ドキュメンタリーの番組をみました。あらためて、素晴らしいなと感心しました。こんなふうに、こんな姿勢でお仕事ができたら、どんなにありがたいでせうと。感謝しています。吉永さんを、1度だけ、間近で拝見したことがあります。2005年の秋でした。母の幼なじみで、わたしのゴルフとマナーの恩師の、石堂さんが。上京したわたしの近況を聞くために、殿堂入りパーティに呼ばれていた、その日の夕方、パーティまでの間、東京駅からその会場の入り口までの時間をくださいました。デパートに行って、一緒に帽子をさがしに少しお店を歩いたのを、覚えています。このことは、ここに1度書いたかもしれません。そのとき、エレベーターホールで、記念の写真をと、そばにいた、どこかの子ども達の写真を撮ってあげていた石堂さんでした。そこにエレベータのドアがあき、なんにんかの人たちと一緒に、降りてこられたのが吉永さんでした。ほんの十数秒の出来事でしたが。まるで、その場所に、やわらかな光があたっているような空気がありました。そのときは、「なんて、凜とした空気を(まとっていらっしゃるのだろう)」といういうのが、素直な感想でした。そのあと、なんども思い返しているので、こんなにはっきり覚えているのだろうとおもいます。

 

そのあと、石堂さんから送られてきた、会場での写真は、吉永さんのばかりでした。ほほえましく、観たのを覚えています。その日、四国と東京を(同時に、出雲も結ぶ姉妹列車があったのですが)結ぶ、寝台列車で、とんぼ帰りされたのでした。直接、合うことが出来るのがそのひがさいごになるなんて。その半年後、突然の連絡に、時間がとまったのを今もつうれつに覚えています。緒方拳さんの、シラーヌの一人舞台。。。どうして来年もあると信じてうたがわなかったのだろう。それと同じ、後悔がありました。待てば海路の~を、選んできたようにも自分ではおもっているのです。こんなに、行き当たりばったりの選択をしてきたわたしなのですけれど。それでも、母が、石堂さんがお向かいさんだったおかげで、わたしのゴルフが、実現したのです。もちろん、後悔した時間もありました。ひとは、同時に、正反対のことを思う時間もあるもののようですね。いまは、どの時間にもとても感謝しています。石堂さんと、国道2号線をはるかに見晴らす、あのコースを何度もラウンドできたことも。ゴルフが(スポーツが)素晴らしいのは、いくつもの、思いで深い瞬間、ホール、ショット、景色、季節の色々、幾つもの、各々は断片的であったのしても、どれもそれぞれに、忘れがたいシーンにであえる事なのかもしれませんね。

たとえば、黒川伊保子さんの、本の見出しにあるように、男の人は、沈黙しながら(こころを)リフレッシュさせているそうです。(きょう、はじめて知ったのですけれど。。。)。そして、女は、文字通り、(着地点のない?)おしゃべりをしながら、リフレッシュしています。たしかに。子育てに奔走している、古くからの友人を訪ねて、いろいろなことを感じました。お母さんは、常に精一杯、(その時点での)自分自身なら、こうしてほしいと、(お母さん自身が)感じていることを、子どもにもとめてしまうのかもしれない....。と。ときに、ともすると、子どもを越えて、お母さんどうしの、きょうそう?になっているやもしれないですねと。少しですが、そう、思いました。もし、わたしが、子どもの頃、さびしさを紛らわすのが、家での、読書や、宿題だったのかもしれないと。。。そして、もし、授業に、ときどき、集中できるときがあったとしたら、もしかしたら、母が、常に、わたしのからだにあわせた制服を、自家製で作ってくれていたおかげも、あったのかも、と、思い当たって、今ごろになって、思いがけない感謝を、おもっています。

 

保育園の年長さんの12月から、どういうわけか、日記をつけることになって。それがずっと続いているせいなのかもしれません。書いていると、ホッとするんです。おしゃべりのかわりの、書くということのような気がします。わたしにとって。海外の、友人達への、無事の知らせのつもりもあって、書いているところも大いにあります。外山滋比古さんの、著書にあるとおり、3上、というのが、知恵がうかぶときなのだそうです。馬上、枕上、そして、かわやの上と。。。あさめしまえ、というのも、書いたり、学んだり、あたまを使うのにふさわしい時間だと教わりました。中学生の時、ちょうど町に図書館が出来て、(新しいものには、なかなかちかづけないので。しばらく時間がかかったと覚えていますが。)最初の頃にかりたのが、その、外山さんの著書と、福井謙一さんの著書でした。(外山さんの本は、その後、地元を離れたあとに、書店で大きく取り上げられて、読み返したのでした。)

 

その、旧知の友人を訪ねたときに、なんどもおもったのが、刻々とかわる、お母さんの、機嫌と空気を、子ども達は瞬時によみとって、その都度、感覚で声をだしたり、黙ったりしていて(そう、わたしには感じられて)。ひとは、みな、それぞれの目でしか見えないし、自分がおもっているように、相手も思っていると、おもいたいのかもと。子どもがするどいのは、言葉の意味ではなくて、その場その場のくうきを感性でかんじとっているからかもしれませんねと、おもったのでした。しらすまさこさんが、河合隼雄さんとの対談の中で言われているとおり、ほんとうのことほど、ことばにすると、かえってういてしまうと。。。ほんとに、むずかしいものですね。本を読めるというのは、さびしさと、守られている時間と、自分の時間と空間をささやかに守りたい時間があって、はじめて、読めるものなのかなぁと、おもいます。

 

いちびょうそくさいとききますが、やまいになると、あらためて、いろいろなこと、それまであたりまえと、おもっていたことのおおくが、なんて、ありがたいことかと、じっかんします。もちろん、しんどいとおもう瞬間もたくさんあります。子どもの頃、こえをかけてくれた、近所のおとなのひとが、おかげさま、ということばを、あらためておもいます。年長者を重んじるというのは、当たり前の環境でした。知らないことをたくさん知っていて。からだをうごかすしごとをさせてもらえることを、とても感謝しています。

 

 

どうしてもつけたかったのでせうか。ずっと元気でいていただきたいから…。

こころをすませば、いろいろなものが、みえてきますね。こころのめに…。

いちどもお目にかかることがなくても…、子供のころから…ずっと見ていたような気持ちしますね…。m(__)m。

しょうわ、32年の春、選抜で、優勝されたのですね。高知商に勝って。。。夏は、せいせいこうに、まけて。。。40年ぶりに読み返しました。。。よなみね選手の話と、ゆびにできた、まめのはなしが、強く印象に残っていました。。。88年ぶりというのは、夏のいう意味だったと知りました。50番はどんな、あじだったのでせうか。ほんじょから、球場まで、何キロあったのでせう。

 

大杉さんが、その試合に出られていたとは。驚くことばかりです。元気な、おすがたが、とてもはげみになります。読んでいるうちに、涙がこみ上げてきました。胸がいっぱいになると、ことばはでてこなくなるものですね。歴史に、とても励まされています。野球が好きでよかったと思っています。いまも好きです。左手で、パターをするとき思います。動から、静への、動きがいちばん、緊張するのだと。。。

 

河川敷の、姿がすっかりかわってしまいました。地元の川です。保育園の時、いちどだけ、あふれたと聞きました。1年生だったでしょうか。お菓子の卸をしている家がみずにつかったと聞きました。保育園、小学校、そして、神社と、川。いまも、同じ名前でほっとしています。今なら、さっかーはもちろん、やきゅだって、女の子が自由に出来ると知りました。うらやましい反面、同級生は少ないのですね。休み時間は、どんなのでせう。

 

感謝しています。ありがとうございます。ことばでは、表せないほどに。。。

ゴルフは深いですね。改めておもいます。ダブルボギークラブへようこそ、という本があります。とても面白くて、 何度も読んだことを覚えています。

21球を書かれた方の、切り取り方は、まるで名カメラマンのワンショットのようです。

 

その方と同じ年齢になりました。これまでに、それほどの、作品を書かれていたなんて。。。改めて敬服します。

 

予報に反して、朝から晴れていました晴れていました。 今は少し、雲がでてきました。家の周りを歩いてきたら、車では見えない風景をたくさん観ることができました。歩くっていいですね。

 

てれびがコンドルをとんでいくを、奏でています。とても懐かしい響きです。わたしには、11歳、としうえの、ははには、うんでもらえなかった、兄か姉がいます。ですので。わたしは、ひとりっこですが、たぶん、次女です。

父がかつて住んでいた、息子さんは、今、70歳を過ぎた頃です。思いがけずその、電器店が南森町にあったと聴いてとても、おどろきました。

なんということでせう。森口電器店だそうです。父は、大好きな人を失いつづける、前半生だったようです。母も。。。たぶん。

 

車のオイル交換に行ってきます。

秋のシリーズに進めて安堵しているように見えた監督の姿がぶらうんかん越しにありました。かわらない顔にあんどしました。かつて、私の部屋に、愛犬との、ツーショットジャケットが表紙のアルバムにある、おもかげがしっかりと残っていて、ホッとしました。息子さんが、野球に進まなかったことにもあんどしました。三池高校から、さがみはらへ。九州男児なのでせうか。台風、の19番目はいつも、どうしてこうも、大きな爪痕を残すのでせうか。こうして、書いていると安堵します。わたしには、両手で書くのがあっているようです。ものごころつく前に、利き手でない方の手で文字を書くように、知らぬ間に、父と母がそうしてくれたからです。感謝しています。利き手でないから、こだわりのない文字を書くことができます。ただ。個性は、きっと利き手でないと、なかなか表にはでてこないのかもしれませんね。

 

ですから。こうして両手で、両方のせいの気持ちになって、書くことが、とてもホッとするできる時間のかもしれませんね。母が、わたしの11年前にみごもったのは、姉だ、ったのせうか。それとも。。。兄だったのでせうか。生まれる前の曲があんなに、こんなに懐かしいのは、11年前にも1度、ラジオから流れる曲を、お腹の中できいていたからでせうか。とにかく。ものごころつくころ父か毎日のようにかけていた、CMのない局の、かわらない音楽が流れると、なぜかとても懐かしく、アンドの気持ちが拡がります。ここにこうして、書いていると、幾人ものひとに、支えられているのを感じます。感謝がたえません。所沢ではなく、福岡になったのですね。移動がたいへんですが。九州と、ドームと。愉しい、時間がまた増えそうです。シリーズ、優勝のマジックが2になるまで、どこにいるのかも、知らない私でしたが。。。。

 

この夏は、まったく知りません。暑さを。ずっっと。クーラーの中にいました。大半をベッドの上に。片方が少し不自由になりました。ただ。ハーフスイングはできそうです。白洲正子さんが、50歳で、お能をやめれたので、わたしもと思っていますが。白洲正子さんが、お能を始められたのはいつだったのせうか。次郎さんと、一緒になられて、何年の後だったのでせう。吉行さん。白洲正子さん。河合隼雄さん。のような、対談の、人に、なることができたら、いいなと思っています。投稿は、新がつくところと、文がつくところ。どちらを希望したらいいのでせうか。伊のつく方に訊いたらいいのでせうか。どこまでも、天然で。その都度、自らをおおってくれる、空気を、はかることだけで、安全をなんとかかくほしていたとおもうのは、えごで。きっとっかみさまに、生きてていいよと、いってもらえたお陰だと。こころからもっています。感謝がたえません。また、お便り書きます。

はじめての外国旅行が、いえ、はじめての飛行機に乗った先が。。。カリブの野球のくにでした。。。2度乗り換え、つまり3回飛行機に乗って、そして、着くわけですが。乗るたびに、飛行機は小さくなるし。降りた空港は、なにやら、じんじょうでない空気があるし。。。ともあれ。パスポートはもちろん、もっておらず、お城のそばのふちょうのそばの、建物にしんせいに行った記憶があります。大学一年の最初の冬でした。いえ、行くというのに、面接があって、事務所までの交通費は、受かったらあとで出します。そうでなかったらじばらです。そう言われたように思います。行きました。自宅で2浪した末、はじめて受けたしりつがあったはのは、西部の丘陵地にある有名なところで。。。しかし、宿から、キャンパスに下見に行った帰り。はんたいむきに来る電車に乗れば、どれも乗ったところに着くと、信じてうたがってもいませんでした。単線しかない、田舎で育ちました。高校になるまで、電化さえされていなかった。ボックス席には、必ず灰皿がついていて。。。開ける窓も、大人のちからでないと、上がらない。。。つめきりのかたちをした、両サイドのレバーを力強くおさえないと、上げも下げもできない。。。

 

どうやら、記憶は独りでに、書きたい方向とはちがう向きにいってしまうようですね。ともあれ。はじめたづくしの旅が。最初のかりぶ海だったのです。父は元気?でした。放送の回を、だまって、じいっっと観ていたそうです。とにかく、たんに野球がしたかったのです。小学生の頃、野球の本を買うのだって、ましてや、2個目のグローブをかうのにしても、男の子のともだちについていってもらったくらいですから。。。そのくらい、女の子が野球をするというだけで、新聞の記事になるじだいでした。(県庁所在地のまちにレギュラーの女の子がいると、載っていました。それをみた、書道がとてもとても見事な、理科の先生が言いました。「きみみたいな子がほかにもいるのだなぁ~」と。とても、厳しい先生でした。先生伊よりきょうしつに入るのが遅れると,運動場3周だったか?後ろにたっているのだったか。もうひとつのペナルティが思い出せません。私語だったかもしれません。ともあれ。しりつのしけんは見事におちました。会場でチリの本を見ていると。。。視線が。。。来るものの。自宅浪人ですから。過去問しか観ていません。その年から、ちりがなくなっていることをしるよしもなく。。。仕方なく、数学しか選択できませんでした。(歴史はからっきしでしたから。)。

 

要は、一次レベルでは、きゅうわり以上解けても、二次レベルのそれが解ける力は、初めからなかったのでした。3問中、一問も解けたかどうか。。。その大学に進んだ同級生が、保育園からずっと同じだった、ずば抜けた走りの子だったその子の記録がつい、最近まで、県の記録だったと、最近知りました。ともあれ。南海ホークスの本拠地であった球場の、1階に海外旅行のかばんを売っているお店がありました。とにかく、飛行機さえ乗ったことがないのです。もちろん、ネットなんて、携帯さえだれも持っていませんでした。当時の、ディレクターさんでさえ。はじめてという飛行機に乗ると、飲み物がでてきて。。。「これあとで請求されるから。。。」そう、ディレクターさんに言われました。真剣にほんとうだとおもいました。安全は何か。寮の鍵は、もっていっても仕方ないから。。。知らず知らず、父との遊びの中で、教わった知恵でせうか。自分なりに、なくすと困るものを置いていった。どこにどう置いていったかは覚えていませんが。わずかばかりのお小遣いも半分を、こぎってにしていきました。(その国で使えるところはそのときは、ありませんでした)。残った半分の現金も。。。さらに半分に分けて、そんなところにあるはずないところに入れていました。先の、汽車が着く最寄り駅で、定年後にたったひとりの駅長さんをしていた、ゆいいつ、小さい頃からわたしがなついていた近所のおじさんが、どこからかもらってきてくれたものでした。(おそらく、小学生当時のしょうじょまんがざっしの付録のひとつではなかったろうかと思います。)ともあれ。

 

初めての、外国旅行が、そして、宿泊さきが、すいーとるーむだなんて。わずか数千円の(あと少しくらいあったかな。。。)お小遣いしかもっていない、右も左もわからない、ただの学生です。ヨーロッパとくに、とりころーるからーの国からは直行便があるとききました。冬だったせいもあり、名だたるホテルは、そんな観光客でいっぱいのようでした。何階建てだったかも、わすれました。5階くらいだったでせうか。おかげで、あっとほーむなレストランでは、食事のたびに、厨房からでてくる人たちは、陽気な楽器をもっては、歌ってくれました。お客さんが来るたびに。ラテンは、明るいのですね。その時そう思いました。(食事だけは。。。もう2日目から、スタッフの方全員が言っていました。ああ、にほんのらーめんがたべたい、と)。わたしもそう思いました。まだ熟していないとまとと、あとは。。。パンもなく、ジャガイモもなく。ゆですぎたパスタだったでせうか。つまり、食材が、ほとんどないということに、おもいはいたりませんでした。今でも、おそらく食べられない、金時豆?の、煮豆がご飯にのっていました。

 

さとうだけはふんだんにありました。いちど、さとうをあったかい飲み物に入れようとして、入れものを逆さにしました。ふたごとさとうが入って、いえ、むしろ、おちていくようにちいさなこやまができました。9回を投げました。もっとも。1.5ヤードほど、距離にあどばんてーじをもらいました。コーチだった方が。ここから投げなさいと。足で、線を、でこぼこだらけの土の上に引いてくれました。そこから、投げました。いま思うと、わたしのチームは、つまり、レギュラーレベルの子ばかり。だったのではないでせうか。「あ、抜けた」そう思って振り返ると、必ず、ショートかセカンドの子が捕ってくれていました。2日ほど前、小学生あいてに、ぼこぼこ、バッティングとうしゅ状態でした。その後、ひとりで思いました。力任せに投げても、あんなちいさな子にも外野のそとまで運ばれるのだと。とにかくコースだけを狙って投げました。おそらく、すとれーとのつもりが、全部、自然にチェンジアップ、カーブのつもりが、スローカーブ。しゅーと、つまり、レフティのすくりゅうーを、セカンドの子が、なんど聞いてもていねいに、教えてくれました。帰ってから、なんど縫い目のちゃんとあるボールで投げても、きまりませんでした。とっぴですが。ラグビーなら、おんなのこができるなんて、おもわなかったでせう。ほかのスポーツでも同じだということが。。。(父は、自分で気がつくまで、なにも言わない、いえ、数少ない言葉の中に言っていたかもしれませんが。なにしろ、何かに集中すると、言葉は音にしかならないのでした。ともあれ。時間を空間だけをだまってまもってくれていた。。。そんなひとでした。)

 

ひとばんかけて、ひたすらでこぼこの道を、小さなバンが島の反対にあるというまちに向かっていました。つきがきれいにでていました。投げると。痛くなるのは、軸足ではなく、踏み出す足に、そんなに負荷がかかるのだと。はじめてそのとき知りました。きんにくつうでした。中学以来の。それでも、眠気の方がまさっていて。でこぼこ、クッションのないバンのなかでほとんどうとうと寝ていたように思います。気がつくと夜が明けていて、市場に、大勢の人がいました。外国の人をみるのが珍しいらしく、こどもたちが集まってきたのをおぼえています。とことこと、寄ってきた、わんちゃんに声をかけ、手をだそうとすると。とめられました。ちょうど。動物病院であるばいとをしていたときでした。ワンちゃんには、ことばは通じる。せかいどこでも。。。それは今でもそう思います。。。そうまでして、あいに行ったのは、そのごりゅうのチームで活躍されていたと思います。当時は、そこで4番を打つ、その選手のことをそこではじめて知りましたし、放送回の同時通訳と、その現場でその選手が話していたこととかなり、ちがっていました。サインをもらったボールとバットはどこへいったのでせう。グローブだけは、いまもすぐ横にありますが。。。バットは家のたぶん、あのあたりに。。。そのグローブに、その何年か後、ほんとうに、あの21球を投げた方に、バックネット裏で、準決勝のけんばんほんきをこれから、書かねばのときに、ほうりだして、いそいで宿の部屋にグローブをとりにいき、サインをしてもらったのでした。おぅ。そう言って、左手にペンを持ち、さらさと書いてくださいました。お願いとお礼いがい、何も口にはできませんでした。

 

そうです。そのとき。初戦は49番目に登場するチームでした。初戦、つまり、2回戦に登場して、やっとこやっとこ勝ったとき。。。前文というのでしたか、そのしめくくりを、全国せいはへの第一歩になった、そんなことを書いて出しました。あっさりけずられました。離れた街の。。。つまりチームの地元で。たしかに、わたしとて。まさか、そんなにつよいとは。。。分かっていませんでした。ただ。地元出身の子が少ないチームでした。でも。投手だった地元の子は、決勝までの連戦で、しょうもうしてしまいました。あとで、ボーイズちーむで、中学の時、全国でも。。。という子がたくさんいたのを知りました。あのあと、シュートで有名な、東商業ご出身の、県勢せんご2度目の決勝に向けての。こめんとをもらうために、ご自宅に電話をしました。ご家族が、いまはスタジアムにかいせつのために行っていて。。。そう、言われてあっさりけいたいの番号を教えてくれました。ダブルの紺色の帽子が印象的なユニホームを覚えています。父はもっぱら、あの、さんかんをとった捕手の方をずっと応援していました。ともあれ。かりぶの島で、すいーとるーむで、ほんとうに、どろぼうさんが部屋にはいったのでした。。。そのあとの、すばらしくあったかだった宿の方々のいくつものご厚意を、いまもわすれません。。。

 

 

4-0。そのとき、なぜか、「勝てる」と、思ったのを、いま、思い出しました。相手は、同じレフティで、できたら、対戦したくない。何度、試合しても、必ず負ける。。。そう思った子は、誰に負けたのだったか、もう、思い出せないですけれもど。ともかく。ともあれ。その子が、ずっとタオルを口に当てて、観覧席の、仲間からも離れてひとり、ずっと、頭を動かさずに。。。でも、おそらく、目は、体育館のどこも観ておらず。。。ひたすら、その悔しさ?に、早く、その日が済んでくれることを願っているようでした。。。話を戻します。ともあれ。その人が、つまり観覧席のその人が、決勝の相手だったら。。。どう頑張っても勝ててはいませんでした。相性というものかもしません。練習試合で、何度対戦したのかは思い出せませんが、練習試合以外で、その子と、果たしてその後も、戦うことはありませんでした。

 

今度こそ、話を戻します。ともあれ。今は、統合で名前が変わったという中学の、その決勝の相手となったレフティの子の名前は全く思い出せません。観覧 席のその子と、その子がダブルスをするときのペアの子の名前も、そして、同じチームのあとのレギュラーの子の名前も、びっくりなほど、覚えているのはどうしてでせうか。(うん十年後、プロの試合のバッグをかつぐとき、同じように担いでて、事前に、そのコースを一緒に回った人のひとりが、そのチームのひとりの子の弟!!になるなんて。。。縁は異なもの。。。ですよねぇ。ともあれ。)なかなか、決勝の試合に戻れませんね。ともあれ。わたしの試合を、とても直視できなくて、ひたすら顔を隠して、(まわりのだれにも気づかれないように)、そして、誰よりも、心の中で、応援してくれていたのは、他でもない、しんゆうと呼べる(子どもの頃のという意味です)。ゆいいつの、そのともでした。(このことをいいたかったのです。)(空気で、わかるものなのです。見えないもの、話さない方が、通じる空気というのが確かにあるのです。きょう、その試合のことを、思い出せたのも、うん何年ぶりの時間があったからです。。。)。

 

つらい、一年と少しでした。大人の事情で、想定外の最上級生でした。(今は、その子のそのひとはおられませんので。今だから言えますが。)ともあれ。わたしがまけると、いちばんに駆けつけてきて、ラケットのカバーであおってくれて、とおめには、仲間を慰めているように見える!そんなことを平気でするひとがいました。いまとなっては、別になんとも思っていませんが。ともあれ。そんなめざとい子?にも、わからずに、ただひとり、だれにも分からぬように、応援してくれていたのが、そのともでした。もし、今も、その大会のトロフィーが、(あるわけないか)、あったなら、初代のそれを手にできたのは。。。そのともの応援があったから。いまなら。それが、とてもよくわかる。

 

それにしても。どうして、負けているのに。あの瞬間、「勝てた」(あれ?「勝てる」でしたっけ)。なぜか、思ったのはたしかでした。むいしきに、相手が4点獲る間に、相手のてのうちがわかった、と、おもったのでせうか。一対一。それしか経験のない?わたしでした。(今にして思えば。そうしてまでも、キャプテンになった、その子の。。。そうか!小学校の防具を着けるその道の1つでも。同じところに通っていたのでした。書いていて、今、気がつきました。)思う方は、ずっと思っていても、思われている方は、まったく、それもずっとずっと先になるまで、わかっていない。。。いま、納得がいきました。そこまでして、キャプテンにこだわったわけが。。。話を戻します。。。要するに、その先は、勝った!ということしか、覚えていないのです。。。きっと、1セットもおとすことなく。。。(練習試合では、確か、勝っていないように思います。)。たぶん、おそらく。その日の朝。「わくわくする」朝の弱いわたしが、なぜかその朝。そう思ったのを、覚えています。

 

秋の大会には、つよいのでした。しょかはそうはいきませんでした。大きな大会があとひと月早いなら。。。もしかしたら。もう少しかてていたかもしれません。。。ただの憶測ですが。。。ゆいいつのともと、の、時間のおかげで、つぎつぎと、いろいろなことが、思い出されてきました。。。そのことへの感謝を、そのともに、つたえるために、これをいまは、書いています。。。(いまは、少なくともいまは、ヘアピンと、軽めのドライブしか利き手では打てないわたしですが。。。うったわけではなく、なんとなく、そう感じるのです。サブマリンしか、投げられないと。。。リハビリしながら、思ってもいました。。。いえ、そんな言い方をしたら、あの電車の色がとてもなつtかしい、あの素晴らしい投手の方にとてもとても失礼ですね。著書を読んで、もっとも、納得したのは、その、とうほうで、しぶ~い、見た目と、(たぶん、せいせきも)話し方も、とても印象的な方です。。。よね。。。)あの電車の色と同じ、1着を選んでくれたともに。。。まるで自分のことのように、(かったとき。。。)よろこんでくれていたのも、そのともです。。。

その方が、もし、母の幼なじみでなかったら。。。まず、ゴルフはできていなかったことは確かなように思います。驚くほど、誠実で、きちんとされていて、まっすぐで、それでいて、ことばの使い方もとても的確で。わたしが、ゴルフのマナーのほとんどを教わったと言ってもいいと、そう感じている方です。母の2つ下。学年では1つだったでせうか。母が若い頃、どちらかというと親しくしていたのは、その方の弟さんの方なのでしたが、ともあれ、とうじ、わたしがのっていた車に乗られたときには、「これ(この車)は、背中からこうぐぅ~っと押されているような感じになる車ですね」と。そうです。セカンドからサードになったときに背中がぐう~っと押されて一緒に自分も動いている、そんな運転が、楽しくて仕方なくなるような、乗られるだけで嬉しくなるような、そんな車でした。今から思えば。ずがたかmい。みぶんふそうおう。わかることができます。ただ。それでも。乗ることが出来てとてえもよかった。そういつになっても思える、そんな車です。

 

グリーン上で。「キャディさんにラインを聞いてはけいけません。これから目指そうとしているのだから、自分でちゃんと読みなさい」。そんな、あたりまえのことを、幾つもその都度、きちんと教えてくださいました。島にもどられていて、ほーむコースに来られるには、おそらく、あさいちばん?のフェリーに乗ってこなければ、来られないはずで。おぺるだったでせうか。「うちの(おくさま)は、運転はどれだけしても苦にならない(どころか、高速道路をどれだけ運転しても)運転を、楽しんでいる(のです)。」と。ホールアウトしてからの、食堂での、ジョッキを使っての、コーラのダブルがおきまりの方でした。かつて支配人をしていたころはシングルでしたと、控えめに言われていました。二号線を、望む、その、まるで空に向かって打つような気持ちになる、そのミドルホールのティーグラウンドは、いまもとてもこころに残っています。とても好きはホールのひとつです。

 

その日がまさかさいごのラウンドになるなんて、ご本人もきっと夢にもおもっておられなかった、そう思います。フェリー乗り場のすぐ近くにある、電器店の駐車場で。きちんと枠の中に車をおそらく、きれいな形で、駐車されて、そして、降りたところ。だったのでせうか。もう、13年も前になるなんて。わずか、その、はんとし前には、殿堂入りのパーティに招待されていて、でも、その日の夜行列車で、とんぼ帰りされる、その日の午後?でしたか、駅に到着されてから、パーティ会場に入っていかれるまでをご一緒させて頂いたのでした。凜とした、あのステキな女優さんが来られていて、エレベーターホールでわずかすぐそばを通っていかれたときの、その姿、そのまわりに確かにあった(特別な)美しい空気は、その方の生き方をきっと表しているのでせうねと。あとで、その方と、御電話でお話させて頂いたようにおもいます。その会場となった場所の、中二階にある、喫茶の空間で、大好きな(ケーキである)ガトーショコラと、おそらく珈琲(あるいはエスプレッソ)を、御馳走になって。

 

ぎんのすず。あまりにゆうめいすぎて、あのきゅーばいきのとき以来いちどもいったことさえなかった場所で、待ち合わせをしたのを覚えています。あんなに大勢のひとひとのなかでも、律儀で几帳面なそのお姿は、すぐに目に飛び込んでくるような。そんな実直を絵に描いて額に入れて、それからなんでしたっけ?(すみません。そんな冗談をいうのも申し訳なくなるほどの方でした)。そのエレベータホールで一緒に写真を撮ってあげた見知らぬ方にも、「あとで写真をお送りしますので」と。確か、小さな女の子がいたような記憶があるのですが。ともあれ。とうちゃくから、会場となっているタワーそばの、その場所の、そして殿堂入りされた記念のパーティが始まる直前まで。時間を頂いたのでした。「帽子が観てみたい。」そうおっしゃられて、一緒に、駅の近くのデパートの帽子売り場に行ったのを覚えています。ただ。たくしーで移動しないといけない時間までには、気に入られるものを見つけることができなくて。。。少し残念そうに、えれべーたに乗ったときの姿が印象に強く残って。その少し後で、なまいきにも、いくつかのところを探して、その方のイメージの帽子を、お贈りしてしまった....のでした。もちろん、夜行列車で帰られたあとも、すぐに現像された、そのときの会場内での(酒樽を木のつちで、上の木々を割ってお祝いするのをなんていうのでしたっけ。すみません。この頃、こんな風に、少し経つと思い出すのにとっさに知っているはずの言葉がしばし出てこない、そんなことがしばしばあります)。ほとんどその美しい女優さんばかり(でもなかったのでしょうが、わたしにはそう印象に残った)の写真がたくさん入った、もちろん、ぶがいしゃのわたしがはいることのできない会場の様子がよくわかる写真が、手紙と一緒に届きました。

 

いつ、どんな手紙を書いても、はがきをおだししても、そして、パソコンで、せまいせまい(今から思うとですが)、その寮と、ゴルフ場でのいろいろ(どこでもあるようなささいなことごとだったと(今は思えますが、当時は)おもえずになやんでいることを、その都度、書いて相談すると、すぐにお返事を返して下さる。書いてから、お返事をいただいてから、あああ、そんなに急いで書かずとも、もう少しまっていたらば、そんなにお手数を掛けずに済んだのにと、反省することしきり(で、も、また、書いてしまうようなそんな日々でしたが、それでも、ゴルフをする、させてもらうということにおいては、今考えても、すばらしいとしかいいようのないくらいの恵まれた環境でした。ともあれ。その方がとつぜん、そうして電器店でくるまをと

められた後、壁?と愛車とのあいだに(まるでかくれるように?)たおれられていたと、聞いたのはずっと後のことでした。とにかく。余りに急で、その殿堂入りパーティまでの時間が。。。になるなんて、夢にも思わない。。。そんな中で知らされたのが、そう、13年前のちょうどいまのころ、だったと。ゴルフのこと。会社をやめるとその半年以上前、まだその島の近くのしょにんちにいたときに、なんども市内のお店などで弟さんもご一緒に、「できるならやめておきなさい」と。こんこんと、このうえなく、丁寧で、親切な説得をして下さった。それでも、それに首をたてにふることのできなかったわたしが、わがままを通したときには、こんどは、真剣にそんな風にイロハから、何からを、折に触れて、丁寧に、そして厳しく教えてくださったのでした。初めて(定年後に戻られた故郷の島の)ご自宅にお訪ねするのが、式になるなんていったいどうして想像できたでせう。奥様は、ちょうど、殿堂入りされた方が、ソフトボールからゴルフに転身なさるときのあ、工場長で、その方の伝記にも登場する、いまいるところの比較的とてもちかいところにある、ご出身で。職場が同じだったそうです。もちろんこれも、ずっと後になってうかがいました。いなくなられた後、なんどか奥様を訪ねて、手料理を御馳走になり、そして、想い出のお話しや、きちんと手入れの行き届いたお宅の、中の、中二階の寝室(客間)からの納屋を望む風景と、練習されていた緑色のネットの庭の姿が、とても懐かしく。そのお宅の、ちょうど目の前が、かつては、母と、母の家族の家があったところなのですよと、母ではなく、その奥様にそのとき教わったのでした。ちょうど、去年が13かいきだったのですね。がくぜんとしました。宝くじにあたったら、そのかたのご実家をかえないでせうかと、ほんとに真剣にそんなことを願っていました。奥様も島をでられて、そのご自宅は、貸し家?アート制作の場?となって、いました。4年前?いえ、もうひとつ前に島に行ったときに、たしか、そうなっていたように記憶しています。(あ、かがみわり、ですよね?さっきの。。。そう、こんな感じです。年齢的に正常な?範囲でせうか?)ひとりでいると、ときおり、そんなことさえ、ふと、心配があたまをよぎってしまうことがありまず。ともあれ。もう13年と、いうべきでせうか。あまりにたくさんのことがありすぎて、そして、特に今年の冬からが、あまりにわたしのこころには、長すぎたせいでせうか。ともあれ。あたまのなかで、時間がぐるぐるぐると、なんまわりもしてしまいそうな、そんな時間と時間の中にいましたので。。。こんな風にただ、ただ、長い文と文章になってしまうのも、そのせいと言ったら叱られてしまうでせうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ずっと流すことさえ出来なかった、涙。ふしぎとおもわれるかもしれませんが、かちかちになにかが固まると、そうなるのでせうか。ともあれ。ずっと泣きたくても泣けない。そんなかなしい状態にありました。「不惑のスクラム」。確かに見覚えがありました。しかし、それほどストーリーをちゃんと観ていなかった。そんな気がしながらみていました。これだけで、ファンになってしまいそうなその方の演技、いえ、存在感におどろきながら、そうか、この方ももういらっしゃらないのかと、心の中でため息ながら、それでも、マカロニ刑事のことはオンタイムではほとんど知らないしなぁと。思ったり。わたしがなんとか厳しい父の審査を?クリアして見始めた頃は、ボギー、ドッグ、そしてラガーさん達の頃でした。(それにしても、あのときのやまさんの存在感も渋さも。。。うまく表現できないですが。ともあれ。いいなぁと振り返ったのでした。ともあれ。)そう、その俳優さんがどうしてそんなに人気があるのかずっとわからない感じで居たのが、その一作でわかったようにも思えました。ともあれ。涙が。気がつくととまらなくなっている自分に、感動して。また泣けてくるのでした。しまいには、ストーリーに感動しているのか、自分のその快方に感謝しているのかわかない状態でした。ともあれ。

 

そして。まじっくがよんになっていると知ったのは、それからしばらくしてのことでした。そのくらい、復帰されていたのは知っていたつもりでしたが、まったく、観るなんてゆとりのまったくない春先からの時間々~でしたから。いま、何位なのだろうと、思うことさえ出来ない日々と時間の中でした。不意をつかれたように、驚きと、いまごろ気づいた情けなさと、そして安堵感と、なにやらこれまたうまくは言葉に出来ない感情がありました。つまりは、素直に嬉しかったのです。そうでしたか。それはほんとうに良かったと。不思議な感情でした。うまくはとても表現しきれません。そしてその二日後でしたか。溢れる涙を、はばかることなく、腕を大きく動かしてぬぐう姿に、また涙がこみあげてきました。なぜだか、その数日前にふと、あるときに、思っていたところでした。そう、あのドラフトの朝にあの方が爪を切って行かれなかったら。。。そう思うと。。。うんとえんは同じことなのでせうかと、改めてつくづくと思います。ふだん、閑かな父が、あんなに興奮して。なんてことだ。行きたいと言っていてそれが、ほんとうにどんぴしゃとくじを引いてもらえるなんて。なんてすごいんだ。と。あの日初めて、知った選手でした。そして、それがあ)たまたま、ちゃんとルールを覚えて、真剣に観ようとおもった最初の年と、重なった。(のでせうか)。しょうわごじゅうろくねんでした。

 

あの夏、海を渡ったゴルフ場でその方の時期かんとくしゅうにんを知りました。わぁ~。なんということ。あと一年ちがっていたら(たぶん、いえ、わかりませんが、もしかしたら、うんどうのぶしょへのいどうを待つもちべーしょんが全く違った、かもしれないなどと、ひとり、かってにおもったのは確かです。いまごろ、なんの話と言われてもしかたありませんね。それくらい、しょうげきでした。いつも、先が読めない、簡単なことや可能性にさえ気づけないわたしです。(よけいなしんぱいはとくいなのに、です)。ともあれ。そんなに早くに、というのが当時の、おどろきとしんじょうでした。95年のいんたいのとき、いえ、あれは1回目のかんとくをしりぞくときだったでせうか。とらのユニフォームに身を包んだ、倉敷でお姉さん達に囲まれて育ったという、あっつくてそれでものすごく笑顔のステキな監督だったあの方が花束を渡した後で、その方の耳元で何かを囁いた。そしたら、その瞬間、涙が一気にあふれてきて、抱き合っている姿がやきついたのは、あれは、なんねん前だったのせうね。そして、あの方さえももう。。。なんて、すてきなかたからいつもいなくなってしまうのでせうね。21球をあんなに見事に切り取られた、別のあの方にしてもそうです。その方がいなくなられた年齢になって。このあいだに、あんなにたくさんの著書を書かれたのかと。驚きを通り越して。。。アメリカのステキなミュージシャンの方を教えていただいたのも(著書を通してですが)、21球のその刀のでした。スローカーブをもう一球。そんな、さりげなくて、とても魅力的なタイトルの一冊の中にあります。革命といっていいほどの名作だと、改めて思います。

 

そして。ともあれ。9歳から今までの、いろんなことごとを、思い起こさずにはいられない、この何日かです。また、もどってしまうのでせうか。不安が少し、いえ、これを書き始めた頃だって、同じような感じの中で、ひたすらに書いていた。そう思えるのは、治ったというより、上手くつきあっていくすべを、もっと器用にみにつけられたら、どんなにいいでせうと、思わずにいられない、そんな中で、いまこうして、書いています。(よけいなごへいや、なにかよけいなひとことなどがあったら陳謝します。思うままに手が動くに任せて書くと、こんな風になります)。