ハムレットを途中まで読む
まだ途中ですが、『ハムレット』を読んでいます。
本を読むスピードが遅いのですが、基本的に、シェイクスピアの戯曲は台詞なので、大仰な言いまわしも、慣れてしまえば、適当に読み流すことができます。
登場人物が誰であるのかということが分かれば、話の筋は分かります。
ハムレットは、シェイクスピアの戯曲の中でも最も長い。
亡霊が登場することに関しては、違和感を感じる読者もいると思う。
亡霊とは、殺された、ハムレットの父親で、実の兄弟にハムレットの父親は殺され、そして、ハムレットの母親は、夫を殺した、夫の兄弟と結婚する。
なんともややこしい話で、ハムレットのかつての叔父が継父となる。
まだ読みえ終えるには先は長いけれど、少しずつ読みます。
源氏物語の謎 ④
与謝野晶子源氏の第三巻の、『行幸』まで読み終えました。
これまでのところで、感じるのは、『紫の上』系統のグループと、『玉鬘』系統グループの物語に分類できるということです。
本来の物語の筋とは関係のない比較的短い帖があったりして、そういうものは、後から挿入されたのではないかとも思う。
もう少し読みすすめば、また、別系統のグループの物語も登場するだろうと思われる。
これらのことが、教えてくれることは現代の感覚の一人の作者が書いた首尾一貫した長編物語とは様子が違うということです。
作者が複数存在したと考えたほうが自然な感じもする。
多くの読者は、登場人物の多さと、複雑な人間関係と、誰が話しているのか分からないということと、登場人物の呼び名が一定していなくて、誰のことなのか分からないこと、平安時代の貴族世界、社会的状況、内裏の各部署の配置図、官位の名称などが分からないということなどが原因になって、源氏物語を途中で投げ出してしまうのではないかと思われる。
分かりにくいところは、斜め読みしながら、最後まで、こつこつと読んでいくつもりです。
“はず”
子供ためなら、自分の命などいらない。
親なら誰でもそう思うはず。
確かに、“はず”。
ところが、自分のためなら、子供の命などいらない。
と、思っている親もいる。そして、実際に、行動に移してしまう。
子供が困った時には、親は助けてくれるはず。
そうあってほしい。
現実は、助けを求めた子供を足蹴にする親が多くいる。
自分の身を犠牲にして、子供の命を守る親の姿は、単なる幻想なのか。
1966年、ピューリッツァ賞を受賞した戦場カメラマン沢田教一の、『安全への逃避』こそ、母親の真の姿だろうと思う。
家族崩壊
夫婦別姓を容認するべきかどうか。
姓とは、ファミリーネームのことだから、姓が違うということは、家族ではないという証拠でもある。
夫の姓、あるいは、妻の姓になるのが嫌であれば、婚姻をしなければいいだけのことだろう。
婚姻はするけど、家族なるのは嫌だということだろう。
家族になるのが嫌なら、婚姻をしなければいい。
女性の場合は、実家と、夫婦として暮らす家の二つの家を持っている。
しかし、実家といっても、両親が住んでいる家があって、親が健在でいる間だけが、実家であって、男の兄弟が、親の後を継いでいる場合は、外に出た女性にとっては、もはや、実家ではないのではないか。
成人して、家を出た女性にとっては、今現在住んでいる家が実家ということだろう。
そういう状況になった場合、実家の姓にこだわって、夫婦別姓を唱えることにはあまり意味はないように思える。
たとえば、両親とも死に別れて、一人暮らしをしている女性は、結婚をして、やっと家族ができたのに、消えてしまった実家の姓にこだわるだろうか。
別姓を唱える女性というのは、衣食住が足りて、自分の仕事を持っていて、たとえ、離婚しても自分で生きていける恵まれた環境にある人たちだろうと思う。
そういう人たちは、身寄りがなくて、ほんとに家族を求めている人たちがいるということ、夫の姓になることに喜びを感じる人たちがいることを知っているのだろか。
夫婦別姓がいいのであれば、婚姻をする必要はない。
平安時代のように、夫が女性のところに通うだけでいいのではないかとも思う。
そうすれば、婚姻届にしばられることもないのだから、男も女も多情であっても、あまり気にしないで、気楽に生きることができる。
