【作品#0604】ケープ・フィアー(1991) | シネマーグチャンネル

【タイトル】

 

ケープ・フィアー(原題:Cape Fear)

 

【Podcast】

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【概要】

1991年のアメリカ映画
上映時間は127分

【あらすじ】

14年の刑期を終えて出所したマックスは、刑務所の中で法律の勉強をしており、実はもっと短い刑期で済んだはずだったことを知り、当時の自分の弁護士をつけ始める。

【スタッフ】

監督はマーティン・スコセッシ
音楽はバーナード・ハーマン/エルマー・バーンスタイン
撮影はフレディ・フランシス

【キャスト】

ロバート・デ・ニーロ(マックス・ケイディ)
ニック・ノルティ(サム・ボーデン)
ジェシカ・ラング(リー・ボーデン)
ジュリエット・ルイス(ダニエル・ボーデン)

【感想】

J・リー・トンプソンが監督した「恐怖の岬(1962)」のリメイク作品であり、オリジナルからグレゴリー・ペック、ロバート・ミッチャム、マーティン・バルサムが出演している(ちなみにグレゴリー・ペックの最後の映画出演)。アカデミー賞では、ロバート・デ・ニーロが主演男優賞、ジュリエット・ルイスが助演女優賞にノミネートされた。ちなみに、ロバート・デ・ニーロとジェシカ・ラングは本作の翌年にこちらもリメイク映画「ナイト・アンド・ザ・シティ(1992)」で共演している。

まず、本作から約30年前に製作されたオリジナルとは大きく印象の異なる作品になっている。何と言ってもオリジナルでグレゴリー・ペックが演じたサムは清廉潔白で、いわゆるグレゴリー・ペックがよく演じてきた正義の側の人間である。

様々な役柄を演じるロバート・デ・ニーロにおいても、本作ほどの悪役も他にないだろう。南部訛りを取得し、歯科矯正を施し、肉体改造をし、実際にタトゥーも入れている(植物性の染料を使ったので数ヶ月で自然に消失するもの)。やや作り込み過ぎの印象もなくはないが、彼の演じたキャラクターの中でも屈指の印象に残るものになっている。ただ、そんなマックス役も当初、マーティン・スコセッシ監督はハリソン・フォードを希望していたが断られてしまい、多くのキャストが検討されたが最終的にマーティン・スコセッシ監督と多くのタッグを組んできたロバート・デ・ニーロが主演することになった(本作で7度目のタッグ)。

また、監督も当初はスティーヴン・スピルバーグが監督する予定だったが(その際の主演候補はビル・マーレー)、マーティン・スコセッシを監督にすることを推し、電話して説得したと言う(スピルバーグは本作にノンクレジットながら製作総指揮の立場で携わった)。ただ、マーティン・スコセッシ監督は本作の脚本が嫌いでオファーは3度断り、スピルバーグによる説得は1年にも及んだと言う。

そして、本作のためにオリジナルの音楽は作られておらず、オリジナルの「恐怖の岬(1961)」で作ったバーナード・ハーマンの音楽をメインで使用しており、一部には「引き裂かれたカーテン(1966)」用に作曲されたが未使用だった音楽も使用されている。そして、その音楽を監修したのがエルマー・バーンスタインである。

本作のオリジナルがヒッチコックっぽさを目指したこともあり、リメイクである本作はその傾向がより強く出ていると感じる。まず、タイトルデザインを担当したのがヒッチコック映画でも「めまい(1958)」「北北西に進路を取れ(1959)」「サイコ(1960)」のタイトルデザインを担当したソール・バスである。マーティン・スコセッシの監督作品では「グッドフェローズ(1990)」で初めて担当し、本作以降、ソール・バスのタイトル・デザインでは遺作になった「カジノ(1995)」までマーティン・スコセッシの監督作品を5作品手掛けている。

さらに比較的落ち着いた映像作りだったオリジナルに比べると、リメイクにあたる本作は良い意味で落ち着かないカメラワークと編集になっている。登場人物にカメラが寄ったり、観客が映してほしいと思う箇所を映さなかったり、細かいカット割りを繋げたりと画面が行き着く暇もない。かと思えばマックスとサムの娘ダニエルが対面するシーンはじっくりと腰を据えて描いており、この演出や編集はもはや名人芸の域に達している。

リメイクにあたる本作は基本的な筋書きこそオリジナル通りと言えるが、キャラクター設定などははっきり言って別物と捉えても良いくらいに変更されている。まず、主人公のサムは「正義の側」にいる人間で、基本的には過ちを犯すことのない存在として描かれていた。それに比べ本作のサムは、決して観客が感情移入できるような正しい人間としては描いていない。オリジナルでサムはマックスの暴行現場を目撃して裁判で証言したという設定だったが、本作のサムはレイプしたマックスの弁護を担ったが、被害者の女性が男遊びをする人間であるという事実を隠して裁判に臨み、その結果としてマックスはより長い刑期を刑務所で過ごすことになったという設定に変更されている。サムは弁護士でありながら、マックスの刑期が短くなる努力はせず、「もしこんな犯罪者が身近にいたら」と考え、主人公に有利になる証拠を隠したまま裁判に臨んだと語っている。もちろん多くの観客は、マックスのような犯罪者なら仮に刑期を終えても身近にいてほしくないと考えるだろうし、サムの取った行動に「それは良くない」なんて思うこともないだろう。ただ、マックスは法律の抜け穴を付く行動を次々にしており、弁護士のサムも同じようなことをしたのだから強く言えなくなっていくのも納得できるものがある。キャラクターを白黒はっきりさせたオリジナルよりも多くの矛盾や罪を抱えたリメイクの方がよっぽど味わい深いものがある。

さらにサムはローリーという不倫中の身である。しかも、妻のリーとの会話からかつて不倫していたことがバレた経験もあるようだ。サムとローリーが揃って画面に登場する場面ではスカッシュをしている場面である。リズミカルに球を打ち合い汗だくになる様はまさにセックスのメタファーだろう。サムは弁護士という仕事をしながら公選弁護人時代には事実を隠して裁判に臨んだ経験があり、妻子がいながら不倫を繰り返す男である。

また、いかにも正義の側というサム、ならびに演じたグレゴリー・ペックに対して、リメイク版のサムはニック・ノルティが演じている。このニック・ノルティは割と強面であり、当時はタフな力強い男性と言うキャラクターを演じることが多かった。また、上述のようなキャラクター設定を考えると、主人公に観客が感情移入できるとも限らない。そうなると、いかにも正義の側といった容姿の俳優を起用するよりよっぽど映画に奥行きが出る。

一方のマックスはロバート・デ・ニーロ史上最も悪いとも言えるキャラクターを相変わらずの存在感で演じている。オリジナルのマックスには同情の余地が一切残されていなかったのに対して、本作のマックスにはほんの少しだけ彼の言い分を認めざるを得ないところがある。上述のように、マックスは確かに女性を犯した。そしてその女性が男遊びするような女性だったのも事実だ。ただ、公選弁護人だったサムはその女性が男遊びをするような女性であるという事実を伏せて裁判に臨んだ結果、より長い刑期を務めなければならなくなった。もちろんその事実を公表したとして裁判結果が変わったとは100%言い難い部分である。じゃあ弁護士のサムがその事実を意図的に公表しなかったことは合っていたかと言われたらこれは残念ながら100%間違っている。たとえ被告に同情の余地がなかったとしても私情で事実を隠されては困る。法治国家である以上、「性犯罪者のマックスだから良い」となってはいけないはずだ。当初は文字すら読めなかったマックスが長い刑務所生活の中で独学で知識を蓄えたからこそ、サムが間違っていたと気付けたのだから、サムが事実を伏せずに裁判に臨んでいればマックスの刑務所暮らしも短くて、かつ独学でここまで勉強できなかったかもしれないわけだから、こんな皮肉な話はない。

さらに法律の勉強までしたマックスはどうすれば法に触れずに相手に嫌がらせを出来るかまで学んでしまった。そして、無職なのに受け継いだ農場を売却したお金もある。まさに無敵の人である。そんな彼らの最初のシーンはサムが車に乗り込んだところへマックスがやって来るところである。そこでは車に乗るサムを車の外に立つマックスが見下ろす構図になっている。サムは相手にせずに車で走り去るが、その後マックスが車に乗って車の外を歩くサムがマックスを見下ろす構図になる。構図としては完全に上下関係が逆転しているのに、会話の成り行きから立場は見下ろされているマックスの方が上になっている。画面内の構図を入れ替えつつ、その構図から捉える意味は逆転しているところも面白い。

人の抱える矛盾を表現するキャラクターがサムの娘ダニエルであろう。オリジナルのサムの娘はただマックスを恐れる存在として描かれたが、本作のダニエルはマックスのことを良く思う場面がある。彼らが初対面するのは学校の演劇のクラスである。マックスは演劇の教師だと偽りダニエルを呼び出す。そこでの会話シーンは複数のカメラを同時に回してワンカットで撮影されたもので、それを3テイク撮影して本編で採用されたのは最初のテイクである。それまでのカメラワークは割とせわしない印象だったが、この場面になると急にカメラをドッと据えて彼らの演技をじっくり捉えている。ここでダニエルは演劇の教師だと偽るマックスに対して好意的に接しており、キスまでしてしまう。思春期の女の子が、大人の男性に対等に渡り合えることを示したいとかそういう背伸びしたい気持ちがあるのと同時に、危険な男に惹かれる気持ちが表現されているのだろう。良い人がモテずに、ちょっと悪そうなのがモテるところもある意味理にかなっているのだが、ただ冷静になればそうなっては困るという考えも芽生えてくるだろう。危険だと分かりながらも飛び込んでいってしまうのも人間の一つの願望であり矛盾でもあろう。

オリジナルでは家族を囮にすることに何の疑問も抱いていなかったサムだったが、本作のサムは家族を囮にすることを提案されてはっきりと拒否している。家族を守りたいサムが家族を囮にしようなんて考えられない。また、このサムというキャラクターを考えると、「男は強くあるべき」とか「男は家族を守らなければならない」と考えているはずだ。マックスはそういった古い固定観念をぶち壊す存在であるとも言える。女性の社会進出や権利や立場の向上などについて叫ばれて久しいが、それを女性ではなく男性側の視点で描いているのも面白い。

最終的にサムはマックスとの戦いに勝利をするのだが、これを勝利と言えるだろうか。オリジナルのサムはマックスを殺さずに法の裁きを受けさせる決断を下すので、またマックスが出所してきたらその脅威に再びさらされるかもしれない。その意味ではサム一家はマックスという存在がなくなったのでもうマックスから命の危機に晒されることはなくなった。ただ、マックスによって一家は精神的にとてつもないダメージを加えられた。ダニエルの最後の語りにあるように「もうこの話を家族ですることはなくなった」と語るようにタブーとなってしまった。彼らは一生この出来事から逃れられないだろう。

そして、主人公の1人であるサムはこの一件で何が変わったか。おそらくあまり変わっていないのではないかと思う。本作のサムに「マックスの裁判の時に、事実を隠さずにしっかり仕事をしていれば良かった」と悔やむ場面はない。もちろん、その一軒が原因で公選弁護人を辞めたと語っているので彼なりに自分の思うように仕事ができる努力をしたのだろう。ただ、サムに当時のことを反省する場面はなく、「当時は仕方なかった」と考えているようだった。地元のチンピラを雇ってマックスを痛めつけて訴えられ、その一件で出席しなければならない審査会も欠席した。この後、サムがまともに弁護士業を続けられるとも思えないが、仮に続けられたとして本作で経験したことを生かした弁護士活動ができるのかは甚だ疑問である。

マーティン・スコセッシ監督の作品の多くで、「主人公が最初から最後まであまり変わっていない」というのはよくある。「レイジング・ブル(1980)」「キング・オブ・コメディ(1983)」「グッドフェローズ(1990)」や、近年では「アビエイター(2004)」「シャッター アイランド(2010)」「ウルフ・オブ・ウォールストリート(2013)」「沈黙-サイレンス⁻(2016)」などが挙げられる。大きな出来事を経験したからと言って人間そう簡単に変われないというのがマーティン・スコセッシ監督の言わんとするところなのだろうか。だからそのテーマを描く時は同じ俳優を起用するのだろうか(これは思い過ごしか!?)。監督オファーを何度も断りながら、一級品の娯楽作品に仕立て上げ、しかもマーティン・スコセッシ監督がよく描くテーマとも合致している。ロバート・デ・ニーロという俳優ならびにマーティン・スコセッシ監督という作家を語る上で外せない一本。

 

【関連作品】

 

恐怖の岬(1962)」…オリジナル

「ケープ・フィアー(1991)」…リメイク

 

 

 

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【ソフト関連】

 

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言語

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映像特典

├未公開シーン

├メイキング・オブ・「ケープ・フィアー」

├撮影の舞台裏:独立記念日パレード

├ハウス・ボートでの撮影

├モンタージュ映像集

├マットペイント

├オープニング・クレジット

├オリジナル予告編

├マイ・シーンズ