかった成長の,伏線に必ずなるんです。いまは、一見は静かに守りながらも、情熱を持った攻めの姿勢を忘れないで、ただひたすらに、行きたいところをめざすことだけは、あきらめない。足下をみないで、真下の崖が険しければ険しほど、より遠くの場所を描いてみる。ほとんどすき間のない、林の中から、木を越え、枝をくぐり、そして緑に出たあとも、綺麗にカーブを描いて、水をたたえた池を乗り越え、そして、かりこまれたさらに短い緑の上に到達して、息を飲んで見つめる観衆の静けさのあとに、一気にわき上がる感激と驚嘆の声、こえ、こえ。こう書きながら、いつかどこかの17番ロングの林の中から、見事イーグルのチャンス地をとらえた、あの一打をふと、思い描いてしまったのですけれど。あのおもわず、鳥肌がたっている瞬間を味わうのは、それを演じた本人ではなく、同じ場所を共有するすべてのひとのこころに、一生深く刻まれる歓喜の瞬間が、訪れるんです。かならず。そのために、いま、我慢なんかしているんじゃないのだ、することは仮に同じでも、これは、我慢なんかじゃなくて、乗り越えたときの達成感、そして新しい時間を創り出すことに成功した自分が、自分でもしんじられないくらいのつよさとたくましさと、そして滋味ある魅力に、自分自身で思わず感心感激して、そのさきで、それをしみじみと、若い世代に語り継げることの誇りを味わえる感謝の時間を思い浮かべてみないですか。来ると信じているものを待つのはたのしい。そう歌っている、歌詞の一文に感嘆したのは、はて、あれはまだ、だいがくというはじめてのばしょに足を初めて踏み入れた頃だったでしょう。(おっと、失礼、自分の想い、想い出と平行記ではいけませんね)。苦しいのは、たのしいこと。その方の歌には、そんな一節も流れてきます。がんばるのだ。がんばれるのはすばらしいことかも。なにもしないでまつのも、しっかりがんばっているということ。そんな風に、おもいます。どちらも、同じくらいに素晴らしい。なああんて。いっきに心に浮かぶ言葉を書いていると、こんな風になっちゃいますねぇ。これを、もっと、読みやすく,書いていくなら、きっと、いろんな機会がひろがりそうですね。伝わるということ。だれかに伝わっていると実感できたら、ひとはたとえどんな苦しいときも、乗り越えさらに強く生きてきた。だからいま、こうして、いろんな文明を享受して生きている。それでもいまは、文化も文明も、ぜええんぶ、ひっくるめてのみこんでしまうような、もっと根源的な、自然の中でのいきぬく智慧を、もういちどきちんと身に付けていかないといけないのですよ~、なあんて、神さまが、特別レッスンを与えているのだと。だから、それをしかと受け止め、どんな難しいノックのボールにも食らいついて、100本ノックを、なにがなんでもさばいてみせるんです。そんな意気込みを、こころのなかに、脇おこすことができたなら。。。さて、その先に見えてくるのはなんですか?ひとりひとりにとって、望む世界を、正解を、いまいちど、みつめてみたら。どうでしょねぇ。(長すぎて、酸素ボンベが要りますね。読了完走お疲れさまでした。よんでくださって、感謝です。つぎは、もすこし、のんびりした、時間にゆったりと、書いてみますm--m)。