藤井聡さま

 

 

 【京大式 一生役に立つ社会科学入門】を購入した者です。感想として、『この程度のことしか教えてもらえないのであれば、大学など行かなくて正解だった。』と思います。わたしは高卒ですが、高卒の私でも、何がおかしいのか一瞬で分かります。

 先生は、保守vsリベラルで物事を分析していらっしゃいますが、保守もリベラルも、結局はより良い未来を創るための手法に過ぎないのではありませんか。このために必要なのは、未来に対する指標だと思います。『どのような未来を創ろうとしているのか』が、根本にあってはじめて有効となる話ではないのでしょうか。

 この一番肝心の未来に対する指標が全くなく、保守が正しいだのリベラルが正しいだのと語っても、無意味なのではありませんか。

 

 社会を機械と考え、人はその機械の部品だと考えるにしても、その機械はいったい何のための機械なのかと言う問題となります。また、社会は一種の生物だと考えるにしても、その生き物はどこに向かって歩むのかが最大の問題となります。保守だ、リベラルだと対立軸を作っても、それはどのような未来を見ているのかがはっきりしないと、この対立軸そのものも無意味となるのではありませんか。

 

 では、『未来』と一言で言っても、それは何年後の未来なのか。また、どの範囲の者たちの未来なのかによって、その対応も変化します。『10年後の日本はこうあるべきだ』と考えるのか。『千年後の世界はこうあるべきだ』と考えるのか。期間の短いものは期間の長いものの制約を受けます。範囲の狭いものは範囲の広いものの制約を受けます。例えば、百年後の未来はこのようにすべきだと言う指標があれば、その指標から十年後の姿は逆算できるのですが、十年後はこうあるべきだと言う指標からは百年後の未来の姿は創りだせません。また、日本はこうあるべきだと言う指標を持っていても、そこから世界の未来を創ることはできないのです。

 つまり、この指標はできるだけ遠い未来のものであり、できるだけ広範囲のものである必要があるのです。この指標として、少なくとも千年程度の未来、そして、人類全体という範囲である必要があるとわたしは考えます。

 

 当然、先生の話には、このような内容が入っていると思っていたのですが、残念ながら、このような話は入っていないようです。先生は、リベラリストはある特定の者たちの自由を主張し、他の者たちの自由を疎外するから、結局、不自由な社会となる。これが分からないのだから頭が悪いと仰られています。しかし、わたしは社会を対決軸で見て、『こちらが正しく、相手は間違いだ』という考え方そのものが本当に正しいのかと疑問に思います。

 

 リベラルとか保守とかは、結局、見ている未来の違いなのではありませんか。自分の現世における名声を求めれば、自分は正しく、自分に反対する者は間違いだと主張し、この賛同者を集める事となります。これに対して、真に社会の発展を求めるならば、社会をこのように変えていくためには、今、自分は何をすべきかと言う発想となります。

 

 『今だけ、自分だけ』という発想からリベラルはうまれ、『今、自分は何をすべきか』と言う発想から保守が生まれると言えるのではないでしょうか。

 

 ここまでは、誰でも瞬間に分かる程度のこと。では、なぜ人は『今だけ、自分だけ』と言う発想となるのでしょうか。目指すものがあれば、人は『今、何をすべきか』と自然に考えるようになると思います。しかし、その目指すものが何もないと、結局、考え方が狭くなってしまい、『今だけ、自分だけ』となってしまうのではないでしょうか。

 

 これを先生に当てはめますと、『保守は正しく、リベラルは間違いだと主張するわたしが正しい』と主張していると言えます。結局、『今だけ、自分だけ』と言う思考であることに変わりがないのではありませんか。

 

 繰り返しになりますが、なぜこのような思考となるのか。そこに未来像がないからで、未来像があれば、人は基本的に保守の発想となると言えるのではありませんか。

 

 

 この観点から歴史を見ますと、安倍首相には数年から数十年程度の未来に対する展望がありました。また、田中角栄にも、数年から数十年の未来に対する展望があったと言うことが分かります。今の総理大臣、名前は忘れましたが、彼にはこのような展望は全くない。

 

 世界に目を転じれば、正しいかどうかはともかくマルクスには、このような展望があったことが分かります。また、ロックフェラーなどはこのような未来展望を求めていたこともわかります。ソ連や中共などは自然発生的にできたと考えるよりは、誰かの意思により創られた社会と考えられます。では、それを創ろうと画策したのは誰なのか。誰の意思により創られたのかと考えますと、それが可能なのはロックフェラーぐらいです。では、彼らはどのような考え方から創ったのか。『自分たちでは未来展望を描けない。確かに、マルクスの思想には未来展望がある。しかし、これが正しいという保証はない。とりあえず、既存のものから切り離して実験社会をつくってみよう』と言う発想から出来たとすると、現状の全てがここに収まります。マルクスやロックフェラーが展望したのは、数百年先の未来であり、彼らはこの失敗例と言えます。

 

 では、このように数百年先を展望し、実際に成功した例はないのかと言えば、これも存在します。それは徳川家康の政策です。徳川幕府の政策により、武器は退化し、日本は三百年近く天下泰平の世となりました。当初から、政策が形骸化する状況まで見越しており、それでも、日本が存続するためにはどうしたらよいのかと思案していた形跡もあります。

 日本がおかしくなるとすれば、それは諸外国の干渉によるものであろうと、最初から予想し、これに対する対策を幕府開設当初から、何重にもわたって立てていたようです。そして、実際に明治維新が起きました。明治維新により日本人が自ら江戸時代の天下泰平の政策を否定したのです。この結果、亡国の憂き目も観る事となったと言えます。さらに、そこに追い打ちをかけるようにGHQが破壊を試みたのですが、破壊出来たのは上層部のみ。破壊しきれずに、今も日本にしっかりと残っているのです。これは、このようになることを予測し、事前に対策を打った者がいないと、事態がこのように進行するとは考えにくいのです。そこで過去を調べてみると、徳川家康に行き当たったのです。つまり、五百年程度先の未来までは彼が見定め対策を立てていたと考えられるのです。これらが百年単位で未来を創ろうとした例と言えます。

 

 千年単位の展望となると、今は宗教という形で残っているものとなります。ただ、これは人には少し難しいようです。例えば、聖書では『何々してはならない』と言いながら、『それも許される』などとも語ります。例えば、十戒では『人殺しをしてはならない』と命じながら、その十戒を人々に示したモーセは人殺しをしたとも明記されています。また、姦淫してはならないと命じながら、近親相姦により子を設けたロトとその子孫に祝福を与えています。また、『神がお許しにならなかった』という理由で全滅させたり、許されないような罪であっても、『神はそれをお許しになられた』として祝福されたり、おおよそ、『何が正しいの』と言うような状態となります。

 また、聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネの黙示録では、誰一人として、火と硫黄の燃える地獄を免れないとなります。これを、イエスを信仰すれば免れる事が出来るとしているのが、キリスト教なのですが、なぜ免れる事が出来るのかと言う論理的根拠はどこにもありません。要するに自分たちの希望的観測を宗教としているのです。

 また、イスラム教と言う宗教もあります。彼らはコーランを経典としているのですが、コーランに依れば『ムスリム』と人を任じるのはアッラーの神権となります。また、人は何をしても許されるがアッラーの神権を犯す行為は決して許されないとも記されています。ところが、彼らはどういうわけか自分たちのことをムスリムだという。つまり、わたしはアッラーの神権を犯す者ですと自称しているのがイスラム教徒と言うことになります。

 また、仏典の法華経には、末法の定義として『無仏』と記されています。ところが創価学会などは『日蓮こそ、末法の本仏』などと語り、これを中心に論を語っています。末法に本仏がいるはずはなく、本仏がいるならばそれは末法ではありえない。

 

 このように、人が解釈すると間違いとなり、結局、何が何かわからないものとなるのですが、ここに、千年万年の人類がたどるべき道筋が記されているのです。徳川家康は、その道筋に従って江戸時代を定めたゆえに成功し、マルクスはその道筋が見えなかったので失敗したと言えるのです。

 

 

 さて、先生は色々な人が語ったことを論拠として話をしていらっしゃいます。では、先生が用いる人々はどういう思考の持ち主なのでしょうか。彼らの多くがキリスト教徒、とくにプロテスタントが多いようです。プロテスタントの基本は『ヨハネの黙示録の裁きの地獄はイエスを信仰することにより免れる事が出来る』と言うところから始まっています。では、ヨハネの黙示録は誰に対して示されているのかと言えば、イエスを信仰する者たちに対してです。つまり、『イエスを信仰するのならば裁きの地獄に至れ』と記されているのがヨハネの黙示録であり、これに耐えられない人々が自分たちの都合に合わせて、『イエスを信仰する者は裁きの地獄を免れる』としているわけです。なぜ、人々がこれを歓迎したのか。裁きの地獄を免れたいと言う気持ちがあり、裁きの地獄を免れる法を、とりあえず求めたのです。この人々の求めに応じることにより人々の賛同を得たと言うわけです。

 ここから、真実かどうかは別にして、人々の賛同が得られるものが正しいと言う思考となり、この思考を基準にして社会全体を定めているのがプロテスタント思想ということになります。

 では、どういうものが人々に支持されるのかといえば、如何にも権威があるかのように見えるもの。そして、簡単な事ではなく難しく難解なことを語る方が人はそれを正しいと勘違いしやすいのです。

 

 先生が引き合いに出す、ほとんどの者たちにこのような傾向があるので、先生も本質から目をそらし、彼らが語ったものを論拠として、そこから論をすすめていらっしゃるのではありませんか。

 

 

【十界論】

 

さて、前書きはこのくらいに致しましょう。

 

 

 法華経には十界という考え方が示されています。十界は人の思考のうごく範囲であり、人の思考の基本でもあります。そして、人は皆、十界のいずれかから思考し、その自分の思考から数々の行動を起こします。このため、その人がどのような思考をしているのかがわかれば、ある事象に対して、その人がどのような行動を起こすのかは事前に予測出来ます。また、物事に対するその人のリアクションから、その人の思考も分かるのです。

 

 では、十界はどのように名付けられているのか。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界と名付けられており、それぞれが人の思考の基準、すなわち常識となっています。この十の常識には優劣も定められていますが、この優劣の基準は、第一に『どの常識を以て生きていく方が人にとって楽なのか』と言うところにあります。例えば、地獄界を常識とする国に生きるのと、畜生界を常識とする国に生きる人々がいるならば、どちらが人々にとって暮らしやすいのかと言う比較であり、この場合、人々は畜生界を楽とするので、畜生界の方が地獄界よりも上の境地・常識であるとなるのです。基準はまだあります。第二の基準は、どちらの常識を持てば、神や仏の助けがより多く得られるのかという基準であり、これは、神仏などの霊的な者たちも、この基準に従って動くと言う意味となります。すなわち、神仏がこの基準に従って動くので、世の中には神話も存在し、聖典も存在すると言うわけです。これが、聖典は千年万年単位の未来を指し示すと語る理由なのです。

 

 

 

 では、具体的に十界とは、どのような基礎思考なのでしょうか。

 

 

地獄界

 

 これは弱肉強食思考です。劣る者は死、勝る者は生。勝る者は劣る者を殺し、そのすべてを奪い取る事が出来ると言う基礎思考となります。

 

餓鬼界

 

 これは、勝者は王となり、敗者は奴隷となると言う常識です。全てを定めるのは王側であり、奴隷側は王が定めた決まりを一方的に守らなくてはならないという基礎思考が餓鬼界の常識となります。

 

畜生界

 

 これは、あらかじめ定められたルールに従い、各人が優劣を競う事が正しいと言う常識となります。畜生界思考に於いて、ルール破りは敗者となります。

 

 

修羅界

 

 人の優劣の基準は努力にこそあると言う考え方が、修羅界の常識となります。常に努力し続けることが重要であり、努力を怠れば劣ると言う判断となります。

 

人界

 

 修羅界までは、その基準が何であれ人の間に優劣をつけます。人界の常識は平等となります。自分も他人も同じと言う思考が人界の常識となります。これは、自分の状態についても優劣を設けないと言う常識となります。例えば努力する自分も、努力を怠る自堕落な自分も何も変わらないという思考となります。

 

天界

 

 人界での主体は自分自身ですが、この主体を社会とすることにより天界の常識となります。何をしても同じ。何をしても変わらない。と言う状態で、人は何もしなくなるのかと言えば、それでも、人は何かをするのです。これは何もしないことは、何かをしなくてはならないよりもつらいからです。しかし、何かしようとすると、自分がしたいからすることは、正しいのだろうかと言う思考となります。ここから、社会を主体として考える天界思考が生まれます。天界とは、為政者が社会全体のことを考えるのではなく、その社会に属する人々が各々社会全体のことを思考すると言う常識形態となります。

 

 

声聞(しょうもん)界

 

 地獄界から天界までは不安定な常識形態です。ある時は人界や天界の常識を持つようになったとしても、すぐに、地獄界や餓鬼界へと考え方・常識を変化させてしまうのが人間なのです。このように不安定なことを六道輪廻と呼びます。この六道とは地獄界から天界までの六種類の常識を六道と呼びます。では、この六道輪廻の状態から離れる為にはどうしたらよいのか。思考の根本を六道を俯瞰する位置にまで引き上げてしまえば、六道輪廻の状態となることはありません。この俯瞰する状態に至った状態を声聞と呼びます。例えば、釈迦如来は人の思考の巡る範囲を十二因縁として示されました。人の思考の巡る範囲を十二因縁として見ている位置にある人は、人の思考の巡る範囲から離れ、俯瞰する位置にあることになります。また、人の思考の基本を地獄界から天界までの六種に分類し、六道として見ている人の思考の位置も、声聞界ということになります。つまり、このように書き示す事により、これを知る人々は声聞界に至るとなります。

 

縁覚(えんかく)界

 

 六道は、人の思考がめぐる範囲です。これが『有』という状態なのですが、思考では到達できない状態も存在します。これが『無』と言う状態です。この無思考を常識とするのが縁覚となります。例えば、その道の達人と呼ばれる人々がいます。彼らは無心に至れと語り、自らそれを実践しているのです。この無の状態が縁覚であり、有である六道と無である縁覚をつなぐ位置にあるのが声聞と言うことにもなります。

 

菩薩界

 

 人は、なぜ、六道に留まるのか。そこに自己愛という自我があるからであり、この自己愛の自我を聖書では原罪として示しています。では、人は、この自己愛から離れる事、つまり、原罪から離れる事はできないのかと言えば、実際に離れる方法も存在します。この原罪の自我を失った人の境地を『空』と呼び、原罪の自我を失った人を菩薩と呼びます。つまり、菩薩界とは、有でもなく無でもなく、有無の対極にある『空』に至った人の思考ということになります。

 

仏界

 

 人間社会は、達人と呼ばれる人々が無から有を生み出し、その有を伝承することにより成り立っています。この伝承が知識となります。人は、有の反対を無としますが、実際には、より本質的なものは『無』であり、『有』は『無』より生じると言えます。これと同じことが『有無』と『空』との間にもあり、より本質的なものが『空』と言うことになります。つまり、『空』に至る事により、そこから人の無を知り、人の有も知る状態に至ることも可能と言えます。このように『空』から、全てを俯瞰する人の位置を『仏』と呼び、この仏の位置にある人の思考が仏界となります。

 

 

この、地獄界から仏界までの十種類が理論上存在する、人の全ての常識となります。この常識は、それぞれの境地に直結します。つまり、地獄界の常識を持つ人々か創りだす社会が地獄界の社会となるのです。畜生界の常識を持つ人々が創り出す社会が畜生界の社会という事となります。つまり、仏界という社会の状態も理論的には可能と言えます。

 

 

 

 さて、この十界論が聖書的・仏教的な善悪の基準となります。古典的と言えば超古典的。革新的と言えば超革新的。この十界論から物事を思考するのは、保守と言えば超保守であり、リベラルと言えば超リベラル。

 

 

 

【聖書の意味】

 

 ここで簡単に聖書やコーランの意味を十界論により解説しましょう。人は何の導きもなければ、その常識を地獄界、餓鬼界、畜生界の三種としてしまいます。この三種を三悪道とも呼びます。なぜならば、人の犯す全ての犯罪がこの三悪道の思考から生まれるからです。では、人々が犯罪を犯さなくなるためには、どうしたらよいのでしょうか。一番簡単なのは、『修羅界に導いてしまえ』と言う事になります。修羅界とは本質的に葛藤の境地です。人は迷うゆえに考え、迷うゆえに努力するのです。ならば、迷わせるように聖典を示し、『これを守りなさい』とするならば、どうなるでしょうか。修羅界に至る事となります。人々を修羅界に至らせれば、簡単に犯罪を犯さない状態をつくれるのですから、当然、このようにするのです。これが、旧約聖書で、『何が正しいのかわからない』となる理由で、わざわざ、何が正しいのかわからなくしているのです。

 では、福音書で、なぜイエスの思考や行動を学べとしているのでしょうか。実際のイエスの思考が人界です。イエスは人界の常識を持ち、それを三悪道や修羅界の人々の中で行動しているのです。つまり、これは人界と言う常識があることを知りなさいと言う意味であり、実際に初期のキリスト教は人界思考により社会組織をつくっています。

 さて、聖書では声聞界や縁覚界の思考は出てきません。これは、直接説法ではなく間接説法であると言うのが第一の理由です。分かると思いますが、聖書を読む人が、聖書を読むことにより自分自身の内に修羅界を生じ、人界を生じると言う書き方をしているのです。有であれば、この書き方で人を導けるのですが、実際には、縁覚となると『無』、声聞は有と無をつなぐものであり、これも『無』が分からないと導きようがありません。また、第二に人の自己愛を原罪と言う形で断罪していると言う理由もあります。『罪なのだから、そこから離れよ』としているわけです。

 さて、ヨハネの黙示録では、火と硫黄の燃える地獄からどうしても逃れられないようになっています。これにも当然意味があります。聖書で言う原罪は自己愛であり、人が自分自身であると思っているものこそが、この自己愛の自我なのです。では、この自己愛の自我から離れるためにはどうすればよいのか。聖書的に言えば原罪から離れるためにはどうすればよいのかと言う話となります。さて、自己愛の自我は現世欲と死後の希望の二つから構成されています。つまり、現世欲を潰し、死後の希望を潰すことにより、原罪から離れられるのです。現世欲は死により潰れると人々は認識しています。ならば、もう片方の、死後の希望を潰すことにより、人は原罪から離れる事が出来るのです。これが、火と硫黄の燃える地獄から逃れられなくなっている理由なのです。原罪から離れると人は菩薩となります。そして、この方法が一番簡単な菩薩界に至る道だと思います。このため、これと同じ原理が仏典にも記されています。それが阿弥陀仏の説法となります。良く知られているのは『人は仏を念じることにより、無間地獄ではなく極楽浄土に導かれる』という説法なのですが、実は『仏を念じる』と言う言葉には、無間地獄に堕とされる人々を見捨てる者は無間地獄に堕ちると言う意味も含まれているのです。本質的には、誰も無間地獄から逃れられないのです。そして、なぜ、このような説法をしたのかという理由も涅槃経に記されています。『人に無間地獄に至れと語っても、この教えに耐えられるものはほとんどいない。だから、仏を念じる者は救われるとしたのだ。しかし、これが人が菩薩となるための最短の方法となる』と。つまり、人を菩薩界に導くため、人を原罪から離すための法がこのようなものとなるので、ヨハネの黙示録が聖書の中の聖書とされているのです。では、聖書に菩薩は登場しないのかと言えば、実はコーランに登場します。コーランで『ムスリム』として示されているのが菩薩です。

 では、コーランとは何なのでしょうか。ヨハネの黙示録により自己愛の自我を失った者が菩薩(ムスリム)なのですが、菩薩が生きていく世界は、自己愛により成り立っている世界なのです。菩薩は、自己愛の自我を亡くした状態で、自己愛により成り立っている現世で生きていかなくてはなりません。現世には菩薩思考の基礎である『空』は存在しないのです。このため、『空』を元として、空から現世をみる見方を導きとして示す必要があります。この、菩薩のための導きがコーランなのです。

 

 つまり、聖書は三悪道の人々を、まず修羅界に導き、次に人界に導き、そして菩薩界にまで導いているのです。なぜなのか。ここに人類の種としての目的があるからにほかありません。

 

 

 

【天皇家の意味】

 

 ついでに、日本神話の話もしましょう。なぜ、皇室が男系男子なのかと言う理由です。日本神話は基本的に聖書系列の話ですが、聖書と違うところもあります。これは聖典に示される男女は何を示すのかと言う事です。聖書の話では、女は男のあばら骨から生じたとなっています。これは人の成り立ちを示しているのですが、ここで言う人とは十界の範囲をめぐる人の基本思考を示します。つまり、聖書のアダムがこの十界論となります。人の命はおもしろいもので、実はこの十界が二重に組み込まれているのです。これは、二重に組み込むことにより、人が常識を変更できるようにしているのです。この基本境地となるのがアダムであり、時事刻々と移り変わる心の動きがイブなのです。この二重に組み込まれている事を仏教では十界互具と言います。男も十界、女も十界、これが聖書の基本となります。さて、コーランとなりますと、このアダムの位置が菩薩界と固定されます。これは人の位置が固定されることを示します。ここから男が人の意味となるのです。では、菩薩の助けとなる女とは何になるのかと言えば、狭義で言えば女がコーランとなるのです。女を広義に捉えるならば、菩薩を導く法が全て女と言うことになります。菩薩の基本は『空』です。このため、その菩薩を導く法は『空』を基本として示されることになります。ここに厄介な問題が生じます。人には『空』が分からないのです。空がわからない人が、コーランなどの教菩薩法を聞いても、全く意味が分からないのです。ここから、女は全身を隠せと言うこととなるのです。つまり、菩薩でない者にこの法を解説するなという意味です。人には菩薩の基本である『空』は理解できない。空がわからないと女(法)も理解できない。これを無理に理解させようとしても無駄だから隠してしまえ。これが女は全身を隠せと記されている意味です。

 日本神話はコーランと似ていて、人を男、法を女として示しています。つまり、天照とは法であり、肉体を持つ人は男となるのです。つまり、男系とは人の系譜であり、女系とは法の系譜と言う意味となります。男系男子とは人の系譜が途切れないことを示しているのです。では、これを女系とすることはできるのか。今、わたしが書き示している事は、当たり前のことだけです。女系とは、わたしがここで書き示している事だけでなく、全ての法を知ることにより女系という系譜が可能となります。つまり、全知全能がその絶対条件となるので、まあ、現状では無理でしょうね。

 では、天皇家はどのような役割を持っているのでしょうか。実は社会が誤った方向に進むときに、それを修正して基に戻す機能が存在するのです。これには二つの方法があり、一つは人による修正。そして、もう一つが法による修正と言う機能です。ここに記しているのは実はこの二つの機能の内の一つ、法による修正であり、このため、わたしは日本神話では女として分類されます。そして、この人による修正を行うのが、天皇家の本来の使命なのです。

 法に依る修正に聖書系列と仏典系列の二つがあるように、人による修正も、当初は、四系統ありました。つまり、このような修正機能を担ったのは実は天皇家だけではないのです。ところが残りの三系統は影も形もありません。残っていないのです。このため、日本の天皇家は、全世界に残された唯一の、人による修正機能となっています。

 では、人による修正機能とはどういうものなのか。例えば、全面核戦争が起き、人類の八割九割が死に絶えたとしても、もし、そこに天皇が残っていれば、人類自体の再生が可能となるのです。人類の復帰点と言えばよいのかな、コンピューターで言えば再起動ボタンのようなものかな。

 このように、最悪の事態が起きたとしても、再生を担うべき人があらかじめ定められているのです。これが日本神話の意味であり、天皇家の意味であり、男系男子の意味なのです。つまり、全面核戦争よりも、天皇家の男系男子の存続の方が重要とも言えるのです。これが神話から続くものがいかに大切なのかと言う意味ともなります。

 

 さて、天皇は、昔より人々の声を聞くだけで自分では一切の判断を下さない王です。これは、声聞界の特徴なのです。人々の声は聞く。しかし、それを自身を無とする修行とする、自分の心を動かさないための修行とするゆえに無判断となるのです。つまり、天皇は六道の上の声聞の王であり、声聞に至ることにより『不動』と言う状態となっていると言えます。

 国は、人々の境地により、国の境地も定まります。人々は王を見て、王を規範とします。このため、国の境地は王の境地を超える事はほとんどありません。例えば、北朝鮮では、王は餓鬼界から地獄界の間の思考をします。すると、それを正しいとして仰ぎ見る人々は、やはり地獄界や餓鬼界の思考しかできなくなるのです。このため、国自体も餓鬼界と地獄界の間を動く状態となります。

 さて、日本はどうかと言えば、王が声聞界であるゆえに、人民は人界や天界に普通にいたる状態となっているのです。ここから世界で例を見ない日本という国の特徴が生まれます。そして、これが天皇により国が定まっているとされる理由なのです。

 

 

 

【近代世界史】

 

 さて、この十界論により今度は近代世界を見てみましょう。世界の覇権は、ますスペイン・ポルトガルが握りました。彼らは海外において、弱肉強食の地獄界の戦略を取りました。地獄界の戦略とは、相手を地獄界に堕す事が目的であり、相手を『これは許せない。絶対に殺してやる』という思考とすることを目的とする戦略です。で、彼ら自体は王と奴隷の餓鬼界の常識を持っていたのです。餓鬼界の常識を持つ者が、相手を制圧するためには、相手の常識を地獄界に堕すのが、一番てっとり早いのです。

 

 これに代わったのがイギリスです。イギリスの手法は、イギリスが介入すれば、その地は餓鬼界の世界となり、一応、平穏が保てる。しかし、イギリスが介入を止めると、殺し合いの地獄界の世界となると言う手法です。つまり、餓鬼界と地獄界の差をつくりだし、人々がイギリスを王とする、イギリスの奴隷国家となることを望むように仕向けたのです。この場合、イギリス自体が王と奴隷の餓鬼界では、上手くコントロールできません。このため、イギリスは本国を法治主義である畜生界に移行させたのです。

 

 イギリスに代わったのがアメリカです。アメリカは、世界を法治主義、すなわち、畜生界思考に変化させることにより、イギリスから主導権を奪ったと言えます。この場合、自分たちもが畜生界のままでは、世界の覇権は確立できません。そこで、自国を修羅界の手法でまとめあげているのです。修羅界とは、努力する者がその結果を得る事ができるという思考であり、これがアメリカンドリームと呼ばれるものです。このアメリカとは、バイデンが大統領をしているアメリカ合衆国ではなく、全世界をドルの力で支配しているロックフェラー家、俗に言うディープステイトをわたしはアメリカと呼びます。アメリカ大統領は単なるお飾りであり、まあ、無視しても問題ないでしょう。では、ディープステイトはどのようにしてアメリカを支配しているのでしょうか。彼らの手法とはこのようなものです。百人の人がいるとしましょう。この中で、その中のひとりが、他の人の百倍稼ぐならば、残りの九十九人は、食べることもできないほどの貧困に陥ります。すると、この百人の社会は暴動が起き崩壊してしまいます。しかし、もし、百人が百人とも生きていくのに支障がないが、その中のひとりだけが他の人の百倍稼げるとするならば、その社会はどうなるでしょうか。全員がその一人を目指して努力する社会となるのです。これがアメリカンドリームであり、このアメリカンドリームを実現できるのが、ドルの発行権を持つディープステイトなのです。ディープステイトが持つ権利は、何によってアメリカンドリームを得られるのかを決定する権利です。このアメリカンドリームをなしどけた者しか、議員にも、大統領にも、司法官にも役人にもなれないようなシステムさえ作ってしまえば、名目上は三権分立であったとしても、実際には全てを手の内に握ることができるのです。これが、ディープステイトが修羅界理論により、アメリカを支配している基本構造であり、アメリカ自体が世界の覇権を握っている実際の方法です。

 

 このように十界論が分かれば、各国が覇権を確立させてきた方法も自然と見えてきます。よく見ていただければわかると思いますが、覇権国は他国より一つ上の常識により動いています。これは、常識を一段階上げれば、その国が世界の覇権国となると言う図式であり、順当に行けば、次の覇権国は人界思考により、世界の覇権を確立させると予想できます。まぁ、六道輪廻の世界ですから、世界が地獄、覇権国が餓鬼と言う図式がなくもないのですが、ここは、世界唯一の人界の国、日本がバカなことをしなければ、こうはならないでしょう。

 

 今度は、アジアも分析してみましょう。アジアでは中華帝国が他国を支配するという構造が長く続きました。この中華帝国の支配構造も、やはり、自国を畜生界とし、他国を餓鬼界に堕す事により覇権を保つという構造となっています。このためのシステムとして機能しているのが中華皇帝なのです。中国では、基本的に皇帝は宮殿の奥深くに隠れ、謁見できるのは、諸外国の国王のみと言う形をとります。中華皇帝は、この諸外国の王を自分の奴隷として扱うのです。その代わり、その王の国に於いて、王が人民を奴隷として扱う権利を与えるのです。すると、その王の国は餓鬼界思考となります。では、中華皇帝の本国はどのようにするのかと言えば、法治主義を基本とするのです。中華皇帝が表に出れば、法治主義など不可能となります。このため、皇帝は宮殿の奥深くに隠れるのです。人民には見えることもできない、声も聞けない権威のかたまりのような存在となるのです。実際には内政の担当者が全て決め、中華内部は法治主義となるように誘導するのです。このようにすると、中華部分は畜生界の世界、その周囲は餓鬼界の世界という違いが生まれます。つまり、意図的に、このようにすることにより、繁栄する中華と、その中華にあこがれるが決して敵わない周辺部と言う差をつくり出し、中華の覇権を確立させてきたと言えます。

 

 

【現状分析】

 

 ついでに、現状も分析してみましょう。ロシアがウクライナに攻め込み、ウクライナを支配しようとしています。この結果はどうなるのかの予測です。ロシアの常識は餓鬼界そのものです。ウクライナも本来は餓鬼界の国でした。餓鬼界vs餓鬼界ならば、強国の勝利となります。今、ウクライナは欧米寄りになっています。欧米は畜生界思考であり、もしウクライナが欧米のような畜生界思考を常識とするようになれば、ロシアとほぼ対等。むしろ、ウクライナ側の方が有利となります。もし、ウクライナが修羅界や人界を常識とするようになれば、ウクライナの勝利が確定します。この場合ロシアが滅びます。このようにウクライナ戦争の帰趨を決めるのは、ウクライナ自身であり、ゼレンスキー大統領次第とも言えます。

 もし、ゼレンスキー大統領が、日本の天皇のように、人々の声を聞き様子も見るが、何の判断の下さない状態。すなわち、声聞界に入れば、ウクライナの人びとの間に人界思考が生まれます。この場合、ロシアが消滅することになります。逆に、もしゼレンスキー大統領が、絶対に許せない。何があってもロシアは叩き出さなくてはならないと言う地獄界思考に陥り、強権を発動するような事態となれば、ウクライナが消滅します。

 このどちらもあり得ますし、この中間もあり得ます。様子をみていれば良いでしょう。

 

 今、中国が台湾を攻め取ろうと画策しています。中共は現状畜生界と分析できます。外に見せる顔は餓鬼界ですが、国民は畜生界思考をしていたので、発展を遂げたと言えます。つまり、どのような状態なのか。習近平は、自分を王とする餓鬼界社会を見せていた。国民は、面従腹背し、自分の利益を求めてきたゆえに、中国は経済発展を遂げた。これが、基本的な中華の姿です。要するに、習近平がバカであることを知った国民が、面従腹背してきた事が経済発展を遂げた理由と言えます。これを習近平が自分の手柄だと勘違いした。このため、今度は、餓鬼界思考により国内をまとめようと画策した。これが、現在の大失政です。では、今後どのようになるのか。確かに習近平次第ですが、今の政策を続ければ共産党中国は崩壊します。崩壊させず、台湾も併合し、更なる大発展を遂げる方法がないわけでもありません。習近平が声聞界に入り、中華皇帝という名を取り、実権を台湾に移譲してしまえば、台湾には人界思考がありますから、今度は台湾を中心とする中華帝国が出来上がるのです。さて、このような選択ができるかどうか・・・・ですね。

 武力による台湾併合は、画策した時点で共産党中国がおかしくなり、実際に侵攻などしたら共産党中国が滅びます。これは、餓鬼界vs人界という図式となるためで、元々勝負とはならない対戦なのです。

 

 このような図式は、実際に過去にも例があります。徳川末期、ペリー来航で実際にアメリカが狙ったのは日本の植民地化のようです。当時のアメリカは法治主義で畜生界の国となります。日本の江戸自体の末期は、典型的な人界。つまり、畜生界vs人界となります。このように二つ以上離れていると、国力など関係なく、下の境地の国が自壊に向かうのです。これが南北戦争であり、十界論から言えば、南北戦争は日本の植民地化を画策したゆえに起きたとなります。まあ、ここから日本も自ら人界を捨て、修羅界・畜生界へと転落していくのですが、このように十界で、二つ以上離れた場合、上の境地の者が自ら境地を堕とすのを待つしか、下の境地の者が勝つ方法がないのです。

 

 

【日本はどのようにしていくべきか】

 

 では、今後、日本はどうしていくべきなのか。これは何を目指すのかと言う目標設定により対策は変わります。日本には、いくつかの道筋があります。まず、第一の方法は日本の更なる西洋化です。つまり、今上層部だけに広まっている三悪道思考を、日本人全体に強要していくと言う道筋です。もし、日本がこの道筋を選択すれば人類は滅亡します。第二の方法は、回帰という道筋です。今、日本人が常識としているのは人界思考です。この日本常識から社会や学問を再定義していく必要があり、これを行わないと諸外国から、不思議で意味が分からない国と見られたままとなります。まあ、不思議の国で、諸外国の人々が異世界探検をするように日本に来れば人界思考は伝染します。自然任せでもこのようになるでしょう。第三の方法は、進展の道筋です。人界と言う境地は、三悪道・四悪道に勝る境地ですが、不安定な位置でもあります。実際に、明治維新により簡単に崩れ去り、亡国の憂き目までみたと言う実証もあるくらいです。では、崩れる事のない不動の境地に、日本という国自体を持っていけば、千年程度であれば、何の問題もなくなると予測できます。ここまで進めてしまうと言うのも一つの方法です。

 

 さて、ここまでで高校しか出ていないわたしの考え方の紹介は終わりにしましょう。まだまだ、いくらでも語れますが、際限が無くなります。高校はおろか、大学にも行き、さらに大学の教授ともなった先生には、余りにも簡単すぎて退屈な話かもしれませんが。

・・・・こんなこと書くと嫌味になるかな・・・・

 

 

 

 

 

 

 

【質問】

 

 

 ここから本題に入りましょう。先生は『日本をおかしくするのは、リベラルだ』と仰います。しかし、実際におかしくてしているのは教育界なのではありませんか。

 今の学校教育、特に大学などの高等教育になればなるほど、余りにも低レベルな西洋哲学を根本とするものに傾倒します。教育はその基本的な考え方が変われば、全て変わります。では、西洋哲学はどの程度のものなのかと言えば、ボン大学に西洋哲学の第一人者とされるガブリエル教授と言う方がいらっしゃいます。この教授が日本社会は理解できないと語っていらっしゃるのです。これは何を意味するのか。日本社会の基本常識は人界です。この人界思考は聖書ではイエスの言動として示されています。当然、キリスト教の国ならば知っていなければおかしい常識ということになります。つまり、キリスト教とは言っても実際にはイエスの思考にもついていけてないと言うことを示します。ここから、分かるのは、基本常識として知っている範囲は、おそらく三悪道まで。三悪道の考え方を正しいとして、その思考から全てを判断しようとしていると推測出来ます。

 

 三悪道を正しいとすると、人の行動は犯罪だらけとなります。ここから、行動を規制する必要が生まれ、その必要に基づき、どのような規制をすべきなのかと言う倫理と言う考え方が生まれます。これが性悪説の本体です。

 ところが人界思考では、規制しなくても自然とそのようになるのです。人界思考を身につけると、三歳児でも哲学者や倫理学者が理想とする行動がとれるようになるのです。当然のことながら、三歳児は倫理規定などは知りません。では、なぜ、日本では三歳児が倫理規定を厳格に守ることができるのか。意味が分からないとなるのです。

 

 今日の教育はすべて、この西洋哲学が元となっています。西洋哲学より唯物論と唯心論が生まれ、唯物論より今日の理系と呼ばれる分類ができ、唯心論より文系と呼ばれる学問体系が生まれていると記憶しています。では、その大元となっている西洋哲学とはどの程度のものなのか。日本の三歳児に劣る程度のものでしかありません。

 これをいくら極めても、たいしたものが出来るはずはありません。日本学術会議でしたっけ、膨大な予算を使って、実施したのはレジ袋有料化だけというお粗末な団体ができるのも、この競争に打ち勝った者たちが運営している国が変な方向に向かうのも、その元凶はここにあるとわたしは考えます。

 

 これは先生も同じです。この程度のものを基準としているから、大学教授だ、有名人だと言っても、『え、そんなことしか考えられないの』となるのです。東大とか京大を出たとし、優秀とされる者たちが今の日本をつくっています。また、高い授業料を払い、海外の大学を出たと自慢する者たちもいます。このような者たちが、お前が悪い、お前が悪いと言いあい、『これを改めなくてはならない』などと言っているのです。しかし、実際は、その根本がどこにあるのかと探ろうともせず、自分たちが受けてきた教育の本質がどの程度ものなのかと思考もせず、その教育を継承してきただけではないでしょうか。

 

 先生は、このようにおっしゃいます。『物事は対比として考える事により理解ができる』と。対比として考えるとは優劣をつけると言う意味であり、物事を優劣で判断すること自体が、三悪道と言うことになります。つまり、リベラルであろうが保守であろうが、その思考から生まれるのは犯罪と呼ばれるものとしかならないのです。結局、色々と規制を設けて実際の犯罪とならなくなるようにしていかなくてはならなくなる。

 

 これよりも、リベラルが本当に目指しているのは何か、保守が本当に目指しているのは何なのかと考えるべきではないでしょうか。すると、どちらも目指すものがないことなど一瞬で分かるはずです。目的もなく、論を語るのは言葉遊びであり、結局、先生がしていらっしゃることは、単なる批判、単なる言葉遊びではないでしょうか。 

 

 先生は、このようにおっしゃられるでしょう。『実際におかしくなるのに、見過ごせるか』と。確かにそうでしょう。確かにおかしくなるでしょう。考え方の根本がおかしいものを正しいとして、そこから物事を定めれば、どのように変えてもおかしくなるのは当然ではありませんか。しかも、何ですか。物事を比較で捉えよ・・・ですか。比較で捉えるとは、物事に優劣をつけると言う考え方に他ありません。物事を優劣で考えると言う事自体が十界論で言えば三悪道にすぎないのです。

 

 結局、先生もリベラルな連中と同じで、三悪道の中を彷徨っているだけではありませんか。思考がぐるぐるまわるだけで、実際には何も分からない。色々な文献を調べても、その文献を記した著者が、皆、三悪道の思考しか知らないのですから、当然と言えば当然です。結局、『同じ穴のむじな』といえる。

 つまり、もし先生が国を運営したとしても、今のリベラルな者たちよりも良い政策を打ち出す事はできないのではありませんか。

 

 

 

 

 

 もし、何かおっしゃりたいことがあるのならば、わたしはどのようなクレームでも受け付けております。例えば、殺すぞという脅しであっても、実際に殺しに来たとしても、甘んじて、わたしはそれを受けるつもりです。

 昔、わたしはイスラムの過激派と思われる者から『殺すぞ』と脅されたことがあります。わたしは、自分の住所氏名を明記し、イスラム教を論破する文書をイスラム社会の全ての国の大使館に送付しました。そして、『わたしの住所氏名がわかるものを、お前たちの国の大使館に送付したから、それを確認してから来るなら来い。間違えて、他の者を狙うな』と、それを伝えてきた者にも返答したのです。結局、彼らは押し黙ってしまい、一言も返す事ができなりました。当然、殺しに来れるはずもなく、彼らは逃げ去ってしまったのです。

 さすがに、先生はここまではなさらないとは思いますが、殺し屋を雇って殺したいとお思いになられるのでしたら、別に止めは致しません。

 

 

 また、ここはおかしいのではないのかと言う部分がありましたら、その質問に答えることもできると思います。

 

 わたしは、『あなたには無理だ』と批判しているのです。そして、『色々と語るが結局、そのすべてが根無し草ではないのか。どうして、これが一生役立つと言えるのか』と問うているのです。

 

 もし可能であれば、文書にてご返答いただきたい。証拠が残らない無用な争いは極力避けたいのが本音です。また、先生との討論も、未来に何の価値も生まない。これも十分に承知しています。ただ、わたしが語る未来とは、他の人と少し異なり、千年より先が未来となります。数百年でしたら『すぐに』と言う表現となり、百年未満でしたら『今』と言う表現となります。人は数十年先でも未来とすることは知っています。しかし、わたしの感覚ではこうならないので、ここだけは最初に語っておかないと、勘違いされるので、敢えてこのように記します。なお、貴殿からのご返答は、わたしは自分のブログで公開するつもりでいます。

 

                       敬具