あけましておめでとうございます。

2022年初投稿です。門松

2021年は自分にとってしっくりこなかったというのが本音ですが、2022年はどのような年になるのでしょうか、いや、していこうかな。絵馬

年末は気の置けない友人や恋人と過ごしシャンパン生ビール、年越しは紅白を見届け、正月は家族とおせち料理をいただき、お酒片手にゲームに興じ、さらには初売りに参戦した、素晴らしき典型的な年末年始を過ごした。

本日からは社会も再び真面目モードになって新たな一年が本格的に始まりましたね。

 

そんな2022年初読は、ヴィクトール=フランクル『夜と霧』。

 

著名な精神医療の医者でもある著者が、自身の第二次世界大戦時のナチによる強制収容所での体験を、精神医学の専門家の視点から、収容所到着時、労働従事時、解放時それぞれの場面において人々の心理状況に現れた、極限の環境に置かれた人間の精神状況を克明に記録したもの。強制収容所でのおぞましい行為のあれやこれやに関しては、様々な形で記録として残っているが、実際にその体験をした、専門家による人間心理の変遷を記録したものとしてはとても貴重なものとして、名著となっている。

 

なお、翻訳されたものは、 霜山徳爾の旧訳と、池田香代子による新訳があるが、私は後者を読んだ。この本の読書は二回目で、前回いつ読んだのかは定かではないが、その時は特段心に響いてはいなかたようで記憶にも残っていないため、この機に、人間心理を知りたいと思う今こそ読み返すことにした。

 

生きることについての最後のパートに書かれている文章が深長なため、書き残す:

  • わたしたちが生きることからなにかを期待するのではなく、むしろ生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ。もういいかげん、生きることの意味を問うのをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
  • 生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。
  • 生きることとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題に果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。
  • ひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生き続けるということに対して担っている責務の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

何のために生きるのか、ではなく、自分の使命は何なのか、何のために生きねばならないのか(その何、がつまり生きがいというものなのかと思う)、そちらを考えなければならない。

自分の人生は何なのか、何のために生きているのか、それがわからないと苦しい。被収容者の中には、無目的で日々を過ごす人ほど、早く死んだそうだ。一方、極限状況の中でも精神世界を充実させ、生き延びた人もいたのは、後者には、自分が何のために生きるのか、そのためにはどうしても生き延びねばならないということが明確に分かっていたからである。

 

私の日常では、無目的に生きていて急に死ぬということはまずありえない、けれど、そこから精神が揺らいで、病理へ発展して、自身を死に追いやるというのはよく聞く話でもある。死ぬ前に、自分の生きがいが頭を掠めるならばその人は死ぬことはないかもしれない。

 

人間の生きがいの見つけ方はひとそれぞれで、子供に託す人もいれば、仕事や趣味に見出す人もいる。

生きがいを見つけられないと、人は本当に危険な状態になってしまうから、やりたいことがない、という状況は本当に危ない状況だったと思う。

自身を振り返った時に、本当はこれをやりたいのに、、と思いながらもその声を抑圧して歯を食いしばって耐えて、苦しいのに笑って、帰りたいのにオフィスに張り付いていた状況は、結果的に適応障害と診断を受けたことで強制的にその環境から離れることができたものの、実はずっと前から黄色信号が鳴り響いていたんだなと思う。そのまま黄色信号で走り続けていたら相当危ない状況に陥っていたかもしれない。

 

2021年は、そのような意味でも自分について深く知るためのきっかけを与えてくれた年になった。そのことに対して私は(何に対してかはわからないが)感謝したい。

2022年は、だからこそ、もっと自信の声に従順になり、自分の思う道を迷わずに突き進もうと思う。