つねに、かっこよくあるということ。は、やはりむずかしいことなのでしょうかねぇ。ひとのかずだけ、ただしきこと、そうありたいと願う姿も、ちがうのでしょうかねぇ。ともあれ。だれもいないところで、どんな風に行動できるか。なああんて、いうと、なんとも、肩がこりそうですが。。。ともあれ。もっと気楽に、でも、ささやかでも、(だれもいなくとも)つねにみられている。いや、実際そうなのだと、おもいます。そうすると、背筋が伸びそうだし。とはいえ、しんどいときは、弱音ははきたいし。ぐちもこぼしたいし。まぁ。きらくなたぬきとしては、自分のこころにやさしくありたい。のかもしれません。そうすれば、きっと、だれかにやさしいきもちになれる時間も増えそうだから。。。とはいえ。いけないものはいけません。大岡裁きがあったら、どんな風にしてくれるのでしょうかと。先に書いたことに関しては、まっこと思います。おのおのがしたことは、いずれかえってくる。そうおもうので、神さま(という表現を一応使うとしたらですが)に、ゆだねる。プライドを、まほうのように、いやしなぐさめてくれる特効薬があったなら、この世に、争いごとはなくなるでしょうねぇ。自分自身を見つめ直す、冷静さを「もてる」ちからがあったなら。。。ひょっとして、いわゆる「もてる」というのは、そういうこともぜ~んぶひっくるめていうのでしょうかねぇ。
さきの回で、いつもと違う、なんとも、苦肉の策だったのはまぎれもなくその通りだったのですけれども、ともあれ。いつもと違う、筆致と内容で、このわたしにとっての、貴重な頁を、ゆがめてしまったような気がして、いったいわたしは、なににたいして、やせ我慢?、いえ、背伸びをしているのでしょう、と、思いながらも、それでも。やっぱり後味のわるさを、なんとか、払拭させたくて、こうして、書いているのであります。せっかく兄弟がいても、なかよくできないというのは、じつに、ざんねんなことなのかもしれませんね。もっとも。きょうだいという存在そのものが、いったいどういうものなのか、想像の範囲でしかわからない者が、あれこれ論じるのは、もとより失礼千万ですね。ごめんなさい。さてさて。かっこよくあるということ。これを、あれこれ、思い巡らせるだけでも、人生の時間は、実に、有効で、興味深いことだとおもうのは、わたしだけでしょうか。先頃、電話回線の工事をしてもらったのですけれども。工事にきてくれた若い人とは、正直ことばが通じないなぁと、おもうことしきりでしたねぇ。ことばが通じるというのは、どういうことをいうのでしょうかねぇ。ことばがまったく通じない国を一人旅したら。どんなに、多くのことが学べるでしょうねぇ。かくいうわたしも、ふだん、口をもっと気楽に開くことができたらなぁと。少しだけ思います。
いえ、じゅうぶん、口は達者?なのかもしれませんが。周囲が期待するようには、ことばをうまく発するのが苦手のようです。こうして書き言葉にしないと、うまく気持ちを言葉にのせることができなくて。これは前にも書いたかもしれません。ともあれ。「ゆるすこと」が、いちばんむずかしいテーマなのかもしれません。というのを、折に触れて感じたことがあります。ふとしたひとことに、カッとしたり。なんだこのやろう、と、内心思うことは多々あります。ときに、ひとは、自分とは多少なりとも、ニュアンスやその意味するところを、異なる意味で?使っているかもしれなくて。ことばが通じるというのは、してみると、実に、希有な奇跡的なことなのかもしれませんねぇ。浅学なところからの推測も含めて敢えて言葉にしてみますが。いつか書いた、計画遂行型のひとは概ね、親しい人にほど本音をいい、どうでもいい人には建前しか言わない(のだそうです)。ところが。臨機応変型のひとは、まったく逆。どうでもいい人にはずげずけ言えるけれども。大切におもうひとにほど、核心は(冗談も含めて、ベールに包んで)触れずにことばをつかう(のだそうです)。誤解が生じるのはこういうこともあるのかしら。往々にして。なるほど。とかく、言葉を求めんとしているな、と、感じるひと、ひとが、います。
かたや、ことばはいくらでもうそをつくので、(無論、ことばを発する人が信頼できないといっているのでは、ありません。それどころかです、ともあれ。)くうきを読んでいる。それで、いろいろなことを判断している、身からすると、ことばを、それもほんとうでないことをことばにしてよと、空気でおくられてもときに、困惑してしまう、のかもしれません。そもそも、ほんとうのことって、刻々と状況に応じてかわりますよね、なあんて、臨機応変派は考えるのです。たぶん。してみると、ともあれ、ことばって、じつに不思議です。それでも、苦しいとき、こころに響いてくるのは、なにをおいても、ことばです。それも、こころのこもった相手からなげかけられた、ことばに、どれほど救われることでしょう。その日、そのとき、その場所で。もし、こころとことばが、あるべきところに、あるべきかたちで、放たれたなら、どんなものもかなわないちからに、なってくれるでしょうか。こうして、書くだけで、だれかをたすけることができるなんて、おそれおおすぎることですが、それでも、ことばには、ありがたすぎるちからがありますよね。こうして、かっこよさとは?という永遠のテーマを、考え続けることができるのも、ことばがあってのことですから。(母国語って、ほんとうに大切ですね。だれにとっても。ともあれ。)また、書きます。快方に向かっていることを、時間が味方になってくれることを、こころから願っています。