富岡八幡宮と相撲と太宰府と〜紀元節の前に思う | かんながら

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旅の記録です

伊勢平氏おじさんとの縁が切れるとわたしの中の日常が帰ってくる感じがする。

しばらく会っていなかった人たちと年明けはじめてくらいに会った。 

 

「秘めてつきあう」

あれ、やっぱりわたしは後ろ戸の住人にされてたのかもしれないな。

 

伊勢平氏おじさんなのか、誰なのか知らないけど、わたしを現実界に救い出してくれたことに感謝している。

 

 

すでに経験的に「おかしい」って気づいていたけど、やっぱりおかしい。

現実がうまくいきそうになったら、そちらがうまくいかなくなり何度も連れ戻されている感じはたしかにあった。

 

 

 

 

 

表参道に国旗があがった。

もうすぐ紀元節。

 

 

無くしたものの再交付に江東区。

バス停降りたところにある、五百羅漢。

 

祖父とも行った、五百羅漢。

どこのそれに行ったのかは覚えていない。でも、五百羅漢って言葉だけを覚えている。

 

 

五百羅漢跡
五百羅漢は元禄8年(1695)に松雲元慶禅師により創建された黄檗宗の寺院です。禅師は貞享年間(1684~1688)に江戸へ出て、元禄4年(1691)から木造羅漢像を彫り始めました。元禄8年(1695)、将軍徳川綱吉から天恩山五百羅漢寺の寺号と6千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した羅漢像など536体を安置しました。
当寺の三匝堂は、廊下がらせん状に3階まで続いており、
その様子がサザエのようであることから、または三匝とサザエの発音が似ていることから「さざえ堂」と呼ばれ、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつでした。区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が2基現存しています。
羅漢寺は明治20年(1887)本所緑町(現墨田区)へ移り、さらに明治42年(1909)現在地(目黒区)へ移転しました。
ここに残る石標柱は、五百羅漢跡を示すために昭和33年(1958)に建てられたものです。
平成20年(2008)3月 江東区教育委員会

 

 

サザエ堂?会津でみたよ(西の守りは東にあった!?赤べこと白虎隊の街・会津 〜夏越大祓の前に その2)。

 

あちらは1796建立。

 

頂点に

54代仁明天皇って額と

23代顕宗天皇って額

があったって書いてある。

 

54って数字は最近、6×9=54って聞いて、陰陽のむつみ合わせの象徴的な数字なんだなって納得したところ。

 

今は目黒にあるのか。黄檗宗の五百羅漢。で、今は浄土真宗の寺院になっている。

あー気持ち悪い。なんですべてがあの人に繋がってくんだろ。

 

 

 

帰りの乗り換えは、門前仲町駅。

 

なら必然的にいくことになる、「富岡八幡宮」。

扁額には小さく「ヶ」が入ってて、本来の名称は、「富ヶ岡八幡宮」と思われる。

 

 

 

前にきたときには記憶にない鳳凰。

 

 

こちらも赤。

結構赤に塗られた社殿って多いの?

このところ赤く塗られたとこばかり行ってる気がする。

 

 

今日はここが目的地。

太宰府の旅((メモ)太宰府と令和 〜梅の小枝の蕾は道真公の愛しい女?(メモ)そして、東京 〜天神さんと、弁財天と、牛と梅)からの引き寄せ。

 

まさか、ここに繋がってくるとは。

財布が神隠しにあったのも、再交付のためにここにくるためだった?って聞きたくなるくらい。

 

ここには前にもなにわの審神者(さにわ)に頼まれてきている(安曇の庭に誘われて(安曇野から丹後へ 番外編3 東京) 〜 将門さんと平田篤胤)。

偶然にも、境内で宮司が殺められるという事件のあったのと同じ日に。

 

今回は身体は痛くならなかった。

ちゃんと終わって整ったってことなんだろうね。

 

肥後(月)VS  出雲(日)。

 

何を表しているのかは不明。

 

 

歴代の横綱の名が刻まれている。

 

中曽根康弘 元総理の名も。

 

 

 

 

前回気がつかなかったけど、聖徳太子を祀ってた!!

ここに?

横綱の碑の裏側。

 

 

聖徳太子社の向かって左は天満天神社。

 

このあいだ、横綱の碑の揮毫の書家のお軸に天満大日本天神って書かれていたから、天満の神は日本の天神ってことかな。

天満ってなに?

天満橋って意外と重要ポイントみたいなのよね。

吉永小百合ちゃんの「奈良の春日野」のB面が「天満橋から」だったし(降誕節は琉球へ その4 北大東島 〜諏訪之瀬島の軽石は奈良の春日の鹿の糞!?)、

 

加計呂麻のおばあちゃんが、天満橋で好きな男を追っかけていったのに裏切られて身を投げたって歌ってた悲しい歌(お盆の八ヶ岳がみせたもの 〜アカルヒメと牛頭天王と天神さん)。

 

 

鹿と梅はダメみたい。

 

梅は天神。

鹿は海人族。

 

なぜか太宰府天満宮(天神)にあった瓢箪(海人族)。

その下に埋まっているという菅原道真とその娘。

妻は東北にいるとかいう話が聞こえてきたけど、、、

 

 

その敷地にあった六度寺。

六度寺には遣唐使が出入りしていた。

そして行基菩薩 一刀三礼の作の十一面観音が本尊として祀られていた。

 

 

行基も庶民の幸せを願って布教活動していたお坊さんらしい。

きっとこの世が貧しいものたちも幸せでいられる世の中であることを望んでいたはず。

 

 

 

聖徳太子の右隣は住吉神社。

 

 

 

 

七渡神社。御祭神はこのところずっとご一緒の市杵島姫。

また七?

 

7というのは、生月島の教会で会った、7本の矢を胸に受けた悲しみの聖母の7と被るから。

もちろん7はバーラサイババが言っていたけど聖なる数字らしいよ。

 

 

わたし、供養とか苦手なんで、加計呂麻島からご一緒のこのお地蔵さんに依頼。

観音様は霊は供養してあげられないんだって。

霊を救えるのはお地蔵さんだけらしいよ。

木彫の先生談。

 

 

なぜか地下鉄で東京の大神島のポスターをみる。

今回はリアル大神島メンバーからのコンタクトはないけど、こうして入れ違いにくるのよね。

 

 

善政の血統の友人とごはん。

めずらしく先方から焼肉にしよう、って言われて焼肉。

 

天神さんが運んできた?

天満宮には牛がいる。

 

なんでいるのかわたし、まだよくわからないんだけど。

 

 

明日は紀元節。

お約束していた人からもたらされた大雪警報のニュース。

 

ニュースチェックしてないわたしには、「え、嘘でしょ。もう雨になってるし」。

 

 

 

「自粛して」

 

って言われてる。

コロナのときみたいに。

それだけはわかる。

 

 

 

大嘗祭(つまりは令和最初の新嘗祭)の前日に、法隆寺に行ったとき、

法隆寺の勅使門が開き、偉い(であろう)僧侶のみなさんが散華していた(鎮魂祭 〜龍田の神と聖徳太子とともに石上神宮へ)。

聖徳太子も皇族だったはずだから。

 

 

だから、今回も明日の紀元節を前に、国家の安寧とそのための神事のための自粛要請なんだろうなって思った。

皆が一丸となってこの国の安寧を守ってる。

 

 

祈りって環境がすごく大事なんだもの。

神社に鎮守の森があるのはそういう理由なんだって思う。

生きている人たちの欲望が渦巻き、ざわめいているとこで何かを祈るって難しい。

 

 

人間が一番地球環境にやさしくないからね。今は。

あ、以前は自然そのものよりも、美しく自然を整えられる人たちが日本にはいたんだよ。

 

 

庭園や里山って呼ばれるところをみたらわかる。

自然そのものよりも美しく、かつ機能的で安全な場所ってものも人間にはつくることができる。

 

 

 

コロナ自粛のときの話を亀好きの元ダンナにしたら、「あのときは、鳥や動物が元気になっていた」って言ってて,

やっぱりわかる人にはわかるんだなって思った。

 

 

 

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明治神宮も明日の紀元節に向けて準備が整ってる。

 

 

初春令月、気淑風和、梅披鏡前粉、蘭薫珮後之香

(初春の令月れいげつ にして、気く風やわらぎ、梅は鏡前きょうぜんひらき、蘭は珮後はいごかおらす)

令月とは、2月のことらしい。
風が和らぎ、
 
梅が鏡の前の美女のおしろいのように咲き、
蘭が香りを薫らせる
 
 
 
大宰府の大伴旅人の邸宅(現在の坂本八幡宮周辺)の梅花の宴で、これを序文に32首の梅の歌が詠まれた。
結構大きな歌の会。
 
 

 

わたしは、令和って元号は、
 
「初春の令月にして 気淑く風和らぎ」という序文(お題)に対して、
 
わたしたちそれぞれが、時代を作っていく、って陛下のお示しなんじゃないかなって思ってる。
 
 
天平2年(730年)の梅花の宴で、このお題が出て、当時の参加者がそれぞれの「梅の花」を歌に詠んだように、これからわたしたちがそれぞれの美しい歌を詠んでいく。
 
 
 
うつくしい言の葉を紡いでいこう。
コトノハの神が、舞い降りる。
それが、令和という時代。
 
 
 
あたらしい時代を、わたしたちの手で。