イの国探検隊ファンの皆様こんにちは
妄想の奈良街道の探検を豊富な画像で再びスペシャルもの その④です。
讃岐の海から阿波吉野川までを難波皇后目線で移動しています。
あくまで讃岐難破から阿波奈良への妄想の奈良街道のお話しです。
まず、仁徳(難波)天皇が皇后・磐之媛に内緒で吉備の女子・黒日賣に会いに讃岐の難破まで来て、歌を詠み。
媛は傷心、奈良街道を阿波へ向けて進み、吉野川を渡り奈良(那羅)まで来ました
前回、奈良手前まで来て美しい青丹な吉野川と比婆山(高越山)を見ることができました。
地図の奈良地区を目指して行きます。
↓
程なく神社がありました。
多分もう奈良近く?だと思うので、関係するものが何かないか覗いていきます。
柔らかい石を使っています。古そう
八幡神社でした
由緒が書いてありました。
ふむふむ
なにやら深い事情があって八幡神社になったようです。
元は「秘羽女神社」とのこと。
今の地の南側にあったが、天正の戦国時代の兵火により、神宝、社記、社殿は灰になったようです。
更に、蜂須賀氏は
「式内小社秘羽女神社」は
差し支えがあるとして、誉田別八幡神社と改名している。
なにやら
「ヒワメ」という名前がポイントか?
足浜目門比売(あはまとひめ)神と合祀
小字も比和女
南西200mには、比和女塚もあるそう
大正3年には、天満神社、事代主神社を合祀
北須賀の村社、中道神社、猿田彦神社を合祀して今に至るそう。
境内にある社
本殿
善入寺島、児島須賀地区も氏子
お約束の五角形の地神さん
だが、台座に注目!
上から見ると五角形の石積
讃岐では見ない台座の形
五角形に大きな意味があるのか?
↓
そして、八幡神社から東へ100mほどが地図上の小字で「奈良」とある地区
奈良地区(地図内の細い赤線囲み)
ごく小さな地区です。
東西400m、南北300mほどのようです。良く見ると、「奈良公会堂」は囲みの外です。 どうも、本来の奈良地区はもっと広かったようです。
なので、奈良地区がある児島地区で検索すると、
児島で検索した地区
吉野川の中島である善入寺島の西南地区、蜂須賀公が差支えがあると言った秘羽女神社(八幡神社)、日和女地区を含む地域が児島地区には入りました。
そして、神社の由緒書きにあった「北須賀」
北須賀ではヒットしませんが、「須賀地区」は、対岸の善入寺島にもまたがる地区のようです。
このことから、奈良は児島地区とほぼ同じか、更に広い可能性があることが分かりました。
だが、物証は見つけられなかった。
そこで、地元民を探した。
畑作業をしていたおじいさんを発見して
「ここは奈良ですか?」と伺ってみた。
「は?」
「ここは奈良ですか?」
「へ?」
「わし、耳が遠いのんで大き言うて」
耳元で
「ここは奈良ですか?!」
「奈良や」
はい確定です。
奈良地区(小字として残っている様子)
東は生島、西は山川町
先の善入寺島南部、八幡神社(秘羽女神社)
良く見ると比婆山の高越山も入っている。
比婆山
その南には、船窪つつじ公園
阿波富士とも言われる高越山(標高1,133m)から奥野々山(標高1,159m)に通じる峰筋には、面積約3haの船底形の窪地(標高 1,060m)に朱赤色のオンツツジを中心に約1,200株が大群生して、なかには樹齢400年を超えるものものや、高さ6mにおよぶものもあり、巨大なオンツツジも多いのが特徴で、これに匹敵する群落は西日本のどこにも見あたらないそうです。
つつじの群落は、人の生活、高地性集落があったともとれるのではないでしょうか。
つまり、
広くは吉野川市が奈良だったかも。
と、妄想。
これが、
「奈良の吉野山」だ! 厳密には奈良地区からみた阿波の山
現在の奈良地区は狭い。
奈良地区から南をみた山の様子
奈良は確かに存在し、
比婆山(高越山)は奈良だったことを発見したので
今日はこの辺で
ではまた。