妄想の7代・孝霊天皇の皇后(8代・孝元天皇の生母)が放つ光が、義経などの武将や静香御前と生まれてすぐ殺された静御前の子、さらに苦しんでいる人々を救うのだと云っている!
と妄想しました。
脇にそれましたが、妄想を膨らませつつ義経武者一行や、悲しみに暮れる静御前とその母・磯禅師の通った田面峠をさらに進みます。
立割地蔵さんをすぎるとすぐ峠の頂点です。
峠の頂点から見た長尾方面
大きな峠にある小さな峠って感じなので、標高は110m程でも、高低差40mほどでしょうか。
更に下ります。
なぜか気合いが入ります。
「いざ屋島へ!」
手綱を握り直し、馬の腹を力強く蹴ります。
なんてね。
義経さんの気が残っているのか!
昔からの街道だったので、道幅はあまり変わってない?
南海道なら、作られた当時は、畑部分まで幅があったかも。
義経が駆け抜けたと思うと感慨深い。
そして、静御前、磯禅師さんが長尾寺へ歩いた。
当時に近い感じかな
当時だと山賊、追い剥ぎが出そう。
大師堂
道の右手を見ると、お寺
白蓮寺(びゃくれんじ) 真言宗善通寺派
手前に写るお墓は、多田姓
他に見える墓も多田姓が目立った。
多田さんと言えば、清和源氏の源満仲(みなもと の みつなか)こと、多田満中さんが建立した徳島県の悲願寺。
源満仲は、平安時代中期の武将。六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖。神号は多田大権現。
なにげに、多田満仲さんの生誕日を調べると、はっきりしないが、延喜12年4月10日(912年4月29日)とのこと。
これは、聖武天皇の勅命によって神亀元年(724年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として開基した亀鶴山施薬院宝光寺、現、第39番・真言宗智山派赤亀山延光寺の「911年に赤い亀が境内の池からいなくなり、やがて銅の梵鐘を背負って竜宮城から戻ってきた。」
の次の年に生まれている。
関係はないかもしれないが、
この開基当時の亀鶴山施薬院宝光寺は高知県にあり、イ探妄想になんとなく引っかかった。鶴と亀が統ーべった♪
清和源氏の多田さんは、梵鐘の日付より約8ヶ月後に誕生して、「天の中川」と呼ばれる清水の小川がある場所に後に悲願寺を建立している。
那珂、那賀、仲と繋がりそう。
♪「那珂の郡 象頭山 金比羅大権現」
♪「那珂の起こり 大麻山 鰐積大権現」
あくまで妄想〜
↓
悲願といえば、
志度寺の悲願金剛の石像
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志度寺といえば、海女の玉取り伝説
気になる
また道草です
伝説の内容は、
千三百余年前、天智天皇のころ。
藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝高宗に嫁いでいた娘は、父の追善のため三つの宝物を贈った。
しかし、都への船が志度浦にさしかかったところで、宝の一つ「面向不背(めんこうふはい)の玉」が竜神に奪われた。
玉を取り戻すため、鎌足の子の不比等は身分を隠して志度へ来たとき海女と契り、房前が生まれた。
数年後、不比等は素性を明かして玉の奪還を海女に頼む。
海女は「わたしが玉を取り返してきましょう。その代わり、房前を藤原家の跡取りに約束してください」と竜宮に潜っていった。・・・
さぬき市志度にある
海女が玉を取り上がった真珠島
清和源氏につながる生駒氏が、
弁財天、吉祥天を祀りなさいと定めている。
弁財天は、河の女神
吉祥天は、北方の毘沙門天の妻もしくは妹
毘沙門天は、多聞天で金毘羅大権現
金毘羅大権現=鰐積
わからん
まず、
海女とは、だれ?
701年頃に鎌足の息子藤原不比等と再婚した県犬養三千代(橘三千代)では?
県犬養氏は672年の壬申の乱に一族の大半が大海人皇子の舎人として功を立てたため、684年橘宿禰の姓を賜り、橘氏の実質上の祖。
元明天皇の危篤に際し出家。733年1月11日に薨去。
同年12月28日に従一位、760年8月7日に正一位と大夫人の称号を贈られている。
そして、
竜宮が気になる
壬申の乱は、672年7月24日 - 8月21日に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(1870年に弘文天皇を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発し、反乱者の大海人皇子が勝利した内乱。
つまり、海女は橘氏の県犬養三千代で、竜宮とは天皇家だと妄想!
これは、唐に娘を嫁がせ親戚となった藤原鎌足家。息子の妻県犬養三千代(橘三千代)が宮中に潜り、龍(海)の玉(海洋民の玉=○積族の玉=天皇の魂)を取った。
妄想を進めると。
竜=海=海神(わたつみ)
海神=海洋民(鰐積)
鰐積(鰐、和邇)=亀
※藤原北家とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。
つまるところ、
「藤原北家の祖房前の父藤原不比等の妻・県犬養三千代(橘三千代)が宮中に潜入して鰐積である天皇の座を獲った!」
ではないのか!?
なんてね
祖谷が王にも妄想の田面峠探検は続きます。
ではまた。