まるで桜の花びらが舞うような陽気と、穏やかな海と空が続いて、まるで知らぬ間にどこでもドアをくぐったかのような、そんな夢のような数日がって。明けていちにち、しとしととあたたかい雨がいちにち降り続いて。もうひと晩眠っておきたら、白い粉が舞っていて。そしてもすこし眠いなと、ほんの数時間眠っただけなのに。。。どうりで静かで眠りやすい空気でした。雪が降りつもるとき、いったい何が違うのでしょうねと、いつも思います。気圧?空気の静けさ?まるで、眠りのドームに包まれたような感覚で深く眠ってしまうような、不思議な感覚が訪れます。ともあれ。起きたらば、あーらびっくり。時計の針の進み具合もさることながら、窓の外は、ひと月前のそれに逆戻り。ほんの数時間なのに。これまた、どこでもドアを寝てる間にくぐってしまったのかしら。そんなことを思わぬでもないくらいに。眞冬の景色が目の前です。おやおや。こまったものですねぇ。思わず、右京さんのあの決まりセリフを口にしてしまいそうです。

 

耳の記憶。おもえば、我が家にはずっと白黒テレビしかなく、くるまはもちろん、エアコンも、冷蔵庫だってワンドアだったし、洗濯機にはかろうじてぐるぐる廻すハンドルではなく、がたがたとからだ全体を揺らしてしぼる脱水機がついてはいましたが。。。いつも、父のそばでラジオがついていました。そういえば。いまもお昼の前と後に、50年前とおそらくかわらぬあのめろでぃーがなると、からだの芯のあたりから、ほわほわぁ~と、なんともいえないなつかしさ、こころからからだぜんぶからちからを抜いてホッとしてもいいのですよと、いわれているかのような、そんな空気に包まれます。音の記憶。耳の記憶というのは、たぶん、ほかのどんな記憶よりも、ながくふるく、ふかいところに浸透しているのかもしれませんね。おとなになっても、わたしどうしてこのメロディが懐かしいのだろ、まだ生まれていないか、いえ生まれていたとしてもまだ赤ん坊なはずなのに。。。そんな時代のメロディが、そして歌声が、とてもからだぜんぶに心地よく、聴いてるだけでホッとできる。それがずっと不思議で仕方なかったのだけど。もしや、いちどそのころ大人として生きていて、そしてもいちど生まれ直したのかな、なんて、そんなことまでこっそり思ったりもしたけれど。恐らく、ずっとずっと小さな頃、目で観た風景の記憶も残っていないそんな頃に、聴いていたのでしょうね。父のラジオを通して。。。(前にも書いたとおり、動き回るわたしのあとをずっとだまって見守ってくれてたのは、ほかでもない父だったのだから)。

 

みちのくひとりたび。ああ、嗚呼、いいなぁ~。いまにも、ふらりと入ってきた鈍行に飛び乗って、ひたすら、予定表のない旅をしたいなぁ~。途中、なあんにもない駅で、その日の運行がおわってしまったら、どうするの?この季節に、その辺のベンチでは、しんじゃうよねぇ。一宿いちなんとか。あれなんでしたっけ。ともあれ。いまのご時世。ふらりと知らぬ人を泊めるなんて、まぁ、それでもそんなこと気にせぬひとはきっといるでしょうけどねぇ。ともあれ。車窓の景色はどこまでいっても、白しろ白で、退屈になってしまいますかねぇ。すべての町に温泉があるという地にもいってみたいなぁ。どんな風とどんな空気がながれているのか、感じてみたいですねぇ。ドナウの源流にほど近い、Sigmaringenという町の、夜明けの頃、その小さなValleyは、傾斜のそこここに新しい住居や学校が建っていて、今にも細かな氷の粒がふってきそうなほど、凍てついているのに、そらから洩れ来る光は、どこかやさしくやわらかくって、寒いはずなのに、その澄んだ空気と透明感清涼感ともいえそな白の景色に、思わず引き込まれそうになるんです。寒いときこそ、寒い地だけがそのときだけに見せる幻想的なそんな風景は、こころが洗われる、洗われるからこそ気持ちがいい、そんな感じがする、そんな風景がたしかにある、そんな気がしています。寒いときに、さらに寒い地を旅してみたいと、思ってしまうのは、なぜでしょうねぇ。どうせ寒いなら、ほんとうの寒さを、本当の寒さが作る景色を、間近に見てみたい、その空気を感じてみたい、そう、こころのなかの、なにか(どうしようもないおへそまがりなぶぶん?)が、思わせてくるのでせうかねぇ。ふしぎです。

 

と、書きながら、きのうから、そういえば、夕飯を作るとき台所にたった以外は、ほとんど、半径30センチ、いや6インチかもね、の生活をしているのですけれど。。。いまこのとき。この不便あふれる、いろんな意味で、なにかとふべんだらけの、この、さむい時季だからこそ、いましかできないこと、って、なにですかねぇ。蔵の奥から、ふるい、せっかく買った途端に、ほとんど行かなくなってしまった、カーブしてない平行そのもののスキー板、だしてみたい、そんな気もしないでもないけど。ドイツの町でもひとりでさくさく行くのに。ひとりでスキー。は~。そもそもそれほど上手でないのが難点なのですかねぇ。不純な!?動機でもないと、さぁ行こうってなりませぬねぇ。ほかに、さむいからこそ出来ることって。さぁなんでしょねぇ。すっかり皮がしわくちゃになってしまった、暮れに採った庭の柚子。もいちど、ジャムをつくってみようかしらん。しわくしゃ皮では、おばあちゃん味になってしまうのですかねぇ。ともあれ。なにごとも、おしりにひがつかないと、うごきだせない性質のようでして。。。そもそも、おおそれはやりたい!と、おもえるものでないと、だれがどんな大火をもってきても本物の火にはならない。(まぁ誰でもそうなのでしょかねぇ)。そこがおおきなだいもんだい!?なのですよねぇ。してみると。こころに火をつける、というのは、これなかなか、はたして、たいへんで、いえ、だからこそこそ、きちょうでけうなことなのですねぇ。わくわくをみつける。これをしてたら、いつの間にか、100年経ってた。そういうのが、いちばん、健康っていうのかもしれませんねぇ。いまおもいついのですけれど。。。