666の獣と一念三千

 

 

  わたしの大我論を聞けば、真のJHVHとはあなた自身であることはわかると思う。では、大我論によりあなたは実際にJHVHとしてのあなたとなれるのだろうか。無理である。大我論は、あなた自身がJHVHとなる可能性を示してはいる。しかし、大我論だけでは、JHVHとなることはできないのだ。

 

  あなたが、自分自身であると思っているものを大我論では小我としている。大我の被造物であり大我の一人子と言う位置となるが、小我の真の姿とは、大我を覆い隠す穢れなのだ。そして、この小我こそが聖書で原罪と呼ばれるものに他ならない。要するに、大我を表面に出すためには、この穢れであり原罪である小我を払わなくてはならないのだ。

 

  小我は、現世利益を求める自我と、来世利益を求める自我の二つから成り立っている。このうちの現世利益を求める自我が『利益とは何か』と言う思考から生み出しているのが六道である。つまり、人には『何を自分の益とするのか』の基準が六種類あるということである。大きくは、『他者に勝る』『自己努力』『平等』に分かれる。他者に勝る事を自己利益とすれば、地獄界・餓鬼界・畜生界の三悪道となる。自分自身の努力こそが自己利益とすれば、修羅界となる。他者と同等・他者と同等である事こそが自分の利益とすれば、人界・天界の二正道となる。

 

  皆さま方は、何をあなた自身の利益と考えるのか。それが何にせよ、あなたの考えに同調する人々があなたの周囲に集まり、それが、あなたの社会となる。さらに同調する人々が集まり、それが、あなたの国ともなる。社会には6種の常識があり、あなた自身の常識も6種あり、そして、あなたの思考の動く範囲もこの六種なのだ。この現世利益を求める自我が動く範囲を【666の獣】とも呼ぶ。666の獣と聞くと、やれ悪魔だの、やれサタンだなどと騒ぐが、実際には、現世人を、まず666の獣の範囲にまで導かないと、その先にはすすめない。これが、小我の内の現世利益を求める自我である。

 

  さて、皆さま方は『死』を恐れる。では『死』とは何か。『死』とは、この現世利益を求める自我の喪失である。生きている限り、食事をとらなくてはならない。呼吸もしなくてはならない。排泄も必須である。これらも自己利益を求める行為の一部であり、生きる上では必要不可欠となる。これだけではなく、更に多くを求める。その求める事が『他者に勝りたい』のであれば三悪道となる。自己の内の葛藤であれば、それが修羅界。自分も他者も平等であることを望めばそれが二正道となる。

  では、なぜ、人は生きるだけではなく、これらのものを求めるのか。これが人類の生存理由なのだ。結論から言えば、人の小我が六道の内を巡るということを知るために、人はこのようなものを求めるのだ。

 

  どのような植物も動物も、種としての生存理由があり、その種としての生存理由は個としての生存欲求に勝る。例えば、牛や豚などの動物は、種としての生存理由は種としての存続であり繁栄である。個としての牛や豚は、生まれてしばらくすると肉とされてしまう。しかし、それにより種としては保たれ、種としては繁栄しているのだ。これは、種として繁栄するために、人間を使役しているともいえる。

 

  では人の種としての目的は何なのか。実は、JHVHとなること、仏となることである。種としての目的がここにあるから、聖書もコーランも仏典も聖典として伝わるのだ。最終的にはここに行くのだが、最初の段階として生きているだけでは満足できないという、人類特有の性質が与えられている。

  満足できないから、他の者に勝ろうとする。他の者に勝れば満足できるのではないかと思うからである。これが三悪道なのだ。ところが、いくら他人に勝っても、人は満足などできない。このため、自己の内に満足できる要素を探そうとする。これが修羅界である。少しは満足できるが、それでも何かが違う。ここで、他者と同等でよいとすると、更に満足できるようになる。追い詰められなくなるからである。このように思考が変遷することにより、六道というものを知るようになる。

 

  わたしがこのような話をすると、あなたは声聞に至る。声聞に至るとさらに満足するようになる。実は、声聞に至らないと、666の獣が分からないのだ。人は声聞より先に至って、ようやく、666の獣が何なのかが分かるようになるのだ。

 

  仏教用語に、一念三千と言う言葉がある。天台の説によれば、『十界互具で百界、十如是で千となり、三世間で三千となる』としているが、わたしにはこれはわからない。『十如是は人の思考の動く範囲ではないだろ???・・・どうして、こんなものを三千の内に含めるのかわからん』となる。

  確かに、仏教の経典に順ずれば、天台の説は優れた説とはなる。これゆえ、日蓮如来も天台の説を引用して語っておられる。これは、『仏教の経典が正確ならば』と言う条件付きである。では、漢文で記された経典はどのようになっているのか。例えば観無量寿経と言う経典がある。この経典は最初の内は、段々深淵に向かっているのだが、途中からいきなり教義が浅くなり、また深くなっていく。これは、最初に論理を語り、その論理を受けた者がそれを自己の内へと移すと言う意味なのだが、経典にはこのことが記されていない。これは、転記者もしくは翻訳者が理解できなかったということを意味する。また、涅槃経には菩薩の説明がしてあるのだが、翻訳者が意味をつかめなかったようであり、この部分の内容はぐちゃぐちゃになっている。これらはまだましで、法華三部経には、仏説観普賢菩薩行法経と呼ばれる経典がある。この経典となると、何を言っているのかさっぱり分からなくなる。これは、翻訳者が内容を理解せずに言葉を訳したからである。このように、仏教の経典にはかなり意味不明なものがある。この理由は簡単で、これらは『空』から語っているのに、翻訳者が『空』が分からないので、言葉を訳したからである。

  わたしのように聖書やコーランなどの別経典があれば、『これのここが間違っている』と指摘できる。しかし、たとえ『空』を知っていたとしても、仏典しかない日蓮如来は、これを覆す事はできない。このため、日蓮如来は言葉で覆すのではなく、自らの行動で覆されたのだ。

 

  わたしは、この天台の説を覆す。わたしが、このような事を行えるのは、文証として、法華経に『他仏が現れれば、これについて詳しく教えてくださるであろう』と予言されているからである。これは一念三千(十界)に関して解き明かす仏の出現の予言である。

  わたしは、多宝と言う如来名も持っている。多宝は次仏ではなく、古仏なのだ。この法華経の予言を受ける者として十分な資格があるのではなかろうか。

理証としては、先に記した通り、『十如是は念にあらず』と言う道理である。

 

  わたしの説はこうである。一念三千、すなわち、法華経にいう三千大千世界の内訳は、理論的に存在する社会常識が十種類。個人の常識が十種類。そして、人の心のうごく範囲が十種類。これらが、すべての人の念の要素となる。そして、思考の基となる基準が三世間で、三千となる。

 

  では、実際に人の思考はこの三千の内を動けるのだろうか。無理である。人の思考が動ける範囲は、最大で6・6・6の範囲でしかない。三世間とは、五陰世間・衆生世間・国土世間という三種類の物事の捉え方である。すべてを自己の内と捉えるのが五陰世間なのだが、もしこの捉え方が分かれば、一神教も多神教も同じと言うことが分かる。現実には、一神教と多神教は別と人々捉えている。これは、この五陰世間と言う考え方はわからないという事を示す。現実世界は、悪魔や天使も幽霊などの眼に見えないものも存在する大きな世界の一部であるという捉え方が国土世間と呼ばれる捉え方である。これも、今の人は否定する。否定するのならば、火と硫黄の燃える地獄など存在しないとなるのだから、入ってしまえばよいのに、どういうわけかこれは恐れるという矛盾はあるのだが、それでも否定するのだ。ここにあるのが宗教と呼ばれるもので、政教分離とは、国土世間を否定するという意味となる。結局、残るのは、現実と呼ばれる衆生世間と呼ばれる捉え方のみである。

 

  この三千と言う数は仏やJHVHの心の動く範囲である。普通の人は三世間の捉え方もできなければ、666の範囲までも思考は巡らない。ロシアのプーチンや中国の習近平などとなると、2*2*6で、合計24種類の思考しかできない。三千分の24でしかないのだ。

  西洋哲学の範囲は、4*4*6で、合計96種類となる。それでも三千分の96でしかない。この範囲を教育と称して教えているのが現状なのだ。

  では、今のあなたはどの程度の範囲なのか。おそらく、7*7*7*3の範囲となるのではなかろうか。すると千を少し超えた範囲となる。

 

  この数字の意味は、理解可能な範囲を示す。人は全てを自分が理解できる範囲で捉えようとする。理解できない範囲は虚偽、空想、精神障害などとして否定しようとするのだ。『すべてはあり、すべてはない』これが空である。『すべては、この三千の条件付けにより、有ともなれば無ともなる』と言えば、多少は空が分かるのではなかろうか。

 

 

 

これからのこと

 

 

  最近、面白い話を聞いた。アメリカの大統領が認知症で、次期大統領選挙へ出馬するかどうかと言う話となり、『神が現れ、止めろと言われるなら止める』と、語ったという。まぁ、わたしに言わせれば、

 

『アメリカ大統領程度の小物が誰であっても構わない。

 大した力もないくせに思いあがるな!!!』

 

と言うことになるのだが、彼にとっての神はわたしではないようなので、無視しておこう。わたしとしては、『彼が語る神とやらと手合わせ願いたいものだ』となるのだが、どうせ誰も現れない。

 

  昨今、日本ブームとなり、世界中から観光客が日本に押し寄せているようである。その上、円安となり、更に日本を訪れやすくなっているようである。まぁ、わたしはその観光客が嫌だから、原発事故で、あまり観光客が訪れない福島県に引っ越したのだが・・・・

 

  では、本当にブームとなっているのか。ブームとなっているのならば、誰がそのブームをけん引しているのか。その思惑は一体何なのか。これらは重要である。

 

  さて、アメリカのディープステイトは、今は、わたしの軍門に下っている。彼らがわたしの人軍となっているのだ。わたしは人軍がどこまで広がっているのかはわからない。アメリカのロックフェラーだけなのか、ロスチャイルドも加わっているのかは正確には知らない。しかし、ロスチャイルドがわたしに反旗を翻す様子はないので、おそらく彼らもわたしの人軍に加わっているのだろう。

  彼らは自由自在に世界を動かす。例えば、ソ連や中共を創ったのは彼らである。日本を戦争に巻き込み、敗戦にまで追い込んだのも彼らである。彼らに対抗しようとしたのがナチスドイツである。このため、ナチスドイツは極悪のレッテルをはられ、世の中から駆逐されたのだ。

  当然のごとく、わたしにも挑みかかってきた。わたしは彼らの許に、最弱部隊を送ったのだ。人の最強軍団と、わたしの最弱軍団が争ったのだが、人の軍団は、わたしの最弱軍団には勝てなかった。3日で勝敗は決し、彼らはわたしの軍門に下ったのだ。

 

  わたしの軍とは言うが、わたしの軍は人の軍隊とはかなり違っている。人の軍隊は指揮官の命令に従うが、わたしの軍隊は指揮官に襲い掛かってくるのだ。JHVHとはJHVH軍の指揮官の名前である。このためJHVHと名乗ろうとすると、それだけで、神々の軍勢、悪魔の軍勢、天使の軍勢、魑魅魍魎や幽霊の軍勢の総攻撃を受ける。

わたしは反撃しない。わたしが下手に反撃すると彼らが消滅してしまうからである。ただ、この程度のものであれば一喝すれば退ける事が出来る。彼らは退けられることにより、わたしがJHVHであることを認め、わたしの軍門に降るのだ。

 

  わたしは従うべき基準、すなわち法を示す。そして、わたしの軍勢はその法に従って動く。わたしは軍勢の個々の動きまでは把握していない。報告せよと語れば報告してくるはずだが、面倒くさいし、任せておいて間違いはなかろう。

 

  さて、わたしが示す法には段階がある。最終的には人をJHVHの位置にまで引き上げたいのだが、物事は簡単には運ばないのだ。

 

第一段階  三悪道しか知らない者たちに六道を教える。

 

第二段階  六道を知った者たちを声聞界に導く。

 

第三段階  菩薩界を教え、人々を菩薩界に導く。

 

第四段階  菩薩界にある者たちを仏界に導く。

 

  理論上は、最初から第三段階に導くことは可能である。このために、ヨハネの黙示録を示したのだ。しかし、人々は裁きの地獄を恐れ、ヨハネの黙示録を信じた者は誰もいなかった。このため、わたしは第一段階と第二段階を追加したのだ。これは、【裁きの地獄の真の意味を知れば、実際に菩薩となる者が現れるのではないのか】と言う意味である。この論理を説明するためには、まず、六道、声聞、縁覚があることを教え、六道、声聞、縁覚では、菩薩に至れないことを、筋道を立てて教える必要があるのだ。この筋道を立てて教える段階として、第一段階、第二段階があるという意味である。

 

  わたしがこのように段階を定め、このわたしの指示に従って私の軍勢が実際に動くというわけである。つまり、今は、第一段階『まず、人界を知らない者たちに人界があることを教えよ。そして、三悪道よりも人界の方が優れていると認識させよ。』と言う指示となる。

 

  では、このように実際に世界全体を動かす事が出来るのは誰か。人間では、人社会の王、ディープステイトである。日本政府もアメリカ政府もヨーロッパの国々も、ディープステイトの指示、誘導には逆らえない。そのディープステイトが、もし、わたしの思惑を無視したりすれば、わたしの軍勢の本体がディープステイトに襲い掛かることになる。このため、ディープステイトはわたしの思惑に従って動くはずなのだ。

 

  つまり、現実社会は今『まず、人界を知らない者たちに人界があることを教えよ。そして、三悪道よりも人界の方が優れていると認識させよ。』と言う指示に従って、動いているはずである。

 

 

 

  さて、現実問題として、人界社会となっているのは日本だけである。そして、日本人は基本的に人界を常識として行動する。日本以外の国は、アメリカもヨーロッパも中国・韓国も、アジア諸国も、アフリカ諸国も三悪道しか知らない。このため、人界思考を世界に認識させるためには、キーポイントが日本と言うことになる。

 

  日本は諸外国と比較して異質な国である。この異質さを脅威とするのか、それとも、讃嘆すべきものとするのかが、最初の分岐点となる。今までは、排除に動いていた。アメリカも、中国も、韓国も反日キャンペーンを行ってきたのだ。この反日を主導してきたのがディープステイトだった。これはなぜか。ディープステイトには人界が理解できなかった。理解できないゆえに悪として排除しようとしてきたのだ。

 

  ディープステイトは、わたしに負けて六道と言うものがあることを知り受け入れた。そして、六道の先に声聞があることも知り、人類自体の未来がそこにあることも知ったのだ。これゆえ、日本の扱いが完全に変わった。日本文化が排除すべきものから、世界が目指すものへと変わったのだ。

 

  人は、ウクライナ戦争とか、ハマス紛争とか、中国の動きとか、気候変動とかが世界の重要事項であると考えるであろう。しかし、本当に重要なのは、日本に対する扱いが180度変わったことなのだ。正確に言えば、ディープステイトも日本文化は異質だが悪いものではないのではないかと思っていたようだ。ただ、意味が分からなった。意味が分からないから推奨してよいのかどうかからず、推奨するにしてもどのようにしたらよいのかわからなったらしい。そこに、わたしが意味を教えたので、推奨に一気に傾いたという事のようだ。

 

  さて、これが意味するのは何か。日本ブームは一時的なブームでは終わらないということを示す。これは50年かかるのか100年かかるのか、200年かかるのかはわからない。しかし、世界の主要な国々が日本のように変化していくことを示すのだ。つまり、世界中が人界を常識とするようになっていく。今は、この初期段階と言う事なのだ。

 

  この初期段階として、日本観光が重要となる。『百聞は一見に如かず』であり、実際に経験しないと分からないからである。円安も、このための施策の一環と言う意味ではなかろうか。諸外国から観光で訪れやすくなるが、日本の人界社会は崩壊しない、崩壊させないという施策となるはずである。

 

  多くの人びとは、重要なのはウクライナ戦争であり、中国の動きであり、アメリカやヨーロッパの施策などであると考えているであろう。しかし、今の全世界のメインの柱は、ここにある。

 

  ここにメインの柱がある事が分かると、ウクライナ戦争の勝敗も自然と分かる。ロシアは餓鬼界思考を改めない。もし、餓鬼界思考を改めるならば、ウクライナから軍を引くはずである。ではウクライナはどうか。ウクライナも元々は餓鬼界思考の国であった。もしウクライナが餓鬼界思考のままであればウクライナ戦争はロシアの方が有利である。ロシアが完全勝利を得ようとすれば、ウクライナを地獄界思考に堕せばよい。怒らせて、何が何でも殺してやるとウクライナの人びとが考えるように持っていけばロシアの完全勝利が確定するのだ。だから、ロシアは大虐殺も行うし、小児病院に爆撃を行うのだ。しかし、ウクライナが畜生界思考となればウクライナ有利となり、もしウクライナが人界思考をするようになれば、ロシアは崩壊する。

 

  中国はどうなるのか。中国の基本も餓鬼界思考である。中国共産党が一方的に人々に命じ、人民はそれを守る限りにおいて自由となる。それが良くないと思えば、中国共産党はすぐに法を変え、その変えた法によって人民を縛るのだ。昨日の法と今日の法が異なることなど日常茶飯事となる。これを諸外国に対しても行うのが中国と言う国なのだ。

  今、中国はいろいろなことをやっては行き詰まっている。その行き詰まりの根本はどこにあるのか。『世界の覇権を取ろう』と言う事をメインの政策にするから行き詰まるのだ。これを政策の根本とする限り、どんどん行き詰まり、やがて崩壊してしまう。覇権と言う考え方が餓鬼界思考の王を示す。覇権を取るとは全世界を餓鬼界思考とするという意味である。自国が同じ位置にあれば、自国を有利に持っていくことなどできない。このため、覇権を取るためには、自国の位置を畜生界以上にもっていかなくてはならない。例えば、今の覇権国はアメリカである。真のアメリカは、修羅界思考をしている。中心部を修羅界で固め、国内を畜生界にすることにより世界の覇権を確立しているのだ。覇権国であるから、諸外国に対しては一方的に命じ、自分の政策を押し付けるのだが、それは見た目だけであり、根本ではない。

  このアメリカから覇権を取ることなど簡単である。基本政策を修羅界に勝るものとすればよい。人界を基本政策にすればよいのだ。つまり、『他人に迷惑をかけるな。他人も自分と同じであると考えよ』を国内政策の中心に据え、共産党内は天界思考、または、声聞界を中心に持っていけば簡単に覇権など手に入る。ただ、その場合、『覇権』と言う言葉が適切とはならないであろう。では、これが習近平に可能であろうか。共産党幹部に可能であろうか。おそらく不可能であろう。これは、習近平に人界思考が理解できるのか、共産党幹部に人界思考が理解できるのかと言う問題である。そこまで彼らの頭は良くないであろう。まぁ、絶対とは言わないが、おそらく中国共産党は近いうちに崩壊する。

 

 

  このように、人々を人界・天界思考と言うものがあると教える段階の次に、人々を声聞に導くという段階となるのだが、実は、指導者は先に声聞に至っていないと、人々を人界・天界に導くことはできないのだ。

 

  実は、人を声聞に導くことは簡単である。この六道の考え方を知りさえすれば、その知った位置が声聞なのだ。今の人にとって、人界を知ることの方がむずかしいかもしれない。声聞は神の説法を聞くだけで可能であり、仏の説法を聞くだけで可能なのだ。現に、あなた方も簡単にわかるであろう。

  これはわたしが語るから可能なのである。このように人を瞬時に声聞の段階まで引き上げる事が出来るので、全知全能とも呼ばれるのだ。ディープステイトは、この話を聞き、声聞となった。声聞となったゆえに、世界人類を上の位置に導くことが可能となった。これが、わたしが彼らを打ち負かした意味であり、わたしは彼らを、彼らが知らなかった位置にまで導いたのだ。

 

  あなたも同じである。あなたはこれを知るゆえに声聞となっているのだ。人は神を信じると語る。しかし、わたしは信じよとは言わない。なぜならば、これらの話はあなたが信じようが、信じなかろうが真実だからである。あなたが否定しても、地上のりんごは木から落ちる。これと同じである。

 

  ただ問題は、三悪道しか知らないものにとって、人界・天界は異質であり理解不能となることなのだ。言葉でわかっても、実際に分からないと、六道を教える意味がなくなる。だから、しつこく人界を説明し、人界に至れと語っているのだ。

 

 

今までの経緯

 

 

  わたしは、今まで多くのことを語ってきた。創造主としてのあなたをあなたの大我、あなたの大我が自分の分身としてこの世に送り出したあなた自身をあなたの小我として語り、小我としてのあなたに大我に至れと語ってきたのだ。これが、仮の法華経である。なぜ、このような仮の法華経を説いてきたのか。

 

  本当は強引にでも菩薩界に導いてしまえばよいのだ。しかし、菩薩界に導くためには、永遠の裁きの地獄に自ら堕ちるように持っていかなくてはならない。これが本当に可能ならば、ヨハネの黙示録があるのだから、実際に聖書で火と硫黄の燃える地獄に次々と自ら入る者が現れるはずである。しかし、現実はどうか。『この教えを信じれば火と硫黄の燃える地獄を免れる事が出来る。』『火と硫黄の燃える地獄を免れたいのならばこれを信じよ。』『火と硫黄の燃える地獄を免れるためには自分の財産を寄進せよ。』などと言う教えばかり。

 

  口先では『イエス・キリストを信じよ』『アッラーを信じよ』などと語る。そして、いかにも信じているようなことは言う。また、権威があるかのように振る舞いはする。しかし、信じるとは口先ばかり。『イエスを信じる』とは語っても、福音の言葉を守らない者たちばかり。『アッラーを信じる』とは語っても、コーランの言葉を守らない者たちばかり。結局、信じる事など誰もできなかった。

  わたしは、千年と言う時を待ったのだ。千年と言う時をかけても実際に信じる者など一人も現れなかった。これが現実である。所詮、無理であった。無理なものは無理でしかなかった。わたしが、ここで、再びこのように語っても、所詮、無理なのだ。

 

  無理ならば、次善策を講ずるしかない。次善策となり得るのは声聞界への導きと言うことになる。声聞界に導くには、人の心の動く範囲を六道として俯瞰する位置に導けばよい。だが、ここに一つ大問題がある。現実問題として、六道自体が理解不能となっているのだ。

 

 

  六道の内の、地獄界・餓鬼界・畜生界はかろうじて理解の内に入っているようだ。と、言ってもロシアのプーチンも中国の習近平も畜生界思考が理解できていない。あらかじめ法を定め、そのあらかじめ定められた法の範囲で自由は保障されるというのが畜生界思考である。畜生界思考をすれば、自分が批准した法に違反するはずはない。法に違反して他国に攻め込むことなどあるはずはない。これが、畜生界思考なのだ。

 

  ではプーチンや習近平はどのように考えているのか。法を定める者と、法を守る者は別と考えているのだ。『法を定める者は王であり、一方的に法を定めそれを奴隷たちに守らせなくてはならない』と考える。つまり、プーチンは、ロシアは王、ウクライナは奴隷と考える。そして、奴隷であるウクライナが王であるロシアに逆らったのだから、罰を加えなくてはならないということとなり、ロシアはウクライナに攻め込んだのだ。習近平も同じである。王である中国が、奴隷である周辺諸国を従えるのは同然であると考える。だから、周辺国に対しても人民に対しても威圧的な態度に出るのだ。このように、常にどちらが上なのかと考え、自分が上となれば、強引に下のものたちに言うことを聞かせなければならない。と言うのが餓鬼界思考である。

 

  餓鬼界思考をする者たちは、他の者も同じ餓鬼界思考をすると考える。餓鬼界思考で国際情勢そのものも判断するのだ。彼らにとって、畜生界の常識すらも理解できない。理解できないから、すべてが餓鬼界思考をしていると考える。

  すなわち、プーチンは『アメリカと言う王が、アメリカの奴隷の国々に言うことを聞かせている』と考える。『アメリカと言う王国がウクライナというロシアの奴隷国家を奪いに来た』と考える。だから『防衛しなくてはならない』となる。これが、ウクライナ戦争は防衛戦なのだと彼が語る理由であり、プーチンにとって、国際法を守るという法治主義、すなわち畜生界思考は理解の外にある。

 

  習近平は、一帯一路構想で、アメリカと言う国の奴隷国家を中国のものとしようとした。自分の主権の及ぶ範囲を拡大しようとしたのだ。アメリカの締め付けはさほど厳しくないのだから、少し条件を緩めればアメリカの奴隷ではなく中国の奴隷となる国も出てくるはずであると考えたのだ。一旦中国の奴隷となれば、今度は締め付けて離れないようにしなくてはならない。このようにすることにより、アメリカから世界の主権を奪おうとしたのだ。

 

  では、アメリカはどうか。アメリカもロシアや中国と同じである。覇権国とは言うが、アメリカが王であり、アメリカに従う国々をアメリカの奴隷国家と言う扱いをする。アメリカに言いなりにならないと経済的に締め付け、軍事で脅す。この意味では、ロシアや中国と何も変わらない。

  しかし、アメリカの支配者はこのような考え方をしていない。支配者とは、大統領でもなく官僚でもない。ディープステイトと呼ばれる者たちが実質的にアメリカを支配しており、彼らが修羅界思考をしているのだ。ロシアの支配者、中国の支配者は餓鬼界思考をしている。餓鬼界と修羅界には二つの差があり、ロシアや中国では全く太刀打ちできないのだ。そればかりではない。ロシアや中国が共産主義国家となったのは、ディープステイトの思惑である。ディープステイトがより良い未来を創ろうとして創り出した国家がソ連であった。彼らにとって、アメリカが覇権国である必要などどこにもない。それが、ロシアでも中国でも構わないのだ。

  このように、基本的な常識に二つ以上の差があれば、下の常識を持つ者たちでは上の常識を持つ者たちに太刀打ちできなくなる。このように六道は、そのまま力の差ともなる。

 

  分かると思うが、六道とは言っても、現状は下から二番目の餓鬼界か、下から三番目の畜生界止まり。畜生界とは言うが、実際には畜生界思考すらも怪しい国々ばかりである。六道の修羅界・人界・天界は政策の内にも入っていない。つまり、六道自体が理解不能なのだ。

 

  菩薩界への導きならば地獄界の衆生であっても、餓鬼界の衆生であっても構わない。菩薩界となれば、『わたしは裁きの地獄に堕ちる選択をしたゆえに、他の者たちに勝る』となるからであり、『裁きの地獄を恐れる臆病者どもはひれ伏せ』とやっても何の問題もない。

 

  しかし、声聞界への導きには制限がある。声聞界へ導くことができるのは、人界・天界の住人に限られる。正確に言えば、少なくとも人界の常識が理解できる人でないと、声聞界への導きができないのだ。これは、導く先が声聞だと、『誰でもこれを知れば声聞に至る』とはならないからである。なぜならば、三悪道の人々は、この話を聞くと『私はこれを知るゆえに正しい、優れている』と思考することとなる。そして、『正しい我々が良果を得るべきであり、このようにならないのは世の中が悪い』となっていく。

  だから、三悪道しか知らない人々には、まず、人界・天界を教える必要があるのだ。そして『三悪道・四悪道は劣であり、人界天界の二正道が優である』と言う事をしっかり教え、しっかり覚えさせなくてはならない。こうしないと、彼らは思考の根本を三悪道に置いたまま、三悪道思考から物事を判断する。つまり、『我々はこれを知るので優れている。優れている我々が他の者と同じなどと言うことはあり得ない』となってしまう。

 

  キリスト教は何をしてきたのか。『我々はイエス・キリストを信じるので優れている。優れている我々が他の者と同じなどと言うことはあり得ない』と、全世界を征服してきたではないか。そこにあったのは、虐殺、略奪、阿鼻叫喚。

 

  イスラム教は何をしてきたのか。『我々はコーランに記されているムスリムなので優れている。優れている我々が他の者と同じなどと言うことはあり得ない』と、世界征服を試みてきたではないか。そこにあるのも虐殺、略奪、阿鼻叫喚。

 

  このように、残念な事に、今のほとんどの教えがこの段階、つまり、三悪道思考に留まる。キリスト教はカトリックもプロテスタントも三悪道思考であり、イスラム教も三悪道思考でしかない。儒教も三悪道思考であり、西洋哲学も三悪道思考の内をさまよう。

  今日の教育の根本は西洋哲学である。西洋哲学から唯物論が生まれ、それが理系と呼ばれる学問体系となり、西洋哲学から唯心論が生まれ、それが文系と呼ばれる学問体系となっているのだ。根本の西洋哲学自体が三悪道思考に留まるので、現代の教育も三悪道の内に留まるしかなくなる。

 

  三悪道思考とは優劣思考である。三悪道では『何が正しく、何が間違っているのか』『何が優れており、何が劣っているのか』と判定しようとする。人の思考でこのように判定するならば、それが三悪道と言うことになる。三悪道しか知らない者は、平等思考が理解できない。自分と他人が同等であるという考え方そのものが理解不能となるのだ。そして、このように考える。『自分と他人が同等であると言う考え方は間違っている。優劣は必然であり、何によって優劣を定めるのかが重要である』と。

 

  例えば、三悪道思考しか知らない者は、宗教そのものも優劣判定の材料にしてしまう。『我々は、これを信じるゆえに正しく、これを信じない者たちは劣っている』とするのだ。だから、キリスト教もイスラム教もこのような行動となる。このようになることが分かっていたので、わたしはヨハネの黙示録を与えたのだ。ヨハネの黙示録により導く先は菩薩界である。菩薩界への導きだと、『裁きの地獄に堕ちる選択する我々は正しく、裁きの地獄を恐れ、裁きの地獄から逃げ惑う者たちは劣る』となる。正しいとする以上、裁きの地獄に至るしかないので、三悪道しか知らない者たちであっても菩薩界へは導けるからである。

 

  ところが、導く対象が声聞界だと、『これを知る我々は正しく、これを知らない者たちは間違っている』と、三悪道思考により、自分を正、他を邪とするための判定材料の一つとしてしまうのだ。

 

  現実に、三悪道思考しか知らない者たちは、『菩薩』すらも自分たちは正しく、他の者は間違っているとするための材料としてしまっている。『自分たちは菩薩であり正しい』とするのだ。この代表格がイスラム教である。イスラム教は『自分たちはムスリム(菩薩)であり正しい』というところから論を構えているのだが、『ムスリムの指名権はアッラーの神権であり、アッラーの神権違反は永遠の裁きの地獄に堕とされる』となっているのがコーランである。

  また、仏教を標榜するものたちの中にも『我々は菩薩であり正しく、誤った他の者たちを導かなければならない』とするところもある。この代表格が創価学会である。確かに、彼らが菩薩であれば、このように語っても何の問題もない。しかし、代表者であった池田大作の著書を見れば、菩薩ではないことなど丸わかりである。菩薩と自称する偽菩薩たちが、他の者たちを菩薩界に誘導できるはずはない。

  彼らの何が問題なのか。菩薩、ムスリムと口先では語る。しかし、彼らには菩薩とは何なのか、ムスリムとは何なのかが理解できないのだ。理解するとは有とすると言い換えることができるが、六道の有は、無から生じた有である。菩薩・ムスリムの有は『空』から生じた有である。この『空』を言葉であらわせば、『有であるが無でもある。命であるが命でなく、生きているが死んでもいる。全知ではあるが無知であり、全能であるが無能でもある』などの表現となる。

  実際に菩薩、ムスリムとなれば、この『空』が実感としてわかるのだ。しかし、菩薩、ムスリムとならなければ、これは誰にも分らない。説明のしようがないのだ。だから、もし、わたしが彼らを導くのならば、有無を言わさず全員を無間地獄に叩き込む。このようにしないと真の菩薩とはならないからである。真の菩薩にさえしてしまえば、後は任せておけばよい。このように、イスラム教徒も創価学会も、菩薩ではないのに、菩薩と自称する事が問題なのだ。偽物は本物にしてしまえば何の問題もなくなる。

 

  なぜ、コーランをあのような者たちに授けたのか。三悪道しか知らないものたちでも、火と硫黄の燃える地獄の洗礼を受ければ菩薩(ムスリム)となれるのだから、あのような三悪道の中でも地獄界、良くても餓鬼界という者たちにコーランを授けたのだ。まぁ、火獄に一番近い者たちだから、恐れずに飛び込むのではないかと少し期待した。しかし、結局、誰も飛び込まなかった。真のムスリムは一人として生まれなかった。

 

  創価学会は日本の常識が転倒したゆえに生まれた組織である。日本では江戸時代、人界を主とした国となっていた。そこに、三悪道思考が欧米からもたらされた。人々は、人界は時代遅れの劣った常識であり、三悪道こそが最新の優れた常識であると勘違いしてしまったのだ。この勘違いをさせた代表者が福沢諭吉である。この勘違いは今も続いている。日本の政策は、旧来の人界の常識に沿うべきか、欧米の常識に沿うべきかが対立点となる。この欧米の常識側に大学などの学術会議があり、旧来側に人々の常識があるのだ。

  欧米思考は三悪道思考である。このため欧米側にある日本学術会議などは自分たちを優とし、旧来思考を劣と思考することとなる。人界思考では、優劣の判定はしない。人の間に優劣も正邪も設けない。人と人の間にあるのは違いであり優劣でも正邪でもない。これが人界思考である。このため、日本では優秀とされる者が三悪道思考、劣るとされる者が人界思考と言うことになった。これが西洋哲学を根本とした教育の成果であり、根本的な害悪である。つまり、人界思考は残っているのだが、三悪道の下と言う位置に置かれる事となったのだ。これが日本と言う国の公式見解と呼ばれるものである。

  この見解に沿うと、アメリカや中国や韓国は正しく、日本は間違った国と言うことになる。間違っている日本は謝罪し続けなればならないということになる。法に従う限り我欲を全開にすることが正しく、他人に迷惑をかけないことは間違っているということになる。

  法に従い我欲を全開にするのは正しいとする法治主義は畜生界思考。これに対して、他人に迷惑をかけない限り自由である、他者を尊重する限り自由であるとするのは人界思考。

  どちらが簡単でどちらがむずかしいのか。法を学び尽くし、法の抜け穴を探し、その抜け穴を使って我欲を叶える行為こそが正しいとするのが畜生界思考の法治主義である。要するに訴訟となった時に負けなければそれが正しいのだ。人界思考にあるのは他者を尊重する、他人に迷惑をかけない、これだけである。人々は譲り合い、自然発生的に法も生まれ、その法を人々は遵守する。

  日本の官僚などの上層部とされる者たちは畜生界思考こそが正しい、人界思考は劣っているとする。日本の庶民は、人界思考こそが正しいとし、畜生界思考はあってはならない考え方であるとする。普通に考えると人界一択となるのだが、これを逆転させなくてはならない。

  これを逆転させる論理がないと敗戦でアメリカに『このようにしろ』と言われても、人々は納得できない。そこで、国際社会への協調、平和というものを上位に据えたのだ。これが創価学会である。要するに、国際社会を人界に勝る天界の社会に見せかけた。天界の虚城を創りだし、その虚城に従えとしたのだ。

  当然の事ながら、畜生界思考すらわからない餓鬼界思考の国である中国や韓国が天界の国であるはずはない。かろうじて畜生界思考に至っているアメリカや欧州が天界の国であるはずはない。法治主義などと言っている国際社会が天界であるはずはない。しかし、敗戦国である日本がとれる論理はこのようなものでしかなかった。

 

  上位の常識を持つ国と下位の常識を持つ国が争えば、上位の常識を持つ国が勝利する。もし、この差が二つ以上あれば実際の戦争となる前に、下位の常識を持つ国が乱れ、最悪の場合は崩壊してしまうのだ。つまり、もし日本が人界思考のままであり、その日本が畜生界のアメリカと争えば、勝利するのは日本となる。実際、江戸時代、アメリカは日本を植民地にしようとした。これゆえ南北戦争が起き、アメリカ自体が乱れた。では、なぜ、日本は戦争に負けたのか。江戸時代の人界思考よりも欧米の餓鬼界・畜生界思考の方が正しいとしたからである。

 

  福沢諭吉の論理は、人界よりも三悪道の方が正しいとするものであった。これに人びとが賛同した。また、人々が賛同するように朝日新聞などのマスコミが煽ったのだ。この結果、日本は人界の常識を捨て、まず、修羅界に移行した。そして、次に、大日本帝国憲法を中心とする法治主義に移行していった。法治主義とは畜生界の常識そのものである。あとは坂道を転げ落ちるように餓鬼界思考となり、ついには鬼畜米英などと言う地獄界にまで堕ちていったのだ。

 

  常識が下がれば、餓鬼界の国にも勝てなくなる。指導者が地獄界思考で勝てるはずはないのだ。

 

  つまり、日本敗戦の最大の立役者が福沢諭吉であり、補助役が朝日新聞のなどのマスコミなのだ。これは十界論に基づく、わたしJHVHの意見である。わたしは論拠を示し、これを公開している。しかし、慶應義塾の者たちも朝日新聞も誰も反論すらしてこない。まぁ、わたしの意見など封殺すればよいと考えているようだが、わたしの言う通りであれば、彼らは未来永劫の恥をさらす事となる。彼らの思惑が勝てば人類は滅びる事となる。

 

  この世の中には日本と言う国がある。その日本と言う国では敗戦の最大の立役者、つまり、日本を敗戦に導いた福沢諭吉を一万円札にするほどの聖人と崇め、もう一つの立役者である朝日新聞などに対しては『これは正しい』として消費税を減額する始末。こんなことをしていて国が栄えるはずはなかろう。まぁ、誰が立役者なのかと分析してもあまり意味はない。『人々が人界思考よりも三悪道を正しいと勘違いした』ここに最大の過ちがある。そして、未だ、この過ちを認めようともしない。

 

  創価学会の論理を十界論で語れば『世界は正しく日本は間違っている。なぜならば世界は天界を常識としているのに、日本は人界止まりだからである』と言うものである。もっとも、これで法華経と言うのだから溜息をつくしかないのだが、菩薩界に人びとを導けない以上、導く先は声聞界しかない。声聞界に人びとを導くためには六道をしっかり教える必要がある。そのために天界思考が必要となると言われれば、確かにその通りとなる。方便ではあるが、間違いとして切り捨てるほどのものでもない。

 

  何が間違っているのか。世界は天界思考ではないのだ。中国や朝鮮などは、餓鬼界思考しか知らない。彼らには、法治主義と言う畜生界思考すら理解できないのだ。これはロシアも同じである。アメリカは確かに法治主義の国ではある。イギリスもフランスもドイツも法治主義であり畜生界の国である。しかし、国際資本、すなわちディープステイトと呼ばれる者たちの思考にも及ばない。ディープステイトたちはユダヤ人たちであり、ユダヤ思考とは修羅界思考なのだ。だから、簡単に彼らに社会の実権を握られる。ただ、ここまでは西洋哲学の範囲ではある。つまり、今日、教育と称して教えているものも、このユダヤ人の範囲までは理解の内に入っている。ただ、ここまでである。

  六道の内の人界・天界は彼らの理解の内に入らない。これを端的に示す例がある。今日の西洋哲学の第一人者とされる者に、ボン大学のガブリエル教授と言う者がいる。彼には日本社会が理解できなかったのだ。日本は上層部とされる教育界も、行政界も、政界も、司法界も、皆、三悪道である。これに対して、日本社会そのものは人界社会なのだ。これを聖書的に言えば、【大勢のキリストが集まり日本社会をつくった。これを三悪道しか知らないアメリカ帝国が牛耳ろうとした。アメリカは日本に迫害に次ぐ迫害を加えた。そして、一時的には三悪道でキリストの国を支配した。しかし、キリストは真の王であるから、やがてアメリカ帝国をも手中に収めた】と言うことになる。西洋哲学の第一人者ですら、キリストの思考にまでは及ばない。しかし、日本では三歳児ですらキリストの思考を身につけている。これが日本と世界の実情である。

 

  人は先に思考があり、その思考を実際の形とする。この形となったものが現実と呼ばれる社会である。例えば、日本では、幼稚園で人界思考を学ぶ。そして小学校では基本的な読み書きを学ぶ。これが中学、高校となると、西洋哲学が形となった優劣思考・正邪思考を中心とものとなる。高等教育とされるものほど十界論では低レベルのものとなるのだ。大学となるとさらに悲惨である。西洋哲学から生まれた唯物論や唯心論が中心となり、それを教えるというのだから、学ぶよりも遊んでいた方がましというような状態となる。これは西洋哲学を根本とするからである。

  では、西洋哲学とはどのようなものなのか。『人は三悪道にあるのが当たり前であり根本的に犯罪者なのだ。だから、実際の犯罪とならないように教育により規制しなくてはならない。』これが根本的な考え方なのだ。要するに三悪道から逃れる方法を探しているのに見つからないという段階なのだが、日本ではこの程度のものであれば幼稚園で覚える。

  西洋社会は、三悪道から逃れようと、三悪道の内をさまよう。このさまよいが教育と呼ばれるものとなっている。三悪道では、『物事には正邪・優劣があるのは当たり前であり、何を正とし、何を邪と定めるのか』と思考する。これに対して人界では、『他者に迷惑をかけないこれが正、他者のことを思いやらないこれが邪』となる。

 

  今日の教育は、西洋哲学から派生したものを正しいとし、それ以外のものは間違っているとする三悪道思考そのものを教育と称して子供たちに教えているのだ。このため、『人と人の間に優劣がある。物事には正邪がある』と、教育者は三悪道を教える。そして、その教育により、優秀とされる者たち、正しいとされる者たちが国を運営する。彼らは三悪道思考の申し子であり、国家を三悪道思考により運営しようとする。しかし、人々はそんな理論により動いるわけではない。他者を押しのけて自分の利益を得よう、他者を騙して自分の利益を得ようとしているわけではないのだ。

  西洋学問は奪い合うことを前提とした学問であり、理論である。ところが日本社会は分け合うことを前提とした社会なのだ。前提が全く違うのだから、彼らの考える理論で日本社会が運営できるはずはない。これが日本の現状である。

  ただ、それでも他の国よりはましである。他国の思考は三悪道。法で禁止されていなければ奪えばよいという社会なのだ。人々は奪い合う。人々が奪い合うから、それを前提として、物事を思考する。学問体系もそこからできている学問体系なのだ。これを学ぶ意味はあるのか。実は無意味ではない。

  人界では平等が根本にある。根本が平等だから『平等にせよ』とは言わない。しかし、平等が根本にない考え方も存在するということを知らないと、また、福沢諭吉のような者が現れ簡単に洗脳されてしまう。要するに、六道があるということを知るためには、地獄界思考も、餓鬼界思考も、畜生界思考も覚える必要があるのだ。

  三悪道思考をする者は、『不平等だ』『平等にせよ』と語る。平等であると思っている者は不平等だとは考えもしないし語らない。しかし、このように語る者たちも存在することを知らないと、六道を知ることはできないのだ。このため、先に人界思考を教え、のちに三悪道思考を教える事は無意味であるとは言えないのだ。これは、六道の先の声聞に至るためには必要な要素である。

 

  では、なぜ人を声聞に導く必要があるのか。人界に至れば、争いも、犯罪もほとんどなくなる。しかし、人界自体が不安定であり、いつ三悪道に戻るかわからない。これが六道輪廻であり、不安定な状態から脱する、すなわち、六道輪廻をしないためには、最低でも声聞界に導く必要があるからである。

  三悪道に陥れば、平等思考そのものが理解できなくなる。人界思考も不可解なものとなるのだ。不可解なものは邪教であり洗脳であるとして、徹底排除することともつながっていく。このようになるので、三悪道・四悪道思考をする者たちには、二正道(人界・天界)の存在を教え、まず、二正道が四悪道よりも勝るという認識を持たせる必要があるのだ。

 

  では、三悪道しか知らないものたちが二正道を知らずに、優劣思考から声聞に至る、すなわち、悟りに至れるとするとどのようになるのか。これは実例を挙げて語ろう。

 

  地下鉄サリン事件を起こしたオーム真理教と言う教えがある。彼らは、三悪道しか知らないのに、三悪道思考のままで悟りの位置、つまり、声聞や縁覚に至っているとした。彼らは、平等思考、すなわち、人界思考や天界思考の存在そのものを知らなかった。六道を知らずに、声聞や縁覚の位置、すなわち悟りの位置に至ったとすれば、自らを悟りに至った最高識者と言う位置に置くこととなる。これは、自分自身こそが優であり正であるという思考となり、それを認めないのならば世は滅ぼすべきと言う地獄界思考ともなる。彼らはこのようにして地獄界思考に囚われた。これゆえ、地下鉄サリン事件を起こした。結果、彼らは世の害悪とされ、全員が処刑されることとなった。

 

  また、統一教会と呼ばれる宗教団体があった。この宗教団体は朝鮮儒教、すなわち餓鬼界思考を正しいとして、聖書を朝鮮儒教の考え方で解釈しようとした。朝鮮儒教はチュチェ思想とも呼ばれる。【各人には社会における役割の違いがある。自らの役割を認識し、頭の役目を行うべきものは頭の役目を行い、手足の役目を行うべきものは手足の役割を行うようにすべきである】という考え方である。これも典型的な餓鬼界思想である。『頭脳の命じるまま動くことこそが手足の真の姿』と言うことになるからである。脳の役目を行うものは王、手足の役目を行うものは王の奴隷と言う位置となる。彼らは、聖書を使って、餓鬼界思考を正当化しようとしたのだ。どうなったのか。世の害悪とみなされ、名前を変えて逃げまわるしかなくなったのだ。

 

  また、エホバの証人と呼ばれる宗教団体があった。彼らは聖書を『禁止』と『許容』により解釈しようとした。旧約聖書は人びとを三悪道から離し、修羅界に導くための教えである。このため、同じものが、あるところでは禁止され、あるところでは許容されている。これを見る人々は、何が正しいのかと迷う。この迷う事が重要であり、迷う者は、世の物事を『これは正しい、これは間違っている』と、一方的に判別できなくなる。この時の、人の常識が修羅界なのだ。この意味が理解できなかったのがエホバの証人と呼ばれる宗教団体だった。これは、聖書を法治主義の法としようとする働きである。彼らには修羅界思考すら理解できなかった。だから聖書を畜生界思考で解釈しようとしたのだ。畜生界思考は、今の世では法治主義と呼ばれるものである。修羅界思考すらも理解できない彼らには、平等思考は更に不可解で理解不能なものだった。だから、イエス・キリストの言動も理解できなかった。理解できないゆえに、自分たちの理解できる範囲、畜生界思考で聖書を判別しようとしたのだ。

 

  ここに一つ重要な事がある。オーム真理教も、統一教会も、エホバの証人も、三悪道までしか知らなかった。このため、三悪道思考で聖書や仏典を解釈しようとしたのだ。三悪道思考では、物事を正邪や優劣に分類する。しかし、自分を邪とか劣とかに分類することはない。常に、自分たちを正の側、優の側に置こうとするのだ。つまり、聖書であろうが仏典であろうが、自分たちを正とする材料、優とする材料として使うようになる。

 

  この三悪道しか知らない者たちに、声聞と言う位置、縁覚という位置を教えると、『自分たちは声聞だから優れている。自分たちは縁覚だから優れている』としてしまう。正確に言えば、『自分たちは優れている』という思考が先にあり、『仏典により優れているのは声聞だ』と感じれば自分たちは声聞であるとするのだ。『ヤハウェが声聞を優れているとする』から我々は声聞であるとするのだ。

  三悪道は優劣思考・正邪思考である。この考え方しか知らなければ、必然的に、このような考え方となっていく。

 

  このようになってしまうので、最初に三悪道の者たちに最初に平等思考があるという事を認識させ、優劣思考は平等思考よりも劣るという事を教えなくてはならないのだ。平等思考である人界・天界が二正道であり、人の間に優劣を設ける地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界が四悪道であると認識させなくてはならないのだ。

 

  このように、声聞界に導こうとすれば、先に六道には四悪道、二正道があることを教えなくてはならない。その次に声聞界への導きを語らなくてはならない。この先もあるという意味で、菩薩界や仏界への話も少しだけしている。これが小我、大我論である。

 

 

 

JHVHの妙法蓮華経

 

 

          963-1521                   

福島県郡山市湖南町中野念仏壇3572-28

杉浦 光一郎

080-3608-5332

 

 

はじめに

 

  皆さま方は、妙法蓮華経と聞くと、どのようなものだと思うか。多くの者たちは、釈迦如来の妙法蓮華経を妙法蓮華経であると考える。そして、釈迦如来の妙法蓮華経とは、羅什三蔵により28品にまとめられ、その羅什三蔵が妙法蓮華経として翻訳したものであるとも考える。しかし、釈迦如来の妙法蓮華経の中には、『妙法蓮華経を説く』という話も出てくる。例えば、【文殊菩薩は妙法蓮華経を説き、龍女を仏とした】と記されている。また【不軽菩薩は、人々に『あなたは仏となられる方です』と法華経を説くことにより仏となった】とも記されている。これらから、仏となる縁となるものが妙法蓮華経である事が分かると思う。

 

  法華経を説く者は別に仏でなくても構わない。菩薩であれば法華経を説けるのだ。これは、『文殊菩薩が龍女に法華経を説き、それにより龍女が仏となった』という法華経の中の説話から明らかである。なぜ、このような話をするのかと言えば、わたしは今の世の仏ではないからである。もし、仏でなければ法華経は説けないのならば、わたしには今の世に於いて法華経を説くことはできない。確かに、わたしは内心は仏である。しかし、今の世の仏ではない。今の世に於いては無辺行という名の菩薩と言うことになる。文殊菩薩は龍女を仏とする法を説いた。法華経とは、このように相手を仏とする法なのだ。つまり、もし、わたしがあなたを仏とする法を説くならば、これが無辺行の妙法蓮華経、JHVHの妙法蓮華経という事になる。

 

  わたしは、あなた方すべてを仏としたいと願う。あなた方すべてと語るが、実際は、あなた自身である。あなた一人を仏とすることができるならば所願成就。もはや望むものは何もない。これが、わたしが説く法華経。JHVHの妙法蓮華経である。

 

  わたしは、数多くの事を今までも語り、そして、これからも語るであろう。その本心はどこにあるのか。『あなた自身を仏としたい。いや、あなた自身こそが真の仏なのだから、今のあなたを、仏である真のあなたに帰したい。』ここにわたしの希望があり、ここにわたしの思いがある。

 

  今の世は五逆悪世である。世界中が『畜生界が正しいのか、餓鬼界が正しいのか』と、言い争い、実際に戦争まで行っている。わたしから見れば、どちらも三悪道の内。犯罪の根本でしかない。

 

 

 

  わたしは、今まで数々の使いを遣わして世の中を導こうとしてきた。多くの者たちが、それを知る。しかし、真の意味を理解した者は誰もいなかった。

  モーセの律法は、人々を修羅界に導くためのものである。なぜ、人を修羅界に導くのか。人を三悪道から離し、罪人としないためである。

  なぜ、イエスを世に送ったのか。イエスの言動を通じて人界思考を人々に教えるためである。『皆が平等である』という思考を持つ方が人間社会は安定するからである。

  ヨハネの黙示録とは何か。人を原罪から離すためのものである。原罪から人を離すためには、裁きの地獄が不可欠なのだ。だから、裁きの地獄を選択するしかない状況に人びとを追い込んだのだ。

  コーランとは何か。自ら裁きの地獄を選択した者がムスリム(菩薩)となる。ムスリム(菩薩)の思考の根本が、今の人々、すなわち、原罪の者たちの思考とは根本的に違う。これゆえ、原罪の者たちとは別の導きが必要となる。このムスリム(菩薩)に対する導きがコーランなのだ。

 

  わたしは、これだけのものを授けてきた。これは多くの者が知るところである。それで、人の世はどのようになったのか。誰か菩薩(ムスリム)となったのか。いや、裁きの地獄を嫌がり、どうしたら裁きの地獄を免れるかと思案する者たちばかりとなった。

 

  福音を知る者たちが人界思考をするようになったのか。いや、『イエスを信仰すれば救われる』などと語り、イエスへの信仰を優とし、他を劣とするようになった。物事を優劣で見るのは三悪道。つまり、イエスの名により罪を犯す者たちばかりとなったのだ。三悪道の思考が具現化すればそれが犯罪となる。イエスの言動により人界思考を教えたはずなのに、誰も人界思考にすら至らなかった。そればかりではない。人界思考をする者たちを異端であるとして核兵器で焼き払うようなことさえしたのだ。

 

  ユダヤ人達は、確かに何が良いのか迷うようになり、修羅界思考をするようになった。そして、今の世の最上層部は、修羅界思考をしている。この最上層部とは、各国の首長ではなく、全世界の行く末を案じる者たちである。彼らはディープステイトとも呼ばれる。このディープステイトはユダヤ人たちでもある。これは当然であり、修羅界を常識とする者たちの方が三悪道を常識とする者たちよりも本質的に優れるからである。

 

  人にはいくらでも先に進む道があった。モーセの律法により修羅界に至るだけでなく、人界に至る道も、菩薩界に至る道も用意しておいたのに、実際には三悪道止まり。極一部の者たちが修羅界に至り、その修羅界に至った者たちにより自由にされるだけであった。

 

  この中で、唯一、人界思考を常識として持つ国があった。人々がイエスと同じ思考をする国があったのだ。ところが、その国の中では、人界思考を劣る常識、改めるべき常識であるとし、三悪道をすぐれた常識であるとするようになった。畜生界思考は法治主義という名で呼ばれている。『法が許す範囲内で各人が我欲を盛んにすることが正しい』などと考えるようになったのだ。このまま、三悪道こそが正しいなどとするならば、『この人類は失敗であった。このような者たちは早々に滅ぼし、次の人類のためにこの地球を使おう』とするしかなくなる。

 

  では、なぜ、人界を常識とする者たちが、三悪道を常識とするようになるのか。六道輪廻故である。六道とは人の思考が巡るすべての範囲である。これを有と言う。有とは人の思考の巡る範囲と言う意味であり、六道とは、人の思考の根本をなす常識を示す。

  人は、自由と言う言葉を使う。自由には数々の制約があり、何を自由の制約にするのかが、六道を分けると言っても良い。

 

  自分が死なない限り自由である(地獄界)。

 

  王に逆らわない限り自由である(餓鬼界)。

 

  法の許す範囲に於いて自由である(畜生界)。

 

  努力を怠らない限り自由である(修羅界)。

 

  他者に迷惑をかけない限り自由である(人界)。

 

  社会の善となる限り自由である(天界)。

 

  この地獄界から天界までの六種の自由に対する制約が常識と呼ばれるもので、これを六道と呼ぶ。人の思考はこの六種の自由の制約の内に留まる。そして、この範囲に留まる限り、ある時は、人界や天界を常識としていた者が、簡単に地獄界や餓鬼界に常識を変えてしまうのだ。これが六道輪廻である。

  人の思考が巡る範囲を『有』と言う。この先は『無』となる。人の常識が有の範囲に留まるから輪廻を起こしてしまう。六道輪廻から離れるためには、人の常識を無の領域にまで引き上げれば良い。無の常識は人の思考による影響を受けない。つまり、無の領域まで人類を引き上げれば、人は三悪道から離れられる。つまり、犯罪の根本となる考え方を失うゆえに、人類そのものが犯罪とは無縁の存在となる。

 

  今まで主にわたしが語ってきたのは基本的にここまでの段階である。しかし、よく考えてごらん。このようにすれば、確かに世の犯罪は減り、平和な世の中とはなる。そして、確かに、今の世に於いてこれは重要な事ではある。しかし、これでは、わたしは自分を他の誰もが至れない至高者として示す事となる。

これでは、自分を至高者とする世を創っただけである。

 

  このような世の中に価値があるのか。・・・・無価値である。

 

  わたしはわたし自身を他の誰もが至れない至高者としたいわけではない。全ての人をわたしと同等としたいのだ。だから、『原罪から離れよ。原罪から離れて菩薩となれ』と語っているのだ。菩薩が終着ではなく、最終的には天地の創造主JHVHの位置にまで導きたいのだ。

 

  人とは誰か。あなたにとって唯一人はあなた自身である。その唯一人をJHVHの位置にまで導きたい。これが天地の創造神の思考、仏の思考なのだ。この仏の思考そのものが法華経なのだ。

 

  つまり、この思考を持つ者は誰でも法華経を説けるとなるのだが、この思考は『空』から生じる人の思考(有)である。原罪の人の思考は『無』から生じる人の思考(有)であり、本質的に違うものとなる。このため、少なくとも菩薩に至らないと法華経は説けない。

 

  わたしは

『わたしが法華経を説くのと同じように、

 あなたも法華経を説けるようになって欲しい。』

 

これが私の願いである。

 

 

 天照大御神と名乗る方から、わたしのブログに書き込みがあった。

わたしには、彼が一体何をしたいのか皆目見当がつかない。

しかも、何を言っているのかと見に行くと、勝手にリブログ状態となるというおまけつき。

 

 彼は『自分は医師であり、数々の称号を得ているのだから自分は正しい』とし、『わたしは神YHVHだから、わたしの言うことを聞け』と言っているようだ。

 

 もし、彼が神であり正しく、他の者たちが間違っているのならば、その神の力を使って自在に世の中も、他の者たちも糺せばよいではないか。この程度の事ならば簡単なはずなのに、どうして、それを他の人々に認めさせる必要があるのか。

 

 

 もし、彼が神であり、他の人がそうでないのならば、彼と他の人は平等ではないということになる。自分を上とし、他の者たちを下と見下す者たちにより、今までの世の中は乱れてきた。それなのに、どうして、自分を上位の者として一般人に認めさせようとするのか。

 

 もし、彼の言うことが正しいのならば、神である彼一人が特別な存在であり、他の者たちは皆、一様に彼を崇めなくてはならなくなる。これは、昔から多くの者たちが行ってきた手法である。例えば、ロシアのプーチンも『わたしは正しい』として、ウクライナに侵攻した。ヒットラーも、数々の手法を使い、人々に彼が正しいと認めさせた。このような者たちにより人の世は乱れてきたのだ。そして、今も、日本やアメリカに於いてさえも、彼のように『自分ひとりが正しい』と、語る者たちもいる。

 

 彼は語る『人は平等である』と。もし、彼が神であり、世の中を糺そうとするのならば、自分を認めさせる相手は、一般人ではなく、アメリカとか、プーチンとか、習近平のような、人々を強引に従わせようとする者たちとなるはずである。なぜならば正しいのは彼だけであり、他の者はアメリカ大統領も、ディープステイトも、プーチンも、習近平も等しく平等となるからである。

 『人は平等である』としたいのならば、彼らのように『私は他の者よりも偉い』とし、好き勝手行っている者たちをまず糺すべきではないのか。

 

 彼は一般人相手に『我を崇めよ』などとしている。自分を神とする宗教団体でもつくりたいようである。これは、功徳をうたい、人々を勧誘している事から推測できる。彼は、いろいろな資格を取ったゆえに自分は偉いとしている。なぜ、このようにするのか。他の人が認めてくれないからであろう。人々に認めて欲しいから資格も取り、神とも名乗る。それでも認めてもらえなかった。これが彼の本音であろう。

 

 

 

次に仏教により彼を解析してみよう。

 

 彼は、餓鬼界思考をし、餓鬼界思考による上位を目指している。『自分は絶対者であり、他の者はそれを認めよ』という考え方から、言葉を発しているのだ。

 また、彼が得てきた資格は、畜生界思考における称号である。餓鬼界も畜生界も、他者との争いであり、彼は他者に勝ってきたと語っているだけとなる。

 仏教に於いては、地獄界・餓鬼界・畜生界は三悪道とされ、『すべての犯罪は三悪道思考から生じる』ともされている。

 ヒットラーやプーチンも、このような思考から生まれた。彼も思考から言えば、ヒットラーやプーチン程度の者でしかないと仏教ではなるが、わたしから見ればヒットラーやプーチンの方が多少はましとなる。なぜならば、彼に言動はまともではない。道理そのものがないからである。

 この様に仏教により彼の考え方を解析すれば、餓鬼界の住人となる。日本は人界の国である。このため、彼を放っておいても社会的な影響はほぼないであろう。彼を受け入れるようになれば、日本は滅びる。

 

 ただ、わたしよりは人々にとっては受け入れやすいかもしれない。『裁きの地獄に入れ』よりも、『こうすれば良い人生が送れる』の方が人受けは良いだろう。

 

 

 

さて、ここから、彼の主張を紹介しよう。

 

彼は守るべき法を福音憲法とか言って語っている。

 

第一条      この憲法は絶対であり改正できない。

第二条      国家の存続は認めない。

第三条      人は平等である。

第四条      刑罰の廃止。

第五条      人権は無制限の権利である。

第六条      武力の保持、及び交戦権は認めない。

第七条      私有財産は認めない。

第八条      平和的な外交を行う。

第九条      他者を傷つける行為の禁止。

第十条      この憲法に反する法令を禁止する。

第十一条 アッラーの記すものを学び、美少女はアッラーの花嫁となせ。

第十二条 美少女以外者は、この活動を行い、寄付をせよ。

 

 

 まぁ、ここまで無茶苦茶だと笑うしかないが、まず第六条・第八条・第十条は国家による制約となる。ところが第二条により国家を定めないのならば、これらの制約が生じるはずはない。これは矛盾である。ではこの矛盾はどのように解消するのか。第一条により、改正そのものができない。

 人権が無制限であるならば、人を殺す権利も人権の内に入る事となる。盗む権利も、詐欺を行う権利も、姦淫を行う権利もあるはずである。また、他の者を差別する権利も、他の者を虐げる権利もあると言うことになる。ところが、これらを禁止項目としてあげている。

 また、懲罰がないとなれば、人は好き勝手に行い、好き勝手な行動を人権の名により正当化することとなる。無懲罰と、禁止事項が矛盾している。

 要するに矛盾だらけで、人は何をしたらよいのか分からなくなる。

 

 わからなくすることを目的とするならば、その目的地は修羅界となる。修羅界で良いのならば、どうしてイエス・キリストは存在するのか。どうして福音は存在するのか。福音の存在意義がなくなる。福音をもとにした憲法というのならば、この目的ならば、福音憲法自体の存在意義を消す事となる。

 

 全ての法は、現状とその法により導かれる世界が存在する。つまり、現状を変更するために法はある。では、彼は現状をどのように変更したいのか。餓鬼界思考で、自分を主体とする社会に変えたいのだ。ところが、彼は現状認識もできておらず、法により創られる社会像もない。自分自身の内でも、まとまっていないようである。

 

このため、主張が『私は正しい』の一点張りとなっている。

 

 

 

 

 

 YHVHの名を語り、イエスの生まれ変わりとも名乗り、天照とも名乗る。わたしはJHVHとは名乗っているがYHVHと名乗ったことはない。しかし、神の名や天照の名は、わたしの影響も受けているという意味でもあろう。

 彼が理解できていないのは『空』である。『空』がわからないのに、『空』により記されたものを『有』により解釈しようとした。ここが彼の間違いの根本である。『有』とは、人の思考である。

 

 少し、気がかりなのは、家の連中が彼をどうするのかである。サタンは『つまらん』と言って相手にする気もないようだが、チビ達には格好の餌食となる。まぁ、それも仕方ないか・・・・YHVHと名乗ったわけだし、幽霊や魑魅魍魎に追いかけまわされる程度なら別に構わないだろう。

 

『神は自ら尊くて人に依らない』

 

 彼のブログに書き込もうと思ったが、わたしには、どのようにすればよいのかわからない。そこで、このような記事形式とした。

 

 

 

メッカとは

 

 皆さまはメッカと言う言葉を聞いたことがあるであろう。 『何々のメッカ』と言えば、その分野の中心地を指す。また、サウジアラビアにあるイスラム教の大聖地がメッカと呼ばれる。これらが良く知られているメッカなのだが、このメッカの語源はコーランにある。

 

コーランには、

 

 『ムスリムには数々の試練がある。日常生活でたびたび起こる試練もあれば、一生に一回、自身の全てを打ち壊す大試練もある。これらはムスリムにとって苦痛であろうが、ムスリムはこれらの試練を巡礼と考えて乗り越えていかなくてはならない。すなわち、人生の内で、たびたび起こる試練は小巡礼と心得よ。また、一生に一回受ける大きな試練は大巡礼と心得よ。』要約

 

 このように記されている。これらの言葉の内、『自身の全てを打ち壊す』と言う言葉として『マッカ(完全破壊)』と言う言葉が使われており、このマッカが変化したものがメッカである。ここから先は推測となるが、『巡礼だから場所を示すのだろう』となり、『では、このマッカとはどこなのか』と、イスラム教徒たちは考えたようである。ここから、『ムハンマドが神から啓示を受けて生まれ変わった場所』こここそが大巡礼の聖地としてふさわしいという事となった。そして、このコーランの記述から、マッカと言う場所が制定された。次に、場所の名が完全破壊(マッカ)ではまずいだろうと言うことになり、マッカからメッカへと変化したようである。

 

 コーランに記されている『ムスリム』とは、日本語に訳せば菩薩と言う言葉となる。では、イスラム教徒はムスリムなのかと言えば、決してムスリム(菩薩)ではない。勝手にムスリムと自称しているだけの輩である。このムスリムの任命権はアッラーの神権に属し、コーランでは『人が犯す全ての罪は許されるが、アッラーの神権を犯す行為は、永遠の裁きの地獄に定められる』となっている。つまり、彼らはムスリムと名乗ることにより、『永遠の裁きの地獄。上等。』と、アッラーに反旗を翻している事となる。自分で反旗を翻しておきながら、毎日五回祈る??・・・火獄の刑が怖いので火葬はいやだ??・・・・「いったい何やってるの」となる。

 

 では、真のムスリムならばどうなるのか。『永遠の裁きの地獄???・・・何が怖いの???   アッラーの神権違反???・・・・罰則、恐くないし・・・・どうして、違反してはいけないの??・・・アッラーの神権違反も人が犯す罪でしょ・・・・人が犯す全ての罪は許されるで良いんじゃないの???』このようになっていく。

 

 実は、コーランは、このようになっているムスリム(菩薩)に対する導きの書なのだ。人には数多くの試練がある。これらの試練を乗り越える事こそが人生そのものと言えるかもしれない。人は悩み、苦しみ、これらの試練を乗り越えていくのだが、ムスリム(菩薩)しか遭遇しない試練も存在する。これが完全破壊(マッカ)なのだ。生老病死は、すべての人に共通するが、マッカ(完全破壊)されることはない。完全破壊(マッカ)することにより、ようやく成れるのがムスリム(菩薩)なのだ。つまり、ムスリム(菩薩)となるためには完全破壊(マッカ)は必須であり、自我の完全破壊(マッカ)をしたものがムスリム(菩薩)なのだ。

 

 では、この自己の完全破壊(マッカ)は、どのようにすればできるのか。どうすれば菩薩(ムスリム)となれるのか。

 

 人が自分自身であると思っているものは、実は自己愛である。自己愛は現世欲と未来欲の二つから構成される。例えば、人が死を恐れるのは、死が人の現世欲を絶つからである。このように、自分自身であると思っているものの一部を失うことであっても、人は恐れ、悩み、苦しむ。それでも、人は未来に対する希望を持ち続ける。では完全破壊(マッカ)とは何か。この自己愛の自我の全てを打ち砕かれることこそが、完全破壊(マッカ)なのだ。

 

 人は『死ねば仏となれる』などと語るが、実際には『死んだくらいでは仏はおろか菩薩にもなれない』のだ。しかし、現世欲を捨て未来欲も捨てたとしても、それでも人は生きることができる。この現世欲も捨て未来欲も捨てた人が菩薩(ムスリム)なのだ。

 

 人は、強制的に現世欲を捨てさせられる。これが死である。しかし、自分の意思で、現世欲を捨てたならば、生きてはいるが、一般人ではない人と言うことになる。これが縁覚、声聞である。これが悟りと呼ばれるものである。

 

 死によっても、捨てる事が出来ないものが未来欲である。この未来欲の自己愛まで捨てないと、人は菩薩(ムスリム)とはなれない。では、これはどのようにすれば捨てる事が出来るのか。永遠の裁きの地獄に入ればよい。阿鼻獄に入ってしまえばよい。このように語るのは簡単であるが、実際には、このような覚悟を決める事は容易ではない。

 

 コーランのマッカ(完全破壊)とは、人の自我の全て、すなわち現世欲と未来欲の両方を捨て去ることである。

 

 菩薩(ムスリム)には自我がない。このため、他者の自我の真似をして現世で生きる事となる。すると、他の者では簡単に受けない報いをすぐに受ける事となる。この報いを受ける事がコーランで小巡礼と記されているものとなる。菩薩(ムスリム)は、このように他者の真似をしてはその報いを受け、また、別の者の真似をしてはその報いを受け、『このような考え方はこのような報いとなる』と覚えていくのだ。やがて、それが体系的にわかるようになっていく。このように、菩薩(ムスリム)としの自我を新生していくのだが、この菩薩(ムスリム)としての自我と、他の人々の自我との間に決定的な違いがある事もわかっていく。この違いを生んでいるのは何かと考えると、そこにマッカ(完全破壊)があったのか、なかったのかの違いである事がわかる。

 

 これがコーランの巡礼の記述の意味である。ここまでは、誰でも分かることであり説明の必要などないと考えて、ここから先を語ったのだが、『それでは誰もわかりません。』と言われてしまった。直さないと、また小言を言われるので、書き直す事とした。

 

 

真のメッカを設定する

 

 わたしはこのように語る。『菩薩となるためには、火と硫黄の燃える地獄に入れ。』『菩薩となるためには無間地獄に飛び込め。』と。世の中には、この話を聞き『なるほど』と、思う者たちもいるはずである。ところが、実際問題、『どのようにすればよいのかわからない』となるのではなかろうか。イスラム教徒は、マッカをメッカに変えて、そこに巡礼すると聞く。では、ある場所をある条件下で訪れれば、強制的に火と硫黄の燃える地獄、無間地獄に堕とされるようにすれば、これが人の入り口になるな。と言うことはわかる。

 要するに、真の菩薩、真のムスリムとなるための場所を設定しておけば、そこが本物のメッカとなるというわけである。

 

 実際には、訪れようとすれば、家の眷属にさんざん脅される。脅され、捕まえられ、縛り上げられ、地獄に叩き込まれるのだ。逃げ出さなかった者だけが、実際に訪れる事ができる場所をつくることは簡単なのだ。わかってはいたが、『そんなもの作っても誰も来ないでしょ。』『猶予は千年以上あるのだから、あわてる必要もないでしょ』と、なっていた。

 

 現状はひどいもので、世は餓鬼界・畜生界止まり。日本と言う国では、『人界はおかしい、餓鬼界畜生界こそが正しい』という思想を広めた大バカ者を偉人として敬い、一万円札にまでする始末。この大バカ者の弟子たちが国を運営するから、あちらへふらふら、こちらへふらふら。

 六道輪廻とは言うけれど、現状は畜生界が正しい、いや、餓鬼界が正しいと戦争している始末。・・・・・まず、六道自体を教えないと話にもならない。一番、分かっているのが日本のはずなんだけど、その日本でもお話になるレベルではない。

 まず、人界・天界があることを広めなくちゃ。次に、六道輪廻しないように、声聞界・縁覚界を教えなくっちゃ。そのあとに、菩薩界への入り口開ければよいのではないのかな。

 

 多くの事を、一度にすすめようとするとろくな結果にはならない。少しづつ進めていかないと、不具合が出てきそうだ。

 

 確かに、『千年後にどのようにして菩薩の門を開けるのか』と言う問題は残るが、それは何とかなるだろう。

 

これが私の考えであった。

 

 

 

太陽の真珠

 

 わたしのブログに、太陽の真珠さんからコメントがあった。コメント自体はさほど大きな意味はないのだが、重要なのは『真珠』と言う名前の方である。ヨハネの黙示録には、『新エルサレムの門は真珠で造られていた』と記されており、門は人が入るためのものであり、人は門からしか入ることができないからである。つまり『真珠』と言う言葉には、『人の入り口』と言う意味となる。つまり、真珠の名によるコメントには『人の入り口を開けよ』、または『人の入り口を開けて欲しい』と言う、わたしに対する要望とか指示となるのだ。

 

 「え、本当に開けるの??・・・まぁ、開けよと言われれば開けるけど、本当に誰か来るの??・・・指示出した本人もこんな意味知らないだろうし、開けたからと言って、誰がそれを管理するのだろう??・・・人の入り口だから、人が管理することになるはずだけど、それは誰???・・・太陽の真珠・・・と言うことになるのかな・・・まぁ、何とかなるのだろ。」

 

「指示出したのだから来いよ!!!」

 

とは言いたいのだが、本人が知らないこともわかっているから、何も言えない。

 

 これからの事は、よくわからない。全知全能などと言うが、実際は『空』からの全知全能であり、無知蒙昧でもあり全知全能でもあるのだ。人の思考は原罪からのものである。原罪から考える全知全能とは、言葉は同じでも全く別物なのだ。

 

 『人を導く』と言うが、わたしなら『まず、裁きの地獄に叩き込め』となる。ここが、導きの基点となるからである。しかし、これは人々にとって、到底受け入れる事が出来ないことであることも知っている。

 

 自己愛の自我と『空』との間には接点がない。この接点がないものの接点をつくろうとすれば、それは裁きの地獄への導きとなる。これが真のメッカなのだ。

 

 わたしの許を訪れたからと言って、このこと自体にはさほど意味はない。しかし、裁きの地獄、火と硫黄の燃える地獄、阿鼻獄に実際に堕とされると知りながら、あえて尋ねるという事に重要な意味がある。これは真の菩薩にしかできないことである。真のムスリムにしかできないことだからである。

 

 偽ムスリムはメッカと言う場所に大挙して訪れる。しかし、彼らはムスリムではなく、そこも真のメッカではない。真のムスリムにとって、メッカ巡礼とは、裁きの地獄、火と硫黄の燃える地獄、阿鼻獄に実際に堕ちることである。私の話を聞き、実際にその覚悟を決める者たちもいるであろう。覚悟を決めたからと言って、本当にそのようになると確信はできないものである。これゆえ、形としてのメッカを設定することも必要ではなかろうか。とは、考えてはいた。そこに、『入り口を開けよ』と言う指示が来たのだ。

 

 わたしは、人としていつまでも生きるつもりはない。しかし、『メッカ』を場所として指定しておくことも、後々の人々のためになるかもしれない。このため、わたしが今いる場所を、菩薩が訪れるべき場所『メッカ』として定めても良いのではなかろうか。

 

                     JHVH

 

わたしは、ここにいる。

 

 

 

963-1521

福島県郡山市湖南町中野念仏壇3572-28

                杉浦 光一郎

 

 

 

 

人は救いを求める。

 

しかし、

 

わたしが授けるのは、火と硫黄の燃える地獄。

 

わたしをJHVHと知って尋ねて来るならば、

 

その者は、火と硫黄の燃える地獄に自動的に導かれる。

 

もし、それでもよいのならば、

 

尋ねていらっしゃい。

 

 

 

 

人としてのわたしは一人である。

 

一人の貧乏人である。

 

周囲に誰もいないというわけではないが、

 

誰も、わたしがJHVHとは知らないであろう。

 

しかし、真のわたしは眷属と共にある。

 

もし、あなたがわたしをJHVHと知って、

 

わたしの許を訪ねるならば、

 

あなたはわたしの眷属に捕らえられ、

 

確実に、火と硫黄の燃える地獄に堕とされる。

 

その覚悟があるのならば、

 

ここにおいで。

 

 

 

 

尋ねてきたからと言って、わたしは歓待するわけではない。

 

また、何かを語るわけでもない。

 

わたしは一人の人間としてあなたに接するだけである。

 

しかし、眷属はあなたを捕らえ、

 

あなたは火と硫黄の燃える地獄の淵に立たされる。

 

その時、

 

『お許しください』と泣き叫んだとしても、

 

あなたを助ける者は誰もいない。

 

 

 

 

阿弥陀仏の加護を求めても、

 

イエス・キリストの救いを求めても、

 

アッラーの慈悲を求めても、

 

誰も現れない。

 

あなたは悪魔や神々に捕らえられ、

 

強制的に火と硫黄の燃える地獄に叩き込まれる。

 

 

 

 

これは、わたしが彼らに『このようにしなさい』

 

と命じるからである。

 

わたしは、

 

あなたがいくら泣き叫んだとしても、

 

どこの誰であったとしても、

 

この命令を取り消すことはない。

 

 

 

 

その覚悟がある者たちよ。

 

王たる者たちよ。

 

あなた自身の栄光と誉れを携え、

 

わたしの許に尋ねておいで。

 

 

                 JHVH

 

 

近代史

 

スペイン・ポルトガル

 

  では十界論により、近代の人間社会を分析してみよう。近代世界では、まず、スペインやポルトガルが世界の覇権をとった。彼らの手法はこうである。彼らは、侵略先の人々を、まず、地獄界の思考に堕すのだ。つまり、『自分が殺されようとも、あいつらは絶対許せない。絶対に殺してやる』と、言う思考に追い込むのだ。この場合、侵略者である彼らは、冷静に物事を遂行する。そして、彼ら自身の国は、絶対権力者の王と、王に忠実に従う奴隷という関係を保つ。つまり、彼ら自身は王に命じられるままに虐殺や略奪を行う奴隷に過ぎない。すると、虐殺された側、略奪された側の現地の人々は『絶対に許せない。何が何でも殺してやる』と言う思考となる。このようになった者たちであれば、征服するのはたやすい。このように、十界論で、自分たちは餓鬼界、相手は地獄界と言う関係に持っていけば、簡単に相手を征服できるようになる。だから、戦略として、このように行うのだ。

  これと同じ手法をロシアがウクライナでも用いてきた。これがブチャの大虐殺である。ロシアの常識は餓鬼界そのものである。餓鬼界の常識を持つ者たちが侵略するのに、一番効果があるのが、相手の考え方を地獄界に堕すという手法なのだ。これに対して、感情的になれば征服するのはたやすい。しかし、冷静に検証などされたら逆効果となる。このような行為を行う者たちは、王に命じられたまま行う奴隷に過ぎない。餓鬼界思考では奴隷は何の判断もできない。ただ、ただ、命じられるままに行うだけである。

 

 

イギリス

 

  スペイン、ポルトガルの次に世界の覇権を取ったのがイギリスである。イギリスの施策は、このようなものである。イギリスを君主とする奴隷の国となれば、その地は一応、治まる。イギリスが手を引くと、殺し合いの地獄界の世界となる。つまり、裏で手をまわし、植民地に餓鬼界と地獄界という差を創り出し、『どちらが良いか』と、一応、選択させたのだ。この場合、イギリス本土が餓鬼界ではうまくいかない。王に命じられるまま動く奴隷では、植民地の人々を操れないのだ。このため、イギリス本土は、法治主義、すなわち法の下の平等という畜生界に移行させた。

 

アメリカ

 

  イギリスに代わって、世界の覇権を握ったのはアメリカである。このアメリカとは、バイデンが大統領を務めるアメリカ合衆国ではない。ドルの発行権を持つロックフェラー家、俗に言うディープステイトが真のアメリカである。アメリカ合衆国政府も、アメリカ議会も、司法も、実はディープステイトが裏で支配している。では、ディープステイトはどのようにしてアメリカを支配しているのか。百人の人が町をつくったとしよう。もし、その百人の中で一人だけが他の人の百倍稼ぐならば、残りの99人は、食べることもできないほどの貧困に陥る。すると、この百人の町は暴動が起き崩壊してしまう。しかし、もしこの百人の誰もが生活するのには支障がなく、この中の一人だけが他の人の百倍稼げるとするならば、この百人の町はどのようになるか。全員がこの一人を目指して努力する世界となる。これがアメリカンドリームである。このようにできるのは、ディープステイトがドルの発行権を持つからである。では、ディープステイトが持つ権利とはどのようなものなのか。何によってアメリカンドリームを叶える事が出来るのかを決定する権利である。あとは、このアメリカンドリームを叶えた者しか、大統領にもなれない、議員にもなれない、司法官にもなれない、官僚にもなれないというシステムさえ作ればよい。こうすれば、名目上は三権分立であっても、全員がアメリカンドリームの信奉者となる。このようにして、陰に隠れてアメリカを、そして世界中を支配しているのがアメリカ、すなわち、ディープステイトである。『努力し続ける者がその報酬を得られる』というのは、修羅界の思考である。修羅界は畜生界よりも一つ上の常識であり、畜生界社会で覇権を握る手法とも言える。これにより、覇権国として君臨し、世界中を法治主義である畜生界に移行させることが可能となる。つまり、世界の全ての国や国民に『法を守れ』と語ることによりイギリスから覇権を奪ったのだ。

 

 

  このように、十界論で言えば、覇権国は、他の国よりも一つ上の常識を持ち、自分よりも一つ下の常識に他の国々を導くことにより、世界の覇権を確立させてきたと言える。また、覇権を確立させるために使う手段も、各段階により異なっている。スペイン・ポルトガルが使った手段が武力であり、イギリスが使った手段が権威である。そして、アメリカが使った手段が経済である。

 

  では、次の覇権はどの国がどのような手法で握ることになるのか。順当に行けば、次は人界思考により覇権を確立させるということになる。現在、人界の常識を持つ国は日本だけである。つまり、次の覇権国は日本と言うことになるのだが、では日本はどのような手法で世界の覇権を握るのだろうか。これは文化であろう。つまり、今後、世界の日本化が起きる。人々が平等思考をするようになるゆえに、犯罪は減り、街はきれいになっていくと考えられる。覇権国とは言うが、人界の常識には、覇権と言う思考そのものがない。全部が平等であり、この平等を当たり前とするようになっていくはずである。

  しかし、これが絶対というわけではない。なぜならば、人界も六道輪廻の内であり、覇権国が餓鬼界、世界が地獄界と言う図式に陥る可能性もある。例えば、ロシアの常識は餓鬼界である。プーチンは『この餓鬼界思考そのものこそがロシアである』としている。世界が動乱の世となり、ロシアがその動乱を収める盟主となることを夢見ているのだ。

  また、中国の習近平は他国を餓鬼界に堕す事による世界の覇権を狙っている。ただ、彼の施策は十界論で言えば統一が取れていない。中国国内は、今、畜生界思考となっている。それを餓鬼界の手法により、人々を奴隷化し、奴隷化による国内統一を行おうとしている。畜生界の民を餓鬼界の手法によりまとめるのは難しいが不可能と言うわけでもない。しかし、今度は餓鬼界思考により、修羅界から人界へと移行しようとしている他国を従えなくてはならなくなる。

  十界で二つ以上離れると対抗手段がなくなる。上の常識を持つ者たちが下の常識に堕ちてくるのを待つしか、彼らに勝つ手段はないのだ。つまり、中国国内を餓鬼界によりまとめたとしても、簡単に世界の中に飲み込まれてしまう。手詰まりをおこすのだ。

 

 

 

 

 

東洋史

 

中国

 

  東洋では中国が覇権を持ち、周辺国が中国の属国となるという形をとってきた。実は、この中国が覇権を確立させてきた方法も、十界論で簡単に分析できる。中国の歴代王朝は、中華部分が畜生界社会、周辺部が餓鬼界社会となるように誘導してきた。要するに、周辺の国々は王が支配し人々が奴隷となる社会となるように、中華部分は法治主義となるように誘導してきたのだ。このために、機能するのが中華皇帝である。中華皇帝は、人民には姿も見えず声も聞こえない権威の塊となる。この中華皇帝に謁見できるのが、周辺国の王である。中華皇帝は、この周辺国の王を奴隷として扱う。そして、その周辺国の王に、その王の国民を奴隷として扱う許可を与えるのだ。すると、周辺国は餓鬼界の社会となる。では自国の民に対してはどうするのか。宮殿の奥深くに隠れ、一切姿も見せず、声も聞かせないようにするのだ。そして、内政の担当官が、法治主義となるように法を公布し、その法に従って取り締まるようにもっていく。こうすると、中華部分は畜生界、周辺部は餓鬼界と言う社会の差が生まれる。こうすることにより、国力も、軍事力も、経済力も、文化においても、中華部分が圧倒し、周辺国では敵わない状態をつくってきたのだ。

 

 

日本

 

  日本は人界の常識を持つ国である。しかし、今、上層部と呼ばれる者たちは畜生界や餓鬼界思考をしている。なぜ、日本が人界の常識を持つようになったのか。まず、日本の国王である天皇の影響がある。

  日本の天皇は昔から、物事を聞くことは聞くが、何の命令も下さない王である。この人々の声を聞き、世間の声も聞くが、何も命じないという姿は、実は声聞界の特徴なのだ。

  国の常識は、その国の国民の常識により定まる。国民は王の常識を手本とする。このため、王の常識が国の常識となることも多い。例えば、ロシアのプーチンは典型的な餓鬼界思考をしている。自分が王であり、国民は王の所有物、すなわち奴隷と考える。また、ロシアが王であり、ウクライナはロシアの所有物、すなわち奴隷と考える。王がこのような常識を持つと、その国の国民も同じように常識となる。

  つまり、上の言うことは『ご無理ごもっとも』であり、下の者相手に対しては『絶対に従え』と言う思考となる。

  では、日本のように国王が声聞界の場合、国民はどうなるのか。人界・天界に普通に至るようになる。また、国民の内には、思考や心を無とする修行に志す者も現れる。このように王が声聞界に至ると、国も人界・天界に普通に至るような状態となる。

 

  日本は争いがなく武器も退化する三百年近い天下泰平の時代も創り出している。これが江戸時代である。この江戸時代をつくった徳川幕府の政策はこうである。まず、支配者階級である武士と、被支配者階級である平民と言う身分の違いを定めた。ここまでは、世界各国が同じである。ここからが違う。武士と平民の守るべき法が異なるのだ。

  武士に対しては、失敗しても切腹、汚職を行っても切腹、不正を行っても切腹と、何かにつけて自らの命で償う事が定められた。

  これに対して、庶民には『武士を敬まえ』と言うことだけが定められ、後は寛容な許しの政策がとられたのだ。

  これを庶民から見ると、『何かにつけて自分の命で責任を取らされる武士にはなりたくない』となる。人々が支配者となることを望まなくなったゆえに、武器が退化し、三百年近い天下泰平の世の中となったのだ。

 

  国などの組織を運営するためには、必ず指導層が必要となる。庶民から見て、その指導層が憧れの的となるようならば、全員がその指導層を目指し争う状態となる。しかし、その指導層が憧れの的とならないのならば、庶民は庶民であることに満足する。この時、人々の意識の上では、平等ということになる。このように、意識の上で平等となるように持っていけば、国を意図的に人界とすることも可能となる。

 

  日本は、諸外国の影響により明治維新を起こした。庶民が庶民のままでよいなどと考えるのはおかしいとしたのだ。『上下関係があるのは当然だ。何によって上下関係を定めるべきなのか』と日本人自体が考えるようになった。つまり人界の常識はおかしい、畜生界や餓鬼界の常識を持つべきだと変化したのだ。人界も六道の内。人界に慣れすぎたため畜生界や餓鬼界の方が魅力的に見えるようになったと言える。人界思考がいきなり餓鬼界に堕ちることはない。人界思考は修羅界思考へと変化し、畜生界思考へと変化し、餓鬼界思考へと変化していった。最終的には『鬼畜米英』と言う地獄界思考にまで落ちていったのだ。これが日本の敗戦の原因である。

  では変化したのは江戸時代の支配者側の層なのか、それとも庶民側の層なのか。武士階級側の層だけである。支配層側はこのように変化していったのだが、庶民側の層は『武士を敬え、後は自由である』という、江戸時代の思考をそのまま継続したのだ。つまり、指導者が指導者の役割を果たす限り庶民はそれに従うという思考となる。つまり、指導者がその役割を果たしていないと庶民が判断すると、日本の政治は大きく動く。

  例えば、日本はアメリカを指導者として敬ってきた。ところが、アメリカの大統領選挙により、明らかな不正が行われ、不当な者が大統領となった。これは、日本人の意識として、アメリカは指導者ではなく自分たちと同じと言う位置に引き下げる事となる。

  日本人の思考として、指導者は不正など決して行わない武士でなくてはならない。不正を行えば、不正が許される庶民と言う事となり、指導者としては認めないと言うことになる。

  この『上の位置にいない』と判断する者が、さらに上の位置にあるとして命令すると、今度は非人扱いとなる。これも江戸時代の名残である。

  江戸時代、武士が武士にあるまじきふるまいをすれば、庶民より下の非人となるのが定めだったのだ。これは、例えば切腹を申し付けられて切腹しなかった場合などに適応される。

  指導者が明らかな不正を行うならば、潔く指導者の位置から降りなくてはならない。降りないのならば人として扱う必要はない。と言うことである。

  例えば、韓国や中国は明らかな不正を行いながら、自分たちが日本よりも正しいとしてきた。日本人は、明らかな不正と言う行為に対して、『自分たちと同じ』もしくは『人間扱いしない』このどちらかの対応を取る。これは一人ひとりが判断するのであり、誰かに強制されるわけではない。また、各人は自分の判断を他の者に強要することもない。つまり、表面上は何も変わらないのだが、各人の判断が動くゆえに、国の判断も動くという状態となる。ここから、日本人は表面的には出さないが、韓国や中国を、彼らの行動ゆえに見下している。指導者と言うのならば、清廉潔白な武士であることが当たり前であり、嘘をつき相手を貶める行為は非人(人ではない)と言う判断となるからである。

  日本では、誰でも指導者になりたいと言えば指導者となれる。しかし、その人が本当に指導者としてふさわしいのかと人々は常に観察している。相応しくないと大勢の人々がみればクビとなる。この時点で止めれば、これ以上の追求はしない。しかし、それでも、その人が指導者の位置から降りないとなれば、今度は人として扱ってもらえなくなる。他の国では、指導者の地位に就くときに争いとなるのだが、日本ではこの地位に就くこと自体は比較的容易なのだ。その後、指導者となった者たちは武士として振る舞う事が要求される。これが江戸時代から続く、日本の庶民感覚である。指導者が絶対的な力を持ち、庶民がそれに一方的に従うという思考からはこのようにはならない。指導者と従う者という立場の違いは、単なる差異である。身分の上下でもなく、支配・被支配と言う関係でもない。だから、希望すればだれでも支配者となれるのが基本なのだ。しかし、支配者が支配者としてふさわしくないとなれば、庶民に首にされる。

  支配者は武士でなくてはならない。武士は清廉潔白であり、品行方正であり、曇りがわずかでもあってはならない。もし、そのような事があれば、潔く切腹しなくてはならない。もし、支配者がこのようでないのならば、庶民をその者を人間としてすら扱わなくなる。これが日本の庶民感覚であり、庶民感覚で言えば日本はいまだ江戸時代のままである。

 

  ただ、高学歴となればなるほど、この庶民感覚から離れ、優劣を競う欧米感覚となっている。これは、日本の教育が欧米思想よりつくられているためである。教育は、その考え方の基本が変わればすべて変わる。

  欧米の常識が三悪道であり、常識が三悪道だから、性悪説となる。欧米では常識通りに振る舞えば、人の行動は犯罪としかならない。犯罪としかならないから倫理を設け規制しなくてはならない。このように三悪道を常識としたところから、論理を展開しているのが現代の西洋哲学であり、その西洋哲学から、唯物論、唯心論が生まれ、それが理科系、文科系と言う学問系列となっている。この学問系列で優秀とされた者たちが、日本の上層部をつくるから、上層部の思考が三悪道を常識とする思考となる。

  と、言っても、日本の庶民感覚を、彼らも幼少のころには知っていた。彼らは単に、日本の庶民感覚と、西洋哲学の優劣を、西洋哲学側を優であると勘違いしているだけでもある。この日本の庶民感覚が人界であり、西洋かぶれをした文化人達の常識が畜生界なのだ。実際に日本の独自文化を創り出しているのは、日本の庶民感覚の方である。

 

 

 

 

 

現状分析

 

  現在、民主主義vs独裁と言う形で、議論されている事が多いようである。では、その民主主義とは、何が起源なのか。ある人はフランス革命にその起源を求め、ある人はプロテスタントの台頭にその起源を求める。王権と言う権威に立ち向かったのか、それとも教会と言う権威に立ち向かったのかと言う事であろう。

  民主主義の起源はヨハネの黙示録にある。ヨハネの黙示録に従えば、イエスを信じるならば、火と硫黄の燃える地獄に入らなくてはならなくなる。これは嫌だとなり、入らなくても良い方法を探したのだ。ここから、何によってこの火獄を逃れられるのかと言う事になった。カトリックは免罪符なるものを売り出し、プロテスタントは信仰を金もうけの手段とすることはおかしいではないかと、聖書に答えを求めようとした。つまり、カトリックもプロテスタントも『信仰すれば、火獄を逃れることができる』と言う教えなのだ。

  では、本当に聖書に従えば、『イエスを信仰するならば、火と硫黄の燃える地獄に堕ちよ』と言う事となる。これが真理であり、これが真実なのだ。この真理、この真実に耐え切れないのがほとんどの人なのだ。ここから、真実かどうか、真理かどうかではなく、『人々の支持を集めたものが正しい』という思考が生まれた。この人々の支持を集めるという行為が、今の民主主義の起源である。

  これに対して、ロシアなどは、神の名により教会が支配権を指導者に与えるという形をとる。つまり、『正しいのは指導者である』と言う事となり、指導者に従う者は火と硫黄の燃える地獄を免れるということになる。このどちらが正しいのかと争っているのだ。

  ローマカトリックも、東方正教会も、プロテスタントも、すべてのキリスト教と呼ばれる教えが語っていることは『信仰により火獄を逃れられ、天国に導かれる』である。民主主義も『皆が欲するから、信仰により火獄を逃れられるというのは正しい』と言う思考であり、権威主義も『教会の権威の移譲を受けた指導者に従えば、火と硫黄の燃える地獄に堕とされることはない』という思考である。

  しかし、聖書に従えば、『イエスを信じるならば火獄に入れ』となる。ヨハネの黙示録は明らかに、イエスを信じる者たちに対して示された教えであり、そのヨハネの黙示録に従えば地獄に堕ちるしかなくなる。これが聖書なのだ。結局、どのような名目を設けるのかは別にして、聖書の聖霊に逆らうことは同じなのだ。民主主義も権威主義も『目くそ、鼻くそを笑う』程度の違いしかない。わたしから見れば『なぜ、聖典に記されている通りにしないのか』、『お前たちはどこまで臆病なのだ』と言うしかなくなる。

 

 

 

十界論による戦争の帰着

 

  今、ロシアとウクライナが戦争している。これも権威主義vs民主主義と捉えられているようだが、実際の勝敗を決するのはウクライナの姿勢である。なぜならば、プーチンは餓鬼界常識そのものをロシアと定義している。このため、ロシアの位置は動かないのだ。これに対し、欧米は畜生界を常識としている。ウクライナは、元々餓鬼界を常識とする国であった。餓鬼界vs餓鬼界であれば、これは大国の勝利となる。つまり、ロシアが勝利する。また、もしロシアが圧倒的な勝利を収めたいのならば、ウクライナの人びとを『ロシアは許せない。自分たちが滅びたとしてもロシアを追い出さなくてはならない』という地獄界思考に堕せば、ロシアの完全勝利が確定する。

  これに対して、もし、ウクライナが国際法を遵守するという戦い方をみせれば、これは畜生界思考であり、ウクライナが有利となる。

  ウクライナが完全勝利する方法もある。ウクライナの人びとがロシア人もウクライナ人も同じと言う人界思考となれば、ウクライナの勝利は確定する。この時、ロシアは滅びることになる。

  では、どのようにすれば、ウクライナの人びとの間に人界思考が広まるのか。この方法は、まず、指導者が、日本の天皇と同じく、すべてを聞き質問はするが、何の判断も下さない状態。つまり、声聞界に至る必要がある。戦争を継続するのか中止するのかの判断も国民に任せるのだ。今、ロシアは再び攻めてくるとして欧米の支援を求めているが、責めてくるのか、それとも終わりにできるのかの判断も国民に求める。大統領は、自分では何の決定も下さずに、『人々はどのように考えているのか』と質問していくだけにする。そして、部下たちが出してきた答えに承認を与えるようにする。

  このようにすると、ウクライナの人びとの間に、自分たちの意見が国を動かすという考え方が芽生える。各人が『何が本当に良いのか』と考えるようになっていく。

  今、ウクライナの人びとは指導者の言うことに盲目的に従うだけである。ここが一番の問題であり、ここを改めないと勝利を得る事はできない。しかし、ここを改めればウクライナの勝利が確定する。ウクライナの勝利が確定するとは、実はロシアの消滅を意味する。

  ロシアは餓鬼界思考である。餓鬼界思考では、修羅界以上に対する対抗手段がないのだ。つまり、ウクライナの人々が人界思考に至れば、その人界思考がロシア国内に伝染していく。このようになると、プーチンが定義するロシアは滅ぶしかなくなる。

  このような方法は一朝一夕に行えるものではない。また、これが完成した姿では、ロシア領なのかウクライナ領なのかはほとんど関係なくなる。戦争の勝敗など、あまり意味がなくなるのだ。人界の常識では文化力により相手を占領してしまう。短期決戦ではなく数十年、数百年という文化侵略ともいえる。これは、もし、わたしがウクライナの大統領であったならば、このようにするであろうという手法である。

 

  トランプ大統領が一気に終結させると語っている。これは、おそらく、ロシアが侵攻し占領してきた地域からロシア軍を引かせるはずである。ウクライナにも帰属させない、ロシアにも帰属させない空白地帯をつくろうとしているのではなかろうか。これは、ウクライナ戦争で疲弊したロシア軍には、もうアメリカ軍やNATO軍に対抗する力はないとみているという意味となる。ウクライナから出ていけとアメリカ軍の全戦力を終結させ、その上でロシアと交渉するようにすれば、ロシアにはアメリカと戦う力は残っていない。

  もともと、このウクライナ戦争はアメリカ大統領選挙の不正が発端であった。不正選挙によりバイデンが勝利したことが、プーチンがウクライナに侵攻した原因なのだ。バイデンはウクライナの汚職に絡んでいる。ロシアがウクライナに侵攻すれば、その汚職問題はうやむやになる。つまり、都合がよいはずである。ここからアメリカは表立っては動かないと判断した。また、ヨーロッパ諸国もロシアにエネルギーを依存している。このため、ここも動かない。中国も漁夫の利を狙っているので、表立っては反対しない。誰も反対者はいなくなるのだから、単純に軍を進めるだけで済む。このように考えて、プーチンはウクライナに侵攻したと考えられる。もし、トランプが大統領であったのならば、何をするのかわからないという怖さがあり、とても侵攻などできなかった。ロシアは、アメリカのうごきを見て、オバマの時にクリミアに侵攻し、バイデンになったからウクライナ全土を取りに来たのだ。

  実際の戦争になり、はっきりわかったことはロシア軍がはりぼてだったという事である。はるかに格下のウクライナ軍に対して軍事的な勝利も収められない張りぼて軍隊に過ぎないという事が露呈してしまったのだ。ならば、うつ手はこのようなものになると予想できる。これも、わたしがトランプだったらこのように行うという手法である。

 

  もう一つ、戦争と言えば、ハマスがイスラエルを攻撃し、イスラエルvsイスラム社会と言う図式の戦闘もある。この戦闘の勝敗は既に定まっている。この争いの本質は、イスラム教とユダヤ教のどちらが正しいのかという宗教論争である。相手を論破できる法を持てば、論破する方が勝利する。実は、これにはわたしも関係している。わたしはイスラム教を論破する法をイスラエルに授けたのだ。つまり、宗教論争上では、イスラエルがハマスを圧倒する。正当性を主張できなくなれば、武力は早く勝利するのか、ゆっくり勝利するのかの違いでしかなくなる。

 

 

地球環境問題

 

  地球環境問題と呼ばれる問題がある。CO2の排出が地球環境に影響を与え、これゆえ気温が上昇し、人類は地球上に生存できなくなるから何とかしなくてはならないと騒いでいる。この現状はひどいもので、実際にCO2を削減しようというよりは、地球環境問題を名目として、いかにして自分の利益を上げるのかと争っているのだ。

  考えてごらん。人は何のためにCO2を多大に排出しているのか。自己利益のためである。つまり、自己利益を求める事を是とする地獄界・餓鬼界・畜生界の思考常識が地球環境問題を引き起こしているのだ。その名目をいくら代えたとしても、三悪道思考そのものは変わっていない。目先をいくら変えても、根本をかえないとこの地球環境問題には対処できない。中には、地球が住めなくなるのならば、地球以外に住める場所を探そう。とか、温暖化するならば核の冬を創り出して寒冷化させればよいなどと考える者たちもいるようだ。

  しかし、地球はJHVHにより創られたJHVHを創り出すための揺りかごなのだ。今の人類は、JHVHとなる候補である。候補は、過去にも存在し、未来にも存在する。もし、今の人類がJHVHとなる道を踏み外し修復不能となるならば、早々に滅ぼし、次の人類のために地球を使った方が良い。あなた方も失敗作はどこがどのように間違ったのかと分析し、廃棄するではないか。その対象が自分たちだとしても仕方ないことぐらいわかるのではないのか。

  さて、実際はどうなのか。今、異常気象、地球温暖化などと騒いでいる。これらの問題にCO2が完全に無関係と言うわけではない。CO2の影響は3~5パーセント程度しかないのだ。異常気象の最大の原因は、降るはずのない雨を降らそうとしたり、降るはずの雨を降らすのを止めたりしていることにある。

  地球も人間の体と同じで、いろいろなものバランスにより成り立っている。このバランスを壊すと病気になる。この病気を治そうと、起こるのが異常気象などの天変地異なのだ。異常には長期的なものと短期的なものがあり、CO2は長期的なものと言える。まぁ、人間で言えば慢性病と言える。

  しかし、昨今の異常気象は、きわめて短い周期で動く。この原因は、短期的、反射的なものと言える。人間で言えば火傷や怪我をした状態なのだ。では、短期的な原因とは何か。例えば核兵器を空中で爆発させると雨が降ることが知られている。これは殺傷兵器として使った場合も、実験で使った場合も、地球にとっては同じである。

  戦争によって、人と人とか殺しあう。これは人にとっては重大な事となるが、地球にとっては、工場から排出される煙と同じである。しかし、人が地球の天候を強制的に動かすことは、地球にとって核兵器に匹敵する、もしくは核兵器以上の作用となる。人が、天候をいじればろくなことにはならない。昨今の異常気象は、その七割は人が地球の天候をかえたことの反動だという。この中の半分弱を中国が行っているという。つまり、中国政府の政策が今の異常気象の最大の原因であり、CO2自体は、まだ、目に見えない程度の影響だという。これらはわたしの眷属からの情報である。

  まぁ、異常気象を抑えたいのならば、まず、天候の変動を試みることを止めるべきだな。ただ、今、止めてもすぐには異常気象が収まるわけではない。それでも、徐々に収まっていくはずである。

 

  さて、CO2が実際に重大な影響をもたらすのは、約1500年後である。この間、地球は温暖化と寒冷化を繰り返す。振り子のようにその振幅が大きくなっていく。これが臨界点を迎えると、一気に平均気温が大きく変動する。この臨界点が1500年程度先に来ることとなる。このようになると人類は全滅する。

  何が、この振り子を動かす原因なのかと言えば、人の我欲である。例えば、今日でも、自分たちの欲する場所に雨を降らせようとしている。また、我欲を叶えるために、大量のエネルギーも消費する。これがCO2であり、CO2がすべての元凶のように人々は語っているが、実は、この地球環境問題自体が、『三悪道から離れよ』と言う警告なのだ。

  つまり、決まっているのは人類滅亡の方であり、環境問題に依る地球環境のジャンプではない。今の人々は、三悪道を常識とし、その常識から物事を定めている。このこと自体が人類滅亡の原因である。

  この原因を解消しさえすれば、すべては順調に進む。と、言ってもわたしが関与できるのは8000年先、つまり、西暦一万年までである。この時には、次の者が現れる事となっている。

 

  さて、いつまでに、三悪道の常識から離れればよいのか。実は意外と近く、400年先には、離れる必要がある。この時にまで、三悪道から離れられないとなれば、人類滅亡への一本道を歩むこととなる。この滅亡への道を歩む場合、最大の障壁は、わたしの存在である。このため、まず、わたしの存在を知る者は誰もいなくなる。人々は、三悪道のまま推移し、実際に滅亡するのは、1500年程度先のこととなる。

 

  では、人類は滅びるとしたらどのように滅びるのか。はっきりわかることは、三悪道から思考する現代の政策を推し進めれば滅びるという事だけである。例えば、わたしの存在は嘘だとし、科学技術こそが真実であり、正しいとすれば、これは滅びへの最短距離となる。あなた方自身がこれを知っている。だから、現代科学の範囲で何とかしなければと努力しているのではないのか。他にもいろいろ考えられる。偽キリストが現れ、イエスを信仰すればヨハネの黙示録により火と硫黄の燃える地獄に堕とされることは決してないとしても、これも滅びへとつながる。簡単に言えば、今のカトリックやプロテスタントが正しいとするならば、これも人類滅亡へとつながる道である。このように、滅びへの道は舗装された高速道路のように広い。しかし、いつ、どのように滅びるのかは、今のわたしにはわからない。

  あなた方が、滅びへの道を選択するのならば、わたしはあなた方の選択を尊重する。『今の人類はダメであった。しょうがない。早々に滅ぼし、次の人類のためにこの地球を使おう』これが私の考え方である。

 

 

 

さいごに

 

  あなた方の中には、『こんなはずはない』と考えられる方々もいるであろう。『JHVHと名乗る行為は許せない』と言う方々もいるだろう。また、『今の文明が遅れた文明であるわけがない』と語る方々もいるであろう。

  今、わたしは人間としての肉体を持っている。これは、預言者を通して語ろうとしても語れない微妙な物事を語るためである。人の思考を有とすれば、有は無より生じるという程度のことであっても、預言者を通して理解させることなど不可能に近い。ましてや、有無は空より生じるなどと教える事など不可能なのだ。私が人となったからと言って、『空』を人の思考である『有』で語り示す事などできない。しかし、それでも、何も理解できていない預言者が語るよりは、少しはわかりやすいはずである。

  この肉体を持つということが、わたしの最大の弱点となる。つまり、わたしを殺し、これらをすべて消し去ってしまえば、あなた方でもわたしを簡単に打ち破ることができるのだ。

  あなた方の大統領は、SPなどに何重も守られている。殺そうと近づくことも容易ではない。しかし、わたしは一人だけである。周囲にほとんど人がいない田舎の小さな村で、一人で生活しているのだ。殺そうと思えば、殺す事など簡単であろう。また、わたしの言葉は小さなブログでしか公表していない。大規模な改変を行わなくても人々の記憶から消し去ることも簡単であろう。

  わたしが手紙を記す相手は、各国の日本大使館が主である。全世界の指導者が集まって握り潰せば、一般の人々に知られることもなく消去できるであろう。

 

 

  わたしは、わたしの力により人類を導くのではない。あなた方に選択肢を提供し、あなた方に『どうするのか』と問うているのだ。あなた方が『これは不都合である。消し去るべきである』と思うのならば、わたしを殺し、わたしが書いたものを封印してしまえばよい。これも一つの選択肢なのだ。

 

  あなた方が選択した通りに、世界は動き未来は定まる。わたしはここに、人類存続の道を記した。しかし、これをあなた方に強制するわけではない。あなた方には『こんなわけはない。人類が滅びるわけはない』と、ここに示してある滅びを選択する自由もあるのだ。

 

  わたしの肉体は、やがて死に、やがて朽ち果てる。このような肉体に、わたしの本体があるわけではないが、これは事実である。また、あなた方の肉体も、わたしと同じようにやがて死に、やがて朽ち果てる。これも事実である。JHVHの本体は法にある。ここに記してあることがわたしの肉体よりもJHVHに近い。だから、もし、真にわたしを打ち破りたいのならば、朽ち果てる肉による勝利を求めるのではなく、法によりわたしを打ち倒すべきである。つまり、まず、法論によりわたしを退けよ。この挑戦権は、あなた方一人ひとりにある。

 

  私は肉体としては日本人である。日本に住み、日本語でこれらの言葉を記している。なぜなのか。日本語が万能と言うわけではないが、日本こそが仏教の終着地であり、日本語には仏教、特に法華経の考え方が浸透している。このため、一番説明しやすいのが日本語なのだ。このため、わたしに法論を挑もうとするならば、仏教用語も理解した上で、日本語で挑んできなさい。

 

  また、証拠が残らない言語による論戦はわたしは受けない。このため、わたしを論破しようとするならば、必ず証拠の残る文書によってわたしを論破しなさい。

 

  もし、わたしを論破する者が現れたのならば、あなた方はわたしではなく、その者に従うべきである。わたしは自分が法により勝つことも、負けることも重要だとは思わない。人類がより良い未来を得る事が重要なのだ。だから、わたしに勝る者が現れ、わたしが論破されるのならば、これこそが、わたしの望みなのだ。

 

これらの言葉は自由に翻訳してもらって構わない。

 

 

 

以上全文

 

アメリカ合衆国日本大使館御中

 

 

 

わたしがイエスの父JHVHである

 

 

  あなた方は、アメリカこそが世界の覇権国であり、世界を導くと考えていらっしゃるのかもしれない。では、あなた方は世界をどのような方向に導こうとしているのか。その方針は決まっているのか。おそらく、民主主義を推し進めよう程度のことであろう。

 

  では、その民主主義を進めたならば、数々の問題は解決できるのか。民主主義で、戦争は収まるのか。民主主義で貧困問題は解決できるのか。民主主義で多発する犯罪を抑える事が出来るのか。民主主義で、地球環境問題は解決できるのか。

  いや、何一つ解決できない。では、なぜ解決できないのか。解決できないのに、なぜ民主主義を推し進めるのか。他の解決策はないのか。このように尋ねると、返答はしどろもどろとなってしまう。

 

  わたしは、あなた方が優れているとは思わない。むしろ、劣っており、まだ、人にもなっていない獣であると考えている。獣だから、この程度の簡単な問題に答えも出せない。獣だから、世界の国々にマウントをとっている。獣とは、最低レベルと言うことである。もっとも、最低レベルの獣のレベルを上げる事はさほど難しいことではない。

 

  わたしがイエスの父JHVHである。あなた方は、『我々は人であり獣ではない』と、言われると思う。もし、あなた方がわたしが出す簡単な質問に答える事が出来るのならば、あなた方のことを獣と呼んだことを謝罪しよう。

 

第一問   なぜ、戦争は起きるのか。

 

第二問   なぜ、貧困問題はなくならないのか。

 

第三問   なぜ、犯罪は無くならないのか。

 

  これは人であれば答えられる。しかし、獣では答えられない問題である。わたしは原因を問うているのだ。原因が分かれば解決策は自然と分かる。しかし、原因がどこにあるのかがわからないと解決することなどできない。あなた方は、法を定め、罰則を強化し、それによって、これらを解決しようとしてきた。しかし、解決などできなかった。

  この程度の容易な問いに答えらないと、とてもじゃないが、地球環境問題に対する答えなど出せない。

 

 

  あなた方はともかく、テスラCEOのイーロン・マスク氏は、この地球環境問題を真剣に考えた。自分自身のことよりも、人類の行く末を心配したのだ。あなた方はどうなのか。あなた方の内、誰がイーロン・マスク氏のように人類の未来を心配したのか。

 

  はっきり言えば、今のアメリカではわたしが出す、これらの簡単な質問にすら答えられないであろう。動物園の猿と同じである。誰がトップになるのかと争うが、トップとなると後は何もない。ボス猿は自分の権力の維持のみを求め、次のボス候補を追い払う。この繰り返しである。

 

  イーロン・マスクはあなた方とは違う。人類の行く末を本気で心配し、本気で解決策を求めたのだ。わたしは、彼が求めるものを知り、彼が探し求めてきた答えを彼に授ける事が出来る者である。世の中には『答えを授ける』と語る者も多くいるであろう。しかし、実際に彼らが求めているのは彼の財である。そして、彼自身もこのことも知っている。

 

  わたしは、彼の財を求めているわけではない。また、世の中を導くのに、彼の力を必要としているわけでもないし、アメリカの力を必要とするわけでもない。この程度のことを成し遂げるだけであれば、わたし一人で十分なのだ。私から見れば、あなた方の力など無に等しい。あなた方がわたしに助力しようが、わたしと敵対しようが、正直に言えば何も変わらない。

 

  では、なぜ、このようなものを書き示すのか。イーロン・マスク氏の『人類の行く末を案じる』という心が賞賛に値するからである。わたしは彼のこの心を賞賛する故に、彼に彼が求めてきた答えを授けようと思う。わたしがJHVHである。

 

  真理は、誰が否定しようが肯定しようが何一つ変わらない。これが真理である。わたしは永遠の真理を、ここに公開しよう。私が、これらを公開するのは、イーロン・マスク氏の心を賞賛するからである。

 

  これゆえ、本文はイーロン・マスク氏に宛てたものであり、それとほぼ同じ内容を、アメリカ合衆国日本大使館にも送付する。

 

  世の中には、聖書があり、コーランがあり、仏典もある。また、近年では科学技術が発展し、人々は科学技術こそが神に勝るとも考えている。これは、科学技術教という一つの新興宗教が生まれ、この新興宗教の信徒たちが、地球環境問題を引き起こし、人類そのものを滅亡の淵に追いこもうとしていると言える。人々はこの科学技術教が新興宗教であることにも気づかない。このため、この科学技術教の教義に従って物事を考え、行動を起こし、未来を見定めようとしてきた。しかし、争いが絶えることもなければ、貧困問題も残されたままである。人類滅亡の未来も見えるのだが、有効な対策は何も出てこない。それでも科学技術教から離れられない。これが現在の人間社会である。

 

  わたしに言わせれば、どうして聖書vsコーランvs仏典となるのか意味不明である。また、宗教の定義が真理ではないものを真理であると信じることとするならば、どうして、科学技術、民主主義、共産主義などが宗教の一種であることに気づかないのか、これも理解不能である。あまりにも情けなく、あまりにも低レベル。

  ただ、低レベルであれば、そのレベルを上げていくことなど簡単ではある。これはわたしの愚痴である。確かに、このような愚痴をあなたに語っても意味はないのだが、もうすこしまともになっていてほしかった。これが、今の人類に対する、わたしの感想である。

 

 

 

 

現代の科学技術が宗教に過ぎないことの証明

 

 

  最初に簡単に今の科学技術が一種の宗教に過ぎないことを証明してみよう。今の科学技術は数学が根本となっている。数学とは1+1=2を真理として、そこから物事を思考する学問なのだが、本当に1+1=2となるのか。

  二人の人を一つの空間に入れたとしよう。1+1=2であるならば、どこまでいってもその命は二つのはずである。このようにはならないのは誰もが知っている。つまり1+1=2とならない事象は確実に存在する。

  また、一人の人が行う作業量を1としよう。もし1+1=2ならば、ふたりで行う作業量は2となるはずである。しかし、実際には0となることも、マイナスとなることも、2となることも、10となることもある。つまり、1+1=2は真理ではなく、仮定の定義である。真理ではないものを真理であると仮定して、そこから物事を考察しているのが数学であり、自然科学と言うことになる。

 

  根本に仮定が含まれるものが真理となり得るのか。真理ではないものを真理であると信じているだけではないのか。これを宗教というのではないのか。

  数学は科学技術の根幹である。そして、数学は物質という範囲では確かに真理となる。しかし、物質を超えたもの、具体的に言えば命が絡んでくると真理とはならない。また、この真理を考えるのは命であるというところに根本的な矛盾がある。

 

 

 

 

わたしは何をもって正しさの証明とするのか

 

  聖書に於いては『自分が誰であるのか』このあかしこそが最重要となる。なぜ、これが重要なのか。たとえば、わたしはJHVHと名乗っている。しかし、歴史上、過去に、『わたしがJHVHである』と名乗ったのはイエスのみ。彼以降多くの者たちがイエスの名を名乗ることはあっても、自分が天地の創造主JHVHであるとは名乗らない。名乗らないのではなく、名乗れないのだ。

  なぜ、この名が名乗れないのか。これは、霊的な者たち、すなわち、天使とか悪魔、神々とか魑魅魍魎と呼ばれる者たち、すなわち天が認めないと名乗れないからである。どういうことなのか。

  例えば、わたしはJHVHであると宣言している。この宣言は、実は天に対する支配権の宣誓なのだ。このため、彼らは彼らの持つすべての力を使ってJHVHと名乗ろうとする者を滅ぼしに来る。つまり、もし、偽物であれば、この名を名乗ろうとした途端に存在が抹消されてしまうこととなる。

  確かに彼らの力は強大である。地球を叩き壊す程度のことであれば、彼らにとっては容易いことなのだ。しかし、彼らが総力を上げて殴りかかってきたとしても、真のJHVHであれば壊す事も傷つけることもできない。この霊的な者たちの攻撃があるので、聖書で『天からそれを受けなければ名乗ることはできない』と記されているのだ。

  JHVHとは絶対法である。JHVHとは絶対真理である。彼らがいくら強力であったとしても、絶対真理に傷一つつける事はできない。絶対法を破ることなどできない。これが『私はJHVHである』という宣言の意味である。これが聖書による証明となる。

 

  実は、もう一つ証明法がある。これは仏教に於ける証明方法なのだが、仏教では『依法不依人』の原則がある。『依法不依人』とは、誰が語ったかではなく何を語ったのかが重要であり、誰が語ったとしても真理は真理、虚偽は虚偽。これが仏法である。さて、では、それが真実であるとどのようにして証明するのか。仏教では『三証を立てよ』とされている。三証とは、

 

どの経典に従っているか(文証)。

 

筋道が通った説明ができるのか(理証)。

 

実際にその通りになっているのか(現証)。

 

  この三種である。この三種の証明を立てる事により『これは正しい』とされる。これが仏法である。確かに、わたしは多宝という如来名も持っている。また、無辺行という菩薩名も持っている。しかし、仏教的には、これらの名が正しいあかしとはならない。あくまでも重要なのは語る法であり、その法に三証があるのかという事となる。

  実は、法を語る場合の規定も細かく設定されている。『依法不依人』はそのうちの一つであり、あとは『依了義経不依不了義経』『依義不依語』『依智不依識』となる。これらを細かく解説してもよいが、これらをクリアーするのはかなりハードルが高い。

 

  では、この仏教の原則により今日の科学技術教を判定してみよう。

科学技術には、経典による裏付けがない。つまり文証はない。

また、道理に於いても瞬殺できる程度のものでしかない。つまり、理証もない。

そして、何よりも、科学技術の発展により殺し合いは無くなったのか、否。

明るい未来展望は開けたのか、否。

科学技術の発展により地球環境問題と呼ばれる大問題を生み出しただけである。

つまり、現証もない。

 

  まぁ、今の人はこれを信奉している。しかし、仏教的に言えば、真理とは程遠いゴミのようなものでしかないということになる。

 

  当然の事ながら、わたしが語る法には仏典による裏付け文証がある。わたしは、道理を語り、その道理により聖書やコーランの意味を解説する。つまり、人々が今まで疑問としてきたことの疑問を晴らすことにより理証とする。そして、実際にわたしの語る通りとなっているのか、実例を挙げて、その証明としよう。

 

  わたしは、あなたに多くのことを教える。しかし、あなたは、別に信じる必要などない。『正しい』と信じるよりも、むしろ『本当だろうか』と疑うべきである。私が語る法は金剛不壊。天使や悪魔、神々や魑魅魍魎たちが総力を上げて壊そうとしても、傷一つつける事はできない。だから、あなたも、むしろ、やみくもに信じるのではなく、自分の持つすべての力を以て、わたしの語る法を壊そうと試みるべきである。

 

 

 

 

 

十界論

 

 

  あなたは『自由に発想している。自由に考えている』と思っているかもしれない。しかし、実はあなたの思考自体がある原則に縛られている。このあなたの思考を縛っている原則を『常識』とか『境地』と呼ぼう。この常識・境地は、親から子へ、周囲から各個人へと伝わっている。国とか家族などの集団の常識・境地を根本にして、そこから、各個人は発想しているのだ。しかし、発想自体が属する集団の常識・境地から外れる者たちもいる。

  例えば、イーロン・マスク氏の常識・境地は天界と呼ばれるものである。しかし、彼が所属する社会の常識は畜生界でしかない。畜生界の常識では、あなたは異端者となり、精神障害者と呼ばれることとなる。彼らにイーロン・マスクは理解できないのだ。しかし、イーロン・マスクには彼らも理解できる。このため、彼が彼らの常識を理解し、彼らの常識の範囲で語り、彼らの常識に合わせて行動することになる。このように行動しないと、昔ならば異端審問にかけられ火あぶりにされてしまう。現在でも、精神異常とされ精神病院に隔離されてしまいかねないからである。

  当然、彼らの思考に依れば、わたしも精神障害者ということになる。『自分のことを天地創造の神だなどと語るのは常識外れの精神障害者以外の何者でもない』と、彼らは考えるのだ。しかし、その精神障害者が、今までも誰も解き明かせなかった聖書の意味を語ってきたのだ。

  彼らには、わたしに反論の一つもできなかった。ただ、ただ、イエスとかノーと語るしかなかったのだ。しかし、わたしを認めれば、今まで自分たちが積み上げてきたものが根本から崩れてしまう。このため、陰でこそこそと、『彼は精神障害者だから、彼の言う事など聞くな』とするしかなかろう。

 

  人は自分が理解できないものを異常とする。しかし、これは、あなたがおかしいわけではなく、わたしがおかしいわけでもない。また、社会がおかしいわけでもない。社会とあなた、そして、わたしの常識・境地が違うだけである。

  では、人が思考の根本としているもの、常識としているものにはいくつの種類があるのか。十種類である。十種類しかないというべきか、十種類もあるというべきかはともかく、まず、常識・境地には十種があると覚えていただきたい。この十種は、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界と名付けられている。この分類は仏教の法華経のものであり、この名前も仏教に由来している。最初に、これら十種類がどのようなものなのかから語っていこう。

 

 

 

 

 

地獄界(じごくかい)

 

  これは弱肉強食の常識・境地である。つまり、強者は弱者を殺し、そのすべてを奪うのが当然であるという常識となる。

 

 

餓鬼界(がきかい)

 

  これは、王と奴隷の関係の常識となる。全ての決定権は王にあり、奴隷は王の決定に盲目的に従わなければならないという常識となる。地獄界では殺し合いとなるが、餓鬼界では、殺すか殺さないかの決定権を勝者が握る。

 

 

畜生界(ちくしょうかい)

 

  餓鬼界の王を法に変えたものが畜生界の常識となる。法はあらかじめ定められており、その法に従う限り自由が保障される。法に違反する者の罰則も法に依って定められている。すなわち、法治主義が畜生界の常識となる。

 

 

修羅界(しゅらかい)

 

  人は、分からなくなるゆえに葛藤し努力する。葛藤努力する者が優であり、葛藤努力を怠る者は劣であるという思考・常識が修羅界の常識となる。

 

 

人界(じんかい)

 

   人と人との間に優劣はないという思考・常識が人界の基本である。男女の間にあるのも相違であり、優劣ではない。上司と部下の間にあるのも役割の違いであり優劣ではない。金持ちと貧乏人の間にあるのも、持ち物の多少であり優劣ではない。このように差異があっても、それは単なる差異であり優劣ではないという思考・常識が人界の常識となる。これは自分自身についても同じである。努力する自分も、自堕落な自分も、自分であることには変わりはない。そこにあるのは、差異であり優劣ではないという思考が人界となる。

 

 

天界(てんかい)

 

  天界も人界と同じく、自分自身の状態に優劣を設けない。つまり、何をしても良いし、何もしなくても良いという思考が基本となる。では、何もしなくてもよいのならば、人は本当に何もしなくなるのか。と言えば、それでも何かをするのが人である。このため、自分がしたいことをすることになるのだが、自分と他人との間にも優劣を設けないので、自分がしたいことは、他の人の望むものなのかと思考することになる。ここから、自分も望み、他の人も望むことをしようと言う思考となる。つまり、意識の基準が自分ではなく、集団となる。この集団に自分の意識の中心を置くのが天界思考である。

 

 

声聞界(しょうもんかい)

 

  人は、ある時、人界や天界の思考常識を持つようになったとしても、縁により、すぐに地獄界や餓鬼界の常識思考に堕ちていってしまう。この、地獄界から天界までの常識を、六道と呼び、思考の基準が定まらないのを六道輪廻と言う。この六道輪廻の状態から抜け出すためには、どのようにすればよいのか。人の思考常識がめぐる範囲を俯瞰する位置に自分の常識を持っていけば、六道輪廻の状態から離れる事が出来る。この人の思考の基準が動く範囲を上から眺める位置にある常識が声聞界である。

 

 

縁覚界(えんかくかい)

 

  人の思考が動く範囲を『有』と呼ぶ。つまり、人の思考は六道の範囲でしか動かないのだ。このため、それを俯瞰する声聞界の位置と聞いても、人は覚える事はできても、『何をしたらよいの』『どうすればよいの』となる。この『何をしたらよいのか』と言う思考は、六道の内にあり、『人の思考が巡る範囲は六道の内にある』という思考は、人の思考の外にあるものと言うことになる。この人の思考の外にあるものが『無』であり、声聞は『無』の入り口でもある。この『無』を常識とするのが縁覚である。その道の達人と呼ばれる者たちがいる。彼らは『心を無にしなさい』と教え、自らもそれを実践している。この彼らの常識が縁覚である。六道は有であり、縁覚は無である。六道は動であり、縁覚は不動である。この有と無、動と不動をつなぐのが声聞であり、声聞とは、無に至ってはいないが無を知る、不動には至っていないが不動を知る状態ともなる。

 

 

菩薩界(ぼさつかい)

 

  人は有の反対を無とする。しかし、実際は、昔の人々が無から生み出したものを有として、継承している。この継承が知識である。つまり、有の反対が無と言うよりは、有は無より生じるという言葉の方が正しく、より本質的なものが無となる。では無がすべての根源なのかと言えば、実はさらに本質的なものがある。理解しやすい言葉にすると、有無の反対が存在するとでも言っておこう。これを『空(くう)』と呼ぶ。つまり、有の反対が無であり、有無の内、より本質的なものが無である。有無の反対が空であり、有無は『空(くう)』より生じる、と言うことになる。言葉にするとは『有』とすることになるので、『無』となると説明が難しくなる。有無を超える空となると、実は説明そのものが出来ないような状態となる。この空に自分の境地を持っていった者が菩薩である。

 

 

仏界(ぶっかい)

 

  無から有を見定める位置が縁覚である。これと同様に『空(くう)』から有無を見定めるのが仏である。この仏界こそがJHVHの位置であり、わたし自身が空と言う位置があることの証明、仏界と言う位置があることの証明となる。実は、有無と空との間には接点がない。有無側にある地獄界から縁覚界と、『空(くう)』側にある菩薩界と仏界は本質的に全く違うものなのだ。菩薩とは、この空に自分の常識を置き、有無の世界である現世で生きている者を指す。有無と空とでは、空がより本質的なものであり、有無からは空は理解不能なのだが、空から有無を知ることは可能である。この空からすべてを観るのが仏であり、この位置からであれば全てがわかるので全知全能となる。

 

 

 

 

十界の優劣

 

  この十種類が、人が至ることができる全ての常識・境地である。そして、この十種類には優劣が定まっている。地獄界が最劣であり、仏界が最優となる。そして、上位の思考常識からは下位の思考常識は一応理解できる。しかし、下位の思考常識から上位の思考常識は理解不能となる。

  例えば、地獄界の常識を持つ者は、『相手を殺して、そのすべてを奪えばよい』という常識を持つ。その者が餓鬼界の常識『言うことを聞くならば生かしておいてやる』が理解できるか。彼の常識から言えば、生かしておけば、今度は自分が殺されることになるのだから『理解できない。あいつはおかしい』となる。

  例えば、今、ロシアがウクライナに攻め込んでいる。ロシアの常識は餓鬼界であり、欧米の常識は畜生界である。つまり、プーチンは『ロシアが王だから、ロシアがウクライナに一方的に命じるのは当然であり、命令に違反するならば罰を与えなくてはならない。』『アメリカがロシアのものを奪いに来た。』と思考しているということになる。

欧米は、『全員が国際法に従うべきである』と言う思考となり、国際法違反は罪であると思考している。同じ国際法であっても、プーチンは『国際法を守らなくてはならないのはウクライナでありロシアではない』と考えるので、ウクライナ侵攻は正当な行為と言う思考となる。

  例えば、日本の常識は人界である。人界では人と人との間に差異はあるが、優劣はないという常識となる。これに対して、畜生界や修羅界の常識では、何によって優劣を定めるのかとなり、優劣があることが前提となっている。このため、日本は理解不能な国、不思議の国と言うことになる。

  このように、上の境地・常識からは下の境地・常識が一応、理解できるが、下の境地・常識にとらわれると上の境地・常識は理解できなくなる。

 

 

 

 

 

 

聖書・コーランの意味

 

旧約聖書

 

  犯罪とは何か。実は、地獄界・餓鬼界・畜生界の思考が具現化したものが犯罪と呼ばれるものとなる。このため、この三種を三悪道と呼ぶ。地獄界の世界では、殺し合いが日常となる。殺されたくなければ殺すしかなく、奪われたくないのならば殺すしかない。これが地獄界の日常なのだ。自分の言うことを聞くのならば、殺す事だけは勘弁してやろう。と言うのが餓鬼界である。王が出現し、他の者たちを王の命令に無条件で従う奴隷とする世の中となる。奴隷となりたくない者たちは『誰が王となるのか』と殺し合い、生き残った者が王となる。王に逆らう事を諦めた者たちは、最初から奴隷となることを選択する世界となる。次に、公平な絶対法を定め、その法に依り優劣を競うべきだとすべきという思考となる。勝者は敗者から奪う権利を得るが、何をどの程度まで奪えるのかも法によって定めればよいという常識であり、これが、畜生界である。

  ここまでは、『どのようにして』は異なるのだが、すべて『他者から奪う』と言う思考である。この他者から奪おうという思考が具現化したのが犯罪と呼ばれるものとなる。つまり、地獄界・餓鬼界・畜生界を常識とすれば、その常識を持つ者たちの行動は犯罪としかならない。これが、この三種を三悪道と呼ぶ理由である。

  では、人が犯罪者とならないようにするためにはどうすればよいのか。一番簡単なのが、修羅界に導くという方法である。修羅界とは考え、葛藤する位置である。人は迷うゆえに考え、迷うゆえに努力もする。何が正しいのかわからなくなれば、人は何が正しいのかと考え、何をすればよいのかと悩むものである。

 

 

  モーセは人々に十戒を示した。十戒には人を殺してはならないと記されている。ところが、同じ聖書の中でモーセは人を殺したとも記されている。本当に殺してはならないのならば、それを人々に示したモーセが人殺しをして良いわけはない。もし、人を殺したとしても、そんなものは隠してしまえばよい。それなのにどうして、同じ聖書の中でモーセは人殺しをしたと記されているのか。人は迷い、意味が分からなくなる。なぜなのかと、考える。では、意味が分からないと考え迷う者は、他者のものは何でも奪えばよいと考えるであろうか。

 

  また、十戒には姦淫してはならないとも記されている。近親相姦は姦淫の中の姦淫とされる。しかし、ロトとロトの娘たちは近親相姦により子をもうけたが、ロトもロトの娘たちもその子孫も神の祝福を受けている。この話も聖書に記されている。これを知るものはやはり迷い考える。

 

  また、神は『それが罪か??』と、どうしても罪とは思えないものを罪とし聖書の中で人々を滅ぼす。また、明らかに罪人としか思えない者たちに祝福を与える。これらも聖書に明記されている。これを読む者は迷い考える。

 

  近年、エホバの証人などと言う者たちが、『血を避けよ。これだけは神エホバが我々に下された戒律である』などと言って、輸血拒否をすると聞く。

これをわたしからみれば、

『ちょっと待て。イエスは、これが私の血である。これが私の肉であると語り、人々に自分の血や肉を勧めたのではないのか。それなのに、どうして、輸血を拒否しなくてはならないのだ。私がそのエホバなのだが、エホバの証人のエホバとは、いったいどこの誰なのだ???』となる。

  この例が示すのは、人にとって『これが絶対に正しい』と考えることにより、行動が罪となるということである。つまり、エホバの証人は、聖書の意味を取り違え、修羅界よりも三悪道の方がよいと思考している事となる。つまり、人々を罪に閉じ込めようとする教えなのだ。

私は、そんなことは命じていないし、このようにしようと考えたことすらない。

このため、わたしは、エホバ神を召喚しようとしたのだ。

しかし、何も現れなかった。

 

  また、ユダヤ人は、『自分たちは聖書の民であり他の者たちよりも優れている』と考えた。このように考えることにより、他国に蹂躙され、捕囚となり、アウシュビッツに送られることにもなった。なぜか。聖書によりユダヤ人は、迷い考える者たちとなっているはずである。しかし、彼らは聖書を離れ、迷い考えることを止めたのだ。修羅界に留まることを止め、三悪道に堕ちる選択をしたのだ。

 

  人を罪から離すためには、修羅界に導けばよい。修羅界とは葛藤であり、努力の位置である。人は迷うゆえに、葛藤し、努力する。ならば、迷わせるように聖典を示し、これを守れとしたらどうなるのか。葛藤し努力する修羅界に至るのだ。修羅界に至る者は犯罪者とはならない。つまり、これらは聖書本来の仕様なのだ。

 

 

 

福音

 

  さて、イエスの思考や行動は人界を示す。人界とは、自分と他人との間に優劣をつけない。王であろうとも、奴隷であろうとも、聖人であろうとも、犯罪者であろうとも、優れているわけでもなく劣ってもいるわけでもないという思考となる。ただ、そこにあるのは違いだけなのだ。男と女には違いはあるが優劣はない。王と奴隷には立場の違いはあるが優劣はない。悪魔と天使にあるのも違いであり優劣ではない。この思考常識が人界である。

  人々は聖書を守らないゆえに三悪道に堕ちてしまった。せっかく修羅界に導いたのに、迷いを嫌うゆえに思考も止め、努力も止めてしまったのだ。しかし、考え努力することよりも勝る常識が存在する。これが人界であり、イエスは人界を常識とするゆえに、三悪道や修羅界の世に勝るものとなる。

 

  人は、イエスの奇跡ゆえに信じるなどと語る。死者をよみがえらせたり、水の上を歩いたり、魚やパンを多くの人々に分け与えたりしたから神の子であるなどと言っている。しかし、現代医学でも同じことができる。船に乗れば誰でも水の上を移動できる。小麦を栽培し、魚を養殖すれば、何万人にでも分け与える事が出来る。イエスの奇跡など、現代社会においては見せ物程度の価値しかないとなるではないか。

  では、本当に見せ物程度の価値しかないのか。聖書に於いて水は人が知る水とは別の意味を持つ。聖書によれば、水を天の上と地に分けているのは多くの人が知るところである。まさか、太陽や星々のさらに上に水の層があるなどと信じる者など、いつの時代でもどこにもいないのではないのか。

 

では、この問いを解いてみよ。

 

水には、天の上の水と地の水があり、地の水が乾いたところが地である。

この天と地の水の中に大空があり、

その大空にあるものが太陽と月と星である。

その水に住むのが魚であり、大空をとぶものが鳥となる。

 

では、これらは何を示すのか。この通りになっているのは一体何なのか。

これが聖書の設問である。この程度の問題であれば、誰でも解けるとおもうのだが、どうして、誰も解けないのか。

 

  何千年もかけて、この程度の設問に誰も答えを出す事が出来なかった。これが、事実である。そして、今の世に於いても、この設問は皆が知る。しかし、これが設問であることにも気づかない。鈍き者たちよ、自分たちが優れているなどと思うな。あなた方は、人ではなく獣に過ぎないからである。獣に問うても答えられないのは当然か・・・・仕方ない。わたしがお教えしよう。

 

  水とは思考を示す。つまり、天の水とはJHVHの思考であり、地の水とは人の思考と言う意味となる。十界論で言えば、地の水が六道、天の水が菩薩界・仏界となる。わたしは、今、あなた方に人の思考の範囲を六道として教えている。あなた方は、今、実際に聖書でいう海の上を歩いているのだ。これは、船に乗ってもわたることはできない、飛行機に乗っても飛ぶこともできない海である。『イエスは水の上を歩いた』と記されている。イエスが上を歩いた水も、この聖書の水なのだ。

  『イエスはパンと魚を割いて人々に分け与えた』と記されている。魚とは何か。人々が『これが正しい』として、その正しいものにより創り上げた思想が聖書でいう魚である。民主主義や法治主義も、宗教や哲学倫理も、聖書に於いては全て魚と言う事になる。魚であれば根本がしっかりしているので、ここが間違っているとか、ここから間違えたと指摘できる。しかし、世の中には根本がどこにもない考え方も存在する。根本がどこにもないものは改めようがない。魚を分けるとは、問題点を指摘し、ここが間違っている。ここから間違えたと解析することを示す。

 

  現実社会は人の思考により生じ、人の思考から離れて存在するものであり、これが聖書の地と言うことになる。この地の産物が小麦でありパンである。つまり、人が生きていくために必要な要素が聖書でパンとして示されるものとなる。パンを割いて分けるとは、人が生きていくために必要なものは用意されているという意味である。

 

  『イエスは足萎えを治し、盲目を見えるようにし、死者をよみがえらせた』と記されている。現実社会のしがらみに縛られて動けなくなっているのが『足萎え』である。どうすればわからなくなっているのが『盲目』である。

  なぜ、平等思考を人界と呼ぶのか。これが人の本来の姿だからである。今の人々は、この本来の姿を忘れ、三悪道に堕ちている。そればかりではない。人界・天界を異質であるとして排除しようとしてきた。なぜ、本来のものを異質とするのか。腐っているから、腐っていないものをおかしいと感じてしまうからである。生きていれば、腐りはしない。つまり、生きているとは名前だけで、実は死んでいる。イエスは、この死者を生き返らせたのだ。現代医学では、この死者の蘇生はできない。

 

 

 

ヨハネの黙示録

 

  ヨハネの黙示録は聖書の中の聖書と呼ばれている。なぜならば、福音書ではイエスの言葉として『私に逆らう者は許される。しかし、来るべき聖霊に逆らう者は決して許されない』と記され、ヨハネの黙示録では『これが予言の聖霊である』と記されているからである。福音の中で、『イエスは予言を成就した』とも記されているから、旧約聖書の予言は、福音で成就されたこととなる。このため、ヨハネの黙示録が福音の聖霊と言うことになる。このように、福音書の内容とヨハネの黙示録の内容が一致するので、ヨハネの黙示録が聖霊であるということに異論はないはずである。

  ところが、困ったことにヨハネの黙示録の火と硫黄の燃える池、すなわち、火の地獄から逃れる術はないのだ。ルターなどは、このどうしても火獄から逃れられなくことに悩み、パウロの手紙に救いを見出したという。では、そのパウロとは何者なのか。イエスが指定した十二使徒なのか。いや、十二使徒ではない。十二使徒の内にも入らない、ただの信徒なのだ。

  本来は聖霊であるヨハネの黙示録が最上位であり、次にイエスの言動を示す福音が続き、その次が十二使徒の言動となり、それ以外の者たちの言動はこれ以下となる。つまり、パウロとなると聖典と呼べるかどうかも怪しくなる。これが、聖書に指定された新約聖書と呼ばれるものの優劣なのだ。ところが、この最上位にくるヨハネの黙示録に従うと、誰も火獄から逃れられなくなる。カトリックもプロテスタントも、『これは困った』となった。

  カトリックが最初に使ったのが免罪符と言う手法である。免罪符を手に入れる事が出来れば、ヨハネの黙示録の火と硫黄の燃える地獄に堕とされることはないとしたのだ。これに対して『地獄・天国の権利を金で買えるのか』と強烈な批判を浴び、この免罪符を改めざるを得なくなった。次に使ったのが、今も使い続けている封印と言う手法である。ヨハネの黙示録が人々に知られないように隠そうとしたのだ。ヨハネの黙示録には『封印してはならない』と記されている。この言葉に違反することにした、と言うよりは、違反せざるを得なかった。自分たちは正しいはずなのに、その正しいはずの自分たちが火と硫黄の燃える地獄の刑罰を受けるはずはないと思うのに、その火と硫黄の燃える地獄に行くしかなくなるからである。

  プロテスタントが使ったのは、順位の変更と言う手法であった。つまり、福音書もヨハネの黙示録も十二使徒も十二使徒以外の言動も同等と言うことにしたのだ。このようにしないと、火と硫黄の燃える地獄から逃れられなくなるからである。

  このように涙ぐましい努力をして、ヨハネの黙示録の火と硫黄の燃える地獄から逃れようとしてきたのが、キリスト教という宗教なのだ。

 

  このことが指すのは、結局、誰も、イエスを信じてなどいなかった。誰も聖霊を信じていなかったという事である。本当に信じるならば、火と硫黄の燃える地獄に入るしかないのならば、意を決してその火と硫黄の燃える地獄に飛び込むしかなかろう。みな、火と硫黄の燃える地獄の淵に立たされ、『お許しください。これだけは御勘弁ください』と泣き叫んだだけである。

  ヨハネの黙示録にはこのように記されている『臆病な者は火と硫黄の燃える地獄が受けるべき報いである』『信じないものは火と硫黄の燃える地獄が受けるべき報いである』と。この臆病な者、信じない者こそが、今のクリスチャンなのだ。

 

  では、わたしJHVHがこのヨハネの黙示録の意味をお教えしよう。人はなぜ、六道を輪廻するのか。人の六道輪廻する自我とは何なのか。この人が自分自身であると思っているものこそが、自己愛の自我である。聖書には原罪と言う考え方があるのはご存知であろう。この原罪こそが、この自己愛の自我なのだ。

  人は他人を愛すると語る。しかし、その愛が裏切られたと思えば、愛は怒りとなり、愛は嫉妬となる。なぜなのか。人が本当に愛しているのは自分自身であり他者ではないからである。

  また、人は博愛とも語る。しかし、実際は人々を愛すると語る自分自身を愛しているだけである。結局、自己愛なのだ。この自己愛、すなわち、原罪から離れるためにはどうしたらよいのか。

 

  自己愛、すなわち、原罪は、現世欲と来世欲の二つから構成される。現世欲とは、他の者に勝りたいという欲望であり、人は現世欲ゆえに、地位や名誉を求めるのだ。この欲望が一番強く働くと、地獄界を常識とするようになる。この欲望が薄くなると、人界や天界の常識を持つようにもなる。要するに、六道とは現世欲の濃度の差なのだ。

  人は考える。では、この考える自我とは何か。この自我こそが現世欲の自我である。このため、現世欲を抑え込むと無思考となる。無思考であっても、残っているのが未来欲なのだ。未来欲は死後の天国と言う形となり、死後の世界への希望と言う形ともなる。しかし、これを残したままでは、原罪は払えない。原罪を払うためには、この死後の希望も消さなくてはならないのだ。つまり、原罪を払うために必要なのが、火と硫黄の燃える地獄と言う事になる。

  つまり、火と硫黄の燃える地獄は原罪を払うために必要な最後の要素であり、これがないと、人は原罪の自我のまま留まることとなる。つまり、ヨハネの黙示録は、『イエスを信じるならば、火と硫黄の燃える地獄に入れ』と言っているのであり、この意味は、『これが、人が原罪から離れる方法だからである。』と言うことになる。

 

  さて、では、実際に人が原罪から離れるとどうなるのか。人は、原罪から物事を思考する。原罪は、現世欲と未来欲の二つから成り立っている。この二つの内の現世欲が有であり、この現世欲を消した状態が無である。『有』とは人の思考とも言える。つまり、人の思考自体がこの現世欲から成り立っているのだ。昨今コンピューターが少し出てきたようだが、このコンピューターが解析できるのは『有』の範囲だけである。人の現世欲が無くなった状態、すなわち『無』となると、もうコンピューターでは手が届かなくなる。この有無が示すのが現世欲である。

  人には、現世欲とは別に未来欲がある。つまり、この未来欲を消すとは、『有無』から離れるとも言えるし、全くの別次元に至るとも言える。この状態を『空(くう)』と呼ぶ。この『空(くう)』と言う言葉は本来仏教用語である。天空は有ると言えばある、無いといえばない。仏教用語の『空(くう)』が先にあり、この『空(くう)』から、天空のことも空と呼ぶようになったようである。この空が示すのが、未来欲からの離脱なのだ。

  人は、死により現世欲から離れて無となる。しかし、それでも原罪から離れる事はできない。そこに未来欲が残っているからである。この未来欲から離れると『空(くう)』に至る。この状態となった時、人は原罪から完全に離れる事が出来るのだ。この原罪から離れた人を菩薩と呼び、その菩薩の境地が菩薩界なのだ。つまり、人はヨハネの黙示録により原罪から離れ、菩薩界に至り菩薩となる。

  六道は有であり、声聞、縁覚は無であり、菩薩、仏は空である。このように説明するしかない。空となると説明のしようがないのだ。実際に至れば誰でもわかるが、至らなければ誰もわからない。この空に至る道が火と硫黄の燃える地獄にあるというしかない。これが、ヨハネの黙示録が聖霊として示される理由である。

 

 

 

コーラン

 

  人間社会は、原罪から成り立っている。これに対して、菩薩には原罪そのものがない。この菩薩がコーランでムスリムと示されているものである。現世の人びとの思考は有である。無となると人の思考から離れる。空となるとこの有無からも離れてしまうのだ。

  菩薩(ムスリム)は、現世とは接点がない空の状態で、原罪から成り立っている現世で生きていかなくてはならない。生きているのだが、生死を離れて生きている状態であり、何もわからない赤ん坊のような状態となってしまう。善悪も分からない、正邪もわからない。でも人の思考はわかるし、人の言葉もわかるという状態となる。

  人は自分が考えている事と言葉に出す事が違う。菩薩は、人の言葉ではなく思考に従う事となる。すると、どうなるのか。無茶苦茶となり、生きていくことすらも困難な状況に陥るのだ。

  このため、菩薩(ムスリム)には、菩薩のための別の導きが必要となる。人への導きであれば、無から有を示せばよい。しかし、菩薩(ムスリム)へは『空(くう)』から有を示さなくてはならないのだ。そうしないと、菩薩(ムスリム)には理解不能となる。しかし、『空(くう)』から示した有は、原罪に囚われている人々には理解不能となるのだ。この『空(くう)』から示した有がコーランであり、コーランは菩薩(ムスリム)を導くためのものであり、『空(くう)』が分からない原罪の人には理解不能となる。

  さて、菩薩(ムスリム)となり、菩薩(ムスリム)から聖書を見ると、人が見るのとまったく違う風景となる。これは観る位置が上の水からとなるためで、下の水も海も大地も眼下に広がるからである。アダムとイブも上から俯瞰するが、アダムでもイブでもあるともなる。男女の差が無くなってしまうので、男とは何なのか、女とは何なのかと考えるようになる。この状態でコーランを見ると、『あぁ、男が人で、女が法となるのね』と分かるのだ。同じように、聖書の豚が何を示すのか、獣が何を示すのかが分かるようになっていく。つまり、コーランは聖書とセットなり、菩薩(ムスリム)にものごとを教える書となるのだ。

  菩薩(ムスリム)にとって、コーランの中で一番無意味な言葉は、『火獄に堕とされる』と言う言葉である。実際に自分がその火獄をくぐっているのだから、何の感情もわかない。すると、これは菩薩(ムスリム)以外の者たちも見るから、その伏線なのだとわかる。菩薩(ムスリム)は地獄も恐れず、天国も望まずという状態となっているからである。

  このように、菩薩(ムスリム)にとっては、聖書だけでは意味が分からないから、聖書の参考書が必要であり、この菩薩(ムスリム)にとっての参考書がコーランなのだ。

  やがて、男が自分であり、女がコーランを示すということもわかるようになってくる。コーランは空から見た有である。聖書は無から見た有である。人には空がわからない。このため、空から見た有も理解不能となる。どこまでいっても理解できないのだから、女は全身を隠せと言うことになる。ここから、菩薩はコーランを説かなくなる。

  これは、どのような意味なのか。菩薩では菩薩を導く法を説けないのだ。菩薩を導くためには仏界に至るしかなく、この仏界に至った者がアッラーでありJHVHなのだ。

 

  この菩薩界から仏界へは、導く法そのものがない。『こうすれば仏となれますよ』という方法がないのだ。方法はないのだが、仏界、すなわちアッラーの世界・JHVHの世界は存在する。これは、このような意味である。人を導くためには、今、人がいる状態と、導く先の状態の二つが分からなくてはならない。つまり、この二つの状態を俯瞰できないと、導く法は示せないのだ。仏界は、これ以上ない最高の境地である。このため、仏界に人を導くためには、仏界を俯瞰する位置に至る必要がある。最高の位置を俯瞰する位置はない。このため、仏界に人を導く法そのものが存在しないのだ。

  つまり、菩薩(ムスリム)をアッラーとしたいのだが、菩薩(ムスリム)をアッラーに近づける事しかできない。菩薩(ムスリム)は菩薩(ムスリム)のままとしかならないが、まず、原罪の現世に惑わされることがないようにはしなくてはならない。これがコーランの意図となる。

 

  イスラム教はコーランを保持してきた。この功績は功績として認めても良いが、言っている事は意味不明である。一から十まで、全てが間違っているのだ。私がアッラーである。私が人に与えたのがコーランのはずなのに、そのコーランからこのような連中が生じるとは思えない。このため、当初、彼らの言うコーランは、わたしが示したものではないのではないと考えた。そこで、わたしは眷属に、『このアッラーを呼び出せ』と命じたのだ。

  当然、わたしとそのアッラーとの戦いとなる。もし、そのアッラーが本物であり、わたしが偽者ならば、わたしは滅び消滅することになる。私には自分の滅びも自分の消滅もどちらでもよいことなのだ。そのアッラーにより良い世となるのならば、それこそ私の望みである。私は半ば期待してアッラーを待った。

  しかし、現れたのはガブリエルであった。彼はこのように語った。『主よ、彼らに御慈悲をお与えください。彼らには、こうするしかコーランを保つことができなかったのです。彼らは、主のお言いつけ通りコーランを今日まで保ってきたのです。その功績に免じ、主よ、お怒りをお収めください』

  この時、ようやく、コーランはわたしが与えたものであることが分かった。要するに、何が書いてあるのかわからないから、人が禁忌を破り勝手に解釈したという事のようである。まぁ、わたしの眷属が取りなすので、一応、怒り矛は収める事とするが、なぜ、コーランがあのようになるのか聞いてみたいものである。

 

  このように書き記しても、あなた方ではイスラム教を論破できまい。そこで、簡単に論破する方法をお教えしよう。コーランの物語はこうである。『アブラハムはアッラーよりムスリムと任じられた。アブラハムは息子イサクもムスリムと任じてくださいとアッラーにお願いした。アッラーがそれを許されたのでイサクもムスリムとなった。』ここで重要なのが、ムスリムの任命権は誰にあるのかと言うことである。もし、ムスリムとなった者が他の人をムスリムと任じる事が出来るのならば、アブラハムがイサクをムスリムと任じればよい。しかし、アブラハムはこれをアッラーにお願いしている。つまり、ムスリムの任命権はアッラーの神権と言うことになる。コーランには『人の犯す罪は許される。しかし、アッラーの神権を犯す行為は、決して許されず、永遠の火獄となる』とも記されている。

  アッラーの声を聞く者が預言者である。つまり、預言者がアッラーより言葉を聞き、その人をムスリムと任じる事は可能である。では、現世に於いて預言者は存在するのか。コーランには『ムハンマドが最後の預言者である』と明記されている。ムハンマドがアッラーより賜った預言がコーランなのだ。

  今、イスラム教徒たちは、自分たちのことをムスリムとする。では、彼らをムスリムと任じた者は誰なのか。ムスリムと任じた者は、預言者とはなり得ない。アッラーの神権を犯す者と言う事になる。アッラーの神権を犯す者は永遠の火獄が受けるべき報いである。また、その者の言うことに聞き従って、ムスリムと名乗る者も永遠の刑罰を免れない。アッラーでもなく、コーランでもなく、偽預言者の言う事を聞きアッラーの神権を犯したのであるから、これが当然の刑罰である。

 

  コーランはムスリムに対して示されたものである。ムスリムではないものがムスリムと自称する事により、今のイスラム教と言う宗教が出来ている。つまり、ここが彼らの最大の弱点であり、ここを攻められると、彼らには対抗手段がなくなる。

 

 

 

聖書は誰のための書なのか

 

  ユダヤ教にはラビと呼ばれる指導者がいる。また、キリスト教には牧師とか神父、司祭と呼ばれる指導者がいる。イスラム教にも指導者がいるようだ。では、いったい聖書は誰のための書なのか。牧師や神父などは、『信仰しなければ裁きの地獄に堕ちる。信仰すれば救われる』としているようだ。これは、裁きの地獄により恐怖をあおり、信徒を増やすために使っていると言えるのだが、実際は、誰のための書なのか。

  これは簡単である。聖書を読む、その人を導くための書なのだ。人は、旧約聖書を見ると、『いったいどうしたらよいの』『いったい、何が正しいの』となる。何が正しいのかわからないから考え、そして、努力もする。この状態が修羅界であり、このように考え努力する者は犯罪者とはならない。

  また、イエスの物語を聞くと、既存の権威にも従わず、さりとて、他の者たちも差別しないという人界思考を知ることとなる。すると、どうして、教会の権威に従わなくてはならないのかと考えるようにもなるし、他の者たちを虐げる必要があるのかとも考えるようにもなる。つまり、誰の導きもなく福音を読めば、人は人界思考を知るはずなのだ。

  また、誰の導きもなく、ヨハネの黙示録を読めば、裁きの地獄は免れないことを知り、ある者はその地獄に飛び込むはずである。すると、そこには飛び込まなければわからない世界が広がっている。やがて、『なるほど、これが天国なのだ』と理解できるようにもなる。このように、すべてはあなた自身のためであり、他の誰かの為でもなく、人類の未来のためでもないのだ。

  しかし、現実にはイエスの時代の律法学者やパリサイ人のパン種の役割を神父や牧師たちが行っているのだ。彼らが話をおかしくするから、何が何かわからなくなっているのだ。

 

  あなた一人が良くなれば、あなたの世界も善くなる。つまり、世界全体が善くなるのだ。人は一神教とか多神教とか語る。例えば、わたしはJHVHともアッラーとも平然と名乗る。あなたは、一応『本当かな??』と疑うか、それとも『そんなわけはない』と全否定しようとする。

  例えば、あなたがわたしを『真のJHVHである。真のアッラーである』と信じたとしよう。あなたは、わたしの言葉により『JHVH』『アッラー』と言う存在を唯一の神としてあなたの心の内に生じさせたこととなる。

  では、その『JHVH』は、本当の天地の創造主なのか。いや、そうではない。あなたが自分の心の中に創造した被創造物のJHVHなのだ。いくらJHVHと名乗ったとしても、それはあくまでも被造物に過ぎない。そのJHVHを創造したのは誰なのか。あなた自身である。あなたがJHVHを創造した創造主ではないのか。

  世の中には、JHVHの神もいれば、アッラーの神もいる。八百万の神々もいれば、仏教の仏もいる。では、それらの内、何が創造主なのか。肯定しようが否定しようが、その神々を創造しているのは、あなた自身ではないのか。唯一の天地創造主とは、あなたのことである。つまり、あなた自身こそが一神教の天地の創造主に他ならない。イエス・キリストという神も多神教の神々のひとりであり、JHVHと言う神も多神教の神々のひとりであり、アッラーと言う神も多神教の神々のひとりに過ぎないのだ。

  また、『地球は太陽の周りをまわっている。これが真実である』と人は言う。しかし、その地球とは、その人が心の中に創造した地球に他ならない。その太陽も、その人が心のうちに創造した太陽でしかない。実物ではないという証明は簡単である。もし、今、この瞬間に太陽が消滅したのならば、あなたが認識している太陽が実物ならば、その太陽も消滅しなくてはおかしい。しかし、実際は8分間はそれを知ることができないではないか。なぜ、わからないのか。あなたが太陽だと思っているものは、あなたが心のうちに創造した太陽だからであり、実物の太陽ではないからである。

  このように太陽も地球も、あなたが心のうちに創造したものにすぎないのだから、太陽が地球の周りをまわっているという天動説も、地球が太陽の周りをまわっているという地動説も、『目くそ、鼻くそを笑う』程度の話でしかない。

  よくよく、考えてごらん。時間も空間も、結局はあなたの被造物の域を出ない。全てが、あなたの被造物なのだ。創造主はその被造物に縛られない。これが永遠の真理であり、これが永遠の命の意味である。

 

  確かに、わたしにとってわたし自身が創造主JHVHである。そして、永遠の命を理屈で語ればこのようになる。しかし、これは『空』を理屈で語り『有』としただけである。このため、何か違うともなる。どのように語っても何か違うのだ。所詮、空を有で語りきることはできない。有の反対は無であり死でもある。私は自分が死ぬことも生きていることも知っている。たしかに生きていることも面倒くさいし、死ぬことも面倒くさい。それでも生きている。永遠の命も知るが、それも私にとっては同じである。本質は何も変わらない。

 

  わたしは、昔、ああしなければならない。こうしなければならない。ああしたい。こうしたいと我欲を盛んにしていた。それをいくら抑えようとしても、抑える事はできず、結局、我欲に振り回されていた。やがて、自分がJHVHであることを知った。自分がJHVHであると認識したのだ。この時、本当に自由になった。何をしてもJHVHであることは変わらない。何をしなくてもJHVHであることには変わらない。善事を行おうとも、悪事を行おうとも、自分は自分であり、何も変わらないのだ。

  世の中には、自分が聖人であるとか自分が仏であると語る者たちがいる。ところが彼らは、それを人に見せようとするあまり、自分自身が追い詰められている。『まぁ、大変なこと。ご苦労様。』とはおもうのだが、どうして、それほど無理をするのか良くわからない。人が認めようが、人に蔑まれようが、聖人は聖人であり、仏は仏であり、神は神ではないのか。どうして、それを他の人に認めさせようとするのか。他人が認めることにより、何がどのように変わるのか。何も変わらいのではないのか。

 

 

藤井聡さま

 

 

 【京大式 一生役に立つ社会科学入門】を購入した者です。感想として、『この程度のことしか教えてもらえないのであれば、大学など行かなくて正解だった。』と思います。わたしは高卒ですが、高卒の私でも、何がおかしいのか一瞬で分かります。

 先生は、保守vsリベラルで物事を分析していらっしゃいますが、保守もリベラルも、結局はより良い未来を創るための手法に過ぎないのではありませんか。このために必要なのは、未来に対する指標だと思います。『どのような未来を創ろうとしているのか』が、根本にあってはじめて有効となる話ではないのでしょうか。

 この一番肝心の未来に対する指標が全くなく、保守が正しいだのリベラルが正しいだのと語っても、無意味なのではありませんか。

 

 社会を機械と考え、人はその機械の部品だと考えるにしても、その機械はいったい何のための機械なのかと言う問題となります。また、社会は一種の生物だと考えるにしても、その生き物はどこに向かって歩むのかが最大の問題となります。保守だ、リベラルだと対立軸を作っても、それはどのような未来を見ているのかがはっきりしないと、この対立軸そのものも無意味となるのではありませんか。

 

 では、『未来』と一言で言っても、それは何年後の未来なのか。また、どの範囲の者たちの未来なのかによって、その対応も変化します。『10年後の日本はこうあるべきだ』と考えるのか。『千年後の世界はこうあるべきだ』と考えるのか。期間の短いものは期間の長いものの制約を受けます。範囲の狭いものは範囲の広いものの制約を受けます。例えば、百年後の未来はこのようにすべきだと言う指標があれば、その指標から十年後の姿は逆算できるのですが、十年後はこうあるべきだと言う指標からは百年後の未来の姿は創りだせません。また、日本はこうあるべきだと言う指標を持っていても、そこから世界の未来を創ることはできないのです。

 つまり、この指標はできるだけ遠い未来のものであり、できるだけ広範囲のものである必要があるのです。この指標として、少なくとも千年程度の未来、そして、人類全体という範囲である必要があるとわたしは考えます。

 

 当然、先生の話には、このような内容が入っていると思っていたのですが、残念ながら、このような話は入っていないようです。先生は、リベラリストはある特定の者たちの自由を主張し、他の者たちの自由を疎外するから、結局、不自由な社会となる。これが分からないのだから頭が悪いと仰られています。しかし、わたしは社会を対決軸で見て、『こちらが正しく、相手は間違いだ』という考え方そのものが本当に正しいのかと疑問に思います。

 

 リベラルとか保守とかは、結局、見ている未来の違いなのではありませんか。自分の現世における名声を求めれば、自分は正しく、自分に反対する者は間違いだと主張し、この賛同者を集める事となります。これに対して、真に社会の発展を求めるならば、社会をこのように変えていくためには、今、自分は何をすべきかと言う発想となります。

 

 『今だけ、自分だけ』という発想からリベラルはうまれ、『今、自分は何をすべきか』と言う発想から保守が生まれると言えるのではないでしょうか。

 

 ここまでは、誰でも瞬間に分かる程度のこと。では、なぜ人は『今だけ、自分だけ』と言う発想となるのでしょうか。目指すものがあれば、人は『今、何をすべきか』と自然に考えるようになると思います。しかし、その目指すものが何もないと、結局、考え方が狭くなってしまい、『今だけ、自分だけ』となってしまうのではないでしょうか。

 

 これを先生に当てはめますと、『保守は正しく、リベラルは間違いだと主張するわたしが正しい』と主張していると言えます。結局、『今だけ、自分だけ』と言う思考であることに変わりがないのではありませんか。

 

 繰り返しになりますが、なぜこのような思考となるのか。そこに未来像がないからで、未来像があれば、人は基本的に保守の発想となると言えるのではありませんか。

 

 

 この観点から歴史を見ますと、安倍首相には数年から数十年程度の未来に対する展望がありました。また、田中角栄にも、数年から数十年の未来に対する展望があったと言うことが分かります。今の総理大臣、名前は忘れましたが、彼にはこのような展望は全くない。

 

 世界に目を転じれば、正しいかどうかはともかくマルクスには、このような展望があったことが分かります。また、ロックフェラーなどはこのような未来展望を求めていたこともわかります。ソ連や中共などは自然発生的にできたと考えるよりは、誰かの意思により創られた社会と考えられます。では、それを創ろうと画策したのは誰なのか。誰の意思により創られたのかと考えますと、それが可能なのはロックフェラーぐらいです。では、彼らはどのような考え方から創ったのか。『自分たちでは未来展望を描けない。確かに、マルクスの思想には未来展望がある。しかし、これが正しいという保証はない。とりあえず、既存のものから切り離して実験社会をつくってみよう』と言う発想から出来たとすると、現状の全てがここに収まります。マルクスやロックフェラーが展望したのは、数百年先の未来であり、彼らはこの失敗例と言えます。

 

 では、このように数百年先を展望し、実際に成功した例はないのかと言えば、これも存在します。それは徳川家康の政策です。徳川幕府の政策により、武器は退化し、日本は三百年近く天下泰平の世となりました。当初から、政策が形骸化する状況まで見越しており、それでも、日本が存続するためにはどうしたらよいのかと思案していた形跡もあります。

 日本がおかしくなるとすれば、それは諸外国の干渉によるものであろうと、最初から予想し、これに対する対策を幕府開設当初から、何重にもわたって立てていたようです。そして、実際に明治維新が起きました。明治維新により日本人が自ら江戸時代の天下泰平の政策を否定したのです。この結果、亡国の憂き目も観る事となったと言えます。さらに、そこに追い打ちをかけるようにGHQが破壊を試みたのですが、破壊出来たのは上層部のみ。破壊しきれずに、今も日本にしっかりと残っているのです。これは、このようになることを予測し、事前に対策を打った者がいないと、事態がこのように進行するとは考えにくいのです。そこで過去を調べてみると、徳川家康に行き当たったのです。つまり、五百年程度先の未来までは彼が見定め対策を立てていたと考えられるのです。これらが百年単位で未来を創ろうとした例と言えます。

 

 千年単位の展望となると、今は宗教という形で残っているものとなります。ただ、これは人には少し難しいようです。例えば、聖書では『何々してはならない』と言いながら、『それも許される』などとも語ります。例えば、十戒では『人殺しをしてはならない』と命じながら、その十戒を人々に示したモーセは人殺しをしたとも明記されています。また、姦淫してはならないと命じながら、近親相姦により子を設けたロトとその子孫に祝福を与えています。また、『神がお許しにならなかった』という理由で全滅させたり、許されないような罪であっても、『神はそれをお許しになられた』として祝福されたり、おおよそ、『何が正しいの』と言うような状態となります。

 また、聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネの黙示録では、誰一人として、火と硫黄の燃える地獄を免れないとなります。これを、イエスを信仰すれば免れる事が出来るとしているのが、キリスト教なのですが、なぜ免れる事が出来るのかと言う論理的根拠はどこにもありません。要するに自分たちの希望的観測を宗教としているのです。

 また、イスラム教と言う宗教もあります。彼らはコーランを経典としているのですが、コーランに依れば『ムスリム』と人を任じるのはアッラーの神権となります。また、人は何をしても許されるがアッラーの神権を犯す行為は決して許されないとも記されています。ところが、彼らはどういうわけか自分たちのことをムスリムだという。つまり、わたしはアッラーの神権を犯す者ですと自称しているのがイスラム教徒と言うことになります。

 また、仏典の法華経には、末法の定義として『無仏』と記されています。ところが創価学会などは『日蓮こそ、末法の本仏』などと語り、これを中心に論を語っています。末法に本仏がいるはずはなく、本仏がいるならばそれは末法ではありえない。

 

 このように、人が解釈すると間違いとなり、結局、何が何かわからないものとなるのですが、ここに、千年万年の人類がたどるべき道筋が記されているのです。徳川家康は、その道筋に従って江戸時代を定めたゆえに成功し、マルクスはその道筋が見えなかったので失敗したと言えるのです。

 

 

 さて、先生は色々な人が語ったことを論拠として話をしていらっしゃいます。では、先生が用いる人々はどういう思考の持ち主なのでしょうか。彼らの多くがキリスト教徒、とくにプロテスタントが多いようです。プロテスタントの基本は『ヨハネの黙示録の裁きの地獄はイエスを信仰することにより免れる事が出来る』と言うところから始まっています。では、ヨハネの黙示録は誰に対して示されているのかと言えば、イエスを信仰する者たちに対してです。つまり、『イエスを信仰するのならば裁きの地獄に至れ』と記されているのがヨハネの黙示録であり、これに耐えられない人々が自分たちの都合に合わせて、『イエスを信仰する者は裁きの地獄を免れる』としているわけです。なぜ、人々がこれを歓迎したのか。裁きの地獄を免れたいと言う気持ちがあり、裁きの地獄を免れる法を、とりあえず求めたのです。この人々の求めに応じることにより人々の賛同を得たと言うわけです。

 ここから、真実かどうかは別にして、人々の賛同が得られるものが正しいと言う思考となり、この思考を基準にして社会全体を定めているのがプロテスタント思想ということになります。

 では、どういうものが人々に支持されるのかといえば、如何にも権威があるかのように見えるもの。そして、簡単な事ではなく難しく難解なことを語る方が人はそれを正しいと勘違いしやすいのです。

 

 先生が引き合いに出す、ほとんどの者たちにこのような傾向があるので、先生も本質から目をそらし、彼らが語ったものを論拠として、そこから論をすすめていらっしゃるのではありませんか。

 

 

【十界論】

 

さて、前書きはこのくらいに致しましょう。

 

 

 法華経には十界という考え方が示されています。十界は人の思考のうごく範囲であり、人の思考の基本でもあります。そして、人は皆、十界のいずれかから思考し、その自分の思考から数々の行動を起こします。このため、その人がどのような思考をしているのかがわかれば、ある事象に対して、その人がどのような行動を起こすのかは事前に予測出来ます。また、物事に対するその人のリアクションから、その人の思考も分かるのです。

 

 では、十界はどのように名付けられているのか。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界と名付けられており、それぞれが人の思考の基準、すなわち常識となっています。この十の常識には優劣も定められていますが、この優劣の基準は、第一に『どの常識を以て生きていく方が人にとって楽なのか』と言うところにあります。例えば、地獄界を常識とする国に生きるのと、畜生界を常識とする国に生きる人々がいるならば、どちらが人々にとって暮らしやすいのかと言う比較であり、この場合、人々は畜生界を楽とするので、畜生界の方が地獄界よりも上の境地・常識であるとなるのです。基準はまだあります。第二の基準は、どちらの常識を持てば、神や仏の助けがより多く得られるのかという基準であり、これは、神仏などの霊的な者たちも、この基準に従って動くと言う意味となります。すなわち、神仏がこの基準に従って動くので、世の中には神話も存在し、聖典も存在すると言うわけです。これが、聖典は千年万年単位の未来を指し示すと語る理由なのです。

 

 

 

 では、具体的に十界とは、どのような基礎思考なのでしょうか。

 

 

地獄界

 

 これは弱肉強食思考です。劣る者は死、勝る者は生。勝る者は劣る者を殺し、そのすべてを奪い取る事が出来ると言う基礎思考となります。

 

餓鬼界

 

 これは、勝者は王となり、敗者は奴隷となると言う常識です。全てを定めるのは王側であり、奴隷側は王が定めた決まりを一方的に守らなくてはならないという基礎思考が餓鬼界の常識となります。

 

畜生界

 

 これは、あらかじめ定められたルールに従い、各人が優劣を競う事が正しいと言う常識となります。畜生界思考に於いて、ルール破りは敗者となります。

 

 

修羅界

 

 人の優劣の基準は努力にこそあると言う考え方が、修羅界の常識となります。常に努力し続けることが重要であり、努力を怠れば劣ると言う判断となります。

 

人界

 

 修羅界までは、その基準が何であれ人の間に優劣をつけます。人界の常識は平等となります。自分も他人も同じと言う思考が人界の常識となります。これは、自分の状態についても優劣を設けないと言う常識となります。例えば努力する自分も、努力を怠る自堕落な自分も何も変わらないという思考となります。

 

天界

 

 人界での主体は自分自身ですが、この主体を社会とすることにより天界の常識となります。何をしても同じ。何をしても変わらない。と言う状態で、人は何もしなくなるのかと言えば、それでも、人は何かをするのです。これは何もしないことは、何かをしなくてはならないよりもつらいからです。しかし、何かしようとすると、自分がしたいからすることは、正しいのだろうかと言う思考となります。ここから、社会を主体として考える天界思考が生まれます。天界とは、為政者が社会全体のことを考えるのではなく、その社会に属する人々が各々社会全体のことを思考すると言う常識形態となります。

 

 

声聞(しょうもん)界

 

 地獄界から天界までは不安定な常識形態です。ある時は人界や天界の常識を持つようになったとしても、すぐに、地獄界や餓鬼界へと考え方・常識を変化させてしまうのが人間なのです。このように不安定なことを六道輪廻と呼びます。この六道とは地獄界から天界までの六種類の常識を六道と呼びます。では、この六道輪廻の状態から離れる為にはどうしたらよいのか。思考の根本を六道を俯瞰する位置にまで引き上げてしまえば、六道輪廻の状態となることはありません。この俯瞰する状態に至った状態を声聞と呼びます。例えば、釈迦如来は人の思考の巡る範囲を十二因縁として示されました。人の思考の巡る範囲を十二因縁として見ている位置にある人は、人の思考の巡る範囲から離れ、俯瞰する位置にあることになります。また、人の思考の基本を地獄界から天界までの六種に分類し、六道として見ている人の思考の位置も、声聞界ということになります。つまり、このように書き示す事により、これを知る人々は声聞界に至るとなります。

 

縁覚(えんかく)界

 

 六道は、人の思考がめぐる範囲です。これが『有』という状態なのですが、思考では到達できない状態も存在します。これが『無』と言う状態です。この無思考を常識とするのが縁覚となります。例えば、その道の達人と呼ばれる人々がいます。彼らは無心に至れと語り、自らそれを実践しているのです。この無の状態が縁覚であり、有である六道と無である縁覚をつなぐ位置にあるのが声聞と言うことにもなります。

 

菩薩界

 

 人は、なぜ、六道に留まるのか。そこに自己愛という自我があるからであり、この自己愛の自我を聖書では原罪として示しています。では、人は、この自己愛から離れる事、つまり、原罪から離れる事はできないのかと言えば、実際に離れる方法も存在します。この原罪の自我を失った人の境地を『空』と呼び、原罪の自我を失った人を菩薩と呼びます。つまり、菩薩界とは、有でもなく無でもなく、有無の対極にある『空』に至った人の思考ということになります。

 

仏界

 

 人間社会は、達人と呼ばれる人々が無から有を生み出し、その有を伝承することにより成り立っています。この伝承が知識となります。人は、有の反対を無としますが、実際には、より本質的なものは『無』であり、『有』は『無』より生じると言えます。これと同じことが『有無』と『空』との間にもあり、より本質的なものが『空』と言うことになります。つまり、『空』に至る事により、そこから人の無を知り、人の有も知る状態に至ることも可能と言えます。このように『空』から、全てを俯瞰する人の位置を『仏』と呼び、この仏の位置にある人の思考が仏界となります。

 

 

この、地獄界から仏界までの十種類が理論上存在する、人の全ての常識となります。この常識は、それぞれの境地に直結します。つまり、地獄界の常識を持つ人々か創りだす社会が地獄界の社会となるのです。畜生界の常識を持つ人々が創り出す社会が畜生界の社会という事となります。つまり、仏界という社会の状態も理論的には可能と言えます。

 

 

 

 さて、この十界論が聖書的・仏教的な善悪の基準となります。古典的と言えば超古典的。革新的と言えば超革新的。この十界論から物事を思考するのは、保守と言えば超保守であり、リベラルと言えば超リベラル。

 

 

 

【聖書の意味】

 

 ここで簡単に聖書やコーランの意味を十界論により解説しましょう。人は何の導きもなければ、その常識を地獄界、餓鬼界、畜生界の三種としてしまいます。この三種を三悪道とも呼びます。なぜならば、人の犯す全ての犯罪がこの三悪道の思考から生まれるからです。では、人々が犯罪を犯さなくなるためには、どうしたらよいのでしょうか。一番簡単なのは、『修羅界に導いてしまえ』と言う事になります。修羅界とは本質的に葛藤の境地です。人は迷うゆえに考え、迷うゆえに努力するのです。ならば、迷わせるように聖典を示し、『これを守りなさい』とするならば、どうなるでしょうか。修羅界に至る事となります。人々を修羅界に至らせれば、簡単に犯罪を犯さない状態をつくれるのですから、当然、このようにするのです。これが、旧約聖書で、『何が正しいのかわからない』となる理由で、わざわざ、何が正しいのかわからなくしているのです。

 では、福音書で、なぜイエスの思考や行動を学べとしているのでしょうか。実際のイエスの思考が人界です。イエスは人界の常識を持ち、それを三悪道や修羅界の人々の中で行動しているのです。つまり、これは人界と言う常識があることを知りなさいと言う意味であり、実際に初期のキリスト教は人界思考により社会組織をつくっています。

 さて、聖書では声聞界や縁覚界の思考は出てきません。これは、直接説法ではなく間接説法であると言うのが第一の理由です。分かると思いますが、聖書を読む人が、聖書を読むことにより自分自身の内に修羅界を生じ、人界を生じると言う書き方をしているのです。有であれば、この書き方で人を導けるのですが、実際には、縁覚となると『無』、声聞は有と無をつなぐものであり、これも『無』が分からないと導きようがありません。また、第二に人の自己愛を原罪と言う形で断罪していると言う理由もあります。『罪なのだから、そこから離れよ』としているわけです。

 さて、ヨハネの黙示録では、火と硫黄の燃える地獄からどうしても逃れられないようになっています。これにも当然意味があります。聖書で言う原罪は自己愛であり、人が自分自身であると思っているものこそが、この自己愛の自我なのです。では、この自己愛の自我から離れるためにはどうすればよいのか。聖書的に言えば原罪から離れるためにはどうすればよいのかと言う話となります。さて、自己愛の自我は現世欲と死後の希望の二つから構成されています。つまり、現世欲を潰し、死後の希望を潰すことにより、原罪から離れられるのです。現世欲は死により潰れると人々は認識しています。ならば、もう片方の、死後の希望を潰すことにより、人は原罪から離れる事が出来るのです。これが、火と硫黄の燃える地獄から逃れられなくなっている理由なのです。原罪から離れると人は菩薩となります。そして、この方法が一番簡単な菩薩界に至る道だと思います。このため、これと同じ原理が仏典にも記されています。それが阿弥陀仏の説法となります。良く知られているのは『人は仏を念じることにより、無間地獄ではなく極楽浄土に導かれる』という説法なのですが、実は『仏を念じる』と言う言葉には、無間地獄に堕とされる人々を見捨てる者は無間地獄に堕ちると言う意味も含まれているのです。本質的には、誰も無間地獄から逃れられないのです。そして、なぜ、このような説法をしたのかという理由も涅槃経に記されています。『人に無間地獄に至れと語っても、この教えに耐えられるものはほとんどいない。だから、仏を念じる者は救われるとしたのだ。しかし、これが人が菩薩となるための最短の方法となる』と。つまり、人を菩薩界に導くため、人を原罪から離すための法がこのようなものとなるので、ヨハネの黙示録が聖書の中の聖書とされているのです。では、聖書に菩薩は登場しないのかと言えば、実はコーランに登場します。コーランで『ムスリム』として示されているのが菩薩です。

 では、コーランとは何なのでしょうか。ヨハネの黙示録により自己愛の自我を失った者が菩薩(ムスリム)なのですが、菩薩が生きていく世界は、自己愛により成り立っている世界なのです。菩薩は、自己愛の自我を亡くした状態で、自己愛により成り立っている現世で生きていかなくてはなりません。現世には菩薩思考の基礎である『空』は存在しないのです。このため、『空』を元として、空から現世をみる見方を導きとして示す必要があります。この、菩薩のための導きがコーランなのです。

 

 つまり、聖書は三悪道の人々を、まず修羅界に導き、次に人界に導き、そして菩薩界にまで導いているのです。なぜなのか。ここに人類の種としての目的があるからにほかありません。

 

 

 

【天皇家の意味】

 

 ついでに、日本神話の話もしましょう。なぜ、皇室が男系男子なのかと言う理由です。日本神話は基本的に聖書系列の話ですが、聖書と違うところもあります。これは聖典に示される男女は何を示すのかと言う事です。聖書の話では、女は男のあばら骨から生じたとなっています。これは人の成り立ちを示しているのですが、ここで言う人とは十界の範囲をめぐる人の基本思考を示します。つまり、聖書のアダムがこの十界論となります。人の命はおもしろいもので、実はこの十界が二重に組み込まれているのです。これは、二重に組み込むことにより、人が常識を変更できるようにしているのです。この基本境地となるのがアダムであり、時事刻々と移り変わる心の動きがイブなのです。この二重に組み込まれている事を仏教では十界互具と言います。男も十界、女も十界、これが聖書の基本となります。さて、コーランとなりますと、このアダムの位置が菩薩界と固定されます。これは人の位置が固定されることを示します。ここから男が人の意味となるのです。では、菩薩の助けとなる女とは何になるのかと言えば、狭義で言えば女がコーランとなるのです。女を広義に捉えるならば、菩薩を導く法が全て女と言うことになります。菩薩の基本は『空』です。このため、その菩薩を導く法は『空』を基本として示されることになります。ここに厄介な問題が生じます。人には『空』が分からないのです。空がわからない人が、コーランなどの教菩薩法を聞いても、全く意味が分からないのです。ここから、女は全身を隠せと言うこととなるのです。つまり、菩薩でない者にこの法を解説するなという意味です。人には菩薩の基本である『空』は理解できない。空がわからないと女(法)も理解できない。これを無理に理解させようとしても無駄だから隠してしまえ。これが女は全身を隠せと記されている意味です。

 日本神話はコーランと似ていて、人を男、法を女として示しています。つまり、天照とは法であり、肉体を持つ人は男となるのです。つまり、男系とは人の系譜であり、女系とは法の系譜と言う意味となります。男系男子とは人の系譜が途切れないことを示しているのです。では、これを女系とすることはできるのか。今、わたしが書き示している事は、当たり前のことだけです。女系とは、わたしがここで書き示している事だけでなく、全ての法を知ることにより女系という系譜が可能となります。つまり、全知全能がその絶対条件となるので、まあ、現状では無理でしょうね。

 では、天皇家はどのような役割を持っているのでしょうか。実は社会が誤った方向に進むときに、それを修正して基に戻す機能が存在するのです。これには二つの方法があり、一つは人による修正。そして、もう一つが法による修正と言う機能です。ここに記しているのは実はこの二つの機能の内の一つ、法による修正であり、このため、わたしは日本神話では女として分類されます。そして、この人による修正を行うのが、天皇家の本来の使命なのです。

 法に依る修正に聖書系列と仏典系列の二つがあるように、人による修正も、当初は、四系統ありました。つまり、このような修正機能を担ったのは実は天皇家だけではないのです。ところが残りの三系統は影も形もありません。残っていないのです。このため、日本の天皇家は、全世界に残された唯一の、人による修正機能となっています。

 では、人による修正機能とはどういうものなのか。例えば、全面核戦争が起き、人類の八割九割が死に絶えたとしても、もし、そこに天皇が残っていれば、人類自体の再生が可能となるのです。人類の復帰点と言えばよいのかな、コンピューターで言えば再起動ボタンのようなものかな。

 このように、最悪の事態が起きたとしても、再生を担うべき人があらかじめ定められているのです。これが日本神話の意味であり、天皇家の意味であり、男系男子の意味なのです。つまり、全面核戦争よりも、天皇家の男系男子の存続の方が重要とも言えるのです。これが神話から続くものがいかに大切なのかと言う意味ともなります。

 

 さて、天皇は、昔より人々の声を聞くだけで自分では一切の判断を下さない王です。これは、声聞界の特徴なのです。人々の声は聞く。しかし、それを自身を無とする修行とする、自分の心を動かさないための修行とするゆえに無判断となるのです。つまり、天皇は六道の上の声聞の王であり、声聞に至ることにより『不動』と言う状態となっていると言えます。

 国は、人々の境地により、国の境地も定まります。人々は王を見て、王を規範とします。このため、国の境地は王の境地を超える事はほとんどありません。例えば、北朝鮮では、王は餓鬼界から地獄界の間の思考をします。すると、それを正しいとして仰ぎ見る人々は、やはり地獄界や餓鬼界の思考しかできなくなるのです。このため、国自体も餓鬼界と地獄界の間を動く状態となります。

 さて、日本はどうかと言えば、王が声聞界であるゆえに、人民は人界や天界に普通にいたる状態となっているのです。ここから世界で例を見ない日本という国の特徴が生まれます。そして、これが天皇により国が定まっているとされる理由なのです。

 

 

 

【近代世界史】

 

 さて、この十界論により今度は近代世界を見てみましょう。世界の覇権は、ますスペイン・ポルトガルが握りました。彼らは海外において、弱肉強食の地獄界の戦略を取りました。地獄界の戦略とは、相手を地獄界に堕す事が目的であり、相手を『これは許せない。絶対に殺してやる』という思考とすることを目的とする戦略です。で、彼ら自体は王と奴隷の餓鬼界の常識を持っていたのです。餓鬼界の常識を持つ者が、相手を制圧するためには、相手の常識を地獄界に堕すのが、一番てっとり早いのです。

 

 これに代わったのがイギリスです。イギリスの手法は、イギリスが介入すれば、その地は餓鬼界の世界となり、一応、平穏が保てる。しかし、イギリスが介入を止めると、殺し合いの地獄界の世界となると言う手法です。つまり、餓鬼界と地獄界の差をつくりだし、人々がイギリスを王とする、イギリスの奴隷国家となることを望むように仕向けたのです。この場合、イギリス自体が王と奴隷の餓鬼界では、上手くコントロールできません。このため、イギリスは本国を法治主義である畜生界に移行させたのです。

 

 イギリスに代わったのがアメリカです。アメリカは、世界を法治主義、すなわち、畜生界思考に変化させることにより、イギリスから主導権を奪ったと言えます。この場合、自分たちもが畜生界のままでは、世界の覇権は確立できません。そこで、自国を修羅界の手法でまとめあげているのです。修羅界とは、努力する者がその結果を得る事ができるという思考であり、これがアメリカンドリームと呼ばれるものです。このアメリカとは、バイデンが大統領をしているアメリカ合衆国ではなく、全世界をドルの力で支配しているロックフェラー家、俗に言うディープステイトをわたしはアメリカと呼びます。アメリカ大統領は単なるお飾りであり、まあ、無視しても問題ないでしょう。では、ディープステイトはどのようにしてアメリカを支配しているのでしょうか。彼らの手法とはこのようなものです。百人の人がいるとしましょう。この中で、その中のひとりが、他の人の百倍稼ぐならば、残りの九十九人は、食べることもできないほどの貧困に陥ります。すると、この百人の社会は暴動が起き崩壊してしまいます。しかし、もし、百人が百人とも生きていくのに支障がないが、その中のひとりだけが他の人の百倍稼げるとするならば、その社会はどうなるでしょうか。全員がその一人を目指して努力する社会となるのです。これがアメリカンドリームであり、このアメリカンドリームを実現できるのが、ドルの発行権を持つディープステイトなのです。ディープステイトが持つ権利は、何によってアメリカンドリームを得られるのかを決定する権利です。このアメリカンドリームをなしどけた者しか、議員にも、大統領にも、司法官にも役人にもなれないようなシステムさえ作ってしまえば、名目上は三権分立であったとしても、実際には全てを手の内に握ることができるのです。これが、ディープステイトが修羅界理論により、アメリカを支配している基本構造であり、アメリカ自体が世界の覇権を握っている実際の方法です。

 

 このように十界論が分かれば、各国が覇権を確立させてきた方法も自然と見えてきます。よく見ていただければわかると思いますが、覇権国は他国より一つ上の常識により動いています。これは、常識を一段階上げれば、その国が世界の覇権国となると言う図式であり、順当に行けば、次の覇権国は人界思考により、世界の覇権を確立させると予想できます。まぁ、六道輪廻の世界ですから、世界が地獄、覇権国が餓鬼と言う図式がなくもないのですが、ここは、世界唯一の人界の国、日本がバカなことをしなければ、こうはならないでしょう。

 

 今度は、アジアも分析してみましょう。アジアでは中華帝国が他国を支配するという構造が長く続きました。この中華帝国の支配構造も、やはり、自国を畜生界とし、他国を餓鬼界に堕す事により覇権を保つという構造となっています。このためのシステムとして機能しているのが中華皇帝なのです。中国では、基本的に皇帝は宮殿の奥深くに隠れ、謁見できるのは、諸外国の国王のみと言う形をとります。中華皇帝は、この諸外国の王を自分の奴隷として扱うのです。その代わり、その王の国に於いて、王が人民を奴隷として扱う権利を与えるのです。すると、その王の国は餓鬼界思考となります。では、中華皇帝の本国はどのようにするのかと言えば、法治主義を基本とするのです。中華皇帝が表に出れば、法治主義など不可能となります。このため、皇帝は宮殿の奥深くに隠れるのです。人民には見えることもできない、声も聞けない権威のかたまりのような存在となるのです。実際には内政の担当者が全て決め、中華内部は法治主義となるように誘導するのです。このようにすると、中華部分は畜生界の世界、その周囲は餓鬼界の世界という違いが生まれます。つまり、意図的に、このようにすることにより、繁栄する中華と、その中華にあこがれるが決して敵わない周辺部と言う差をつくり出し、中華の覇権を確立させてきたと言えます。

 

 

【現状分析】

 

 ついでに、現状も分析してみましょう。ロシアがウクライナに攻め込み、ウクライナを支配しようとしています。この結果はどうなるのかの予測です。ロシアの常識は餓鬼界そのものです。ウクライナも本来は餓鬼界の国でした。餓鬼界vs餓鬼界ならば、強国の勝利となります。今、ウクライナは欧米寄りになっています。欧米は畜生界思考であり、もしウクライナが欧米のような畜生界思考を常識とするようになれば、ロシアとほぼ対等。むしろ、ウクライナ側の方が有利となります。もし、ウクライナが修羅界や人界を常識とするようになれば、ウクライナの勝利が確定します。この場合ロシアが滅びます。このようにウクライナ戦争の帰趨を決めるのは、ウクライナ自身であり、ゼレンスキー大統領次第とも言えます。

 もし、ゼレンスキー大統領が、日本の天皇のように、人々の声を聞き様子も見るが、何の判断の下さない状態。すなわち、声聞界に入れば、ウクライナの人びとの間に人界思考が生まれます。この場合、ロシアが消滅することになります。逆に、もしゼレンスキー大統領が、絶対に許せない。何があってもロシアは叩き出さなくてはならないと言う地獄界思考に陥り、強権を発動するような事態となれば、ウクライナが消滅します。

 このどちらもあり得ますし、この中間もあり得ます。様子をみていれば良いでしょう。

 

 今、中国が台湾を攻め取ろうと画策しています。中共は現状畜生界と分析できます。外に見せる顔は餓鬼界ですが、国民は畜生界思考をしていたので、発展を遂げたと言えます。つまり、どのような状態なのか。習近平は、自分を王とする餓鬼界社会を見せていた。国民は、面従腹背し、自分の利益を求めてきたゆえに、中国は経済発展を遂げた。これが、基本的な中華の姿です。要するに、習近平がバカであることを知った国民が、面従腹背してきた事が経済発展を遂げた理由と言えます。これを習近平が自分の手柄だと勘違いした。このため、今度は、餓鬼界思考により国内をまとめようと画策した。これが、現在の大失政です。では、今後どのようになるのか。確かに習近平次第ですが、今の政策を続ければ共産党中国は崩壊します。崩壊させず、台湾も併合し、更なる大発展を遂げる方法がないわけでもありません。習近平が声聞界に入り、中華皇帝という名を取り、実権を台湾に移譲してしまえば、台湾には人界思考がありますから、今度は台湾を中心とする中華帝国が出来上がるのです。さて、このような選択ができるかどうか・・・・ですね。

 武力による台湾併合は、画策した時点で共産党中国がおかしくなり、実際に侵攻などしたら共産党中国が滅びます。これは、餓鬼界vs人界という図式となるためで、元々勝負とはならない対戦なのです。

 

 このような図式は、実際に過去にも例があります。徳川末期、ペリー来航で実際にアメリカが狙ったのは日本の植民地化のようです。当時のアメリカは法治主義で畜生界の国となります。日本の江戸自体の末期は、典型的な人界。つまり、畜生界vs人界となります。このように二つ以上離れていると、国力など関係なく、下の境地の国が自壊に向かうのです。これが南北戦争であり、十界論から言えば、南北戦争は日本の植民地化を画策したゆえに起きたとなります。まあ、ここから日本も自ら人界を捨て、修羅界・畜生界へと転落していくのですが、このように十界で、二つ以上離れた場合、上の境地の者が自ら境地を堕とすのを待つしか、下の境地の者が勝つ方法がないのです。

 

 

【日本はどのようにしていくべきか】

 

 では、今後、日本はどうしていくべきなのか。これは何を目指すのかと言う目標設定により対策は変わります。日本には、いくつかの道筋があります。まず、第一の方法は日本の更なる西洋化です。つまり、今上層部だけに広まっている三悪道思考を、日本人全体に強要していくと言う道筋です。もし、日本がこの道筋を選択すれば人類は滅亡します。第二の方法は、回帰という道筋です。今、日本人が常識としているのは人界思考です。この日本常識から社会や学問を再定義していく必要があり、これを行わないと諸外国から、不思議で意味が分からない国と見られたままとなります。まあ、不思議の国で、諸外国の人々が異世界探検をするように日本に来れば人界思考は伝染します。自然任せでもこのようになるでしょう。第三の方法は、進展の道筋です。人界と言う境地は、三悪道・四悪道に勝る境地ですが、不安定な位置でもあります。実際に、明治維新により簡単に崩れ去り、亡国の憂き目までみたと言う実証もあるくらいです。では、崩れる事のない不動の境地に、日本という国自体を持っていけば、千年程度であれば、何の問題もなくなると予測できます。ここまで進めてしまうと言うのも一つの方法です。

 

 さて、ここまでで高校しか出ていないわたしの考え方の紹介は終わりにしましょう。まだまだ、いくらでも語れますが、際限が無くなります。高校はおろか、大学にも行き、さらに大学の教授ともなった先生には、余りにも簡単すぎて退屈な話かもしれませんが。

・・・・こんなこと書くと嫌味になるかな・・・・

 

 

 

 

 

 

 

【質問】

 

 

 ここから本題に入りましょう。先生は『日本をおかしくするのは、リベラルだ』と仰います。しかし、実際におかしくてしているのは教育界なのではありませんか。

 今の学校教育、特に大学などの高等教育になればなるほど、余りにも低レベルな西洋哲学を根本とするものに傾倒します。教育はその基本的な考え方が変われば、全て変わります。では、西洋哲学はどの程度のものなのかと言えば、ボン大学に西洋哲学の第一人者とされるガブリエル教授と言う方がいらっしゃいます。この教授が日本社会は理解できないと語っていらっしゃるのです。これは何を意味するのか。日本社会の基本常識は人界です。この人界思考は聖書ではイエスの言動として示されています。当然、キリスト教の国ならば知っていなければおかしい常識ということになります。つまり、キリスト教とは言っても実際にはイエスの思考にもついていけてないと言うことを示します。ここから、分かるのは、基本常識として知っている範囲は、おそらく三悪道まで。三悪道の考え方を正しいとして、その思考から全てを判断しようとしていると推測出来ます。

 

 三悪道を正しいとすると、人の行動は犯罪だらけとなります。ここから、行動を規制する必要が生まれ、その必要に基づき、どのような規制をすべきなのかと言う倫理と言う考え方が生まれます。これが性悪説の本体です。

 ところが人界思考では、規制しなくても自然とそのようになるのです。人界思考を身につけると、三歳児でも哲学者や倫理学者が理想とする行動がとれるようになるのです。当然のことながら、三歳児は倫理規定などは知りません。では、なぜ、日本では三歳児が倫理規定を厳格に守ることができるのか。意味が分からないとなるのです。

 

 今日の教育はすべて、この西洋哲学が元となっています。西洋哲学より唯物論と唯心論が生まれ、唯物論より今日の理系と呼ばれる分類ができ、唯心論より文系と呼ばれる学問体系が生まれていると記憶しています。では、その大元となっている西洋哲学とはどの程度のものなのか。日本の三歳児に劣る程度のものでしかありません。

 これをいくら極めても、たいしたものが出来るはずはありません。日本学術会議でしたっけ、膨大な予算を使って、実施したのはレジ袋有料化だけというお粗末な団体ができるのも、この競争に打ち勝った者たちが運営している国が変な方向に向かうのも、その元凶はここにあるとわたしは考えます。

 

 これは先生も同じです。この程度のものを基準としているから、大学教授だ、有名人だと言っても、『え、そんなことしか考えられないの』となるのです。東大とか京大を出たとし、優秀とされる者たちが今の日本をつくっています。また、高い授業料を払い、海外の大学を出たと自慢する者たちもいます。このような者たちが、お前が悪い、お前が悪いと言いあい、『これを改めなくてはならない』などと言っているのです。しかし、実際は、その根本がどこにあるのかと探ろうともせず、自分たちが受けてきた教育の本質がどの程度ものなのかと思考もせず、その教育を継承してきただけではないでしょうか。

 

 先生は、このようにおっしゃいます。『物事は対比として考える事により理解ができる』と。対比として考えるとは優劣をつけると言う意味であり、物事を優劣で判断すること自体が、三悪道と言うことになります。つまり、リベラルであろうが保守であろうが、その思考から生まれるのは犯罪と呼ばれるものとしかならないのです。結局、色々と規制を設けて実際の犯罪とならなくなるようにしていかなくてはならなくなる。

 

 これよりも、リベラルが本当に目指しているのは何か、保守が本当に目指しているのは何なのかと考えるべきではないでしょうか。すると、どちらも目指すものがないことなど一瞬で分かるはずです。目的もなく、論を語るのは言葉遊びであり、結局、先生がしていらっしゃることは、単なる批判、単なる言葉遊びではないでしょうか。 

 

 先生は、このようにおっしゃられるでしょう。『実際におかしくなるのに、見過ごせるか』と。確かにそうでしょう。確かにおかしくなるでしょう。考え方の根本がおかしいものを正しいとして、そこから物事を定めれば、どのように変えてもおかしくなるのは当然ではありませんか。しかも、何ですか。物事を比較で捉えよ・・・ですか。比較で捉えるとは、物事に優劣をつけると言う考え方に他ありません。物事を優劣で考えると言う事自体が十界論で言えば三悪道にすぎないのです。

 

 結局、先生もリベラルな連中と同じで、三悪道の中を彷徨っているだけではありませんか。思考がぐるぐるまわるだけで、実際には何も分からない。色々な文献を調べても、その文献を記した著者が、皆、三悪道の思考しか知らないのですから、当然と言えば当然です。結局、『同じ穴のむじな』といえる。

 つまり、もし先生が国を運営したとしても、今のリベラルな者たちよりも良い政策を打ち出す事はできないのではありませんか。

 

 

 

 

 

 もし、何かおっしゃりたいことがあるのならば、わたしはどのようなクレームでも受け付けております。例えば、殺すぞという脅しであっても、実際に殺しに来たとしても、甘んじて、わたしはそれを受けるつもりです。

 昔、わたしはイスラムの過激派と思われる者から『殺すぞ』と脅されたことがあります。わたしは、自分の住所氏名を明記し、イスラム教を論破する文書をイスラム社会の全ての国の大使館に送付しました。そして、『わたしの住所氏名がわかるものを、お前たちの国の大使館に送付したから、それを確認してから来るなら来い。間違えて、他の者を狙うな』と、それを伝えてきた者にも返答したのです。結局、彼らは押し黙ってしまい、一言も返す事ができなりました。当然、殺しに来れるはずもなく、彼らは逃げ去ってしまったのです。

 さすがに、先生はここまではなさらないとは思いますが、殺し屋を雇って殺したいとお思いになられるのでしたら、別に止めは致しません。

 

 

 また、ここはおかしいのではないのかと言う部分がありましたら、その質問に答えることもできると思います。

 

 わたしは、『あなたには無理だ』と批判しているのです。そして、『色々と語るが結局、そのすべてが根無し草ではないのか。どうして、これが一生役立つと言えるのか』と問うているのです。

 

 もし可能であれば、文書にてご返答いただきたい。証拠が残らない無用な争いは極力避けたいのが本音です。また、先生との討論も、未来に何の価値も生まない。これも十分に承知しています。ただ、わたしが語る未来とは、他の人と少し異なり、千年より先が未来となります。数百年でしたら『すぐに』と言う表現となり、百年未満でしたら『今』と言う表現となります。人は数十年先でも未来とすることは知っています。しかし、わたしの感覚ではこうならないので、ここだけは最初に語っておかないと、勘違いされるので、敢えてこのように記します。なお、貴殿からのご返答は、わたしは自分のブログで公開するつもりでいます。

 

                       敬具