夏が来た!地球をまわそう 〜因果因果の展覧会 | かんながら

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旅の記録です

「国破れて山河あり」
 
森を歩いていたら、杜甫の「春望」が浮かんだ。
習ったのは10代の半ばか。あれからもう40年近くが過ぎようとしている。
 
 
あの頃はピンとこなかった。
でも、今はなんとも言えない思いと情景が駆けぬけていく。
国はなくなっても、自然はそこにあり、民もそこにある。
最近読んだ琉球王朝を舞台にした小説「テンペスト」にもそんな場面があった。

 

 
子どもの頃は、そんなこと、考えたこともなかった。
国というものは絶対で、揺らぐことがなかった。
 
 
でも、海外にひとりで出るようになって、国ってなんなんだろうって思うようになった。
お隣の大国や半島を嫌ってはいても、わたしたちは、個人のレベルでは、家族をもったり友人をもち、その国々の経済や製品、労働力に依存している。
 
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今日は夏至。

 

夏がきた。

日は長いが、太陽は地球から一番遠い場所にあるという。

 

今日から東京は緊急事態宣言が解除された(マンボウとやらになったらしい)。

 

 

世間では、相変わらずマスク警察 VS ワクチン反対派みたいな戦いが繰り広げられている。

わたしは、マスクは(必要と思うときだけ)していて、ワクチンも(注射が嫌いなので)するつもりがない、

 

いいかげんで無責任なノンポリの「コロナは恩寵」派である。

 

 

ちゃんとしている人たちは、昔からちゃんとしていた、って共感できるブロ友さんたちの記事を読んでいたら思える。

 

でもわたしたちの声は小さく、そして分断させられている。

 

 

ほんとうは、人と人とのつながりの中に、「国境」など存在しない。
わたしたちは、国境を超えて家族や友人をもったり、貿易したりしている。
 
 
国境にはもちろんパスポートコントロールがあったり、鉄条網で区切られていたりはするが、鳥やたちは、なにに遮られることなく自由に往来している。
 
太古、わたしたちは「遣隋使」や「遣唐使」など、国としての正式な使者が派遣されるずっとずっと前から、わたしたちは自由に海の道を行き来して交流してきたのだ。
 
 
 
地図の上ではあれほどまでに主張している線は、実際の地面には存在しないし、
「国家」なるものは、わたしたち庶民には実はあんまり関係がない。
 
 
赤道に、赤い線が引かれていて、記念撮影10ドルとか言われたことはあったけど。
 
 
でも、これほどまでにわたしたちの生活に制限とインパクトを与える国境は、わたしたちの意思で引いたものではない。
 
 
赤道で、赤い線を引いて記念撮影料を要求していたあのお兄ちゃんのように、そこに線を引くことによって利益を得るであろう誰かによって引かれたのである。
 
 
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コロナも2年目の今年、もう自分の中には確信があると思う。

「なんか変だな」って思ってたことが「やっぱりな」って。

 

 

わたしたちは、眠らされていたののかもしれない。

「正しいこと」や「望ましい方向」に進まなければ「迷惑をかける」っていう呪縛があって、自分を表現することができなかったのだ。

 

 

わたしは2万件くらいの人生相談をしてきたが、わたしがしてきたことは、「よい方向に導くこと」でも、「成功するように手助けすること」でもない。

 

それでも、彼女たちは成功して、影響力を持つようになり、いろんな分野で活躍している。
 
 
わたしがしてきたのは、彼女たちが「正しいこと」ではなく、「彼女たちが本当に望むこと」ができるように応援してきただけである。
 
 
 
中には狂気としか思えないようなことをやってのけた人もいて、大波乱を起こしたりもしていたが、そういう人は持っている熱量も半端なく、最終的には彼女にしかできないようなことをやっている。
 
 
そして、彼女たちそれぞれの暮らす天国をみて、「これでよかったんだ」と思える。
 
「因果因果の展覧会」だ。
 
 
 
「因果因果の展覧会」は、

禅の窪田慈雲先生ががよく使われる言葉である(近いうちに出る「致知」にインタビュー記事がでるらしい)。

 

 

伊勢平氏おじさんに「因果」っていうと「ネガティブなことをいうな」って怒られるけど、それはあなたの因果(まいている種)がネガティブなだけだ、とわたしは思う。

わたしは因果って聞くといいことが起きるに決まってるってワクワクするけどな。

 

生きるっていうのは、何かの種をまきつづけることだ。

自分にとって素敵な種をまきつづけたら、わたしの世界はわたしの望む素敵な庭になる。

そうしていろんな人生がこの地上で展開されている様子が「展覧会」なんだとわたしは思える。

 

 

よく「好きなことをしたらいい」っていうと、

 

「自分勝手なことをしていいんですか」とか

「他人に迷惑かけていいんですか」

 

って言われるけど、

 

 

あなたの庭に雑草の種をまいたら雑草に覆われる。

ただ、それだけ。

 

 

そうしたいなら、それもいい。

 

刈り取るのも自分自身である。

 

 

本当は、この世には、他人など存在しない。

「たったひとりの自分がいるだけ」なのだから。

 

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結局わたしたちは、自分ではなく「誰か」が作った基準に合わせて(依存して)、生きてきたのだ。
勝ち組とは程遠い、ミミズ(地を這う蚯蚓のように)として生きて、誰かの畑のこやしになることに甘んじてきた。
 
 
でもそれは、わたしたちが、わたしたちの主体性を発揮してこなかったからだ。
「正しいこと」に合わせて生きてきたから。
まるで北極星を中心にくるくると回り続ける地球と同じように。
 
 
でも、このところ「地軸」は揺らぎ始めているらしい(亀戸天神の招き 〜日本武尊と平将門、そしてクマ)。この7、8年くらい前から、イヌイットの間でも話題になったと噂できいた(意思のチカラの使い方 〜ネガティブと、どうつきあうか)。
 
 
もともとピラミッドがあった頃の北極星は、今の北極星とは違うらしい。
 
現在の北極星は、こぐま座のアルファ星という2等星ですが、今から5000年ほど昔、ピラミッドが作られた時代には、りゅう座のアルファ星のツバンという3等星が北極星だったのです。
 
 

だから、どんどん自分の思うようにやったらいい。

誰かが作った基準(北極星)に合わせて回る時代は終わったのだ。

自分の意思で行動すれば、社会が動く。

 

 

このあいだも吠えたように(智慧を貸すのではなく、力を借りるのだ)、

わたしたちが、わたしたちの意思の力で地球を回す。
それぞれが、それぞれの思う方向に。そしてそれらは影響しあう。

 

 

すると、軸が、定まる。

 

 

それが、民意だ。

 
 
 
北極星が変わっても、地球は周り続ける。
 
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インターネットができた頃、そこは豊かな知識を分かち合う場だった。
しかも無料で。
わたしはまだ20代で社会的な地位もなく、社会では偉い人と話せる機会自体がなかったが、リアルな社会では絶対に話せないような人が拙い質問にこたえてくれたり、メッセージをくれたりして驚いたし楽しかった。
そしてその頃からの付き合いは、なんとなく今もいろんな形で続いている。


経済って、「経世済民」って言葉からできた言葉なのだそうだ。
経世済民とは、「世を治め、民を済(すく)うこと。」
 
 
経済というのは、人を済うものであって、損なうものであってはならない

お金のために、
 
家族との生活を犠牲にするとか、
したくないことをして、ストレスを溜めて健康や人間性を損なうとか、
 
おかしいのだ。



そんなおかしくなった私たちの世界に、コロナはやってきた。
 
働かなくても必要最低限のお金がもらえる
通勤しなくてもいい
人との過剰な接触を避けていい
 
 
壮大な社会実験の機会が訪れた。
 
神の世界の目で見たら、コロナは恩寵。
 

 

コロナは苦しい病なのかも知れないが、死はすべての人に等しく訪れる。
わたしには、死は抱える苦しみがいずれ必ず終わると知らせてくれる福音でもある。
 

 

コロナ後の社会がどうなるのか、それは私たちの意識にかかっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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続・コロナは恩寵 〜 荼枳尼天は悪くない

 

春望 杜甫
 
国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵万金
白頭掻更短
渾欲不勝簪
 
 

國破れて 山河在り

城春にして 草木深し

時に感じて 花にも涙を濺ぎ

別れを恨んで 鳥にも心を驚かす

峰火 三月に連なり

家書 萬金に抵る

白頭掻いて 更に短かし

渾べて簪に 勝えざらんと欲す

 

国都(長安)は破壊されてしまったが、山や川は(昔と変わらずに)存在している。
(荒れたこの)町にも(いつもと同じ)春がやってきて、
草木は深く生い茂っている。

 

この時世に心を痛め悲しんで、(いつもの春ならば楽しいはずの)花を眺めて涙をこぼし、
(家族と)はなればなれになっていることをうらめしく嘆いては、(楽しいはずの)鳥の声にはっと胸をつかれる。

 

(戦さの)のろしは幾月もの間ずっと続きうちあげられて(戦乱はいつ終わるとも知れず)、

家族からの手紙は万金に価するほど貴重なものに思われる。

 

(悲しみのあまり)しらが頭をかきむしると、(髪は心労のために)ますます短くなり、
冠をとめるかんざしをさすこともできなくなろうとしている。