前回、不自然な庚申塔の数と伝わっていない意味。
それ自体が意味を持っているのではないか
大覚寺につながるようで、それには、秘鍵大師空海さんが関わっているとの妄想をしました。
はい、また庚申塔です。
また辻にあります。
風化して、はっきりしない感じになってますが、三猿🐒があるのでまず間違いないと思います。
わざわざ探してないのに、すぐ見つかります。
庚申塔密集地だと実感します。
枠ごとに、配置されたデザイン
スッキリした印象です。
枠があることで、それぞれに明確な意味があるのだと感じます。
青面金剛様
四または六臂(二臂や八臂のものもあるという)で、手に、輪宝、鉾、羂索、蛇、弓矢、金剛杵、日月、劒などを持つ。
邪鬼を踏むものも見られる。
青面金剛は「陀羅尼集経」にあり、恐ろしい姿から、邪気や悪病を払うご利益が期待され、特に伝尸、伝屍(いずれも「でんし」と読み、結核の古称)病の予防治癒を祈ったのが、三尸とつながったものとされているようです。
三猿
見ざる、聞かざる、言わざる。
三匹のものが多いが、それ以外のものもあるそう。
邪気を払う桃をもつものや、羽織を着たり、御幣をもつものなど。
猿との関係は、諸説あり
庚申の「申(さる)」から。
庶民に身近な山王信仰との習合で、その使いである猿も取り入れられた、とするもの。
三尸に告げられないように「見ざる・聞かざる・言わざる」に由来するなどがある。
下段の鳥、鶏🐓かな?
暁を告げ、時刻を知らせる身近な動物として、夜を徹して行われた信仰との関係からとされ、申の翌日は「酉」からともいうそうです。
鶏
こちらも
猿田彦大神
の庚申塔ですね。
庚申塔には、
猿田彦大神、帝釈天、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、観世音菩薩、地蔵菩薩、種子などのバラエティがあるそうです。
至る所に庚申塔があります。
庚申塔探しだけでも楽しくなります。
目的の神社
忌部神社摂社の建美神社から比較的近くに
ありました。
忌部神社摂社の天村雲神社です。
牟羅久毛神社とあります。
雰囲気では、地域の会堂としても使用されているようです。
説明板がありがたい
内容は、
天村雲神社は忌部神社の攝社。
村雲神は水政の神、低地の農耕集落の祭神、旱魃の際は村人が雨乞い祈願。
旧事紀には、村雲神の系統について天照太神天降りし代の随神として降臨した饒速日命の孫にあたると記。
忌部の人々が、阿波国忌部郷雲宮に祭ったと思われる。
また、この神社は、延喜式神名帳にも祭神天村雲神、伊自波夜比売神二座を祭る式内社であると記されている。
当神社は忌部神社神域内の神社で、阿淡両国神社録にも忌部神社の摂社牟羅久毛神社とある。
神社創建については文献に1684年に忌部常応が書いたと言われる紙幟に「天村雲神社」とありこの地にあったことが記されている。
また、山崎八幡神社の棟札七十七枚の中に、村雲神社に関する一枚の棟札があり、それには、奉再興天村雲神社御殿一宇遷宮
文政二己卯五月十二日 大工藤原浅吉
とあるそうです。
ここは、吉野川市山川町流雲宮にある天村雲神社ですが、山川町には、もう一つ吉野川市山川町村雲にも天村雲神社があるようです。
ただし、全国には天村雲神社は徳島にしかないようです。
近代社格では無格社。
創祀年代や由緒は不詳。
御祭神は、
天村雲命
伊自波夜比賣命(伊自波夜比売命)。
天村雲命は、別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」で、射立の神とされる。
鎮座地周囲には湯立という字が残っており、これは射立からの転訛だという。
射立神だとすると、天村雲命は五十猛命とも。
五十猛命は素盞嗚尊の御子神で、伊達神とも呼ばれる。
祭る神社には
伊笠神社(徳島県阿波市市場町)があり、
御祭神は天村雲命の別称、天之二上命とされる。
しかし、神社本庁発行の「平成祭データ」によれば、天之二上命は、伊笠神社のみで祀られているとのこと。
鎮座する伊笠山山頂は
旧阿波郡市場町の最高峰で、空海の愛犬が葬られていることで知られる市場町犬墓に位置する。東の城王山と対峙する山。
天村雲命の子には、天種子命
種子タイプの庚申塔が表すのはこの命のことでは?
「先代旧事本紀」によれば、天村雲命は邇芸速日命の天降ったおりに高皇産霊尊から防衛(ふさぎのもり)として三十二人に随伴させた神のうちの1神。
その父も随伴の1神で、天児屋命(あめのこやねのみこと)。中臣氏及び藤原氏の祖神(おやがみ)に当たる。
ちなみにそのほかの随伴の神である天道根命(あまのみちねのみこと)は、初代紀国造。
崇徳上皇葬送の途中、棺を置いた石の台が境内に安置されている、「血の宮」高家神社(坂出市高屋町)の御祭神。
邇芸速日命の後裔氏族
邇芸速日命は、『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古が奉じる神として登場。
那賀須泥毘古の妹の登美夜毘売(「日本書紀」では三炊屋媛)を妻とし、宇摩志麻遅命が生まれ、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。
熊野国造和田氏も同祖とされ、弓削氏は物部氏と関連が深い。
古くは欝色雄命(欝色謎命(孝元天皇の后の兄)を遠祖とし、ニギハヤヒの後裔である大水口宿禰を祖。
建忍山垂根は『古事記』に穂積氏祖と記され、娘の弟橘媛は日本武尊の妃。
また、『日本書紀』の弟財郎女は成務天皇の妃で、和謌奴気王を生んだとされる。
日本武尊
8代・孝元天皇の生母が放つ光が、義経などの武将や静香御前と静御前の子、苦しんでいる人々を救う!
穂積氏の具体的な活動が記述されるのは、6世紀前半の穂積押山から。
継体天皇に仕えた穂積押山は、継体6年に百済への使者に任命されて任那に駐在して任那加羅の哆唎の国守となり、任那のうち4県の百済への割譲に尽力したとされる。
押山の姓は臣であるにも関わらず、『百済本記』で「委意斯移麻岐彌(わのおしやまきみ)」と呼ばれているのは、554年に筑紫国造が戦功によって威徳王に「鞍橋君」という名を与えられたように、百済王と押山に特別な関係があったからであると考えられている。
次に記録に現れる穂積磐弓は、欽明16年7月4日に蘇我稲目とともに吉備國の五郡に赴き、白猪屯倉を設置したとのこと。
邇芸速日命は后の兄から孝元天皇へ繋がる。
脇へそれました。
「天叢雲の剣はここで造られた」
ここは3種の神器のひとつ「天叢雲の剣」の鋳造場所ではないかという説がある。
「天叢雲(あまのむらくも)の剣」とは、出雲の地で須佐之男命が八岐大蛇を酒に酔わせて退治したその尻尾から出てきた剣で、大蛇の頭上にはいつも群雲がかかっていたことからついた名前。
本物の「天叢雲の剣」は源平合戦で安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み行方不明となり、どのうような剣だったかはわからない。
浄瑠璃「義経千本桜」原作には屋島の壇ノ浦で平家は滅んだと義経は述べているようなので、可能性は残る。
また、同時期に鋳造された剣は御神宝として残っているかもしれない。
平家は屋島の壇ノ浦で滅ぶ(byよしつね)
達筆!
なんて書いているんだろう?
神社西脇になにやら石が埋まっています。
何かわからない石
天叢雲神社を後にして、磐之媛の歌の高宮があった葛城を目指すぞ!
と、したかったが、大人の事情により、来た奈良街道を目指し帰路に向かいます。
地図上に天皇神社が目に入りました。
名前が名前だけに
よって帰ることにしました。
その道すがら
また
庚申塔らしき石像を見つけました。
日月、三猿
庚申塔だな
破風には菊花紋
天皇神社
特に由緒書きとか無いのでご祭神とか良く分かりませんでした。
後で地図で確認しようとしてもなぜか出てきませんでした。
はて?どこにあったんだろう?
この山背で
阿弥陀様で
熊野で
大覚寺で
忌部で
天の岩戸神社で
神麻を晒し
人・人々の意識に庚申塔
素戔鳴の子を祭る
那羅だと
奈良街道は、このへんで終わろうと思います。
できれば、後々葛城探検編をお送りしたいのだが・・・
ではまた