イの国探検隊ファンの皆様こんにちは
 
 
妄想の奈良街道の探検を豊富な画像で再びスペシャルもの その⑤です。
 
讃岐の海から阿波吉野川までを難波皇后目線で移動しました。
 
あくまで讃岐難破から阿波奈良への妄想の奈良街道のお話しです。照れ
 
静御前関係は以前のブログですが、源義経さんが出てきました。時間と空間は途切れなく関係していると感じます。
 
 
まず、仁徳(難波)天皇が皇后磐之媛に内緒で吉備の女子・黒日賣に会いに讃岐の難破まで来て、歌を詠み。
媛は傷心、奈良街道を阿波へ向けて進み、吉野川を渡り奈良(那羅)が見えるところまで来たとあります。
 

 

前回、

奈良地区まで来て意味深な由緒の八幡神社(秘羽女神社)に出会いました。

そして、高越山(比婆山)が入る吉野川市が本来の奈良ではないかと妄想しました。ウシシ

 

 

 

奈良から見た吉野山?

 

 
さらに

近くに物証がないか探してみます。真顔

 

 

 

はい、ありました。

 

 

 

奈良の春日

 

春日と言えば、鰐

 

参考 讃岐の春日川から屋島を望む

 

 

 

他にも何かないかな

 

 

ゴミ入れに、まだ食べられるフライドポテトとか、

ニヤニヤ

 

 

いや、奈良の痕跡を探してみます。

 

 

 

すると、

 

庚申塔があるじゃないですかグラサン

 

 

庚申と書いてある

 

まさに分かりやすい庚申塔だ

 

 

 

こちらは

 

緑色片岩(青石)に猿田彦大神

 
 
庚申信仰の青面金剛様は、
神道では猿田彦大神
明らかに庚申塔ですな。
 グラサン
 
 

 

 

微妙なバランスで立ってますがゲッソリ

T字交差点にあります、

こんな感じに道路の辻にありました。

 

 

少し進むと

 

 

さらに、ありました。

 

 

猿田彦大神

 

庚申塔です。

交差点に建つ集会所横にありました。

これも辻です。

 

 

 

 

もっと、うろうろするとありそうです。

 

が、地図では、忌部神社があるようなので向かいます。

お願い

 

 

山道を登りますと、公衆トイレ脇に石が

 

 

近くで見ると、

 

さざれ石でした。

 

なぜポツンと?

 

と??????状態

 

 

 

 

回りを見ると、

 

少し下がったところに、神社があります。

 

新しい建物

 

 

 

トイレと、さざれ石は、この神社でした。

 

 

忌部神社でした。

 

 

 
延喜式神名帳の「忌部神社」の注記には、
「或号麻殖神。或号天日鷲神」
麻殖神(おえのかみ)、別名天日鷲神であることがわかるとのことだが、現在の祭神は、

天日鷲翔矢尊(あまひわしかけるやのみこと)
当神社主祭神で、阿波忌部氏の祖神。

后神 言筥女命(いいらめのみこと)
主祭神の后神と思われる。

天太玉尊
忌部氏の祖神である。
 
后神 比理能売命(ひりのめのみこと)
天太玉尊の后神
 
津咋見命(つくいみのみこと)
「古語拾遺」に、天日鷲命とともに穀(かじ)の木を植えて木綿 (ゆう)を作った。
天日鷲命の子神で大麻比古神社の祭神「大麻比古神」の別名とも

長白羽命(ながしらはのみこと)
「古語拾遺」に見え、伊勢国の麻続氏の祖神であるとする。

由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)
安房忌部氏の祖神で、天日鷲命の孫大麻比古神の子
 
衣織比女命(いおりひめのみこと)
不明。
 
 

忌部とは

徳島県博物館紀要第 9集 昭和52年度徳島県博物館
吉田品 「カパネ 「オビト」について」 「国史論集』 - 京都大学文学部史会 昭和34年 145~146頁(9) 上田正昭 『日本古代国家論」 前掲書 199~202頁津田左右吉博士は、 「忌部氏の職掌は幣帛を取扱ふことと、 神霊の鏡を挿持することと、 宮殿の祭に関与することとの三つであった」と述べている。
津田左右吉 「古語拾遣の研究」 『日本古典の研究』 下 岩波書店 昭和25年 467頁註(10) 上田正昭 「日本古代国家論究』 前掲書 198註 (11) 「延喜式」 前篇 新訂増補国史大系 吉川弘文館 昭和50年 194神名上に、大和国高市郡五十四座のうち 「太玉命神社四座並名神大 月次新嘗。」 を見い出す。
(12) 池辺彌『和名類聚抄郷名考』 吉川弘文館 昭和41年高市郡内には 「巨勢 波多 遊郎 松前 久米 雲梯 資美」 の名がみえ、 忌部郷はない。
 
 
忌部は
①幣帛を取扱ふこと
②神霊の鏡を挿持すること
③宮殿の祭に関与するこ
 
奈良には忌部はいない
 
 
 
忌部神社は他にもあり、昔から争いの種のようです。
この山崎の地にある忌部神社ではなく、徳島県徳島市二軒屋町にある忌部神社を調べると、
 
「延喜式神名帳」の「阿波国麻殖郡 忌部神社」は名神大社にも列していたが、中世以降、兵火などにより所在が不明とあり、近世以降、複数の神社が式内・忌部神社を主張したとある。
 
【時系列に並べると】
・明治4年(1871年)には暫時「所在地不明」のまま国幣中社に列格
・翌5年:麻植郡山崎村(現 吉野川市山川町)の村社忌部神社を式内忌部神社に決定
・対し、美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社(現 当社境外摂社御所神社)が式内忌部神社を主張。
翌々7年(1874年):改めて山川町の忌部神社を比定の太政官布告。
・同14年(1881年):五所神社を式内忌部神社に変更
山崎側が大いに反発
・結局、太政官が妥協策として名東郡富田浦町(現 徳島市)に新たな社地を定める通達・同18年(1885年):眉山中腹に鎮座する郷社金刀比羅神社に仮遷座して五所神社を境外摂社とし、社殿竣工により同25年(1892年)5月15日に現在地に遷座


[古語拾遺]では、
安房に移住した阿波忌部「安房忌部」となったように記されている。
しかし、古代史料では、安房郡司や安房神社神職など在地の関連する人物で忌部氏の存在は知られず、安房地域に勢力を持ったのは大伴(かしわでのおおともべ、単に大伴部とも)であった。

なお、この膳大伴部は、膳氏(かしわでうじ、のち高橋氏)に統括されて天皇の食膳調達にあたった部民氏族で、『先代旧事本紀』・平城京出土木簡に散見されるとのこと。

また阿波国造(安房国造)も同氏族の大伴直氏(伴直氏)であったことから、安房神社の祭祀および安房郡司はこの一族が務めた可能性が高いと考える説があるとのこと。

『古語拾遺』自体が中臣氏との勢力争いの中で正統性と格差是正の目的で編纂されたものであるため、一説として安房への東遷説話の造作には特に常総地方の東国の中臣氏勢力と対抗目的と指摘されるとのこと。
 
 
イ探妄想の鰐積の大伴さんが出てきました。
応天門の変で政界から姿を消された、伴氏(大伴氏)、紀氏(紀夏井さんは讃岐の恩人、竹取物語作者説の紀貫之)
 
 
長尾寺の僧、明印さんが大伴の筋の菅原道真さんに送った「不期天上一円月、忽入西方万里雲」
徳島県美馬市と香川県高松市の境に位置する大滝山山頂(946m)直下にある延喜式神名帳にある田寸神社(たきじんじゃ)の論社、西照神社は月光西照宮!?空海がこの山で修行し、西照大権現を安置。
中臣氏といえば藤原鎌足の死以降、鎌足の子孫は藤原北家。その中臣と忌部の勢力争い。
鎌足といえば、志度寺縁起。龍から玉を取り戻すため、鎌足の子の不比等は身分を隠して志度へ来たとき海女と契り、房前が生まれた。海女は橘氏の県犬養三千で、竜宮とは天皇家だと妄想!さらに、これは唐に娘を嫁がせ親戚となった藤原鎌足家。息子の妻県犬養三千代(橘三千代)が宮中に潜り、龍(海)の玉(海洋民の玉=○積族の玉=天皇の魂)を取った。 


竜=海=海神(わたつみ)

海神=海洋民(鰐積)

鰐積(鰐、和邇)=亀


藤原北家といえば、阿修羅像。阿修羅といえば天照。がつながる。

阿修羅とは
ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神。仏教に取り入れられ、釈迦を守護する神と説かれる。
 


天照といえば、金剛界の五仏様、
 

それぞれの地が主張したってことは、よっぽど忌部としての誇りが高いのだと感じます。
つまり、ほぼどれも忌部神社だって感じます。
もしかしたら、昔はそれぞれの神社が協力または、ほぼ同格で天皇に関係していたんじゃないでしょうか?
物だけを見て昔を想像するより伝わる人の思いや関係などで見てはどうでしょう。
そう捉えると、あながち間違ってない妄想ではないかと・・・にやり
 
 
 
 

 

七社参りなる風習があるとのこと

 

必ず忌部神社に面して右回り

お七社道を通るとのこと

 

現在の讃岐高松にも正月に7社参る方がいた

この風習が伝わったのか?

グラサン

 

 

 

 

平安時代に編集の法令集「延喜式」には、大嘗祭の儀式に必要なものや、調達の手続き、品目などが記され、

「阿波国献ずるところの麁服(阿波の国が献上する麁服)」「阿波国の麻植郡の忌部がつくる」といった記述がみられるとのこと。

 

麻植郡とは、

吉野川市の大部分(鴨島町知恵島・鴨島町知恵島番外および鴨島町牛島のうち字先須賀ノ一・先須賀ノ二・先須賀ノ三・先須賀ノ四・四ツ屋を除く)
美馬市の一部(木屋平)

 

 

 

 

源義経公も戦勝祈願で参ったようです

 

 

 

 

 

 

 

お城のような石段

 

 

高くて顔が良く見えません。ショック

 

 

崖上に凛と立つ麒麟だ!
イヒ
 
 
 
阿波の奈良(那羅)には、春日の地名もあり、空海さんが深く関わったと妄想した庚申塔があちこちにありました。
そして奈良山崎の地にある忌部神社。
源義経さんも戦勝祈願に訪れた。
阿波の忌部が争うのは誇り高いことの裏返しだと妄想し、奈良(那羅)には天皇が代替わりする大嘗祭になくてはならない重要なアラタエを作る忌部神社があることが学習できました。
 
 
今回はこの辺で

 

ではまたニコ