雪がこの冬はじめて舞っています。旅がすきです。つねに、にちじょうをはなれる時間と空間に、あこがれ続けているのでしょうか。旅にでる、というのを想像するだけでも、こころのなかの、うれしい成分がふえていくような感じがします。動く景色を眺めるのがすきなのかもしれませんね。常に、この一瞬しかおなじ表情のない風景を眺めることが。空とうみと、波と。砂浜と。遠くの岬と。それが拡がる、道を走るたびにおもいます、この風景をそのままお見せしたいと。というのは、いつかもここに書きました。景色があるから、そうおものか、とどけたい相手を思い浮かべるのか、それとも。おもうかたあるから、すてきな風景がしぜんと、そうおもわせてくれるのか。いずれにしても。ワンちゃんたちとおなじように、つねに、いまこのときを生きていること、にだけおもいをめぐらせていたいなと、おもいながらも、どうしても考えてしまいます。大丈夫に少しでもちかづいていたらいいなぁと。

 

いつだったか。ひとはながいみじかいではなくて、それぞれのおのずときまったじゅみょうというものでいきているのですよ、ということを。そのとき、はっとしたのを覚えています。とはいえ、そんなこと、とても賛同できない瞬間もあるかもしれないです。いえ、あります。ありました。たしかに。しかし。それでもおもいます。たとえ、くらぶを振るなんてとても無理でも、景色をみることはできます。あるくことがすぐかなわぬとも、座ってでもそのばしょを訪れることはできます。風景を眺めることはできます。うごく景色がいちばんですよね。たしかに。だれかがだれかの車いすを押しているのをみるたびに、おもいます。つらいのは、押しているほうではなくて、たぶん、押されている方のこころなのだと。たぶん。当たり前にそうしてもらって、自分で歩いているのと同じような気持ちで流れる風景を眺められるまでに、いったいどれくらいの、たかいやまとふかいたに(のようなしょうがいぶつを、こころのなかで)のりこえないといけないのでせうと。ともあれ。窓の外はどんな景色なのでしょう。

 

立春が来て、暦の上での新年だと聞いたことがある気がします。するときょうは元旦ふつかということです。あのコースの11番ホールで「眼の覚めるような」ドライバーでの第二打を、いまもしっかりと覚えています。おおきな扇風機のそばのコースです。右ラフにひろがる台地状になった丘のうえからの第二打でした。あれから、ドライバーはティーショット以外で綺麗に打てると、もっとかっこいいのだなと、知りました。あのあと、つぎつぎと出される、じつに興味深くほかでは決して知ることの出来ない話々から、どれも頁をめくるのがうれしくて仕方のない時間をもらいました。こうして書いていても、自分でももどかしいほどに、陳腐なことばしかでてきませんが、それでも、ボールではなくこれがそばに届けば!と、願いながら書いています。ありきたりなことばは、ときによけいにこころをつらくするのかもしれません。たとえそれがはげましたいとのおもいからのそれであったとしても。それでも、なにかことばをかけずにいられない。たがいのもどかしさがぶつかるときもあるやもしれません。それでも。おもいをそのままにだしてください。がまんしないでぜんぶことばにしてぶつけるしかなきときもあるのだろうと思います。ほんものの春までには、まだまだたっぷり時間はあります。