長い長い夏でした。いえ、正確には、夏をしらないうちに夏場所が済み、秋場所が始まっていたという方が、正確でせうか。
こんなかたちで、さきにここでの、いきてる連絡をするご無礼をお許し下さい。また、言葉が降っています。ふ~。それでも
永久凍土のようにかたまったまま動かずにいた、夏の間のすべての時間が、今にすれば、もったいなく、しかし、そのただ中では
明日がくるのがいやではないけれど、明日がなくてもこまるのだけれど、でも、目の前の時だけが、固まり、そしてこころも気持ちも
空を舞うばかりでした。今しか出来ないことをしたらと?いくら言われ、頭でイクラ想像することはできても、なにもできな自分だけが
そこにいる。そんな夏でした。いえ、春先から、ほとんどの時間がそうだったようにも思います。躁ではなくて。
どうしてでせう。こころの氷が溶けてくれると、時が、目の前の時間がありがたく、うれしく、そしてぼーっと無為にいることにも幸いを
覚える事ができるのに、固まりに入った途端、あしたがこなけりゃいいとまで思わずとも、このままきえてなくなりたいとまで思わずとも
どうやって時を重ねていいのか途方に暮れるばかりで、できることなら、ひたすら眠って時間をスルーしまいたいということを思ったりも
するのですから。こころが動いてくれたとたん、むしろ、あしたがなくても構わないと、平然と思えてその上で、いまあることのありがたさを
思えるに、固まっていると、あしたがないのは困る上、そのくせいっそなんとかとのぞんでは、そんなことができない自分にため息をつく
ばかりの自分を俯瞰しているけれども、どうにもこうにも、自分で自分のこころを動かせない、ジレンマの時のおりのなかにでも
閉じ込められてしまったかのような、無為と言うより、むきりょくをかなしむしかできない自分がそこにいるのです。
こころが動いてくれるときこそ、あしたがなくてもなんて、ほんとにあったらいやかもしれないけれども、そのくらいのあっけらかんさを
持ててしまう、逆説に自分でも、かなしいのか、うれしいのか。なんとも苦々しい部分と、そして、また、一縷の心配が交錯するのです。
先のことを案じるというそれですけれども。ともあれ。ひとは、それぞれがそれぞれにとって、できるとおもえることしかできないもののようです。それをできないことをするしかない、それしかどうにもできないと自分を責め始めた途端、どうにもこうにも、動きの取れない袋小路に
入ってしまうのかもしれません、とも思います。月夜になってくれたから、こころが動いて普段を戻せたとは思あのいますまい。ただの偶然に過ぎないと。それにしても。手足がしびれて2行のメールを打つのも困難なともをどう、励ましたらよいのでせう。きりぎりすではいけませんよと、きびしく叱って下さった唯一の方です。どうして、それは、おなじひとにこれでもかこれでもかとつぎからつぎへとやってくるのでせう。
人生に無駄なことなどなにもないといわれたのを耳にしたような覚えがありますが、ほんとうにその方にもそうなのでせうか。
意味を考えるからつらいのでせうか。いえ、でも、物理的に、肉体的に,痛み的に、機能的につらいものを、いみがあるからつらくないと
思えと言ってもできるはずもないではないのではとおもえます。かくいうわたしとて、この長さや暗さのまちまちの時折やってくる(かも
しれない)トンネルさんと、なんとかしてうまくやっていかねばならないわけで。ケセラセラになれないひとほど、やさしくてつよいかたほど
苦労がたくさんやっくるのでせうか。
読みづらい改行をお許し下さい。ひとまずの無事と、夏の通過と、傷は癒えても、尚まだの液の滲出をお伝えして、その方へのどういうことばがこころに少しでもとどけることができるのかを、ずっとずっと考えています。