グローバリズムの妄想の補遺その4 | なんでも日記

グローバリズムの妄想の補遺その4

 五番目の論点としては、別々の経済システムの土台となっているものの、マルクス・レーニン主義と、自由市場による経済合理主義には、多くの共通点があると論じている。

 マルクス・レーニン主義と自由市場の経済合理主義のどちらも、自然に対してきわめて独特な態度をとる。そして、どちらも、経済進歩の犠牲者には、ほとんど同情を示さず、人類の文化がもつ歴史的な多様性の代わりに、単一の普遍的な文明を強制しようとする啓蒙思想計画の変種である。グローバルな自由市場は、啓蒙思想計画のもっとも新しい形であるが、おそらく、最後のものとなるだろう。

 現在の議論は、何世紀も続いた歴史的過程であるグローバル化と、世界規模の自由市場という短命な政治構想を、混同している。適切に理解するなら、グローバル化は世界の遠く離れた場所で、経済と文化の相互結合が増加することだ。その起源は、一六世紀以降の帝国主義時代に、ヨーロッパの支配権が、他の地域にまで及んだ時代までさかのぼる。

 現在、このプロセスの大きな原動力となっているのは、距離の差をなくすような、新しい情報技術の普及だ。西洋の(とりわけアングロサクソンの)方法や価値観が世界中に広まることで、グローバル化が普遍的な文明を創り出すと、従来の思想家は考えていた。

 実際には、世界経済の発達は、ほとんどが別の方向へ向かっていた。ヨーロッパの列強に保護されて、第一次世界大戦前に数十年間存在した自由な国際経済は、今日のグローバル化とは違う。現在のグローバル市場には、その当時の英国や、ヨーロッパの大国のような支配力を持つ西洋の国は存在しない。それどころか、遠い未来に、世界中で新技術が陳腐化するならば、西洋の国力と価値観が揺らぐだろう。核兵器の技術が反西洋体制の国にまで普及するのは、もっと大きなトレンドの前兆にすぎない。

 グローバル化した市場が、英米流の自由市場を、世界中に広めることはない。自由市場の変種を生むだけでなく、あらゆる資本主義を、変化させている。無秩序なグローバル市場は、古い資本主義を破壊し、新種の資本主義を誕生させ、すべてを常に不安定なものする。

 普遍的な文明という啓蒙思想の考え方は、アメリカでもっとも顕著である。アメリカでは、この啓蒙思想が、西洋の(いうなればアメリカの)価値観と制度を世界中が受け入れることと同じ意味だとされている。アメリカが、普遍的なモデルであるとする考え方は、長い間アメリカ文化の特徴だった。自由市場のイデオロギーに奉仕する、国家的使命というこの考え方を、八十年代になって、右翼は、自分のものにすることができた。今日、アメリカ企業の力が世界中に広まることと、普遍的な文明という模範を、アメリカで発表された論文のなかで、識別するのは不可能だ。

 だが、他の国は、アメリカが世界の手本だとする主張を認めない。アメリカの経済的な繁栄の代償となった、社会の分裂や、高い犯罪率と収監率、人種や民族の対立、家族と共同体の崩壊規模を、ヨーロッパや、アジアのどの国の文化も、許容しないだろう。

 拡大する西側諸国の主導権をアメリカが握っているという考え方は、大体において事実に反する。現在の状況では、『西洋』というカテゴリーは、不明確になりつつある。この例外はアメリカであり、多文化主義というどうにもならない現実を、先祖帰りのように拒否している。

 アメリカは、多くの国内政策、対外政策について、他の『西洋』社会とますます対立するようになってきている。社会が極限にまで分断され、自由市場に闘争的なまでに肩入れしている点で、アメリカは特異だ。非常に重要な利害を共有しているが、ヨーロッパとアメリカの距離は、文化と価値観の点で、さらに遠ざかっている。振り返ってみると、第二次世界大戦から冷戦終結直後までの緊密な協力関係の時期は、アメリカの対欧関係の中で、例外的なものだったといえるだろう。

 さらにこの裏付けとなるのは、自国の文明を独自のものであり、旧世界とはほとんど共通するものがないとするアメリカの思考パターンが、歴史的に長い間繰り返されてきたことだ。奇妙にも皮肉なことだが、アメリカでは、新保守主義が優勢になって、自国を普遍的なモデルだと信じたために、ヨーロッパや『西洋』諸国の一員でなくなるプロセスが加速されているように見える。

 アメリカは例外だとする理論と、自由市場のイデオロギーが融合したことは、六番目のテーマだ。グローバルな自由市場はアメリカの構想だ。現在経済的な防護策を講じている国にまで、自由市場が拡大されると、アメリカ企業は利益を得ることがある。しかし、だからといって、グローバルな自由放任が、アメリカ企業の利害を単に正当化するためのものだという意味ではない。

 グローバルな自由市場で、長期間勝利するものはない。アメリカの利益にならないのと同じように、どの国にとっても利益にならない。それどころか、世界市場が大きく混乱すれば、その影響をうけるのは、他のどの国よりも、アメリカ経済だろう。

 グローバルな自由放任は、アメリカという企業国家の陰謀ではない。二十世紀に起きた悲劇の一つだ。アメリカの自信過剰なイデオロギーは、人間が常に求めている事柄を理解せず、そのため、挫折するのだ。

 自由市場は、人間にとって数ある大切なことの中で、とりわけ、安定と、ブルジョア社会の職業構造による社会的なアイデンティティを踏みにじった。無傷のブルジョア文明の前提と、グローバルな資本主義による必然性の間に、矛盾が生じた。これが、七番目のテーマだ。現代末期は常に不安定だ。とりわけもっとも有害なタイプの自由市場で、特に顕著なこの不安定さが、ブルジョアの価値観とその中核となる制度に、痛手を与えた。

 その中でもっとも目につくのは、職業のキャリアについての制度だ。従来のブルジョア社会では、中産階級の大半が、一つの職業で、生涯を全うすると考えるのは、当たり前だった。今そのような希望を抱ける人はほとんどない。経済不安の深刻な影響のために、一生のうちに経験する職業の数が増えただけではない。職業のキャリアという考え方そのものが不要になったのだ。

 職業経験がものをいう年功序列の古くさいキャリアの考え方は、多数派の労働者に、おぼろげな記憶として残っているにすぎない。その結果、中産階級と労働者階級という、おなじみの区別は、実体を失いつつある。ブルジョア化という戦後の傾向は逆転し、有職者の中には、プロレタリアに戻った人々も多い。

 『脱ブルジョア化』は、アメリカで一番進んでいるが、経済不安は、ほとんど世界中で増している。この原因の一つと考えられるのは、グローバル自由市場にともなう影響である。この場合、自由市場は、社会的責任を負担しているタイプの資本主義が、徐々にその負担を支えきれなくなるという、グレシャムの法則(悪貨は良貨を駆逐する)のような働きをする。世界中で資本と生産拠点が移動することにより、『徹底的な競争』が起こり、その中で、人間的な思いやりのあるタイプの資本主義経済は、規制緩和と、税や福祉給付の削減を迫られることになる。このような対立関係が生じることによって、戦後競い合っていた様々な変種の資本主義は、突然変異し、姿を変えていく。