イの国探検隊ファンの皆様、アマに内包されしカミの末裔の皆様もこんにちは

 

 

⑨-3の和歌山紀からのつづきで和歌山紀⑨-4。

まだ、和歌山が続きます。

 

「神」阿多~伊勢のラインをたどります。

 

イヒ

 

 

画像は完全にイメージ

さざれ石の岩窟下の天狗様

 

あくまで、探検の記録なので、単調で、混沌としているかも知れません。

すでにしている。滝汗

 

 

土佐高知は過ぎましたが、土佐を舞台にした竜が出るアニメ映画から妄想させていただきました。ニコニコ

 

内容が私には、こんな感じに頭の中で変換され見えました。

 


五十鈴(すず)!!

ベルじゃなく五十鈴(すず)のまま鰐(竜)に問いかけるんだ!

 

あれは何処?

(ビル)が二つ見える!

何処だ!?

あった!これじゃね?

(富士山(浅間山)と愛鷹山)

 

あっ、

場所はム・サシ(東京)

原武蔵だ!

 

(山門国から日に向かって)

行く!?

もう、陸路(飛行機)じゃ間に合わないよ。

 

(葦舟に乗り父のメール)

「五十鈴(すず)、君は(熊野有馬村に眠る)母さんに育てられてこんなにやさしい子になったんだよ」

「その鰐(人)にやさしくしてあげなさい」

 

(葦(吉)船に乗って到着)

(京)

五十鈴(ベル)?!!

 

(五十鈴)

(知)君!!(恵)君!!

 

(京)

五十鈴(ベル)来てくれたの?!

 

(五十鈴)

もう大丈夫、だいじょうぶだから。

 

(京)

さっき抱きしめられてやっと解った。

君は、本当に五十鈴(ベル)なんだって。

来てくれてありがとう

すごく来て欲しかったんだ

会いたかったよ五十鈴(ベル)

 

(五十鈴)

倭多志も

 

(竜とそばかすの姫風で)

 

「むさし」とは

「大小河川、湖沼などの入込んだ土地」を意味。

「む」は、を意味する。「み」の変形または原型。
湿地地域名に「むし」を基幹とするする地名が多いのも同根と思われる。「高虫」、「下武士」、「虫明」、「虫生」etc.
「さす」は、二つの異なるものが層状に、交互に入り組んだ状況をいみする。
「よく脂の差し込んだ肉」、「雲間より日が差す」など。
類似地名に「むさし」の東側に「さしま」も同じ由縁と思われる。  

 

愛鷹あしたかやま)信仰の東泉院(とうせんいん)
北条氏直の外臣金指筑後守が開山、元は
真言宗の寺院だったが後に曹洞宗へと改宗。

この金指筑後守が祀った本尊の聖観世音菩薩は役小角の作と伝。

 

 

 

竿が重い、カレイだ!タコだ!いや、エイだ!

なーんだ、長靴だ。

 

と思った瞬間!

グググ!!

グーーーッ!!!

長靴なんかじゃない!

こいつは、えらい大物だ!

油断してたぜ!ムキー

 

ラインがどんどん持ってかれる!

いかん!ラインが無くなる!

その瞬間!

 

 

漁船のスクリューに巻き込まれていただけだと分かった。ゲッソリ

(漁師のおっさんに怒られる ガクブル)

 

こんなことが、延々と続くようなものだと思っていただきたい。グラサン


 

ルートが、

笠沙の宮跡→伊勢神宮、その先へのラインがあるのではないかと妄想

 

↓これ、このライン

四国足摺岬→室戸岬→熊野→伊勢

阿多を出発し、日向を通り、四国の岬を綺麗に通過するライン上の伊勢神宮内宮・・・

 

 

航海の山当てになっていると仮説妄想しながらさらに探検だ!おーっ!

 

 

(和歌山 紀)

 

 

十輪寺

日高郡みなべ町滝1214

臨済宗妙心寺派

釈迦如来

 

詳細不明だが、京都の十輪寺をみてみる。

十輪寺(じゅうりんじ)

京都市西京区大原野小塩町にある天台宗。

山号は小山(おしおざん)。

本尊は延命地蔵菩薩。
平安時代初期の歌人で六歌仙のひとり
在原業平が、晩年この寺に隠棲したとされることから「なりひら寺」とも称され、中庭に植えられている樹齢約200年の、なりひら(枝垂れ桜)でも知られる。

洛西と呼ばれる地域にある大原野は、長岡京遷都の頃から皇族や貴族が鷹狩をし、優雅に楽しんできたといわれる場所
その大原野の一角に文徳天皇が、女御である染殿皇后(藤原明子に世継誕生祈願して、850年に伝教大師作の延命地蔵を安置して祀ったのが始まり。祈願後、無事に惟仁親王(
清和天皇が誕生し、勅願所とされた。
その後、在原業平が、晩年この寺に隠棲し、境内の裏山には業平が塩焼きの風情を楽しんだとされる
塩竈(しおがま)の旧跡。
平安時代中期には、花山法皇が西国三十三所を再興した時に背に負っていた草分観世音を当寺に納めたと伝わる。

 

 

孝元天皇を祖にする紀氏の石清水八幡宮は、僧・行教が宇佐八幡で「われ都に近記男山に移りて国家を鎮護せん」との神託を受け、朝廷宣旨で木工寮権允橘良基が建立し、誉田別命・比口羊大神(菊理媛神、白山比咩神)・神功皇后を奉安。橘良基は嫌疑をかけられたまま死去。清廉・清貧を治政の信条とし、財産は無く、在原業平の兄弟・在原行平の支援で葬儀をする事が出来た。

讃岐國寒川郡 神前神社、極楽寺の明印法印が、男山相応の地に八幡宮を勧請せよとの醍醐天皇勅命により、京都石清水八幡宮を勧請。『延喜式』神名帳 南海道神 讃岐国 寒川郡「神前神社」に比定式内社(小社)の論社。一郡一八幡のはじめとして創祀

  男山神社の境内社は、八坂神社(八嶋士奴美神 須佐之男命 稻田姫命)と、金毘羅神社(大物主神)

 

庚申様

日高郡みなべ町滝

 

清瀧大明神

日高郡みなべ町高野

ご祭神:龍神山城守の子孫

 

庚申様

日高郡みなべ町高野

 

天寶神社

和歌山県日高郡みなべ町高野244

(主祭神)須佐之男命

(配祀神)大己貴命 高倉自命  天照大神 品多別命  金山彦命 三筒男命  大山咋命 伊邪那美命  速玉男命 事解男命 事代主命
愛宕神社 住吉神社 
阿波曽神社 王子神社 若宮神社

 

「紀伊続風土記」の高野村の項に

「天宝明神社、境内山林周二町二十間末社二社 拝殿 小名宮の前にあり高野 土井 市井川 滝 広野 五箇村の産土神なり、勧請の由来及び天宝と称する事詳ならず、1595年修造の棟札あり」とあり、祭神については「御霊社(現、須賀神社)と同神を祀るといい、或は大和国銀ノ嶽波宝神社と同神なりという」と記されている。
清川(同村内)の天寶神社が、鳶の巣城主の
龍神氏が当社より勧請したといわれ、1517年の棟札があったことから、これ以前より鎮座していたことは確かである。
明治6年4月、村社に列し、同10年12月、高野に祀られていた小祠2社を当社に合併し、同41年11月、次の神社を合祀する。
天宝神社(東神ノ川字帆柱鎮座)、天宝神社(熊瀬川字岡田鎮座)、阿波神社(滝字下堀鎮座)、住吉神社(滝字向鎮座)、金刀比羅神社(高野鎮座)、若宮神社(土井字神谷鎮座)、祇園神社(土井鎮座)、神社(土井鎮座)、王子神社(市井川字下栗原鎮座)、愛宕神社(広野字上通鎮座)、愛宕神社(島ノ瀬字芝ノ瀬鎮座)。
大正元年9月21日、県告示を以って神饌幣帛料指定を受く。
(合祀神社の一例)
天寶神社・東神ノ川字帆柱に鎮座せし村社。
もと島ノ瀬神ノ川の産土神として龍神和泉守・高野より勧請せしものという。
天寶神社・熊瀬川字岡田に鎮座せし村社。
「続風土記」に三所明神とある是れなり。
阿波曽神社・滝字下堀にありし無格社。昔阿波国の僧某熊野詣の途次胃腸を病みて当地若松某の家に熟誠なる看護を受けつつ遂に示寂す。後ち小名西田の山上に葬り1基の碑を立つ。その縁故により若松家累代此の碑を護る。其の後腹痛に悩むもの参拝し「平癒の上は腹掛を奉納せん」と誓願して他人の納たる腹掛を借り帰り、全快の後そを返納すると共に、更に新調のものを納む。
霊験著しとて賽者遠近より来る。
祭日3月1日は僧の命日なるべし。
「続風土記」には「阿波僧大明神社社地周一町半小名西田といふにあり祀神詳ならず」とあり、社号を阿和に作る。
蓋し大明神とは、里人尊敬の除に出でたる敬称のみ、素より神社と称すべきものにあらず、明治の初め社寺調査の際誤って阿波曽神社と届出で後ちに無格社となる。

 

 

須賀神社(すがじんじゃ、素鵞神社(そがじんじゃ))とは、

牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社。日本全国に存在する。

「すが」は「須我」「清」「酒賀」「素鵞」などとも表記される。島根県・高知県に特に多い

他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、八雲神社、素盞嗚神社があり、時代や資料によって通用される。
社名は、日本神話において、スサノオが八岐大蛇を退治して
クシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するものである。

須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」などと称していた。

 

牛頭天王 空海の高野山案


愛宕神社(あたごじんじゃ)は、

京都市右京区嵯峨愛宕町にある神社。
旧称は
多古神社。旧社格は府社で、現在は神社本庁の別表神社。
山城国と丹波国の国境にある愛宕山(標高924m)山頂に鎮座する。

古くより比叡山と共に信仰を集め、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られた。
 

伊弉冉尊(イザナミノミコト)
埴山姫神(ハニヤマヒメノミコト)
天熊人命(アメノクマヒトノミコト)
稚産霊神(ワクムスビノカミ)
豊受姫命(トヨウケビメノミコト)
火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないといわれる。上方落語には「愛宕山」「いらちの愛宕詣り」という噺が存在する。
大宝年間(701年 - 704年)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって朝日峰に神廟が建立されたのが創建とされる。
天応元年(781年)に慶俊僧都、和気清麻呂によって中興され、愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺が建立された。山中には、唐の五台山に模した以下の五寺があったという。

 

埴山姫神とは
古事記では、火之夜芸速男神を産んで死ぬ間際の伊邪那美命の大便から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の二神が化生


天熊人命とは
「日本書紀」に見える神。天照大神の命令で、月夜見尊に殺された保食神(大宜都比売?)の死体から生じた、五穀、牛馬、蚕などを持ち帰った天熊大人(あまくまのうし)。
 

稚産霊神=豊受姫命の母

豊受姫命=大宜都比売=粟(阿波)国


 

庚申様

日高郡みなべ町土井

 

地蔵堂

日高郡みなべ町土井342

 

中之瀬大明神

日高郡みなべ町市井川51

不明

 

難陀龍王社 (なんだりゅうおうのほこら)

田辺市龍神村龍神 龍神温泉元湯前

元・海神社。祭神は大綿津見神

弘仁年間(810―814)、修験道の開祖である役行者が発見し、後に空海当地に来りし時、龍陀王の出現せるをもって祀るという。明治42年(1909年)、皆瀬神社に合祀

古くは元湯から対岸にある、現在の元湯別館にわたる橋のたもとに祀られていたが、平成10年、元湯の改築後、現在の場所に移転。

龍神温泉は、1300年の歴史と、紀州藩主徳川頼宣公がこの温泉を保護し、紀州徳川家の別荘温泉地として栄えてきた温泉。いつの頃からか「日本三美人の湯」の一つと称されている。

※川中温泉・群馬県東吾妻町、湯の川温泉・島根県出雲市(旧斐川町)、龍神温泉が「日本三美人の湯」と称されている。

 

皆瀬神社

田辺市龍神村龍神1346

(主祭神) 八幡大明神

(配祀神)

天児屋根命 品陀和気命(誉田別命) 中筒男命 源頼宜公 大棉津見命 宇賀魂神 大己貴命 市杵嶋姫命 大名持神 須佐男命 丹生津比売命 三筒男命 天香々背男命 伊邪那岐命 菅原道眞公 大地主神 不詳2座

 

長禄2(1458)年、龍神正直勧請、文明年間(1469―1486)正直の世継に当る正氏により社殿が造営せられた。
明治42年、神社合祀令に基き次の神社が合祀。
八幡神社〈村社 殿垣内 品陀別命 治承年間(1177―1181)龍神大和守和賴勧請〉。
青田神社〈無格社 天児屋根命・中筒男命 正応5(1292)年青田戸野丈ヱ門賴藤勧請〉。
神社(無格社 湯本 源賴宜公)。
海神社〈無格社 湯本 大綿津見神 弘仁年間(810―814)空海当地に来りし時、龍陀王の出現せるをもって祀ると言う〉。
大国主神社(無格社 大己貴命)。
嚴島神社〈無格社 湯本 市杵島姫命 安永7(1778)年勧請〉。
若宮神社(無格社 湯本 祭神不詳)。
住吉神社〈無格社 野々垣内 三筒男命 永仁年間(1293―1297)青田源左ヱ門賴藤勧請〉。
八幡神社〈無格社 ノ上 品陀別命 長禄2(1458)年龍神刑部大夫源正直勧請〉。
稲荷神社〈無格社 湯本 宇賀魂神 寛政12(1800)年勧請〉。
稲荷神社(無格社 野々垣内 宇賀魂神)。
新谷神社(無格社 小森 祭神不詳)。
河内神社〈村社 小又川 天児屋根命 勧請不詳 天文7(1538)年皆瀬彈正政信再建〉。
金刀比羅神社(無格社 久志 大名持神・須佐男命)。
八幡神社〈無格社 大江 品陀別命 天文7(1538)年皆瀬彈正政信勧請〉。
佐卉神社〈無格社  丹生津比売命品陀別命 正保2(1645)年勧請〉。
大地主神社〈無格社  大地主神 正保2(1645)年勧請〉・田野々神社(無格社 丹生津比売命)。
神社(無格社 三筒男命)。
神社(無格社 丹生津比売命)。
社(無格社 上湯又 天香々背男命)。
神社(村社 三ツ又 天香々背男命)。
八幡神社(無格社 三ツ又 品陀別命)。
神社〈無格社 八幡尾 品陀別命 應永18(1411)年湯川竹松丸勧請〉。
丹生神社(無格社 板鶴 丹生津比売命)。
八幡神社(無格社 初鹿野 品陀別命)。
嚴島神社(無格社 寺野 市杵島姫命)。
丹生神社(無格社 寺野崎 丹生津比売命)。
丹生神社(無格社 皿田 丹生津比売命)。
多賀神社(無格社 栂尾 佐那岐命)。
天満宮(無格社 大熊 菅原道眞公)。
住吉神社(無格社 小畠 三筒男命)。
八幡神社(無格社 仮屋 品陀別命)。
神前神社(無格社 四ノ谷 品陀別命)。
八阪神社(無格社 久志 須佐男命)。
八幡神社(無格社 原ノ谷 品陀別命)。
稲荷神社(無格社 久志 宇賀魂命)。
以上
37社、18祭神
大正13年、社殿の大改築が行なわれ今日に至る。

 

すごい数の柱驚き

瀬とは、流れが速く水深が浅い場所、潮流、海峡のような場所

つまり、みんな同じ「瀬」だと

似た者、近い同族を集めたということか?

 

山の中だけど、ほとんど海関係の祭神かな。ぶー

 

 

十輪寺は、詳細不明

だが、京都の十輪寺をみてみる

山号は小山。

「なりひら寺」とも称され、平安時代初期の歌人で六歌仙のひとり在原業平が、晩年この寺に隠棲した。

植えられている樹齢約200年の、なりひらで知られる。

ここでも花は梅ではなく桜。

洛西地域にある大原野は、長岡京遷都の頃から皇族や貴族が優雅に楽しんできたといわれる場所。その一角に文徳天皇が、染殿皇后(藤原明子)に世継誕生祈願して、850年に伝教大師作の延命地蔵を祀り、惟仁親王(清和天皇)が誕生して勅願所とされた。

在原業平が焼きの風情を楽しんだとされる塩竈があった。

在原業平の父は、平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫。

在原業平の兄弟・中納言・在原行平は、木工寮権允橘良基の葬儀を出している。

この、橘良基は、奈良大安寺の僧・行教が宇佐八幡で「われ都に近記男山に移りて国家を鎮護せん」との神託を受け、朝廷宣旨で孝元天皇を祖にする紀氏が社家の石清水八幡宮を建立。

律令制を維持しようとする治政に評価が高く、良吏の名を欲しいままにした。

しかし、直情径行的な硬骨漢のためか885年、詔使に従わない疑いで刑部省(裁判所と検察庁)で訊問され推断が終わらない887年卒去。

清廉・清貧を治政の信条としたため、財産は無く、在原行平の支援で葬儀をした。

 

 

天寶神社は、須佐之男命を祭り、御霊社(現、須賀神社)と同神を祀るといい、或は大和国銀ノ嶽波宝神社と同神なりという」と記。

清川(同村内)の天寶神社が、鳶の巣城主の龍神氏が当社より勧請。

阿波曽神社は無格社だが、阿波国の熊野詣僧坊が亡くなり山上に葬り1基の碑を立てて、若松家累代が碑を護っている。

皆瀬神社に合祀された難陀龍王社は、田辺市龍神龍神、龍神温泉元湯前にあり、元・神社。

祭神は大綿津見神

修験道の開祖である役行者が発見し、後に空海当地に来りし時、龍陀王の出現せるをもって祀るという。

 

 

阿波、龍、役行者、空海、海神(わたつみ)

 

妄想です。

 

 

まだ東への航海はつづきまする。波スノボ波

東へ向かうぞ、にんにき にきにきにん音符

 

 

今回は、ここまでとします。もぐもぐイルカ

 

 

ではまた