イの国探検隊ファンの皆様こんにちは
地震でつらい思いをされている方にお見舞い申し上げます。また、その関係でご尽力されている方には感謝します。
続きです。
空海が、
「金山権現に出会い、耶蘇(キリスト)の地だから十一面観音、阿弥陀如来・愛染明王を安置した」
が気になり、探検のつづき②です。
どなたを祀っているのか?三体の像
ネット記事によると、どうも中央が薬師如来様のようです。
あとは分からん
像は風化してなんとか形がある感じかな
暗いし、蚊の攻撃で落ち着いていられない
空海が金山権現に出会った耶蘇(キリスト)の地
先のブログ①では、
三輪神道
=空海中興の金華山妙成就寺摩尼珠院
=耶蘇(やそ=キリスト)の地
だから十一面観音菩薩・阿弥陀如来・愛染明王を置いた
=行基が建立の金山摩尼珠院
=神仏習合
聖林寺
=神仏習合の三輪神道
徳島県の大御和神社につながる。
大宝律令ができた翌年の702年に文武天皇に国家の象徴の国璽と鍵を献上。国のハンコと国庫の鍵を意味する印鑰大明神と称され大和国三輪神社から勧請と伝わる徳島県の大御和神社
ということは、
聖林寺(三輪神道)vs興福寺
大御和神社vs興福寺
と妄想しました。
神仏習合の三輪神道であると妄想した聖林寺
その前身、妙楽寺は、
956年、天台宗 総本山 比叡山延暦寺の末寺となり、970年には摂政藤原伊尹が三昧堂(現・権殿)を建立。
平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた。
しかし、妙楽寺は天台宗の寺院であり、藤原氏の氏寺である法相宗の興福寺、及び氏神である春日大社との仲は良くなかったとのこと。
江戸時代には性亮玄心(しょうりょうげんしん)和尚が大神神社の神宮寺の一つである三輪山平等寺の建物を移して遍照院を再興したという。
脇にそれます。
遍照院で思い出した。
四国遍路結願の大窪寺は、遍照光院
遍照繋がり
遍照院は、
以後、真言宗の平等寺と深い交流をするようになると、遍照院は天台宗の妙楽寺の別院でありながら真言宗の律院(もっぱら戒律を習学する寺院)となった。江戸時代中期の1716年 - 1736年に妙楽寺の子暁大僧正によって遍照院から聖林寺と改称する。
山号、院号は無く、寺号のみで、聖林寺は鎌倉の初めには存在していたそう。
明治の神仏分離令の際に、
大神神社(三輪明神)神宮寺の一つである大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでら。現・大直禰子神社)本尊の十一面観音像が聖林寺に移管されている。
大直禰子神社(国重要文化財)。
三輪の大神様のご子孫の大直禰子命(若宮様)をまつる。明治以前は大御輪寺(だいごりんじ)として、若宮神と十一面観音像(国宝・現在聖林寺奉安)があわせてまつられていた。
ここまでを妄想すると
鎌倉時代初期には遍照院から聖林寺となっていた。
明治の神仏分離令の際に、大神神社(三輪明神)の神宮寺の一つ大御輪寺(現・大直禰子神社)本尊の十一面観音像が聖林寺に移管。
十一面観音像
= 大神神社(三輪明神)
= 大直禰子神社
= 三輪の大神(大物主)様のご子孫の大直禰子命(若宮様)
遍照院の遍照が南無大師遍照金剛の遍照であれば、空海の灌頂名の大日如来を表し、法身でありながら過去・現在・未来の三世にわたって説法を行うもの。
全ての宇宙=大日如来=阿字(ここから全てが流出)=天照大神(大日孁貴)
「阿」は川や山など曲がったところ、女子、阿弥陀、阿波(あわ)の国につながる。
なので、
聖林寺の十一面観音像
=三輪の大神(大物主)様のご子孫の大直禰子命(若宮様)
=大日如来
=天照大神(大日孁貴)
=阿弥陀
=阿波(あわ)の国の女子
阿弥陀とは、無量寿経によれば、(仏になる前の阿弥陀)法蔵比丘が世自在王如来(シヴァ神または観世音菩薩)のもとで四十八の誓願をたて、修行を果たした仏。
シヴァ神は、密教で三面六臂の憤怒相の大黒天。
=阿波(あわ)の国の女子=三面六臂の大黒天=阿修羅
聖林寺の十一面観音像は、
三輪大神(大物主)の子孫である天照大神であり、阿修羅のもとにいた阿波国(徳島県)の女子!
「天照は女性で、阿波国にいた!」(○曜スペシャル風)
じゃないかい?
ってことで、御大師さんに怒られないうちに
お後がよろしいことにして
ではまた。