とてもくるしい春でした。これまでのどれともちがうような錘がこころを固めてしまうような。。。自分のちからではびくともしないような。。。ともあれ。かつてのいつかのように、ことばが降ってくることも、ないかもしれませんが、ともあれ。きちんと、地面を蹴って、歩くことができるように戻れたように。。。おもいます。それにしてもです。どうしてこんなに、つぎつぎと、いろいろなひじょうじがやってくるのでしょうか。画面いっぱいに、にごった水がながれていくのをみるのは、とてもこころがいたむので、こころのスイッチをあわてて切って、みているか、そうでないと、リモコンのボタンを押しています。まいねん、この時期が来ると、きたる酷暑の到来をおもって、こころがためいき、ああ、はやく秋がこないかなぁと、そんなことをおもっているのは、はて、いつごろからでしょうか。少なくとも、夏の到来は、楽しみでしかたなかった、子ども時代でした。

 

いえ、いまとて、からっとして、当たり前と思える範囲の温度なら。。。夏は好きな季節のひとつに違いないのですけれど。。。ともあれ。これほど、あめがつづくというのも、あまり記憶がないようにおもえます。年齢と同い年の家の、雨漏りが、また、あちこちで始まっています。にんとも。心配してもきりがない。。。というより、確かに、屋根だけはきちんと直っていないと。。。このさき。。。というのは。。。どこまでもつづきそうですけれども。ともあれ。直し直し、なんとか、建っていてくれたら、それでいい。ともあれ、いまはそんな風です。なにがたいせつか、なにがほんとうか、そんなことがとわれているような時期なのでせうかね。ほんとうにひつようなもの、ほんとうに大切にしないといけないもの。そんなことをきちんと、考える時間、とき、なのかもしれません。

 

話はかわりますが。そういえば。30年ほどまえ、まだ煉瓦駅舎をみおろすところに、庁舎があったころに、放映されてた「とっておきの青春」。そこで、主人公のひとりの、恋のライバルを演じていたふたりが、いま、朝のどらまで、双方の主役の父親役をそれぞれ演じている。。。ふと、気づいて、おやおやと、ふと、こころにつかの間、ホッとした時間が流れました。『男たちの旅路』とくらべたら、といわれたら、それは、まったく別の次元で胸をゆさぶられた作品でしたから、あれですが、ともあれ。その作品も、なんども見直して、でてくる俳優さんの、なんともいえない、年の重ね方の妙を教わったような気がします。それにしても、戦前生まれの方の、あのしわの一本一本が、時代と時の、おもさや深さをきざんでいるような、そんな味のある風貌が。。。最近は、なかなか見かける機会が少なくなった気がします。ともあれ、無事です。また、書きます。

日暮れのそらに、みごとな下弦の月が黄金色に空をいろどっていました。地平線にちかいところにあるときは、あんなに綺麗なのですね。一番星と少し離れて、でもなにかをささやきあっているかのようでした。同じ日、おどろくほど水面がしずかで、はじめてみるようにもおもえた、光の道ができていました。ふだんは、ほぼ見渡す限り白い波なのに。。。まったく別の場所のようです。。。まるで刑事ドラマのタイトルみたいな色を背景に、砂に、だれがたてたか竹の棒、そのさきに、ひょいととまった鳥さんが。。。ふだんはきらわれもののそれですが。まるでポーズをとるかのように、逆光の中中綺麗なシルエットを映して、しずかにたそがれていました。ともあれ。自然の色はうつくしい。

 

いつもじっとしたままの休日ですが。こんかいばかりは、このスタイルがすばらしいスタイルのようです。それをなにも言われないのも、確かにそれはそれでさびしい。ですねぇ。ところで。ちかく、すばらしいゴルフを目の当たりにしました。あらためて、おもいました。18ホールの、ワンショットワンショットのドラマは、とにかくすばらしいと。ほんに、だれとラウンドするかですねぇ。飛んでいくボールは、まさにそのひとそのもの。すばらしいものはすばらしい。そこにはことばにしなくてもわかるたくさんの時間といろんなことがらが映し出されている。そうおもいました。そういう機会をもてたことに、このうえない感謝をおもい、そして、また、つぎまでに、がんばろうというおもいが自然に沸いてきます。気持ちのこもったワンショットはほんとうに、雄弁です。どんなことばもかなわないくらいに。

 

そんなワンシーンわんしーん、かつてのいろいろな風景を思いかえしていると、しずかにそれらをゆっくりと振り返っていたくて、おのずとことばが少なくなってしまいます。とはいえ、まだまだ、これから、たくさんの機会がもてることに期待がふくらみ、それをまたうれしくおもったりしているところ。。。春は少しずつしか、やってきませんが、そしてまた、こんな風に、いろいろなことが予定通りの進まない時期ですが、いまだからこその、しずかな思いや、いつかどこかでの夢のことなど、いろんな想像図(創造図)をこころに描いてみるには、ふさわしい時なのかもしれませんね。こころの旅をさらにふくらませてみたいな。そんなことを描きながら、時のありがたさをあらためておもっています。

蛍草――。芯のあるうつくしいすがたとは、かくあるべし。おんなのうつくさしさの、ひとつにはこういう姿があるのでは。そう教えられるような映像でした。主演の方の、ひととして凜とある姿勢があれば、おのずとかような見え方になります、と、そう教えられるような、すがたでした。無駄のない動きは、なんてうつくしいのでしょう。こころざしある主の姿のうごきとは、かくもすばらしいのでしょうか。なあんて、いうことを真剣に、考えさそれとはべつられるそんなドラマでした。最近観たなかでは、ダントツにすばらしいと、そうおもいました。それとはべつにですけれども、また、そのあとしばらしくて。。。おもいました。いいおとこ、いいおんなというものが、このよになければ、そもそもあらそいごとなどおこらないのでしょうねぇ。。。とも。鳥たちの、あるいは庭にときおり訪れるネコたちの、様子をみればおのずと。。。なのでしょうかねぇ。ともあれ。さて。けさ起きたときに、おもいました。

 

人生の、節目がくるたびに。あたらしい、時間の過ごし方、考え方、ものの見え方に出会えるのだと、おもえたらなら、もしかしたら。それはあながち、わるいものではないのかしら。。。と。しかし、もっとも、その節目というのは、ひとつ間違えたら、もういないかもしれない、というくらいの、おおごとをのりこえてはじめて、得られる時間なのですよねぇ。ふ~。なんとも。それでも。ともあれ、そう思えたなら。平坦だけでは、決してみられなかった、景色や、ものの見え方に出会えるのです。たぶん。。。キャンバスに、絵の具の色いろをまぜて、自分の好きな色を重ねていくのが、あんなに愉しいことであるように。。。そんな風に、目の前の、海、空、やまを、あたらしい気持ちで、あたらしい見え方で観られるのだとしたら。。。春は、きっと、毎年、同じように見えて、その都度、あたらしい色いろや、形かたちを、見せてくれているのかもしれません。90歳には90歳の、100歳には100歳の見え方があるのだとしたら。。。

 

もしかすると、美味しいと感じるものも、としとともに、幾分かわっていくものなのでしょうか。おそらくたぶん、多くの場合は、きっと、そうなのでしょうね。山菜や、あとはなんでしょう、春先にしか獲れない海の幸なども。旬の味のおいしさが、より沁みてくるようになるのでしょうかねぇ。お酒が飲めないのは、人生の3分の1をそんしていると、おっしゃったのは、池波正太郎さんだったようにおもうのですが。そうですよねぇ。酒の肴ほど、旬を美味しく食べるしなじなは、ないですよねぇ。霞の頃と言われる季節ですが、月をみながらの、さかずきと肴。。。絵になりますよねぇ。美味しいものは、景色と空気と、たたずまい?でしょうか。器も大きいですよねぇ。どんなうつわで、どんな色のどんな焼き物に入っているかで、間違いなく焼き物、その他の肴の味だってかわるでしょうねぇ。ふ~。してみると、美味しいものとひとくちにいっても、そのおいしいひとくちをLまでには、とてもとてもの、いろいろな時間と工夫がいるのですね。素敵な春宵がたくさんありますように。。。

旅に出たいな、そうおもうとき、近くの海辺に出かけます。くるまを停めて、窓からの風景が、ベストに見える、そんな場所場所。日暮れ時、晴れの日、くもり、雨の日、風の日、雪の日。それぞれに味があって、しみじみできます。ほんとなら、ふらりと足の向くままに、旅に、おもいたったそのときに、出かけられたらどんなにいいでしょうけれど。それでも。ふと、きれいな景色に出会えるだけで、こころは、ずいぶんと澄んでいってくれるような。そんな気がします。いい景色を眺める。ほっとする空間にたたずむ。おいしいものを飲む。絵を描く。すきな声を聴く。いい音楽にふれる。日々、小さな旅は、いつでもどこでも、ささやかだけど、それでも、立派にできるような。そんな気がします。

 

素敵なけしきは、いつでもどこでも、ふと観るきもちと時間があるだけで、そこにあるのかもしれませんね。たとえば、家の窓からでも。毎日通る、道から当たり前に見えてる景色の中にも。おいわいの日のちょうどひとつきあとに、とてもうれしい知らせを耳にしました。そのことばだけで、かならずしもてばなしでは、~なのかもしれませんが。それでも。いちじは、いつかもっともっと先になるかもとおもいましたから。折に触れて、それをおもいだして、うれしい気持ちを抱いていました。いつか、歩くだけでもいいと、海の見えるコースを歩くだけでも。。。と、そうここにも書いていましたが。ともあれ。いまここにある時間のありがたさを、改めておもいます。まだまだ時間はあります。というのと、いまここにしかいまはない、というのと。どちらもほんとうで、どちらも、とってもふかみのあることなのだろうなぁと。そう思います。

 

いい知らせを耳にしたとき、おもわず、つたない詩を、一節をうかべたりもしたのですけれど。どういうわけか、ちょうどそのタイミングが、この両手でもじを打ち込むのに最適な、このツールがびくともうごいてくれなくなってしまって。。。スコアカードのすみっこに、書き込んだまま、つくえの上においたままになっています。ともあれ。テレビも、CIMも、なかなかどうして、選んで観たなら、なかなかよいものもあるようにおもいます。これほど、情報があふれているからこそ、なにをどう読んで、どう理解するかが、いよいよ貴重になってきますね。そして、どう判断するかも。それでも、次のホールはかならず、やってくるんです。そのことを、教えて貰って、改めて、おおきなうれしさと、勇気と、そしてたのしみを、おおいにもらえた、この早春です。長年、観てきた刑事ドラマの最終回を、録画したつもりが、さいごの30分が。。。尺がたりておりませず。。。なんともはや、わたしらしいことで。ともあれ。7年前に録画したままみていないドラマを見つけました。いねむり、しながら、観てみることにします。ドライブに、行きたいですね。こんな日は。。。

テレビで、いい景色の、すばらしい眺めの場所が、しょうかいされていると、おもいます。あああ、ここで、手紙を書いてみたいなぁ~と。風に吹かれながら。。。ふ~。なんとも、綺麗な景色は、不意にやってくるのですかね。すばらしい色合いの夕日も。海にきざまれる波のもようも。。。ふ~。ため息というのでしょうか。それとも、ほっと、わずかに安心できたこころの息でしょうか。朝から、気づくと、息をおおきく、なんどもはきだしています。ふ~、と。

 

膝がですね~。いたむとです。いえ、いたむというのではないですね、いえ、たしかに、状況次第で痛む瞬間もたしかにあるのですが。それより。まぁ、ひとことでいうと、具合がわるい。それだけで、全身のうごきが、まったくもっておもうようにいかんとです。体重ばらんすも、なんだがぎこちないし、たちあがるとき、なんとも、かんとも、もどかしいし。ううう。です。トレーナーさんに言われて、レントゲン撮ってきました。まだ、ちゃんと軟骨ありました。ドクター曰く、いわゆる半月板のいちぶに小さな傷ができても、そんな風に痛むと。しかし。たしかに、何日もかかって思い出しましたが。ゴルフ場で茶店の前の下り坂で。グリーンを降りるところです。で、あるときぐにゃっと。そのときは足首だとおもったから。そしてそのあと足首はなんともなかったから。すっかり。そしたら、そのあとですねぇ。年末くらいから、あれ?って。そのうちあれ、腫れてるなぁって。

 

いや~、ひざをかばって歩くと、ときには、足の付け根や、腰まであれれと痛むときまで。ふ~、でしょ。件のトレーナーのせんせいに従って、ぐああんじょうなサポーターをするのですが。そのあと、かゆいのなんの。むれるのでしょう。ひじょ~なかゆがりです。湿布だって、続けるとあっという間にかゆくなる。むむむ。なのです。一病息災とはいいますが。ふ~、これのおかげで、その他の厄災から守られているとしても。。。む~。はやく、治したいですねぇ。不思議なもので、具合のわるいところがでてくると、てれびで、あるいは、いつもの海岸で、だれかが、軽めのジョギングしているだけでも、ひざに目がいくんですねぇ。ああ、軽やかに動けていいなぁ~って。あたりまえのありがたさを、おもいます。まもるって、たいせつなことなんだなぁ~とも。もちろん、いしきしてばかりでもいけないのでしょうけれども。こうげきはさいだいの~ともいいますけれども。ふ~。そんなこんなで、ウグイス鳴くのをまってるだけでも、いけないときもあるのかしら。。。なんて、ふとおもってみたり。。。いえ、ほんもののウグイスは、このまえ尊敬するプロと今年2回目のラウンドをさせてもらったとき、朝、3番の100ヤード手前の左の木々で、もう谷渡りの声をしていましたっけ。

映画を観ました。な、なんと、貸し切りでした。オンリーワンです。ひとりだけの、映画館でした。なんとも。うれしい。。。のですよね。ふくざつでしたけれども。はじまるときは。気がつくと、家でひとり観ていると錯覚していました。引き込まれていたんですね。大好きなワンちゃんは、CGのようでしたけれども、それでも、なっとく、まんぞくな、内容でした。名作「逃亡者」は、ハバナからの帰りの飛行機の中でも見逃し、結局ずいぶん後で、観たのでしたが。今回のは、俳優さんの存在感以上に、ストーリーの力に引き込まれていました。強さは、やさしさ。やさしさは、強さなんだなぁって。あらためて、背中を押される思いがしました。この前、観たのは、「フォードVSフェラーリ」でしたが。どうやら、映画も、男らしい!?内容のものが好きなのでしょうかねぇ。。。たしかに、「ブロンクス物語」も、感動しましたねぇ。

 

も、もっとも、「ユーガットメール」と、「ロクサーヌ」だって、大好きですけれど。あ、「マディソン郡の橋」だって、映画館で、しびれましたねぇ~。思い起こせば、「許されざる者」にはじまって、えっと、戦艦大和のでてきた映画。。。なんでしたっけ。渡さんもでてました。あれもそうだし、む~、ダーティハリーも、「ガントレッド」も、007も。。。たしかに、たしかに、ですかねぇ。「時雨の記」は、素晴らしかったですよねぇ。まず、好きな俳優さんが、でてないと、だめみたいです。昨年の、「モリのいる場所」は、2回もスクリーンで観ました。あとは、大都会の片隅に住んでいた頃、さきの、戦艦大和のと~、「博士の愛した数式」(これも2回観ました)と、健さんがチベット?に行くストーリー^^;のと~、それから、第一回の「相棒ー劇場版」と~。毎月のように、日比谷や、品川の映画館に行っていたのに。。。あとは、いったい何を観たのでせうか。。。

 

何度観ても、その都度、新たな発見があるなぁ~と感心するのは、さきの「逃亡者」に、「ブロンクス物語」。そして「ユーガットメール」のほか~、「ドライビング、ミスディジー」という、さほど有名でないですが、これは味があります。特に、老いというものをいとおしむこころが。。。沁みます。素晴らしい作品は、画面の隅々、演技の隅々、ディテイルの隅々にまで細心が払われていて、特に、「逃亡者」などは感嘆する発見がその都度に見つかります。ともあれ。ストーリーだけでなく、ひとというもの、人生というもの?、を、考える契機をくれる瞬間、瞬間、として、観るならば、ストーリーのはらはらはは、安心してわきにおいて、別の脳を働かせてみることができる、再見観劇も、なかなか悪くないのでは、と、思います。「最強のふたり」。これは、特にダンスするシーンの音楽が、こころをきもちを、ふるわせてくれるところがたまらないです。素晴らしい映画は、セリフを聞かなくても、映像と、動きと、音楽を、流れに任せ

ただ追うだけでも、元気をもらえるのかもしれません。

 

つねに、かっこよくあるということ。は、やはりむずかしいことなのでしょうかねぇ。ひとのかずだけ、ただしきこと、そうありたいと願う姿も、ちがうのでしょうかねぇ。ともあれ。だれもいないところで、どんな風に行動できるか。なああんて、いうと、なんとも、肩がこりそうですが。。。ともあれ。もっと気楽に、でも、ささやかでも、(だれもいなくとも)つねにみられている。いや、実際そうなのだと、おもいます。そうすると、背筋が伸びそうだし。とはいえ、しんどいときは、弱音ははきたいし。ぐちもこぼしたいし。まぁ。きらくなたぬきとしては、自分のこころにやさしくありたい。のかもしれません。そうすれば、きっと、だれかにやさしいきもちになれる時間も増えそうだから。。。とはいえ。いけないものはいけません。大岡裁きがあったら、どんな風にしてくれるのでしょうかと。先に書いたことに関しては、まっこと思います。おのおのがしたことは、いずれかえってくる。そうおもうので、神さま(という表現を一応使うとしたらですが)に、ゆだねる。プライドを、まほうのように、いやしなぐさめてくれる特効薬があったなら、この世に、争いごとはなくなるでしょうねぇ。自分自身を見つめ直す、冷静さを「もてる」ちからがあったなら。。。ひょっとして、いわゆる「もてる」というのは、そういうこともぜ~んぶひっくるめていうのでしょうかねぇ。

 

さきの回で、いつもと違う、なんとも、苦肉の策だったのはまぎれもなくその通りだったのですけれども、ともあれ。いつもと違う、筆致と内容で、このわたしにとっての、貴重な頁を、ゆがめてしまったような気がして、いったいわたしは、なににたいして、やせ我慢?、いえ、背伸びをしているのでしょう、と、思いながらも、それでも。やっぱり後味のわるさを、なんとか、払拭させたくて、こうして、書いているのであります。せっかく兄弟がいても、なかよくできないというのは、じつに、ざんねんなことなのかもしれませんね。もっとも。きょうだいという存在そのものが、いったいどういうものなのか、想像の範囲でしかわからない者が、あれこれ論じるのは、もとより失礼千万ですね。ごめんなさい。さてさて。かっこよくあるということ。これを、あれこれ、思い巡らせるだけでも、人生の時間は、実に、有効で、興味深いことだとおもうのは、わたしだけでしょうか。先頃、電話回線の工事をしてもらったのですけれども。工事にきてくれた若い人とは、正直ことばが通じないなぁと、おもうことしきりでしたねぇ。ことばが通じるというのは、どういうことをいうのでしょうかねぇ。ことばがまったく通じない国を一人旅したら。どんなに、多くのことが学べるでしょうねぇ。かくいうわたしも、ふだん、口をもっと気楽に開くことができたらなぁと。少しだけ思います。

 

いえ、じゅうぶん、口は達者?なのかもしれませんが。周囲が期待するようには、ことばをうまく発するのが苦手のようです。こうして書き言葉にしないと、うまく気持ちを言葉にのせることができなくて。これは前にも書いたかもしれません。ともあれ。「ゆるすこと」が、いちばんむずかしいテーマなのかもしれません。というのを、折に触れて感じたことがあります。ふとしたひとことに、カッとしたり。なんだこのやろう、と、内心思うことは多々あります。ときに、ひとは、自分とは多少なりとも、ニュアンスやその意味するところを、異なる意味で?使っているかもしれなくて。ことばが通じるというのは、してみると、実に、希有な奇跡的なことなのかもしれませんねぇ。浅学なところからの推測も含めて敢えて言葉にしてみますが。いつか書いた、計画遂行型のひとは概ね、親しい人にほど本音をいい、どうでもいい人には建前しか言わない(のだそうです)。ところが。臨機応変型のひとは、まったく逆。どうでもいい人にはずげずけ言えるけれども。大切におもうひとにほど、核心は(冗談も含めて、ベールに包んで)触れずにことばをつかう(のだそうです)。誤解が生じるのはこういうこともあるのかしら。往々にして。なるほど。とかく、言葉を求めんとしているな、と、感じるひと、ひとが、います。

 

かたや、ことばはいくらでもうそをつくので、(無論、ことばを発する人が信頼できないといっているのでは、ありません。それどころかです、ともあれ。)くうきを読んでいる。それで、いろいろなことを判断している、身からすると、ことばを、それもほんとうでないことをことばにしてよと、空気でおくられてもときに、困惑してしまう、のかもしれません。そもそも、ほんとうのことって、刻々と状況に応じてかわりますよね、なあんて、臨機応変派は考えるのです。たぶん。してみると、ともあれ、ことばって、じつに不思議です。それでも、苦しいとき、こころに響いてくるのは、なにをおいても、ことばです。それも、こころのこもった相手からなげかけられた、ことばに、どれほど救われることでしょう。その日、そのとき、その場所で。もし、こころとことばが、あるべきところに、あるべきかたちで、放たれたなら、どんなものもかなわないちからに、なってくれるでしょうか。こうして、書くだけで、だれかをたすけることができるなんて、おそれおおすぎることですが、それでも、ことばには、ありがたすぎるちからがありますよね。こうして、かっこよさとは?という永遠のテーマを、考え続けることができるのも、ことばがあってのことですから。(母国語って、ほんとうに大切ですね。だれにとっても。ともあれ。)また、書きます。快方に向かっていることを、時間が味方になってくれることを、こころから願っています。

「最高の人生のはじめ方」。すばらしい一作を観ました。老後というのは、ある時を、年齢を、すぎたらそう呼ぶのではなくて、わくわくするような動機、モチベーションをなくした時間のことをそう呼ぶのかもしれないと、おもいました。それにしても、すばらしい俳優さんです。ショーシャンクや、ホワイトハウス~や、ジャンルを超え、時代を超え、その人が登場するだけで、名作になってしまう。まるで魔法のようです。ところで。ずっとここで相談したい、話をきいてもらいたいとおもっていたことがありました。28日の日暮れ時。決定的にも。窓から覗く。10月にせいあん課に相談し、呼び出してもらって一筆とってもらったのですが。果たして。その後も、おそらくあいかぎでの侵入や。その他の動きは、ときどきあるようです。もっとも。大騒ぎする時間と、それこそ動機の無駄遣い!がもったいないんです。それに、100㌫の証拠もありません。そりゃ、まるめて焼却炉にいれてしまえたら、どんなにいいでしょう。今すぐに。もっとも、どんなひとでもほとんどのひとは、いずれはそうなりますが。ともあれ、わるい冗談はそのくらいで。

 

その昔。そのかつての隣町の山あいの集落には、その集落名を冠した~荘という宿がありました。大工の父親は昨年なくなり、その町のかつての名が冠された病院で事務員を長く務めた母の年金は大きいのだと聞いたことがあります。粟の名のつくさらに隣り市の集落の、わたしの母もかつてお世話になったディサービス。いまはかんたきというのもやっていて、さらには風のつく名前の別の預かり所も海に近い町にあるそうですが。そこの女性オーナーが紹介してくれたのが発端です。大工だったという父親をその施設で送り、以来、毎日朝と晩、やってくるのに相当迷惑していたようです。つまりは、厄介払いですね。互いに(親を亡くしてひとりとなった)「傷のなめあいをすればいい」とも。ともあれ。わずかでも隙をみせた当方の落ち度、ということにでもしないと。いかりのやりばがないですものね。その施設のある市の盛の字のつく建設会社だそうでうが。「いってわかるひとなら、いわなくてもわかる。いわないとわからないひとは、いってもわからん」。という名言が池田晶子さんの書の中にあります。鍵を替えるくらいで、カメラをつけるくらいで、やめられるくらいなら、もとよりそんな行動にはならないでしょう。

 

反応をするのがもっともいけないとおもうのです。某かの反応をすることが。そのてのやまいは死ぬまでなおらないと聞きます。(これはかつてどこかの2課長さんが教えてくれました)。家族が居ないと言うことは、まもるべき人、まもるべき信念?(などもとよりかもしれませんが)がないということで、ブレーキのないくるまと同じですしね。ほんに。ひとは、どこまでも、品格。そして信念が。そのひととなりをつくるのですねぇ。一事が万事。日頃の行い。すべて18ホールにも通じますね。だれかがみてるみてないで行動をかえるということは、それだけ、自分自身を、そして自身の人生という時間を、ないがしろに自らしているというのことなのですね。ですから、そのような値のないことに、できるだけ時間もこころもさきたくはない。ただ、安全策は、必要ですよね。できるだけ多くのひとに知って貰う。自ら、やめる。というのしか。その人間がいきるのをやめないかぎり、そのこころねは、かわれるのでしょうか?子どもや孫がいてもいなくても、だれにも恥ずかしくないこころを持つ。いくつになってもそうありたいものです。もっとも。いちども生まれた家を離れていない、鬼退治にいっていないというのは、桃太郎を顧みるまでもなく、永遠に大人にならないまま時が過ぎていると言うことなのでしょう。じつに、そんな人間のなんと多いこと。国と国の戦争はいけませんが、昔で言う、元服の意味が、内容が、きちんと「わからない」まま、大きくなる子の増えることを、憂います。フリーマンさんのような、滋味溢れる人間が少しでも増えてくれますように....。

 

人生の、貴重な時間は、ともあれ、大事につかいたいものです。(それでも、だれかよいアイデアがありましたら、よろしくお願いします。m--m。なるべく、静かなかたちで。。。)

咲き始めています。手紙を投函しました。日曜日のこんな早い時間に海辺にたたずむことができた、午後の早い時間、白波が大半のキャンバスをうめつくしてしまうような、風と空と雲のしたで、くるまの中で風と波の音を聞きながら、書いていました。その瞬間に浮かんだことばを、そのまま文字にしました。いつもとすこし違う、南の街の海辺でかきました。漁船と船小屋が吹き荒れる風の中で、じっとしているこもれびのさす午後でした。舟が水に入るときに使うのだろう、コンクリートの下り坂の途中まで、波が水しぶきをあげて、寄せてははじけてかえしていく、を、くりかえしていました。いちども手を休めることなく、動き続けていたらとてもつづかないようなほどに、波が、いつまでも同じ調子でうねりつづけ、海と空と雲の絵が目の前に拡がっていました。ありきたりな季節描写も、時候のあいさつも、ましてやげんきかいなかについても、なにもふれないで、ただ、目の前の風景について書いていた。。。ようにおもいます。なにをどう書いたらとおもいながらも、それでも、その瞬間にうかぶことばをつれづれに。。。とおもって。。。書いていました。

 

3枚に書いて、そして、それから海辺にほどちかい、図書館に足が向いていました。岩手に住むおじいさんが、上京したあといなくなった孫娘をさがして、浅草に訪れるところ。中国山地の鍛冶屋さんがいなくなっているところ。5番ホールの奥の海だったことは、忘れていました。インスタートと、書かれていたことにはっとしながら、読んでいました。アウト2番の右はたしかに、左利き泣かせの右白クイがすぐそこでした。巨大なせんぷうきのすぐそばに。。。その2番ロングの、サードショット、右のラフから、奇跡的に7番アイアンで、バーディショット(つまり、ピンの根元にむかって、まっすぐ、打った瞬間に、いったとわかるあの手応え)を、打つことが出来たのは、あれは従業員コンペの後半のハーフでした。あれからいったい、どれほど時間がすぎたのでしょう。ともあれ。右の上の方にカートが離れてしまうこと。。。5番のグリーンは、左右に長くて置くが狭かったのいうのが、こうして書いていて、やっと少しずつ映像がよみがえってきました。ちょうど、そこのところまで読み進めていたらば、ちょうど5時の音楽が鳴って、閉館日まえの閉館の時間がやってきてしまいました。

 

最初にその本を、いちぎょういちぎょうゆっくりゆっくり読む時間を少しでもながくしていたい、そのほんと一緒に居られるじかんを少しでも長くしたいと読んでいたとき、あれは、4丁目のレコード屋さんの裏手にある2階の喫茶店の、真ん中あたりの椅子に座っていたのでした。あれは、夏だったでしょうか。そこにいくと、決まってガトーショコラと珈琲でした。ほんとは濃いめの珈琲というのがメニューでは別にあって、そっちがいいのですが、ケーキセットにそれを!というのがちょっぴり生意気な気がして、1100円のセットを頼んで、読むのが嬉しい一冊と訪れられるとき、その一席は、いつも以上にとっておきの、時間になるのでした。星と月と夜と。また、続きを読むのがいまから楽しみです。図書館にいくと、とっておきの一冊がある。これもいいなと改めておもいました。きょうの夕日も、とっておきのと、いってもいいくらいの、やわからでいとおしくなるような色合いで、薄い雲のあいだに、あわくあわくなっていました。きのうよりは少し少ないけれど、それでもしっかりした色を残した白波が、いくつも、凜、とした白線を描いていました。あのクラブハウスの前の高さからみえる、マンハッタンのトワイライトは、背景にうつくしすぎる山をいだいて、確かに、えもいわれぬ深みのある色いろの、夕刻のグラデーションを見せてくれる、とっておきの場所のひとつですね。間違いなく。

安心とふあんは紙一重なのかもしれませんね。ふとしたことで、こころは、かるがるにもなるし、もうもういやいやにもなってしまうのですね。なにをしているときでも、こころがかるく、ともあれきょうはホッとできる時間とあいさつの瞬間にであえて、うれしいなとおもえるときと。そして、ふとしたことで、あ~あ、もしまた~になったらどうしよう、だとか、このさきわたし~などと、ひげきのなんとかみたいなセリフがこころに去来してしまうと、もう、いけません。しばし、いえ、とにかくそれはことばとしてうまく変換して、ふあんをことばといっしょにはきだしてしまわないと、ずっとこころにたまってしまいます。だから、家に帰って、もう、まったり、だらだら、ふわふわモードになって、そして、ほかではいえないことを、こころおきなく話せる相手というのが、あああ、たしかにほんとにひつようですねぇ。ですので。代わりにこうして、書いているのです。かもしれません。とおもうのです。

 

その車は、これで人生6台目。おもえば、きづくと、うち、3代が、その、ざ・こくさんしゃ、の、その車に乗っています。どれも、ちょうど乗り換える方があって、それを譲って貰ったものばかりなのですけれども。運転席から、タイヤの着地点までが近いんですね。スパイクの裏で確かに地面をつかんで、前に進んでいる感覚がしっかり伝わってくる、その感じが、とても運転していてうれしいと思える一台です。と、わたしは思います。もっとも、2速から3速にあげるときのあの手と、エンジンとシート越しに背中に伝わってくる躍動の感じが、アルファのそれは、たしかにほかのどれよりもワクワクをくれていましたが。走っていて、くるまのごきげんな様子が伝わってくる一台でした。

 

色にだきょうしたら、後悔するというのは、二台目のギャランの時に、痛感しました。紺はいまも、落ち着く大好きな色であるのですけれども。ギャランにカンしては、とにかくVR4のシルバーがよかった。いえ、それでなければいけなかった。そんナ気がしています。結果的に紺色のそれにのったあと、バイクがきて、そして、ゴルフが来るわけです。その紺色がなければ、いまのゴルフはまったくなかったのかもしれない。。。そう思うと、すべての瞬間、けつだん、流れに感謝と、敬服と、そしてため息にも似た嘆息をしています。それにしても、その国産車。いまもどんどん進化していますね。走るシルエット、佇まいがじつにかっこいいです。もっとも、くるまではなくて、運転者がそうのせいかもしれませんね。わたしがいまのっているのは、すこし前の型です。そして、ハッチバックとオートマはくるまではない、とまで、かつてここで書きました。そして、実際その考えはかわっていません。が。するといまはくるまにのっていないことになります。が。それでも。いまのくるまにめぐり逢えた縁にとても感謝してやなまいきょうこのごろです。

 

ゴルフも人生も、そしてくるまも。どこまでいってもこれでゴールというのはないのでしょうか。だから、おもしろい。のでしょうか。いつまでいっても、その都度あたらしい発見がある。のでしょうか。ああ、この方が独身だったらなぁと、嘆息するたびに。おもいます。ふ~。じんせいは、ながいと、待つことをたのしめたらと。もっとも、じりじりしないで。いつの、だれのを、まっているのかさえ、そして、まっていることさえ、自分でもわすれている瞬間に、ふと、やってくるものなのでしょうか。えんというのは。いつかラウンドを。ずっとそれはなくさないで。もちつづけていたいなぁと。おもいます。どこまでいっても。いつでもどこでも。そしていつかどこかで。歩くだけでもいい。コースを。海をみながら。そんな風におもっていたいなぁと。ことばは、ときに、かいている自分自身をもなにより励ましてくれます。きっと、このことばがあなたに届いて。いつかどこかで。と。そうおもえた瞬間に。こころは、ふっと軽くなります。そういえば、軽やか、華麗な。そんなゴロから、そのくるまの名前はついたのでしょうか。イロハ、色はとても、たいせつですね。こころにきぼうをつないでくれます。そんな気がします。