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与謝野晶子の現代訳の源氏物語を買ってしまった

金額としてはさほど高いものではないけれど、何かのきっかけがないと買う気にはなれなかったもの。


それは何かと言うと、源氏物語の現代訳の本です。


どの人の現代訳がいいのだろうと、少しばかり悩んだのですが、与謝野晶子の現代訳の本を買うことにしました。


なぜ、与謝野晶子の本にしたのかというと、文庫本で、全五冊で、価格的に安かったことが一番の理由です。


与謝野晶子の現代訳の源氏物語はネット上でも読むことができます。


つまり、無料で読むことができます。


それなのに、なぜ、本をわざわざ買うのかというと、パソコン画面で読むものは、形として所有するという満足を与えてくれない。自分にとっては、本はまず、所有するべきものです。所有していればいつでも読めるわけです。読みたいと思っても、所有していなければ、図書館で借りるとか、購入する必要があります。本が増え続けると置き場所の問題もあるのですが、とにかく、所有していなければ、読みたい時に、読めないわけです。


今日は、ささややかな、嬉しいことがあったので、それを口実に、与謝野晶子の現代訳の源氏物語を買ってしまいました。

忘れ上手は生き上手

思い出は楽しいことだけにする。


そうでない思い出は忘れる努力をする。


忘れ上手は、生き上手。

分かってしまう

ペットは人を癒してくれます。


個人的には、ペットを飼ったことはありません。


ペットのために時間を作って、世話をするということはたぶん、自分にはできないだろうと思う。


ペットになる動物は、動物としては幸せなのか不幸なのか分からないけど、ペットになれば、毎日の食を探して、あちらこちらと歩きまわる必要はなくなるわけです。


ペットではない、野良に暮らす犬や猫は、食を得るために日々危険な目に合いながら闘っているようなものです。


猫が道路を渡ろうとして、車に撥ねられることは、しばしば起きます。


なぜか、動物は、車の直前を横切ろうとする。


撥ねてしまうのは気分のいいものではないですが、撥ねてしまって、ごめんなさいということだけではすまないことがあります。


これは、実際にあった話です。


私は、ほんの少し、感じる程度に霊感があります。


同じ職場の男性が、仕事の合間に、ふと、目を閉じる表情を見た時、私はある事を感じてしまったのです。


彼の目がおかしいのです。どういうふうにおかしいのかは説明しにくいのですが、どんよりとして、不気味でした。


これは、何かあると感じた私は、ネット上で、霊的力を持っている方のサイトで、彼の診断をしてもらいました。生年月日と、名前で、その人を霊視できるということでした。


その結果、彼は、年老いた猫を車で轢いたことがあり、その猫が彼に憑依しているということでした。


ネットの上だけの霊視では、確証が弱いと思い、神道系のあるところで、診断していただきました。ここでも、生年月日と名前で、診断しました。


その結果、やはり、猫の霊が憑依しているということでした。


この霊はかなり強力な霊のようでした。憑依した霊を沈める方法を教わって実行して、さらには、お寺で、供養することをすすめられました。


彼に、実際に聞いてみると、確かに猫を車で轢いたそうです。


彼をお寺に連れて行って、供養してもらいました。


その後、彼は職場からは去りました。


他にも、分かってしまうことがあります。


この記事を書いていると、背中に何か冷たいものが走って、かなり気味が悪いです。














読む以外に本を読む方法

同時に何冊か読むということをしています。


一冊づつ読むと、なんだか、生きているうちに読みたい本を全部読めない気がして、何冊か同時に読んでいます。


そうすると、一日一冊当たり、10ページも読むことはできない。


それに、途切れ途切れだと、ストーリーをうまく理解できない。


それぞれの本のストーリーがすんなりとは頭には入らない。


結局、一冊づつ読むほうが、本の内容も理解できるし、速く読むことになるのではないかと思う。


しかし、複数の本を同時に読んでいないと、不安になってしまう。


読みたい本を読まないうちに、自然災害で死亡したり、病気で死亡したり、事故で死亡したりするのではないかと思ってしまう。


命があるうちに読んでおきたい本はたくさんあるのに、時間は限られている。


読む以外に、本を読む方法はないものだろうかと思う。


電気信号を脳のある部分に送って、本の内容を数秒で理解させるということはできないものか。


そうすれば、読書に充てていた時間を他の事に使えると思う。


いや、ほんとに、そうだろうか。


電気信号化された本を読む量が増えるだけではないのかと、心配する。



青い手紙 19

私は、畠山純一の家に再び訪れた。畠山純一の家というよりは、名義上では、故人の畠山義男氏の家だった。電話一本で、確認できることなのだが、自分の目で確かめたかった。それが私のやり方だった。


家の門の周りは、白黒の膜が垂れ下がっていた。これからこの家の中で何が行われるのかは明らかだった。葬儀は、畠山純一の家で行われるようだった。


葬儀の日取りは巨大な門の内側に置かれた、小さな立て看板に書かれてあった。今夜がお通夜で、明日の午後一時が出棺だった。


実子ではない畠山純一が住んでいる家ではあっても、名義の上では畠山義男の家なのだから、その家で葬儀を執り行うことには、畠山一族は納得したのかも知れない。しかし、実子ではない畠山純一が喪主でいいのだろうか。


畠山義男の葬儀に参列するのに何かの資格は必要はないはずだし、招待状がいるということもないだろう。私は、明日の葬儀に参列することにした。