田舎で育った人間にとって東京は大都会だ。

大阪は自分が育った西日本の田舎の延長線上にあるけれど、東京は未知の世界、異国。
首都圏に住んでいる人がニューヨークに住む感覚に近いのでは、と思う。
TVの刑事ドラマやニュースで見る世界。
日々、殺人事件が発生する犯罪の巣窟(注)。

そんな東京に飛び込んだ田舎モノの私が経験した、かれこれ30年以上も昔のお話。

(注)刑事ドラマやニュースしか情報ソースがなかったため勝手にそう思い込んでいただけ。

これまでの記事


   僕の新橋LIFE(その10)


サラリーマンへの道(その5)



東南アジアの小さな国、シンガポール。
熱帯気候で乾季と雨季のある国。
ホーカーセンターという名の屋台街。
種類も豊富で安くて旨い。
アルコール以外にも新鮮な果物やジュースまで飲むことが出来る。
近代的なビルと緑。

街並みもキレイで、治安も良い。

地下鉄の案内もシンプルでわかりやすい。
だからというわけではないが、シンガポールでは出張中、よく飲み歩いた。


仕事が終わると、シンガポールの夜の街に繰り出し、Orchardロード付近のラウンジの常連となった。
出張にも関わらず、お店にボトルまで置き、お姉さんに囲まれてお酒を飲んだ。
日本でもやったことがないのに、異国の地でなぜこんな大胆な事が出来たのか、自分でもいまだによくわからない。

お店ではよくカラオケも歌った。
上田正樹の「悲しい色やね」。
中国圏の定番曲、「月亮代表我的心」はお姉さん達に歌ってもらった。
耳に残る優しいメロディー。
オリジナルかどうかは知らないが、テレサ・テンが歌った曲だ。
チャイニーズはこの歌が大好きだ。
後年行った台湾でも人気があった。


キレイなお姉さん達に囲まれてお酒を飲み、カラオケを歌ったり、歌ってもらったりした後は、当然、お勘定をしなけらばならない。

お勘定は中国語で「マイタン=埋単」と言う。「単」は伝票なので、「埋単」は伝票に金額を埋める=お勘定、ということらしい。

「マイタン!」

お昼の店でも、夜のお店でも通じる単語。
私が「マイタン」を支払ったのはギターを買った時と同じクレジットカード。
初めてギターを買った時にはビビっていたが、2回目になるとクレジットカードを利用することに対して全く罪悪感が無くなっていた。

飲み過ぎの虚ろな目で金額が「埋」められた「単」をよくよく見てみると、こっそり「ママさんドリンク」と書かれてある。

(ママさん、来てないのに‥)

と思ったが、何も言わなかった。
日本に戻ると、「ママさんドリンク」のせいだけではないものの、郵送されて来たクレジットカードの請求額はなかなかの金額になっていた。


初めてシンガポールに来た時、空港には日本人駐在員が迎えに来てくれていた。
支店での仕事が終わってからも毎日、日本人駐在員が出張者である私達をシンガポールの街に案内してくれた。
つまり、同行の先輩と私をお客さん扱いしてくれていたわけだ。
しかし、2回目以降のシンガポール出張は若造の私ひとりだけ。
空港に駐在員の迎えはいない。
自分でタクシーを拾い、ドライバーに行き先であるOrchardロードの住所を告げOfficeへ向う。
聞き取り辛いシングリッシュにも少しずつ慣れ、シンガポールの雰囲気にも慣れてきたおかげで、Officeに到着するまでの間、ドライバーと会話する余裕も出てきた。


支店に到着し、エレベーターに乗る。

「second floor, third floor‥」

いつもと同じ。
Officeのあるフロアでエレベーターを降り、
ドアを開け、Officeに入る。
駐在員やローカル従業員に挨拶し、自分の席に座って仕事をする。
お昼になると、日本人駐在員と一緒に近くのカッぺージセンターでお昼を食べる。
仕事が終わると各自帰宅する。
月のうち、半分はシンガポールで過ごすようになったため、私が支店にいるのは彼らにとっても、私にとっても日常となった。
たまになら良いが、駐在員も若造の出張者に毎晩付き合うわけにはいかない。
ただ都合の良いことに私は独りでも夜の街に遊びに行く。
つまり、時間外はこの若造を放っておくことがお互いにとってベストな判断だったわけだ。

Orchardロードのラウンジ。
行きつけの店が出来ると、馴染の女の子が出来る。馴染の女の子が出来ると、仲良くなる。
自然の摂理だ。
馴染の女の子は中国の北京からシンガポールへ来ていた中国人。
彼女の妹が彼女より先に北京からシンガポールに来て、シンガポール人の伴侶を見つけた。
彼女はそのツテを頼って語学留学という形でシンガポールへやって来たのだと言う。
そして、ラウンジで働き始め、そこに私がやって来たのだ。

(写真はイメージ)

たまたま私の隣に座った彼女。
お互い、下手な英語でのコミニュケーション。
相手の言葉を、そして、言葉の先にある相手の気持ちを理解しようと必死。
二人とも英語は下手だし、お互いの母国語は良く分からないが、気持ちは通じ合えた。
そして、気持ちが通じ合うと、互いの母国語も教え合った。
彼女に日本語を、彼女が私に中国語を教えた。
それほど美人というわけではないが、話をしていると妙に気があった。

2回目のシンガポール以降、月の半分をシンガポールで、残り半分を日本で過ごす出張生活が1年ほど続いた。
シンガポールにいる時、夜は彼女に会うためにお店へ行き、お休みの日は2人でシンガポールの観光地やダウンタウンを一緒に歩いた。
中国式のお寺に行き、日本の数倍はあると思われる長いお線香に火を付けてお祈りをした。
何をお祈りしたかは忘れた。


日本に帰った時は彼女とコミニュケーションを取るために、会社の寮の部屋にFAX付き電話を購入した。

eメールやネットがまだ一般的ではなく、パソコンも高価な時代。彼女はパソコンは欲しいけど、高くて買えない、と言っていた。

(当然、スマホはまだ世の中に存在しない)

国際電話は時差もあるし、料金が高過ぎる。

そのため、手紙かFAXかに限られたのだ。

ただ、FAXでのコミニュケーションは味気なく、結局、それほどは続かなかった。

シンガポールから日本に帰る時に彼女がくれた中国語のテキスト。
「ちゃんと勉強してね!」と言われた。
だけど、たまに眺めることはあるものの、ひとりで勉強する気にはとてもなれない。
徐々に日本に居る間は日本の生活そのものになっていった。その間、シンガポールのことは忘れるようになった。


知り合いで上海の女性と結婚した人がいた。
彼は日本からシンガポールに遊びに行き、ラウンジでその奥さんとなる人と知り合ったのだそうだ。
そして、2人は結婚。
その途端、上海の彼女の親戚が彼の元に押し寄せたのだそうだ。
当時はまだ日本人が金持ちで中国人は貧乏という構図があった。だから、日本人との結婚が経済的な豊かさへのパスポートだったのだ。
自分も同じなのかな、と思った時期もあったし、彼女の中にもそんな思惑があったのかもしれない。しかし、自分達の場合は、それほど打算的な方向へは進んで行かなかった。


夜な夜なシンガポールの夜の街には飲みにも行ったが、そもそも、シンガポールに遊びに来てたわけではない。赤鬼の方針で海外支店、それも、特にシンガポール支店の管理を強化するという命を受けて、やってきたのだ。


ローカル従業員である、AnnieとTeresa。
何より彼女達とのコミニュケーションには気を遣い、支店内の問題や課題等に関して、彼女達の意見を聞くようにした。
相変わらず英語は下手くそだけれど、AnnieとTeresaもそんな自分の想いは理解してくれているようだった。

ある時、彼女達から支店の会計システムが近い内に使えなくなるという話を聞いた。

(前任者からはそんな話聞いてないけど‥)

とりあえず、本社へレポートした。
本社側としても寝耳に水。
しかし、これまでも、「現地のことは現地で何とかせぇ」、「結果だけレポートして来い」という雰囲気だったため、今回もまた例外ではなかった。

(本社と支店、別の会社みたいだな‥)

そんな悲しい気持ちになった。
一方で、ローカルスタッフからは、何とかして欲しいとせっつかれる。

また、本社側でも、赤鬼に可愛がわれる私を良く思っていない人間も少なからずいたようだ。

話をしても上手く協力が得られない。

最後の砦として赤鬼が居るものの、自分1人で出来る所までは頑張ってみよう、と思った。


知識も経験もない若造。
何をどうして良いのか、さっぱり分からない。
ただ、AnnieやTeresaが困っていることだけは誰よりもわかっている。

(何とかしなきゃ‥。)
(とりあえず、行動してみよう)

ある時、シンガポールにある日本のシステム会社の現地法人へ電話を掛け、アポを取り、ひとりで地下鉄に乗り、話し合いに行った。
今から考えると、めちゃくちゃだ。
システム仕様や要件定義も何も理解しておらず、説明も何出来ないのに、よくそんな事が出来たものだと思う。


初めてシンガポールを訪れてから、1年が経とうとしていた。

大した仕事は出来なかったけれど、自分がシンガポールと日本を行ったり来たりすることで、少なくとも本社と支店の距離は近づいた。

システム変更の件もその1つで、何度か話をして、本社側の専門部隊に対応してもらえるところまで漕ぎ着けた。

赤鬼のお陰で貴重な経験をさせてもらった。
そして、その頃、自分の後任も決まった。

最後のシンガポール出張の日の夜、私の行動の全てを知っている支店長は、

「ちゃんとサヨナラしたのか?」

と言ってくれたが、ちゃんとしたサヨナラは出来なかった。何となくの自然消滅。
本当に色んなことがあった1年。
思い返すと、あれから、とてつもない時間が経った。だけど、当時の事はその時の空気や温度、湿度、匂いまで含めて未だに鮮明に覚えている。人生の楽しい想い出の1ページ。


この後、私は日本に戻り、日本で新たな業務を行うことになった。
台湾との輸出ビジネスの管理だ。

その頃、世の中ではパソコンが徐々に普及し始めた。会社の中でも、1人に1台のパソコンを、という流れが少し出てきたくらいの時期。

そのパソコンは日本メーカーも含めて台湾で作られていた。台湾の新竹科学工業園区。

この工業園区に主だった台湾のOEM製造メーカーが集結していたのだ。


1年後、この新竹科学工業園区へ出張することになる。


(つづく)