聖書の意味
律法
聖書の意味を少し解説しよう。十戒では、『人を殺してはならない』と定めているのに、この十戒を人々に示したモーセは『人を殺した』と記されている。これはなぜか。
また、十戒では、『姦淫してはならない』と定められているのに、ロトとロトの娘たちは姦淫の中の姦淫である近親相姦で子をなしたと記されている。しかし、ロトもロトの娘たちも、彼らの子孫も祝福を受けている。これはなぜか。
聖書では、あるところで禁止し、別のところで禁を破ったものに祝福を与えている。また、神は罪とも思えないようなものを罪として数えて民族を滅ぼすかと思えば、どう見ても罪人としか思えない者たちに祝福を与えたりしている。これはなぜか。
これは人を罪びととしないためである。ここに言う人とは、唯一人、すなわち、あなた自身である。
あなたは、このような話を聞き、どのように思うか。『何が正しいのか、分からない』となるはずである。この『迷い』位置が修羅界であり、律法はあなたを『修羅界』に導いているのだ。これは、あなた自身を犯罪者としないためである。
人は『これが正しい』『これが正解だ』と語る。何を以て、その正解の根拠とするのかによって、分かれるのだが、これは地獄界・餓鬼界・畜生界思考のいずれかとなる。
人は、この三種の常識を持つことにより犯罪者となる。なぜ、この三種、とくに、畜生界の原理である法治主義によっても人は犯罪者となるのか。この原理を解説しよう。
まず、最初に、人は『悪』を認識できないと、善の認識はできない。例えば、『姦淫はいけない』という法がある。この言葉自体は幼児でも覚える事が出来るのだが、この実際の意味は幼児には分からない。『姦淫』と言う行為そのものが理解できないからである。やがて、幼児は青年となり、『姦淫』が理解できるようになる。悪とされている姦淫と言う行為が理解できるようになって、はじめて『姦淫はいけない』と言う言葉の本当の意味が分かるのだ。
では、この『姦淫はいけない』と言う言葉を聞くと、人の心はどのように動くのであろうか。まず『姦淫』と言う行為を思い浮かべる。次に『姦淫はいけない』という禁止を心の内に留める。この二つの間を人の心は動くのだ。つまり、ここに三種の導きが生まれる。
第一が『姦淫』に誘惑する悪魔のささやき。
第二が『姦淫してはいけない』と言う天使の声。
第三に『どうしようか』という自身の決定。
この三種が、心の中で葛藤するようになるのだ。ある時、悪魔のささやきに惹かれて実際に姦淫することもある。すると、この人はどうなるのか。
もし、『姦淫を絶対悪』として認識し続けると、自分を姦淫と言う悪に導いた社会が悪いと社会に罰を下すようになるか、悪とされる姦淫を実際に行った自分を罰するかの二択となる。
社会に罰を下せばこれが犯罪となる。自分自身に罰を下せば、これは精神を病むことになる。
また、『姦淫は絶対悪』に囚われ、ひたすら耐える者もいる。すると、実際に姦淫を行う者を許せなくなり、姦淫を行う人々や社会を『悪』として罰しなくてはならないと考えるようにもなる。このような者が、自分を正義として、人や社会に実際に罰を下すようになれば、これは犯罪である。
そればかりではない。『姦淫したい』と言う思いを抱く他の人びとをも『悪』と断罪し、このような思いを描く者にも罰を下すようにすらなっていく。これは、凶悪犯と呼ばれる犯罪となるのだ。
つまり、『姦淫はいけない』と言う法が、『姦淫』という悪を人の意識の表面に出し、人は『姦淫』と言う悪に囚われてしまう。人の意識が『姦淫』という悪に囚われることにより、人は、犯罪者となるのだ。
これは、悪魔のささやき側に心が傾いた場合だけでなく、天使の声側に心が傾いた場合も同じである。つまり、人を犯罪者としないためには、人の心をどちら側にもふりきらないようにしていかなくてはならない。このどちらにも振り切らない位置が修羅界であり、善悪不定の迷いの位置なのだ。
地獄界を常識とする者たちは国家を保てない。国家という形を保ためには、最低でも餓鬼界社会にまでは至る必要がある。餓鬼界の常識に於いては、法を定める者は王であり、王は法を守る必要はない。法を守らなくてはならないのは庶民となる。どのような法であっても、庶民は王が定める法を守らなくてはならないのでこのような庶民を奴隷と呼ぶ。
では、この王の位置に『法』そのものを据えれば、すべての人は『法』の奴隷と言う位置にはなるが、これは言い換えれば『人は法の下での平等』と言うことになる。これが、畜生界の常識である。つまり、『神の命令』と言う形で法を定めることにより、人は、地獄界や餓鬼界を離れ、畜生界に至る事が出来る。この畜生界への導きが十戒である。ここまでであれば、別に、神など必要ない。しかし、これでも、治外法権を持つ王の奴隷となるよりも、まだ、ましであろう。
ここまでが三悪道であり、人は三悪道を常識とする以上、犯罪からは逃れられない。これゆえ、聖書では人を犯罪者の位置から犯罪者とはならない位置にまで引き上げる事を目的として物語をすすめているのだ。これがモーセの書の意味である。
福音
モーセの書で、人を修羅界にまで導いているのだが、この修羅界は『迷い』と言う状態である。人は『迷う』ゆえに努力するのだし、『迷う』ゆえに学ぶようにもなる。ところが、人にはこの『迷いを嫌がる』と言う性質があるのだ。だから、人は『これが正しい』と語る者に惹かれるようになるのだ。
聖書にも同じ話が出ている。これが律法学者であり、パリサイ人たちである。せっかく、人を犯罪者の位置である三悪道から離したのに、律法学者やパリサイ人は、また人々を犯罪者の位置に戻そうとする。人々も、彼らに惹かれて、三悪道に戻るという選択をする。これでは、本末転倒である。
では、どのようにすればよいのか。迷いでもなく、犯罪者ともならない位置にまで導いてしまえば良い。この導きが『福音』の意味である。福音は、イエスの言動を記したものである。これは人びとにイエスの思考常識を教える為であり、イエスの思考常識が『人界』となる。
福音書には、数々の奇跡の話が載っているのだが、これらの奇跡の話は聖書の奥義を示している。この奥義がどのようなものなのかを一つ一つ解説しても良いのだが、このような話を始めると、すごく長大な話となる。そこで、ここでは福音の基本の意味だけに留めておく。福音は、人を人界の常識に導くための書なのだ。
さて、世の中には実際に人界を常識とする民族がいる。これが日本人である。日本人から見ると、福音のイエスは、奇跡の話を除くと、隣のおじさん程度の人であり、どこにでもいる普通の人と言う認識となる。つまり、『どうしてこれが神???』となるのだ。
『イエスは素晴らしい』『イエスは神だ』と、宣教師がいくら語っても、日本人には『どこにでもいる普通の人』なのだ。だから、信仰として広まることはない。まぁ、日本神話の神々も同じようなものだから、神々の一人という認識とはなるが、唯一神、絶対神とはならないのだ。
イエスの話をすると、あなた方は神であり自分たちとは別の存在と言う認識となるかもしれない。そこで、ここでは、同じ『人界』なのだから日本人の認識を語ってみよう。
日本では、2歳から3歳の幼児に最初に、『あなたは、他の人と同じ』と教える。とくに、幼稚園や保育園では徹底して『あなたと他の人は同じ』と教えるのだ。すると、幼児は『自分の位置を、他の人と並列に置く』と言うことを覚える。自分と他人の位置を同じとする並列思考が人界の常識である。幼児は、これを簡単に覚える。ここが、すべてのスタートなのだ。自分は、優れているわけでも劣っているわけでもないので順番を守る。自分がされて嫌なことは、他の人にはしないようにする。
また、日本では、幼児に、『他の人の立場で考える』という天界思考の基本も教えるのだ。小学校に上がるくらいの年齢となると、家庭や幼稚園や保育園で徹底的に教えられた者たちは、人界思考ばかりではなく天界思考もするようになっている。すると、法も知らないのに最初から法を守る者たちとなり、倫理規定も知らないのに倫理規定を最初から守る者たちとなるのだ。
自分と他人との間に序列を設けないとは、自分自身の状態にも優劣をつけないということになる。貧乏であろうが、金持ちであろうが自分の価値は変わらない。上の地位に立とうが下の地位に甘んじようが自分の価値は同じなのだ。努力しようが、怠惰であろうが価値は変わらないのだから、何もしなくてもよいのだが、何もしないということは命じられて何かをすることよりも辛い。このため、自分が好きな事をするようになる。
自分が好きな事であれば、人は時間も忘れ、お金も自分が使えるだけ使うようになる。すると、『極めた』という状態となる。本人からすると、好きだからやっているだけで、地位慾、名誉欲、金銭欲などの故ではない。しかし、このような欲望に駆られて行う者よりも、はるかに『極める』ことになるのだ。
確かに途中で、地位慾、名誉欲、金銭欲などに囚われるようになることもあるのが、このようなものに囚われた途端、面白くなくなるのだ。この時、地位慾、名誉欲、金銭欲などに囚われることを止めるのか、それとも、別のものに興味を移すのかと選択するようになる。大体、これが日本人の典型的な姿である。
十字架
イエスは十字架に架かった。この十字架の意味は語っておこう。イエスの十字架にはわたしが関係している。イエスはこのように問うた『原罪から離れるためにはどうしたらよいのでしょうか』と。わたしは、このように答えたのだ『十字架に架かり、裁きの地獄に堕ちなさい。永遠の裁きの地獄に堕ち、そこで身動きできなくなるのが原罪なのだ。あなたには、真我と言うものがある。これがあなたの本体であり、裁きの地獄は真我には傷一つつける事すらできない。人が原罪から離れるためには、これしかない。ただ、わたしは、これをあなたに強制することはしない。どうするのかは、あなた自身が決めなさい。』と。
イエスは、しばらく迷っていた。やがて、彼は『主よ。そのようにいたします』と答えたのだ。この後は、あなた方が知る通りである。
原罪とは、あなた方が自分自身であると思っているものである。これは何かと言えば、現世利益を求める自我と、来世利益を求める自我の複合体なのだ。例えば、死とは現世利益を求める自我からの離脱を意味する。人は死によっても、原罪から離れることはできない。では、どうすれば、人は原罪から離れる事が出来るであろうか。永遠の裁きの地獄に死後の行先を変えればよい。
文字通り、『地獄に堕ちる』のだ。『地獄に堕ちる』ことを自ら選択するのだ。十字架刑は、当時のユダヤ人にとって死刑に勝る刑罰であった。十字架は、人の魂を永遠の裁きの地獄に送るための刑罰だったのだ。だから、わたしはイエスに『十字架に架かれ』と語ったのだ。
さて、このように語ると、原罪から離れるためには死と永遠の裁きの地獄の両方が必要と思われるかもしれない。しかし、実際に必要なのは永遠の裁きの地獄の方であり、死は必要ないのだ。この原理を説明しよう。現世利益を求めるとは、生きている間の未来利益を求めるという意味となる。現世利益とは言うのだが、実際に求めているのは少し先の未来利益なのだ。これに対して、来世利益とは、少し遠い未来利益と言うことになる。両方とも求めているのは未来利益に他ならない。近い未来の利益とは言うが、人はその近い未来にまで生きられるという保証はどこにもない。このように、人の欲望とは『来世利益を求める』『天国を求める』と言う言葉に集約されるのだ。
これは何を意味するのか。【生きたまま、永遠の裁きの地獄に堕ち、そこに原罪の自我を捨て、無原罪の自我となって生き続けることができる】と言うことを意味する。この、原罪から離れた状態を菩薩と呼ぶ。この菩薩の常識が菩薩界となる。
ヨハネの黙示録
聖書には、ヨハネの黙示録という書がある。イエスは『わたしを否定しても許されるが、来るべき聖霊を否定することは許されない』と語っている。そして、ヨハネの黙示録には『これが聖霊である』と明記されているのだ。しかし、ヨハネの黙示録を守ろうとすると、火と硫黄の燃える地獄を免れなくなる。
『これはおかしい』と、おバカさんたちは思ったようである。そして、『免罪符を買い求めれば火と硫黄の燃える地獄から免れることが出来る』とか、『キリストを信じるならば、火と硫黄の燃える地獄から免れることが出来る』とか言っているのだ。
わかると思うが、本来は、この火と硫黄の燃える地獄に飛び込めと言う事なのだ。この火と硫黄の燃える地獄がイエスの十字架と同じ意味だからである。
ただし、この両者には違いもある。十字架は死を伴うのだが、火と硫黄の燃える地獄は死を必須とはしない。つまり、ヨハネの黙示録を守ることにより、人は、生きたまま、原罪から離れる事が出来るのだ。『永遠の裁きの地獄に堕ちる』これ以外に、人が原罪から離れる方法はない。だから、イエスは『聖霊を絶対に守れ』と命じているのだ。
人は、『イエスは最初から無原罪だ』などと語る。しかし、人として生まれるためには、原罪の自我を纏うしかない。これは、生きていけなくなるからである。わたしも、原罪の自我を纏って生まれてきた。そして、自ら、火と硫黄の燃える地獄に堕ち、原罪の自我から離れたのだ。そして、のちに、わたし自身がJHVHであることを知った。イエスも同じである。原罪の自我を纏い、その原罪の自我を裁きの地獄に堕ちる事により脱ぎ捨て、真我となってJHVHとなったのだ。
さて、あなた方は三悪道に沈んでいる。『わたしは正しい』『わたしは優れている』と人は思うのだが、この思考そのものが三悪道の思考なのだ。どうして、あなた方が三悪道に沈み、人界や天界に至れないのかをお教えしよう。
人は縁により六道全てを巡る状態となる。この縁となるものは、確かに、ここに示すような法であっても良い。しかし、法は、あなた方にとって恐ろしく難解となる。あなた方の言う学問の内で、一番進んでいるものは、おそらく物理学であろう。しかし、現代物理学では、わたしが語ることの基礎にすら到達できないのだ。基礎にまず到達し、それを応用することにより、ようやく、人は理解できるようになる。これが、『法を知る』ということである。
まあ、このような事を語っても、信じられないと思う。そこで、現代物理学を少し進めて、わたしの法の基礎とは、どのようなものなのかを説明しよう。ただ、ここに示すものは、あなた方に理解しやすいようにかなり簡略化している。それでも、かなり難解となるのではなかろうか。
アインシュタインは相対性理論を語った。相対性理論には特殊相対性理論と一般相対性理論があるのだが、E=mc²は特殊相対性理論の理論値である。これが一般相対性理論となると、時間と空間とエネルギー(存在)には、相関関係だけがあり、絶対が存在しないという論理となる。ここまでが現代物理学となる。
わたしは、この次の段階から説明していこう。時間と空間と存在に相関関係があるのならば、存在が無い時に、時間や空間が存在するのかと言う疑問となる。単純な話なのだが、これは存在しないとなるのだ。
では、時間・空間・存在とは何なのかと言う疑問となり、根源が時間・空間・存在に分かれたのではないかとなる。
この根源がわたしの話の基礎であり、そして、仏教の基礎でもある。仏教ではこれを『空』と呼んでいる。そして、これが、創世記で『おおぞら』と記されているものでもある。ここまで来てようやく、創世記の『おおぞら』にまで到達できるのだ。
よく、ワープとか言われている。実際にワープも可能なのだが、存在も空間も時間もない根源の『空』に至れるのは、『人の意識』と言ったら良いのかな、『根源の魂』とでも言ったらよいのかな、『念』と言ったら良いのかな。これだけなのだ。これを十界論で語ると、地獄界から縁覚界までの八界と、菩薩界、仏界の間にあるものが『空』となる。創世記に『水』が出てくるのだが、下の水が『地獄界から天界までの六道』となり、上の水が『菩薩界仏界』となる。声聞界は、下の水の上と言う位置となり、『イエスは水の上を歩いた』と言う表現は、『イエスは声聞界に至った』と言う意味となる。これをワープと言う表現に変えると、『人はワープすることにより菩薩界に至る』と言う表現ともなる。
分かったような、分からないような話となるであろうが、これが聖書の創世記なのだ。法を語ろうとすると、このような話となってしまう。論理を語るよりも『信じよ』と言う一言の方が簡単なのだ。
現代物理学の遥か先を証明として語っても、おそらく付いてこれないと思う。これゆえ、ここからは、説明を省き、このようになっているという事だけを語ろう。
法を語ろうとすると法の基準の位置が、アインシュタインの遥か先にある。では、いったい法は何のために語るのか。【最終的には、人を仏界、すなわち、JHVHの位置にまで導きたい。また、これが叶わぬのならば、ほんの少しでも、人々をより良い状態にしたい。】これが法を語る目的なのだ。
しかし、法は難しすぎるのだ。また、人が簡単に受け入れる事ができないことも分かっている。『裁きの地獄に堕ちよ』などと語れば、あなた方が恐れ、逃げ惑うことは、最初から分かっているのだ。では、あなた方が受け入れることが出来る法はないのか。と言えば、あるのだが、今度はあなた方の方に問題がある。
先に機根を整えなくてはならないのだ。機根を整えるために、モーセの書もあり、福音もあるのだが、この意味すらも分からなくなるのが人間なのだ。そして、このこともわたしは最初から知っている。機根を整えるためだけの法であっても、人の理解を超えてしまうのだ。
では、法以外の何かを『機根を整える』という目的のために定める事はできないのか。これは、『命』ならば可能となる。『命』以外に、この目的を果たせるものは存在しない。つまり、神より継承された『聖』を、人の命により繋いでいけば、人々は『聖』とまみえることにより、六道全てを輪廻する状態とすることが出来るようになる。
人の系譜
イエスは十二使徒を定めた。このイエスの十二使徒とは、本来はこの『聖』の役割を持つ人である。十二使徒には、仮任命と本任命がある。仮任命とは一人の使徒がいなくなるたびに、他の誰かにその役割を受け渡す、人に依る任命である。本任命は、天に至りJHVHとなったイエス自身による任命であり、この本任命により十二使徒の『聖』の役割は次の者に受け継がれることになる。これが名前の継承となる。
つまり、本来であれば、イエスの十二使徒は、今も同じ名の十二使徒として存在するはずなのだ。そして、人は、この十二使徒と言う『聖』により、人界や天界にも普通に至れるようになっているはずだったのだ。
これが『聖』であり、十二使徒は、この『聖』の役割を担うはずだったのだ。
では、なぜ、これが崩れたのか。パウロと言う者がいた。パウロは十二使徒を補助する役割の名であり、十二使徒ではない。ところが、このパウロが、十二使徒を追い出し法主の座を簒奪したのだ。この簒奪者が、今のキリスト教の基となった。これゆえ、『聖』は消え去ってしまった。これゆえ、人々は、三悪道に沈み、そこから這い上がれなくなったのだ。
では、なぜ、日本人は普通に人界や天界に至れるのか。日本神話は聖書系の聖典である。聖書系の聖典は、人々がその人に会うことにより六道全てを巡ることが出来るという人を設定することを目的としている。日本には、この系譜を受け継ぐ『聖』が実際にいるのだ。神話より続く『聖』を、男系男子と言う系譜により受け継いできたのが、日本の天皇家である。日本にはこの『聖』が残っているから、日本人は普通に人界や天界に至る事が出来るのだ。
今の世界には、日本の天皇家しか残っていない。しかし、本来は全世界にこれも四系統あったはずなのだ。残りの三系統は消え去ってしまった。聖書系の神話とは、本来は、この『聖』を人の間に伝えるためのものである。神話より続く男系男子の『聖』を存続させるために神話は存在する。この目的を果たせなくなれば『神話』も、その役目を終える。『聖』が潰えた。これゆえ、残りの三系統の神話も消え去ってしまったのだ。このように、全てが残っていれば16系統あるはずなのだが、今は、一系統しか残っていない。
コーラン
コーランの説明もしておこう。ヨハネの黙示録を聖霊として世に示した以上、ヨハネの黙示録の命令を守り、火と硫黄の燃える地獄に飛び込む者がいたとしても何の不思議もない。
この火と硫黄の燃える地獄に実際に飛び込んだものが菩薩であり、これがコーランの『ムスリム』なのだ。この世は原罪の世界である。例えば、聖書も原罪の者を、律法により修羅界へ導き、福音により人界に導き、聖霊により菩薩界へ導こうとしている。この聖書の導きは、実際に菩薩界に至り菩薩となった者には意味がなくなってしまうのだ。世の全ての事象は、原罪者が、どうすればより良くなるのかと、もがき、苦しみ、つくり出したものであり、無原罪の者には無意味となる。
無原罪者ムスリム(菩薩)は、すべてが無意味となる原罪の世界で、人として生きていかなくてはならないのだ。これは、実際に、ムスリム(菩薩)とならなければわからないであろう。自分を導くものが何一つない世界では、生きていくこと自体が難しくなる。
例えば、オオカミの世界で、オオカミに育てられた子供はどのようになるのか。その者は、人間であり、本来は、人としての価値観を持って生きるべきなのだが、オオカミたちは、この子に人としての価値観を教える事が出来るであろうか。これでも難しいのだ。実際には、オオカミの価値観と原罪の者の価値観は大差ないと言える。それでも、難しいという事が分かるのではなかろうか。オオカミと原罪の人との間の価値観の差よりも、原罪の人と無原罪の人の差は大きい。何もなければ、対処しようがなくなるのだ。
無原罪の者が、原罪の世界で生きていくためには、無原罪の者のための手引書が必要となる。このようなものが無いと、五里霧中となるのだ。コーランとは、無原罪者ムスリム(菩薩)が、原罪の世界で生きていくための手引書なのだ。これを原罪の者がいくら読んでも意味がないのだ。
少しだけ、このようになると語ってみよう。真のムスリムがコーランを見ると笑ってしまう言葉がある。これは、『アッラーの神権を破る者は永遠の火獄に定められる』と言う言葉である。ムスリムは実際にこの火極を潜ってきたのだから、恐怖でもなければ、定めでもないものとなる。『何??これ??』となるのだが、やがて、『そうか、これを人は恐れるのか』と、ムスリムは原罪者の思考を知ることになる。これは、『原罪の者は、火獄を恐れる』と言う事をムスリムに教えているのだ。
コーランには、『ムスリムには天国に永遠の処女が用意されている』と言う言葉が載っている。ムスリムにとっては、天国も地獄も現世も区別がなくなるのだ。つまり、『今、処女が用意されているはず』となるのだが、今、実際にここにあるのはコーランと自分だけなのだ。すると、処女とは人が知らないものと言う意味であり、コーランにより自分が習っている事は、他の者たちが知らないことなのだな、と言う事が分かる。つまり、女とはコーランを示すという事を、ムスリム(菩薩)は知るのだ。この知識を他の人に語っても良いのかとコーランを見ると、『女は全身を隠せ』と記されている。つまり、『これは語ってはならないことなのだな』と知るのだ。この意味は、下手に、このような事を語ると、人々はムスリムを異端扱いしかねないからである。これはムスリムに命を大事にしなさいと教えているのだ。
また、コーランには『豚を避けよ』という言葉が出てくる。ムスリムには、この意味はすぐにはわからない。ただ、豚と同じように犬が出てくるのだが、この犬は知ったかぶりして説教する者を指すらしいということはすぐに分かる。ここから、豚とは人を示すのではなかろうかと言うことだけは分かるのだ。実際に、この意味が分かるのは、聖書を知った時である。聖書には『豚に真珠を投げ与えるな。豚は怒って噛みついてくる』と記されている。そして、ヨハネの黙示録には『真珠は人の入り口』と記されている。
ムスリムは、実際に中に入ったということは分かる。では、自分はどこから入ってきたのかといえば、火と硫黄の燃える地獄からここに入ってきたのだ。つまり、『火と硫黄の燃える地獄に入れ』と言う言葉を聞き、怒って噛みついてくる者たちが豚である事が分かる。このようにして、ムスリム(菩薩)は『豚は避けるべき』と言う言葉の意味を知る。ここから、既存のイスラム教やキリスト教などをムスリム(菩薩)は避けるようになる。これらは、ムスリム(菩薩)が、原罪の世界で生きていくための処方箋のようなものなのだ。
今から、何をすべきなのか
さて、現実問題として、今、人類は滅亡の淵にいる。今のまま、進んでいけば、人類は滅亡してしまうのだ。これが、地球環境問題と呼ばれる問題である。あなた方は、この問題を解決しようと、脱炭素だ、脱火力発電だ、太陽光だ、EVだと頑張ってきたようである。はっきり言えば、このようなものは対策にすらなっていない。これは、問題の本質を見誤っているからである。
よく、考えてごらん。なぜ、過剰なCO₂を排出するのか。人の欲望ゆえである。この過剰な欲望が人類を滅ぼそうとしているのだ。では、過剰な欲望とは何か。これは犯罪であり、すべての犯罪の根本は三悪道思考にある。すなわち、弱肉強食思考であり、独裁思考であり、法治主義思考なのだ。
最初に、具体的な数字をお教えしよう。人類が実際に滅亡するのは約千五百年後である。例えば、CO₂を完全に削減したとすれば、多少の延命はできるであろう。しかし、このような対策では、人類は西暦4000年を迎える事はできない。では、どのようにすれば、人類は西暦4000を超えて生存することが出来るのか。人類全体の三分の一以上が、人界以上の常識を持つようになればよいのだが、これにも条件がある。400年以内に、これを成し遂げなければ、人類は滅亡する。
400年以内に、人類の三分の一以上が人界以上の常識を持つようになればよいのだが、その位置が声聞界以上であれば無条件で存続できる。しかし、その位置が人界・天界であるならば、日本の天皇家の男系男子の系譜も必須となる。これが具体的な指標である。
あなた方は、今、『独裁政治ではなく、民主主義になしなくてはならない』と考えておられるのかもしれない。しかし、この両方ともが三悪道であり、どちらを選択しても滅亡への道としかならないのだ。また、あなた方は、『グローバリズムとナショナリズムのどちらを選択すべきか』と考えておられるようだが、これも、どちらを選択したとしても三悪道でしかない。人類滅亡へ一直線となるのだ。
では、どのようにしたら、人類の滅亡を回避できるのか。人類が滅亡を回避するためには、まず、最初にあなた方の常識が三悪道でしかないという事を知らなくてはならない。そして、次に、イエス・キリストの思考常識をあなた方自身の思考常識としていかなくてはならない。これは、聖書的に言えば、福音社会を目指すということになる。ただ、これは福音書を見るよりも、現実にある福音社会を参考にする方が簡単であろう。
あなた方は、人を序列思考で見ている。そして、自分の位置を、この序列のどこにあるのかと考え、人々には、『人と人との間にある序列は守るべき』と語っているはずである。福音思考は、これとは全く違う。『すべての人の価値は同じ』という思考なのだ。人には、民族の違いもあれば、性差もある。上司や部下の役割の違いもあるし、金持ちも貧乏人もいる。しかし、人界思考では、これらは、単なる差異に過ぎない。このようなものによって、優劣、正邪、善悪などは定まらないという思考が人界なのだ。人々が、この人界を常識とすることにより福音社会となっていく。この実例として日本と言う社会がある。人界とは、思考の上での平等である。実質的にある差異は、思考の上での平等には何の影響も与えないという考え方となるのだ。
あなた方は、おそらく、独裁政治が正しいのか、それとも民主主義政治が正しいのかと議論しているであろう。この答えは簡単で、独裁政治は餓鬼界思考、民主主義は法治主義であり畜生界思考。どちらが優れているのかといえば、畜生界の方が優れているとなるのだが、この両方ともが三悪道。どんぐりの背比べで大差ないとも言える。
また、あなた方はグローバリズムが正しいのか、ナショナリズムが正しいのかとも議論しているであろう。これは、表面的な権利を外国人などの化外の民にも認めるべきか、それとも、権利を持つものは自国民に制限すべきかと言う比較となるのだが、これも、どちらを選択しても三悪道としかならない。つまり、どちらを選択しても滅びとしかならないのだ。
ただ、畜生界を常識とする国に於いては、ナショナリズムを選択すべきと言える。これは、他民族の中には、地獄界を常識とする民もいれば、餓鬼界を常識とする民もいる。また、守るべき法を別のところに定めている者たちもいるからである。このような者たちに別の常識や思考で動かれたら、法治主義が壊れてしまい、餓鬼界や地獄界の社会となってしまうからである。
では、具体的にはどうするのか。わたしならば、『目には目を、歯には歯を』で対処する。地獄界を常識とする者たちには、地獄界の常識であたる。すなわち、法を破るならば即国外退去とする。これは、かの者の生存権を奪うという意味である。餓鬼界を常識とする者たちには、絶対王として命令を下し、一切の口答えをさせない。自国の法以外を絶対法として守り、国法を破る者たちには、彼らが考えるその絶対法を論破してその者に突きつける。これが、畜生界、すなわち法治主義社会を守る方法だからである。
ただ、このように対策を講じたとしても世の犯罪は増えないだけであり、無くなることはない。また、国家が滅びに向かうことを止めることも出来ない。
根本的に『正しい』『間違い』で物事を判断すること自体が三悪道なのだ。物事を『正しい』『間違い』で判断すること自体が犯罪者の思考なのだ。『正しい』『間違い』で、判断している以上、人類は滅亡を免れない。ただ、これは、【物事を『正しい』『間違い』で判断することにより人類は滅亡する】という原因と結果を示しているに過ぎない。
わたしが語っているのは、物事の原因と結果である。『こうすれば、こうなる。』『こうすれば、こうなる。』と、原因と結果を語っているだけである。
わたしは選択肢を示しているだけであり、実際に選択するのはあなた方自身なのだ。
あなた方が、『人類には存続の価値はない。滅びるべきだ』と考えられるならば、その道を選択すればよい。
こんなことはあり得ない。我々は別の選択をするというのならば、それも一つの道である。
この話を聞き、『試してみよう』というのならば、それもまた一つの選択なのだ。
これらの内の、どれが正しいとか、どれが間違いとかいう話ではないのだ。
JHVH