ハンディホォンに打ち込むと、ちゃんと「小鳥遊」という変換候補がでてきます。いったいなんのことでっしゃろ?と言われそうですが。まだ中学生の頃だったでしょうか。日曜の夜に東芝日曜劇場という、大人のための一話完結のドラマがあって、その珍しい苗字が登場した回の俳優さんがだれだったか、おそらく、それだけ印象に残っているということは、好きなあるいは好感のある俳優さんだったに違いないのですが。たぶん。。。テスト前で、なくなく渡さんの回を見なかった、代わりに母に観て貰ったのは覚えているのですが、昭和60年の9月15日はその前年の朝ドラの主人公をしていた俳優さんだった?のは、覚えているのですが。スマートな俳優さんだったのは確かかと。もっとも、一話完結の主人公をする俳優さん、女優さんは、スマートもしくは美しくあるのは、かなり高い頻度でそうなるのは当然と言えば当然のことのようでありますけれども。
民放はひとつだけ、あとはCMのない2局のみ。当時、Vなんとか、コードで言うと丸い方です、平打ちバスタみたいなUなんとかは、父いわく「うちにはアンテナがない」という理由で、ともあれ、コマーシャルの良さを理解しなかった父の考えで、民放はひとつで充分、ということだったようです。もっとも、昭和56年の早春までうちにはカラーテレビさえなかったのですが。それも、3時間以上つけていると、真ん中の半分以上に縦に野太い真っ黒な線が入るので、両サイドの数センチずつしか、絵が動かない、そんなすばらしいテレビしかなかったのです。あれ、紅白はどうしていたのでしょう?3時間というのは私の思い込みか、それとも、これも3時間ではなく、不定期にくろおびは訪れていたのでしょうか。ともあれ。水戸黄門と西部警察と太陽に吠えろが同じチャンネルで、水戸黄門以外は?正規の時間ではないものの、それでも、観られたという奇跡のような時代があったようです。しかし、それも、ある日突然、「女の子はぶったりけったりを観てはいかん」ということで、ある時期かたくきんじられたのでしたが。
父が生まれた二年後に、きょうなくなられた方が生まれたのだと、きょうわかりました。いつだったか、自宅でのインタビュー番組で、背景にその方の書棚が映っていて、同じアングルでの長い時間の撮影でしたから、ずっと同じアングルで、背景に何冊もの背表紙が、その文字がくっきりとわかるように映っていて、思わず、面白そうだな、これなら読めるかな、というのを、幾つも、ひっしで、メモしたのですが。。。あれは、どのページに書いたのでせうか。大事なものは、ディリーの備忘ノートではなくって、別の特別ノートにあとで写しておかないといけませんね。どこかにあるのだけは確かなのですが。そうこうするうちに、何を探すのかをわすれてしまいそうです。。。オンタイムでないとできないことってありますね。あとで、は、なかなかやってこないことって。そうか、父がいまいたら103歳なのか~としばし感慨になりました。それでも、日野原さんよりは若いのね、と。吉行淳之介さんが、大正生まれには、それが15年しかなかったからこそなのか、明治とも、昭和とも、ちがう、空気というか、デモクラシーということばにふさわしい、その特長があるという主旨のことを、どこかで書いておられましたが。身近に明治生まれの人を知らないので、ピンと来ない部分も確かにありますが、それでも昭和とは恐らく違う、気風というか心意気のようなものは確かにあるように、思います。父を思い返して。そんなことを、ふと思った霜月みそかに近い霜の降りたこの日でした。