はじめての外国旅行が、いえ、はじめての飛行機に乗った先が。。。カリブの野球のくにでした。。。2度乗り換え、つまり3回飛行機に乗って、そして、着くわけですが。乗るたびに、飛行機は小さくなるし。降りた空港は、なにやら、じんじょうでない空気があるし。。。ともあれ。パスポートはもちろん、もっておらず、お城のそばのふちょうのそばの、建物にしんせいに行った記憶があります。大学一年の最初の冬でした。いえ、行くというのに、面接があって、事務所までの交通費は、受かったらあとで出します。そうでなかったらじばらです。そう言われたように思います。行きました。自宅で2浪した末、はじめて受けたしりつがあったはのは、西部の丘陵地にある有名なところで。。。しかし、宿から、キャンパスに下見に行った帰り。はんたいむきに来る電車に乗れば、どれも乗ったところに着くと、信じてうたがってもいませんでした。単線しかない、田舎で育ちました。高校になるまで、電化さえされていなかった。ボックス席には、必ず灰皿がついていて。。。開ける窓も、大人のちからでないと、上がらない。。。つめきりのかたちをした、両サイドのレバーを力強くおさえないと、上げも下げもできない。。。
どうやら、記憶は独りでに、書きたい方向とはちがう向きにいってしまうようですね。ともあれ。はじめたづくしの旅が。最初のかりぶ海だったのです。父は元気?でした。放送の回を、だまって、じいっっと観ていたそうです。とにかく、たんに野球がしたかったのです。小学生の頃、野球の本を買うのだって、ましてや、2個目のグローブをかうのにしても、男の子のともだちについていってもらったくらいですから。。。そのくらい、女の子が野球をするというだけで、新聞の記事になるじだいでした。(県庁所在地のまちにレギュラーの女の子がいると、載っていました。それをみた、書道がとてもとても見事な、理科の先生が言いました。「きみみたいな子がほかにもいるのだなぁ~」と。とても、厳しい先生でした。先生伊よりきょうしつに入るのが遅れると,運動場3周だったか?後ろにたっているのだったか。もうひとつのペナルティが思い出せません。私語だったかもしれません。ともあれ。しりつのしけんは見事におちました。会場でチリの本を見ていると。。。視線が。。。来るものの。自宅浪人ですから。過去問しか観ていません。その年から、ちりがなくなっていることをしるよしもなく。。。仕方なく、数学しか選択できませんでした。(歴史はからっきしでしたから。)。
要は、一次レベルでは、きゅうわり以上解けても、二次レベルのそれが解ける力は、初めからなかったのでした。3問中、一問も解けたかどうか。。。その大学に進んだ同級生が、保育園からずっと同じだった、ずば抜けた走りの子だったその子の記録がつい、最近まで、県の記録だったと、最近知りました。ともあれ。南海ホークスの本拠地であった球場の、1階に海外旅行のかばんを売っているお店がありました。とにかく、飛行機さえ乗ったことがないのです。もちろん、ネットなんて、携帯さえだれも持っていませんでした。当時の、ディレクターさんでさえ。はじめてという飛行機に乗ると、飲み物がでてきて。。。「これあとで請求されるから。。。」そう、ディレクターさんに言われました。真剣にほんとうだとおもいました。安全は何か。寮の鍵は、もっていっても仕方ないから。。。知らず知らず、父との遊びの中で、教わった知恵でせうか。自分なりに、なくすと困るものを置いていった。どこにどう置いていったかは覚えていませんが。わずかばかりのお小遣いも半分を、こぎってにしていきました。(その国で使えるところはそのときは、ありませんでした)。残った半分の現金も。。。さらに半分に分けて、そんなところにあるはずないところに入れていました。先の、汽車が着く最寄り駅で、定年後にたったひとりの駅長さんをしていた、ゆいいつ、小さい頃からわたしがなついていた近所のおじさんが、どこからかもらってきてくれたものでした。(おそらく、小学生当時のしょうじょまんがざっしの付録のひとつではなかったろうかと思います。)ともあれ。
初めての、外国旅行が、そして、宿泊さきが、すいーとるーむだなんて。わずか数千円の(あと少しくらいあったかな。。。)お小遣いしかもっていない、右も左もわからない、ただの学生です。ヨーロッパとくに、とりころーるからーの国からは直行便があるとききました。冬だったせいもあり、名だたるホテルは、そんな観光客でいっぱいのようでした。何階建てだったかも、わすれました。5階くらいだったでせうか。おかげで、あっとほーむなレストランでは、食事のたびに、厨房からでてくる人たちは、陽気な楽器をもっては、歌ってくれました。お客さんが来るたびに。ラテンは、明るいのですね。その時そう思いました。(食事だけは。。。もう2日目から、スタッフの方全員が言っていました。ああ、にほんのらーめんがたべたい、と)。わたしもそう思いました。まだ熟していないとまとと、あとは。。。パンもなく、ジャガイモもなく。ゆですぎたパスタだったでせうか。つまり、食材が、ほとんどないということに、おもいはいたりませんでした。今でも、おそらく食べられない、金時豆?の、煮豆がご飯にのっていました。
さとうだけはふんだんにありました。いちど、さとうをあったかい飲み物に入れようとして、入れものを逆さにしました。ふたごとさとうが入って、いえ、むしろ、おちていくようにちいさなこやまができました。9回を投げました。もっとも。1.5ヤードほど、距離にあどばんてーじをもらいました。コーチだった方が。ここから投げなさいと。足で、線を、でこぼこだらけの土の上に引いてくれました。そこから、投げました。いま思うと、わたしのチームは、つまり、レギュラーレベルの子ばかり。だったのではないでせうか。「あ、抜けた」そう思って振り返ると、必ず、ショートかセカンドの子が捕ってくれていました。2日ほど前、小学生あいてに、ぼこぼこ、バッティングとうしゅ状態でした。その後、ひとりで思いました。力任せに投げても、あんなちいさな子にも外野のそとまで運ばれるのだと。とにかくコースだけを狙って投げました。おそらく、すとれーとのつもりが、全部、自然にチェンジアップ、カーブのつもりが、スローカーブ。しゅーと、つまり、レフティのすくりゅうーを、セカンドの子が、なんど聞いてもていねいに、教えてくれました。帰ってから、なんど縫い目のちゃんとあるボールで投げても、きまりませんでした。とっぴですが。ラグビーなら、おんなのこができるなんて、おもわなかったでせう。ほかのスポーツでも同じだということが。。。(父は、自分で気がつくまで、なにも言わない、いえ、数少ない言葉の中に言っていたかもしれませんが。なにしろ、何かに集中すると、言葉は音にしかならないのでした。ともあれ。時間を空間だけをだまってまもってくれていた。。。そんなひとでした。)
ひとばんかけて、ひたすらでこぼこの道を、小さなバンが島の反対にあるというまちに向かっていました。つきがきれいにでていました。投げると。痛くなるのは、軸足ではなく、踏み出す足に、そんなに負荷がかかるのだと。はじめてそのとき知りました。きんにくつうでした。中学以来の。それでも、眠気の方がまさっていて。でこぼこ、クッションのないバンのなかでほとんどうとうと寝ていたように思います。気がつくと夜が明けていて、市場に、大勢の人がいました。外国の人をみるのが珍しいらしく、こどもたちが集まってきたのをおぼえています。とことこと、寄ってきた、わんちゃんに声をかけ、手をだそうとすると。とめられました。ちょうど。動物病院であるばいとをしていたときでした。ワンちゃんには、ことばは通じる。せかいどこでも。。。それは今でもそう思います。。。そうまでして、あいに行ったのは、そのごりゅうのチームで活躍されていたと思います。当時は、そこで4番を打つ、その選手のことをそこではじめて知りましたし、放送回の同時通訳と、その現場でその選手が話していたこととかなり、ちがっていました。サインをもらったボールとバットはどこへいったのでせう。グローブだけは、いまもすぐ横にありますが。。。バットは家のたぶん、あのあたりに。。。そのグローブに、その何年か後、ほんとうに、あの21球を投げた方に、バックネット裏で、準決勝のけんばんほんきをこれから、書かねばのときに、ほうりだして、いそいで宿の部屋にグローブをとりにいき、サインをしてもらったのでした。おぅ。そう言って、左手にペンを持ち、さらさと書いてくださいました。お願いとお礼いがい、何も口にはできませんでした。
そうです。そのとき。初戦は49番目に登場するチームでした。初戦、つまり、2回戦に登場して、やっとこやっとこ勝ったとき。。。前文というのでしたか、そのしめくくりを、全国せいはへの第一歩になった、そんなことを書いて出しました。あっさりけずられました。離れた街の。。。つまりチームの地元で。たしかに、わたしとて。まさか、そんなにつよいとは。。。分かっていませんでした。ただ。地元出身の子が少ないチームでした。でも。投手だった地元の子は、決勝までの連戦で、しょうもうしてしまいました。あとで、ボーイズちーむで、中学の時、全国でも。。。という子がたくさんいたのを知りました。あのあと、シュートで有名な、東商業ご出身の、県勢せんご2度目の決勝に向けての。こめんとをもらうために、ご自宅に電話をしました。ご家族が、いまはスタジアムにかいせつのために行っていて。。。そう、言われてあっさりけいたいの番号を教えてくれました。ダブルの紺色の帽子が印象的なユニホームを覚えています。父はもっぱら、あの、さんかんをとった捕手の方をずっと応援していました。ともあれ。かりぶの島で、すいーとるーむで、ほんとうに、どろぼうさんが部屋にはいったのでした。。。そのあとの、すばらしくあったかだった宿の方々のいくつものご厚意を、いまもわすれません。。。