前回、
奈良地区まで来て意味深な由緒の八幡神社(秘羽女神社)に出会いました。
そして、高越山(比婆山)が入る吉野川市が本来の奈良ではないかと妄想しました。
近くに物証がないか探してみます。
はい、ありました。
奈良の春日
春日と言えば、鰐
参考 讃岐の春日川から屋島を望む
他にも何かないかな
ゴミ入れに、まだ食べられるフライドポテトとか、
いや、奈良の痕跡を探してみます。
すると、
庚申塔があるじゃないですか
庚申と書いてある
まさに分かりやすい庚申塔だ
こちらは
緑色片岩(青石)に猿田彦大神
微妙なバランスで立ってますが
T字交差点にあります、
こんな感じに道路の辻にありました。
少し進むと
さらに、ありました。
猿田彦大神
庚申塔です。
交差点に建つ集会所横にありました。
これも辻です。
もっと、うろうろするとありそうです。
が、地図では、忌部神社があるようなので向かいます。
山道を登りますと、公衆トイレ脇に石が
近くで見ると、
さざれ石でした。
なぜポツンと?
と??????状態
回りを見ると、
少し下がったところに、神社があります。
新しい建物
トイレと、さざれ石は、この神社でした。
忌部神社でした。
天日鷲翔矢尊(あまひわしかけるやのみこと)
当神社主祭神で、阿波忌部氏の祖神。
后神 言筥女命(いいらめのみこと)
主祭神の后神と思われる。
天太玉尊
忌部氏の祖神である。
天太玉尊の后神
「古語拾遺」に、天日鷲命とともに穀(かじ)の木を植えて木綿 (ゆう)を作った。
長白羽命(ながしらはのみこと)
「古語拾遺」に見え、伊勢国の麻続氏の祖神であるとする。
由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)
安房忌部氏の祖神で、天日鷲命の孫、大麻比古神の子。
不明。
忌部とは
徳島県博物館紀要第 9集 昭和52年度徳島県博物館
吉田品 「カパネ 「オビト」について」 「国史論集』 - 京都大学文学部史会 昭和34年 145~146頁(9) 上田正昭 『日本古代国家論」 前掲書 199~202頁津田左右吉博士は、 「忌部氏の職掌は幣帛を取扱ふことと、 神霊の鏡を挿持することと、 宮殿の祭に関与することとの三つであった」と述べている。
[古語拾遺]では、
しかし、古代史料では、安房郡司や安房神社神職など在地の関連する人物で忌部氏の存在は知られず、安房地域に勢力を持ったのは膳大伴部(かしわでのおおともべ、単に大伴部とも)であった。
なお、この膳大伴部は、膳氏(かしわでうじ、のち高橋氏)に統括されて天皇の食膳調達にあたった部民氏族で、『先代旧事本紀』・平城京出土木簡に散見されるとのこと。
また阿波国造(安房国造)も同氏族の大伴直氏(伴直氏)であったことから、安房神社の祭祀および安房郡司はこの一族が務めた可能性が高いと考える説があるとのこと。
『古語拾遺』自体が中臣氏との勢力争いの中で正統性と格差是正の目的で編纂されたものであるため、一説として安房への東遷説話の造作には特に常総地方の東国の中臣氏勢力と対抗目的と指摘されるとのこと。
竜=海=海神(わたつみ)
海神=海洋民(鰐積)
鰐積(鰐、和邇)=亀
海人の玉とり
阿修羅
「天照大神様、光を放ってください!」と妄想
阿修羅像は、四国の悲願の意味では?!
それぞれの地が主張したってことは、よっぽど忌部としての誇りが高いのだと感じます。
七社参りなる風習があるとのこと
必ず忌部神社に面して右回り
お七社道を通るとのこと
現在の讃岐高松にも正月に7社参る方がいた
この風習が伝わったのか?
平安時代に編集の法令集「延喜式」には、大嘗祭の儀式に必要なものや、調達の手続き、品目などが記され、
「阿波国献ずるところの麁服(阿波の国が献上する麁服)」「阿波国の麻植郡の忌部がつくる」といった記述がみられるとのこと。
麻植郡とは、
吉野川市の大部分(鴨島町知恵島・鴨島町知恵島番外および鴨島町牛島のうち字先須賀ノ一・先須賀ノ二・先須賀ノ三・先須賀ノ四・四ツ屋を除く)
美馬市の一部(木屋平)
源義経公も戦勝祈願で参ったようです
お城のような石段
高くて顔が良く見えません。
ではまた