イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。

イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。セキセイインコ青

 

能登半島地震でお亡くなりになられた方々に、謹んでお悔やみを申し上げます。また、被災された方々にお見舞いを申し上げます。1日も早い安全と日常への復興を心よりお祈りしております。

 

ほぼ誰も気に留めないようなブログですが、日本の神秘的な歴史に触れることで誰かの心を一瞬でも、少しでも元気にできればと思います。

 

 

月です。

思い出すのは、志度浦は菅原道真が左遷され太宰府配流に発った港。長尾寺の僧、明印さんが菅原道真さんに送ったのが、「不期天上一円月、忽入西方万里雲」

(港を発つ道真さんへ)

「京より西方は、たちまちにして暗雲で覆われるだろう。でも、いつも道真さんの上空からは月神の宮・西照大権現(月夜見大神/月読尊)が見守っている」

                                (明印より)

 

日月といえば庚申塔

(廻国66の歴史を伝える志度寺奥の院地蔵寺境内の庚申堂、青面金剛像が祭られる神仏習合の痕跡)

 

 

 

 

月読命について探検でっす。ニヤニヤ

これまでの探検で月、秋、月夜見、月読など出てきました。

 

 

 

なぜ隊名が「白虎隊」なのか?白虎は、秋=白帝=西=白。さらに妄想すると秋=月。月光西照宮=西照神社・大滝寺=伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出された、夜を統べる神。つまり、月読命(月夜見尊)だ!

 

 

志度浦は、菅原道真が左遷され太宰府配流に発った港長尾寺の僧、明印さんが菅原道真さんに送ったのが、「不期天上一円月、忽入西方万里雲」。イ探妄想で訳すと、
(港を発つ道真さんへ)「京より西方は、たちまちにして暗雲で覆われるだろう。でも、いつも道真さんの上空からは月神の宮・西照大権現(月夜見大神/月読尊)が見守っている」(明印より)だと妄想。西照神社は、徳島県美馬市と香川県高松市の境に位置する大滝山山頂(946m)直下にある延喜式神名帳にある田寸神社(たきじんじゃ)の論社。平安時代前期に空海がこの山に籠もって修行し、西照大権現を安置。それにより神仏混淆の山岳道場となったと言われている。御祭神は、主神が月夜見大神(月読尊)配神は、宗像三女神(田寸津姫命、田心姫命、市杵島姫命)

 

 

 

『万葉集』
万葉集の歌の中では、「ツキヨミ」或いは「ツキヨミオトコ(月読壮士)」という表現で現れる。これは単なる月の比喩(擬人化)と、神格としてと二種の性格。

また「ヲチミヅ(変若水)」=ヲツ、即ち若返りの水の管掌者として現れ「月と不死」の信仰として沖縄における「スデミヅ」との類似性がネフスキーや折口信夫、石田英一郎によって指摘。

なお、万葉集の歌には月を擬人化した例として、他に「月人」や「ささらえ壮士」などの表現が見られる。

 

 

「顕宗紀」
ツクヨミは、神々にかわって人間の天皇が支配するようになった時代(神代から人代に移行した後)に再び現れる

『書紀』には、任那へ派遣された古代日本5世紀頃の豪族・阿閉臣事代月神が憑いて高皇産霊をわが祖と称し、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、壱岐県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせたという記録がある。

これが山背国の月詠神社の由来であり、宣託された壱岐には月詠神社が存在し、山背国の月読神社の元宮と言われているが、これは現在では江戸時代前期の神道家橘三喜の誤りで、宣託された本来の式内社月読神社は男岳にあった月読神社とされている。

今は遷座され、箱崎八幡神社に鎮座

 

 

山背国・山城国(やましろのくに)とは、

日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。

「やましろ」は、古くは「山背」「山代」と記され、7世紀に「山背国」という表記で国が建てられた。
この名称は、平城京から見て「奈良山のうしろ」にあたる地域であることから来ていると云われている。
延暦13年11月8日(794年12月4日)の平安京命名の際に、桓武天皇が、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から「山城国」に改称した。これが「しろ」と読む原因。

平城京時代の木簡をでは「山代国」・「山背国」の表記は並存。

 

葛野郡(かどのぐん)とは、

京都府(山城国)にあった郡。

 

 

山背国とは、平城京から見て「奈良山のうしろ」にあたる地域。

山の背、葛の郡

背、葛

 

これまでの探検で「背」、「葛」が出てきた。

 

 

 

九月条にみえる皇后・磐之媛の動向は、
難波の済で恨み、御綱葉を海に投げ入れる。
大津に泊まらず、山背を廻ってに向かう。
帰らずなお進み、山背河に至り歌を詠む(紀53、磐之媛の歌)
(皇后、還へりたまはずして、猶(なほ)し行でます。山背河に至りまして、歌して曰はく、)
「つぎねふ 山背河を 河沂(のぼ)り 我が沂れば 河隈に 立ち栄ゆる 百(もも)足らず 八十葉(やそば)の木は 大君ろかも」


イ探妄想解釈
皇后は難破での出来事で天皇を恨み、常緑亜高木のテングノウチワ(三角柏:ミツノカシワ)を海に投げ入れ八た。🍁👺
難破(津田)へは帰らず、山背川(鴨部・津田川=鰐川)にまで行き歌った。
「次に山背川を遡上すれば、川の入り組んだ淵に、樹元気に立ち、たくさんの根を張り葉が茂っている樹は、仁徳天皇かも」

 

耶蘇 八十 八十場 八十八 空海が金山権現に出会い、耶蘇(キリスト)の地だから十一面観音、阿弥陀如来・愛染明王を安置した」聖林寺の十一面観音像は、三輪大神(大物主)の子孫である天照大神であり、阿修羅のもとにいた阿波国(徳島県)の女子!「天照は女性で、阿波国にいた!」(○曜スペシャル風)

 

 

 

那羅山を越え、葛城を望み歌を詠む(紀54、磐之媛の歌)
「つぎねふ 山背河を 宮沂り 我が沂れば 青丹(あおに)よし 那羅(なら)を過ぎ 小盾(こだて) 大和(やまと)を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮(かつらぎたかみや) 我家(わぎへ)のあたり 」
山背に戻り、宮室を筒城岡の南に造る


イ探妄想解釈
皇后は奈良街道で奈良山を越え、葛城の方を見て歌を詠んだ。
「次の山背河を、宮廷へ向かって遡上すれば、青土(鉄鋼石に通じる緑色片岩が砕けた土や砂)に生える葦が見え、奈良を過ぎて、更に間に合わせの大和を過ぎた辺りで、見たい国は自分の家のある葛城高宮」
山背川と歌われている山の背になっている地区に戻り続きの丘に、住む家を建てる。

 

 

「ここは奈良ですか?!」「奈良や」(那羅)

 

那羅 春日

 

那羅

 

 

難波=さぬき市津田

大津=難波の津(讃岐のさぬき市津田)

山背川=津田川(鴨部川と神前でつながっていた。神前には勅命建立の男山神社)

奈良街道=那羅街道(讃岐から阿波への県道2号線=津田川島線)

奈良山=阿讃山脈(たぶん讃岐五名から阿波市場町境目あたりの山塊)

那羅=奈良(阿波の吉野川を南へ渡った吉野川市川島町児島奈良+善入寺島の一部、近くには山崎忌部神社、天村雲神社。

善入寺島は日本最大の中州で阿波忌部が開発した島で、神の島と呼ばれ、天日鷲(アメノヒワシ)が坐す浮島八幡美宮が政府によって爆破され跡形もなく消えた。)

青丹=青土(緑色片岩が砕けた土や砂)

よし=葦(=あし)

小盾大和=間に合わせの大和(山川町(山瀬駅)辺り~つるぎ町半田辺りの間にあった「大和」、「伊射奈美神社」のある美馬市穴吹町三島舞中島か!?)

葛城=阿波の美馬郡つるぎ町半田葛城(『端四国八十八ヶ所第67番』葛城堂。御本尊は現在、端四国霊場63番札所多聞寺へ移されている)

次の山背河を宮沂り我が沂れば=那羅山を越えて次の曲がりくねった川を下れば

 

 

 

通して妄想(先の妄想を見直し修正)デレデレ

皇后はさぬき市津田での出来事で天皇を恨み、常緑亜高木のテングノウチワ(三角柏:ミツノカシワ)を海に投げ入れた。

さぬき市津田へは帰らず、津田川にまで行き歌った。
「次に津田川を遡上すれば、川の入り組んだ淵に、元気に立ち、たくさんの根を張り葉が茂っている木は、仁徳天皇のよう」

皇后は奈良街道で奈良山を越え、葛城の方を見て歌を詠んだ。
「阿讃山脈を越えて次の曲がりくねった川を下れば、青石がみえる景色が良く(または、鉄鋼石に通じる緑泥片岩が砕けた土や砂の青土に生える葦が見え)、山崎忌部神社、天村雲神社、天日鷲が坐す浮島八幡美宮がある善入寺島の吉野川市川島町児島奈良を過ぎて、間に合わせの大和も過ぎ、自身が(見たいと)欲する国は(那羅から吉野川を約24km遡上し、南へ約7km山を登った)美馬郡つるぎ町半田葛城にある高宮であり、自分の家のある辺り」
山背川と歌われている山の背になっている地区に戻り(山背の)続きの丘の上に住む家を建てる。

ゲロー

 

 

 

 

月読命(月夜見尊)は、白虎=秋=白帝=西=白=秋=月=月光西照宮=徳島県と香川県境にある西照神社・大滝寺。

 

若返りの水の管掌者として現れ、「月と不死」の信仰として沖縄における「スデミヅ」との類似。

 

ツクヨミは、神々にかわって人間の天皇が支配するようになった時代(神代から人代に移行した後)に再び現れる。
『書紀』には、任那へ派遣された古代日本5世紀頃の豪族・阿閉臣事代に月神が憑いて「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、山背国の葛野郡に社を建てたとある。

これの元は、阿波徳島県美馬郡つるぎ町半田葛城にある高宮であり、自分(磐之媛)の家のある辺り。山背川と歌われている山の背になっている地区に戻り山背の続きの丘の上に住む家を建てる。

by仁徳天皇(難波天皇)皇后・磐之媛

 

 

 

 

 

ではないかい?

 

きょうも妄想(瞑想)ザ・イノクニタンケンタイであります。

 

ではまた。笑い泣き