雪がこの冬はじめて舞っています。旅がすきです。つねに、にちじょうをはなれる時間と空間に、あこがれ続けているのでしょうか。旅にでる、というのを想像するだけでも、こころのなかの、うれしい成分がふえていくような感じがします。動く景色を眺めるのがすきなのかもしれませんね。常に、この一瞬しかおなじ表情のない風景を眺めることが。空とうみと、波と。砂浜と。遠くの岬と。それが拡がる、道を走るたびにおもいます、この風景をそのままお見せしたいと。というのは、いつかもここに書きました。景色があるから、そうおものか、とどけたい相手を思い浮かべるのか、それとも。おもうかたあるから、すてきな風景がしぜんと、そうおもわせてくれるのか。いずれにしても。ワンちゃんたちとおなじように、つねに、いまこのときを生きていること、にだけおもいをめぐらせていたいなと、おもいながらも、どうしても考えてしまいます。大丈夫に少しでもちかづいていたらいいなぁと。

 

いつだったか。ひとはながいみじかいではなくて、それぞれのおのずときまったじゅみょうというものでいきているのですよ、ということを。そのとき、はっとしたのを覚えています。とはいえ、そんなこと、とても賛同できない瞬間もあるかもしれないです。いえ、あります。ありました。たしかに。しかし。それでもおもいます。たとえ、くらぶを振るなんてとても無理でも、景色をみることはできます。あるくことがすぐかなわぬとも、座ってでもそのばしょを訪れることはできます。風景を眺めることはできます。うごく景色がいちばんですよね。たしかに。だれかがだれかの車いすを押しているのをみるたびに、おもいます。つらいのは、押しているほうではなくて、たぶん、押されている方のこころなのだと。たぶん。当たり前にそうしてもらって、自分で歩いているのと同じような気持ちで流れる風景を眺められるまでに、いったいどれくらいの、たかいやまとふかいたに(のようなしょうがいぶつを、こころのなかで)のりこえないといけないのでせうと。ともあれ。窓の外はどんな景色なのでしょう。

 

立春が来て、暦の上での新年だと聞いたことがある気がします。するときょうは元旦ふつかということです。あのコースの11番ホールで「眼の覚めるような」ドライバーでの第二打を、いまもしっかりと覚えています。おおきな扇風機のそばのコースです。右ラフにひろがる台地状になった丘のうえからの第二打でした。あれから、ドライバーはティーショット以外で綺麗に打てると、もっとかっこいいのだなと、知りました。あのあと、つぎつぎと出される、じつに興味深くほかでは決して知ることの出来ない話々から、どれも頁をめくるのがうれしくて仕方のない時間をもらいました。こうして書いていても、自分でももどかしいほどに、陳腐なことばしかでてきませんが、それでも、ボールではなくこれがそばに届けば!と、願いながら書いています。ありきたりなことばは、ときによけいにこころをつらくするのかもしれません。たとえそれがはげましたいとのおもいからのそれであったとしても。それでも、なにかことばをかけずにいられない。たがいのもどかしさがぶつかるときもあるやもしれません。それでも。おもいをそのままにだしてください。がまんしないでぜんぶことばにしてぶつけるしかなきときもあるのだろうと思います。ほんものの春までには、まだまだたっぷり時間はあります。

を。ずっと考えていました。地元の温泉につかって、戻って来て。いつもの位置に腰をおろして。気がつくと考えていました。わんちゃんの名前について。。。やっぱり声。だよなぁ。声がいいとおもうひとは、いぬもですが、その空気、雰囲気だって、おのずといいのかなぁ。佇まいが、まとっている空気が、ほっとすると、それだけでいいなぁって。自然とそばにいたくなるものです。毛の長さと、気持ちのそれは比例するのでしょうか。あ、これはわんちゃんの場合ですが。。。いやいや、そうでもないかしらん。さむは、まるで北国でそりを引いてた先祖を持つかのような、二重の分厚い毛に覆われていました。そとは直毛、中はパーマ?。これなら雪上で寝てもさむくないかもね。そう思えるほどあったかそうでした。先日、10歳が70歳にあたると聞きました。とすると。1年で4歳としをとるそうですから、17歳のさむは、98歳だったのです。あれから、ちょうど11年のきょうです。ひと晩で大雪が積もったその前日に。彼は、みごとに、みごとすぎるほどに。彼の概ねの毛の色と同じ雪の色の中に。。。

 

それなのに。それほど、さむは、わたしにとって、絶対な存在なのに。なんということでしょう。ワンちゃんの名前について、真剣に考えていました。気がつくと。別のことを考えすぎるのを、脳が、ひとりでに、そうしなさいと、言ってくれたのでしょうか。まるで、そんな風でした。名前は、やっぱり、aの音で始まる方が、あっとうてきに呼びやすい。雪山でいなくなるのではないとしてもです。それにどこか、そばにいてほしい、頼りがいも感じるものです。uや、oの音も、やさしい響きで、ほっとしますが、呼びやすい、大きな声を出しやすい二はやっぱりaの音からはじまるのがいいですよね。ふたりきりで、耳元でささやくときには、uや、eの音もいいのでしょうかね。asa。これはさむの、さの字も入っていて、おまけにどこから呼んでも、aだし。まったく最強だなぁと。漢字にするにも、縁起のいい字の候補がいくつもあるなと。おもってひとつ、らいばるしのかしらもじだなと。これがどうにもひっかかり。。。などと真剣に名前について考えている、自分に驚いています。それくらい、こころはストレスを感じているのかもしれませんね。

 

ついでに(というと失礼ですね。ごめんなさい)、ムーちゃんのことも思いかえしていました。おそらく、ちょうどさむとは同じ年頃でした。もちろん、こちらは、血統書つきです。ダークブラウンのロングヘアー。ダークと言っても焦げ茶ではなく、明るい方の濃い色!?です。つまりはミドルブラウンかな。母がいつかいい色だね。そう話していました。確かに。ほかの2色より、わたしもこの色がいちばんと思います。ムーミンからつけられたそうです。当時6年生だった飼い主のひとり息子さんがつけました。聡明で、ことばをしっかり理解していて。飼い主のお母さんの言うことにだけは、見事にいい子でした。文字通り、家の中の順位付けがとてもわかりやすくて。。。かなしいほどに。。。私がそのお宅にいくときは、私が散歩にいく、そのかわりに晩ご飯をご馳走になる、という習慣になりました。7階の廊下を歩いてドアのフォンを押すと、スタンバイ完璧のムーチャンが一目散に置くからやってくる足音が聞こえて、ドアがあきます。かばんを置かせてもらうひまももどかしく、その足で散歩です。近くのロシア大使館のそばまで歩いて、帰ってくるのですが。そのそばにある公園の滑り台の上に乗せてあげると嬉しそうにスロープを降りてきます。短い足を精一杯動かして。

 

たしかに、地上10数センチを歩いているのですから。わたしたちが見ている景色とは、全く違うのでしょうね。だれかとすれ違うのひとつにしても、まるでゴジラのように足が、間近にせまってくるのでしょうね。そりゃ、気疲れしてしまうのかもしれません。かえりみち、コープの前近くまでやってくると、突然、歩くのをやめるんです。まるでだるまさんがころんだでも、しているみたいに。そして、なんど名前を呼んでもびくとも動かない。最初にそうなったときは、しばし驚きました。ううん、どうしたものかと。抱え上げて、帰路につくのが、確かにいちばんてっとりばやい。んです。でも。そうしたら、もう永遠に彼の方が常に。。。と、おもいました。というより、そうすると、いけないのではないかという、気がしたんです。まだ21歳のころでしたけど。自分で勉強する方が。ずっと楽であると。貴重なことを教わったころです。その6年生だった息子さんに。ともあれ。ムーチャンのためか、わたしのためかと訊かれたら、そりゃ、深く考えたら、そりゃ、後者でしょうね。いや~。別に、そこまで思ったでしょうか。抱えて帰った方が、ずっと早くに、晩ご飯を食べられるのですからね。それでも、待ちました。しだいに、根比べのようになっていましたが。果たして、戻ってからお母さんに伺うと、お母さんと行ったらそんなことは一度も無い!そうです。そして、お父さんはというと。止まるやいなや抱えてあげるのだそうです。

 

そんな家族でしたが。あの朝。お母さんは、ムーチャンのそばで全く動けなくなっていたそうです。そして、お父さんはというと。一目散に息子が眠るベッドに走り、上の棚が開いてものが落ちてこないように、必死で揺れと闘っていたと。その日の夕暮れ、片付けのお手伝いにでかけたときに、聞きました。嗚呼、家族っていいなとおもいました。あれから25年と1週間の月日が流れたのですね。9年と、320日(合ってますか?)前の、あの日の午後は、この同じ部屋にいました。母と一緒に。いまも、朝出かけて帰ってくるまで、勝手口のドアのガラスの下の出っ張りに、しがみついてるかえるくんは、やっぱりサムの生まれ変わりかとおもってしまいます。もっとも、この季節、カエルくんはまだ出てきていませんが。とあるコースの10番ホールのグリーン横で、カートを隔ててわずか1メートル、逃げもしないで同じ高さの目線に立って!?、こちらをずっと見つめて何かを言っているかのようだった、少し前のカラスくんは、ひょっとして?。そう、あとになって、思わないでもない、目をしていました。それにしても、あんまりさわやかすぎるなまえより。少しくらい、ひっかかりのあるほうが。なにが、がさがさするほうが。年を重ねると、むしろそうでないと、ピンとこない。ひょっとしたら、そうなのかもしれませんね。なまえだけでなく、そのまとっている空気にしても。。。

 

 

ギブスを演じているその俳優さんがかっこいいからというもあるけど。グレイヘアにはやくなりたい。ずっとそんな風に思っています。緒方さんの立派な生き方を尊敬しているのもほんとうです。知らせをしってからもうすぐまるいちにちです。夢をみました。あさがた。どこにもいかれてしまわぬように、ひっしでしがみついていましたが、ふときがつくと、もうかえられたといわれて、なきそうなきもちでいたところで、めがさめました。それでも、夢はたいてい逆になる。といいます。

 

ことばの無力をつうかんします。じぶんがベッドの上で、6週間以上、もうどうにも溶けそうもないこころを抱え、未来がただこわいものでしかなかったとき。そのころのおもいをふりかえってみると。ことばは、それを発する人のこころを表すものなのですけれども。それがこころのままであれ、そのはんたいであれ。ともあれ。言いたいのは。つらいとき、つらいこころがほしいのは、そのときのこころがほっしているけど、それをいわれるまで、自分の中では生み出せないことば。それでいて、きもちによりそって、こころによりそっているひとの、こころから素直にでてきたことば。なのかもしれないと。いまおもいます。それいがいのことばは、ともすると、いわゆる、はげましのことばというものは、ときに、おもにいがいのなにものでもなく。それでもつらいこころは、なんでもいいからことばをもとめてしまい、そして(そこにおもいどおりのことばやこころがないと)らくたんする、それのれんぞくで、じかんがよりおもいものになってしまいます。

 

みまもるほうと、そうされるほう、どちらがつらいか、なんてわかりません。それをきめることにどんないみがあるでしょう。かつての思いで深いシーンや、ずっとさきの希望のすがたについても、うっかり安易にみつけたことばはおそらく、よけいつらくさせるだけかもとおもってしまいます。それにしても。どうして、16日でも17日でもなく、それは21日だったのでしょう。ごめんなさい。こんなひとりごとも、つまらないたわごとですね。案ずることと祈ることしか、できないのかなとおもいながら、それでもあきらめわるく、いつまでもいたいとおもっています。正直、あさから、もうひとりの俳優さんの方の、緒方さんの一人舞台を見逃したときの教訓について、やっぱり思い返してしまいました。こんなタイミングで話すのは、無礼、無遠慮がすぎると、はン静しながらも、それでもいつかどこかでは、まだまだ続くと。そう思って書いています。

日曜日の朝、宿のカーテンを開けると、そこには、突然ものすごくおおっきな姿が現れたそうです。それも。朝陽を浴びて。。。予報では、東海地方は雨、曇りでした。念願の初・関東です。念願だった(らしい)スカイツリーとオリンピックスタジアム、そして日本一有名なスクランブル交差点の雑踏を無事、カメラに収めることができたあとでした。2日間有効の往復バスチケットで出かけたそうです。かつての少年ふたりで。土曜の午後についたとき、そこには、曇った空と、どこにでもある田んぼと日本風民家しかなかったそうです。あーあ。あした晴れなかったら帰ろうと思っていたそうです。それが果たして。冒頭の劇的な、出会いだったそうです。夢中で撮ったショットを送ってくれました。まるで、絵はがき。いえ、それ以上です。頂上の雪けむりまで映っていました。わたしも、そんな風に念願の出会いをしてみたいものですねぇ。話を聞いて、想像しただけでも、息を飲みそうです。最高の出会いですね。まうんとフジとの。。。(あまりに、素敵な風景と空気に、同じ宿に連泊を申し出て、おやすみのタイムリミットぎりぎりまで、その霊峰のそばでなにもしない時間を過ごしたそうです。なんて贅沢なのでしょうね。うらやましいです。旅はこうしてしてみたいです。)

 

と、いうことを、過去形の動詞をいっさい使えない?使わない、いつか話した友から電話で聴きました。こちらの、知ってる文法通りの文と熟語で、詳しく言えば言うほど、向こうには伝わりません。とにかく、向こうが使っている動詞を名詞だけをつかって話すと伝わります。ことばって、きっとそういうことなのでしょうね。そして、少しずつ相手がわかることばを、そしてわたしがわかる単語を増やしていったら、何年もかかって、少しずつ、こうやって独特の?英語で、片言どうしでもちゃんと、ドラマチックすぎる富士山との出会いもちゃんと想像できたし。ひと月かかって、今回の東京行きを断念してもらったはずでした。友は、さらにほかのわたしもよくしっている友たちに、少しずつのカンパをお願いして、わたしが東京に行かれるようにまでしてくれていましたが。それでは往復のチケットも買えない金額でしたが、それでも。気持ちがなにより嬉しかった。し、しかしです。やっぱり今回は見送りました。てっきり次の機会にというから、東京も次の機会にしてくれたのだと思ったら。そこはそれ。でした。どーしてもことしのこの年の東京!に行きたかったようです。ほかに、入り組んだ首都高の背景?底景?を、下から撮りたいといっていましたが。それはガイドブックにナイスなポジションがなかったのでしょうか。日本橋のうえから見える景色、ではそれほど交差していないのでしたっけ。(と、いうことで、先にお伝えした日にちの滞在は、(2年先まで?)延期としました。m--m。)

 

わたしが一年おきにヨーロッパまでいかれなくなってから、一年おきのこの季節にきまって来てくれています。てっきり東京をあきらめてここまで来てくれるとおもっていたのに。。。まぁ、そんな劇的な出会いがあったと聴いたら。。。それはよかった、と。やれやれ。やっぱり、こんどもまたわたしが近くまでいくはめになりました。おやおやですねぇ。だから懐が。。。と言っているのに。まぁ。東京いったら、あの、ココナッツミルクの風味が忘れがたいカレーうどんも食べたいし。クローバーのラムレーズンも食べたいし。4丁目の凜の珈琲も飲まなきゃはじまらないし。いつもお客でいっぱいのフルーツタルトは、中二階のホットケーキは、なくなくあきらめるとして。。。も。ともあれ。首都に行くほどの懐は確かになくても、行ってこられそうですが。あああ、あの、戦火を奇跡的にまぬがれた、三角形地帯の、午後でも相席になる、あそこの「おおもり」がこいしいなぁ。ネギは、麺の方に載せて食べるのが美味しいのですよねぇ。なんにんもいてもだれひとり無駄なうごきがなくって、てぎわのいいおばさま方の、いわゆるきゃくあしらいというのが、ああすばらしいなぁといつもおもっていました。そして、あそだけはいつ相席になってもほぼ、不愉快なおもいひとつしたことがないのです。それもきっとおばさまがたの目が守ってくれているのでしょうね。いつもでかけていくのはひとりで、でしたが。その空気もふくめて、美味しいのですね。きっと。味は、そのばしょの空気がたしかに、口に入って味わいとなるのでしょうねぇ。だから、だれと食べるかでも、味はまったく違うものになる。のでしょうねぇ。

どちらかというと、臨機応変が体質にあっているひとよりも、計画してそれを遂行するほうが落ち着く人の方が、多いんですね。数の上では。6割近くいらっしゃいます。もっとも、ひとには4つの性格の柱があるらしいので、4つが4つとも、後者、という人もこれまた珍しいはずなのですけれど。また、歳をとってから、ずっと仲がよかったはずなのに、妙にかんに障る!?ということが増えたり、あるいは逆に。あれ、あんなに嫌いと思っていたのに、このごろなぜだか、あれこの人こんなところが?と、親近感が沸いてきたり。ということがあったりするのは、4つめの性格は主に中年を過ぎて、老年にさしかかる頃から、強く顔を出すからなのかもしれないと。。。やっと、いまごろになって、気がついてきたりしています。まれに、本質にあたる性格と、その4つ目のが全く同じ星の方場合、よくいえば、ぶれがない、のですが、反対に見ると、歳と共に、まるくなったりしない!ということかもですねぇ。まぁ、気持ちはいつも青春、であるのは、確かにだれにとってもいいことかもですねぇ。もっとも、歳と共にかっこよく渋くなれたらいいなぁとは思いますけれども。

 

それにしても。同じ部屋の中で、トラやライオンや、ヒョウさんたちがいっぱい眼光光らせている中に、もし、コアラやサルやコジカさんがいたらば、それは、さぞ落ち着かないでしょうねぇ。とにかく話しかけて、安全を確かめていないと、沈黙はひじょーに、たまらん、のかもしれませんねぇ。同じ草食でも、唯一、何を考えているのかわからないと、ほかの方々に思われてもどこ吹く風(に見えるのが、ほんとは空気はそれなりに読んではいるのですけどね)、ゾウさんです。たとえば、おサルさんたちがわーわー過ぎると、こっそりため息、しずかにの~びりしようよ~と、心の中で思っているのですねぇ。ですから、同じゾウさんのひとがいると、互いに言葉は交わさないけど、ホッとしているのですねぇ。と、いくら説明うけても、沈黙がこまる方には困るのかもしれないですねぇ。と、これはあくまで想像なのですけれど。まぁ、見ていると、ああこんなに猛獣のたくさんいる中にいる小動物のひとびとは、それなりに苦労が絶えないだろうなぁとは、おもいます。いずれにしても、それぞれに感じることは千差万別なのですよねぇ。

 

ちなみに、ホームランバッターには、圧倒的に臨機応変型の方がほとんどなのだそうですが、そして、ゴルフでもピンチに強いのは、やはり臨機応変型に違いないはずなのですが。歴代の有名な方をみると、成功者を目指したい臨機応変型、よりも、財産家を目指したい計画遂行型の方の方が多いのだそうです。もっとも、それぞれにタイプの中には、3割~4割の人格者を目指したい人たちが混じっているそうです。その人たちは、自分の意思より相手によろこんでもらうことで嬉しいというひと。多数派、計画遂行型のなかでも、多数派の人たちは、自分の気持ちが第一位。おそらく、他のすべての人もそうに違いないと思っているの?でしょうか。また、太陽のように自然と明るくする臨機応変型のなかの、多数派のひとたち(成功者をめざしている人たちです)は、その日の気分が最優先です。ですから、きょう、だめ、と言っていても、内容次第では、あした、あるいは、数日たってから、言ってみたらば、案外、ああいいよ、の、返事が返ってくるかもしれません。なにしろ、臨機応変型ですから。状況変化のめまぐるしいときほど、真価を発揮しますから。

 

とまぁ、外見は草食動物でも、内面は、肉食(このタイプは、いちばん得をするように見えますねぇ。なにしろ、ソフトはイメージで、いざとなるとハンターさながらの瞬発力がありますから)のひと、反対に、外面だけ肉食だけど、ほんとうはいたっておとなしい草食(このひとは、でも、静かにこつこつと猛獣さんたちが苦手とする手間暇のかかる地味な仕事をそれほど嫌と思わずに落ち着いてできますねぇ)のひと。そともうちも、肉食のひと(うーん、これだときっとまわりが苦労?しますかねぇ)、ぜ~んぶ草食のひと(は、おそらく、ピンに向かって鉄の棒を振る競技にはじめから、興味を示さないでしょうか?ねぇ)、まで。ともあれ。このひとはきっとこうだから、こういうタイプなのだろうなぁと。おもってみてたら、知らずにイライラしているときよりは、いくぶん、冷静にみることができるかもしれないです。と、最近になって、かつてはやった動物なんとかの真意について、あれまぁ、と、思い返してみたりしているのです。

 

ところで。ネット上に、こんなにたくさんの文字や情報があふれていると。ふと、おもいます。ことばは、どこまで、ほんとうをつたえられるのでしょうか、と。そして。どこまでどんなかたちのうそを、表面にのせることができるのでしょうか、と。うそにも必要なものと、ただだれかをきずつけるだけものとがあるとして。行間や余白の価値の発揮される場面がどんどん少なくなっていて、ことばのちから、ことばが意味とちからをあわせたときのちからを実感出来る場面が、どんどん少なくなってしまうような、そんなききかんにも似た気持ちを、時代の便利がどんどん進む中で、ふとおもってみたりするのです。量より質。そんなことが、ことばについても、日々実感できるような、時間と空間が、わずかでもあったら、きっと、23時間の忙しい中でも、ほんの1時間そんな時間空間があったなら、きっと、ホッとできて、つかれたこころをとても癒やすことができるだろうなぁと。まぁ、23時間、1時間というのは、いささか大げさなたとえではありますけれど。やっぱり、ことばの芯にかくれているのは、それをはっした気持ち(がすべて?)なのかもしれませんねぇ。

この年末恒例のことばのさきは、「(よいお歳を)おとりください」から来ているのでしょうか。そのむかし、歳は元旦にみんないっせいにひとつ増えるものだったと聞きました。それで、お嫁行きのとき少しでも若い年齢でというので、元旦や二日にうまれた女子は、大晦日うまれとなった。と言う話を、実際に、届け出は大晦日だけど、ほんとうは二日生まれという方にお話しをききました。藤吉郎さんは、ほんとうに元旦うまれだったのでしょうかね。もっとも、その当時は、今の立春がお正月?神無月が、いずもにみんな神さまが行くのが11月。。。ん?ということは、いまの12月が元旦?。だから、干支の子の月がいまの12月。。。ですものね。。。いつの日か、ねずみ年とその前後、というコンペをできたらなぁと、おもっていましたが、きょうおもいました。どの干支もぜ~んぶ、子の前後、というより、すべての干支は主人公で、どこをスタートにしてもみんな、みんなその前後にいるのですものね~。いつしましょうか?みんな来て下さいますか?

 

ひたすら話し続ける、ラウンド。実にたのしかったです。頓智がつぎからつぎから、コーナーをまがるごとに、くるくる話題がトビながら、そのはしばしで、ヒット名言、座布団が、つぎつぎやってくるような、名文句が飛び出して。。。実に愉快で。おもしろく。。。機知と、機転の連続!?。かもかも。『備忘録』さっそく、探してみます。塩野七生(ななみ)さんの、『男たちへ』も、30代だったわたしには、とても名言のあらしでした。。。すてきに歳を重ねてこられた方々の、感想を是非うかがってみたいです。もちろん、男性の方のご意見です。女性ならでは、スパンスパンと、いう裁ち方をするような言葉がわたしには、きいていて核心をその都度ついていてここちのよい文の連続でした。20代で読んだ『男というもの』は、これは渡辺淳一さんが、50代?か60代で書かれたものとおもいますが。とうじは言い得て妙だとおもうことが書いてあったと記憶しています。女の人が、おんなのひとを表して書かれたものは。。。小説を通しての女性像を見る方がいいのでしょうか。田辺聖子さんは温かい文がいいなとおもいましたが。やっぱり、文は異性を見る目を書き手の言葉を通して、読むのがこころに沁みやすいのでしょうかねぇ。

 

『男たちの旅路』の、「別離」の回と、その次の「流氷」を、是非読んで下さい。あるいは、アーカイブスで、観て下さい!是非。ことしのうちに。できたらですが。特攻隊員だったという、鶴田さんの50代の姿が、50代で「相棒」がヒットした俳優さんの20代のときの姿と、(当時の)戦中派と、戦後世代の代表との、ぶつかり合いが、そして愛はいつの時代も。。。というのに。20歳のわたしは、再放送でそれを観て、胸を、胸の奥をぐっとつかまれたというのを、いつかここで書きました。それから。吉行淳之介さんの、小説・エッセイのなかの名文集を集めた、『吉行淳之介 心に残る言葉』は、図書館で何度も借りて、あまりに素晴らしいので、改めて購入しました。司馬さんの『人生というもの』は、買ったのを安心してまだ読んでいません。ごめんなさい。買ったのは2000年です。。。おやおやですよね。この3冊は、おそらくたぶん、絶版だと思います。いまは、ネットで古本が買えてしまいます。神保町までいかなくても。。。いいのかどうかというのは、置いといて、ひとまずこの年の瀬は文明の力、便利さを素直にその恩恵にあまえてみようかと思っています。

 

おまけですが。

受験が終わったその日、その足で、カッパ横丁の古本屋街に飛び出していきました。はたして、感動的なことに、ずっと探したいとおもっていた、クリント・イーストウッドさんの初版本(西洋の映画俳優さんごとに出版されていた、B5版大の写真集のようなものです。)パート2以降は当時、絶版でなかったのですが。パート1にあたる最初のシリーズがもう絶版と聞いて、肩をおとしていたのですが。。。果たして。受験勉強から文字通り、泣いても笑っても解き放たれたその日に。あの小さな古本屋街の中の1店に。あったんです。あれには驚きました。縁があったのでしょうか。もっとも、これも買ったのに安心してしまって。。。ふふふ。今も本棚の奥に正座したままなのですけれども。観たのは、ダーティハリーシリーズ(は、パート2と5が好きでした)はもちろん、むしろ「ガントレッド」の、ストーリーと、圧巻のラストシーンに魅了されました。当時。40歳をすぎて、初めて主役を務めたというのにもいいなとおもいました。

 

そういえば!さきの「男たちの旅路」の「流氷」の回で、たったワンシーン、池辺良さん演じる上司に(最果ての地に行った鶴田さん演じる警部補・吉岡晋太郎さんを呼び戻すことに)難を呈するいちガードマン役で。あの、京都を黒のリュックサック背負って、野際陽子さん演じるデスクの「すぎうら~まちなさい~」のあのフレーズがとても懐かしい、杉浦キョウスケ(恭介であってましたっけ)さんを演じる、名優さんがでていたのですよね~。この方も、40歳を過ぎて、樋口可南子さん演じる妻を介護する夫役で、初めて主演を演じられるのですけれども(昭和の終わりか平成の初めでした)。昭和のテレビが、昭和に活躍された方の演技がとても懐かしいのはなぜでしょうか。あのころのドラマは、どれもしぶくていい風情・佇まいの方々がたくさんいましたよねぇ。笠さん、宇野さんをはじめ、日下さんや小沢栄太郎さんとかね。。。小沢さんと緒方さんが親子を演じられている「とっておきの青春」もよかったですねぇ。。。(その「とっておき~」の作品と、杉浦直樹さんと渡辺謙さんが師弟の落語家で、江戸前の気っ風のよさが実に小気味のいい、「晴れのちカミナリ」。これも絶品だと思います。よかったら、アーカイブスで是非。)

います。緊張するかたほどあとにまわしていると、これは元旦に間に合わないぞとなってきました。いや、3日ころに来る方が、きっと少ない束に入って、よ~く読んでもらえるのではないか、などど、不躾にも、そんなことを思い浮かべて、自分ののんびりを棚にあげてしまいます。ごめんなさい。思えば、予定稿というのが苦手でした。筆力がないのですから、定型だけでも土台だけでも前もって用意しておかないと、いつ何が起こってもいいように。その通りなのです。それでも、気持ちのこもらない言葉ばかりがならんでしまって、書いていて、まったく言葉が、自然と流れていかないんです。むりやり絞り出してならべようとすると、ちっともすんなりいかなくて。結局、デスクにほとんど直してもらうことになっていました。思えば、最初の受験はビリから3番目でした。来年は上から3番目で通る。そう宣言したものの、3番ロングの残り196ヤードを少しでもひっかけたらグリーン横の池に捕まるその長い長いロングで、左の山裾からクリークを思い切り振り抜いて、オンできたことは覚えています。その数ホール後のショートで50センチのパーパットを外しました。確か5打も足りませんでした。

 

3年目。同じコースでした。前半たしか、8オーバーをしました。7つだったか。ともあれ、あとひとつ?もしかするとひとつも取りこぼしを許されない残りのハーフでした。7番も厳しいところから、なんとかアプローチできました。8番打ち下ろしのショートです。そこまで後半だけでワンオーバーを守っていました。もうあとバーディバーディしかないと、思い込んでいました。8番。乗りました。2クラブだったでしょうか。入れるしかない。と思っていますから。打ちました。外れました。山の上に切られていました。それでもパーパット。入るとうたがわずに打ちました。音がしません。あたまが真っ白になりました。果たして、その後の記憶が途切れていますが、4ぱっとでした。9番打ち下ろし、池に囲まれた40ヤードくらいの奥行きのグリーンです。傾斜の真横、60センチのパーパット。音がしました。よく入ったものです。後半中盤のロングの時、おもいました。あまりの緊張の連続に。こんなに耐えられない緊張に包まれるなんて、わたしこのスポーツは続けられないのではないかと。ともあれ。もう、すっかり、がっかりを通り越して、もう残念をかくして平然を装ってホールアウトしました。果たして。2打足りませんでした。8番は、2ぱっとでよかったのです。無理して入れに行かなくても。結果論です。

 

ずいぶん後でおもいました。同じ緊張でも、こころとからだが耐えられないと感じるときは、「できないことをしようとしている」からではないかと。できることをしているとき、しようとしてるときは、同じ緊張でも、集中の方にもっとうまく機能してくれるような空気になるのではないかなぁと。おもいました。ともあれ、いまから思えば、あの8番、ピンを狙って実際その近くにいったことも、あの9番でパーがとれたことも、当時の実力を思えば、それだけでもミラクルだと思います。してみると、終盤は多少、いい意味での緊張ができていたのでしょうか。ともあれ。それが実力だったのだと思います。コースを知りすぎるとかえって、難しくなるときもあるのかもしれませんね。ともあれ。それから、思ったのは、なにかを決めようとするとき、なかなか決まらないときは、その時点で考えていることがらのなかに、正解がないから。。。なのかもしれないと。だから悩むのではないかなと、思ったのです。無意識が、無意識におしえてくれているメッセージなのではないかなと。あるときおもいました。もちろん、正解は、そのときどきでかわるものもたくさんあるし、長い目で見たらなにがせいかいなのかはっきりとは断言できないこともたくさんあるのかもしれません。むしろ、こたえがひとつでないことのほうがおおいのかもとおもうこともときどきあります。そんなことを振り返りつつ、自然のままに、とおもっていたら、ひとまずこたえのでないものは、いまはむりして(こたえを)ださなくてもいいのでしょうかと、おもって、ひとりともあれ、穏やかなじかんを、ささやかにとりもどすには、こころにすなおにいるしか。。。と、すこしおもうきょうの夕暮れでもあるのです。

へこんでます。ゾウさんのお話しはきょうはお休みです。たぶん。ふっと打ち解けて話しやすい相手と、そうでない人。ふだんの生活の一コマなら、仕方ないなで、それ以上悩まないのですけどね。病院だと。あとから、ああ、ああ言えば良かった、あんなこと言わなければよかった。と、思うのも、やっぱり話しやすい、にくいは、大きいですね。患者の立場だと、どうしてもそう大げさに思ってしまうのでしょうか。難しいです。悩むなと言われても、あれこれ想像ばかりが先行してしまいます。思った通りに言葉に出来ないと、つい、どうしてあんなことをと、いうことを口が勝手に話していました。そして、後悔します。大げさですが、やはり、とらうまのよう なもの、なのでしょうか。夏の6週間の入院中の記憶があまりにつらすぎて。同じ場所に戻ると、こころが自動的に?沈んでしまいます。お薬が飲めないのです。自分でも、どうして呑めないのでしょうとあたまではわかるのですが。サプリのつもりで飲んで下さい、と言われました。「自然」でいたいです。ありのままで。でも、ときには、なのですよね。わかっているのですが。なんとか飲んでみようと、おもっています。

 

こういうときは、もっと自分のためにを優先させないといけないのですかね。こころが揺れるばかりで、ちっともこたえがみえてきません。だからでしょうか。なやむんです。ゴルフがうれしいのは、にちじょうのあれこれを、少なくとも芝生の上を歩いている間、わすれさせてくれるからですよね。それでも、その時間があるおかげで、時間をおいて考えると、あたまが冷静さを、あるいは熟して、すこし穏やかな考え方をできるようになってくれたり。するのでしょうかね。と、書いていたら、少しでも、あたまがそうなってくれないかな、こころが穏やかになってくれないかなと、願いもこめて、こうして指を動かしてかいています。大都会の方にも、とおくの恩人の方にも、読んでいただけたら、とてもすくいになるだろうなとおもって書いています。相性のよしあしは、これはうまれつきなので、どうしようもないですよね。そのための、いろいろな制度があるのですよね。それを、あれこれ悩みすぎたら、本末転倒ですよね。わかっているけど、こころがすとんと落ち着くところをみつけられずにいるから、悩んでしまうのですよね。

 

そう書きながら、いつも以上にとてもことばを選んでしまいます。こわかった記憶がいくつもうかんできて。どうするのがいいのでしょうかね。本音と建前なんてことばをだしたら、叱られますかね。だれでも、わかってほしいのですよね。いつも、やせ我慢(のあとにでてくること)ばかりを書いているわたしですが。きょうばかりは、とても苦しくて、それが難しいです。病院の先生は、「あんまり悩まないで」と言われました。その通りなのですが。考えすぎて、やっぱり一周まわってしまいそうです。どうしたら、よぶんな不安を考えないでもすむのでしょうか。気持ちの持ちようでしょうか。なんとか、ごかいをへらして、よいかたちをみつけたいです。

受験勉強しようと思って机に座ると、いつもなぜかふだん手が伸びない本がたまらなく面白くなってやめられなくなるように。これも締め切り効果?なのでしょうか。年賀状を早く書き上げないとと、こたつに座ると、こうしてほかのことばかりがしたくてたまらなくなってしまいます。このぶんだと、お掃除は。。。またしても来年の暮れが締め切りになってしまのでせうか。いやはや。ともあれ。それにしても、群れるといっても、ゾウさんはたぶん、家族だけでいるのでしょうか。ともあれ、本質のたぬきはサファリにはもとよりいませんし、外や初対面のときなどにでてくる表面のトラさんも、そして年老いるとでてくるクロヒョウさんも、ライオンやおさるさんのように群れをつくるというのは聞いたことないですからねぇ。それに尊敬する方の、むれるとなの教えもこころに響いているし。ともあれ、性格なのでしょうねぇ。どこかでみんながうまくいく形で居ることが、これでも貢献しているのではないでしょうかと、あれこれ考えて、元に戻って、ありのままがいちばんと、おもってしまう、のんきもののたぬきです。

 

なんでも、「あれから40年」のトークの方のお話しではないですが、なんでも、二通りのひとがいるとか。親しい人にほど本音を話して、本音を言えるのがこころを許してるあかしとなるひとと、実は近しいとおもうひとほど本音は話せず、むしろどうでもいいひとには本音を話せる!ひとがいるとのこと。数で言うと、前者の方が少し多い。それに、ひとには4つの性格がありますから、そのうち2つが同じ人もかなりいるようですが、ともあれ、その4つが全部どちらかというひとは少ないはずで、誰しも多くの人は、心の中で二通りのシーソーをそのときどきで、選んでどちらかに傾いているようでして。こころのなかで葛藤しているうようで。みんながしている!が、大きな基準の日本人ならなおさら、過半数がしているかいなかが大きな基準になる人が多いのも然りで。ところが、本音を話さない方の方は、予定計画型ではなくて、臨機応援型。つまり、ゴルフはもちろん、スポーツに勝負津のは圧倒的にこちらなんですねぇ。臨機応変型の多くの人は、太陽グループでして。文字通りまわりを明るくする、んです。ただ、行動の動機はその日の気分で決まるんです。(かたや、予定計画型本音型の方々は、えーがたと同じ割合でいて、つまり多数派で、地球グループ。自分が中心。自分の心が一番です。そんな当たり前!と思われるかもしれませんが、3割ほどいる、月グループのたぬきやクロヒョウ、ひつじさんなどは、相手が中心。まわりが喜んでくれる方が嬉しい、そう思っているんです。静かに地球を照らす月ですから。)

 

とりわけ、月は満月グループのクロヒョウ、ひつじさんは、同じ相手重視でも、計画遂行型。トラさんやオオカミさん、コアラさん、おさるさんの、地球グループの人と同じです。満月ですから、欠けるのをおそれる。ですから冷蔵庫はたくさん入っていないと落ち着かない。ところが、たぬきと、こじか(こじかだけが大人になっても子どもの鹿さんです。)は、半月グループで、どこまでも相手本位で、おまけに半月ですから、待ってればいつか満ちてくる!、そう思ってますから、のんきです、地球の方々からすると「は?なにしてんの?」ということを平気で待っていたり、ずっと同じ事に没頭していたり。。。するのかもしれません。ライオンさん、チーター、ゾウさん、そして天才型のペガサスの太陽グループと同じ、臨機応変型が加わりますから、ますます行き当たりばったりです。なにしろ、その時々でその場その場の相手が基準ですから。地球の方たちの理解を超えてしまうこと多々?の場面があるのやもしれません。怒ったとき、シャッターが上がったり降りたりする地球グループと、いっぱつレッドカードになる太陽の方々がいる一方、月の人々は、そもそもシャッターがこわれている!んです。どうやって怒ったらいいかわからない!。知らず知らずに、こころの基準が、多数派とはちがうなと、こどものころからうすうす感じているんです。でも、相手に合わせることが嬉しいから、大声には出しません。ですから、ひとはひとの数だけ感じ方があるんだなぁ、というのを感じているし、むしろ、変わっているといわれることやひとと違うことが必ずしもよくないこととは思って無くて、いつも潤滑油的な役回りをできることに静かに誇りをもっているところもあるんです。

 

わたしは、表面が、トラさんなんです。虎の威をかるのトラさんです。12種類の中で、もっともとっつきわるい!のだそうです。こまったものですよねぇ。中身は、おひとよしのたぬきだし。こころは草食で我慢強くて?、物静かで、(それでも確かに子どものうちは大人に囲まれていないと怖い物だらけで、でも大人になるとライオンさんでも歯が立たない皮になるゾウさんは、めったに怒らないけど、いざ怒るとどの生き物よりもこわいのだそうですが。。。ともあれ。もっともタヌキが本質だと、そもそも怒り方がわからないので、ますます怒ることがしんどくなってしまうのですけれど。)家族を何より大切にするゾウさんですから。サファリにいるライオンさんチーターサンとも違うトラさんが表面だから。。。ひとりっ子の引っ込み思案、ひとみしりがますます。。。なんですねぇ。言葉は、ことばは、ときにいくつものうそをつきますが、その本音と建て前をきちんと使い分ける方が大多数なのですからね、ますますわからないんです、たぬきには。半月グループのたぬきは、そもそも本音がわからない!んです。ほんとに。そのときどきで自分の心に、その相手重視の自分の心に正直に返事をしているのですからね。たぶん。。。そう、そう本題です。その言葉は、ときにうそもつきますが、「空気」だけは、うそをつかない。いえ、たぶん、うそをつけないのですよね。ものすごく怒っているのに、嬉しい空気はどうしても出せないし。反対もそうです。いつのころからか、それに気づいて、ことばより空気を感じている。静かにした方がわかりやすい。そんなことで、静かなゾウさんは、本質のたぬきの、「まぁいいか」に引っ張られてますます静かになってしまい、実際考えすぎて一周してしまい(結局自分から出来なくなってしまう、ような気がする)待っているウチに、何を待っているのかわすれてしまう、タヌキに落ち着いてしまうのですねぇ。ところが、表面がトラさんと来ているから、ますます、周囲にはなにを考えているのかわからない!となって?、でもたぬきが、ありのままでまぁいいか、と、のんびりしてしまう、、、なんですねぇ。

 

と、いう風に、話し出すと、あれれ、いつまでも話し続けてしまいます。ああ、そうそう。年賀状、これだと年が明けてしまいます。この、12種類、ひとりに4つの性格、人間学は、知ってから、時がたつほどに、深くなっとくできるところが幾つもあって、新しい発見が、時を重ねるほどにあって。。。ひとばんでも話せる?かなぁ。さむの話ほどにはできないかなぁ。そうだ。わたし、イヌ科のタヌキだから、さむとあんなに話せたのかなぁって。思うとです。さむも、わたしといるとあんなにリラックスして、一緒に居るけど、それぞれぼーっとたそがれることができたのかなぁって。ネコ科だらけの母さんが、焼き餅焼くのもネコ科ゆえのことで、それにわたしとサムはそれぞれに気を遣って、それでも、わたしとサムのような無言の会話は互いにできなくって。無言ゆえによけい、さびしかったのかなぁって。きっと、ネコ科(ライオン、チーター、トラさん、3つもあるからなかなかの多数派ですよねぇ)の母さんからしたら、もっとピーチクパーチク(と、さる・こじか、の、父さんはいつも母さんをそう表していました)したかったのだろうなぁ。あれこれ叫ぶ?ことで発散もしたいし、さる・こじかの父さんのように思慮深くしてると本音はいつまでも語れないし、果物や野菜以外もたくさん食べたいし、瞬発力と運動神経を生かして飛び回りたいし(これは、さる・こじかさんもそうですねぇ。すると、たぬき・ゾウのわたしのペースに合わせるのはとても無理な両親だった、ということですねぇ)、目につくところはとにかく綺麗に!していたいし、わたしからみると、目が回りそうなくらい動き回って、むしろ、こころは落ち着いていいたのですねぇ。きっと。

 

と、いう風に、あれこれ、思えば思うほど、納得できることがつぎつぎにでてくるんです。そんなわけで。これ以上は、さすがに長すぎますので、このお話しは、またつづきを書きます。

近づいてきました。年賀状の製作と格闘していたら、もうこんな日時です。絵付けが済んで、ほっとして、やすんで、そして、やっと宛名を書いて、ほっとして、やすんで、くつろいでいたらば、いよいよ、こんな時間です。おやおやですねぇ。(肝心のメッセージ書きが、全然手つかずです。)その都度、達成感で満足してしまうので、なかなか次へと進めないのが、ゾウさんのいるたぬき所以でしょうか。あれこれ、考えれば考えるほど、なるほど。おっとりしたたぬきです。本来、ゾウさんは、耳が大きいのですから、もう少し話をちゃんと聞いているはずなのに、なんともはや、たぬきなのでせうねぇ。返事だけは、いっきゅうひん?ですが、聴く時しかきいていないのです。イヌ科のたぬきですから。待っていろといわれたら、いえ、言われない方がむしろ素直に、カップヌードルの前で3年でも?まっていられるように思うのですけれども。。。何しろ、そのうち、何を待っているのかを忘れてしまいそうな、たぬきです。おやおやですねぇ。

 

そういえば。いつだったか、おおかみがメインに座っているお友達に、はいごにまわろうとする、こまったみしらぬひとのことを相談したとき。話は聞いてくれたものの、「そんなこと心配できるのも(若い)いまのうちだけだよ」と、慰め?られたのだけど。。。いえ、実際その通りかもしれないのですが。それより。はたと、思うのは。ゾウさんがいるから、そして、なんでも食べるとは言え、それでもやっぱり小動物の、たぬきだからゆえ、こんなにはいごに(無礼な)うごきかたをされると、しんけいがきりきりしてまいのでせうか。もしかして、トラさんやライオンさんなどのような、大型のもうじゅうさんだったら、こんなにはくうかんへの配慮がないことに、きりきりしないのでせうか。ふと、おもいました。東洋の人は、満員電車をみてもわかるように、しらないひとの空間はなきにひとしい?のに対し、親しい人にはむしろ(ハグなどできないし)距離をとることが礼儀正しいとする、文化があると読みました。西洋とはむしろ反対だと。行動美人になりたいと、歳をかさねるごとにおもいます。

 

母は、まるで時計の秒針みたいなひとだと、ずっと思っていましたが。改めておもうと。メインがクロヒョウさんで、サブはチーター!。そりゃ、忙しいわけですよね。わたしを見ていたらさぞ、いらいらしたことでしょう。こっちはゾウさんが色濃いたぬきですから。たぬきはいつでも出番待ち。だれかに頼まれると、よしきた!と、張り切るのですが。それまでは、いつまでも待っている(のか、何を待っているかも忘れているのですからね)。それもその日の気分で動くゾウさんがこころですからね。もっとも、チーターさんもその日の気分ですが、何しろ、決めるのも早いし、出足の速さが何よりの特長ですからね。そして肉食。本質のクロヒョウもです。待つのが苦手。目玉焼きをいちどもきれいな目玉で食べたことなかったのも、仕方ないのかもしれませんね。なにしろ、すべてがはやくはやく。それが口癖です。ネコ科が二頭もいるのですから、そしてひとの目を気にするクロヒョウさんですから、見えるところをとにかくきれいにきれいに。きれい好きなわんちゃんやゾウさんは。。。たぶん、ネコさんに比べたら、どんなにしても。。。でしょうねぇ。

 

と、まぁ、だれもがそれぞれ、4つはもっているという、正確について、みていると、なるほどなるほどとおもうことがたくさんあって。若い頃にはきづかなかったことにも、いろいろ気づくことができるようになって。。。面白いのですけれど。。。ちょっと、それをことばにしようと思っても。。。あら、ほんと。そうだよねぇ。って、うなづいてくれるひとを、みわたしても、そのあたりには、なかなかみあたらないようで。。。もっとも、j一人の時間がながいから、そんなことを、ひとりでおもっては、ひとりでうなづいているのでせうかねぇ。話し出すと、つまり話せる人が目の前に居ると、こころを開くと閉めることをわすれるたぬきですからねぇ。たくさんたくさん話したいのですけれど。ひとに聴いてもらいたいひとはたくさんいても、なかなかねぇ。本の一節を朗読したり、絵を描いたり、あるいはピアノのけんばんをたたいたり。気の向くままに、ともに好きなことをしている。そんな静謐な時間を共有するためには。。。やはり、何年もの蓄積がないとむずかしいのでしょうかねぇ。わんちゃんやゾウさんのような、落ち着いた空気を纏ったかたでないと。。。なのですかねぇ。もっとも。4つめの正確は、歳を重ねてはじめて出てくる性格のようでして。困ったことに、わたしのそれは。そのまったく相容れないと思っていた、クロヒョウさんなのです。新しいもの好きで、綺麗好き。なんということでせう。古いものだから価値がある!を信じるたぬきなのにです。できることなら、このままきれい好きでなくいられる方が、(時間の流れが)平和なのですけどねぇ。。。