冬風というのは、すなわち、だれもそれを歓迎しない、みをきるような?、はたまた、ひたすらすぎてくれるのを、しずかにじっとこらえて待っているしかないような、そんな地吹雪、吹雪のことだからなのですかねぇ。春風も、秋風も、それぞれに、待ちわびていたような、そんなそれぞれ独特のにおいや、肌につくときの感触が、ときには、ふと魅力的ななにか別の感触とも通じるような(ちょっと飛躍しすぎたかな、ともあれ)、そんなうれしく、ときに,風情を全身にまとって風が吹くときの、まわりの色や、雲のながれを想像させてくれたりするのに。かたや、冬風は、さわやかでも、もちろん、和みでもとうていあり得ないような、ひたすら辛抱とつらい時間の象徴のようにも、思えたりするのですけれど。ともあれ、しかし、そこで、ふと、さらに想いをめぐらすと、実はそこには、それぞの家の中での、夏にはとてもありえなかったような、家族だけの濃密で、暖かく、静かに語り明かすような、暖炉の揺らめく明かりが、まっしろに覆われたそれぞれの屋根の下で、いくつものうれし涙や、だきしめあいたくなるようないとおしく悠久の時間が、実はそこには、確かにきっとあった、いえこれからもある、のでしょうねぇと、おもいいたったとき、はて、たしかに、冬風という名前では、どこにも登場しなくても、それが暴れているときには、実は、つぎの時間、時代につながっていく、貴重で、静かで、滋味豊かな厚みのある時間が、いや、そうすることのできる時間がいま、そこに、いや、ここにある!ということなのだ、と、気づいて、はたを手を止め、いまこうして、だれもが、不便でどうしようもなく、是まで通りでないと嘆くだけの時間が、味方をかえると、おいおい、このままこれがもしなかったままだったら、みんな、当たり前の自然のきょういや、あるいは、健康であることの貴重や、友と静かに語り合える時間があるということ、文明の機器にむしろもしかしたら、遊ばれているだけになってしまいがちの、もっと智慧や工夫を重ねるための、考えるチャンスを、そう、おいおい、是が教えてくれているのは,昼寝をゆるされないうさぎのまま、走り続けていたら、ゴールを、向かうべき道をあやまってしまいかねないから、ここらで、昼寝する亀になって、千年生きるつもりで、大きな目で、いろいろなことを、考えてみることが、いまある、是までの当たり前の時間には、まったくそんなチャンスはどこにもなかったような、そんな希有な時間をいま、もらえているのでは、ないでしょうかねぇ。と、ふと、おもった次第なのです。キット、神さまがもし、いるとしたら、その神さまが、この先のずっと先の地球を救うために、あえて、是を乗り越えて、道の進み方、道の作り方に、もういちど、たちどまってじっくりと考える時が来たのですよと、教えてくれているのでは、ないのかなぁ。ふと、そんな風に、おもってしまいました。深呼吸と、おおきなため息の、はざまで。そのかぎりなく、きわどく、すれすれのエッジの上を、それでも、絶対したには落ちないことを信じて、走りぬけようとしている、そんなランナーのようなところに、いま、いるのでは、ないですかねぇ。そして、そんなときは、足下を見るのではなくて、もっとさきいまから駆け抜けようとするところを見つめて走り抜けたら、気がついたら、これまでより、ずっと、地盤のしっかりした、見晴らしの良い、対岸の頼もしい大きな大きな岩の上に、たどりついているのではないでせうかねぇ。ふと、そんなことをおもいました。前代未聞の、息継ぎのない、文章です。読み終えたら、おもいきりしっかり目の前の空気をその厚い胸にすいこんでください。ne。

 

ともあれ。あしたはかならずそこにあるんです。今のやりくりの智慧と工夫の精神が、きっと是までなかった成長の,伏線に必ずなるんです。いまは、一見は静かに守りながらも、情熱を持った攻めの姿勢を忘れないで、ただひたすらに、行きたいところをめざすことだけは、あきらめない。足下をみないで、真下の崖が険しければ険しほど、より遠くの場所を描いてみる。ほとんどすき間のない、林の中から、木を越え、枝をくぐり、そして緑に出たあとも、綺麗にカーブを描いて、水をたたえた池を乗り越え、そして、かりこまれたさらに短い緑の上に到達して、息を飲んで見つめる観衆の静けさのあとに、一気にわき上がる感激と驚嘆の声、こえ、こえ。こう書きながら、いつかどこかの17番ロングの林の中から、見事イーグルのチャンス地をとらえた、あの一打をふと、思い描いてしまったのですけれど。あのおもわず、鳥肌がたっている瞬間を味わうのは、それを演じた本人ではなく、同じ場所を共有するすべてのひとのこころに、一生深く刻まれる歓喜の瞬間が、訪れるんです。かならず。そのために、いま、我慢なんかしているんじゃないのだ、することは仮に同じでも、これは、我慢なんかじゃなくて、乗り越えたときの達成感、そして新しい時間を創り出すことに成功した自分が、自分でもしんじられないくらいのつよさとたくましさと、そして滋味ある魅力に、自分自身で思わず感心感激して、そのさきで、それをしみじみと、若い世代に語り継げることの誇りを味わえる感謝の時間を思い浮かべてみないですか。来ると信じているものを待つのはたのしい。そう歌っている、歌詞の一文に感嘆したのは、はて、あれはまだ、だいがくというはじめてのばしょに足を初めて踏み入れた頃だったでしょう。(おっと、失礼、自分の想い、想い出と平行記ではいけませんね)。苦しいのは、たのしいこと。その方の歌には、そんな一節も流れてきます。がんばるのだ。がんばれるのはすばらしいことかも。なにもしないでまつのも、しっかりがんばっているということ。そんな風に、おもいます。どちらも、同じくらいに素晴らしい。なああんて。いっきに心に浮かぶ言葉を書いていると、こんな風になっちゃいますねぇ。これを、もっと、読みやすく,書いていくなら、きっと、いろんな機会がひろがりそうですね。伝わるということ。だれかに伝わっていると実感できたら、ひとはたとえどんな苦しいときも、乗り越えさらに強く生きてきた。だからいま、こうして、いろんな文明を享受して生きている。それでもいまは、文化も文明も、ぜええんぶ、ひっくるめてのみこんでしまうような、もっと根源的な、自然の中でのいきぬく智慧を、もういちどきちんと身に付けていかないといけないのですよ~、なあんて、神さまが、特別レッスンを与えているのだと。だから、それをしかと受け止め、どんな難しいノックのボールにも食らいついて、100本ノックを、なにがなんでもさばいてみせるんです。そんな意気込みを、こころのなかに、脇おこすことができたなら。。。さて、その先に見えてくるのはなんですか?ひとりひとりにとって、望む世界を、正解を、いまいちど、みつめてみたら。どうでしょねぇ。(長すぎて、酸素ボンベが要りますね。読了完走お疲れさまでした。よんでくださって、感謝です。つぎは、もすこし、のんびりした、時間にゆったりと、書いてみますm--m)。

Well.I'm sttrugle and thinking so many kind of things and stuffs about a life , a style and pride and an air of human dressing, and so on...through this never tiny but someday surely over big troublesome suitation, which gives us some, rather lot of. lessons and tough thinking way and doing style on usual tivveral aspect or, time of determine for something to so important to live at sound and safe and all of all, freely. Anyway now we have much time to find some surprising good foresight power or the sence of alert noticing for some critical thingssss, which always lays on several points of life, even in time of ex-this virlus days....

 

ともあれ。きっと。そんな風に。これまでも、いつもどこでも、すぐそばに、確かにそれらは、さりげなくいて、でも、たぶん、運良くそれほど深刻にうけとめたり、けつまずいたりしなくてもすんでこられた幾つものことごとの存在に、ちゃんときづいて、それを、マークして、サファリで生きてるいきものたちのような、自然で、当たり前で、ときに、とってもしんらつな、あるいはきびしすぎる現実が、いつでもどこでもそこにあるんだということを、気付き治すことができたなら、それは、これまでのいくつもの、ターニングポイント時代にあったのと同じくらいの、価値ある時間になるはずで。と。おへそまがりの、のんきなあたまで、いま、つれづれに、書き始めていたら、ことばがつづいてでてきました。そんな次第です。

 

ときに、ともあれ。はてさて。時雨の記、(あああれを観ていたころがとてつもなく懐かしいです。ともあれ)ではなくて、えっと、時雨のような響きの古書の日記の中に、こんな風にどしゃぶりとカミナリがいっしょにやってくる、さむいまよなかのことが、かかれていたような、たぶん、かなり、いいかげんな、創造?想像かもしれぬのですが。それでも。おもいました。確かに、生きているものは、みな、月のちからにいくつもの影響をうけているのだろうな。そんなことを。だから、こんな夜には、いつにないほどの、繊細?ん、なんだろ、とぎすまされたなんて自分のなにかを比喩したら、とてもかゆくていられなくなりそうだから、えっと、まぁ、ふわっとしてて、でもどこか、お、いいかもね、とおもえるような、きもちや考えがうかんんで,荒れに荒れてる天候とはうらはらに、こころのなかに、しずかにふりつもる雪のごとしで、しっくりと、心癒える想いが、たしかに、自分の重心をすこしだけ、これまでより、しっかりしたものに、してくれているような、そんな夜に、なっちゃうのかな。なあんてことを、書きながら考えているのか、書いていたら自然に沸いてきて手が勝手にうごいているのか。。。ともあれ。夜半の執筆の、ときの、このなんともいわれぬ、ことばやおもいたちに、束の間の充足ような時間につつまれてもらえる、じんわりとしたあったかさを感じられている、そのことのうれしさ。なのかもしれませんねぇ。。。ふ~。いささか、ふかよいしたような、ことばの戯れになっているかもしれません。らうんど、やっぱりしたいですね。ぜひ。近いうちに。

 

ずいぶん経ちますね。前に書いてから。すっかり季節がかわりました。無事です。むしろげんきすぎるくらいに。言い訳しても仕方ありませんが、どうしてこうも長く書かずにいられたのでしょうね。書きたいとおもう瞬間はたくさんあったのに。ともあれ、いいこと、そうでないこと、たいへんなこと、いつも以上にいろいろなことがあった年でした。まちがいなく。なにが、ほんとうにたいせつで、なにを大事にしていかないといけないか、いきているということはどんなことなのか。そんなことを、自然とかんがえる時間がふえている、そんな年でした。時間というもの、いま、目の前にある時間をどう使うか。どんなふうに感じるか。どうおもうか。そんな瞬間瞬間の積み重ねが、時をつくるのでしょうね。味わうということ、しみじみと思うということ、かみしめるということ。そんなことをこれまでのどんなときよりも、ひしと伝わってくる、そんな年でした。

 

それにしても。思いがけないことは、いつでもどこでもおこるのですね。あたまでわかることと、実際に、身にしみるというのとは、ずいぶん違いますね。こころが縮み上がるような心配ではじまった、1月でした。よりにもよってと。そして、早春の声を聴く頃、ほっとする知らせを耳にして。そのあと、それとは別の、ひじょうじたいで、こころがまた縮み、しばしまた、つらいときがありました。ともあれ。ふたたびの、連載再開に、いつものこんびにでそのページを目次の中に見つけたとき、どんなにうれしかったことか。まるで、まえとちっとも変わらぬ息づかい、言葉遣いに、心底ほっとしたのでした。一方で、子どもの頃から、ずっと見続けてきた、俳優さんがついに逝かれてしまったことは、今も、ときおり、そのことを思いだし、ため息をついてしまっているくらいです。

 

それにしても。だれかが書かれたものを読むというのは、書かれた人の息づかいを感じるような時間であり、そのひとのすぐそばでその話に耳を傾けているような、そんな時間のように思えるのは、わたしだけでしょうか。小説はたしょう違うかもしれませんが、随筆、エッセイなどはとくにそんな風に思えて仕方ありません。ほんのすき間時間に、頁をひらいて、数頁を読み進めるだけで、ずう~っと、こころがおちついていくのを、いつも感じながら、読んだりしているものです。ところで。にんげんの脳がもっとも成熟して、知性がもっとも高くなるのは50代なのだそうです。だとすると、たとえば70歳なら、20歳同じということなのでは、と、思うのです。ちょっと違うか。ともあれ。年をとるごとに、年輪をかさねるごとに、ものごとを観る目、聴くみみ、そして解釈する知能は、ずっと進化するのではないのでしょうかねぇ。そんな風に、やっぱりおもいます。だから、幾つになっても面白い。のです。おもしろく生きることができる。のでは、ないかしらんねぇ。

 

いつにもまして、いえ、ひさびさのせいもあるのでせうか、ともあれ、いつよりも、いささか、マジメに書いてしまいました。ともあれ。穏やかで、あったかくて、しみじみと時間を、たのしみ、ありがたいとかんじられる、よい年をお迎えください。こんどは、もう少し、間をおかずに書くつもりです。m--m。

ふ~。ほんとにどないなってるんでしょねぇ。この温度です。まるで、天然サウナです。そこらじゅう。ドクターヘリが、何度も空を往復しています。それでも、元気でいられることに感謝します。それでも、まだ手のかじかむ冬よりずっといいと。おもいます。ずうっと、夏でも困るのですが。四季がどんどん、二季になっているよな、気がして、危惧してしまうのは、わたしだけでしょうか。赤とんぼと、シオカラトンボが、いっしょには、さすがにとんではいませんが、それでも、場所場所で、同じ時期に飛んでいるのです。早朝、緑と松にかこまれた、9番ホールのグリーンが、背景の朝焼けに輝くやまぎわをバックに、赤い旗が静かにたっている風景は、なかなかどうして、振り返ればそこに絵になる、そんな景色が、そおっとあったりするのです。

 

太陽が高い空に、輝いてるころ、道路に沿って広がる大海原は、空を映して、きれいそのものの、碧(あお)?に、きらめいています。ああ、この瞬間にしか、おなじいろ、おなじかぜ、おなじそらはないのだなぁと、おもうと、なお、いとおしくなってしまいます。走るくるまから、眺めているからこそなお、よけいに、うつくしく感じるのでしょうか。この刹那、目の前にしかない、そんな風景だとおもうから。そして、夕暮れ。えんじ色に染まる空にさそわれるように、砂丘の先に車を停めると、目の前を、ねぐらにかえっていく、鳥たちが、たそがれゆく空をばっくに、きれいな隊列をときおり乱しながら、飛んでいきます。そんな折、ふと見上げると、まるで、待ってましたといわんばかりの、飛行機雲です。まっすぐに、ぐんぐん、ぐんぐんと、天井の空をめざして駆け上がっていくかのように、右な斜めの見事な直線を描いて伸びていくのです。きらめく夕日が海に映って、そこには光の道が伸び、そしてそらには、気持ちいいぐらいにまっすぐに伸びる飛行機雲。自然の、そして、偶然がくれた、見事な景色。打ち寄せる波の音を聴きながら、「リリーオクトーバー」を聴きながら、しばし、見とれていました。景色は、いつでも、そこに、こころに癒しをくれているのですね。そんな気がします。

 

そして、振り返るとそこには、すっかり秋の表情をした、大きな月が。まさに、月は東に、陽は西に。。。でした。あれ、これってなんのあれでしたっけ。ともあれ。自然は、素晴らしい。そう思います。優しい気持ちで、のどかな景色、うつくしいゆうひ、ゆうぐれを眺めて。。。つかのま、こころに、せいいっぱい、あふれる愚痴と、こぼれる不満をかきけしてもらっていました。それにしても、ひとは、いえ、ほんにごくいちぶの、かないいひとは、だとおもうのですけれども、どうして、こうも、自分が言われたらぜったいに不愉快きわまりないだろう、言葉をひとにぶつけるのでしょうねぇ。それも、いちたいいちでは決して言えないひとほど、こそくな?場をかりて、ひとのこころをぐさぐさと、つきさすような言葉をまき散らすのでしょうかねぇ。父親もしくは、年長の親しき人に、おさなきころ、きちんとやさしい時間や空間をもらえなかったら、ああなるのでせうかねぇ。ほんまにほんまに。5歳でかっこいい要素のある子は、もうおとなになるのを待たずともわかるかとおもえるのと同じに、ことほどさよう、いくつになっても、いえ、いいとしをして~と、おもわれるひとは、おそらくきっと、うまれてこのかたずううっと、いじわるのたまごをそだて、ふやし、まきちらしてしまうのでせうかねぇ。こまったものです。こころの美しき人と、会話を、さりげない言葉のキャッチボールをできるだけで、どんなにこころがなぐさめられることでしょう。いつのよも、どくりんごばあさん、おっとしつれいともあれ、そんなひとはひとりやふたり、そのへんにころがって、いえ、混じってしまうのでしょうかねぇ。ふ~。あつさといっしょに、きれいなこころだけがのこってそのたはどこかに、溶けていってくれたらどんなにいいでしょねぇ。いいひとほど、きっと苦労するようにできてるのでせうかねぇ。そう自分に言い聞かせながら、きれいな夕暮れに、慰めてもらっていた午後なのでした。。。いつでも、どこでも、それでもかっこよく、ありたいものです。ねぇ~~~。

ですねぇ。ほんとに。なんじゃそりゃ。という、最高気温予測があさから、つぎつぎ画面にでています。昭和55年の夏などは、なかなか25度に達しなくて、海はおろか、プールにさえ行かれない日がたくさんあったというのに。。。まぁその年は異例でしたが、それでも、納屋の前の日陰の温度が、28度を超えないと海には連れて行ってもらえませんでしたから。そして、なかなか、その条件をクリアする日は毎日というわけにはいきませんでしたから。父の鉄色をした昭和30年代生まれ。自転車の後ろに乗って、(あれの荷台は大きくて、そしてその鉄も、頑丈で、子どもの足には幅がひろすぎて、座っているだけでもふとももがいたいのでした)、浮き輪を背負って!?、連れて行ってもらったものでした。もっとも、浮き輪に捕まって、ふわふわ浮いてるのが好きな余り、泳ぐのはからっきし。10メートルも進んで、一度目の息継ぎをしたら息継ぎをしたら、ぶくぶくぶくぶく。。。足の方から沈んでいくのでしたっけ。父も母も、なんとか泳法?でしたっけ。古式なんとかの横泳ぎでも器用にしていました。(いや、母が泳ぐ姿は。。。一度だけ、観たような、みないような。。。)まぁ、瀬戸内の潮の速い海で、育ったのですから、まぁ。おそらく、泳ぎは上手だった???かもね。

 

いちじがばんじ。ははの口は、いつでも、大げさ。1が10に、なることはないにしろ、7や8になることさえありましたから。。。いまとなっては、実際に自分の目でみたこと、きいたこと。それ以外は、判断のしようがありません。とすると。ほんに、日頃のおこない。というのは、大事ですねぇ。あらためて、思います。ふだんしていないことは、そうそう簡単にはできないし、そしてやっぱり、いってわかるひとは、いわなくてもわかるし。いわなきゃわからんひとは、いってもわからん。と。なるわけですねぇ。かなしいけれども。おもってもないことは、そもそも、ことばにもならないし。そして。また。ことばは、ときに、意図すれば、別の何かをまもるためなど。ほかの意思がはたらけば、いつでも、とえきに、うそもことばになりますが。行動だけは。なかなかどうして。おもっていることが、やっぱり行動にあらわれる。もちろん。だから、行動は、うそをつけない。そのひとから、でている空気もそうですが、ちんもくしているときの空気は、ほぼおもっていることが空気になって、纏われている。なあんて。でも、たしかに、そうおもうのです。ともあれ。日頃の、きもち、考えが、やっぱり、そのときどきの動きの中にでていくのですねぇ。いつだったか、ここで、「3歩あるけば、わかる」なんて、豪語してしまいましたが。それでもやっぱり、佇まいで、自信やその他は動き方に、自然でにじみ出ていくのかもしれませんねぇ。とくに、日頃のおこないが、歴然とでてしまう、ごるふの場合は。。。たぶんね。

 

出かける20分前に用か意が出来たので、おもわず、書き始めてしまいましたが、気がつくと時間です。1分前から、突然の豪雨が降っています。おやおや。くるままで、きょうは少しあるかないと行けないのに。。。そのわけは、あまりに野暮なかなしい理由なので。きょうはやめておきます。ともあれ、こりゃゴルフ用の傘でないと、びしょ濡れになりそうなくらい降っていますねぇ。そろそろ、急がないと、ゴミもだしていかないと。。。だし。と、書いている間に、雨音が小さくなってくれないかと願っているのですけれど。。。かわりませんねぇ。きょうは、お風呂にいこうかな。あ、お盆ですね。お供えも用意しなきゃ。はてさて。まぁ、なんとかなるでしょ。今日は、少しだけ、でも。気温が下がってくれるとよいのですけれど。残暑お見舞い申し上げます。

寒さとは、たたかう、というよりも、どちらかというと、たえしのぶ、あるいは、たえる、が、似合うのに、暑さは、やはり、たえしのぶよりも、だんぜん、たたかうが、にあう。どうしてだろう。だからだろうか。暑さを、いえ、暑い中で、なにかをやりとげることができると、なんとなく、闘いにかった、ような気がするのは、わたしだけでしょうか。さむいときは、こころの温度も外気温に比例しそうになるけれど、暑いときは、こころのなかも、こころなしか、たたかってるような、そんなほっとな感じに思えるのは、気のせいでしょうか。しっかり食べて、しっかり寝る。そうして、あつさに気持ちでも負けないようにと、長いパーパットを沈めるときのような、高揚感とほどよい緊張感。。。のような、そんな闘いを思い浮かべているのは、いささか大げさが、すぎるでしょうか。ともあれ。

 

雨が屋根をはげしくうちつける音と、網戸越しに土が濡れたときのあのにおいが、ときおりやってくるなか、そろそろ夜明け頃かなぁと、いつも通り、水を飲むのに起きていくと、時計の短針が8と9の間に!。なんということでしょう。刹那、時計が止まったのかと、それでも信じられず、もうひとつの掛け時計に確かめに行くと。果たして、まったく同じ形状をしていました。おやおやです。それでも、そんなにたくさん眠っていたことに、ほのかな満足感がわき上がってきて。それはそれで、嬉しい朝でした。夏の雨は、ほんとに安堵と、癒やしと、土に育つすべてにとっては、文字通り、救いのそれですねぇ。朝方、なにかを纏っていないと、寒さを感じる温度になっていて。夏に、からだをひやしすぎるとよくない、は、昔からいわれる大切ないましめ、なのかもしれませぬ。ね。ともあれ。

 

立春とともに、春の訪れがあるといわれますが、はて、立秋とともに、秋もやってくるのでしょうか。はて。それでも、毎日かくじつに、日の出と日の入りの時刻が、それぞれ1分ずつ、遅く、そして、早く、なっているのは確かでして。昼の時間が2分ずつ短くなっているのですねぇ。それにしても、なにかがやっぱり物足りないのは、そうです。甲子園がないのです。贔屓の力士の相撲のいちばんを観るとき同様、父は、甲子園を観るとき、ときおり、珍しく、声を出して観ていました。特に、終盤、劣勢のチームが、追い上げ、そして、バットがボールをとらえる冴えた音とともに、白球が外野手の頭上を越えていくとき、きまって、いっていました。「ぬけたぁ~」と。満州で過ごした、長い時間のことにはひとことも触れなかった父が、そのときばかりは、嬉しそうに、球児の一所懸命に元気をもらっているようでした。それにしても、やっぱり、夏空が見えるスタジアムのあの熱気と歓声は、観る人に、想像以上の元気と勇気をあたえるのでしょうね。思わず、ナンバーの最新刊を買いました。

からっとした暑さがこいしいです。むしむしっとして、蚊がたくさんやってきて、じっとしていても、じわじわっと、汗がでてくる。。。兼好さんがおっしゃるように、まこと、この国の家は、夏用を旨として、建てるのがやはりいい、というより、いきのびるために必要。。。ということなのですかねぇ。ともあれ。あついあついと、言いながらも、食欲があって、たくさん眠くて、汗をかくほどに動くことが出来ることが、まことにありがたいことです。昨夏はもとより、これまでにも、なんどかのつらい夏があったことを、少しだけ思いかえしていました。どーしても、いきたいなぁとおもっていたところに、合格をもらえなくて、こころが固まり、からだも固まり、ふとんにへばりついては、さむの散歩にも行かれず、家庭教師の教え子くんがくれた、くれよんしんちゃんの漫画本だけが唯一のこころの癒やしだったひとなつは、もう、はるかかなたむかしのことですが。。。いまとなっては、それもまた懐かしい。。。のです。

 

何枚かの暑中見舞いの葉書を書きました。住所がわかれば、出したいのに。。。「色鉛筆の花束を贈りたい。。。」。映画・ユウガットメールの、主人公がメールの中で書いている、素敵なせりふを思い出しながら、ふと、そんなことをおもっています。どんなに、オンラインが発達しても、書いた文字がつたえることのできるものは、やっぱり、機械の文字が伝えるものとは、いささか、いえ、いささか以上にちがうようにおもえます。そういえば、そのはるかなた、昔のおちこんでいた夏に、さむといっしょに、小説の舞台としても有名になった、その岩場と岸壁が有名な海辺に行ったのでしたっけ。あのころ、母はまだ若く、元気で、とうじは、そのとげだらけの言葉に、愚痴ばかりをおもっていましたが、それでも、母がいてくれたからこその、安心、安全があったのだと、そんな親心にきちんと、感謝できるのは、ずっとずっと後のことなのですよねぇ。ともあれ。時は流れます。

 

むかしむかし、あるときあるところでのことですが。漁港をいくつか抱える小さな湾を望むことのできるゴルフ場を訪れました。周りを見ずに囲まれているだけ合って、吹いてくる風はどれも、幾分ほかより涼しく、ウオーターがそれぞれのコースを区切っている、それぞれのホールは実に愉しく、わくわくする設計です。圧巻なのは、水の上の、最短をドライバーで、どかんと思い切り振り抜くことの出来たときの、ボールの飛んでいく様を見送るときは、われながら、なんともうれしさがこみ上げてくるのでした。夏は、できることなら、水がたくさんグリーンの周りをぜーーんぶ囲んでいるよな、コースでまわってみたいなぁ~、なんてね。ともあれ、どきどきは、わくわくなのですよねぇ。それにしても、朝の練習グリーンでは、あんなに、自然体できれいにストライクゾーンでまっすぐが打てるのに。。。ど~して、コースに行って後半になればなるほど、思い通りのストライクが打てなくなるのは、なぜでしょねぇ。姿勢の、なにかが、疲れで、かわってしまうのですかねぇ。それとも、やっぱり無欲のつもりは、さにあらず、知らず知らずに、余計な力がどこかに入ってしまっているのでしょうかねぇ。パターが思い通りにうてたなら、どんなに気持ちいいでしょねぇ。腹筋でしっかり、ストロークできたらと、おもうけれども、なかなかどうして。単純なことほど、むずかしいものですねぇ。

暑中お見舞い申し上げます。雨ばかりの7月が過ぎて、やっと少し夏らしい日差しがやってきました。さわやかな風が吹き抜けるたびに、ああ、いつもの夏が、こんなくらいな、温度、風、日差しだといいのになぁ~と、つぶやいてしまいます。ことしは、ほんとうに、なにもかもが、想定外、予定外の出来事だらけで、時のはかなさ、あたりまえのありがたさを、つくづくと痛感することしきりの連続です。なにが当たり前なのか、なにがほんとうに大切なのか、そんなことを考えないではいられない、時間が、きっかけが、つぎつぎとやってきます。そんな機会が。

 

ところで、ソーシャルディスタンス。かつて、電車の中で、はたまた地下鉄の乗り換えで、あるいは、切符を買う列で、いつも、いえ、ときどき、もうどうして、こうも、東洋のひとたちは、しらないひとはものと同じ!に、ふるまえるのだろうって。内心、いらいら、ふゆかいな瞬間をいくつも経てきましたが。いまになって、そうそう、これこれ。空間の配慮があるだけで、こんなに気持ちよく過ごせるのね、かっこいいというのは、やせ我慢のできること、いえ、あいての気持ちに配慮できること、そんなことを、改めて、感じるきょうこのごろです。はい。

 

もっとも、かっこよい方にかぎって、そういったもちろんの、配慮や、含羞が、自然にお持ちであられるから~、こちらがあともう少し別に近くてもいいのになあ~と、おもっていてもとてもいえない、そんなこころの気持ちがあったり、なかったり~。したりして~。なあんて。ともあれ。言ってわかるひとは、言わなくてもわかるし、言わないと分からぬ人は、言ってもわからない!、の、池田晶子さんの名言をもちだすまでもなく、一事は万事で~。ゴルフのスタイルもしかり。ひごろの、うごきも然りで~。ほんに、永遠の5歳どころか、5歳にも満たないまま、年齢だけが増えている人の割合が~、もしかして、増えてしまっていることへの警鐘なんですかねぇ。女の子の声を担当しているのが、じつは大人の男の人、というのも味噌なのですかねぇ。ともあれ。

 

年輪をかさねたもの、時を重厚にかさねてきたものほど、味わい深くて、かっこいい。のです。と、おもいます。だから、温故知新の一方で、新しいもの、はやいもの、新鮮なものばかりを、重宝することは、どうなのですかねぇ。かつては、文字通り、つよいひとだけが長生きする時代だったのでしょうねぇ。ともあれ。ちえは、年を重ねてうまれるものこそ、尊敬し、重宝するものなのでしょうねぇ。残り時間の少ない人(というのは、いささか語弊がありますが)ほど、多くの智慧、そして、時を重ねた味わいが、そのことばや、所作にたくさん含まれているから、貴重な存在なのでしょうねぇ。ふと、そんなことに思いをめぐらす、夏の夜なのです。。。

暑さ厳しい折です。どうか、ご自愛下さい。

暮れどき、森でひぐらしが鳴いていました。この夏、初めて聞いた気がします。帰って、西側の窓をあけると、すだれにせみさんがへばりついていました。あしたからは、また雨マークの予報がつづいています。大丈夫でしょうか、と、少し心配しています。それにしても、ひぐらしの声が聞こえてくると、なぜか、ホッとするのは、子どもの頃から、聞き慣れた夏の涼しい風が吹く頃の記憶と、重なっているからでしょうか。 蒸し暑さが、からだじゅうにまとわりつくような、湿度でした。ただ、時折、吹いてくる風がうれしいと感じる日和でもありました。芝生の上を歩いているのが、ありがたいともおもえる夏がやってきました。二年ぶりの夏です。朝晩の涼しさが少しでもながくありますようにと。。。おもう季節がやってきました。

 

テレビを付けると中学生のころーつ、とても応援していた俳優さんのるーつを紹介する番組です。おもわず、見入ってしまいました。時代を経て、ふしぎな縁が描かれていました。母方の曾祖父は、網元だったそうですから、江戸からの農家と、漁師のハーフということでしょうか。それも、まったく気風のことなる海の。。。ともあれ。そういえば、ときおり訪れる、お風呂屋さんの入り口で、帰ろうとするとき、綺麗に白髪を整えた、方から、「あら~」と、懐かしい人にであったような、声を掛けられました。おもわず、「こんにちは」と、返事をしましたが、あれは、いったい誰だったのでしょう???お友達のお父上に、あんなに整った顔立ちの人、いましたっけ?まぁ、勘違いでも、そうでなくても、まぁいいか、と、そのまま帰ってきましたけれど。

 

なにもかもが、予定通りとはほど遠い、ことしですね。いま、このときを、大事にいきてる。そんなことを、あらためて、おもう、ことしです。いきるって、どういうのでしょうね。これまでも、ときおり、おりにふれて、こころに浮かぶことばではあったのですけれど。そんなことを、あえて、口にしても、まぁいいか、そんな風におもえる、ことしでもある、そんな気がしています。どんなに、技術や科学が進歩しても、やはり、こころのささえになるような、そんなことばや、しんねん、のようなものが、やっぱり、ときおりは、大事なのだろうな。そんな気がする、夏の初めです。なにが、正で、なにが、その反対なのかは、そのときどきで、かわっていくのかもしれません。あらゆることが、塞翁が馬、に、なってくれたらいいのにな、そんな風におもえる、土用のはじまる、宵です。

暮れどき、森でひぐらしが鳴いていました。この夏、初めて聞いた気がします。帰って、西側の窓をあけると、すだれにせみさんがへばりついていました。あしたからは、また雨マークの予報がつづいています。大丈夫でしょうか、と、少し心配しています。それにしても、ひぐらしの声が聞こえてくると、なぜか、ホッとするのは、子どもの頃から、聞き慣れた夏の涼しい風が吹く頃の記憶と、重なっているからでしょうか。 蒸し暑さが、からだじゅうにまとわりつくような、湿度でした。ただ、時折、吹いてくる風がうれしいと感じる日和でもありました。芝生の上を歩いているのが、ありがたいともおもえる夏がやってきました。二年ぶりの夏です。朝晩の涼しさが少しでもながくありますようにと。。。おもう季節がやってきました。

 

テレビを付けると中学生のころーつ、とても応援していた俳優さんのるーつを紹介する番組です。おもわず、見入ってしまいました。時代を経て、ふしぎな縁が描かれていました。母方の曾祖父は、網元だったそうですから、江戸からの農家と、漁師のハーフということでしょうか。それも、まったく気風のことなる海の。。。ともあれ。そういえば、ときおり訪れる、お風呂屋さんの入り口で、帰ろうとするとき、綺麗に白髪を整えた、方から、「あら~」と、懐かしい人にであったような、声を掛けられました。おもわず、「こんにちは」と、返事をしましたが、あれは、いったい誰だったのでしょう???お友達のお父上に、あんなに整った顔立ちの人、いましたっけ?まぁ、勘違いでも、そうでなくても、まぁいいか、と、そのまま帰ってきましたけれど。

 

なにもかもが、予定通りとはほど遠い、ことしですね。いま、このときを、大事にいきてる。そんなことを、あらためて、おもう、ことしです。いきるって、どういうのでしょうね。これまでも、ときおり、おりにふれて、こころに浮かぶことばではあったのですけれど。そんなことを、あえて、口にしても、まぁいいか、そんな風におもえる、ことしでもある、そんな気がしています。どんなに、技術や科学が進歩しても、やはり、こころのささえになるような、そんなことばや、しんねん、のようなものが、やっぱり、ときおりは、大事なのだろうな。そんな気がする、夏の初めです。なにが、正で、なにが、その反対なのかは、そのときどきで、かわっていくのかもしれません。あらゆることが、塞翁が馬、に、なってくれたらいいのにな、そんな風におもえる、土用のはじまる、宵です。