本題は、後に書いてます。
テラス状になっている山
ゾウが鼻を伸ばして右向いている様な山です。
このお寺が見つめる山です。
扁額には五岳山って書いてある。
屏風浦五岳山誕生院
東側から見ると屋島のようにメサな山
左側の名前は、象頭山
右側の名前は、大麻山
ほぼ中間地点に大麻神社
金比羅さん(金刀比羅宮)があるのが、象頭山
象の頭のような大麻山
大麻神社は中間にあり、阿波忌部と讃岐忌部がチームで讃岐を開拓と社伝。
「金毘羅船々(衆々)、北家に追われて阿修羅 朱朱朱〜 廻れば、お四国、讃州那珂の起こり
象頭山 鰐積大権現 一度廻れば(分かります応天門の変と和邇氏の倭国が)」♪
大麻山にあるのが、
野田院古墳
先程、象が右向いている様な山を見つめているお寺、真言宗総本山善通寺を見下ろせる。
画像ほぼ中央の山が、幼い空海、佐伯真魚が飛び降りたのが、我拝師山
香川県善通寺市にある標高481.0mの山。
真ん中の山が丸亀市の讃岐富士、飯野山
=鰐の飯盛山
『播磨国風土記』飯盛山の条に、
「飯盛山、讃伎の國宇達の郡の飯の神の妾、名は飯盛の大刀自といふ。
此の神度り来て、此の山を占めて居りき。
故、飯盛山と名づく。」ともあり、往古、飯野山の山頂に鎮座し、その後、中腹、山麓へと遷座。
また、境内の飯天神は、菅原道真が国司として土地に在任中から崇敬し、自らの木像を作って奉納。
天下った神別け氏族で、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる武内宿禰。
その曾祖父は孝元天皇、
その兄弟は、
彦五十狭芹彦命(桃太郎)
倭迹迹日百襲姫命
宿禰の子には、
羽田矢代、
許勢小柄、
蘇我石川、
平群木菟、
紀角、
久米能摩伊刀比売、
怒能伊呂比売、
葛城襲津彦、
若子宿禰
紀角の裔には讃岐国司で善政を行った紀夏井さん、そのまた裔に久本氏
18代履中天皇妃の兄、阿波忌部族の天富命の孫である鷲住王は、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)(海部郡海陽町宍喰)の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。
飯野山の南山麓には、鷲住王を祭神とする「坂元神社」が祀られ、その背後には鷲住王が眠る「鷲住王塚」が残っている。
とにかく
飯野山
=飯盛山
孝徳朝(645年 - 654年)の後半に第2次使者が派遣されて国造制が評制へ転換され、評の上に国が設けられ、国司の前身である国宰が派遣された。
評(こおり)とは、
7世紀後半の日本の地方行政単位の名称。
645年に行なわれたとされる大化改新の数年後、旧来の国造が支配していた領域を分割して、新たに評という行政単位を設けた。その役人を評造 (こおりのみやつこ。評督・助督) といい、徴税などの農民支配に当たった。
701 (大宝1) 年の大宝令により、評は郡に、評造は郡司と改められた。
評は郡よりも軍事的性格が強かった。
なお、古代朝鮮でも軍営地区を示す語として「評」が使われていた。
この時期に道奥国(みちのおくくに)が設けられ、その領域は、国造制が施行されていた宮城県南端と福島県
・宇多(うだ)
・標葉(しめは)
・信夫(しのぶ)
・安積(あさか)
・岩背(盤瀨;いわせ)
・白河
が、国造のクニ
で、福島県。
安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)
天湯津彦命
比止禰命
誉田別命
倉稲魂命
和久産巣日神とは、
『記』では和久産巣日神、『紀』では稚産霊と表記。
『記』では食物神のトヨウケビメ(豊受比売神)を生み、『紀』ではその体から蚕と五穀が生じている。
稚産霊神=豊受姫命の母
豊受姫命=大宜都比売=粟(阿波)国
比止禰命の死後には比止禰命、坂上田村麻呂の東征の際には八幡大神が同時に祀られ、八幡宮とも呼ばれる。
東北遠征時の源頼義・義家が戦勝祈願を行なったという記録も残る。
阿武隈=標葉=神阿多都姫(桜)
氏族
丈部氏(はせつかべうじ)で、後裔の丈部直継足が神護景雲3年(769年)に阿倍安積臣姓を賜姓された。
丈部氏
この引田部ノ神社は、引田明神ともいわれ異説として、その祭神は、孝元天皇の皇子大彦命であるというのが吉田東伍博士の「大日本地名辞書」に見えている。それは、このあたりに阿部氏の子孫が多い。それで、阿倍氏等が祖先の大彦命を祭ったのだろうというのである。」
東北遠征時の源頼義・義家が戦勝祈願を行なったという記録も残る。
今日のところは、このへんで
ではまた。