イの国探検隊ファンの皆様こんにちは
 
 
静御前の母・磯禅師さんは、幼いときに両親と死別し、菩提寺にあずけられました。ぐすん
 
出生地は、どんな場所でしょうか?
 
1人ぼっちになり、引取り面倒をみた菩提寺とはどんな寺でしょうか?
 
 
 
 
まず現場調査だ!!ラブ
現地からレポートです。
 
 
 
国道11号丹生(にぶ)町田から北に脇のJR線路を越え道なりに行くと程なく神社がみえます。

 

石清水八幡神社
 

 

石清水八幡神社

楠樹がでかい。奥にはさらに御神木も

 

 

石清水八幡宮と言えば、孝元天皇を祖にする紀氏

 

石清水八幡宮は、859年奈良大安寺の僧・行教宇佐八幡宮に参籠して「われ都に近記男山に移りて国家を鎮護せん」との神託を受け、朝廷より木工寮権允橘良基が宣旨を承けて建立し、誉田別命・比口羊大神(菊理媛神くくりひめのかみ、白山比咩神しらやまひめのかみ)・神功皇后を奉安したのが石清水神宮の初めとのこと。

男山八幡宮とも呼ばれ男山に鎮座する。

 

古来より、伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として、歴代天皇の崇敬深く、行幸啓・奉幣はしばしばで、国民に至るまで尊崇が篤い。

 

初代神主には行教の甥・紀御豊、のち俗別当に曽孫の良常が任じて以後、別当職を紀氏が独占し、その子、聖清の時から世襲となっているとのこと。

 

行教(ぎょうきょう、生没年未詳)

平安時代の大安寺の僧侶。法相・三論・密教を学び、日本天台宗の祖最澄の師行表や、真言宗の宗叡に師事したともいわれる。

父は山城守紀魚弼仁和寺益信とは俗兄弟

石清水八幡宮別当安宗の叔父。 出家前の半生は不明。

 

 

木工寮権允橘良基(たちばな の よしもと)

884年5月、信濃守(国司)
律令制を維持しようとする治政に評価が高く、良吏。

こんな出来事が

天安年間(857〜859年)の初め、大宰大弐・正躬王が良基と巨勢夏井を選び、請うて部下である大宰少監に任じたが、良基は気に染まなかったために赴任を拒否する。これが文徳天皇の逆鱗に触れ解官された。

清和朝に入ると再度登用され、859年に天皇のために必要な建築土木や木器製作だけではなく、事業に必要となる(伴部である工部の出身母体となる)木工の監督機関の木工少允に任ぜられている。その後、出世している。


869年従五位上・常陸介に叙任。任期を終えた後も新任国司が良基を帰京させないほど能力が高かった

874年、それまでの地方官の任務を十分に果たしているとして越前守に抜擢される。

陽成朝においても地方官を歴任し、877年、正五位下・丹波守。882年、従四位下。884年、信濃守に叙任された。良基は国司の任では、地方官として名声が高かった
(讃岐国司紀夏井の5代前で繋がる紀氏の)紀今守にならって農耕を勧奨し租税や課役の負担を軽減したことから、民は仕事を楽しみ家々には蓄えも豊富であった。しかし、信濃守在任中に、辛犬甘秋子という者が放火され家人を焼殺されたと太政官に嘆き訴える事件があり、885年4月、良基は直情径行的な硬骨漢のためか、詔書を伝える使者・布勢敏行に逆らって、罪人であった坂名井子縄麻呂を勝手に赦免したことから、12月、京に召還され刑部省(裁判所と検察庁)で取り調べを受ける。しかし推断が終わらないうち887年6月卒去。


清廉・清貧を治政の信条としたため、財産は無く
中納言 在原行平の支援で葬儀をする事が出来た。

 

在原 行平(ありわら の ゆきひら)
平安時代初期から前期にかけての公卿・歌人。

平城天皇第一皇子である(太政大臣を除くすべての役人の不正を摘発するのが主な任務の)弾正尹・阿保親王の次男(または三男)。官位は正三位・中納言。小倉百人一首では中納言行平

 

 

残した言葉は、

「百術不如一清」

(ひゃくじゅついっせいにしかず)

あらゆる権謀術策は1つの清廉さに及ばない。

と、言葉を残している。

 

裏を返せば

権謀術策があったと言うことか!?ガーン

 

 

この清廉さは、

讃岐国司だった紀夏井そっくりだ

紀夏井

855年、従五位下・右少弁に叙任され文徳天皇に忠実に仕えながらも清貧で家も持っていなかった

讃岐国司の4年間の任期を終えるも、百姓等の懇望により、さらに2年間讃岐守の任に留まる。性格は温和で思いやりがあり、清貧で無欲

讃岐守の任期を終えて帰京する際、人々は別れを惜しんで多くの物品を贈ろうとしたが、決して受け取らなかった。

さらに帰京後、多くの物が送られてきたが、紙と筆のみを残し他は返した

紀氏は、応天門の変で、政治の世界から姿を消す。

えーん


 

 

 

清和源氏には秘密が、

清和源氏は、武人と知られるが、実はそうではなく陽成源氏との文書が石清水八幡宮に伝わっているとのことで、
 清和源氏は、源頼義・義家父子をはじめ、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏、江戸幕府を開いた徳川家康も清和源氏を称していた。
 清和源氏の清和とは、清和天皇を祖とし、清和天皇の皇子貞純親王の子経基王が源姓を賜って臣下に降り始まるとするのが定説。

ところが、清和源氏は陽成天皇の子孫が正しいとする説がある

陽成天皇は、清和天皇の皇子で、さきの貞純天皇の兄にあたる人物。
この説は1900年に歴史学者星野恒氏が、『史学雑誌』に「六孫王は清和源氏に非ざるの考」という論文を発表されたことが発端。六孫王とは経基のこと。
この根拠となったのが、経基の孫にあたる源頼信が、1046年に石清水八幡宮に納めた告文で、八幡宮祠官田中家に九百年にわたって伝存されてきたもの。

ポイントのみ読み下しでは、 


敬んで先祖ノ本系を明め奉れば、大菩薩の聖体は、恭けなくも某の二十二世の氏祖なり。
先人は新発意、その先は経基、その先は元平親王、その先は雨陽成天皇、その先は清和天皇(中略)いわゆる曾祖の陽成天皇は、権現ノ十八代の孫なり。
頼信は彼ノ天皇の四世の孫なり。


告文は、八幡大権現から頼信にいたる略系図を、逆に遡って記し、概ね正しいものであるので、「頼信は彼ノ天皇の四世の孫なり」というのも正しいと考えられ、

なぜ、陽成天皇の子孫が清和天皇の子孫を称したのかは、陽成天皇が「悪君の極」とか「乱国ノ王」などと呼ばれたため、その子孫と称することを避け、一代繰り上げて清和天皇からの源氏ということにしたと想像される。

しかしながら、頼朝や義経が生れる以前に、世の中は陽成源氏を「清和源氏」に誤信していた。すでに清和源氏ということが定着。
「清和源氏」が、八幡信仰をしていたことはよく知られ、頼信は石清水八幡宮にさきの告文を捧げ、子・頼義は、鎌倉に元八幡を創建し。これを起点として陸奥に向かって五里ごとに、五里八幡を創建した。そして、その子、義家は石清水八幡で元服し、八幡太郎と名乗った

さらに頼朝は元八幡を移建して、鶴岡八幡宮とした。 

 

 

だいぶん脇にそれましたが

石清水八幡の参道は真っ直ぐで、神社が向く先が気になりました。

 

八幡神社の見つめる先は、水主神社だと思われます。

左の山は、水主三山の一つ虎丸山

水主神社は、源義経が屋島の戦いの戦勝祈願に道中休憩も取らず一目散にお参りしたとのこと。

 

 

神社参道を直線で延ばすと、

香川県内では、

まず、水主神社のある水主地区を通り、

その先には、誉田大権現横を通ります。

 

さらに徳島県へ伸ばすと

四国88霊場 

第9番・正覚山菩提院 法輪寺

 本尊:涅槃釈迦如来

第10番・得度山灌頂院 切幡寺

 本尊:千手観世音菩薩

第12番・摩盧山正寿院 焼山寺

 本尊:虚空蔵菩薩

横を通過する方向。

 

 

水主神社

 

 後ろの正面を表す?正一位水主神社

 

 

 

 

水主神社と水主三山(三輪三山?)の位置関係

北:那智山

西南:本宮山

東南:虎丸山

 

 

 

 

昔からあると思う神社東側の地元道を車で行きましたが、幅ぎりぎりの道でした。

ゲッソリ

たぶん、一番近道だと思うから、磯禅師さんの長町家も参拝に歩いて通った道だと思います。

 

 

 

はい、到着ニコ

 

白い標柱が畑に立っています。

 

 

 

 

畑の様子

 

畑の持ち主の方に話を伺えました。

いまは、この標柱だけが示すものだそうです。

近くの家の横に瓦礫の一部らしいものはあるそうですが、瓦礫にしか見えないとのこと。

見に行こうとしましたが、宅地の中のようなので、断念しました。

 

畑から、やや山中に行く道があったので、行ってみると、祠がありました。

集落の高い位置なので、昔から地域の方がお参りされている祠だと思います。

 

 

磯禅師の長町家も拝んだであろうと妄想する距離にある祠

 

 

更に登ったら

こんな祠も

 

 

この祠辺りから大阪方面を見ると、海が見えて、船で行く者は、監視出来る場所だと分かりました。

関西方面から来る船を見張るにはいい場所

屋敷から歩いて2、3分くらいかな

 

 

 

白い塀の敷地は、この地域の長町家の本家とのこと

 

 

もっと海側の現在の道路から見ると

海の様子は良く見える

 

 

良く見ると、島が3つ

 

小さな島が特徴的

裂けたような島

 

 

今回は、

静御前の母、磯禅師が生まれた地域でした。

のどかで海が良く見えてほっとする場所でした。

ただ、磯禅師の生まれたことを示すような昔からのものは無く、

標柱を立てた方も「ここにはなにもないよ」とさびしそうでした。

でも、山や海の景色は、幼かった磯さんも見た景色

それを妄想するだけでも行ってよかったです。

 

次は幼くして預けられたお長町家の菩提寺へ向かいます。

 

ではまた。グラサン