ウエサクの満月 投影の反対に挑む 〜諸行無常の世の中をしあわせに生きるには | かんながら

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旅の記録です

 

「このはな」の秘密がひらくとき2 〜このはなは梅とクリ?からの、つづき。

 

このところ、社会に復帰するための活動をしている。

伊勢平氏おじさんに出くわしたせいか、そこそこ順調に行きはじめていた日々の生活に突如翳りがみえて、運が悪くなった。

 

 

そういえば、小ニーニーが、「(みなが)俺の運を吸い取っていく」って呟いたことがあったけど、

本当にあるかもな、って思う。

とばっちり、っていうか。

 

 

伊勢平氏おじさんはわたしに、「キミを通してくる障り」って言ったけど、

今のわたしも思う、「おじさんを通してきた障り」って。

 

 

もちろん、自分にないものはこない、って考えは変わらない。

 

 

かつてわたしの昔馴染みの友人がいった(「神」の正体 〜欠けたピースを探す旅 エピローグ(終章))、

 

 

「そんなクズとつきあってるあんたもクズってことねー(爆笑)」

 

っていうのは当たってるとは思う。

 

 

 

ずっと歴代の夫たちに守られていたからね。

「結婚してます」で一蹴できて。

 

どうも「結婚している」っていうのは、下心のある人には近づきにくいみたいよ。

 

 

「(近寄ってきた理由は)未亡人だから」って言った人もいたし、

銀座でママをやってる知人が、

 

「彼氏がいるのはいいけど、結婚してるっていうのはバレちゃダメ」

 

 

って言ってたのを聞いたことがある。

男性にとっては、そこはそれなりに重要らしい。

 

やっぱり男性も直感的にわかるんじゃないのかな、

自分を「アゲてくれる女」は、自分だけを向いてくれていないとダメだっていうのは。

 

関係性にコミットしているってすごく大事なことだと、自分自身の体験と、人の相談からたくさんの事例の蓄積を通して、わたしは思う。

 
 

 

わたし、今まで浮世離れして生きてきて、自分の色を消し去って生きてきたから、「自分」がなかった。

「自分」があれば、嫌なものは嫌って避ける。
なんでも受け入れちゃうのであれば、もっと「自分」を持っていないと相手の色に飲まれてしまうってことに気づいていなかった。
 
 

 

 

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす

驕れるものも久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛きものもついには滅びぬ ひとえに風の前の塵におなじ

 

 

 

最近、「祇園精舎」の「ぎおん」が気になって、牛頭天王のことを思ってたけど、

このところ「盛者必衰」の方が強く響くようになった。

 

 

「盛者必衰」

DSだか、闇の勢力だか知らないけど、この世をずっと支配できたものはいないんだから、心配しなくていいんじゃない?

コロナのときに思ったけど、むしろ陰謀論とか政治のあれこれに傾倒している人たちは、逆の勢力に力を与えているような気さえする。

 

 

戦うほどに、敵にエネルギーを与える。

だって、勝ち負かしたら、負けた相手は敵討ちにくるもん。

で、未来永劫敵討ち合戦になる。

 

 

だから、徳川様は、敵討ちは一代限りって決めたらしいけど、

いまだにそうはなってなくて、子孫は敵対している。

 

 

 

そもそも、もう何代も経ってるってことは、これも何度もいうように、すでに敵の方が転生しているかもしれないからね。

だいたいカルマの解消のために転生してくるんだから、逆の立場を体験することになるでしょ。

もし、カルマの法則とか転生の意味があるのだとしたら。

 

 

敵と思って向き合っている相手は、過去の自分かもしれないよ。

 

 

相撲の発祥の話を聞いたとき、わたしのイメージは、戦い競わせたあとに登場して君臨した王だったけど、

この世はそうなっている気がする。

 

 

もうそろそろ終わりにしない?

敵討ちごっこ。

 

過去の自分に仇討ちに向かうことでは、無念は晴れないんじゃないかな。

 

 

 

伊勢平氏おじさんに遭遇してまた不運になってみて実感するのは、

「諸行無常」。

 

ようやくこれで新生活をはじめる足がかりができたって喜んでいたら、

 

働けそうって思った店が移転が決まってたり、

いきなり理不尽に怒られるとか、

あてにしていた人の心変わりにあうとか、

心当たりのないブロックにあったり、

 

まあいろいろ。

 

 

外側の世界に心の平安を求めてはいけないっていうのは、頭ではわかっていたけど、

この「諸行無常」の中で、淡々としあわせに生きられる精神力がないとダメなんだな。

 

たぶん多くの人が持っている一番大きな「家族」というアテを生まれたときから取り外す訓練をうけてきたわたしでも、意外と脆いって気づいた。

 

十牛図の最後の1枚、結構大変。

ヨギの治療師はあのとき、こともなげにわたしに提案したけどね「山から降りて、踊る」(夏を終える旅(八ヶ岳) 〜菊理媛神から国常立尊へ)。

 

伊勢平氏おじさんからの最大のギフトは、「投影の反対」ってあのときおじさんはわたしに言ったけど、それは本当だと思う。

わたしはまだ完全には成就できていないけどね。

 

 

だってまだ、わたしは「アテにならない人や現象」に心を動かされているのに気づくもの。

でも、たぶんそのギフトをちゃんと受け取れたとき、わたしはなにものにも動かされぬ、完全なしあわせを手にできると思う。

肉体をこの世にちゃんと置いて、五感を働かせた上で。

 

 

 

 

 

 

「国破れて山河あり」。

これを思い出したのはいつだっけ(夏が来た!地球をまわそう 〜因果因果の展覧会)。

 

国はなくなっても、自然はそこにあり、民もそこにある。
最近読んだ琉球王朝を舞台にした小説「テンペスト」にもそんな場面があった。

 

 
子どもの頃は、そんなこと、考えたこともなかった。
国というものは絶対で、揺らぐことがなかった。
 
 
でも、海外にひとりで出るようになって、国ってなんなんだろうって思うようになった。
お隣の大国や半島を嫌ってはいても、わたしたちは、個人のレベルでは、家族をもったり友人をもち、その国々の経済や製品、労働力に依存している。
 
 
そういえば、因果因果の展覧会っておっしゃっていたご老師も、あの世に帰られた。
このタイミングで思い出すのは、あの世からの働きかけかもね。
台湾有事もそろそろ動き始めたし。
 
 
 
わたし、戦争は庶民にはなんの利もないって思うけど、庶民が熱くなっているのが不思議でならない。
もう壊すしかないほどの、思いやりのないロクでもない世の中。
 
もし少しでもこの世を続けたいなら、今あるしあわせを大切に!それしかない。
 
 

世界中を歩いているバックパッカーなら感覚的にわかると思う。

国境って庶民には関係ないな、って。

 

 

ちょうど、このあいだ記事ランキング1位になった記事(MIKADOの秘密 〜1111はMIKADOのサイン)に貰ったコメントに、返信してて、そうだなって思ったので、ここに貼っておこう。

 

 

期待を裏切ってしまいましたか?
ごめんなさい🤣

そうなんです、なんでも美味しければいいかなって。

正しいか間違ってるか、善か悪かより、
美味しいとか、美しいとか、五感に訴える感覚を大事にするほうが揉め事がない平和な世の中になるような気がするんです。


だって、意見がぶつかりあったところで「味のわかんないやつ」で終わりですから。

正義を目指して戦争に突入するのは馬鹿馬鹿しいです。
それに利がある人がいるのは事実で、その人たちにとっては大事なことでしょうけれど、多くの庶民には無駄な知恵です。


庶民のわたしは五感という主観のみに生きたいと思います(*˘︶˘*).。.:*♡

 

 

 

五感という主観のみに生きるって、それだけだったらすごく簡単なんだけど、

それでしあわせでいるって、実はすごく難しい。

 

それを達成するには、「投影の反対」が必要。

自分が全て生み出す。

諸行無常の世の中で、自分自身の生み出すもののみの中にいきる。

 

 

だったら孤独だろうね。

 

 

伊勢平氏おじさんは自分は孤独と何度もいっていたけど、おじさんの孤独はそれを達成しての孤独なんだろうか。

家族を守らなくてはならないなんて言ってる人の孤独を、わたしは「孤独」と認めないけどね。

 

 

 

もし、自分の生み出すもののみの中に生きる、本当の孤独を知っている人に出会えたなら、

わたしももう一度恋することができるかもしれないな。

 

最初の夫に恋していたときのように。

 

 

日常が帰ってきた、と感じる。

コロナ前と同じ景色だけど、本当は違う。

 

わたしたちは、十牛図の最後の一枚にチャレンジしている。

わたしたちの、MIKADOとともに。

 

 

 

 

 

 

5月の満月。

ウエサクの満月。

鞍馬山には六芒星の火が灯る。