本題は、後に書いてます。
八幡神社(栗枝渡神社)
二本の樹が、戸
境内に更に二本の樹
根元がつながってます。
間から見える石積み
ひっそりと火葬の場所
安らかに 安徳天皇
更に境内の倉庫らしき場所に
神輿?
楽車かな?
装飾に八の字?
龍でした。
昇龍、下り龍
龍、亀、鰐
画像は、本文とはまったく無関係です。
飯盛山(いいもりやま)とは、
福島県会津若松市の中心部から少し東側にある標高314mの山とその周辺。
白虎隊十九士自刃の地。
「飯盛山」との名前の由来は、この山が飯を盛ったような形なので、この名前が付けられたとされる。
江戸時代後期、戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の争い会津戦争に際して、会津藩では藩士の少年たちで白虎隊が結成され、抗戦した。
そのうち士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて敗走し、撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の城下町が燃えているのを確認し入城か突撃か、を主張した隊士も、敵に捕まり生き恥を晒すよりは武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃した地。
中腹には、珍しい木造建築物栄螺堂(さざえどう)(旧正宗寺三匝堂)がある。上りと下りで、同じ道を通らず抜けられる構造で、国の重要文化財に指定。
白虎(びゃっこ)とは、
中国の伝説上の神獣である四神の1つで、西方を守護。
白い虎の形。
白は、五行説では西方の色。
日本では、奈良県の薬師寺金堂の本尊台座や、明日香村のキトラ古墳の石槨内壁の西側壁にも白虎が描かれる。
その他、神田明神、秩父神社など多くの場所で四神の彫像や絵がある。
俳句において、秋の季語である「白帝」と同義で、秋(西・白)の象徴。
富士山のようにみえる飯野山=飯盛山
丸亀にある飯盛山
隣の久米氏地区の亀山には、飯野山を見つめる亀山神社がある。
天津久米は、飯盛山を見つめている。
『播磨国風土記』飯盛山の条に、「飯盛山、讃伎の國宇達の郡の飯の神の妾、名は飯盛の大刀自といふ。此の神度り来て、此の山を占めて居りき。故、飯盛山と名づく。」ともあり、往古、飯野山の山頂に鎮座し、その後、中腹、山麓へと遷座したということだそうです。
また、境内の飯天神は、菅原道真が国司として土地に在任中から崇敬し、京へ帰る時に、自ら木像の作って奉納したことから。
18代履中天皇妃の兄、阿波忌部族の天富命の孫である鷲住王は、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)(海部郡海陽町宍喰)の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。
飯野山の南山麓には、鷲住王を祭神とする「坂元神社」が祀られ、その背後には鷲住王が眠る「鷲住王塚」が残っている。
天下った神別け氏族で、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる武内宿禰。その曾祖父は孝元天皇、その兄弟は、彦五十狭芹彦命(桃太郎)、倭迹迹日百襲姫命
宿禰の子には、羽田矢代、許勢小柄、蘇我石川、平群木菟、紀角、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、
葛城襲津彦、若子宿禰
紀角の裔には讃岐国司で善政を行った紀夏井さん、そのまた裔に久本氏
久米池のほとりには、石清水八幡宮、久米山、久本古墳、紀夏井の子孫が菅原道真を祭る久本神社
すでに、飯盛山=飯野山
讃岐の飯野山=飯盛山
なぜ隊名が「白虎隊」なのかを妄想。
白虎は、秋=白帝=西=白
さらに妄想すると秋=月
月光西照宮をあらわす!
サザエ(栄螺、拳螺)とは、
腹足綱古腹足目リュウテン科(別名:リュウテンサザエ科、サザエ科)に分類。
巻貝の一種。日本では代表的な食用貝類の一種。棘のある殻が特徴的であるため各種の意匠や比喩などに利用されてきた。
本種の主な分布は、日本海沿岸では北海道南部から九州、太平洋沿岸では千葉県から奄美大島までとなっており、薩南諸島以南では分布が非常に少ない。
サザエは、科がリュウテン。「竜天」と妄想。
日本全国の沿岸に生息している。
さらに妄想探検
「竜天」とは、
1677-1767 江戸時代中期の僧。延宝5年生まれ。
真言宗。京都の智積(ちしゃく)院でまなび、隆誉に灌頂(かんじょう)をうける。
のち醍醐寺の真円に事相(密教の修法)をまなび、郷里常陸(茨城県)円福寺の住職となる。
1744年、現、京都市東山七条にある真言宗智山派の総本山。成田山新勝寺、川崎大師平間寺、髙尾山藥王院の大本山を始め、東京都の高幡山金剛寺、名古屋市の大須観音寶生院を別格本山として全国に3000余りの寺院教会を擁し、総本山智積院は全国約30万人の檀信徒の信仰のよりどころとして総菩提所、総祈願所と位置付けの智積院(ちしゃくいん)17世、3年僧正。
1764年、藤原秀衡の孫と伝える義空上人の開創。真言宗智山派の名刹。本堂(国宝)は1227年12月26日創建時のままで、京洛最古の古建築。本尊釈迦如来坐像(重文)など多くの文化財。2月はお亀の福にあずかる‘おかめ節分’で賑わう大報恩寺(だいほうおんじ)(千本釈迦堂)に灌頂道場をひらいた。
1768年2月6日死去。91歳。俗姓は明芽。字(あざな)は琳珊。
江戸時代の僧、竜天は、醍醐寺の真円に事相(密教の修法)をまなび、京都市東山七条にある真言宗智山派の総本山・智積院(ちしゃくいん)17世僧正。真言宗智山派の名刹。本堂(国宝)。お亀の福にあずかる‘おかめ節分’で賑わう大報恩寺千本釈迦堂に灌頂道場をひらいた。
亀=龍=ワニ
耶蘇の地の瑠璃光寺とそれを護る醍醐寺。
「平安時代の初期、空海の弟、讃岐(香川県坂出市沙弥島)出身、聖宝理源大師は、自刻の准胝・如意輪両観世音菩薩を開眼供養し、醍醐寺開創の第一歩を上醍醐に標し、以来、醍醐天皇、穏子皇后の帰依のもと、上醍醐に薬師堂を建立、薬師三尊を奉安、鎮護国家のために五大堂を建て、五大明王を奉られました。醍醐寺縁起は醍醐寺開創について、『ある日、聖宝が深草の貞観寺から東のほうをご覧になると、五色の雲がたなびいているのが見え、その五色の雲に誘われ山に登り山頂に着いたときに「まるで生まれ故郷に帰ったような思いがした」そうです。」
イ探妄想では、五色の雲は大王(おおきみ)の魂。その大王の魂のある山頂は故郷のようだと讃岐出身で佐伯氏(大伴氏=鰐積)で空海の弟・聖宝さんはおっしゃっている。讃岐の山の上で鰐積といえば象頭山に鎮座の金比羅大権現。その同体の山「大麻山」にあるのは3世紀の石積みの野田院古墳。麓には空海の育った総本山善通寺。金比羅宮奥の院はその古墳方向の大麻山、総本山善通寺、きゃびらつ神社(海岸寺)に向かって祈るかたちになっている。
迦毘羅津(きゃびらつ)神社
静御前が捨てた鼓とは、重源僧上が唐から持ち帰り天皇に献上され、後白河法皇より平清盛に下賜されて平家の宝だったもの。屋島合戦のとき壇の浦の波間に漂っていたのを伊勢の三郎が見つけて義経に献上した。
1188年3月長尾寺で得度した静御前は、源義経から形見として贈られた鼓を、煩悩を断ち切る証として、この渕に投げ捨てた。その場所には「鼓渕」の碑が立っている。鼓を捨てた4年後に宥心尼(静御前)は24才で生涯を閉じた。
鼓を天皇に献上した重源僧上とは、俊乗房重源(しゅんじょうぼう・ちょうげん)上人は、61歳の高齢で東大寺大勧進職に就き、幾多の困難を克服して、源平の争乱で焼失した東大寺を復興した高僧。
生没年は1121年 - 1206年7月12日。平安時代末期から鎌倉時代。房号は俊乗坊とも。
紀氏の出身で紀季重の子。1133年、17歳で刑部左衛門尉に任ぜられて、重定と名乗った。真言宗の醍醐寺に入り、出家する。出家の動機は定かではない。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ。
大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする。
もと、栗林公園南西側の室山の麓にあった「無量寿院」。全国に同じ名前のお寺がある。讃留霊(さるれ)王が退治した悪魚の霊を慰めるために、聖武天皇の時代に行基さんが建て、空海さんが伽藍を整備し、讃岐七談義所(真言宗の学問所)の一つだった。宇多天皇の御祈願所となったのをはじめ、多くの天皇の信仰を集めた。
境内には役行者、倶利伽羅不動、聖宝理源大師が祀られる。
会津の飯盛山の中腹には、珍しい木造建築物栄螺堂(さざえどう)
日本全国の沿岸に生息している。
亀=龍=ワニ
なぜ隊名が「白虎隊」なのか?
白虎は、秋=白帝=西=白
さらに妄想すると秋=月
月光西照宮
=西照神社・大滝寺
=伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出された、夜を統べる神
つまり、
月読命(月夜見尊)だ!
亀を求めて wow oh
亀がどこへ行こうとしてるか 俺は知りたい
岐美(キミ)は月の波音の中で眠ればいい
帆布を広げ
「あしびきの鵑の尾の長尾寺 秋の夜すがら月読命を唱えよ」
「不期天上一円月読命、忽入西方万里雲」
「あしびきの鵑の尾のしだり尾の 月読命のいる夜をひとりかも寝む」
「時鳥 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる」
万葉集など昔の歌などには「月(秋)」夏を表す「ほととぎす」が同じ歌に詠まれているものなどイ探的に気になるものがたくさん
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」
「ホトトギス人まつ山に鳴くなれば我うちつけに恋まさりけり」
「いにしへに恋ふくらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が念へるごと」
「神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ」
「あしひきの山霍公鳥汝が鳴けば家なる妹し常に偲はゆ」
「 もののふの石瀬の社の霍公鳥今も鳴かぬか山の常蔭に」
「霍公鳥来鳴き響もす卯の花の伴にや来しと問はましものを」
「今もかも大城の山に霍公鳥鳴き響むらむ我れなけれども」
「霍公鳥鳴きしすなはち君が家に行けと追ひしは至りけむかも」
「月夜よみ鳴く霍公鳥見まく欲り我れ草取れり見む人もがも」
「あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに」
「あしひきの山も近きを霍公鳥月立つまでに何か来鳴かぬ」
「ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも」
「我が背子が国へましなば霍公鳥鳴かむ五月は寂しけむかも」
「月立ちし日より招きつつうち偲ひ待てど来鳴かぬ霍公鳥かも」
今日のところは、このへんで
ではまた。