グローバリズムの妄想の補遺その5
八番目のテーマは、何ができるかを、考察している。アメリカの主導権では、普遍的な自由市場を実現するのは短期間でさえ不可能だ。しかし、世界経済の改革に拒否権を行使する力は確かに持っている。アメリカが、グローバルな自由放任について『ワシントン・コンセンサス』に固執している限り、世界市場の改革はあり得ない。『トービン税』(投機的な通貨取引に対して、世界レベルで課税するというアメリカの経済学者の提案)などは、実現されないだろう。
改革が行われなければ、その不均衡を支えきれなくなるとき、世界経済は崩壊する。貿易戦争のために、国際協調はさらに難しくなるだろう。世界経済は経済ブロックに分裂し、それぞれの経済ブロック間で、地域の覇権をめぐって、争いが起こるのだ。
映画『外人部隊』では、百年前、世界の大国が中央アジアの石油支配を巡る戦いを繰り広げたが、二十一世紀に、それが、再現されるかもしれない。稀少な天然資源を支配するために、国家が対立するとき、軍事衝突を回避するのは、さらに難しくなるだろう。弱い独裁主義体制は、軍事的な危険を冒すことで、経済を支えようとする。スロボダン・ミロシェビッチは、旧ユーゴスラビアのネオ共産主義者の指導者だが、他の多くの国に今後あらわれる独裁的な民衆扇動家の元祖となるかもしれない。
グローバルな自由放任が崩壊すれば、もっとも起きる確率が高い人類の未来は、深刻な国際的無秩序だ。
アジアの不況とアメリカのバブル経済ーグローバルな自由放任の終わりとなるか?
西洋諸国が、アジアの危機からうける印象は、グローバル経済で生き残る資本主義は、自由市場だけだと証明しているようなものだ。アジアの資本主義が、経済発展の初期段階で、驚くべき離れ業をなしとげたことを、否定する人はほとんどいない。しかし、今日、その考え方はすたれてしまったとされている。西洋のコンセンサスによれば、アジアの問題は、現在、英米流資本主義以外の選択肢が世界には存在しないと証明している。
確かに、わずか二、三年前には、その同じ時事解説者が、アジアの資本主義を、西洋が模倣すべき手本だとほめたたえていた。西洋の世論にあったこのようなエピソードは、今忘れ去られている。自由市場の勝利も、同じように短命なものとなり、急速に忘れ去られることだろう。
政策と理論を支配していた今までのパラダイムが思いがけない形で終わりを迎えるという、歴史的な区切りとなる時期が迫っている。第二次世界大戦後、ケインズ理論が勝利したときも、そのような区切りとなる時期だった。大恐慌と第二次世界大戦が、一九三〇年代の財政と経済の正統派理論に与えた影響を、アジアの不況も自由市場イデオロギーに及ぼすだろう。
アジア危機が歴史の上でどれほど重大であるかについて、西洋の評論家や政策立案者は全く気づかなかった。単一のグローバル市場という構想の奴隷となっている超国家組織は、事件が起きる度に何度もゆらいだ。東アジアの問題は、主に金融機関に関するものであり、経済的な影響はほとんどないというのが最初の主張だった。その解釈が持ちこたえられなくなると、アジアの景気後退は、構造的な問題によってさらに悪化したと論じた。
このような見解の修正も、危機の規模を説明するのには、まだまだ不足だ。欧米銀行の予測によると、一九九八年の後半時点で、国内総生産の下落幅は、一年間に、インドネシアで二〇%、タイで一一%、韓国で七・五%だ。インドネシアの失業率は、少なくとも二千万人に達するとされ、国民の半数は、年内に貧困化するとの予想だ。
これほどの経済活動の低下は、普通景気後退の兆候とはいわない。不況の始まりとするのが、当然だろう。
アジアでの不況悪化の規模は、認識され始めている。しかしその原因と世界経済に対する影響は、まだ理解されていない。
アジア不況は、自由に資本が移動すれば、経済の安定性にとっては、悲惨な結果をもたらす可能性があるという、歴史的証拠だ。勝手気ままな資本は、一晩でアジア市場から逃げ出すが、その逃避は何十年もの間、実体経済に最悪の影響をもたらすだろう。投機的な資金移動のために起きた経済危機が、社会と政治に残す傷跡は、長い間消えない。
一九九〇年代末期のアジア通貨の動きは、歴史的に見れば、影響がすぐに吸収されてしまうような短期的金融変動ではなく、グローバル危機が早期にあらわれた兆候とされることだろう。一九三〇年代以降の西洋諸国にはなかったほどの経済と社会の激動が、両大戦間のヨーロッパに生じたような政権と体制の変化を伴わずに、東アジアで起きると考えるのは、西洋の世論が歴史を知らない証拠だ。アジア危機の結末として、今後最もふさわしいシナリオは、アジア地域全体が、長期にわたって不安定になることだ。アジアの不況が悪化するにつれて、反西洋を旗印にした民族主義が再び勢いを増し、体制の急変が起こり、古くからの民族対立に火がつき、大量の難民が流出し、独裁国家が再びあらわれてこの地域の政治情勢が変化することになろう。このような展開の中では、西洋の自由市場という思想に、なんらかの役割があるとしても、ごくわずかだ。
グローバリズムの妄想の補遺その4
五番目の論点としては、別々の経済システムの土台となっているものの、マルクス・レーニン主義と、自由市場による経済合理主義には、多くの共通点があると論じている。
マルクス・レーニン主義と自由市場の経済合理主義のどちらも、自然に対してきわめて独特な態度をとる。そして、どちらも、経済進歩の犠牲者には、ほとんど同情を示さず、人類の文化がもつ歴史的な多様性の代わりに、単一の普遍的な文明を強制しようとする啓蒙思想計画の変種である。グローバルな自由市場は、啓蒙思想計画のもっとも新しい形であるが、おそらく、最後のものとなるだろう。
現在の議論は、何世紀も続いた歴史的過程であるグローバル化と、世界規模の自由市場という短命な政治構想を、混同している。適切に理解するなら、グローバル化は世界の遠く離れた場所で、経済と文化の相互結合が増加することだ。その起源は、一六世紀以降の帝国主義時代に、ヨーロッパの支配権が、他の地域にまで及んだ時代までさかのぼる。
現在、このプロセスの大きな原動力となっているのは、距離の差をなくすような、新しい情報技術の普及だ。西洋の(とりわけアングロサクソンの)方法や価値観が世界中に広まることで、グローバル化が普遍的な文明を創り出すと、従来の思想家は考えていた。
実際には、世界経済の発達は、ほとんどが別の方向へ向かっていた。ヨーロッパの列強に保護されて、第一次世界大戦前に数十年間存在した自由な国際経済は、今日のグローバル化とは違う。現在のグローバル市場には、その当時の英国や、ヨーロッパの大国のような支配力を持つ西洋の国は存在しない。それどころか、遠い未来に、世界中で新技術が陳腐化するならば、西洋の国力と価値観が揺らぐだろう。核兵器の技術が反西洋体制の国にまで普及するのは、もっと大きなトレンドの前兆にすぎない。
グローバル化した市場が、英米流の自由市場を、世界中に広めることはない。自由市場の変種を生むだけでなく、あらゆる資本主義を、変化させている。無秩序なグローバル市場は、古い資本主義を破壊し、新種の資本主義を誕生させ、すべてを常に不安定なものする。
普遍的な文明という啓蒙思想の考え方は、アメリカでもっとも顕著である。アメリカでは、この啓蒙思想が、西洋の(いうなればアメリカの)価値観と制度を世界中が受け入れることと同じ意味だとされている。アメリカが、普遍的なモデルであるとする考え方は、長い間アメリカ文化の特徴だった。自由市場のイデオロギーに奉仕する、国家的使命というこの考え方を、八十年代になって、右翼は、自分のものにすることができた。今日、アメリカ企業の力が世界中に広まることと、普遍的な文明という模範を、アメリカで発表された論文のなかで、識別するのは不可能だ。
だが、他の国は、アメリカが世界の手本だとする主張を認めない。アメリカの経済的な繁栄の代償となった、社会の分裂や、高い犯罪率と収監率、人種や民族の対立、家族と共同体の崩壊規模を、ヨーロッパや、アジアのどの国の文化も、許容しないだろう。
拡大する西側諸国の主導権をアメリカが握っているという考え方は、大体において事実に反する。現在の状況では、『西洋』というカテゴリーは、不明確になりつつある。この例外はアメリカであり、多文化主義というどうにもならない現実を、先祖帰りのように拒否している。
アメリカは、多くの国内政策、対外政策について、他の『西洋』社会とますます対立するようになってきている。社会が極限にまで分断され、自由市場に闘争的なまでに肩入れしている点で、アメリカは特異だ。非常に重要な利害を共有しているが、ヨーロッパとアメリカの距離は、文化と価値観の点で、さらに遠ざかっている。振り返ってみると、第二次世界大戦から冷戦終結直後までの緊密な協力関係の時期は、アメリカの対欧関係の中で、例外的なものだったといえるだろう。
さらにこの裏付けとなるのは、自国の文明を独自のものであり、旧世界とはほとんど共通するものがないとするアメリカの思考パターンが、歴史的に長い間繰り返されてきたことだ。奇妙にも皮肉なことだが、アメリカでは、新保守主義が優勢になって、自国を普遍的なモデルだと信じたために、ヨーロッパや『西洋』諸国の一員でなくなるプロセスが加速されているように見える。
アメリカは例外だとする理論と、自由市場のイデオロギーが融合したことは、六番目のテーマだ。グローバルな自由市場はアメリカの構想だ。現在経済的な防護策を講じている国にまで、自由市場が拡大されると、アメリカ企業は利益を得ることがある。しかし、だからといって、グローバルな自由放任が、アメリカ企業の利害を単に正当化するためのものだという意味ではない。
グローバルな自由市場で、長期間勝利するものはない。アメリカの利益にならないのと同じように、どの国にとっても利益にならない。それどころか、世界市場が大きく混乱すれば、その影響をうけるのは、他のどの国よりも、アメリカ経済だろう。
グローバルな自由放任は、アメリカという企業国家の陰謀ではない。二十世紀に起きた悲劇の一つだ。アメリカの自信過剰なイデオロギーは、人間が常に求めている事柄を理解せず、そのため、挫折するのだ。
自由市場は、人間にとって数ある大切なことの中で、とりわけ、安定と、ブルジョア社会の職業構造による社会的なアイデンティティを踏みにじった。無傷のブルジョア文明の前提と、グローバルな資本主義による必然性の間に、矛盾が生じた。これが、七番目のテーマだ。現代末期は常に不安定だ。とりわけもっとも有害なタイプの自由市場で、特に顕著なこの不安定さが、ブルジョアの価値観とその中核となる制度に、痛手を与えた。
その中でもっとも目につくのは、職業のキャリアについての制度だ。従来のブルジョア社会では、中産階級の大半が、一つの職業で、生涯を全うすると考えるのは、当たり前だった。今そのような希望を抱ける人はほとんどない。経済不安の深刻な影響のために、一生のうちに経験する職業の数が増えただけではない。職業のキャリアという考え方そのものが不要になったのだ。
職業経験がものをいう年功序列の古くさいキャリアの考え方は、多数派の労働者に、おぼろげな記憶として残っているにすぎない。その結果、中産階級と労働者階級という、おなじみの区別は、実体を失いつつある。ブルジョア化という戦後の傾向は逆転し、有職者の中には、プロレタリアに戻った人々も多い。
『脱ブルジョア化』は、アメリカで一番進んでいるが、経済不安は、ほとんど世界中で増している。この原因の一つと考えられるのは、グローバル自由市場にともなう影響である。この場合、自由市場は、社会的責任を負担しているタイプの資本主義が、徐々にその負担を支えきれなくなるという、グレシャムの法則(悪貨は良貨を駆逐する)のような働きをする。世界中で資本と生産拠点が移動することにより、『徹底的な競争』が起こり、その中で、人間的な思いやりのあるタイプの資本主義経済は、規制緩和と、税や福祉給付の削減を迫られることになる。このような対立関係が生じることによって、戦後競い合っていた様々な変種の資本主義は、突然変異し、姿を変えていく。
グローバリズムの妄想の補遺その3
三番目の論点は、社会主義が、経済制度として元に戻せないほど崩壊したということだ。経済と人間の観点から見ると、社会主義による中央集権計画の後に残ったものは、廃墟だ。ソ連は、多くの人間の命という痛ましい代償を払いながらも、高度成長をなしとげた体制ではない。何百万人の命を奪い、自然環境を破壊した全体主義国家だ。巨大な軍事部門と、公衆衛生のある分野を除くと、経済や社会の業績という点で、ソ連には何もみるべきものがない。毛沢東時代の中国に、国策によって起きた飢饉と、恐怖、自然環境の破壊は、ソ連よりもさらにひどい。
二十一世紀に何が起ころうとも、崩壊した社会主義は復元できないだろう。将来、考えられるのは、二つの経済制度ではなく、資本主義の変種しかない世界だ。
四番目の論点は、マルクス流の社会主義が内部崩壊したことを、西欧諸国、特にアメリカは、資本主義の勝利として歓迎したが、その後、旧共産圏の国は西洋のどんな経済モデルも採用しなかったという点だ。
ロシアと中国では、共産主義消滅後、独自の資本主義が復活した。しかし、共産主義の遺産があるゆえに、どちらもひどくゆがんだものとなっていた。ロシア経済を支配したのは、犯罪による一種のサンディカリズムだった。この奇妙な経済制度の原型は、おそらく、ソ連の地下経済時代にあるが、繁栄した帝政ロシア末期に、国営の巨大企業や、冒険家の起業家が混在した時代の経済に似ているところがある。中国の資本主義には、世界中に散在する華僑の資本主義と多くの共通部分がある。とりわけ、親戚関係が事業に果たす大きな役割がそうだ。しかし、共産主義時代の遺物の、不正行為や、軍を含む機関の民営化が、中国でもいたるところでみられる。
従来の世論では、共産主義の崩壊を、『西洋』の勝利としてとらえている。実際にマルクス流社会主義のもとになったのは、西洋のイデオロギーであった。歴史を長期にわたって支配したマルクス流社会主義が、ロシアと中国で崩壊したのは、すべての西洋モデルに従う近代化が失敗したことを意味する。ソ連の中央集権計画崩壊と、中国の中央計画制度廃止が示すものは、一九世紀の資本主義工場をモデルとした近代化強行という実験の終了だ。
グローバリズムの妄想の補遺その2
本書の議論
現在の経済哲学によると、自由市場は、市場取引に関する政治介入をやめれば出現する自然な状態とされているが、それは誤りだ。歴史を長期にわたって、広範囲に眺めれば、自由市場は、珍しいものであり、短命な異変であることがわかる。規制された市場のほうが、どこでも自然に発生する、ごく当たり前のものだ。自由市場を創り出したのは国家権力だ。自由市場には小さな政府がふさわしいとする考え方は、ニュー・ライトの政策材料の一つだったが、事実とは全く逆だ。社会には元々、市場に制限を加える傾向があるので、自由市場は、中央集権国家の権力が創り出す場合だけ存在する。自由市場は強い政府がつくりだしたものであり、さもなければ存在できない。これが、本書の第一の論点だ。
一九世紀の短い自由放任時代の歴史が、このよい例だ。自由市場は、ビクトリア王朝時代のイングランドで、特に恵まれた環境のもとに構築された。他のヨーロッパ諸国と違って、イングランドには、個人主義の長い伝統があった。何世紀もの間、ヨーマンとよばれる農民は、経済の基礎となっていた。議会の権力行使だけが、古くからの所有権を修正し、抹消し、新しい所有権を創り出した。そして、囲い込み運動によって、共有地の大半を私有地に変え、大規模土地所有による農業資本主義が始まった。
議会には、国民大多数からの代表はいなかったし、議会の権力を制限するものもなかった。このように最適な歴史的環境で、自由放任は、イングランドに誕生した。一九世紀半ばまでに、囲い込み運動や、救貧法、穀物法の制定によって、土地、労働力、食料は、同じように、取り引きされる商品となり、自由市場制度は、経済の中心となった。
しかし、自由市場は、イングランドにたった三〇年しか存在しなかった。(歴史家の中には、自由放任時代は存在しなかったという極端な主張をする人もいる)。一八七〇年以降になると、新しく制定された法令によって、自由市場は徐々に消滅した。そして、第一次世界大戦の頃には、公衆衛生と、経済効率という目的を達成するために、市場は再び広く規制されるようになった。政府は、主に学校などの、非常に重要な一連のサービスを積極的に供給した。英国の資本主義は、依然として非常に個人主義的であり、大恐慌という破局がおきるまで、自由貿易は続いた。しかし、再び、政治が経済を管理するべきだと主張されるようになっていた。自由市場は、いきすぎた空理空論か、そうでなければ単に時代錯誤だとされた。だが、一九八〇年代にニュー・ライトがあらわれたことにより、この自由市場は、よみがえった。
ニュー・ライトは、権力を得ると、その国の政治や経済を元に戻せないような形に変更することができたが、支配権を得たいという熱望が満たされることはなかった。自由市場の影響を強く受けて、メキシコ、チリ、チェコ共和国のような国と同様に、英国や、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの政府は、協調組合主義と団体主義の遺産を徐々に廃止していくことができた。だが、どの場合も、自由市場政策を政治的に可能にした最初の連立政権は、このような政策そのものによる中期的な影響のために、次第に衰えることになった。
公共住宅売却は、サッチャー政策の目玉の一つであり、住宅価格が値上がりしているときだけ、うまくいっていた。しかし、突然、住宅価格が暴落して、何百万人の資産が赤字になるという泥沼にはまったとき、政治問題化した。公的資産を民間に売却し、市場を自由化するのが有利であるのは、景気が上向いて、深刻な影響がごまかされているときだけだ。この深刻な影響は、さらに悪化して、経済不安を起こした。景気後退のために、どのような結末がおきるかが、明らかになったとき、ニュー・ライトの政権は、危機に陥り、余命幾ばくもなくなるのだ。
新リベラル派による経済改革の政治的な利点は、たいていの国では、左派が軟化することだ。一九世紀後半と同様に、二十世紀後半も、社会の崩壊を引き起こす自由市場の影響をうけて、政治が不安定になっている。
これから得られる結論として、二番目の論点は、民主主義と、自由市場は、パートナーではなく、競争相手であるということだ。『民主的資本主義』という、新保守主義の意味のない政治スローガンは、非常に問題の多い関係を意味している(あるいは隠している)。通常、自由市場では、民主主義政権が安定することはなく、経済不安によって政変が起きやすくなる。
ほとんどすべての社会では、現在も過去も、人間の安定や安全という重大なニーズをひどく損なわないように、市場が制限されている。近代後期の環境では、民主主義政府が自由市場の影響を和らげる働きをしていた。ビクトリア王朝中期に存在した、もっとも純粋な形の自由市場が衰退した時期は、公民権の拡大とぴったり重なっていた。民主主義の進歩にともなって、英国の自由市場が後退したのと同じように、大半の国では、一九八〇年代の過度な自由化を、民主的な対立が原因となって、後継政権が部分的に廃止することになった。だが、グローバルなレベルでは、自由市場を抑制するものは、いまだに存在しない。
市場経済と民主的な政府を調和させる歴史的なプロジェクトの一つが、いわば最終的な後退ともいうべき状態に陥った。ヨーロッパの社会民主主義は、若干の国では、政治体制として、実際に現在も存続している。しかし、戦後の繁栄を可能にした経済に対する影響力は、その社会民主主義政府から、失われてしまった。グローバルな債券市場が登場したために、社会民主主義政権は、多額の借り入れを実行できなくなってしまった。また、資本が自由に逃避できる開放経済では、ケインズ政策の効果が失われる。世界中で生産拠点が移動可能なことから、企業は、規制と税負担がもっとも少ない場所へ、移動できるからだ。
社会民主主義政権には、もはや従来の社会民主主義的なやり方で目標を追求する手段がない。その結果、ヨーロッパ大陸のほとんどの国では、大量失業は、解決の見込みがない問題となっている。わずかにノルウェーのように棚ぼたの石油収入があるといった特別な場合だけ、社会民主主義体制の寿命は、永らえているにすぎない。だが、多くの場合、社会民主主義と、グローバルな自由市場との間にある矛盾は、どうすることもできないようだ。
今日、グローバルな経済統治機能を持つ制度はほとんどなく、多少とも民主的な制度はなおのこと全く存在しない。人間らしいバランスのとれた政府と市場経済の関係は、望むべくもない。
グローバリズムの妄想の補遺
世界的規模の自由市場以外にとる道はないと、あらゆる国の主流派は考えている。この本は、その経済哲学が正しいかどうかを、疑うものだ。一九九八年春に、本書が、英国で出版されたとき、あらゆる政治関係の流派から、攻撃された。今日のグローバル資本主義がひどく不安定だという主張は、終末論的とまでいわなくとも、あまりにも悲観的であるとされた。しかし、一年もたたないうちに、本書の主張の大部分は正しいと証明された。
本書に対する世間の反応は、中心となるテーマの一つを、裏づけている。現在の世論が、政界や、マスメデイア、実業界でも、永遠に変わらない人間生活の実態と、あまりにもかけ離れているために、現実とユートピアの区別がつかなくなっている。そのため、過去の歴史が繰り返されると、驚いてしまう。旧来の、どうすることもできない対立や、悲劇の選択、破滅的な幻想とともに、過去の歴史がよみがえるのを、現在我々は目にしている。本書が最初に出版された直後、本書の分析を裏付けるような事件が起きた。アジアの経済問題が、遠くの国の国内問題ではないかもしれないとする公式見解もあらわれた。アジア資本主義の危機とされていたものが、実際には急速に拡大しつつあるグローバル資本主義の危機だという事実を直視することになろう。国際経済システムが大きく混乱する時代がせまっているのは、もはや確実だ。既成世論の主張によれば、グローバルな体制は不変だ。しかし、二、三年後には、この主張の支持者であったことを認める人は、なかなか見つからなくなるかもしれない。
本書では、グローバルな自由市場が、歴史的発展の鉄則ではなく、政治構想であると立証している。この構想には大きな欠陥があったために、数多くの苦しみが生まれた。いずれも、おきるべくしておきた苦しみではなかった。しかし、英米流自由市場をモデルとしたグローバル経済を、IMFなどの国際機関は公然と目標に掲げている。グローバル市場は、創造的破壊の原動力だ。過去の市場と同様な、順調で着実な進歩を遂げることはないだろう。好況と不況の循環を繰り返し、投機マニアが登場し、金融危機が起きる。これまでの資本主義と同じように、古くからの産業や、職業、生活のあり方を破壊しながら、グローバル資本主義は驚異的な生産性をあげるが、今度はそれ自体が、世界的な規模となるのだ。
二〇世紀の経済学者の中で、誰よりも資本主義を理解していたジョセフ・シュンペーターは、資本主義が、社会の絆を保つような働きをしないと考えていた。資本主義のなすがままにまかせるなら、自由主義の文明を破壊することもある。そのため、シュンペーターは、資本主義をコントロールしなければならないものと考えた。資本主義の活力と、社会の安定性を両立させるためには、政府の介入が必要なのだ。同じことが、今日のグローバル市場でもいえる。
現在、世界中で自由放任を信じている人は、シュンペーターの説を理解しないままに真似ている。経済的な繁栄を促すことによって、自由市場が、自由主義の価値観を広めると考えている。グローバルな自由市場が、新しいエリートを誕生させているのに、新種の民族主義や伝統主義も誕生させていることには、誰も気づかない。グローバル資本主義は、ブルジョア社会の基盤を浸食し、発展途上国をひどく不安定にし、自由主義文明を危険にさらしている。また、異なる文明の平和な共存を、困難にする。
グローバルな自由放任は、国家間の平和に対する脅威となってしまった。自然な環境で繁栄を続けるための効果的な制度が、現在の国際経済システムには存在しない。主権国家は、減少の一途をたどる天然資源の管理を求めて、争いに巻き込まれる危険がある。国家間のイデオロギーの対立のあとに続いて二十一世紀に起きる戦争は、稀少資源を巡るマルサス流の戦いかもしれない。
アジアの危機は、グローバルな自由市場が、手に負えなくなってきた兆候であり、歴史上では、アメリカの大恐慌に匹敵するバブル崩壊だ。日本はデフレに苦しみ、中国でもやがてそうなろうとしている。インドネシアやアジアのいくつかの小国では、不況にあえいでいる。ロシアに、金融危機と経済危機がおこり、そして、政治体制が変わろうとしている。このような展開は、安定がおとずれる前兆ではない。全体としてみると、世界経済の不安定さを示している。
この新しい補遺では、最近のできごとを記して、本書の主張の裏付けとする。そして、未来に対していくつかのシナリオを記し、可能な選択を考察する。
今日のアジア危機は、西洋の一般通念が早くも結論をだしたように、資本主義のアジアモデルが終末を迎えるしるしだろうか。日本は、独特の経済文化を保てるのだろうか。ヨーロッパ連合は、統一通貨を導入し、グローバル市場の衝撃を遮断できるのか。ドイツの資本主義は、再生できるか。アメリカのバブルが崩壊したら、自由市場への傾倒はどうなるのか。
本書が最初に出版された後に起きた出来事に関して、生じた疑問について、述べようと思う。その前に、中心となる論点を、再確認するほうがよいだろう。論点は、八つある。
人から聞いた話
鎌倉の知人から聞いた話。
駅の切符売り場に、品のいい老婦人がいたそうだ。うまく切符が買えずにとまどっておられた。
後ろには長い列ができ始め、次第にみながいらいらしてきたらしい。
それで、私の知人は、
「切符を買いたいのですか?」と聞いた。
「はい」という返事。
「じゃあ、一緒に買ってあげましょう」
「どうもすみません」
「お金は持っているのですか?」
「ええ」といって、手のひらをあけてみせた。
そこにあったのは、
なんと、
花の種
だったというお話。
あ~~~あ・・・・・・・。
新人賞
この本はお勧めです。面白い本を書くには、こうすればいいのねと、教えてくれます。私も小説を書きたいと思いますが、でも世の中に新人賞を狙っている人は結構たくさんいるんですよね。

- 著者: 友清 哲
- タイトル: 人気作家10人が教える新人賞の極意

- 著者: 村岡 圭三, 滝原 満, 田中 芳樹, 霜月 信二郎, 中上 正文, 連城 三紀彦, 泡坂 妻夫, 堊城 白人
- タイトル: 甦る「幻影城」〈1〉新人賞傑作選
- タイトル: 小説推理新人賞受賞作アンソロジー〈2〉
著者: 大倉 崇裕, 香住 泰, 永井 するみ, 岡田 秀文, 翔田 寛
毎日の観察―夕方の東海道線
ホームの端から端まで全力疾走する男性がいる。
とってもあぶないのでやめてほしいのですが・・・・
なぜか、毎日走っている。
別に注意してみてるわけではないんですけども、
ぜいぜい、ぜいぜいというすごい音(声というよりもやはり音それも騒音)で、いやでも、気がついてしまいます。
かなり
変なおじさん
でしょう、たぶん。
でも、夏のころに気がついて、冬になってもやているので、ちゃんと背広着てサラリーマンの格好をしているので、
普通の勤め人みたいですけど・・・・
小説の書き方
著者: 野間 宏
タイトル: 小説の書き方 改訂版
これから買おうと思っている本です。
著者: 井上 光晴
タイトル: 小説の書き方
著者: 伊藤 桂一
タイトル: 文章作法 小説の書き方
著者: 丸茂 ジュン
タイトル: 耽美小説の書き方
著者: 花丸編集部, 夢花 李
タイトル: ボーイズラブ小説の書き方[CD-ROM付]
著者: 三田 誠広
タイトル: 深くておいしい小説の書き方―W大学文芸科創作教室