休みの日。あさ、ココアをたっぷり入れたパンケーキを焼きながら。あ、コーヒー、淹れることができるんだ、そうおもった瞬間、自分でも、いまごろそんなことをはじめて発見したみたいに感じたことに驚きながら、あらためて、嗚呼うれしいな、ふとそんな風に感じました。そして。母がいつも。起きてくると。もう待ちつかれるのにもあきたわよ、というような顔をしながら、しぼりだすような声で。「はよ、こーひーいれて」。あの決まったフレーズを思い返していました。母のつかいふるした鍋がいまも並んでいる台所の、ガス台の前にたちながら。。。お湯を沸かして、特製の、あの出口が細くなっていかにも美味しいのが間違いない珈琲をいれられるに違いないホーローの薬罐ポットは、いまだに手にできてはいないので、おそらく、最初のオリンピックより前から我が家にあるだろうな、とっての部分が金属の骨だけになったミルクパンでお湯を沸かして、2人用のフィルターを陶器の漉し器に丁寧に折ってから敷いて、和みというぶれんどのこーひー粉をひとさじ。そしてお湯をやさしく細くしてゆっくり注ぐ。。。だけなのだが。。。これだけなのに、淹れる人の数だけ味がちがうのは、ほんとにほんとにどうしてなのでせうねぇ。ふしぎです。
朝からずっと机の前に座っています。つくえといっても、まだこたつ様式にはしていない私の年齢より古いはずのこたつテーブル(ぱなそにっくではなく、なしょなると書いてありますから)と、さいしょのボーナスで買うことができたお気に入りのソファと間のいつもの場所に座って、という意味なのですが。お休みの日、出かけなかったら、のんびりモードになっていたら、たいていこんな風です。書いたり、書いたり、そのほかいろいろ、ぼおおっと、は、あまりきょうはしていないので、テレビを観ながら、覚え書きを書いたり、いろいろ、つまりは書きながら、なにかをしているのか、なにかをする合間に書いているのか、自分でもさだかでないまま、時の流れの中で、気がつくと時間が経っているのです。美味しいものは、少しでも、いえ、むしろそれにふさわしい少量だからこそ美味しくて、そして胃袋が?こころが?まんぞくするので、多すぎる量はかえって味のよさが減ってしまうような、そんな気がして。そしてたぶん、もしかしたら、おいしいものをたべていたら、そんなにかっとなったり、ひとのことをあれこれきになったり、ひとのよくないことにちゃくもくしたりしたくはならないのではないかと、よくはわからないままに、ふとそんなことを思ってみたりしながら、いやいや、よくないことを想像するのはこのくらいにしないと、せっかくのおいしいものがおいしくなくなってしまうと、思い直して、なるたけいいことを書かなくてはとおもいながら、書いています。
おいしいものが食べられるのは、毎晩かかさず2合のお酌をして、おかずは5,6種類はあったでせうか、ともあれ、2回おなじものが続くとだまって箸を付けない大正生まれの父が居てくれて、そして、そのために、(わたしのきおくでは、いっつもでしたが)いろいろぐちらしきものを口にしながらも、せっせと決まった食費の中で、毎晩、季節のものを上手につかって、美味しい食べ方、美味しい調理法で、おかずをあれこれ作ってくれた母がそれぞれいてくれたから。そして。大人になって、折に触れ、美味しいものを御馳走して下さった、さまざまな方に縁をもつことができたおかげで。さらには。ちちがいなくなってからは、帰省の度に、ははがいきたがった外食で、限られた外食なら、ほんとうにおいしいものを。の、機会をいくつももつことができたお陰で。そんなこんなで。食べたことのあるものなら、きっと再現も近い味も想像、創造?できるのかもしれないですねとおもったりもするのです。何より素材がいちばんですが、調味料にも隠し味があるのでせうか。そして、なにより、ガスで調理するあじには、どんなものもかないませんね、と、書いていて、はたとおもいました。そうか、直火なら、焚き火ならきっともっと美味しいのですね。そして火加減がなによりむずかしく味のかぎをにぎるのですねと。鉄の鍋なら、もっと美味しいにちがいないですね。昔の人のつかわれしものは、なるほどどれも味わい深いものばかりなのですね。古いものはどれも味が深くて、滋味深く、価値がある。そんな気がするばかりです。