創作ラボ2 -699ページ目

刹那的で儚く脆い

紙に印刷された書籍よりも、電子化された書籍が売れるようになっているようだ。


印刷されたものは、電子化されたものより、価格は高くなるから、当然、読むということにおいては、安いほうがいいから、電子書籍を買うのだろう。


しかし、電子化されたものを書籍といっていいのだろうか。


電子化された文字は、実態のない幻のようなもの。


はたして、自分がその書籍を所有しているといえるだろうか。


電子書籍はテレビ画面でしか見ることができないスターのようなもので、実際に手で触れることができない。


手に触れることができないものを所有しているといえるだろうか。


紙に印刷された書籍は、形として手に取ることができる。


所有しているという実感があるし、その書籍は現実的に、そこに存在している。つまり、財産である。


電子書籍は財産と言えるだろうか。


印刷された書籍は、それを読むためには、ハードもソフトも必要ない。数百年後まで保存することもできる。


電子書籍の命は短い。


ハードが変わり、ソフトが変わると、読めなくなる


ハードと、ソフトが壊れると読めなくなる。


刹那的で、儚く、脆い。



平家物語を途中まで読む

文庫本の、『平家物語』を途中まで読んでいます。


平家物語も、源氏物語と同じく、原書ではかなり長い物語だろうと思うのですが、平家物語は、源氏物語ほどには世間では読まれていないと思います。


源氏物語は創作ですが、平家物語はノンフィクションと考えていいのでしょうか。


源氏物語は、女性系で、平家物語は男性系です。


読み物としては、源氏物語が面白いでしょうが、源氏物語は長いので、それよりは短い、平家物語を読んでおこうと思って、『吉村昭の平家物語』を読んでいます。


現代語で書かれているので、すらすらと読めます。しかし、あら筋ばかり書いているようで、物語には厚みがありません。


それでも、いろいろな人物が登場して、なんとなく、平家物語とはこういうものだということが分かればいいのではないかと思い、読んでいます。


登場人物が多くて、どういう関係なのか分かりにくいのですが、最後までなんとか読むことはできそうです。

適当な枚数はどのくらい

少しずつ書いている、『青い手紙』は、だらだら書いてしまって、予定よりは長くなってしまっている。


プロットを考えながら書いてまうとこうなってしまうのだろう。



最初から、何枚の作品にするというように決めておけば、このシーンは何枚にするというように、枚数を決めて書くことができる。


逆に、枚数を決めて書くと、そのシーンでは予定の枚数を書けないということも起こる。


全体の枚数を決めて書いているわけではないから、適当な長さで終わりにすればいいのだろうと思う。


それで、適当な枚数というのはどの程度だろう。


短編というのは、最低三十枚くらいだと思うけど、『青い手紙』はすでに三十枚を超えている。


『青い手紙』はそろそろ終盤に差し掛かっています。


アイディアが浮かばない場合は、プロットを急展開させて、終わりにします。

青い手紙 18

「神上さんですね」と、低い声で受話器の向こうの相手は言った。


こちらの状況など考えずに、勝手に誰かが私に連絡してくる。


「はい、そうです」私は営業用のトーンの声で答えた。


「フリージャーナリストの野中と申します」と、相手は言った。

私は6秒間、脳の海馬を活動させて、記憶をたどったが、野中という名前のフリージャーナリストの知り合いはいなかった。


「人違いです。野中さんという知り合いはいませんね」と私は無表情なトーンの声で言った。

「私も、あなたとは知り合いではありません。ただ、少し気になることがありまして、お話を伺いたと思いまして」


「話すことはありません」そう言って、私は電話を切ろうと思った。

「あなたは何かを隠している」と、相手が少し強い口調で言った。

「隠しているとは?」

「私だって、ジャーナリストの端くれですよ。私は畠山さんがただの病死だとは思っていない。ヘルパーの女性にも取材しました。第一発見者であるあなたは何か重要なことを隠しているんじゃないかと私は感じたわけです」


7秒間、沈黙があった。


「ヘルパーの女性が何か言っていたということ?」

「何か?確かに彼女は何かを話したけど、私が知りたいことは話さなかった。私が知りたいことはあなたが知っているはずだ」

「あんたも、ジャーナリストだったら、守秘義務があることくらい知っているだろう。依頼人の不利益になることは話さない。たとえ、依頼人が死亡していても」

「依頼人はすでに死亡している。あなたは依頼人からは報酬を受け取っていない。あなたは、畠山さんは病死ではなくて、他殺かもしれないと思って調査を続けている。ただし、誰からも報酬はない。変わった人だ」

「どう思ってもらってもいい。私は、ただ、自分を納得させたいだけだ」受話器の向こうで大きく息を吐き出す音が聞こえた。


「私はジャーナリストとして、調査をする」

「勝手にどうぞ」

「また、連絡をするかも知れない」

「いろんな連中が私と話したがる。しかし、私は話好きではない。誰かと話をするくらいなら、ソファに座って、のんびりとオフィスの天井をながめているのがいい」

「なるほど。それは残念だ。畠山さんの実子の畠山修二の話は興味があるんじゃないかと思ったけど、話好きじゃないんだったら、やめとくよ」

そう言って、彼は電話を切った。

装丁のデザインで選ぶ

近頃、源氏物語を読むのだと、心意気だけが高ぶっていてるのですが、誰の現代訳で読むのか迷っています。


一般的に、源氏物語の現代語訳を最初にしたのは、与謝野晶子らしいのですが、明治から大正時代にかけての現代語訳なので、その現代語訳自体が、平成の時代から見れば、古典になっているわけで、古典を古典で読むということになるわけです


しかし、与謝野晶子訳の源氏物語は、今でも、新装版が発売され続けています。おそらく、平成の時代にも読めるように、仮名遣いとか、漢字なども直されていると思うのですが、書店では見かけたことがないので、確認はしていません。


何も、書籍を買わなくても、ネット上でも、源氏物語の現代訳を読むことはできます。


でも、きちんと、書籍の形になったものを所有したいのです。


所有するということは、見た目も重要になってきます。中身というのは、読んでみないことには判断がつかないのですが、外側の装丁は見てすぐに分かります。ですから、本は装丁のデザインも大切です。


装丁で本を選ぶということもありえるわけです。


今のところ、源氏物語の現代訳では、価格のことを考えて、与謝野晶子訳が第一候補、次が、大塚ひかりといったところです。


ただ、大塚ひかりの源氏物語の現代訳の本は訳者の色が、濃く出ているようで、与謝野晶子の訳のように、時代を経ても、読み続けられるかどうかは分かりません。


古典は、やはり原文で読むべきだろうと思って、対訳つきの、角川のソフィア文庫を昨日書店で手にとって、じっとながめては、本棚に何度も戻しました。


全部で十冊あります。価格も八千円は超えると思われます。価格のことは別として、文庫で対訳つきなので、文字が小さいです。かなり読みにくい感じがしました。


これで文字が大きければ、衝動的に、十冊手にとって、レジに向かったかもしれません。


読むなら原文で、という気持ちは未だ消えず、悩み続けています。