たとえ明日、世界が終わりになろうとも | かんながら

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旅の記録です

代々木の街から、土佐・阿波 へ 〜その5 そして東京

金龍を放つ旅 〜足神さまはモレヤの神からのつづき。

 

 

「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える」

朝目覚めたら、この言葉が浮かんだ。

 

 

リンゴか。
エデンの園。
アダムとエバ(イブ)。
そそのかしたのは蛇。
 
蛇は悪者。かわいそうに。
人間に「楽しみ」という「生きる喜び」を教えてくれたのに。
 
月が宇宙の意識の神様から、地球を強制的に分離して、人間が身体を持つ喜び(や、肉の悦び)を体験できるようにしてくれたように。
 
 
 
わたし、あの「天国から追い出された」っていう話は、
「知恵の実を食べたから、恐れを持ったこと」だってあるとき思いついて、それで合点がいっている。
 
 
人間は恐れにとらわれた瞬間から、身は天国にあっても心は地獄だから
 
 
天国はあの世にあるものではない。
地獄もあの世にあるものではない。
人は、死ぬ時に持っている世界観をそのまま身体を失っても持ち続ける。
身体がないと、それを感情や身体を使った体験によって変えることができないから。
 
それを「供養」という祈りで変えることができる、と心霊を信じる人たちは信じている。
 
 
 
 
人間は恐れにとらわれた瞬間から、その身は天国にあっても地獄に落ちる。
 
 
伊勢平氏おじさんのコロナ恐怖を見てて本当にそう思う。
彼の様子は、恐れの世界に浸りきって我を忘れているようにしか思えない。
 
 
山でもあったみたいに(みしまの先祖をたどる旅 続き山から降りてゆく先は3 〜龍の呼ぶ声)病気や死を異様に恐れたり、不浄を嫌ったりも、度が過ぎている。
 
 
「わたしをペテンにかけているのか?」と思うぐらいに。
今もこのドラマをみているわたしの方はそう疑っている。
 
 
それに、子どものときからずっと「生きていたい」と思うような「いいこと」がなかったわたしには、そこまでして生き延びたいっていうあの気持ちが1ミリも理解できない。
 
わたしが占いという人生相談の仕事をするようになって、気づいた人間の不思議のひとつは、
 
 
「人生に不満ばかりあるのに、死にたくないと思うこと」
 
だから。
 
 
それが人間、とは思うけど、なんであんなに社会的に成功したはずの人であれなんだろ。
彼にだって、わたしの信じる神(大いなる力)を彼も知っているのはもちろん感じている。
 
そうでなければさすがにまったく噛み合わないし、そもそも出会うこともないだろう。
逆にいうと、わたしの中にもあの「反吐が出る」って言われるほどのあの汚さがあるのも知っている。
 
 
 

 

「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える」

 

 
わたしもいつもそう思ってきた。
 
伊勢平氏おじさんみたいに、「長生き」のために、怯えながら生きるなんてまっぴらだ。
しあわせでもないのに生きてるなんて嫌だし、なにより「待つ」ってことがわたしはできない。
だって「今」しかないんだもの。
 
 
「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える」
 
 
今のわたしの心境まんまである。
時間切れ濃厚((番外編)代々木の街から、土佐・阿波 へ 〜その5 そして東京)だけど、わたしは負けない。
 
だってこのまま丸腰であの島に乗り込んで天国を作ろうとしても、かつてわたしがビジネスを潰したときのように(そして、東京 〜過越の祭の時期に)今の伊勢平氏おじさんみたいな人に持ってかれるか、潰されて終わるだろう。
 
 
20年くらい前、あるビジネスをしていたとき、価格交渉で強気になれなくて、順調にできていた仕事をつぶした。
料金設定が低過ぎて、経費を除いたら利益は残らず、わたしは派遣社員として仕事をして生活していた。
 
多くのお客様に価格をあげてでも、続けて欲しいと言われたが、取引先に値上げを阻まれた。
働いてくれていた仲間には、「夢がない」って去られた。
 
 
同じビジネスは、ある人が「ノーハウを教えてほしい」ってきて、無料で教えた。
そして、なんの因果か、そのビジネスモデルをつかった会社が、わたしが独立して最初に事務所を持ったビルで営業して成功していた。
今は、UberEatsって会社が同じ事業で成功して、その会社のことは聞かなくなった。
 
 
何年かあとに勤めた会社の同僚がそのエリアで働いていたというので、
「デリバリーの仕事してたんですよ」って言ったら、
「○○ですか!?」って驚かれたことがある。
 
 
いい仲間に恵まれて、お客様にも喜ばれて、自分は満足だった。
社会的に意味のある仕事をしている、って自惚れていた。
 
 
でも、お金にならないビジネスって人を幸せにしない。
わたしは結局わたしのために働いてくれた仲間を搾取しただけだった。
 
 
わたしのところに「ノウハウ」を聞きにきた人は飲食業で名の知れた会社の社員さんだった。
彼は、フランチャイズのピザ屋さんのバイクは交渉すれば借りられるかも、ってことを教えてくれたが、わたしはわたしたちのビジネスのやり方を本当に「タダで」教えてあげた。お礼のメール一通もなかった。
 
 
きっと、今の伊勢平氏おじさんと同じ人種なのだと思う。
 
 
わたしは「しろくまさんと交代したパートナー」だと思っていたからこそ無償で伊勢平氏おじさんの別荘での家事一切をやっていた。実際に彼は、わたしのことを最初の夏はうちの4女と呼んでいた。
 
彼の言い分としては、「妻もそうだったし、娘もそうだ」ということなのだろうが、彼らは住まいの家賃も光熱費もおじさんに面倒をみてもらっているが、わたしは別荘に行っているときだって自分の部屋の家賃を払い、仕事も自由にできないのである。
 
 
わたしの仲間は驚いていたもん。
ヨギの治療師も「女中じゃん」っていったけど、アフリカ前を知るわたしの友人も一番最初に「いくらもらってるの」と聞いた。
なにわの審神者(さにわ)も、「使ってないときの別荘を借りることくらいできるやろ」と言っていたから聞いてみたが、秒で断られた。
 

わたしも、ようやくみながしきりに、
 
「おじさんと娘は、あなたに財産(いろんな意味で)がいくのを惜しくてそう言っている」
 
 
っていうのがわかってきたよ。
 
もちろん、わたしは気位だけは高いからそんなこと微塵も思ってもみなかったし、
 
そんな人がわたしの周りにいるなんて思わなかった。
しかも、毎週ゴルフに行き、いちおう高級車に乗り、高級住宅地の億ションに住む、明らかに平均よりずっと上のステイタスにいるおじさんが。
 
 
もちろん、そういう人がいるのは知っている。
金持ちほどお金を使わない、っていうのもとてもよく知っている。
 
それを否定もしない。人は育ちや境遇が違えば考えも違う。
 
 
でもわたしが今まで出会ってきたお金持ちも無駄なお金は一切使わないが、自分より貧しい人をタダ働きさせるなどというみっともないこともしない。
 
 
きっとおじさんは、いうだろう。
 
「嫌なら、しなきゃよかったんだ」
 
わたしは、夫同様と思うからこそ、おじさんに誠心誠意尽くしていたのだ。
 
それともわたしがつきあってもいない男にだまって尽くすようなやさしい弱い女とでもみくびっているのか?

わたしが自分を捨てて尽くしたくなるほどの魅力ある男と自惚れているのか??

 
つきあうつもりがなかったというなら、あれはなんなんだ!!
すべてが他人のせいの卑怯なDV男め!!!
 
 
倶利伽羅の平維盛も、伊勢の竈方をしていた先祖も、東北の先祖も、
都合が悪くなったら、自分だけは無傷で逃げるってカタシロまんまじゃん!!!!
 
 
もういい加減、あなたの代で悔い改めなさい!!!!!
 
 
 
 
 
伊勢平氏おじさんのお母さんはそんな人でなかったはずだよ。
 
 
だからあなたたちにはわからない苦労を黙ってしていたのだと思う。
超優秀で終戦まではお嬢様でかつ職業婦人。
わたしの祖母や母と同じ匂いを感じる人。
 
 
このところのいろいろ(金龍を放つ旅 〜足神さまはモレヤの神神事は真剣勝負2 〜因縁の高幡不動へ)で、わたしはようやく伊勢平氏おじさんとのことを「人の目」で理解しはじめた。
 
どうも、わたしは彼の本質(ハイヤーセルフとか真我と呼ばれるもの)しかみていない。
誰に対してもそうで、だからこそ人の悩みも聞けるし、この境遇にありながらしあわせでいられる。
 
 
今大変なことになっているのは、心が傷ついているからではなくて、おじさんの現実とわたしの現実が隔たり過ぎていよいよ現実が交わらなくなっているからである。
 
 
現実が交わらなくなったら、現実を切り離すしかないが、わたしはもうそれはしたくない。
 
現実の方に対処して、ずれた現実を元に戻す。
 
 
わたし自身もまた、今までの人生で無意識にしてきたように、都合よく意識を変えて、同じ現実を共有する人たちを混乱させるということはもうしない。
 
 
これからは、「現実」の方にコミットするんだから!!!
 
 
気持ちと現実は確かにリンクしているが、気持ちの方は都合良くいくらでも変えられるのだから、現実の方の一貫性をもたせなければならなかった。
そうしないと気持ちに応じて現実の方はコロコロ変わって世界は混乱してしまう。
 
 
わたしは、人と距離を置いて育てられてきたので、自分の気持ちの方を変えて自分に不都合な現実を受け入れることに長けすぎた。
そして、無意識のうちに、意識の力で現実を動かす力がとてつもなく鍛えられたのかもしれない。
 
 
 
今、わたしとおじさんとの間に起きている現実の乖離をおじさんは「その場限りの嘘」でバランスしているように、わたしにはみえる。おじさんが言っていることが、「完璧なわたしの妄想」でなかったとしたら。
 
 
わたしが確かに「聞いた」ということが、おじさんは言っていなくて、「キミの勝手な思い込み」や「妄想」になるので、わたしの知覚と一致しなくてわたしの身体に備わっているはずの人格の方が崩壊している。
 
 
逆だってありうるのに。
おじさんの方が「勝手な思い込み」で「都合のいい妄想」で「その場限りの嘘をついている」って可能性も。
 
 
おじさんは自身の人格の崩壊を避けるために、「わたしの方が間違ってる」って言い張っているけれど。
 
 
 
おじさんのような、「ザ・人間」の知恵をインストールしなければ、わたしはどうせこの世で生きていけない。
お花畑でおバカだもん。
緻密なわりには邪悪を見抜けない。
 
 
今このまま島に行っても、この東京でビジネスをしてもコロッと騙されてかつての二の舞になるであろう。
蛇の道は蛇っていうけど、ビジネスも金のルールと人の子の扱い方を知っていなければ、ダメなのだ。
 
 
 
 
 
以前の記事(代々木青山 今昔 〜ふたつの「きりとおし坂」)で書いたけど、天気の子の街の代々木は不思議な場所。
そして、「代々木」とは明治神宮の森では「モミの木」であるらしい。
 
その意味はいまだにわからない。
カヤの木と似ている、というくらい。
もちろん、クリスマスツリーだなって思うけど。
 
 
不思議な岩が置かれていたり、なにかをかんじるけどわからないこのエリア。
 
津島神社のある「天王橋」(スサノオ・牛頭天王・牛)
箒銀杏天満宮のある「天神橋」(菅原道真・・聖徳太子・牛・梅)
梅屋敷銀世界と十二社熊野神社(梅・熊野権現・牛頭天王・スサノオ)
 
なんか徴(しるし)はスサノオ?
 
梅屋敷銀世界が、琉球楽師 棟応昌と関わり(そして、東京。天神さん動く 〜みやこと琉球を結ぶもの)、
十二社熊野神社の土地にゆかり深い、中野長者と呼ばれた鈴木九郎は、馬の商いで儲けて、その欲のせいで、一人娘が蛇になる。
 
 
鈴木九郎という熊野出身の男が「馬」の商いで儲けて、信心していた浅草観音の功徳で中野長者と呼ばれるようになるのだが、欲がでて、金銀財宝を隠すために人夫を雇い、場所がバレないように運ばせたあと池に投げ捨てて亡き者にしたらしい。
帰りに人夫の姿が見えなくなるので、「姿見ず橋」と呼ばれるようになった。
だが、ある日九郎の一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に姿を変え池に飛び込んでしまう。
そこで九郎は相模国大雄山(天狗=加波山神社??)の高僧を呼んで事情を話し、改心して出家した。
 
 
 
代々木から富ヶ谷まで歩いてランチは「かかん」。
 
大盛り食べたよ。
腹が立つと食べようって思える。
人間って感情があるとお腹が空くんだな。
 
 
20代の頃、今の伊勢平氏おじさんとのことと同じような人にあったことがある。
そのしたたかな大人は、「悲しくてもお腹は空くんだよね」と言った。
当時のわたしにはそれが全く理解できなかった。
 
でも今は体験的にわかる。
悲しみは、怒りの抑圧のかたちだから、感情を感じて身体にいれば、お腹は空くんだと。
今まで、わたしは自分の身体にいなかったから、それを守る感情も必要なく身体を維持する食事も必要なかったのだった。
 

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桜の蕾もふくらみはじめた。
 

 

 
 
人間到処有青山(人間(じんかん)至る所 青山(せいざん)あり)。
 
それでも舞台は次に移り始めた。

 

 

 

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