イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。グラサン
 
先の探検で、桜は北辰を目指して宮城県石巻辺りまで到達し、石巻は伊の国の門であり、龍宮をも意味している。
さらに、瀬戸内海に竜宮があるかもしれない妄想に波及しました。
ミナト石巻を探検したときに、当時の国として福島県の地名が多く出てきました。
なので、福島県にも我が精鋭の探検隊員を送り込んでおります。
よだれ大あくびぼけーチーンショボーンzzzゲホゲホねーしょんぼりゲッソリもぐもぐ昇天
 
⑩で、本題から外れて道草しました。
実質⑨のつづきです。
 
 
いきなり、他の話題ですが、
 本題は、後に書いてます。

 

 

 

テラス状になっている山

ゾウが鼻を伸ばして右向いている様な山です。

 

 

このお寺が見つめる山です。

扁額には五岳山って書いてある。

 

屏風浦五岳山誕生院

 

 

 

 

東側から見ると屋島のようにメサな山

左側の名前は、象頭山

右側の名前は、大麻山

ほぼ中間地点に大麻神社

金比羅さん(金刀比羅宮)があるのが、象頭山

 

象の頭のような大麻山

大麻神社は中間にあり、阿波忌部と讃岐忌部がチームで讃岐を開拓と社伝。

 

 

「金毘羅船々(衆々)、北家に追われて阿修羅 朱朱朱〜 廻れば、お四国、讃州那珂の起こり 
象頭山 鰐積大権現 一度廻れば(分かります応天門の変と和邇氏の倭国が)」♪

 

 

大麻山にあるのが、

3世紀の石積み古墳
野田院古墳

先程、象が右向いている様な山を見つめているお寺、真言宗総本山善通寺を見下ろせる。

画像ほぼ中央の山が、幼い空海、佐伯真魚が飛び降りたのが、我拝師山
香川県善通寺市にある標高481.0mの山。
善通寺の五岳山と呼ばれる山々の中では標高が一番高い。


 

真ん中の山が丸亀市の讃岐富士、飯野山

=鰐の飯盛山

 

 

『播磨国風土記』飯盛山の条に、
「飯盛山、讃伎の國宇達の郡の飯の神の妾、名は飯盛の大刀自といふ。

此の神度り来て、此の山を占めて居りき。

故、飯盛山と名づく。」ともあり、往古、飯野山の山頂に鎮座し、その後、中腹、山麓へと遷座。
また、境内の飯天神は、菅原道真が国司として土地に在任中から崇敬し、自らの木像を作って奉納

天下った神別け氏族で、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族のともされる武内宿禰

その曾祖父は孝元天皇

その兄弟は、

彦五十狭芹彦命(桃太郎)

倭迹迹日百襲姫命
 
宿禰の子には、
羽田矢代、

小柄、

蘇我石川、

平群木菟

角、

久米能摩刀比売、

怒能呂比売、

葛城津彦、

若子宿禰


紀角の裔には讃岐国司で善政を行った紀夏井さん、そのまた裔に久本氏

 

 

18代履中天皇妃の兄、阿波忌部族の天富命の孫である鷲住王は、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)(海部郡海陽町宍喰)の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。

飯野山の南山麓には、鷲住王を祭神とする「坂元神社」が祀られ、その背後には鷲住王が眠る「鷲住王塚」が残っている。

 

とにかく

 

飯野山

飯盛山

 
飯盛山といえば、福島県会津若松市。
白虎隊士自刃の地
 
 
画像は、本文とはまったく無関係です。
 
 
 
 
 
 
やっと、本文
 
石巻探検で出てきた福島県の地名から痕跡を探しています。グラサン
 
[宮城県探検時のこと]

孝徳朝(645年 - 654年)の後半に第2次使者が派遣されて国造制が評制へ転換され、評の上に国が設けられ、国司の前身である国宰が派遣された。

 

評(こおり)とは、

7世紀後半の日本の地方行政単位の名称。

645年に行なわれたとされる大化改新の数年後、旧来の国造が支配していた領域を分割して、新たに評という行政単位を設けた。その役人を評造 (こおりのみやつこ。評督・助督) といい、徴税などの農民支配に当たった。

 701 (大宝1) 年の大宝令により、評は郡に、評造は郡司と改められた

評は郡よりも軍事的性格が強かった

なお、古代朝鮮でも軍営地区を示す語として「評」が使われていた。

 

この時期に道奥国(みちのおくくに)が設けられ、その領域は、国造制が施行されていた宮城県南端と福島県


・宇多(うだ)
・標葉(しめは)
・信夫(しのぶ)
・安積(あさか)
・岩背(盤瀨;いわせ)
・白河

が、国造のクニ

で、福島県。

 
 
「安積」を探検です。物申す
 

安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)
福島県郡山市清水台1丁目6−23
 
旧社格は県社。
 
御祭神
和久産巣日神
天湯津彦命
比止禰命
誉田別命
倉稲魂命


和久産巣日神とは、
『記』では和久産巣日神、『紀』では稚産霊と表記。
『記』では食物神の
トヨウケビメ(豊受比売神)を生み、『紀』ではその体から蚕と五穀が生じている。
 
豊受姫命=大宜都比売=粟(阿波)国
 
 
 
成務天皇5年、天孫である瓊瓊杵尊が地上に降り立つ天孫降臨に随伴する神々の中の一柱である天湯津彦命(あめのゆつひこのみこと)の十世孫比止禰命(ひとねのみこと)が阿尺国造(あさかのくにのみやつこ、初代安積国造)に任ぜられ安芸国より赴き、東辺を阿武隈川が流れる安積平野、令制国での陸奥国安積郡(現福島県郡山市(旧安積郡を包含))に相当する地域に阿尺国を支配して安積国を建国し、神社を創建して和久産巣日神と天湯津彦命禰命を祀ったのが起源。

比止禰命の死後には比止禰命、坂上田村麻呂の東征の際には八幡大神が同時に祀られ、八幡宮とも呼ばれる。
東北遠征時の源頼義・義家が戦勝祈願を行なったという記録も残る。
 
 
 
天孫降臨に随伴の一柱、天湯津彦命の十世孫比止禰命が、安芸国より赴き、東辺を阿武隈川が流れる安積平野、令制国での陸奥国安積郡を支配し、阿尺国造(初代安積国造)。
 

氏族
丈部氏(はせつかべうじ)で、後裔の丈部直継足が神護景雲3年(769年)に阿倍安積臣姓を賜姓された。
また、宝亀3年(772年)7月に丈部継守ら13人が阿倍安積臣姓を賜姓されたと見え、延暦10年(791年)9月には阿倍安積臣継守が安積郡大領として見える。

丈部氏
=阿倍安積臣姓
 

この引田部ノ神社は、引田明神ともいわれ異説として、その祭神は、孝元天皇の皇子大彦命であるというのが吉田東伍博士の「大日本地名辞書」に見えている。それは、このあたりに阿部氏の子孫が多い。それで、阿倍氏等が祖先の大彦命を祭ったのだろうというのである。」

 

 
 
安積国造神社は、清水台に鎮座し、
 
御祭神、和久産巣日神は、トヨウケビメ(豊受比売神)
つまり、
=大宜都比売
粟(阿波)国を生んでいる。
 
天孫降臨に随伴する神の一柱の天湯津彦命
その十世孫の比止禰命が阿尺国造(初代安積国造)に任ぜられる。
安芸国(安藝)は古くは「阿岐より赴き、東辺を阿武隈=標葉=神阿多都姫(桜)をあらわすと妄想の阿武隈川が流れる安積平野、陸奥国安積郡(現福島県郡山市(旧安積郡を包含))に相当する地域に阿尺国を支配して安積国を建国し、神社を創建して和久産巣日神と天湯津彦命禰命を祀った
 
比止禰命の死後には、比止禰命を祭り、
坂上田村麻呂の東征の際には八幡大神が同時に祀られ、八幡宮とも呼ばれる。
東北遠征時の
頼義・義家が戦勝祈願を行なったという記録も残る。
 
丈部氏の丈部直継足が769年に阿倍安積臣姓を賜姓
丈部氏=阿倍安積臣姓
 
安積=阿倍=
 
安芸国(安藝、阿岐より赴き、東辺を阿武隈=標葉=神阿多都姫(桜)=阿武隈川が流れる安積平野、陸奥国安積郡=阿尺国
 
 
 
 
ダダーン!
結局薬局、
安積とは、阿岐(安藝)より天湯津彦命の十世孫の比止禰命が神阿多都姫(桜)を意味する阿武隈から流れ出る川の地域に来て、阿波国を生んだ母体
伊邪那美命を祭る国だ!
 
 
 
 
 
・・・はい、おっしゃる通り、イ探妄想ですよ。

 

今日のところは、このへんで

ではまた。グラサン