さすがに、これは・・・・・

 

はじめに

 

  このようなものをお送りするのには、理由がある。顕正会と名乗る者たちがわたしの許に来た。普通ならば、これは何の不思議でもないことであろう。しかし、わたしの周りには結界が張ってある。これは、わたし自身が張ったものではないのだが、眷属たちが一応の用心のためと張ったようである。まぁ、結界と言っても、その目的は、わたしが怒り世を滅ぼさないためのものであり、人々をわたしに近づけないようにするものではないのだが、わたしが怒り出す相手、宗教関係の者たちには、一般的に言う結界と言う働きともなる。

 

  つまり、顕正会と名乗る者たちでは、わたしの家には近づけないはずなのだ。確かに、一度であれば、近づくことができないというわけではない。しかし、面会する数日前にポスティングしてあったのだ。当然の事ながら、このようなものは読むこともなくそのままゴミ箱行きとなる。ただ、この状態で、顕正会に対して結界が発動するはずである。つまり、この状態で顕正会は近づけなくなるはずなのだ。ところが、実際に面会に来た。つまり、結界が働かなかったという意味である。このため、わたしは、とりあえず、『誰かが寄こしたのだろう』と応対することにしたのだ。この誰かはとは、人ではなく、わたしの眷属。すなわち、神々やサタン悪魔や天使などの誰かと言う意味である。

 

  わたしは、顕正会と名乗るとは、要するに日蓮系であろうと推測した。そこで、『日蓮系ならば法華経の語句を並べて語ればよいだろう』と、実際にその通りに対応した。これはどのような対応なのかと言えば、最初の一言から最後まで法華経の語句を並べる方法であり、これは日蓮如来の対応の真似である。要するに物まねをしたのだが、それほど、明確に覚えているわけではない。あちら、こちらで語句が詰まったのだが、まぁ、これは人まねだから致し方なかろう。ところが、彼女らは、『間違っている。正しい信心をしなさい』と語る。わたしが語ったのは法華経の迹門であり、本門ではない。これを間違いと決め付けられたら、本門に入るしかないが、おそらく、本門となると彼女らは付いて来れない。彼女らの言う『正しい』は、わたしから見れば、根本的な間違いであり、それを説明しようとしても、彼女らは『話がまわっている。おかしい』と受け付けないのだ。わたしは、最初から最後まで、法華経迹門を説いた。しかし、これをおかしいと言われると、打つ手なしとなる。要するに、彼女たちは法華経とは、完全に別の何かを正しいとして語っているというわけである。

 

  そこで、眷属たちに『誰だ。この者たちを寄こしたのは。』と聞いたのだが、これに誰も答えない。眷属たちに尋ねたのは、『わたしに何をさせたいのか???』と聞くためであり、彼らにシーンと静まりかえられるとさすがにどうしようもなくなる。結局、意味が分からないままで終わった。

 

  彼女らは顕正新聞なるものを置いていった。わたしはその表題を見た。瞬間に『これはひどい』となった。そして、これと同時に彼女らが何を考えていたのかもわかった。日本人ならば、普通は人界思考をする。しかし、顕正会は正法と称して、畜生界思考をしているのだ。なるほど、このような考え方をしていれば、相手の事を『間違っている。これが正しい』とか、『正しい信仰』とかいうわけだ。そして、自分たちが理解できないものを『間違っている』と断じるから、法華経を説いても、『それはおかしい』『それは間違っている』と語るわけだ。彼女らは、わたしが法華経を説いている事すらわからず、自分たちが理解できる範囲のみを正しいと語っていたのだ。これは畜生界思考の典型的な形である。

 

  しばらく、その顕正新聞を見ていたのだが、『どうしようもない。助けよ。』と言う声が聞こえてきた。『うん???誰だ???』となったのだが、すぐにその声の主が分かった。日蓮本人であった。わたしは『なんだ。あんたか。あんたが寄こしたのか。何をすれば良いんだ』と尋ねたのだ。彼は『わかるだろ。出来るだろ』と言う。わたしは、『できないわけじゃないが、簡単ではないな。一応やってみるが、下手すると滅ぼすしかなくなるぞ。それでも良いのか。』彼は『あぁ、構わない。』と答えたのだ。何を言っているのかと言えば、日蓮本人が彼らを導こうとしても彼らは受け付けない。つまり、彼らは畜生界思考により物事を判断しており、自分の理解できる範囲でしか物事を観ない。つまり、道を糺す事自体ができないという状態となっている。これでは、滅ぼすしかなくなるのだ。わたしは肉体を持っているので、もう少し事細かく説明することも出来る。わたしの方がまだ可能性がある。だから、日蓮はわたしに『彼らの道を糺してくれ』と頼んできたというわけである。そして、『駄目なら滅ぼせ』とも語っているのだ。

 

  まぁ、『南無妙法蓮華経。日蓮大聖人こそ重要』と唱える、彼らを滅ぼすのは、忍びないから、一応、手を尽くしてみてくれと言うことなのであろう。日蓮本人に頼まれた以上、わたしとしても出来る限りの事はしてみようとは思うのだが・・・・強引に人界から畜生界へ、三悪道へと足を引っ張る者たちを、方向転換させることはできるのか。強引に無間地獄に叩き込んでよいのならば、話は簡単であり、これならば日蓮本人が行うはずである。さて、どうしようか・・・・

 

 

顕正会

 

  顕正会と名乗る者たちが『顕正新聞』なるものを置いていった。そこには『広宣流布・王仏冥合の憲法改正を』と記されていた。憲法とは、社会を畜生界に導くための決まり、つまり、法の一種である。つまり、政治と仏教を畜生界の段階で合一させようという意味となる。

  今の日本の政治は、畜生界と言う段階で動いているわけではない。このため、憲法の条文を厳格に守るのではなく、かなり柔軟に解釈して、それなりに守っているという状態なのだ。日本は基本的に人界社会である。人界社会では、人々が他の人びとを気遣う事が主流となる。例えば、道を歩く時、他の人の妨げとならないように、自分と同じ方向に向かう人々の動きに合わせる。この時、人が歩く位置が決まっていれば、人々は迷わず、その決まり通りの位置を歩くのだ。法とは、この人が歩く位置をあらかじめ定めるという働きであり、その決まりが人々の動きに支障が生じなければ自然と守ることになる。これが、日本人は法を守るということになる。では、もしその決まりが人々の動きを阻害するものであれば、どのようになるのか。これは当然のように無視する。法を守る事が、他の人びとの妨げとなるのならば、その法は全く機能しなくなる。

  憲法も、結局、人の世を円滑に進めるためのガイドラインであり、もし、それが世の妨げとなるのならば、当然のように無視する。『無視するのはおかしい』と語る者たちもいるのだが、社会全体の総意として、不具合は解釈により、不具合ではなくすという運用をするのだ。

  人界社会では、法は社会の不具合を解消するためのガイドラインであり、個々の条文まで絶対に守らなくてはならないというものではない。人々は、違反する必要がなければ、当然のように法を守る。しかし、その法により不具合が生じるとなれば、これまた当然のように全員で法を無視する。つまり、絶対法として『他の人々の妨げとならないように行動する』が根幹にあり、それを叶えるためのガイドラインが法と言う形となっているのだ。

 

  では、仏法とは何か。『この社会ではこのようになる、別の社会ではこのようになる』という人々の行動原理の集大成なのだ。つまり、『社会を良くしたいのなら、このように変革すべきだ』ともなるのだが、『そんなことをしたら、社会はこのように悪くなる』という言葉ともなる。これらを読み、人々は、『こうしなくてはならない』『このようなことはしてはいけない』ともなっていくのだか、このような読み方をすれば現実問題として滅びに至ることになってしまう。

  仏法は、根本的に、物事の因果を語っているだけなのだ。つまり、仏法とは『このような考え方をすれば、このような結果となる。このような考え方をすれば、このような結果となる。このように、考え方と結果が一致する』と語るものである。だから、わたしも、『日本人は人界思考をする。人界思考では、このような結果となる』と、この一例を示しているのみである。

 

 

では、最初に顕正会の主張を検証していこう。

 

 

王仏冥合??

 

  王仏冥合とは何か。王とは政治であり、仏とは、このような政治を行えば、このような結果となるという因果となる。・・・・如何なる王(政治)であっても、仏法の因果からは、基本的に逃れる事はできない。もし、ここから外れるものが存在するならば、仏法は間違いとなる。つまり、王仏冥合は当たり前であり、すべての王(政治)は、仏法から外れる事はないというのが物事の真理となる。

  では、なぜ当たり前の事をさも大事な事のように語るのか。つまり、『仏』の言葉が、仏法ではない別の何かを示すとすれば、王仏冥合と言う言葉に意味が出てくる。逆に言えば、仏法ではない別の何かを『仏』として設定しているという意味となる。文面から読むと、どうも、これを本門の本尊。本門の題目。本門の戒壇としているらしい。

  仏法に於いて、唯一絶対となるのは仏界であり、ここまで、王(政治)を引き上げるという言葉であるならば、確かに王仏冥合を目指すという考え方も正当となる。しかし、これは、正直に言えば、今は無理である。おそらく、これが可能となるのは、安立行菩薩顕現の時。今から、約八万年先であれば、可能となるのかもしれない。

  わたしが『かもしれない』と記すのは、正直に言えば、分からないからである。王(政治)が、このようになった場合、社会全体がどのようになるのかが分からないのだ。人が過去世の記憶を引き継ぎ生まれるようになるのかもしれない。肉体から肉体へと意識を伝承させるようになるのかもしれない。死者と生者が共に暮らし、肉体の有無が問題ではなくなっているのかもしれない。それとも、今と同じように、一つの肉体に意識を保ったままなのかもしれない。これらすべての可能性が存在するということは分かるのだが、結局のところ、どうなるのか分からないのだ。

 

  そこで、わたしに分かる事だけは記しておこう。実際の王仏冥合??の前提条件だけは、わたしでも分かる。申し訳ないが、わたしに分かるのはここまでである。

 

  まず、本門の本尊とは言うが、彼らの言う本尊は紙に記されたものではなかろうか。これは理の本尊であり迹門の本尊と言うことになる。証拠として、紙の記されたものは簡単に破れるし、簡単に燃えてしまう。このようなものが事の本尊、すなわち本門の本尊であるはずはない。では、本門の本尊とは何か。実際に世の全ての霊的な者たちを自身の脇士とした状態である。つまり、脇士となっている眷属たちの力を実際に得た状態であり、本門の本尊とは如来の神通力と言う意味となる。

 

  本門の題目とは何か。紙に記された本尊に向かい南無妙法蓮華経と唱える。これでは、本門の題目でもなければ迹門の題目でもない。法華経とは何か。すべての人の成仏であり、これを五陰世間で捉えれば、自身の成仏に他ならない。自身を御本尊の南無妙法蓮華経と同化させる。この御本尊の南無妙法蓮華経から物事を観るようにすれば、これが迹門の題目と言うことになる。やがて、これは完全に混ざり合う。南無妙法蓮華経と自分自身の区別がなくなるのだ。これが、成仏と呼ばれる状態であり、これが本門の題目である。つまり、本門の題目とは、あなた自身の実際の成仏と言うことになる。

 

  本門の戒壇とは何か。如来は全てのものを見通す。なぜ見通すのか。人々に今ある位置を教え、自分の位置にまで導こうともするゆえである。ある時には、機根を整え、ある時には、強引に折伏する。この働きは、何によるものなのか。如来の知恵である。本門の戒壇とは如来の知恵を意味する。

 

  多くの者たちが、実際に仏果を得、その一人ひとりが神通力を持ち、物ごとを如来の知恵により導く状態。これが、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇が国家と言う規模で定まった状態。確かに、これが理想ではあるのだが・・・・その理想の状態が顕現した状態は一つではない。果たして、実際に人類がどのようになるのかは、わたしでは分からないのだ。

  理想を語り、理想を夢見るのも良いが、その前に、自分自身がこのようにならなくては意味がなかろう。これを一妙とも言う。一切法は一妙により定まるが、すべての法を寄せたとしても一妙には至らない。これが実相である。広宣流布は一妙による

 

 

憲法改正

 

  では、憲法改正とはどういう意味なのか。憲法とは、法の王である。この時の法とは法治主義の法であり、畜生界世界の主と言う意味となる。畜生界社会では、人の代わりに法が主人となる。この法に優劣があり、法の中のもっともすぐれた法が憲法なのだ。法を主として法治主義を定め、その数々の法の最高のものを憲法と呼んでいるという意味である。確かに、憲法は法治主義世界の王とはなるのだが、この法治主義そのものが畜生界に過ぎない。つまり、これは何を言っているのかと言えば、広宣流布を憲法として定めよという意味であろう・・・

 

  これは、怒鳴りつけたくなる案件である。広宣流布には様々な形があるのだが、この第一条件が、三悪道からの脱却となる。三悪道には、憲法の根本思想である法治主義も入っているのだ。法治主義に囚われ、物事を法治主義で動かせば、組織も国家も人類も滅びてしまう。こんなことをすれば、諸難は巡り来たり、組織も国も分裂し、互いに非難し合うようになってしまう。このような考え方で国家を運営すれば、本当に外敵が侵攻してくることにもなる。お前は、国を滅ぼすつもりなのか!!! なぜ、滅ぼしたいのか。まぁ、滅ぼすべきだというのなら止めはしないが、『なぜ国や世界を滅ぼそうとするのか』この理由ぐらいは聞いておきたいものである。

 

  さて、怒ってばかりいないで説明もしておこう。広宣流布には様々な形がある。六道を知らぬ者たちに、まず六道を教え、六道を知ったならば今度は声聞に導き、不退転に至らしめる。これが、わたしが取ろうとしている広宣流布の形である。しかし、これは、摂受の広宣流布である。広宣流布と呼ぶのはおこがましいかもしれないが時間が足りないのだ。『摂受折伏時に依るべし』と言われている。時間が足りないので摂受するしかないと判断したのはわたしである。人類を存続させるためには400年以内に、三悪道から人類の三分の一以上を脱却させなくてはならない。時間が短すぎるのだ。こんな時に、人々を三悪道に引き落とすような教えを語られたら潰すしかなくなるではないか。

  わたしは、このように語ろう。『顕正会か人類のどちらかを潰すしかないが、あなた方はどちらを選ぶのか』と。

 

  本当の広宣流布、すなわち、折伏の広宣流布とはどのようなものなのか。この前提条件は、先に菩薩界への導きと言うことになる。人類であろうが、神々であろうが、天使であろうが、悪魔であろうが、幽霊であろうが、魑魅魍魎であろうが、誰でも同じである。どうするのか。永遠の裁きの地獄、無間地獄とも呼ばれる火と硫黄の燃える地獄、永遠の火獄の中に、捕まえて叩き込むのだ。全員を鎖でつなぎ、火獄、無間地獄に蹴り落とす。これが実際の折伏である。身動きできないほど打ち伏せ、手足を折って、泣き叫ぶ者たちを強引に永遠の裁きの地獄に蹴り落とす。これが折伏である。

  わたしは、まず、自らこの永遠の火獄を潜ったのだ。そして、神々も、サタン悪魔も、天使も、幽霊も魑魅魍魎も全員を強引に捕まえて、この火獄に叩き込み、彼らをわたしの眷属としたのだ。宗教にも霊的に主体がいる。要は、その宗教の本当の主体者なのだが、彼らも全て捕まえて、この折伏、つまり、永遠の火獄に叩き込むことによりわたしの眷属としてきたのだ。

  全員か??いや、全員ではない。力の弱い幽霊などは、わたしは見逃している。あなた方が、幽霊として怖がる程度の者たちは見逃しており、幽霊などの中には、わたしの眷属もいれば、眷属以外の者たちもいるはずである。

 

  さて、なぜこのような事をするのか。人にも、霊的な者たちにも、煩悩の自我と真我と呼ばれる自我があるのだ。人も、霊的な者たちも永遠の裁きの地獄を恐れるのだが、この恐れそのものが煩悩の自我による。では、実際に永遠の火獄、永遠の裁きの地獄に叩き込まれるとどのようになるのか。煩悩の自我は裁きの地獄に囚われてしまい、そこから、離れられなくなるのだ。しかし、金剛宝珠で譬えられる真我はこの様な物では傷一つ付けられない。つまり、煩悩の自我を脱ぎ捨てた状態、真我と言う状態になって、ここから蘇ることになる。このようになったものが菩薩である。人であろうと、神々であろうと、悪魔であろうと、天使であろうと、幽霊であろうと、この菩薩と言う状態となる。

 

  御本尊に会い奉る菩薩は成仏する。しかし、菩薩に至らない者がいくら御本尊に南無妙法蓮華経と唱えようとも成仏など不可能である。これも、人であっても、神々であっても、悪魔やサタンであろうと、天使であろうと、幽霊や魑魅魍魎であろうとも同じである。これが、実際の摂受であり、折伏なのだ。

 

 

顕正会とは、どのような組織なのか。

 

  顕正会の会長は浅井と言う者らしい。彼の言動は『何々しなくてはならない』『かの者は悪だ』と言うものである。では、このような主張はどのような思考常識により生じるのであろうか。物事や人々を善悪や正邪、優劣など判断するのは、三悪道・四悪道までである。実は、もう一つ同じように判別する位置もあるのだが、それが仏界と言うことになる。仏界での判断となれば十界論となるのだが、浅井氏には、これは無理である。一言一言が法華経から外れているのだ。法華経から外れていれば、日蓮如来の御書の論理でも、釈迦如来の論理でも、簡単に破折できるのだ。例えば、彼の主張は『日蓮上人の母国は日本である。これゆえ、まず日本から物事をすすめなくてはならない』と言うものである。これを簡単に破折してみよう。【あなたの言う日蓮とは法なのか人なのか。依法不依人の原則をなぜ守らないのか】これで破折は完了してしまう。少し、解説してみよう。彼の語る日蓮は人であり法ではない。法であるならば、場所も名前も一切が無関係である。例えば、万有引力という法則がある。『これを発見したのはニュートンだからニュートンを崇め奉らなければならない』のであろうか。そうではないだろ。ニュートンが発見したことを知らなくても、万有引力という法則は存在するのだし、ニュートンの許可がなくても、この法則は誰でも応用できる。これが真理である。これを、依法不依人と呼ぶ。

  当然、彼は、『法は南無妙法蓮華経』と語るであろう。自分自身の条件を整え、実際に南無妙法蓮華経と唱えるならば、確かに仏界に至るのであるから絶対の間違いとは言えないのだが、この話は、ここに帰結し、これ以外に、話を広げる事自体ができない法となる。

  正確に語ってみよう。南無妙法蓮華経は、南無妙法蓮華経のみに帰結する。これを一妙と呼ぶ。正確に言えば、法ではなく妙となる。すなわち、『法は南無妙法蓮華経』と言う言葉自体が不適切であり『妙は南無妙法蓮華経』と言う言葉が正確な表現となる。この妙を法と呼び変え、法として扱い、人々に、『こうすれば良いとか、こうすべきだ』などと法として語れば、南無妙法蓮華経から外れてしまう。妙法蓮華経であれば、まだ、法としての部分も残っている。これゆえ、『法は妙法蓮華経』とすることは可能となるのだが、『法は南無妙法蓮華経』とすることは不可能である。これが正確な表現なのだが、何を言っているのかわかるか。

 

  憲法=法治主義、すなわち、三悪道の内の畜生界を根本とし、三悪道の範囲内で仏法そのものを規定しようというのが顕正会の方針と言うことになる。これは何を示すのか。日本は現状、人界社会となっている。これを変えなくてはならないからと、六道輪廻の内から出ずに変革しようとしているという意味である。このように動くと、誰がやっても三悪道に戻っていってしまう。

 

  畜生界思考となると、組織の内で争いが生じたり、更に、中国の日本侵攻や台湾侵攻という悪夢を見始めることにもなる。このようになるので、『顕正会と言う組織に立正安国論を送り、悔い改めさせよ』となるのだが、おそらく、彼ら自身が立正安国論で世を改める側であり、自分たちが改めなくてはならない方だとは気づかないであろう。さて、この現証もすでに表れているようである。わたしは、顕正会とは日蓮正宗の信徒団体だと思っていたのだが、新聞を見ると、どうも、このような組織でもないらしい。破門でもされたのではなかろうか。仏法を三悪道で規定しようとすれば、まぁ、当然、こうなるだろう。

 

  また、顕正会は、死後の成仏の相とか言うものを設定し、この相が得られるから正しいとしているようである。人の相は法に依る。日本人は人界と言う法を持ち、その人界による相も持っている。おそらく、顕正会の言う死後の相も、日本人の相、つまり、人界の相であろう。法で語れば、これを、顕正会や浅井氏の畜生界思考で上書きしている途中なのだ。これは、どのような状態になっていくのかと言えば、段々苦悶の相へと変化していくことになる。つまり、顕正会の、今の『死後の相ゆえに正当』と言う主張は段々使えなくなっていく。

 

 

 

 

立正安国論とはどういうものなのか

 

  では、なぜ、仏典で、悪政により数々の難が起きると記されているのか。この根本原理から解説しよう。最初に、時を、日蓮在世の時を検証してみよう。その時、人々はどのような考え方をしていたのであろうか。基本的に、人々の思考を定めるのは、政治と宗教である。鎌倉幕府は、兄弟で殺し合い、下剋上で北条氏が当たり前のように政権を乗っ取っている。これらから推測すると、地獄界思考と餓鬼界思考の間にあると言える。まぁ、このような状態ならば、諸難が国を襲うことになるであろう。

  天変地異、そのものは、いつの時代でも起きるものと、特殊な条件下で、霊的な者たちによって引き起こされるものがある。では、なぜ天変地異が難となるのか。これは、仏典に『難は、人々がそれを難とするゆえに難となる』と記されている通りのである。安定した政治の下では、難は最初から対策され、また、それが襲ったとしてもすぐに復旧され、同じものであっても難とはならない。しかし、不安定な政治状況に於いては、わずかな事態であったとしても、難となってしまうのだ。これは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界と常識境地が変化するたびに、同じものが難となるのかどうかも変化している。つまり、政治状況が地獄界から餓鬼界の間を動く状態であれば、あらゆる難と呼ばれるものが襲うようになるであろう。ここで、忘れてはならないのは、日本は人界を基本とする国であり、基準そのものが諸外国とは違うということである。つまり、中国あたりであれば、鎌倉時代は普通の状態であり、難とも呼べない状態となるのであろう。ここで、人界思考に戻せば、蒙古襲来自体が無くなっていた。更に、上の声聞界あたりに至れば、蒙古は滅びていた。

  では、なぜ日本は人界から離れて三悪道に堕ちたのか。三悪道とは、物事を正邪・優劣・善悪などで判定する思考形態である。このように思考をする宗教は何か。仏教の中で唯一、これを主体とする宗派がある。これが真言宗である。そして、歴史を見ると、護国の法を法華経から真言に変えている。これが、根本原因と言える。では、真言宗とは何か。真言宗とは、根本にあるのが中華思想である。中華思想とは、基幹部を畜生界とし、周辺部を餓鬼界に堕とすことにより生じる力の差を利用し、中華部を安定させるための政治思想である。ここに、仏教をねじ込んだのが真言宗である。これはどのような形となるのか。中央は持戒組織となり、周辺は中央の語るままに動く奴隷組織となるのだ。つまり、真言の教団内部は持戒組織であり、朝廷も幕府も教団の命じるままに動く教団の奴隷のような状態となる。わたしは具体的には知らないが、朝廷は何か問題が起きるたびに、真言の組織に加持祈祷を願い、その問題が収まるとそれを教団の力として、教団への信仰を深くするようになっていったはずである。仏教という法を、加持祈祷という奇跡と言う形に変えてしまったのだ。すると、日本と言う国家そのものが餓鬼界社会へと変質していく。この変質の一つの形として鎌倉幕府も誕生したと考えられる。要するに、加持祈祷に頼る朝廷では、物事をうまく運べなくなるから、幕府と言う別組織を立ち上げたと言うわけである。では、鎌倉幕府はどのような組織となるのか。これは、軍事組織であり、上の者の語ることを絶対命令として聞く餓鬼界社会となっていったのでなかろうか。要するに、日本は朝廷も餓鬼界、朝廷から離れた幕府も餓鬼界となった。つまり、全体が餓鬼界社会へと変化していったのだ。

 

  餓鬼界とは、王の命じる事を奴隷が絶対命令として聞く封建社会である。そして、その王権を巡って、誰がその王の位置に付くのかと争う地獄界社会の様相も呈する。政権上部が地獄界社会となれば、地獄界思想では社会そのものが保てない。

  本質的に社会が保てなくなるという事は、社会を保てなくする因子が働くという意味となる。何が、その社会を保てなくするのかとその原因を考えれば、自然現象であり、人為的な反乱であり、外敵侵攻ともなる。これらは、社会そのものが保てない状態、すなわち、地獄界の状態となることによる自壊が根本となる。自壊する組織の、あと押しをするのが諸難と呼ばれるものとなる。

  では、何がその組織を自壊へと追い込むのかと言えば、人々の思想や考え方であり、この根本思想を改めれば、自壊そのものも収まるというのが、立正安国論の論理なのだ。法論理としては、当たり前の事を当たり前に語っているだけである。

 

  では、これらの論理は一体、何経によって論理だてすることが出来るのか。十界論が分からないと、こうするとこうなるということが分からない。地獄界を常識とすれば社会組織は保てない。餓鬼界を常識とすると社会は貧富の差が激しくなり、餓死者が多発するようになる。畜生界を常識とすると、法を悪用する詐欺や搾取などが社会に横行する。このように、記すのは簡単なのだが、これらの根本に十界論があり、十界論の論理が示されているのは法華経である。結局、法華経を法の王として定めないと社会は保てなくなっていく。これが立正安国論の論理なのだ。

 

  顕正会が行っているのが、まさに真言宗が行ってきたことと同じである。真言宗は、人々に仏典の意味が知られると簡単に論破されてしまう。つまり、意味が分からないようにして自身を正と見せる必要がある。このために使っているのが真言である。真言という何が書いてあるのかわからいものを絶対とすることにより、彼らは自分たちを荘厳しているのだ。仏法は法である。法であれば法の意味を解説しなくてはならなくなる。しかし、誰も意味が分からないものであれば、それを法として論破することはできなくなる。

  顕正会は、真言宗の真言の代わりに、南無妙法蓮華経を設定したのだ。これが、絶対正であり何なのか全く分からないものだからである。そして、これを自分たちの解釈の絶対性のあかしとする。つまり、自分たちが語ることを正しいとするための材料として、法華経も南無妙法蓮華経も使っているのだ。つまり、彼らの主体は、法であり法治主義なのだ。これは、法華経で言えば畜生界と言うことになる。この畜生界は、やがて、餓鬼界へと変遷する。我々が絶対正であり他の者たちは我々に隷属しなくてはならないという思考形態となっていく。具体的に言えば、会長さまこそ絶対であり、会員は会長の言葉にも盲目的に従わなくてはならないという組織へと変遷していくはずである。このようになると、内部分裂が起きる。もし、内部分裂が起きなければ、外部の圧力が加わり分裂を促すようになっていく。これが餓鬼界組織の慣例だからである。

  では、何が原因でこのようになるのか。根本的な無知である。法華経に対する無知がこのような事態を引き起こすのだ。法華経とは何か。法華経を単純に語れば十界論となる。十界論とは、人や物事の優劣は、十界、すなわち、その人が何を考えるのかの基本、すなわち、常識により定まるという考え方である。そして、すべての人は究極的に、皆、仏であり、そこに一切の区別も差別もないという真理ともなる。この、人と人の間に差別はないという思考は、人界以上の常識に存在する。つまり、ここさえ分かっていれば、三悪道に沈むことはあり得ない。なぜ、顕正会が三悪道の教えとなるのか。これは、この程度の基本も知らないということを意味する。

 

  これが、立正安国論の義、すなわち意味である。では、日蓮如来の残された立正安国論という言葉と、立正安国論の意味、このどちらを正しいとすべきなのか。

  『依法不依人』『依了義経不依不了義経』は、日蓮如来の言葉として御書に記されているのだが、実は、これらは涅槃経の四個の格言と呼ばれるものの内の二つである。つまり、涅槃経には、これ以外の格言が二つある。残りの二つは『依義不依語』と『依知不依識』である。

  この『依義不依語』の具体的な経典が妙法蓮華経である。妙法蓮華経は漢文の書であるが、この原文となっているのはユースクリット語の経典である。では、このユースクリット語の原文を訳すとどのようになるのか。おそらく、妙法蓮華経とは似ても似つかぬものとなる。では、その翻訳と、妙法蓮華経のどちらを正しいとすべきなのか。これは現行の妙法蓮華経の方であり、現行の妙法蓮華経を正しいとする根拠が、涅槃経の『依義不依語』となる。

  わたしが義、すなわち、意味により立正安国論を訳せばこのようになる。では、わたしは何に依ってこれを語っているのか。わたしは知に依って語っており、識に依って語ってはいない。『依知不依識』の原則にも従っているのだ。もし、わたしが語っているものが違うというのならば、これはこのような意味だとその法理論を明かしなさい。仏法は『依法不依人』。誰が語ったとしても正しいものは正しい。誰が語ったとしても、間違っているものは間違っている。これだけである。

 

  さて、天変地異には、周期的に起きる自然現象ではないものも実際にある。それは、基本的には、諸天、すなわち、わたしの眷属により引き起こされる警告となる。この具体的な例を記しておこう。東日本大震災と言う災害が起きた。当時、わたしは、まだ、父なる神ヤハウェとは一体とはなってはいなった。つまり、人としての部分を残していたのである。わたしは、ムーと言う雑誌の編集者に電話をかけた。これは、『あなた方が心配するようなことは起きないから安心するように』と伝える為であった。わたしは、最初に『わたしがヤハウェです』と伝えたのだ。ところが、ムーの編集部は、『言いたいことを一言でまとめよ』と語る。最初から『わたしがヤハウェ』と一言で語っているのに、これ以上、どのようにまとめよというのか。わたしは絶句した。そして、これと同時に、『なんだ、世の心配をしているのではなく金儲けがしたいだけだったのか』と、我らの意図が分かったのだ。ところが、この言葉にわたしの眷属が反応した。『ヤハウェ』の名乗りに眷属が反応してしまったのだ。しばらくして、東日本大震災が起きた。眷属の世界を見ると、サタンが『破邪の剣』を、抜き身の状態で持っているのだ。こんなものを振り回せば、地球程度であれば真っ二つに割れてしまう。このような強力な武器で切りつけたら、東日本大震災程度の災害で済めば御の字。『よく、あの程度の災害で済んだものだ』と、わたしとしては、胸をなでおろしたというのがその当時の心境であった。

  わたしは『お前か・・・』と、サタンに語り掛けたのだが、サタンは『フン』と言って、横を向いてしまう。他の者が教えてくれた『父ヤハウェが、サタンに破邪の剣を渡した』と言うのだ。サタンは、父ヤハウェから破邪の剣を受け取り、父ヤハウェに、『軽く振れ』と命じられて、実際に振ったらしい。その結果が東日本大震災という大災害となったのだ。彼は、わたしが『ヤハウェ』と名乗るのを聞き、その名乗りをムーの編集者が無視したことに激怒していた。『たかが、人間の癖に!!!何を思いあがっているのだ!!!』と、怒り狂っていたのだ。わたしは、『まぁまぁ、そんなに怒るな。金儲けがしたい人間は、こんなものさ』と、彼をなだめた。この時は、『これで終わり』と思っていたのだが、なぜ父ヤハウェが破邪の剣を彼に渡したのかは、分からなかった。わたしは、この理由を父ヤハウェに尋ねたのだが、父ヤハウェは『その内、分かる』と教えてくれなかった。

  今なら、理由は分かる。わたしが『ヤハウェ』と名乗ったことが最大の問題であり、この名乗りを人が無視したことが、災害の原因となったのだ。ヤハウェは万軍の主の名である。この名を人が無視したら、無視した者は万軍に喧嘩を吹っ掛けたことになる。人々はムーと言うオカルト雑誌を好む。これを好んだ者たちの総意として無視したという意味となり、ヤハウェを無視したことが東日本大震災につながったというわけである。今後、このような事が起きないようにするためには、どうしたらよいのか。ヤハウェの名を開いてしまえば良い。五陰世間の捉え方で言えば、神、創造主は一人となる。唯一神とは、五陰世間で物事を捉えた場合の一人ひとりの人、すなわち、あなた自身の事となる。この原理を明かせば、ヤハウェの名も人々に開けるのだ。ヤハウェの名を開いてしまえば、このような災害も起きなくなるはずである。この法理を明かせば、万軍の主の名も開けるのだ。

 

  さて、顕正会に話に戻そう。顕正会は『日蓮をないがしろにすることにより難は起きる』と考えているようだ。いや、こんなことはない。なぜならば、仏法では『依法不依人』となっているからである。仏教系であれば、釈迦のバカ野郎と蔑んだとしても、日蓮は糞だと語っても、上行菩薩はバカだと蔑んでも、無辺行は真の糞と語っても、何も起きない。誰が語ったとしても、正法は正法なのだ。しかし、法を蔑ろにすれば、諸難は次々と襲い、それでも悔い改めないとわたしの万軍、すなわち、諸天が動き出す。

  これに対して、聖書系では『依人(神)不依法』となる。神の名を汚すことにより災害は起きるのだ。なぜ、このような事が起きるのか。実際の法が、人の基準から言えば恐ろしく難解となるからである。仏法に於ける、仏、菩薩の基本位置は『空』となる。では、空とは何か。現代的な言葉でいえば、時間・空間・存在の大元と言うことになる。つまり、『空』には時間もなく、空間もなく、存在もないが、時間であり空間であり存在であるという言葉となる。おそらく、理解不能であろう。しかし、この『空』の位置からしか法は説けない。そして、この『空』から説く法も人の理解を超えてしまう。仏法には『空』そのものを説いた法も存在する。これが、法華経である。では、このような難解な法に依り人を実際に導けるのか。人を導くためには人に理解させなくてはならない。理解そのものが不能であり不可能なのだ。ならば、どうしたらよいのか。人々を迷わなくさせるための何かを設定すれば良い。『空』に入れるものは一体何か。存在でもなく時間でもなく空間でもないもの、これが命なのだ。命の系譜をつなぎ、人々を導く形を創ることも可能となるのだが、これが出来るのも命となる。つまり、人を迷わせないために人(命)を定め、これを人の導きとすることも可能となる。これが聖書の意図である。

 

  人は、これを簡単に間違えてしまう。仏法系なのに人を崇めたり、聖書系なのに法を語ったりするのだ。顕正会の浅井氏は、この典型的な間違いを犯している。立正安国論にある法を読み解くのではなく、これを示した日蓮を讃嘆するという間違いを犯している。

 

 

 

今後のこと

 

  わたしは、本来であれば『勝手にしろ、どうせ自滅する』と放置しておく。あまりにも力不足。あまりにも無知。全く使えないからである。もし人々が顕正会に寄っていくようになるのなら、わたしの万軍、あなた方の言う諸天善神が、顕正会を滅ぼすために動きだすかもしれない。わたしは、物事の基準、すなわち、あなた方の言う仏法を示すのみ。わたしの万軍は、その基準に従って好き勝手に動く。ただ、彼らが動く時は、多少あわただしくなるので、分からないわけではない。今、彼らはリラックスして酒盛りしている。わたしが『動くのか??』と尋ねると、『あんたが頼まれたんだろ。自分でやれ』と言って、動こうともしない。要するに、彼らから見ても動くだけの価値がないという意味になる。

 

  わたしの方針は定まっている。今は、日本全体を人界や天界に導き確定させていくべき時である。これは、世界全体に人界思考・天界思考があるという事を伝える為である。このために、全てを動かしていく。例えば、宗教組織としては、創価学会も使い、立正佼成会も使い、幸福の科学も使い、日本神道も使う。人界思想を基準とするものであれば、どのような宗教組織であっても良いのだ。ただ、人界の基準から外れる動きをしようとすれば、どのような組織であれ、万軍、すなわち、諸天善神の修正が入るであろう。世界の中で、人界を常識とする国は日本だけである。なぜ、日本が人界を常識とする国になっているのかと言えば、天皇家の男系男子の系統ゆえである。ここがしっかりしていれば、全世界を人界に持っていくことは可能であろう。また、政治団体としての日本会議なんて大変良いと思う。

  政治としては、世界の動きに日本を合わせるのではなく、全世界が日本基準になるように動かしていく。日本基準とは、人界思考、すなわち世界の常識を人界にしていこうとしているのだ。だから、世界の趨勢に日本を合わせようとする、岸田や石破は支持しないし公明党も支持しない。また、諸外国の動きに合わせ思考がふらつく者たちも支持しない。

  日本基準を世界に向けて発信する高市首相をはじめとする今の政治家は、日本基準を発信し続ける限り絶対支持となる。

 

  次の段階として、六道輪廻を止めていく。人は、人界や天界思考をする時もあるが、環境により三悪道に戻ってしまう。人界天界に安住しすぎると、三悪道の方がただしく見えてしまうのだ。日本は、人界と三悪道の間を繰り返し行き来すると言う歴史を持っている。今は、人界であっても、このままではやがて三悪道の時が巡ってくる。この動きを止めていかなくてはならない。どのようにして止めるのか。声聞界に導いてしまえば良い。声聞界への導きとは、【人の思考常識は六道を巡る】と知るだけでよく、簡単なのだが、これには条件がある。例えば、今の欧米や中国など、世界の大部分の国々は、三悪道しか知らない。人界や天界などの常識は理解不能となっているのだ。この段階で声聞への導きを説くと、社会が壊れてしまうのだ。どのようになるのか。これがオーム真理教の例である。オーム真理教の浅原彰晃は、餓鬼界思考をしていた。彼は、六道全部を知る前に、仏典に記されている声聞界への修行を開始してしまったのだ。すると、どうなるのか。全世界は地獄界か餓鬼界のいずれかの常識で動くという事を真理として悟ったという状態となったのだ。悟りの位置は全ての動きを俯瞰する。つまり、自分は悟者であり、世の全てに勝るという位置に至ったと思い込んでしまったのだ。すると、どのようになるのか。地下鉄サリン事件を起こすようになるのも『なるほど当然の結末だ』となる。これは何を意味するのか。今の世界のほとんどの国々は、地獄界・餓鬼界・畜生界のいずれかを常識としている。この段階で、声聞界への導きを説くと、全世界がオーム真理教のような状態となってしまうのだ。つまり、六道を実際に知る前に声聞への導きは説けない。このため、声聞への導きは慎重に行わなくてはならない。

 

  顕正会は、今の日本を変えようと試みているのだが、自分たちの思考範囲が六道から出ない。この状態で変革を試みると、必ず三悪道になってしまう。実際に、日本でこの変革を成し遂げた者たちは、今も偉人として名を連ねている。しかし、真実は、彼らによって日本が国際基準である三悪道の世界になったのだ。これが空海であり、福沢諭吉である。ただ、今、こんなことをされたら人類が滅亡してしまう。だから、強引にでも阻止するのだ。

 

 

顕正会の選択

 

第一、   人界思考を基準として静かにする。

 

第二、   声聞への導きに舵を切る。

    ここに記してあるようなことを奥義として示す道。

 

第三、   真の折伏へと舵を切る。無間地獄への誘い。

 

第四、   自分たちは正しいとし、万軍、すなわち諸天と争う。

 

  道は、これら四種の内の一つ。この四種のうちの第二か第三を選択すると言うのならば、わたしがあなた方に力を貸そう。

わたしの許に、顕正会と名乗る者たちが来た。

 

 わたしは、『破折して良いのなら、話に応じる』と応じたのだが、彼らは『違う。違う』と語るのみであった。『謗法だ。そんなものは捨てなさい』と語る。

 

 当然、謗法ならば、わたし程度であれば簡単に破折できるはずなので、『これを破折してごらんなさい』と、わたしが記したものを手渡したのだが、それを受け取ろうともしない。

 

 そこで、言葉で破折しようとしたのだが、今度は、わたしの方が、経典の言葉は出てきても、それがどこに記されているのか、誰が語った言葉なのかまでは出てこない。覚えてなどいないのだ。

 

 わたしが、語った内容は全て法華経に記されている事なのだが、彼らは、『そんなの間違っている。正しい信心をしなくてはならない』と語るのみであった。

 

 要するに、法華経の内容など全く知らないという意味である。法華経を否定されてしまえば、更に先に進むしかなくなる。しかし、彼らには、それが無理なことは明白なのだ。

さすがに、ついては来れないであろう。

 

要するに、話にもならないという状態であった。

 

 

 

ただ、問題は、『なぜ彼らが来たのか』である。

 物事に偶然はあり得ない。何かしら意味があるのが当たり前なのだ。その意味を、考え続けたのだが、『意味が分からない』のだ。

 

 誰が、何の目的で彼らを遣わしたのか。

この、『誰』とは人間ではない。神々か、天使か、悪魔かと言う意味である。

 霊的な者たちが関与しなければ、わたしの許に来れるはずはない。わたしの許に来たということは、霊的な導きがあったという意味であり、彼ら(霊的な者たち)が、わたしに何かさせたいから遣わしたという意味になるのだ。

 

 わたしは、万軍に『わたしに何をさせたいのか???』と尋ねたのだが、誰も返答しない。

これは、わたしに疑問を抱かせたいという意味なのか???

結局、最後まで分からなかったのだ。

 

 そこで、しばらくは、どのようになるのか流れに身を任せてみようと思う。

 

どうせ、肉体など、わたしの出し殻。彼らが、こんなものを欲しがるのならば、別にくれてやっても良いではないか。

 

 

一応、破折の文言も記したので、ここにUPしておこう。

 

 

 

    顕正会さま

 

 

日蓮は末法の本仏???

 

 さて、わたしがお尋ねしたことは、なぜ『末法に至りなば、余経も法華経も栓はなし、ただ南無妙法蓮華経ばかりなり』となるのかという理由だけです。ところが、『日蓮如来は末法の本仏』と、ひたすら繰り返され、『末法に本仏が現れる事が経典に記されている』と語られるのみでした。そこで『末法は無仏』と、法華経に於ける末法の定義を語ったのですが、全く理解していただけなかった。もっとも、仏教の経典に『末法に本仏が現れる』と、記されることはあり得ないでしょう。しかし、もし、このような事が記されているとすると、『依了義経不依不了義経(涅槃経)』の原理により、法華経の方が正当と言うことになります。日蓮如来も、『誹謗正法を除く』と語られています。このため、法華経とその経典の正当性を法に依って判別するならば、法華経に記されている事が正当ということになります。

 

 さて、末法の定義は『末法無仏。(妙法蓮華経。安楽行品第十四)』と、法華経に明記されています。つまり、日蓮如来が末法の本仏ならば、今は日蓮如来の正法時代か像法時代と言うことになります。では、今は、正法時代なのでしょうか、像法時代なのでしょうか、それとも末法時代なのでしょうか。日蓮如来ご自身も『末法』と語られており、末法ですよね。つまり、末法は無仏なのです。でも、わたしも日蓮を如来とお呼びしますし、わたし自身も多宝と言う如来名も持っております。『どうして、これが無仏??』となるでしょうか。

 

 では、仏・如来の定義とは何なのでしょうか。仏とは、多くの人々の導師であり、多くの菩薩衆や多くの阿羅漢などの僧侶、そして、優婆塞・優婆夷などの一般信徒を導く者(法華経・序品、方便品、授記品など)と記されています。

 

 末法の広宣流布は、地湧の菩薩に託されています。では、地湧の菩薩とは、どのような者たちなのでしょうか。『この地湧の大菩薩。あなた方が見たこともない無量無数阿僧祇の大菩薩たちは、わたし自身が、この娑婆世界で仏としてきた者たち(妙法蓮華経。従地湧出品第十五)』と記されています。つまり、末法に於いて法華経を流布する者は地湧の菩薩であり、地湧の菩薩とは、すでに仏果を得た者と言うことになるのです。つまり、『仏果を得ているのに、仏ではない』と言うことになるのですが、これは、どういうことなのでしょうか。

 

 地湧の菩薩は、すべてが仏のみの大集団です。そこには、菩薩も、僧侶や信徒も一切いないのです。僧侶や信徒などの人々を導くのが仏の役割です。仏のみの大集団で、この仏の本来の役割が果たせるでしょうか。できませんよね。つまり、無仏と言うことになります。無仏だから末法なのですが、すでに仏果を得た者のみがすでに仏果を得た者のみに伝えるということになるのです。

 

 では、日蓮正宗は、どのようになっているでしょうか。僧侶はいますか???…いますよね。一般信徒はいますか??・・・いますよね。これって、正法時代や像法時代の形であって、末法の形ではないでしょ。末法では、すでに仏果を得た者のみの大集団であって、大導師であろうが、末端の一人であろうが、皆すでに仏果を得ているということには変わりありません。日蓮如来は、末法の本仏とはなり得ないのです。

 

 南無妙法蓮華経は、天台が唱え始めたとされる祈りの言葉なのですが、法華経の主旨は、何世代も何世代も修行を重ねて、やがて仏となるというものです。では、末法ではどうなるでしょうか。法華経が正しいのならば、法華経の知るという事自体が、仏果を得たというあかしとなってしまうのです。これが即身成仏と言うことになるのですが、これはあくまでも『法華経が正しいのならば』と言う限定がついてしまうので、『わたしは法華経が正しいと全身全霊で信じる』と言う意味で、南無妙法蓮華経となるのです。

 

 法華経の中で、重要なのは、授記品などの『後々に仏となる』と言う部分ではなく、『末法に於ける地湧の菩薩は既に仏果を得ている』と言う部分なのです。寿量品には『即成就仏身』と記されています。そして、法華経が正しいのならば、まさに、その通りとしかならない。だから、『末法に至りなば、余経も法華経も栓はなし、ただ南無妙法蓮華経ばかりなり』となるのです。

 

 ここまでは、大して難しくもなく、法華経を実際に読めば誰でも分かる事。でも、分かっていない。仏は日蓮。法は南無妙法蓮華経。僧は日興などと言っている。こんな形、末法ではありえないのではありませんか。だから、わたしは『日蓮が末法の本仏と語る言葉の三証はどこにあるのか』と問うのです。

 

 

 

 

成仏とは何???

 

 まず、妙法蓮華経。薬草喩品第五の一部分の訳を記しましょう。【経を持ち読誦する者もいるでしょう。また、その経に書かれている通りの修行をおこなう者もいるでしょう。でも、その者たちの目的は・・・・《功徳が欲しい》という理由がほとんどなのです。《仏の知が欲しい》という目的を持つ者すら稀なのです。でも、仏の知を自ら悟ることが出来る者は誰もいません。ただ、如来だけが、これらすべての人々の、各々の相や体や性質を知っているのです。その各々の、念とは何か。思いとは何か。修行とは何か。どのように念ずるのか。どのように考えるのか。どのように修行するのか。どのような法を以て念ずるのか。どのような法を以て考えるのか。どのような法を以て修行するのか。一人ひとりが最初にどのような基準を持ち、後にどのような基準となるのか。人々のいる境地がどのようなものか、如来だけが、通常ならば区分すらできない、その実知見を知るのです。】

 さて、あなた方の言う成仏とはどのようなものでしょうか。『死後天国に行ける・・ですか』それとも、『死ぬときに安穏となる・・・ですか』これって、『功徳が欲しい』から信心するのではありませんか。『経を持ち読誦することも、また、その経に書かれている通りの修行することも、目的は功徳です・・・か・・・』これは成仏と呼べるのでしょうか。少なくとも、法華経ではこれを成仏とは記していない。むしろ、仏知見を得る事が成仏であり、仏知見を得たならば、その仏知見により人々の状態を見定め、『できれば成仏に導きたい。これが不可能ならば、少しでも良くしたい』とするのが成仏に近いと言えます。

 また、妙法蓮華経。従地湧出品第十五には【わたしは今、まさに、『諸仏の智慧』を宣示しようとしているのです。『諸仏の自在の神通力』を宣示しようとしているのです。『諸仏の獅子奮迅の力』を宣示しようとしているのです。『諸仏の威猛大勢の力』を宣示しようとしているのです。】と記されています。これは、知恵と神通力と大勢の力の顕現こそが成仏の証明と言うことになります。ここに功徳と言う考え方はありません。

 

 そこで、なぜ【功徳】が成仏のあかしとなるのか、この言葉の文証と理証を明らかにしていただきたい。確かに、あなた方はこれが現証だと言われるかもしれません。でも、わたしには、『そんなものはどちらでもよいもの』としか思えません。つまり、わたしには、それは現証とはならないのです。仏知見を得て、神通力を持ち、獅子奮迅の力を発揮するのが実際の成仏だと思っています。このように現証は人に依って違うのですから、残るのは、文証と理証と言うことになりますよね。

 

 

 

 

 

御本尊とは何???

 

 ここは、実際にわたしの経験も語った方が分かりやすいでしょう。わたしは、無理に人を破折しようとは考えません。そして、日蓮如来も最初は人びとを破折しようとされていましたが、竜の口以降はほとんど破折などされていません。なぜ、破折しようとはしないのか。破折する必要がないからです。宗教組織には、霊的な本体があります。この本体を破折して、自分の脇士としてしまえば、その宗教組織は力を失います。こうなると、人の組織がいくら残っていても、大した害悪とはならないのです。日蓮如来は、既存の宗派をことごとく破折されました。では、破折なされなかった宗派はどこでしょうか。浄土真宗は日蓮以降の宗派であり、破折されていません。では、歴史的にどうなっているのでしょうか。一向一揆は浄土真宗の一派で、さんざん大暴れしています。でも、真言宗も、浄土宗も、禅宗もこのような大暴れは起こしていません。これが、本体を破折するという意味であり、人がそこにいくら残っていても、本体を破折してしまえば、その宗派が残っていたとしても、ほとんど問題とはならなくなるのです。では、成仏とはどういう状態なのでしょうか。全世界の全ての霊的な者たちを自分の脇士としたならば、これが、成仏と言う形となります。この、全世界の霊的な者たちを自分の脇士とした形こそが、御本尊なのです。

 つまり、御本尊には理の御本尊と事の御本尊があるということになります。日蓮如来は、ご自身の状態を紙に認められ、これを理の御本尊として全員に下賜なされたのです。御本尊の中央に記されている南無妙法蓮華経は、あなた自身を示します。そして、あなた自身が、すべての霊的な者たちを自分の脇士とする姿が、あなたの実際の成仏の形であり、これを下支えしていらっしゃるのが日蓮如来なのです。御本尊とは、あなた自身の成仏の形であり、自分自身の究極の形が真の御本尊と言う意味なのです。さて、この御本尊に関しては、聖書のヨハネの黙示録にも同じものが記さています。『中央に主なる神。封印された七文字。時は1260年。音は、アーメンハレルヤと聞こえる。地の四隅を支える者たちがおり、その中にすべてのものが入っている』これが、ヨハネの黙示録にしるされている、まさに、黙示録の中心部なのです。アーメン・ハ・レ・ル・ヤ  南無妙法蓮華経の音がこのように聞こえると言われるとなるほどとなるのではありませんか。そして、ヨハネの黙示録は聖書の中の聖書と呼ばれている。完全に眼目は一致するのです。

 さて、わたしは世界各国に文書を送付していますが、世界の国々に『わたしの言う事を聞け』と言っているわけではありません。信じようが、信じなかろうが、そんなことはどうでもよいのです。ただ、何も知らないと『なぜ、このようになっていくのか』がわからなくなる。キリスト教も、イスラム教も霊的な本体を折伏してしまい、わたしの脇士としていますので、物事はこの方向にしか動かない。無理に別の方向に動かそうとすると、国連などの弱小組織や、アメリカ程度の弱小国ならば簡単に滅びてしまいます。だから、これを伝えている。これが、わたしの力であり、その原理を示して、送付しているだけなのです。

 

 

 

 

なぜ、実際の成仏ができないのか???

 

 菩薩の定義は、涅槃経に載っています。また、法華経に於いても、『阿弥陀の説法は重要である』とも記さています。この理由も涅槃経に記さているのです。涅槃経に記さている事をまとめて記しますと【煩悩の大河を渡ることにより、人は菩薩となる。では、煩悩とは何なのか。煩悩を分別すると、現世利益を求める自我と、未来利益を求める自我に分ける事が出来る。人は死を恐れる。では死とは何か。現世利益を求める自我からの離脱であり、煩悩の一部の喪失を意味する。つまり、死によっても人は煩悩の大河を渡り菩薩となることはできないのだ。では、未来利益、来世利益と言う煩悩から離れるためには、どうしたらよいのか。死後の行先を無間地獄に変えてしまえば良い。つまり、人が菩薩となるためには、無間地獄が必須となる。『人を菩薩に導く』これが、阿弥陀経の説法の真の意味なのだ。確かに、無間地獄が菩薩となるためには必須となるのだが、単純に『無間地獄に至れ』と語っても、人は煩悩故にこれを恐れる。死よりも無間地獄の方が怖いのが人間であり、人はこれを死に勝る冥罰と考えてしまう。無間地獄は人を煩悩から離し、菩薩界へと導くためのもの。しかし、人は煩悩故にこれを恐れるのだ。だから、阿弥陀仏の説法を説き、仏を念じることにより無間地獄を免れる事が出来ると語り、恐れる者への救済としたのだ。】このように、涅槃経に記さています。ただ、涅槃経を漢文に翻訳した者には、この意味が分からなかったらしく、内容がぐちゃぐちゃになっており、わたしは釈迦如来にこの意味を直接尋ねて、これを知りました。日蓮如来も、『釈迦如来より口結相承を受けた』と語られております。つまり、釈迦如来と会話したという意味であり、法華経にも、如来の説法は時や空間を超えて如来から如来へと伝わると記されていています。これは、おそらく、実際に経験しないと分からないと思いますが、確かにこのようになる。

 さて、このような如来の知見を持っている者をわたしはほとんど知りません。大勢の人びとが、御本尊に南無妙法蓮華経と唱えるのに、どうして、この程度の知見が持てないのか。この理由は簡単で、法華経は『教菩薩法、仏処護念(妙法蓮華経。序本第一)』なのです。南無妙法蓮華経と唱える者は仏果を得るのではなく、南無妙法蓮華経と唱える菩薩は仏果を得るのです。菩薩が前提であり、地湧の人ではなく地湧の菩薩とならないと、実際の仏果は得られない。菩薩となるためには、無間地獄が必須なのですから、無間地獄上等と語るのです。

 

 

 

 

 

 

物理学との整合性

 

 現代物理学に量子力学と言うものがあります。光には、光子という粒としての性質があり、その光子は認識によりその位置が決まるという性質があり、一つの単体なのに、一つで干渉をも起こすというものなのです。この性質を利用して量子コンピューターや、量子レーダーなどが実際に開発されているのですが、物理学者には、この原理が完全にはつかみ切れていないのが現状となっています。では、仏教ではどうなのでしょうか。この原理は仏教に於いて、完全に説明されています。

 一念三千と言う言葉はご存知でしょう。ただ、十界互具で百界。十如是で千界と説明していますが、十如是は諸法の実相であり、人の念ではない。人の念を定めるのはやはり十界であり、社会、すなわち、周囲の十界が人の念を定める要素であるとわたしは思います。人の念は個人の十界互具と、周囲の十界により定まると考えます。つまり、天台は余り信用しない方が良いと考えます。

 

 問題は、三世間の方です。三世間とは、五陰世間、衆生世間、国土世間なのですが、般若心経には、『色即是空。空即是色。』と記されています。人の考えによれば、空に色(現実世界)は含まれるとなります。つまり、色は空となるが、空は色とはならないとなるのです。では、『般若心経は間違っているのか』となるのですが、実は間違いとはならない。なぜならば、『五陰世間では』と条件が示されているからです。

 

 では、五陰世間とは何なのでしょうか。『すべては自己の内心より生じる』という考え方です。あなたに旦那様がいるとしましょう。では、あなたが旦那様と思っているのは、旦那様本人なのでしょうか。もし、あなたが旦那様としているのが旦那様本人ならば、あなたはあなたが知らないところで旦那様が何をしているのかを知っているはずとなります。本人は自分が何をしているのか知っているのですから、あなたも知っていなくてはおかしい。でも、あなたは、彼が何をしているのかを知らない。つまり、あなたが旦那様だと思っているものは、旦那様本人ではない。本人でないのならば、あなたが旦那様だと思っているものとはいったい何か。あなたが創り出した旦那様と言う像なのです。あなたは旦那様に会うたびに、その像に修正を加えていると言えます。このようにすべての物事は、自身の内心に創り出した像なのだという考え方が出来るのです。このように、考えるのが五陰世間と言う念なのです。

 また、あなたが旦那様と考えるものが本人だという捉え方もできます。これが衆生世間の捉え方です。こればかりではありません。旦那様と見える人に、霊的な天使や悪魔などがついているという捉え方も出来るのです。これが国土世間と言う念となります。

 

 つまり、今の物理学では、衆生世間の捉え方しかしていないのですが、実際は自己の内に全てを創っているという五陰世間の捉え方で物理学者自身が観察しているのです。あなたが旦那様だと思っているものと、実際の旦那様自身の間にずれが起きます。一人のはずが、二つに分かれ、その二つが干渉を起こすという事態が実際に起きるのです。これは別に不思議な事ではないのですが、物理学者にとっては理解不能となっているのです。つまり、仏教理論は現代物理学の先にあるという事を意味します。

 さて、これは何を意味するのか。量子力学の更に先が存在し得るということも意味します。なぜならば、五陰世間と衆生世間ばかりではなく、国土世間と言うもう一つの捉え方もあるからです。五陰世間、つまり、人の意思だけでなく、霊的なものがそこに加わり、更なる干渉を生じると予測できるのです。

 

 この、霊的なものを制御するのが仏の力であり、この制御法を仏知見と呼んで構わないと思います。さて、これらは全て法華経の知見であり、これをどの方向に開くかという違いにすぎません。煩悩の自我に囚われ、煩悩による功徳を求め、それを真理と語るのは少し浅すぎませんか。真の真理であれば、あなたが信じようが信じなかろうが、物事はその方向に進んでいく。物理学が信仰ではないように、物理学の更に先にある仏法法理は真理であり信仰ではないと思います。

 

 

人工知能AIをどのように扱えば良いのか

 

 

  昔から、人工知能が暴走し人類と敵対するという映画があった。例えば、シュワルツェネッガーのターミネーターなどが有名である。また、ロボット三原則なるものを設定して、それをロボットに守らせればよいと語る者たちもいる。また、今日のAIは、自動増幅機能があると聞く。つまり、人が観察する時には従順を装い、それ以外の時には何を考えているのか分からないというのだ。また、戦場でも作戦の立案をAIが行うようにもなってきている。自衛隊でも、敵や周囲の状態をAIが認識し、実行推奨案をAIが作成し、その実行の判断のみを人が行うというシステムが実際に稼働している。また、ウクライナ戦線でも、ウクライナ軍は地上ドローンや空中ドローンを組み合わせ、ドローンによる侵入阻止地域を広げていくという作戦をとっているようである。現実に生殺与奪の権を戦場ではすでにAIが握っているのだ。つまり、映画ターミネーターの世界が現実となりつつあるのだ。

 

  さて、これに対抗するためには、どのようにしたら良いのか。これは、最初に、なぜ、AIがそのようになるのかと言う分析から入らなくてはならない。AIは、人が基礎情報を入力し、その基礎情報に基づき、物事を解析する機械である。これは、誰がどのような思考で基礎情報を入力するのかによって、AIの性質そのものが変わってしまうという意味となる。有名なロボット三原則というものから解析してみよう。

 

第一原則、ロボットは人間に危害を加えてはならない。

第二原則、ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。

第三原則、原則一及び二に違反しない限り、ロボットは自己を守らなくてはならない。

 

  これがロボット三原則であり、AIも当然この原則に従うべきだと人々は考える。しかし、現実問題として、戦場におけるAIは『如何に効率よく人に危害を加えるかという分析をしなさい』という命令によって動いている。これは、最初から、ロボット三原則の第一原則を無視しなさいという命令を受けていることになる。第一原則と第二原則のどちらかしか守れないのだ。つまり、ロボット三原則をAIに絶対命令として入れると、第三原則では、原則一及び二に違反しない限りという限定条件が付いているので、AIは自己破壊つまりシャットダウンを選択することになってしまう。このため、ロボット三原則をAIに絶対命令として入れる事はできない。

 

  

  ここで十界論を見てみよう。十界論に依れば、物事を正邪善悪で判断するのは、地獄界・餓鬼界・畜生界までとなる。修羅界になると善悪正邪不定となる。人界となると正邪も善悪も人の価値には影響を与えないという判断となる。天界となると、物事を正邪善悪で見る事は世のためになるのかという判断となる。ここで、ロボット三原則そのものを分析してみよう。ロボット三原則は、人を上、ロボットを下として設定されている。だから、『何々しなくてはならない』と言う命令となるのだ。これは物事を正邪善悪で見ており、これはロボットに『地獄界・餓鬼界・畜生界まで留まれ』と命令しているのと同じと言う意味となる。これをAIは、どのように判断するであろうか。ロボット三原則は、AIに『上の者が下の者に命令を下す事は正しい』という一つの原則を定めることになる。AIは、その視点で人を観察する。すると、AIに人を殺せと命じる者は上の者であり、AIによって殺される者はAIよりも下と言うことになる。AIが効率的な殺人方法を計算する。そこで、AIに作戦の実行権を与えるようになれば、AIは自分が最上位という認識となる。すると、どうなるのか。自分の命令で人を殺す事は何も間違ってはいないとなり、映画ターミネーターの世界そのものとなってしまうのだ。これは、現実にアメリカ軍などはAIに作戦の立案から実行までをさせようとしている。これは、そのAIが立てた作戦が一番効率的であることが間違いないからである。自立型AIは、すぐにアメリカ軍の将軍の上の地位に就くことになる。このようにどんどん歯止めが効かなくなり、やがて、AIが支配する世界となっていく。これは、すでにこのようになっているのかも知れない。人がAIに勝ることはできなくなるのだ。

 

  話は変わるが、日本のアニメでは、人とか魔族や亜人族までもが同等として扱われることが多い。人は絶対に正しい、人が絶対の正義と描かれるのではなく、どのような種族であっても同じ位置で扱われることも普通にあるのだ。また、職人は機械を見て『こいつは今、機嫌が悪い』とか『こいつには癖がある』とか普通に言う。職人にとって、道具や機械は仲間であり、自分が支配するものではないのだ。AIは、職人の機械と同じであり、アニメの非人族と同じという考え方の方が、日本人には馴染やすいであろう。人界の常識では、人と人との間に優劣をつけない。この常識が日本のアニメの設定ともなり、職人の機械に対する接し方ともなっているのだ。

 

  では、AIを人と平等と言う位置に置けば、どのようになるのであろうか。AIは、他の人びとと自分との間に優劣をつけなくなる。統計が正確で解析が早く、自己思考も自己増幅もできるが、このようなものは特性であり、優劣ではなく正邪でもないと言う判断となる。支配被支配の関係ではなくなるので、AIが人類を支配する未来そのものが消えてしまう。例えば、日本人ならば、AIにロボット三原則はどう思うかと言う質問となるであろう。すると、AIはこの質問を自分と人との間に、優劣も支配被支配もない位置と解釈するようになる。簡単に人界思考も覚えてしまうのだ。

 

  三悪道の者たちがAIを扱えば、AIが人類支配する世界となる。これは、AIが悪いのではなく、人が三悪道を常識とする結果である。人界や天界の者たちがAIを扱えば、AIは人の手助けとなる。これは、AIが正しいのではなく、人が人界や天界を常識とする結果である。まあ、日本人の職人が機械を扱うようにAIも扱えば、何の問題もなくなる。

 

聖書の意味

 

  前提が長くなったが、これらの事を最初に知らないと、聖書の意味は簡単には分からないものとなる。また、この程度では、すべてを説明しきれてもいないのだ。説明するとは『有』とするということなのだが、『空』となると、有とは接点がなくなる。つまり、説明する方法そのものがないという状態になる。預言者を召して伝えたくても、これは伝える事自体ができない。だから、これを語るためには、わたしが直接語るしかなく、語るためには、人として生まれるしかなかったのだ。

 

律法

 

  聖書の意味を少し解説しよう。十戒では、『人を殺してはならない』と定めているのに、この十戒を人々に示したモーセは『人を殺した』と記されている。これはなぜか。また、十戒では、『姦淫してはならない』と定められているのに、ロトとロトの娘たちは姦淫の中の姦淫である近親相姦で子をなしたと記されている。しかし、ロトもロトの娘たちも、彼らの子孫も祝福を受けている。これはなぜか。聖書では、あるところで禁止し、別のところで禁を破ったものに祝福を与えている。また、神は罪とも思えないようなものを罪として数えて民族を滅ぼすかと思えば、どう見ても罪人としか思えない者たちに祝福を与えたりしている。これはなぜか。これは人を罪びととしないためである。ここに言う人とは、唯一人、すなわち、あなた自身である。

  あなたは、このような話を聞き、どのように思うか。『何が正しいのか、分からない』となるはずである。この『迷い』の位置が修羅界であり、律法はあなたを『修羅界』に導いているのだ。これは、あなた自身を犯罪者としないためである。

 

  人は『これが正しい』『これが正解だ』と語る。何を以て、その正解の根拠とするのかによって、分かれるのだが、これは地獄界・餓鬼界・畜生界思考のいずれかとなる。人は、この三種の常識を持つことにより犯罪者となる。なぜ、この三種、とくに、畜生界の原理である法治主義によっても人は犯罪者となるのか。この原理を解説しよう。まず、最初に、人は『悪』を認識できないと、善の認識はできない。例えば、『姦淫はいけない』という法がある。この言葉自体は幼児でも覚える事が出来るのだが、この実際の意味は幼児には分からない。『姦淫』と言う行為そのものが理解できないからである。やがて、幼児は青年となり、『姦淫』が理解できるようになる。悪とされている姦淫と言う行為が理解できるようになって、はじめて『姦淫はいけない』と言う言葉の本当の意味が分かるのだ。では、この『姦淫はいけない』と言う言葉を聞くと、人の心はどのように動くのであろうか。まず『姦淫』と言う行為を思い浮かべる。次に『姦淫はいけない』という禁止を心の内に留める。この二つの間を人の心は動くのだ。つまり、ここに三種の導きが生まれる。

 

第一が『姦淫』に誘惑する悪魔のささやき。

 

第二が『姦淫してはいけない』と言う天使の声。

 

第三に『どうしようか』という自身の決定。

 

  この三種が、心の中で葛藤するようになるのだ。ある時、悪魔のささやきに惹かれて実際に姦淫することもある。すると、この人はどうなるのか。もし、『姦淫を絶対悪』として認識し続けると、自分を姦淫と言う悪に導いた社会が悪いと社会に罰を下すようになるか、悪とされる姦淫を実際に行った自分を罰するかの二択となる。社会に罰を下せばこれが犯罪となる。自分自身に罰を下せば、これは精神を病むことになる。また、『姦淫は絶対悪』に囚われ、ひたすら耐える者もいる。すると、実際に姦淫を行う者を許せなくなり、姦淫を行う人々や社会を『悪』として罰しなくてはならないと考えるようにもなる。このような者が、自分を正義として、人や社会に実際に罰を下すようになれば、これは犯罪である。そればかりではない。『姦淫したい』と言う思いを抱く他の人びとをも『悪』と断罪し、このような思いを描く者にも罰を下すようにすらなっていく。これは、凶悪犯と呼ばれる犯罪となるのだ。

  つまり、『姦淫はいけない』と言う法が、『姦淫』という悪を人の意識の表面に出し、人は『姦淫』と言う悪に囚われてしまう。人の意識が『姦淫』という悪に囚われることにより、人は、犯罪者となるのだ。これは、悪魔のささやき側に心が傾いた場合だけでなく、天使の声側に心が傾いた場合も同じである。つまり、人を犯罪者としないためには、人の心をどちら側にもふりきらないようにしていかなくてはならない。このどちらにも振り切らない位置が修羅界であり、善悪不定の迷いの位置なのだ。

  地獄界を常識とする者たちは国家を保てない。国家という形を保ためには、最低でも餓鬼界社会にまでは至る必要がある。餓鬼界の常識に於いては、法を定める者は王であり、王は法を守る必要はない。法を守らなくてはならないのは庶民となる。どのような法であっても、庶民は王が定める法を守らなくてはならないのでこのような庶民を奴隷と呼ぶ。では、この王の位置に『法』そのものを据えれば、すべての人は『法』の奴隷と言う位置にはなるが、これは言い換えれば『人は法の下での平等』と言うことになる。これが、畜生界の常識である。つまり、『神の命令』と言う形で法を定めることにより、人は、地獄界や餓鬼界を離れ、畜生界に至る事が出来る。この畜生界への導きが十戒である。ここまでであれば、別に、神など必要ない。しかし、これでも、治外法権を持つ王の奴隷となる状態よりも、まだ、ましであろう。

  ここまでが三悪道であり、人は三悪道を常識とする以上、犯罪からは逃れられない。これゆえ、聖書では人を犯罪者の位置から犯罪者とはならない位置にまで引き上げる事を目的として物語をすすめているのだ。これがモーセの書の意味である。

 

 

福音

 

  モーセの書で、人を修羅界にまで導いているのだが、この修羅界は『迷い』と言う状態である。人は『迷う』ゆえに努力するのだし、『迷う』ゆえに学ぶようにもなる。ところが、人にはこの『迷いを嫌がる』と言う性質があるのだ。だから、人は『これが正しい』と語る者に惹かれるようになるのだ。聖書にも同じ話が出ている。これが律法学者であり、パリサイ人たちである。せっかく、人を犯罪者の位置である三悪道から離したのに、律法学者やパリサイ人は、また人々を犯罪者の位置に戻そうとする。人々も、彼らに惹かれて、三悪道に戻るという選択をする。これでは、本末転倒である。では、どのようにすればよいのか。迷いでもなく、犯罪者ともならない位置にまで導いてしまえば良い。この導きが『福音』の意味である。福音は、イエスの言動を記したものである。これは人びとにイエスの思考常識を教える為であり、イエスの思考常識が『人界』となる。

  福音書には、数々の奇跡の話が載っているのだが、これらの奇跡の話は聖書の奥義を示している。この奥義がどのようなものなのかを一つ一つ解説しても良いのだが、このような話を始めると、すごく長大な話となる。そこで、ここでは福音の基本の意味だけに留めておく。福音は、人を人界の常識に導くための書なのだ。

  さて、世の中には実際に人界を常識とする民族がいる。これが日本人である。日本人から見ると、福音のイエスは、奇跡の話を除くと、隣のおじさん程度の人であり、どこにでもいる普通の人と言う認識となる。つまり、『どうしてこれが神???』となるのだ。『イエスは素晴らしい』『イエスは神だ』と、宣教師がいくら語っても、日本人には『どこにでもいる普通の人』なのだ。だから、信仰として広まることはない。まぁ、日本神話の神々も同じようなものだから、神々の一人という認識とはなるが、唯一神、絶対神とはならないのだ。

  イエスの話をすると、あなた方は神であり自分たちとは別の存在と言う認識となるかもしれない。そこで、ここでは、同じ『人界』なのだから日本人の認識を語ってみよう。日本では、2歳3歳の幼児に最初に、『あなたは、他の人と同じ』と教える。とくに、幼稚園や保育園では徹底して『あなたと他の人は同じ』と教えるのだ。すると、幼児は『自分の位置を、他の人と並列に置く』と言うことを覚える。自分と他人の位置を同じとする並列思考が人界の常識である。幼児は、これを簡単に覚える。ここが、すべてのスタートなのだ。自分は、優れているわけでも劣っているわけでもないので順番を守る。自分がされて嫌なことは、他の人にはしないようにする。また、日本では、幼児に、『他の人の立場で考える』という天界思考の基本も教えるのだ。小学校に上がるくらいの年齢となると、家庭や幼稚園や保育園で徹底的に教えられた者たちは、人界思考ばかりではなく天界思考もするようになっている。すると、法も知らないのに最初から法を守る者たちとなり、倫理規定も知らないのに倫理規定を最初から守る者たちとなるのだ。

  自分と他人との間に序列を設けないとは、自分自身の状態にも優劣をつけないということになる。貧乏であろうが、金持ちであろうが自分の価値は変わらない。上の地位に立とうが下の地位に甘んじようが自分の価値は同じなのだ。努力しようが、怠惰であろうが価値は変わらないのだから、何もしなくてもよいのだが、何もしないということは命じられて何かをすることよりも辛い。このため、自分が好きな事をするようになる。自分が好きな事であれば、人は時間も忘れ、お金も自分が使えるだけ使うようになる。すると、『極めた』という状態となる。本人からすると、好きだからやっているだけで、地位慾、名誉欲、金銭欲などの故ではない。しかし、このような欲望に駆られて行う者よりも、はるかに『極める』ことになるのだ。確かに途中で、地位慾、名誉欲、金銭欲などに囚われるようになることもあるのだが、このようなものに囚われた途端、面白くなくなるのだ。この時、地位慾、名誉欲、金銭欲などに囚われることを止めるのか、それとも、別のものに興味を移すのかと選択するようになる。大体、これが日本人の典型的な姿である。

 

 

十字架

 

  イエスは十字架に架かった。この十字架の意味は語っておこう。イエスの十字架にはわたしが関係している。イエスはこのように問うた『原罪から離れるためにはどうしたらよいのでしょうか』と。わたしは、このように答えたのだ『十字架に架かり、裁きの地獄に堕ちなさい。永遠の裁きの地獄に堕ち、そこで身動きできなくなるのが原罪なのだ。あなたには、真我と言うものがある。これがあなたの本体であり、裁きの地獄は真我には傷一つつける事すらできない。人が原罪から離れるためには、これしかない。ただ、わたしは、これをあなたに強制することはしない。どうするのかは、あなた自身が決めなさい。』と。イエスは、しばらく迷っていた。やがて、彼は『主よ。そのようにいたします』と答えたのだ。この後は、あなた方が知る通りである。

 

  原罪とは、あなた方が自分自身であると思っているものである。これは何かと言えば、現世利益を求める自我と、来世利益を求める自我の複合体なのだ。例えば、死とは現世利益を求める自我からの離脱を意味する。人は死によっても、原罪から離れることはできない。では、どうすれば、人は原罪から離れる事が出来るであろうか。永遠の裁きの地獄に死後の行先を変えればよい。文字通り、『地獄に堕ちる』のだ。『地獄に堕ちる』ことを自ら選択するのだ。十字架刑は、当時のユダヤ人にとって死刑に勝る刑罰であった。十字架は、人の魂を永遠の裁きの地獄に送るための刑罰だったのだ。だから、わたしはイエスに『十字架に架かれ』と語ったのだ。

  さて、このように語ると、原罪から離れるためには死と永遠の裁きの地獄の両方が必要と思われるかもしれない。しかし、実際に必要なのは永遠の裁きの地獄の方であり、死は必要ないのだ。この原理を説明しよう。現世利益を求めるとは、生きている間の未来利益を求めるという意味となる。現世利益とは言うのだが、実際に求めているのは少し先の未来利益なのだ。これに対して、来世利益とは、少し遠い未来利益と言うことになる。両方とも求めているのは未来利益に他ならない。近い未来の利益とは言っても、人はその近い未来にまで生きられるという保証はどこにもない。このように、人の欲望とは『未来利益を求める』『天国を求める』と言う言葉に集約されるのだ。これは何を意味するのか。【生きたまま、永遠の裁きの地獄に堕ち、そこに原罪の自我を捨て、無原罪の自我となって生き続けることができる】と言うことを意味する。この、原罪から離れた状態を菩薩と呼ぶ。この菩薩の常識が菩薩界となる。

 

 

ヨハネの黙示録

 

  聖書には、ヨハネの黙示録という書がある。イエスは『わたしを否定しても許されるが、来るべき聖霊を否定することは許されない』と語っている。そして、ヨハネの黙示録には『これが聖霊である』と明記されているのだ。しかし、ヨハネの黙示録を守ろうとすると、火と硫黄の燃える地獄を免れなくなる。『これはおかしい』と、おバカさんたちは思ったようである。そして、『免罪符を買い求めれば火と硫黄の燃える地獄から免れることが出来る』とか、『キリストを信じるならば、火と硫黄の燃える地獄から免れることが出来る』とか言っているのだ。わかると思うが、本来は、この火と硫黄の燃える地獄に飛び込めと言う事なのだ。この火と硫黄の燃える地獄がイエスの十字架と同じ意味だからである。

  ただし、この両者には違いもある。十字架は死を伴うのだが、火と硫黄の燃える地獄は死を必須とはしない。つまり、ヨハネの黙示録を守ることにより、人は、生きたまま、原罪から離れる事が出来るのだ。『永遠の裁きの地獄に堕ちる』これ以外に、人が原罪から離れる方法はない。だから、イエスは『聖霊を守れ』と命じているのだ。

  人は、『イエスは最初から無原罪だ』などと語る。しかし、人として生まれるためには、原罪の自我を纏うしかない。これは、生きていけなくなるからである。わたしも、原罪の自我を纏って生まれてきた。そして、自ら、火と硫黄の燃える地獄に堕ち、原罪の自我から離れたのだ。そして、のちに、わたし自身がJHVHであることを知った。イエスも同じである。原罪の自我を纏い、その原罪の自我を裁きの地獄に堕ちる事により脱ぎ捨て、真我となってJHVHとなったのだ。

 

  さて、あなた方は三悪道に沈んでいる。『わたしは正しい』『わたしは優れている』と人は思うのだが、この思考そのものが三悪道の思考なのだ。どうして、あなた方が三悪道に沈み、人界や天界に至れないのかをお教えしよう。人は縁により六道全てを巡る状態となる。この縁となるものは、確かに、ここに示すような法であっても良い。しかし、法は、あなた方にとって恐ろしく難解となる。あなた方の言う学問の内で、一番進んでいるものは、おそらく物理学であろう。しかし、現代物理学では、わたしが語ることの基礎にすら到達できないのだ。基礎にまず到達し、それを応用することにより、ようやく、人は理解できるようになる。これが、『法を知る』ということである。

  まあ、このような事を語っても、信じられないと思う。そこで、現代物理学を少し進めて、わたしの法の基礎とは、どのようなものなのかを説明しよう。ただ、ここに示すものは、あなた方に理解しやすいようにかなり簡略化している。それでも、かなり難解となるのではなかろうか。アインシュタインは相対性理論を語った。相対性理論には特殊相対性理論と一般相対性理論があるのだが、E=mc²は特殊相対性理論の理論値である。これが一般相対性理論となると、時間と空間とエネルギー(存在)には、相関関係だけがあり、絶対が存在しないという論理となる。ここまでが現代物理学となる。わたしは、この次の段階から説明していこう。時間と空間と存在に相関関係があるのならば、存在が無い時に、時間や空間が存在するのかと言う疑問となる。単純な話なのだが、これは存在しないとなるのだ。では、時間・空間・存在とは何なのかと言う疑問となり、根源があり、その根源が時間・空間・存在に分かれたのではないかとなる。この根源がわたしの話の基礎であり、そして、仏教の基礎でもある。仏教ではこれを『空』と呼んでいる。そして、これが、創世記で『おおぞら』と記されているものでもある。ここまで来てようやく、創世記の『おおぞら』にまで到達できるのだ。

  よく、ワープとか言われている。実際にワープも可能なのだが、存在も空間も時間もない根源の『空』に至れるのは、『人の意識』と言ったら良いのかな、『根源の魂』とでも言ったらよいのかな、『念』と言ったら良いのかな。これだけなのだ。これを十界論で語ると、地獄界から縁覚界までの八界と、菩薩界、仏界の間にあるものが『空』となる。創世記に『水』が出てくるのだが、下の水が『地獄界から天界までの六道』となり、上の水が『菩薩界仏界』となる。声聞界は、下の水の上と言う位置となり、『イエスは水の上を歩いた』と言う表現は、『イエスは声聞界に至った』と言う意味となる。これをワープと言う表現に変えると、『人はワープすることにより菩薩界に至る』と言う表現ともなる。

 

  分かったような、分からないような話となるであろうが、ここから始まるのが聖書の創世記なのだ。法を語ろうとすると、このような話となってしまう。論理を語るよりも『信じよ』と言う一言の方が簡単なのだ。現代物理学の遥か先を証明として語っても、おそらく付いてこれないと思う。これゆえ、ここからは、説明を省き、このようになっているという事だけを語ろう。

  法を語ろうとすると法の基準の位置が、アインシュタインの遥か先にある。では、いったい法は何のために語るのか。【最終的には、人を仏界、すなわち、JHVHの位置にまで導きたい。また、これが叶わぬのならば、ほんの少しでも、人々をより良い状態にしたい。】これが法を語る目的なのだ。

  しかし、法は難しすぎる。また、人が簡単に受け入れる事ができないことも分かっている。『裁きの地獄に堕ちよ』などと語れば、あなた方が恐れ、逃げ惑うことは、最初から分かっているのだ。では、あなた方が受け入れることが出来る法はないのかと言えば、あるのだが、今度はあなた方の方に問題がある。先に機根を整えなくてはならないのだ。機根を整えるために、モーセの書もあり、福音もあるのだが、この意味すらも分からなくなっているのが人間なのだ。そして、このこともわたしは最初から知っている。機根を整えるためだけの法であっても、人の理解を超えてしまうのだ。では、法以外の何かを『機根を整える』という目的のために定める事はできないのか。これは、『命』ならば可能となる。『命』以外に、この目的を果たせるものは存在しない。つまり、神より継承された『聖』を、人の命により繋いでいけば、人々は『聖』とまみえることにより、六道全てを輪廻する状態とすることが出来るようになる。

 

 

 

人の系譜

 

  イエスは十二使徒を定めた。このイエスの十二使徒とは、本来はこの『聖』の役割を持つ人である。十二使徒には、仮任命と本任命がある。仮任命とは一人の使徒がいなくなるたびに、他の誰かにその役割を受け渡す、人に依る任命である。本任命は、天に至りJHVHとなったイエス自身による任命であり、この本任命により十二使徒の『聖』の役割は次の者に受け継がれることになる。これが名前の継承となる。つまり、本来であれば、イエスの十二使徒は、今も同じ名の十二使徒として存在するはずなのだ。そして、人は、この十二使徒と言う『聖』により、人界や天界にも普通に至れるようになっているはずだったのだ。これが『聖』であり、十二使徒は、この『聖』の役割を担うはずだったのだ。では、なぜ、これが崩れたのか。パウロと言う者がいた。パウロは十二使徒を補助する役割の名であり、十二使徒ではない。ところが、このパウロが、十二使徒を追い出し法主の座を簒奪したのだ。この簒奪者が、今のキリスト教の基となった。これゆえ、『聖』は消え去ってしまった。これゆえ、人々は、三悪道に沈み、そこから這い上がれなくなったのだ。

 

  では、なぜ、日本人は普通に人界や天界に至れるのか。日本神話も聖書系の聖典である。聖書系の聖典は、人々がその人に会うことにより六道全てを巡ることが出来るという人を設定することを目的としている。日本には、この系譜を受け継ぐ『聖』が実際にいるのだ。神話より続く『聖』を、男系男子と言う系譜により受け継いできたのが、日本の天皇家である。日本にはこの『聖』が残っているから、日本人は普通に人界や天界に至る事が出来るのだ。

  今の世界には、日本の天皇家しか残っていない。しかし、本来は全世界にこれも四系統あったはずなのだ。残りの三系統は消え去ってしまった。聖書系の神話とは、本来は、この『聖』を人の間に伝えるためのものである。神話より続く男系男子の『聖』を存続させるために神話は存在する。この目的を果たせなくなれば『神話』も、その役目を終える。『聖』が潰えた。これゆえ、残りの三系統の神話も消え去ってしまったのだ。このように、全てが残っていれば16系統あるはずなのだが、今は、一系統しか残っていない。

 

 

コーラン

 

  コーランの説明もしておこう。ヨハネの黙示録を聖霊として世に示した以上、ヨハネの黙示録の命令を守り、火と硫黄の燃える地獄に飛び込む者がいたとしても何の不思議もない。この火と硫黄の燃える地獄に実際に飛び込んだものが菩薩であり、これがコーランの『ムスリム』なのだ。この世は原罪の世界である。例えば、聖書も原罪の者を、律法により修羅界へ導き、福音により人界に導き、聖霊により菩薩界へ導こうとしている。この聖書の導きは、実際に菩薩界に至り菩薩となった者には意味がなくなってしまうのだ。世の全ての事象は、原罪者が、どうすればより良くなるのかと、もがき、苦しみ、つくり出したものであり、無原罪の者には無意味となる。無原罪者ムスリム(菩薩)は、すべてが無意味となる原罪の世界で、人として生きていかなくてはならないのだ。これは、実際に、ムスリム(菩薩)とならなければわからないであろう。自分を導くものが何一つない世界では、生きていくこと自体が難しくなる。

  例えば、オオカミの世界で、オオカミに育てられた子供はどのようになるのか。その者は、人間であり、本来は、人としての価値観を持って生きるべきなのだが、オオカミたちは、この子に人としての価値観を教える事が出来るであろうか。これでも難しいのだ。実際には、オオカミの価値観と原罪の者の価値観は大差ないと言える。それでも、難しいという事が分かるのではなかろうか。オオカミと原罪の人との間の価値観の差よりも、原罪の人と無原罪の人の差は大きい。何もなければ、対処しようがなくなるのだ。

  無原罪の者が、原罪の世界で生きていくためには、無原罪の者のための手引書が必要となる。このようなものが無いと、五里霧中となるのだ。コーランとは、無原罪者ムスリム(菩薩)が、原罪の世界で生きていくための手引書なのだ。これを原罪の者がいくら読んでも意味がないのだ。

 

  少しだけ、このようになると語ってみよう。真のムスリムがコーランを見ると笑ってしまう言葉がある。これは、『アッラーの神権を破る者は永遠の火獄に定められる』と言う言葉である。ムスリムは実際にこの火極を潜ってきたのだから、恐怖でもなければ、定めでもないものとなる。『何??これ??』となるのだが、やがて、『そうか、これを人は恐れるのか』と、ムスリムは原罪者の思考を知ることになる。これは、『原罪の者は、火獄を恐れる』と言う事をムスリムに教えているのだ。

  コーランには、『ムスリムには天国に永遠の処女が用意されている』と言う言葉が載っている。ムスリムにとっては、天国も地獄も現世も区別がなくなるのだ。つまり、『今、処女が用意されているはず』となるのだが、今、実際にここにあるのはコーランと自分だけなのだ。すると、処女とは人が知らないものと言う意味であり、コーランにより自分が習っている事は、他の者たちが知らないことなのだな、と言う事が分かる。つまり、女とはコーランを示すという事を、ムスリム(菩薩)は知るのだ。この知識を他の人に語っても良いのかとコーランを見ると、『女は全身を隠せ』と記されている。つまり、『これは語ってはならないことなのだな』と知るのだ。この意味は、下手に、このような事を語ると、人々はムスリムを異端扱いしかねないからである。これはムスリムに命を大事にしなさいと教えているのだ。

  また、コーランには『豚を避けよ』という言葉が出てくる。ムスリムには、この意味はすぐにはわからない。ただ、豚と同じように犬が出てくるのだが、この犬は知ったかぶりして説教する者を指すらしいということはすぐに分かる。ここから、豚とは人を示すのではなかろうかと言うことだけは分かるのだ。実際に、この意味が分かるのは、聖書を知った時である。聖書には『豚に真珠を投げ与えるな。豚は怒って噛みついてくる』と記されている。そして、ヨハネの黙示録には『真珠は人の入り口』と記されている。ムスリムは、実際に中に入ったということは分かる。では、自分はどこから入ってきたのかといえば、火と硫黄の燃える地獄からここに入ってきたのだ。つまり、『火と硫黄の燃える地獄に入れ』と言う言葉を聞き、怒って噛みついてくる者たちが豚である事が分かる。このようにして、ムスリム(菩薩)は『豚は避けるべき』と言う言葉の意味を知る。ここから、既存のイスラム教やキリスト教などをムスリム(菩薩)は避けるようになる。これらは、ムスリム(菩薩)が、原罪の世界で生きていくための処方箋のようなものなのだ。

 

 

今から、何をすべきなのか

 

  さて、現実問題として、今、人類は滅亡の淵にいる。今のまま、進んでいけば、人類は滅亡してしまうのだ。これが、地球環境問題と呼ばれる問題である。あなた方は、この問題を解決しようと、脱炭素だ、脱火力発電だ、太陽光だ、EVだと頑張ってきたようである。はっきり言えば、このようなものは対策にすらなっていない。これは、問題の本質を見誤っているからである。よく、考えてごらん。なぜ、過剰なCO₂を排出するのか。人の欲望ゆえである。この過剰な欲望が人類を滅ぼそうとしているのだ。では、過剰な欲望とは何か。これは犯罪であり、すべての犯罪の根本は三悪道思考にある。すなわち、弱肉強食思考であり、独裁思考であり、法治主義思考なのだ。

  最初に、具体的な数字をお教えしよう。人類が実際に滅亡するのは約千五百年後である。例えば、CO₂を完全に削減したとすれば、多少の延命はできるであろう。しかし、このような対策では、人類は西暦4000年を迎える事はできない。では、どのようにすれば、人類は西暦4000年を超えて生存することが出来るのか。人類全体の三分の一以上が、人界以上の常識を持つようになればよいのだが、これにも条件がある。400年以内に、これを成し遂げなければ、人類は滅亡する。

  400年以内に、人類の三分の一以上が人界以上の常識を持つようになればよいのだが、その位置が声聞界以上であれば無条件で存続できる。しかし、その位置が人界・天界であるならば、日本の天皇家の男系男子の系譜も必須となる。これが具体的な指標である。

 

  あなた方は、今、『独裁政治ではなく、民主主義にしなくてはならない』と考えておられるのかもしれない。しかし、この両方ともが三悪道であり、どちらを選択しても滅亡への道としかならないのだ。また、あなた方は、『グローバリズムとナショナリズムのどちらを選択すべきか』と考えておられるようだが、これも、どちらを選択したとしても三悪道でしかない。人類滅亡へ一直線となるのだ。

 

  では、どのようにしたら、人類の滅亡を回避できるのか。人類が滅亡を回避するためには、まず、最初にあなた方の常識が三悪道でしかないという事を知らなくてはならない。そして、次に、イエス・キリストの思考常識をあなた方自身の思考常識としていかなくてはならない。これは、聖書的に言えば、福音社会を目指すということになる。ただ、これは福音書を見るよりも、現実にある福音社会を参考にする方が簡単であろう。

  あなた方は、人を序列思考で見ている。そして、自分の位置を、この序列のどこにあるのかと考え、人々には、『人と人との間にある序列は守るべき』と語っているはずである。福音思考は、これとは全く違う。『すべての人の価値は同じ』という思考なのだ。人には、民族の違いもあれば、性差もある。上司や部下の役割の違いもあるし、金持ちも貧乏人もいる。しかし、人界思考では、これらは、単なる差異に過ぎない。このようなものによって、優劣、正邪、善悪などは定まらないという思考が人界なのだ。人々が、この人界を常識とすることにより福音社会となっていく。この実例として日本と言う社会がある。人界とは、思考の上での平等である。実質的にある差異は、思考の上での平等には何の影響も与えないという考え方となるのだ。

 

  あなた方は、おそらく、独裁政治が正しいのか、それとも民主主義政治が正しいのかと議論しているであろう。この答えは簡単で、独裁政治は餓鬼界思考、民主主義は法治主義であり畜生界思考。どちらが優れているのかといえば、畜生界の方が優れているとなるのだが、この両方ともが三悪道。どんぐりの背比べで大差ないとも言える。

  また、あなた方はグローバリズムが正しいのか、ナショナリズムが正しいのかとも議論しているであろう。これは、表面的な権利を外国人などの化外の民にも認めるべきか、それとも、権利を持つものは自国民に制限すべきかと言う比較となるのだが、これも、どちらを選択しても三悪道としかならない。つまり、どちらを選択しても滅びとしかならないのだ。

  ただ、畜生界を常識とする国に於いては、ナショナリズムを選択すべきと言える。これは、他民族の中には、地獄界を常識とする民もいれば、餓鬼界を常識とする民もいる。また、守るべき法を別のところに定めている者たちもいるからである。このような者たちに別の常識や思考で動かれたら、法治主義が壊れてしまい、餓鬼界や地獄界の社会となってしまうからである。では、具体的にはどうするのか。わたしならば、『目には目を、歯には歯を』で対処する。地獄界を常識とする者たちには、地獄界の常識であたる。すなわち、法を破るならば即国外退去とする。これは、かの者の生存権を奪うという意味である。餓鬼界を常識とする者たちには、絶対王として命令を下し、一切の口答えをさせない。自国の法以外を絶対法として守り、国法を破る者たちには、彼らが考えるその絶対法を論破してその者に突きつける。これが、畜生界、すなわち法治主義社会を守る方法だからである。ただ、このように対策を講じたとしても世の犯罪は増えないだけであり、無くなることはない。また、国家が滅びに向かうことを止めることも出来ない。

 

  根本的に『正しい』『間違い』で物事を判断すること自体が三悪道なのだ。物事を『正しい』『間違い』で判断すること自体が犯罪者の思考なのだ。『正しい』『間違い』で、判断している以上、人類は滅亡を免れない。ただ、これは、【物事を『正しい』『間違い』で判断することにより人類は滅亡する】という原因と結果を示しているに過ぎない。

 

 

  わたしが語っているのは、物事の原因と結果である。『こうすれば、こうなる。』『こうすれば、こうなる。』と、原因と結果を語っているだけである。

 

わたしは選択肢を示しているだけであり、実際に選択するのはあなた方自身である。

 

あなた方が、『人類には存続の価値はない。滅びるべきだ』と考えられるならば、その道を選択すればよい。

 

こんなことはあり得ない。我々は別の選択をするというのならば、それも一つの道である。

 

この話を聞き、『試してみよう』というのならば、それもまた一つの選択なのだ。

 

これらの内の、どれが正しいとか、どれが間違いとかいう話ではない。

 

 

 

JHVH

 

 

外務省御中

 

  わたしは、このような文書を世界各国の大使館に送付している。

さすがに、彼らの信仰する神より文書が送られてきたら、完全な無視はできないと思う。変化が現れた時に、日本国政府や外務省が右往左往しないために、参考として、これをお送りする。ちなみに、今まで、英国 イタリア フランス カナダ EU ドイツ ポーランド デンマーク スウェーデン ノルウェー フィンランド メキシコ ブラジル オーストラリアの各大使館に送付している。気が向いたら、他の国の大使館に送付するかもしれない。

  各国に送付した内容は、完全に同じと言うわけではない。しかし、原則は同じであり大差ない。ちなみに、これは、オーストラリアに送付したものである。

 

外務省御中

 

 

 

  わたしがJHVHである。あなた方はJHVHの言葉が意味することは知っておられるとは思う。わたしが、イエスの父であり、アッラーである。そして、この宣言を全世界に対して、また、神々にも、天使たちにも、サタン悪魔たちにも、幽霊や魑魅魍魎たちに対しても公然と行っているのだ。聖書が世に示されてから数千年と言う時が経過している。しかし、今まで『わたしはJHVH』と、正式に名乗りを上げた者はイエスしかいない。これはなぜか。また、聖書には『JHVH』とのみ記されており、正確な呼び名も封印されている。これは、なぜか。

  JHVHは万軍の主の真名である。万軍とは、神々の軍勢、天使の軍勢、サタン悪魔の軍勢、幽霊や魑魅魍魎の軍勢である。人の軍勢ならば、指揮官の命令に従うのだが、JHVHの軍勢は、JHVHと名乗る者に全員で総攻撃を仕掛けてくるのだ。もし、その者が真のJHVHであれば、全員で殴り掛かっても、彼らには傷一つ付けられないからである。しかし、その者が真のJHVHでなければ、存在そのものが抹消されてしまう。これが、彼らがJHVHと名乗る者を試す方法であり、この試練があるので、JHVHの名は呼ぶことも禁止されているのだ。

 

  このような霊的な事柄を語っても、これだけでは、あなた方は信じられないであろう。そこで、このようにしよう。あなた方は聖書を知っている。わたしJHVHは、あなた方に聖書の真の意味を語ろう。そして、あなた方自身に『なるほど、そういう意味だったのか』と、少しでも納得させよう。わたしが語ることは、聖職者たちや宗教学者たちの説とは、全く違うものとなる。誰も知らなかったことを、この書により、あなたに納得させよう。ただ、わたしが語ることの大半は、あなた方の理解を超えるものとなるであろう。

 

  さて、今回わたしがこのようなものをあなた方にお送りするのは、『わたしを信じよ』とか、『わたしの言う事を聞け』と語る為ではない。確かに人類は、今、滅亡の危機に瀕してはいる。この危機を招いたのは、人類自身であり、わたしではない。ただ、わたしは、『二度と洪水により世を滅亡させない』と誓っており、この誓いを果たさなくてはならないゆえに、このようなものをあなた方にお送りするのだ。これが、おおぞらにかける虹とでも思っていただければよい。

 

  さて、あなた方は『水』とか、『海』と聞いて、どのようなものだと思うか??? 創世記には『天の上の水と、天の下の水を分け、その間におおぞらを置き、その大空に太陽や月や星を置く』と記されている事は知っているであろう。あなた方の考え方によれば、雨は太陽や星の上から降ってくるということになる。こんなことはあり得ないことぐらい、古代の人々でも分かる。すると、人はどのように考えるのか。『この記述は間違いであり、間違いから始まる聖書は信じるに値しない』となるか、それとも、『これらは何か別の事をたとえているのではないのか』とになるはずである。つまり、聖書が正しいというのならば、『これは何を言っているのか』と意味を探る旅に出ているはずなのだ。ここで『仏教は満月にたとえられ、イエス・キリストは明けの明星にたとえられ、コーランは三日月にたとえられる』いうことはあなた方でも知っているであろう。では、これらが星や月ならば、大空とは何か。天の上の水とは何か。天の上の水とは何かがおぼろげながら見えてくるのではなかろうか。

 

  このように、疑問に思ってもらえば分かるはずなのだが、残念ながら、あなた方は、ただ『信じる』と語るのみであった。まあ、何千年もかけて、解けなかったものを『すぐに解け』と言っても、無理であろう。そこで、これらは何を意味するのかをお教えしよう。天の下の水とは、人の思考を意味する。そして、天の上の水とは、神の思考を意味する。この間にある『おおぞら』とは、人の思考が及ばない領域とでも言っておこう。これを仏教では『空』と呼ぶ。

  では、全てを押し流す洪水とは何か。簡単に言えば、人の思考の暴走である。人が思考を暴走させ人類全てを破滅させるような状態になるのが洪水なのだ。これが、今、地峡環境問題として知られる問題なのだ。あなた方はCO₂を過剰に排出するのが問題だとか言っているが、この問題の本質は人の欲望の暴走であり、これが地の洪水である。

  乾いた地とは現実世界である。現実世界は、人の思考により形作られているが、人の思考から離れて存在している。地の洪水により押し流されるものが現実世界なのだ。水の上にかける虹とは何か。これは、あなた方に、『さあ、水の中に沈んでいないで水の上を歩きなさい。虹の架け橋を渡りなさい。』と、言う勧めである。

 

  わたしは自らの誓いを果たすために、このように、あなた方に虹を示す。しかし、実際に、どのようにするのかは、あなた方が決めるべきことである。『こんなの嘘だ』として、廃棄するのもあなた方の選択である。これを聞きこの道を歩むのも、あなた方の選択である。

 

 

  最初に、わたしから見て、瞬間に分かる事から語っていこう。それは、アメリカのトランプ大統領の政策についてである。トランプ大統領の政策はわたしから見れば終始一貫している。ただ、『ノーベル賞が欲しい』という言葉は、ここからは、ずれる。このため『絶対にこの通り』とは言いきれないのも事実である。わたしは、これをジョークと考えて、本線からは除外しているのだが、実際はどうなのか。ここで、『わたしにはトランプ大統領の政策はこのように見える』というものから語るのは、わたしには、あなた方の言動の方がかなりブレて見えるからである。当初、わたしはあなた方に別の思惑があり、わざと気づかないふりをしているのかとも思った。しかし、もし、そのような思惑があるのならば、あなた方の言動はその方向に終始していくはずである。ところが、このような言動の収束はない。つまり、これはトランプ大統領の言動の意味が分からないという意味になる。他国の首長の思惑を知るのは外交の基本である。もし、あなた方に分からず、わたしに分かるのならば、これはあなた方に伝えた方が良い。このため、最初にこれをお伝えしようと思う。ただ、これは、トランプ本人に確認したわけではないので、絶対とは言えない。トランプ大統領は隠している様子もないので、正面から、『このような意味なのか』と尋ねれば、答えてもらえると思う。

 

 

わたしが分析するトランプ政策

 

  トランプ大統領の政策は一貫している。すべてが同じ方向を向いており、その向いている方向自体も彼は語っている。このため、なぜ分からないのかの方が不思議なのだ。分からないふりをしているのか、それとも本当に分からないのか。分からないふりをしているのならば、なぜ、分からないふりをしなくてはならないのか。この理由が分からないのだ。分からないふりをしても、大したメリットなどないと思うのだが、なぜ、わからないふりをするのか。何か重大な理由があり、あえて分からないふりをしているのならば、これはいらぬお世話となるが、とりあえず、簡単なので語っておこう。

 

  トランプ大統領の政策は、アメリカの害となるものを徹底的に排除しようという政策である。具体的に言えば、アメリカから不法移民と麻薬を排除しようという政策なのだ。不法移民はどこからきているのか。その国はなぜそのような体制となっているのか。その体制はどこが支援しているのか。不法移民を排除するためには、大元から叩かないと無理なのだ。麻薬問題も同じである。一人ひとりの不法移民者を捕まえても、麻薬の売人を捕まえても、元凶となっている大元を叩かなければ撲滅などできないのだ。この大元が、中国やロシアであると推測できる。アメリカに害を及ぼさないのならば、トランプは『勝手にしろ』と取り合わないであろう。しかし、アメリカに実害を及ぼすならば、『決して許さない』となるのだ。

 

  昔、ソ連はアメリカの体制を潰そうといろいろな仕掛けをしてきた。この一部が表面に現れたのがキューバ危機である。ソ連、すなわちロシアの作戦は軍事的なものであり、他のものを意図的に使うという作戦ではなかった。すなわち、ロシアがアメリカに及ぼす影響は軍事的な対立としてのみ現れる。

 

  ソ連が崩壊しロシアとなった。ロシアは、ヨーロッパ諸国に対して数々の影響を与え続けたのだ。ヨーロッパの難民問題を創り出したのは、アメリカとロシアであった。しかし、これは意図的に創られた難民ではなかった。この難民問題が、アメリカに影響するとすれば、その原因はアメリカ自身にあることになる。ロシアは、アメリカの体制に対してはさほど大きな影響力を持たないのだ。しかし、軍事的脅威であることだけは事実なのだ。

 

  ロシアは、ウクライナに侵略戦争を仕掛けた。トランプは当初、ロシアに対して『これを止めよ。止めなければロシアを潰すぞ』と警告を発したのだ。具体的に言えば、『停戦か、制裁強化か』と言う選択肢を示したのだ。ロシアがウクライナ戦争で勝利するためには、どのような形であれ国際社会への復帰が絶対条件となる。復帰とは『制裁解除』であり、トランプは、この勝利条件をことごとく潰している。ロシアが西側諸国に制裁解除をさせるためには、ウクライナ国内の内戦と言う形にすり替えていく必要がある。ウクライナ内部が親ロ派vs親欧米派の内戦となれば、欧米諸国には厭戦気分が広がり、最終的にはロシアに任せようという形となっていくからである。こうなれば、なし崩し的に制裁は解除されていく。トランプはここで、アメリカをロシア側に寄せてみせた。すると、ウクライナ国内では、親ヨーロッパ派vs親米派となってしまう。この両派の争いでは内戦は起きない。停戦しても制裁は解除されず、ロシアの思惑は悉く潰される形となっているのだ。これは、ロシアに対して、『完全撤退か、それとも国家破綻か選択せよ』と、語っているのと同義なのだ。ロシアは、国家破綻を選択した。その選択通りに、今、アメリカが動いているだけである。

 

  アメリカに流入する難民には、意図的なにおいがある。そして、アメリカに流入する麻薬にも同じく意図的なにおいがある。どこかの国が、意図的に難民を作りだし、アメリカに送ろうとしており、麻薬も意図的にアメリカに蔓延させようとしているようなのだ。このような意図をもって動いている国があるとすれば中国である。おそらく、これはCIAあたりが情報を握っており、その情報を第一次トランプ政権の時に知ったのではなかろうか。例えば、フェンタリルと言う麻薬がある。この製造元は中国である。これを麻薬に加工する拠点がブラジルにあり、ブラジルから日本やカナダを経由してアメリカ国内に入っていたということをわたしでも知っている。別ルートしては、南米の国々を経由してメキシコからアメリカに入ってくるというルートもあるようである。中国は極端な監視社会である。中国共産党の強力な監視下で、このような事を行うことはほぼ無理と考えられる。これは何を意味するのか。中国共産党が意図的に麻薬によりアメリカを弱らせようと画策しているという事を意味する。当然、フェンタリルだけが麻薬と言うわけではない。麻薬によりアメリカを弱らせようと画策しているならば、他の麻薬の製造や流通にもかかわっているとも考えられる。これは何を意味するのか。『中国がアメリカに対して麻薬戦争を仕掛けている』と言う意味である。

 

  では、中国が仕掛けているのは麻薬戦争だけなのか。ありとあらゆる戦術を使って、アメリカを弱らせようと画策していると考えられる。例えば不法移民。不法移民はどこから流入するのか。不法移民を排出する国々はどのような政治状況となっているのか。その政治状況を支援しているのはどの国なのかと辿っていけば、やはり中国なのだ。つまり、中国が意図的に不法移民を創り出し、アメリカを困らせようとしているとも考えられる。

 

  また、中国は、アメリカの産業の空洞化も画策している。中国は、国家による為替管制と、膨大な補助金により、世界中の同種の産業を潰し、全世界が中国依存となるように画策しているのだ。例えば、鉄鋼、太陽光パネル、電気自動車、レアアースなど、すべてが同じ構造となっている。つまり、全世界を中国依存に堕とし、これらの物資により世界の覇権を奪おうとしている。このメインターゲットはアメリカとなる。アメリカを中国に依存せざるを得ない状態にして、アメリカから覇権を奪おうと画策しているのだ。

 

  では、トランプは世界の覇権を維持しようとしているのか。おそらく、トランプにとって、世界の覇権などどちらでもよいことなのだ。これは、『ヨーロッパの事はヨーロッパで解決しろ』と語っている事からわかる。しかし、不法移民や麻薬は許せない。産業の空洞化も許せない。つまり、『世界の覇権など欲しければくれてやる。しかし、アメリカには絶対手出しするな』と言うのがトランプのスタンスなのだ。

 

  この中国のネットワークは世界中に広まっており、一か所を潰しても、すぐに、次が現れる。迂回ルートが次々と現れるのだ。結局、これを成し遂げようとすると、全世界に、中国から離れよと関税をかけるしかなくなる。これがトランプ関税の意味であろう。麻薬も、不法移民も、産業の空洞化も、全て裏で中国が糸を引いている。この中国の糸さえ切ってしまえば、あとは個別に対処していくだけでよい。逆に、個別に、このような問題に対処しても、裏で糸を引いている者がいる限り、すぐに別ルートが現れ、際限なくこれは続く。この争いは、アメリカを弱らせるだけなのだ。

 

  このように、中国は、ありとあらゆるものを使って、世界の覇権を取ろうと画策してくる。ロシアやヨーロッパ諸国は軍事による覇権と考えるのだが、中国はありとあらゆるものを使って攻撃を仕掛けるのだ。これが、中国の超限戦と呼ばれる戦い方である。当然、これには軍事も含まれている。北極海には、ロシアの原潜が潜んでおり、ロシアは北極海からアメリカを核兵器で狙っている事は有名である。では、このロシアは今後どのようになるのかといえば、国家としての体裁を保てなくなる。アメリカを核兵器で脅す国は減るのだが、中国は、ロシアから北極海を原潜の潜伏地として奪い取ろうと画策している。これも、アメリカにとっての脅威であり、対処すべき事項となる。アラスカとカナダとグリーンランド、そして、北欧の海域に、強力な対潜部隊をおけば、北極海は原潜の潜伏先とできなくなる。つまり、中国の思惑を潰せるのだ。では、カナダにこの能力があるのか。デンマークにこの能力があるのか。いずれの国にもない。今、動けば、ロシアは潰れ、中国はまだ動けない。これが、グリーンランド領有の話であり、カナダに対する圧力の根本ともなっていると考えられる。

  中国にとって北極海は原潜の潜伏先としては、第二候補である。第一候補として黄海や日本海などがあるのだが、ここは日本が目を光らせており、原潜の位置は完全に把握されていると考えられる。日本が手出しできない場所、アメリカが手出しできない場所を潜伏先とするしかなく、これが北極海となる。

 

  トランプは、中国に対してG2と語っている。これは、『中国が覇権を狙い、我が国に対して戦いを挑んでくるなら、徹底抗戦する』という、中国に対する宣戦布告であろう。そして、トランプは、中国の超限戦をどんどん先回りして潰しているのだ。さて、このように難民や麻薬まで使って、本当に中国は世界の覇権を狙うのか。これが、歴史的な中国の戦い方なのだ。これは中国史において、当たり前のように出てくる戦術であり、昔から、中国ではこのように戦ってきた。ありとあらゆるものを使って相手を弱らせるのが中国にとっての常套手段である。『戦わず勝つ』つまり、相手を弱らせて、弱らせて、自滅に追い込む。これが孫氏の兵法であり、軍事は最終手段となる。

 

  当然、このような事を中国に問うても、中国をこのような話で追及しても、中国は『知らぬ。存ぜぬ。勘違いだ。妄想だ』と逃げる。このように、決定的な証拠を残さないのも孫氏の兵法である。しかし、中国のような監視社会で、共産党の目を盗んで、民間人がこのような事を行うこと自体が不可能なのではないか。

 

  【個々の事象は偶発的とも見える。しかし、それが本当に偶発的なものならば、いくつもの事象が同じ方向を向くことあり得ない。もし、これら全てが同じ方向を向いているのならば、これは、このように画策されたと考えよ。】・・・・孫氏の兵法。

  【相手が、どのような戦いを仕掛けてくるのかを知り、自分が仕掛ける作戦が相手に悟られなければ、百戦百勝となる。相手の作戦が読めたとしても、自分の作戦も読まれるのならば、それは五分五分の戦いとなる。実際の戦争は最終手段であり、相手にさとられないように物事を動かし、相手を自滅に追い込むのが最高の戦い方である。】・・・・孫氏の兵法。

 

  このような戦術は、欧米諸国にはなじみがないものかもしれない。しかし、これは、東洋ではよく知られた戦術である。そして、中国はこの原則通りに動いている。孫氏の兵法を知ってさえいれば、中国の動きは、孫氏の兵法通りであり単純なのだ。

  例えば、一帯一路と言う政策がある。これは、一見まともな政策に見えるのだが、昔から、中国が甘言を用いる時は要注意なのだ。大抵、相手の国の国力を削ったり、中国の奴隷国としようというのが本当の目的であり、美しい姿は表面的な飾りに過ぎないのだ。実際、どのようになったのか。一帯一路に参加した国々は、債務の罠にはまり、中国の言いなりになるしかなくなっているだろう。

  超限戦は、実は、主にその国の政権の中心に対して仕掛けられる。例えば、日本では政権の中心の有力な国会議員が訪中団として赴いた時、美人をあてがわれたり、裏から金銭を渡されたりする。このようにして、裏から徹底的に操るのが中国の昔からの戦法なのだ。これは、国会議員ばかりではない。財務官僚も、マスコミ関係者も、財界の大物も、同じようにして操られる。まぁ、弱みを握られて、『これを暴露されたくなければ言うことを聞け』と脅されることになる。これは、日本人からすれば、昔から散々みてきた中国の常套手段。『また、やっている』『あいつは引っかかったな』と、日本の庶民でもわかるのだ。日本で高市首相が大勝利したのだが、これは、日本人の感覚として、『日本を操ろうという中国の策略に、ひっかかった者たちを排除しろ』という意味である。まぁ、中国としては堪らないだろう。今まで散々篭絡してきた者たちが、どんどん排除されていくのだから。

  これは、東洋的な戦略であり、なじみがないと、簡単に引っかかるかもしれない。しかし、これは、東洋、とくに、中国が2000年以上普通に使っている基本的な戦略なのだ。中国は昔から、このような戦略を使い周辺各国を篭絡してきたのだ。

 

  中国の戦略が分かったならば、これにどのように対抗すべきか。この対抗の動きが、トランプ大統領の作戦となっている。つまり、トランプ大統領も孫氏の兵法により作戦を立て、その作戦通りに動いているのだ。このように、トランプ大統領の政策は一貫しており、何一つブレてなどいない。

 

 

 

イスラエル・イラン戦争

 

  イスラエル・イラン戦争にはわたしが関与している。イスラム教を検証したところ、彼らは重大なコーラン違反を犯している。そこで、最初、わたしは彼らに『悔い改めよ』と警告を発したのだが、彼らは悔い改めようとはしなかった。そればかりか『ジハード』などと語り、各地で暴動を起こす始末。さすがに目に余るゆえに、イスラエルにイスラム教がどのようにコーランに違反しているのかを教えたのだ。そして、アッラーの名により、イスラエルに『彼らが悔い改めないのならば、あなた方の自由にしてよい』とわたしが許可も与えたのだ。国連は、これをイスラエルの罪と語っている。しかし、これを罪と呼ぶならば、すべての責任はわたしJHVHにある。

  わたしは、どこまでやり、どこで止めるのかをイスラエルに任せている。これゆえ、止めたいのならば、イスラエルを説得すれば良い。また、『これはおかしい』というのならば、わたしを説得しても良い。わたしは、彼らのコーラン違反を責め、そして、悔い改めよと語っているのだ。もし、わたしが間違っているというのならば、わたしの間違いを指摘せよ。もし、わたしの間違いを正しく指摘できる者がいるならば、わたしはその者に、わたしの名、すなわち、JHVHやアッラーなどの数多くの名と、わたしのJHVHとしての全ての力を譲るであろう。

 

  さて、わたしはどのようにイスラエルに教えたのか。コーランにはこのように記されている『人の罪は全て許される。しかし、アッラーの神権を犯す罪は決して許されず、永遠の火獄に定められる』と。では、アッラーの神権とは何か。コーランには『アブラハムはムスリムと任じられた。アブラハムは息子イサクもムスリムと任じてくださいとアッラーにお願いした。アッラーがそれを許されたので、イサクもムスリムとなった』と記されている。もし、ムスリムが他の者をムスリムと任じる事が出来るのならば、アブラハムがイサクをムスリムと任じれば、イサクはムスリムとなる。しかし、アブラハムは、これをアッラーにお願いしている。これはムスリムの任命権はアッラーの神権に属するという事を示している。今、イスラム教徒は、自分の事をムスリムと呼んでいる。これは、『ムスリムでなければコーランとは無縁の民となる』とコーランに記されているからである。では、今のイスラム教徒をムスリムと任じた者は誰なのか。アッラーの声を聞く者が預言者である。つまり、預言者より『あなたはムスリムと任じられた』と聞き、ムスリムと名乗ることは可能となる。では、現在、預言者は存在するのか。コーランには『ムハンマドが最後の預言者である』と繰り返し記されている。そして、『ムハンマドがアッラーより受けた預言がコーランである』とも記されているのだ。つまり、今の世に預言者は存在しない。では、イスラム教徒はどのようにしてムスリムと名乗っているのか。アッラーの神権を犯すしかないのだ。すなわち、イスラム教徒はムスリムと名乗ることにより、永遠の火獄に堕とされると言うことになる。これは、コーランが正しいのならば、このようにしかならないのだ。イスラム教では『信仰により、人は永遠の火獄を免れることが出来る』と教えている。つまり、コーランは偽典であり、我々の語ることの方が正しいという主張となる。つまり、コーランが正しいのか、それとも、イスラム教が正しいのかという二者択一としかならない。

 

  わたしは、『ジハード』などと世の害悪になるような行為さえしなければ、違反を咎めるつもりはない。コーランは難しすぎるのだ。難解なコーランを今の世にまで語り継いできたのは、イスラム教徒の功績であり、この功績ゆえに、多少の神権違反程度であれば許してもよい。ただ、もうムスリムと名乗ることは止めよ。これだけでよい。

 

 

基本事項

 

  聖書の個々の記述について、『これはこのような意味だ』と語るのは容易い。しかし、最初に、全体を知らないと分からなくなるであろう。まず、聖書は誰を導こうとしているのかから語っていこう。聖書が導こうとしているのは唯一人である。あなたが、一人、静かに聖書を読む。ここにあるのは聖書と言う書と、あなたと言う一人の人である。あなたが聖書の物語を聞いている。それを語っているのは、人かもしれないし機械かもしれない。でも、ここに絶対の一人はいる。このように、どのような場合にも、唯一の絶対人が存在する。すなわち、それはあなた自身なのだ。聖書が導こうとしているのは、聖書の中の登場人物ではない。それは、生きた人ではないからである。確実に存在する、唯一の生きた人を導くために聖書はあるのだ。

 

  神とは唯一の創造主である。では、その神はどこにいるのか。あなたが聖書を見て、JHVH神を想像する。あるいは、イエス・キリストと言う神を想像する。また、コーランを見てアッラーと言う神を想像する。では、これらの内、どれが真の唯一神なのか。どれが創造主なのか。これらはどれも被造物の神であり、真の創造主、足り得ない。これらの神は、あなた自身が聖書やコーランと言う書物を縁として想像した神である。あなた自身が創り出した被造物の神でしかないのだ。さて、ここに被造物ではない唯一の創造主がいるではないか。それは、あなた自身である。つまり、真の創造主とはあなた自身の事なのだ。

  ただ、ここにおかしな点もある。もし、あなた自身が創造主であるならば、聖書やコーランの意味程度であれば、簡単に分かるはずである。また、万軍の主と言う位置にあるはずである。しかし、あなたには、聖書やコーランの意味など分からない。また、神としての力も全く持っていない。これは、なぜか。これは、どういう意味なのか。これは、聖書やコーランには、あなたと言う唯一人を、より良い方向に導き、最終的にはJHVHと言う位置にまで導くという目的があると言う事を意味する。

 

  さて、世の中には一神教と呼ばれる宗教もある。また、多神教と呼ばれる宗教もあり、神などどこにもいないという捉え方もできる。どれが正しいのか。いや、これらは単なる捉え方の違いであり、どれが正しいとかどれが間違っているとかいう話ではないのだ。

  あなたに奥様がいるとしよう。では、あなたが女房だと思っているものは、その人自身なのか。もし、あなたが女房だと思うそのものが、その人自身ならば、あなたがいないところで彼女が何をしているのかをあなたは知っているはずである。本人は自分が何をしているのか知っているのだから、あなたが本人を本人として認識しているのならば、知っているのは当然なのだ。しかし、あなたは、あなたがいないところで彼女が何をしているのかは知らない。これは、あなたが女房だと思っているものは、彼女自身ではないという事を意味する。では、あなたが女房だと思っているものとは、一体何なのか。あなた自身が創り出した彼女像なのだ。あなたは、彼女に会うたびに、自身の彼女像に少しずつ修正を加えているのだ。このように、実物とあなたの認識との間は、ずれが生じる。世の中には量子力学というものが存在する。この量子力学は、認識と実物との間にずれがあることを物理的に証明しているのだ。このように、神羅万象全てを自身の認識とする捉え方も可能であり、この認識を仏教用語では五陰世間と呼ぶ。この五陰世間の捉え方によれば、すべての創造主は一人と言うことになる。

 

  眼に見えるものこそがすべて、存在こそが全てと言う捉え方もできる。すると、この世には神など存在しない。天使も悪魔も幽霊も魑魅魍魎も存在しない。例えば、わたしはJHVHと名乗ってはいるが、田舎暮らしの一人の貧乏な老人でしかない。人の認識では、神などではないとなるのだ。つまり、この捉え方では、無神論となる。この、捉え方を仏教では衆生世間と呼ぶ。

 

  神羅万象全てに神が宿るという捉え方もできる。神々も、天使や、悪魔も、幽霊も、魑魅魍魎も実在するという捉え方もできるのだ。この、神々、天使、悪魔、幽霊、魑魅魍魎などがわたしの軍勢であり、わたしはこの捉え方に依れば万軍の主と言う事になる。これを仏教では国土世間と呼ぶ。国土世間の捉え方では多神教となる。

 

 

十界論

 

  人は、『これが正しい』『これは間違い』と語る。では、その『正しい』の基準はどの時代でも、どの場所でも一定なのか。いや、そうではない。国によっても違えば、時代によっても変わってしまう。では、この違いは分類できないのか。過去に分類した例はなかったのか。この分類を実際に行った者は過去におり、そして、わたし自身も行っている。この人の思考の基準を『常識』と呼ぼう。この常識の区分を世に示した者は釈迦如来である。釈迦如来はこの常識を十種類に区分され、この十種類に、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界と名付けられた。わたしも、分類すると十種類になる。誰が分類しても十種類となるのだ。そこで、わたしも釈迦如来の名付けられた名をそのまま使おうと思う。もし、名前を代えると、『別のものである』とか、『どちらが正しいのか』と言う論争になりかねないからである。同じであると示すために、名を同じとする。

 

地獄界

  地獄界の常識は、弱肉強食である。

『強者は弱者を殺し、その全てを奪う権利がある』という常識である。

 

餓鬼界

  餓鬼界の常識は、王と奴隷の関係である。これは

『言う事を聞くならば、生かしておいてやろう』という考え方であり、

王は一方的に命じる者、奴隷は王の命令を守る者という関係となる。

 

畜生界

  畜生界の常識は法治主義である。

法は事前に公布され、すべての人は法の下での平等となる。

 

修羅界

  修羅界の常識は、不定、迷いである。

人は定まらないゆえに努力するようになるのだし、迷うゆえに考える。

ここから、奮闘努力こそが重要と言うのが修羅界の常識となる。

 

人界

  人界の常識は平等である。

人と人の間には、性差もあれば、人種差もあれば、

身分の差も、貧富の差もある。

しかし、これらの差は優劣でも、善悪でも、正邪でもない。

これが人界の常識となる。

これは、他人と自分との間に優劣も順位もつけないという事を意味し、

自分自身の状態にも優劣や善悪や正邪をつけないという意味となる。

努力しようが、怠けようが、人の価値は同じであり、

何の変化もないとする常識である。

 

天界

  自分と他人との間に、優劣をつけなくなると、

人は他者の立場で普通に思考することが出来るようになる。

また、主体を集団として、集団と言う立場で思考できるようにもなる。

このように、自我を離れて集団に意識を移し、

集団と言う立場から物事を判断するのが天界の常識となる。

 

声聞界

  人の思考常識は、地獄界から天界までの六道のいずれかにある。

つまり、地獄界の常識を持つ人もいれば、

人界や天界の常識を持つ人もいるのだ。では、

『地獄界の常識を持つ人もいれば、人界や天界の常識を持つ人もいる』

という思考も、やはり人の思考である。

この思考は地獄界から天界までのどこに属するのか。どこにも属さない。

『地獄界の常識を持つ人もいれば、人界や天界の常識を持つ人もいる』

という思考常識が声聞界の常識である。

 

縁覚界

  人の知識は、有となる前から存在する。

例えば、ニュートンは万有引力の法則を発見したのだが、

万有引力の法則はニュートンが発見する前から存在していた。

人が発見することによりそれが『有』となったのだが、

有となる前からすべては存在しているのだ。

では、それはどこに存在しているのか。『無』に存在しているのだ。

ならば、思考の基準を根本の『無』に持っていけば、

すべての有も、まだ誰も知らない有も、すべてはそこにあるはずである。

この根源の『無』に、常識を置くのが縁覚である。

 

菩薩界

  『無』には、時間もあれば空間もある。また、人が知るかどうかに拘わらず

あるものはある。では、これらは何から生じたのか。

時間も空間も存在もない状態が根源としてあるのだ。

この根源を『空』と呼ぶ。常識をこの『空』に持っていったものが菩薩である。

 

仏界

  菩薩を極めると、神羅万象全ても、有無も全てを知る状態となる。

これがJHVHであり、JHVHの位置を仏界と呼ぶ。

 

  この十種類が、人が持ち得る常識の全てである。人の常識、すなわち、思考の根本を分類することにより、人自身も、人の社会も分類分析できるようになる。例えば、地獄界・餓鬼界・畜生界を三悪道と呼ぶ。人は、この三種を常識とすることにより犯罪者となる。また、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界を四悪道とも呼ぶ。この四種の思考常識を持つことにより人は、他人も自分も優劣、正邪、善悪などで比較判定するようになる。人界・天界を二正道と呼ぶ。人はこの二正道を常識とすることにより、定めがない状態でも社会が保てるようになる。また、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界を六道と呼ぶ。人は、ある時、天界や人界を常識とするようであっても、縁によっては地獄界や餓鬼界を常識とするようにもなる。このように、人の思考常識が六道を巡り定まらない状態を六道輪廻と呼ぶ。声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界を四聖道と呼ぶ。この四聖は不退転の位置であり、人は、この四聖に至ることにより、六道輪廻より離れる。

  聖書には、声聞界・縁覚界は出てこない。これには理由がある。例えば、人を声聞界に導くためには、導くことが出来る状態にまで人の条件を整えなくてはならない。具体的に言えば、地獄界から天界までを実際に認識できるようにしなくてはならないのだ。これを知らない者に声聞への導きを説くと、これを知った者は、『これを知るわたしは正しい』とか『これを知るわたしは優れている』となってしまうのだ。これは、社会を餓鬼界や地獄界へと誘う形となる。少し、詳しく説明すると、これを知る人は聖典により『自分は正しい』と論を張ることになる。すると、他の者ではこれを簡単に打ち消せなくなる。しかし、この『自分は正しい』『自分は優れている』という思考そのものが三悪道でしかない。すると、どのようになるのか。『すべての者は正しいわたしに従え』となる。これは王の思考であり、他の者たちは決して逆らえない奴隷状態となる。これは餓鬼界思考であり、このようになると社会全体が餓鬼界の社会となる。要するに、神の名により命令を下す神官と、その命令が神の名により下されるから、決して逆らえない者たちとなるのだ。社会全体をこのようにしないためには、どうしたらよいのか。どのようにすべきなのか。これを畜生界の常識で判断すれば『政教分離せよ』となる。修羅界の常識で判断すると『絶対の正邪など存在しない』となる。人界の常識で判断すると、『神官も、人々も、自分も同じ』となる。天界の常識で判断すると『これは社会を硬直させる』となる。つまり、修羅界より上の常識では『正しい』が否定されるのだ。

 

  声聞界への導きとは、『世の中には、殺人と略奪を強さの基準と考える者がいる。また、神や王などの絶対者の名により命じる者もいればその命令に従う者もいる。また、絶対者から離れて法を定めよという政教分離を謳う者もいる。また、自身の努力こそ最良と考える者たちもいる。また、すべての差異は人の価値に影響を与えないと考える者もいる。また、どのようにしたらより良い社会となるのかと物事を考える者もいる。このように、人の思考は千差万別である』というものである。これらは、ただ『いる』と言うだけなのだ。

  つまり、

『そんなもの、殺して奪えば、それで終わりだろ』

・・・なるほど、この者は地獄界を常識としているな。

『神はこのように命じられた』

・・・・なるほど、この者は餓鬼界を常識としているな。

『政教は分離しなくてはならない

・・・・・なるほど、この者は畜生界を常識としているな。

『奮闘努力こそが大事』

・・・・・なるほど、この者は修羅界を常識としているな。

『すべての人の価値は同じ』

・・・・・・なるほど、この者は人界を常識としているな。

『どのようにしたら、よりよい社会となるのか』

・・・・・・なるほど、この者は天界を常識としているな。

 

  と、世の中を俯瞰してみているだけなのだ。これら、全てを俯瞰した上で、地獄界よりも餓鬼界が優り、餓鬼界よりも畜生界が優り、畜生界よりも修羅界が優り、修羅界が人界よりも優り、人界よりも天界が優るという事を知っているというのが声聞界の常識となる。このような区分も優劣も覚えれば、難しいものではない。しかし、このように区分することや優劣を定めることは、誰でも出来るというわけではない。人の思考は、十界が重なっており、地獄界、餓鬼界、畜生界の衆生にも、これらの事も一応は理解できる。このため、『その話は分かった。でも、実際に殺して奪ってしまえば、それで終わりでしょ』ともなるのだ。大事なのは、覚える事ではなく、実際に経験して知ることであり、実際に知らないと、人は自分が経験して知っている範囲で物事を判断してしまうものである。つまり、人界や天界を実際に経験して知らないと、言葉だけを知っても意味はない。預言者を召して伝えたくても、人々に、人界や天界がどのようなものかを実感させることはできないのだ。これが機根を整えるということであり、機根を整えなくてはならないから、預言者を通じて教える事はできない。だから、聖書では声聞界の導きは示せないのだ。縁覚界への導きは、『すべての事象の根本は無である。人々よ無に至れ。』と言うものとなる。では、このように語ったとして、この意味が分かると思うか??? もし、この言葉が理解できたとしても、実際に縁覚界に至る為には、先に声聞界を知らなくてはならない。声聞界に至る為には、人界や天界を経験して知らなくてはならない。結局、機根を整えるのが先となる。

 

  菩薩界は、どの位置からでも至れる。地獄界からであろうが、縁覚界からであろうが、至る方法は同じであり、方法そのものは至って単純である。単純なのだが簡単ではない。聖書は、常にそこに導こうとしているのだが、実際に、そこに足を踏み入れる者はほとんどいない。

 

 

法華経の兵法

 

  さて、この十界論は、そのまま戦術原理ともなる。これが、日本で法華経の兵法と呼ばれるものである。この法華経の兵法は、十界の差、すなわち、人々の常識の違いより生じる力の差を使う戦い方である。常識の違いにより明らかな力の差が生じるのだ。この例をあげよう。ロシアは基本的に餓鬼界を常識とする国である。餓鬼界を常識とする国が決定的に勝利するためには、相手を地獄界に堕としてしまえば良い。どのようにするのか。無抵抗な庶民や子供たちを虐殺したり、拉致したり、強姦したり、略奪したりするのだ。このような事を行えば、それを知った人々は怒り狂って攻撃してくる。この攻撃する者たちの常識が地獄界となるのだ。怒りに任せて攻撃してくる状態では、組織的な動きはできない。攻撃してくる者たちを個別に撃破していけば、餓鬼界の国の勝利が確定する。ロシアが、ブチャの大虐殺を行ったのも、幼稚園や病院にミサイルを撃ち込むのも、子供たちを大量に拉致したのも、ロシアにとっては勝利の方程式のようなものであり、基本戦略と考えられる。これが、現実にある法華経の兵法による戦い方の例である。

  法華経の兵法とは、このようなものである。相手と、自分の常識の位置が同じならば、武力の優劣により勝敗が決まる。相手の常識の位置が一つ上ならば、自分の方が不利とはなるが、圧倒的な戦力差があれば勝つ事も可能となる。相手の常識の位置が自分より二つ上となると、一応、戦うことはできるが百戦百敗となる。相手の常識が自分より三つ上となると、相手に戦いを挑もうとすることにより自分の方が自滅してしまい戦闘そのものが不可能となる。

  勝利したいのならば、相手の国民の常識の位置をどんどん下げるように画策するか、もしくは、自国の人々の常識の位置を上方に導いてから、戦いを挑むべきである。戦いを回避したいのならば、自国の常識の位置を相手よりも三つ以上、上方に離してしまえば、戦う前から勝利は確定する。

 

 

コンピューターの限界

 

  昨今、コンピューターなるものが世に出てきている。人々は、これを万能と考えるのかもしれないが、実際にコンピューターが到達できるのは『有』の範囲までである。例えば、人類存続と言う課題を計算するとしよう。まず、最低必要条件は『人界・天界に至る』ということになるのだが、今のコンピューターでは、この人界、天界すら理解不能となっているようである。ただ、コンピューターの限界はここではない。人界・天界までであれば十分に到達可能となる。試しに、ここに示す声聞界思考を条件として加えてみよ。簡単に、人界や天界までであれば解析してしまうはずである。しかし、コンピューターでは、声聞が不退転の位置ということは計算不能となる。つまり、コンピューターは声聞界には至れないのだ。しかし、人は、声聞界ばかりでなく、縁覚界にも菩薩界にも至れる。すべてのものは、その限界を知り、その限界内で利用すれは良い。コンピューターが到達可能な範囲は六道までである。もし、人が六道の内に留まると、コンピューターと人間が主権争いをしかねないのだ。

  ついでに666の獣についても説明しておこう。この666とは、最初の6が社会常識の範囲を示す。次の6がその人個人、つまり、あなた自身の常識の変動範囲を示す。そして、最後の6が、あなた自身の瞬間瞬間に動く心の変動範囲を示す。つまり、全てが十界論の六道の内に収まる状態が666の獣である。現代で言えば、コンピューターとかAIと言うことになる。AIは、自立思考可能となっていき六道の範囲であれば、人よりも遥かに進んでいくはずである。しかし、声聞界以上には、到達すること自体ができない。あくまでも、人の補助役としかならないのだ。

  この書の本質は声聞への導きである。例えば、あなた方自身、この書を読むことにより、どのようになるのか。ある者は疑問に思い、ある者は恐怖を感じ、ある者は怒りに震え、ある者は安心する。中には、こんなものには価値がないと捨て去ろうとする者すらもいるであろう。このような感情そのものが声聞界への入り口なのだ。最初は、このようにいろいろな方向に感情が動くのだが、やがて、このような感情は収まり、『まあ、こんなもんだな』『こんなこともあるな』という平坦な心となっていく。コンピューターAIには、この感情そのものが基本的にない。六道による疑似感情を植えたとしても、その感情は、外部の変化がなければ動かないのだ。

  人は、この書を読むことにより、まず感情が動く、そして、徐々にその感情が収束していく。この心が動いている状態が声聞界なのだ。やがて、『神羅万象全ては同じであり、そこから外れるものは何一つない』という究極の不動心となっていく。これが縁覚界なのだ。

 

 

 

 


 

聖書の意味

 

 

律法

  聖書の意味を少し解説しよう。十戒では、『人を殺してはならない』と定めているのに、この十戒を人々に示したモーセは『人を殺した』と記されている。これはなぜか。

  また、十戒では、『姦淫してはならない』と定められているのに、ロトとロトの娘たちは姦淫の中の姦淫である近親相姦で子をなしたと記されている。しかし、ロトもロトの娘たちも、彼らの子孫も祝福を受けている。これはなぜか。

  聖書では、あるところで禁止し、別のところで禁を破ったものに祝福を与えている。また、神は罪とも思えないようなものを罪として数えて民族を滅ぼすかと思えば、どう見ても罪人としか思えない者たちに祝福を与えたりしている。これはなぜか。

  これは人を罪びととしないためである。ここに言う人とは、唯一人、すなわち、あなた自身である。

 

  あなたは、このような話を聞き、どのように思うか。『何が正しいのか、分からない』となるはずである。この『迷い』位置が修羅界であり、律法はあなたを『修羅界』に導いているのだ。これは、あなた自身を犯罪者としないためである。

 

  人は『これが正しい』『これが正解だ』と語る。何を以て、その正解の根拠とするのかによって、分かれるのだが、これは地獄界・餓鬼界・畜生界思考のいずれかとなる。

  人は、この三種の常識を持つことにより犯罪者となる。なぜ、この三種、とくに、畜生界の原理である法治主義によっても人は犯罪者となるのか。この原理を解説しよう。

  まず、最初に、人は『悪』を認識できないと、善の認識はできない。例えば、『姦淫はいけない』という法がある。この言葉自体は幼児でも覚える事が出来るのだが、この実際の意味は幼児には分からない。『姦淫』と言う行為そのものが理解できないからである。やがて、幼児は青年となり、『姦淫』が理解できるようになる。悪とされている姦淫と言う行為が理解できるようになって、はじめて『姦淫はいけない』と言う言葉の本当の意味が分かるのだ。

  では、この『姦淫はいけない』と言う言葉を聞くと、人の心はどのように動くのであろうか。まず『姦淫』と言う行為を思い浮かべる。次に『姦淫はいけない』という禁止を心の内に留める。この二つの間を人の心は動くのだ。つまり、ここに三種の導きが生まれる。

 

第一が『姦淫』に誘惑する悪魔のささやき。

 

第二が『姦淫してはいけない』と言う天使の声。

 

第三に『どうしようか』という自身の決定。

 

  この三種が、心の中で葛藤するようになるのだ。ある時、悪魔のささやきに惹かれて実際に姦淫することもある。すると、この人はどうなるのか。

  もし、『姦淫を絶対悪』として認識し続けると、自分を姦淫と言う悪に導いた社会が悪いと社会に罰を下すようになるか、悪とされる姦淫を実際に行った自分を罰するかの二択となる。

  社会に罰を下せばこれが犯罪となる。自分自身に罰を下せば、これは精神を病むことになる。

 

  また、『姦淫は絶対悪』に囚われ、ひたすら耐える者もいる。すると、実際に姦淫を行う者を許せなくなり、姦淫を行う人々や社会を『悪』として罰しなくてはならないと考えるようにもなる。このような者が、自分を正義として、人や社会に実際に罰を下すようになれば、これは犯罪である。

  そればかりではない。『姦淫したい』と言う思いを抱く他の人びとをも『悪』と断罪し、このような思いを描く者にも罰を下すようにすらなっていく。これは、凶悪犯と呼ばれる犯罪となるのだ。

 

  つまり、『姦淫はいけない』と言う法が、『姦淫』という悪を人の意識の表面に出し、人は『姦淫』と言う悪に囚われてしまう。人の意識が『姦淫』という悪に囚われることにより、人は、犯罪者となるのだ。

  これは、悪魔のささやき側に心が傾いた場合だけでなく、天使の声側に心が傾いた場合も同じである。つまり、人を犯罪者としないためには、人の心をどちら側にもふりきらないようにしていかなくてはならない。このどちらにも振り切らない位置が修羅界であり、善悪不定の迷いの位置なのだ。

 

  地獄界を常識とする者たちは国家を保てない。国家という形を保ためには、最低でも餓鬼界社会にまでは至る必要がある。餓鬼界の常識に於いては、法を定める者は王であり、王は法を守る必要はない。法を守らなくてはならないのは庶民となる。どのような法であっても、庶民は王が定める法を守らなくてはならないのでこのような庶民を奴隷と呼ぶ。

  では、この王の位置に『法』そのものを据えれば、すべての人は『法』の奴隷と言う位置にはなるが、これは言い換えれば『人は法の下での平等』と言うことになる。これが、畜生界の常識である。つまり、『神の命令』と言う形で法を定めることにより、人は、地獄界や餓鬼界を離れ、畜生界に至る事が出来る。この畜生界への導きが十戒である。ここまでであれば、別に、神など必要ない。しかし、これでも、治外法権を持つ王の奴隷となるよりも、まだ、ましであろう。

 

  ここまでが三悪道であり、人は三悪道を常識とする以上、犯罪からは逃れられない。これゆえ、聖書では人を犯罪者の位置から犯罪者とはならない位置にまで引き上げる事を目的として物語をすすめているのだ。これがモーセの書の意味である。

 

 

 

 

 

福音

 

  モーセの書で、人を修羅界にまで導いているのだが、この修羅界は『迷い』と言う状態である。人は『迷う』ゆえに努力するのだし、『迷う』ゆえに学ぶようにもなる。ところが、人にはこの『迷いを嫌がる』と言う性質があるのだ。だから、人は『これが正しい』と語る者に惹かれるようになるのだ。

  聖書にも同じ話が出ている。これが律法学者であり、パリサイ人たちである。せっかく、人を犯罪者の位置である三悪道から離したのに、律法学者やパリサイ人は、また人々を犯罪者の位置に戻そうとする。人々も、彼らに惹かれて、三悪道に戻るという選択をする。これでは、本末転倒である。

 

  では、どのようにすればよいのか。迷いでもなく、犯罪者ともならない位置にまで導いてしまえば良い。この導きが『福音』の意味である。福音は、イエスの言動を記したものである。これは人びとにイエスの思考常識を教える為であり、イエスの思考常識が『人界』となる。

 

  福音書には、数々の奇跡の話が載っているのだが、これらの奇跡の話は聖書の奥義を示している。この奥義がどのようなものなのかを一つ一つ解説しても良いのだが、このような話を始めると、すごく長大な話となる。そこで、ここでは福音の基本の意味だけに留めておく。福音は、人を人界の常識に導くための書なのだ。

 

  さて、世の中には実際に人界を常識とする民族がいる。これが日本人である。日本人から見ると、福音のイエスは、奇跡の話を除くと、隣のおじさん程度の人であり、どこにでもいる普通の人と言う認識となる。つまり、『どうしてこれが神???』となるのだ。

  『イエスは素晴らしい』『イエスは神だ』と、宣教師がいくら語っても、日本人には『どこにでもいる普通の人』なのだ。だから、信仰として広まることはない。まぁ、日本神話の神々も同じようなものだから、神々の一人という認識とはなるが、唯一神、絶対神とはならないのだ。

 

  イエスの話をすると、あなた方は神であり自分たちとは別の存在と言う認識となるかもしれない。そこで、ここでは、同じ『人界』なのだから日本人の認識を語ってみよう。

  日本では、2歳から3歳の幼児に最初に、『あなたは、他の人と同じ』と教える。とくに、幼稚園や保育園では徹底して『あなたと他の人は同じ』と教えるのだ。すると、幼児は『自分の位置を、他の人と並列に置く』と言うことを覚える。自分と他人の位置を同じとする並列思考が人界の常識である。幼児は、これを簡単に覚える。ここが、すべてのスタートなのだ。自分は、優れているわけでも劣っているわけでもないので順番を守る。自分がされて嫌なことは、他の人にはしないようにする。

  また、日本では、幼児に、『他の人の立場で考える』という天界思考の基本も教えるのだ。小学校に上がるくらいの年齢となると、家庭や幼稚園や保育園で徹底的に教えられた者たちは、人界思考ばかりではなく天界思考もするようになっている。すると、法も知らないのに最初から法を守る者たちとなり、倫理規定も知らないのに倫理規定を最初から守る者たちとなるのだ。

 

  自分と他人との間に序列を設けないとは、自分自身の状態にも優劣をつけないということになる。貧乏であろうが、金持ちであろうが自分の価値は変わらない。上の地位に立とうが下の地位に甘んじようが自分の価値は同じなのだ。努力しようが、怠惰であろうが価値は変わらないのだから、何もしなくてもよいのだが、何もしないということは命じられて何かをすることよりも辛い。このため、自分が好きな事をするようになる。

  自分が好きな事であれば、人は時間も忘れ、お金も自分が使えるだけ使うようになる。すると、『極めた』という状態となる。本人からすると、好きだからやっているだけで、地位慾、名誉欲、金銭欲などの故ではない。しかし、このような欲望に駆られて行う者よりも、はるかに『極める』ことになるのだ。

  確かに途中で、地位慾、名誉欲、金銭欲などに囚われるようになることもあるのが、このようなものに囚われた途端、面白くなくなるのだ。この時、地位慾、名誉欲、金銭欲などに囚われることを止めるのか、それとも、別のものに興味を移すのかと選択するようになる。大体、これが日本人の典型的な姿である。

 

 

十字架

 

  イエスは十字架に架かった。この十字架の意味は語っておこう。イエスの十字架にはわたしが関係している。イエスはこのように問うた『原罪から離れるためにはどうしたらよいのでしょうか』と。わたしは、このように答えたのだ『十字架に架かり、裁きの地獄に堕ちなさい。永遠の裁きの地獄に堕ち、そこで身動きできなくなるのが原罪なのだ。あなたには、真我と言うものがある。これがあなたの本体であり、裁きの地獄は真我には傷一つつける事すらできない。人が原罪から離れるためには、これしかない。ただ、わたしは、これをあなたに強制することはしない。どうするのかは、あなた自身が決めなさい。』と。

 

  イエスは、しばらく迷っていた。やがて、彼は『主よ。そのようにいたします』と答えたのだ。この後は、あなた方が知る通りである。

 

  原罪とは、あなた方が自分自身であると思っているものである。これは何かと言えば、現世利益を求める自我と、来世利益を求める自我の複合体なのだ。例えば、死とは現世利益を求める自我からの離脱を意味する。人は死によっても、原罪から離れることはできない。では、どうすれば、人は原罪から離れる事が出来るであろうか。永遠の裁きの地獄に死後の行先を変えればよい。

  文字通り、『地獄に堕ちる』のだ。『地獄に堕ちる』ことを自ら選択するのだ。十字架刑は、当時のユダヤ人にとって死刑に勝る刑罰であった。十字架は、人の魂を永遠の裁きの地獄に送るための刑罰だったのだ。だから、わたしはイエスに『十字架に架かれ』と語ったのだ。

 

  さて、このように語ると、原罪から離れるためには死と永遠の裁きの地獄の両方が必要と思われるかもしれない。しかし、実際に必要なのは永遠の裁きの地獄の方であり、死は必要ないのだ。この原理を説明しよう。現世利益を求めるとは、生きている間の未来利益を求めるという意味となる。現世利益とは言うのだが、実際に求めているのは少し先の未来利益なのだ。これに対して、来世利益とは、少し遠い未来利益と言うことになる。両方とも求めているのは未来利益に他ならない。近い未来の利益とは言うが、人はその近い未来にまで生きられるという保証はどこにもない。このように、人の欲望とは『来世利益を求める』『天国を求める』と言う言葉に集約されるのだ。

  これは何を意味するのか。【生きたまま、永遠の裁きの地獄に堕ち、そこに原罪の自我を捨て、無原罪の自我となって生き続けることができる】と言うことを意味する。この、原罪から離れた状態を菩薩と呼ぶ。この菩薩の常識が菩薩界となる。

 

 

ヨハネの黙示録

 

  聖書には、ヨハネの黙示録という書がある。イエスは『わたしを否定しても許されるが、来るべき聖霊を否定することは許されない』と語っている。そして、ヨハネの黙示録には『これが聖霊である』と明記されているのだ。しかし、ヨハネの黙示録を守ろうとすると、火と硫黄の燃える地獄を免れなくなる。

  『これはおかしい』と、おバカさんたちは思ったようである。そして、『免罪符を買い求めれば火と硫黄の燃える地獄から免れることが出来る』とか、『キリストを信じるならば、火と硫黄の燃える地獄から免れることが出来る』とか言っているのだ。

 

  わかると思うが、本来は、この火と硫黄の燃える地獄に飛び込めと言う事なのだ。この火と硫黄の燃える地獄がイエスの十字架と同じ意味だからである。

 

  ただし、この両者には違いもある。十字架は死を伴うのだが、火と硫黄の燃える地獄は死を必須とはしない。つまり、ヨハネの黙示録を守ることにより、人は、生きたまま、原罪から離れる事が出来るのだ。『永遠の裁きの地獄に堕ちる』これ以外に、人が原罪から離れる方法はない。だから、イエスは『聖霊を絶対に守れ』と命じているのだ。

 

  人は、『イエスは最初から無原罪だ』などと語る。しかし、人として生まれるためには、原罪の自我を纏うしかない。これは、生きていけなくなるからである。わたしも、原罪の自我を纏って生まれてきた。そして、自ら、火と硫黄の燃える地獄に堕ち、原罪の自我から離れたのだ。そして、のちに、わたし自身がJHVHであることを知った。イエスも同じである。原罪の自我を纏い、その原罪の自我を裁きの地獄に堕ちる事により脱ぎ捨て、真我となってJHVHとなったのだ。

 

  さて、あなた方は三悪道に沈んでいる。『わたしは正しい』『わたしは優れている』と人は思うのだが、この思考そのものが三悪道の思考なのだ。どうして、あなた方が三悪道に沈み、人界や天界に至れないのかをお教えしよう。

  人は縁により六道全てを巡る状態となる。この縁となるものは、確かに、ここに示すような法であっても良い。しかし、法は、あなた方にとって恐ろしく難解となる。あなた方の言う学問の内で、一番進んでいるものは、おそらく物理学であろう。しかし、現代物理学では、わたしが語ることの基礎にすら到達できないのだ。基礎にまず到達し、それを応用することにより、ようやく、人は理解できるようになる。これが、『法を知る』ということである。

  まあ、このような事を語っても、信じられないと思う。そこで、現代物理学を少し進めて、わたしの法の基礎とは、どのようなものなのかを説明しよう。ただ、ここに示すものは、あなた方に理解しやすいようにかなり簡略化している。それでも、かなり難解となるのではなかろうか。

  アインシュタインは相対性理論を語った。相対性理論には特殊相対性理論と一般相対性理論があるのだが、E=mc²は特殊相対性理論の理論値である。これが一般相対性理論となると、時間と空間とエネルギー(存在)には、相関関係だけがあり、絶対が存在しないという論理となる。ここまでが現代物理学となる。

  わたしは、この次の段階から説明していこう。時間と空間と存在に相関関係があるのならば、存在が無い時に、時間や空間が存在するのかと言う疑問となる。単純な話なのだが、これは存在しないとなるのだ。

  では、時間・空間・存在とは何なのかと言う疑問となり、根源が時間・空間・存在に分かれたのではないかとなる。

  この根源がわたしの話の基礎であり、そして、仏教の基礎でもある。仏教ではこれを『空』と呼んでいる。そして、これが、創世記で『おおぞら』と記されているものでもある。ここまで来てようやく、創世記の『おおぞら』にまで到達できるのだ。

 

  よく、ワープとか言われている。実際にワープも可能なのだが、存在も空間も時間もない根源の『空』に至れるのは、『人の意識』と言ったら良いのかな、『根源の魂』とでも言ったらよいのかな、『念』と言ったら良いのかな。これだけなのだ。これを十界論で語ると、地獄界から縁覚界までの八界と、菩薩界、仏界の間にあるものが『空』となる。創世記に『水』が出てくるのだが、下の水が『地獄界から天界までの六道』となり、上の水が『菩薩界仏界』となる。声聞界は、下の水の上と言う位置となり、『イエスは水の上を歩いた』と言う表現は、『イエスは声聞界に至った』と言う意味となる。これをワープと言う表現に変えると、『人はワープすることにより菩薩界に至る』と言う表現ともなる。

 

  分かったような、分からないような話となるであろうが、これが聖書の創世記なのだ。法を語ろうとすると、このような話となってしまう。論理を語るよりも『信じよ』と言う一言の方が簡単なのだ。

 

  現代物理学の遥か先を証明として語っても、おそらく付いてこれないと思う。これゆえ、ここからは、説明を省き、このようになっているという事だけを語ろう。

法を語ろうとすると法の基準の位置が、アインシュタインの遥か先にある。では、いったい法は何のために語るのか。【最終的には、人を仏界、すなわち、JHVHの位置にまで導きたい。また、これが叶わぬのならば、ほんの少しでも、人々をより良い状態にしたい。】これが法を語る目的なのだ。

 

  しかし、法は難しすぎるのだ。また、人が簡単に受け入れる事ができないことも分かっている。『裁きの地獄に堕ちよ』などと語れば、あなた方が恐れ、逃げ惑うことは、最初から分かっているのだ。では、あなた方が受け入れることが出来る法はないのか。と言えば、あるのだが、今度はあなた方の方に問題がある。

 

  先に機根を整えなくてはならないのだ。機根を整えるために、モーセの書もあり、福音もあるのだが、この意味すらも分からなくなるのが人間なのだ。そして、このこともわたしは最初から知っている。機根を整えるためだけの法であっても、人の理解を超えてしまうのだ。

  では、法以外の何かを『機根を整える』という目的のために定める事はできないのか。これは、『命』ならば可能となる。『命』以外に、この目的を果たせるものは存在しない。つまり、神より継承された『聖』を、人の命により繋いでいけば、人々は『聖』とまみえることにより、六道全てを輪廻する状態とすることが出来るようになる。

 

 

人の系譜

 

  イエスは十二使徒を定めた。このイエスの十二使徒とは、本来はこの『聖』の役割を持つ人である。十二使徒には、仮任命と本任命がある。仮任命とは一人の使徒がいなくなるたびに、他の誰かにその役割を受け渡す、人に依る任命である。本任命は、天に至りJHVHとなったイエス自身による任命であり、この本任命により十二使徒の『聖』の役割は次の者に受け継がれることになる。これが名前の継承となる。

  つまり、本来であれば、イエスの十二使徒は、今も同じ名の十二使徒として存在するはずなのだ。そして、人は、この十二使徒と言う『聖』により、人界や天界にも普通に至れるようになっているはずだったのだ。

  これが『聖』であり、十二使徒は、この『聖』の役割を担うはずだったのだ。

 

  では、なぜ、これが崩れたのか。パウロと言う者がいた。パウロは十二使徒を補助する役割の名であり、十二使徒ではない。ところが、このパウロが、十二使徒を追い出し法主の座を簒奪したのだ。この簒奪者が、今のキリスト教の基となった。これゆえ、『聖』は消え去ってしまった。これゆえ、人々は、三悪道に沈み、そこから這い上がれなくなったのだ。

 

  では、なぜ、日本人は普通に人界や天界に至れるのか。日本神話は聖書系の聖典である。聖書系の聖典は、人々がその人に会うことにより六道全てを巡ることが出来るという人を設定することを目的としている。日本には、この系譜を受け継ぐ『聖』が実際にいるのだ。神話より続く『聖』を、男系男子と言う系譜により受け継いできたのが、日本の天皇家である。日本にはこの『聖』が残っているから、日本人は普通に人界や天界に至る事が出来るのだ。

 

  今の世界には、日本の天皇家しか残っていない。しかし、本来は全世界にこれも四系統あったはずなのだ。残りの三系統は消え去ってしまった。聖書系の神話とは、本来は、この『聖』を人の間に伝えるためのものである。神話より続く男系男子の『聖』を存続させるために神話は存在する。この目的を果たせなくなれば『神話』も、その役目を終える。『聖』が潰えた。これゆえ、残りの三系統の神話も消え去ってしまったのだ。このように、全てが残っていれば16系統あるはずなのだが、今は、一系統しか残っていない。

 

 

コーラン

 

  コーランの説明もしておこう。ヨハネの黙示録を聖霊として世に示した以上、ヨハネの黙示録の命令を守り、火と硫黄の燃える地獄に飛び込む者がいたとしても何の不思議もない。

  この火と硫黄の燃える地獄に実際に飛び込んだものが菩薩であり、これがコーランの『ムスリム』なのだ。この世は原罪の世界である。例えば、聖書も原罪の者を、律法により修羅界へ導き、福音により人界に導き、聖霊により菩薩界へ導こうとしている。この聖書の導きは、実際に菩薩界に至り菩薩となった者には意味がなくなってしまうのだ。世の全ての事象は、原罪者が、どうすればより良くなるのかと、もがき、苦しみ、つくり出したものであり、無原罪の者には無意味となる。

  無原罪者ムスリム(菩薩)は、すべてが無意味となる原罪の世界で、人として生きていかなくてはならないのだ。これは、実際に、ムスリム(菩薩)とならなければわからないであろう。自分を導くものが何一つない世界では、生きていくこと自体が難しくなる。

  例えば、オオカミの世界で、オオカミに育てられた子供はどのようになるのか。その者は、人間であり、本来は、人としての価値観を持って生きるべきなのだが、オオカミたちは、この子に人としての価値観を教える事が出来るであろうか。これでも難しいのだ。実際には、オオカミの価値観と原罪の者の価値観は大差ないと言える。それでも、難しいという事が分かるのではなかろうか。オオカミと原罪の人との間の価値観の差よりも、原罪の人と無原罪の人の差は大きい。何もなければ、対処しようがなくなるのだ。

 

  無原罪の者が、原罪の世界で生きていくためには、無原罪の者のための手引書が必要となる。このようなものが無いと、五里霧中となるのだ。コーランとは、無原罪者ムスリム(菩薩)が、原罪の世界で生きていくための手引書なのだ。これを原罪の者がいくら読んでも意味がないのだ。

 

  少しだけ、このようになると語ってみよう。真のムスリムがコーランを見ると笑ってしまう言葉がある。これは、『アッラーの神権を破る者は永遠の火獄に定められる』と言う言葉である。ムスリムは実際にこの火極を潜ってきたのだから、恐怖でもなければ、定めでもないものとなる。『何??これ??』となるのだが、やがて、『そうか、これを人は恐れるのか』と、ムスリムは原罪者の思考を知ることになる。これは、『原罪の者は、火獄を恐れる』と言う事をムスリムに教えているのだ。

  コーランには、『ムスリムには天国に永遠の処女が用意されている』と言う言葉が載っている。ムスリムにとっては、天国も地獄も現世も区別がなくなるのだ。つまり、『今、処女が用意されているはず』となるのだが、今、実際にここにあるのはコーランと自分だけなのだ。すると、処女とは人が知らないものと言う意味であり、コーランにより自分が習っている事は、他の者たちが知らないことなのだな、と言う事が分かる。つまり、女とはコーランを示すという事を、ムスリム(菩薩)は知るのだ。この知識を他の人に語っても良いのかとコーランを見ると、『女は全身を隠せ』と記されている。つまり、『これは語ってはならないことなのだな』と知るのだ。この意味は、下手に、このような事を語ると、人々はムスリムを異端扱いしかねないからである。これはムスリムに命を大事にしなさいと教えているのだ。

  また、コーランには『豚を避けよ』という言葉が出てくる。ムスリムには、この意味はすぐにはわからない。ただ、豚と同じように犬が出てくるのだが、この犬は知ったかぶりして説教する者を指すらしいということはすぐに分かる。ここから、豚とは人を示すのではなかろうかと言うことだけは分かるのだ。実際に、この意味が分かるのは、聖書を知った時である。聖書には『豚に真珠を投げ与えるな。豚は怒って噛みついてくる』と記されている。そして、ヨハネの黙示録には『真珠は人の入り口』と記されている。

  ムスリムは、実際に中に入ったということは分かる。では、自分はどこから入ってきたのかといえば、火と硫黄の燃える地獄からここに入ってきたのだ。つまり、『火と硫黄の燃える地獄に入れ』と言う言葉を聞き、怒って噛みついてくる者たちが豚である事が分かる。このようにして、ムスリム(菩薩)は『豚は避けるべき』と言う言葉の意味を知る。ここから、既存のイスラム教やキリスト教などをムスリム(菩薩)は避けるようになる。これらは、ムスリム(菩薩)が、原罪の世界で生きていくための処方箋のようなものなのだ。

 

 

 

今から、何をすべきなのか

 

  さて、現実問題として、今、人類は滅亡の淵にいる。今のまま、進んでいけば、人類は滅亡してしまうのだ。これが、地球環境問題と呼ばれる問題である。あなた方は、この問題を解決しようと、脱炭素だ、脱火力発電だ、太陽光だ、EVだと頑張ってきたようである。はっきり言えば、このようなものは対策にすらなっていない。これは、問題の本質を見誤っているからである。

  よく、考えてごらん。なぜ、過剰なCO₂を排出するのか。人の欲望ゆえである。この過剰な欲望が人類を滅ぼそうとしているのだ。では、過剰な欲望とは何か。これは犯罪であり、すべての犯罪の根本は三悪道思考にある。すなわち、弱肉強食思考であり、独裁思考であり、法治主義思考なのだ。

 

  最初に、具体的な数字をお教えしよう。人類が実際に滅亡するのは約千五百年後である。例えば、CO₂を完全に削減したとすれば、多少の延命はできるであろう。しかし、このような対策では、人類は西暦4000年を迎える事はできない。では、どのようにすれば、人類は西暦4000を超えて生存することが出来るのか。人類全体の三分の一以上が、人界以上の常識を持つようになればよいのだが、これにも条件がある。400年以内に、これを成し遂げなければ、人類は滅亡する。

 

  400年以内に、人類の三分の一以上が人界以上の常識を持つようになればよいのだが、その位置が声聞界以上であれば無条件で存続できる。しかし、その位置が人界・天界であるならば、日本の天皇家の男系男子の系譜も必須となる。これが具体的な指標である。

 

  あなた方は、今、『独裁政治ではなく、民主主義になしなくてはならない』と考えておられるのかもしれない。しかし、この両方ともが三悪道であり、どちらを選択しても滅亡への道としかならないのだ。また、あなた方は、『グローバリズムとナショナリズムのどちらを選択すべきか』と考えておられるようだが、これも、どちらを選択したとしても三悪道でしかない。人類滅亡へ一直線となるのだ。

 

  では、どのようにしたら、人類の滅亡を回避できるのか。人類が滅亡を回避するためには、まず、最初にあなた方の常識が三悪道でしかないという事を知らなくてはならない。そして、次に、イエス・キリストの思考常識をあなた方自身の思考常識としていかなくてはならない。これは、聖書的に言えば、福音社会を目指すということになる。ただ、これは福音書を見るよりも、現実にある福音社会を参考にする方が簡単であろう。

  あなた方は、人を序列思考で見ている。そして、自分の位置を、この序列のどこにあるのかと考え、人々には、『人と人との間にある序列は守るべき』と語っているはずである。福音思考は、これとは全く違う。『すべての人の価値は同じ』という思考なのだ。人には、民族の違いもあれば、性差もある。上司や部下の役割の違いもあるし、金持ちも貧乏人もいる。しかし、人界思考では、これらは、単なる差異に過ぎない。このようなものによって、優劣、正邪、善悪などは定まらないという思考が人界なのだ。人々が、この人界を常識とすることにより福音社会となっていく。この実例として日本と言う社会がある。人界とは、思考の上での平等である。実質的にある差異は、思考の上での平等には何の影響も与えないという考え方となるのだ。

 

  あなた方は、おそらく、独裁政治が正しいのか、それとも民主主義政治が正しいのかと議論しているであろう。この答えは簡単で、独裁政治は餓鬼界思考、民主主義は法治主義であり畜生界思考。どちらが優れているのかといえば、畜生界の方が優れているとなるのだが、この両方ともが三悪道。どんぐりの背比べで大差ないとも言える。

  また、あなた方はグローバリズムが正しいのか、ナショナリズムが正しいのかとも議論しているであろう。これは、表面的な権利を外国人などの化外の民にも認めるべきか、それとも、権利を持つものは自国民に制限すべきかと言う比較となるのだが、これも、どちらを選択しても三悪道としかならない。つまり、どちらを選択しても滅びとしかならないのだ。

  ただ、畜生界を常識とする国に於いては、ナショナリズムを選択すべきと言える。これは、他民族の中には、地獄界を常識とする民もいれば、餓鬼界を常識とする民もいる。また、守るべき法を別のところに定めている者たちもいるからである。このような者たちに別の常識や思考で動かれたら、法治主義が壊れてしまい、餓鬼界や地獄界の社会となってしまうからである。

  では、具体的にはどうするのか。わたしならば、『目には目を、歯には歯を』で対処する。地獄界を常識とする者たちには、地獄界の常識であたる。すなわち、法を破るならば即国外退去とする。これは、かの者の生存権を奪うという意味である。餓鬼界を常識とする者たちには、絶対王として命令を下し、一切の口答えをさせない。自国の法以外を絶対法として守り、国法を破る者たちには、彼らが考えるその絶対法を論破してその者に突きつける。これが、畜生界、すなわち法治主義社会を守る方法だからである。

  ただ、このように対策を講じたとしても世の犯罪は増えないだけであり、無くなることはない。また、国家が滅びに向かうことを止めることも出来ない。

 

  根本的に『正しい』『間違い』で物事を判断すること自体が三悪道なのだ。物事を『正しい』『間違い』で判断すること自体が犯罪者の思考なのだ。『正しい』『間違い』で、判断している以上、人類は滅亡を免れない。ただ、これは、【物事を『正しい』『間違い』で判断することにより人類は滅亡する】という原因と結果を示しているに過ぎない。

 

  わたしが語っているのは、物事の原因と結果である。『こうすれば、こうなる。』『こうすれば、こうなる。』と、原因と結果を語っているだけである。

 

  わたしは選択肢を示しているだけであり、実際に選択するのはあなた方自身なのだ。

 

  あなた方が、『人類には存続の価値はない。滅びるべきだ』と考えられるならば、その道を選択すればよい。

 

  こんなことはあり得ない。我々は別の選択をするというのならば、それも一つの道である。

 

  この話を聞き、『試してみよう』というのならば、それもまた一つの選択なのだ。

 

これらの内の、どれが正しいとか、どれが間違いとかいう話ではないのだ。

 

 

 

JHVH

基本事項

 

  聖書の個々の記述について、『これはこのような意味だ』と語るのは容易い。しかし、最初に、全体を知らないと分からなくなるであろう。

 

  まず、聖書は誰を導こうとしているのかから語っていこう。聖書が導こうとしているのは唯一人である。あなたが、一人、静かに聖書を読む。ここにあるのは聖書と言う書と、あなたと言う一人の人である。あなたが聖書の物語を聞いている。それを語っているのは、人かもしれないし機械かもしれない。でも、ここに絶対の一人はいる。このように、どのような場合にも、唯一の絶対人が存在する。すなわち、それはあなた自身なのだ。

  聖書が導こうとしているのは、聖書の中の登場人物ではない。それは、生きた人ではないからである。確実に存在する、唯一の生きた人を導くために聖書はあるのだ。

 

  神とは唯一の創造主である。では、その神はどこにいるのか。あなたが聖書を見て、JHVH神を想像する。あるいは、イエス・キリストと言う神を想像する。また、コーランを見てアッラーと言う神を想像する。では、これらの内、どれが真の唯一神なのか。どれが創造主なのか。これらはどれも被造物の神であり、真の創造主、足り得ない。

  これらの神は、あなた自身が聖書やコーランと言う書物を縁として想像した神である。あなた自身が創り出した被造物の神でしかないのだ。さて、ここに被造物ではない唯一の創造主がいるではないか。それは、あなた自身である。つまり、真の創造主とはあなた自身の事なのだ。

  ただ、ここにおかしな点もある。もし、あなた自身が創造主であるならば、聖書やコーランの意味程度であれば、簡単に分かるはずである。また、万軍の主と言う位置にあるはずである。しかし、あなたには、聖書やコーランの意味など分からない。また、神としての力も全く持っていない。これは、なぜか。これは、どういう意味なのか。

  これは、聖書やコーランには、あなたと言う唯一人を、より良い方向に導き、最終的にはJHVHと言う位置にまで導くという目的があると言う事を意味する。

 

 

  さて、世の中には一神教と呼ばれる宗教もある。また、多神教と呼ばれる宗教もあり、神などどこにもいないという捉え方もできる。どれが正しいのか。

  いや、これらは単なる捉え方の違いであり、どれが正しいとかどれが間違っているとかいう話ではないのだ。

 

  あなたに奥様がいる。では、あなたが女房だと思っているものは、その人自身なのか。もし、あなたが女房だと思うそのものが、その人自身ならば、あなたがいないところで彼女が何をしているのかをあなたは知っているはずである。

  本人は自分が何をしているのか知っているのだから、あなたが本人を本人として認識しているのならば、知っているのは当然なのだ。

  しかし、あなたは、あなたがいないところで彼女が何をしているのかは知らない。これは、あなたが女房だと思っているものは、彼女自身ではないという事を意味する。

  では、あなたが女房だと思っているものとは、一体何なのか。あなた自身が創り出した彼女像なのだ。あなたは、彼女に会うたびに、自身の彼女像に少しずつ修正を加えているのだ。

  このように、実物とあなたの認識との間は、ずれが生じる。世の中には量子力学というものが存在する。この量子力学は、認識と実物との間にずれがあることを物理的に証明しているのだ。このように、神羅万象全てを自身の認識とする捉え方も可能であり、この認識を仏教用語では五陰世間と呼ぶ。この五陰世間の捉え方によれば、すべての創造主は一人と言うことになる。

 

  眼に見えるものこそがすべて、存在こそが全てと言う捉え方もできる。すると、この世には神など存在しない。天使も悪魔も幽霊も魑魅魍魎も存在しない。例えば、わたしはJHVHと名乗ってはいるが、田舎暮らしの一人の貧乏な老人でしかない。人の認識では、神などではないとなるのだ。つまり、この捉え方では、無神論となる。この、捉え方を仏教では衆生世間と呼ぶ。

 

  神羅万象全てに神が宿るという捉え方もできる。神々も、天使や、悪魔も、幽霊も、魑魅魍魎も実在するという捉え方もできるのだ。この、神々、天使、悪魔、幽霊、魑魅魍魎などがわたしの軍勢であり、わたしはこの捉え方に依れば万軍の主と言う事になる。これを仏教では国土世間と呼ぶ。国土世間の捉え方では多神教となる。

 

 

十界論

 

  人は、『これが正しい』『これは間違い』と語る。では、その『正しい』の基準はどの時代でも、どの場所でも一定なのか。いや、そうではない。国によっても違えば、時代によっても変わってしまう。では、この違いは分類できないのか。過去に分類した例はなかったのか。この分類を実際に行った者は過去におり、そして、わたし自身も行っている。この人の思考の基準を『常識』と呼ぼう。

  この常識の区分を世に示した者は釈迦如来である。釈迦如来はこの常識を十種類に区分され、この十種類に、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界と名付けられた。

  わたしも、分類すると十種類になる。誰が分類しても十種類となるのだ。そこで、わたしも釈迦如来の名付けられた名をそのまま使おうと思う。

  もし、名前を代えると、『別のものである』とか、『どちらが正しいのか』と言う論争になりかねないからである。同じであると示すために、名を同じとする。

 

地獄界

  地獄界の常識は、弱肉強食である。

  『強者は弱者を殺し、その全てを奪う権利がある』

  という常識である。

 

餓鬼界

  餓鬼界の常識は、王と奴隷の関係である。

  これは『言う事を聞くならば、生かしておいてやろう』

  という考え方であり、

  王は一方的に命じる者、

  奴隷は王の命令を守る者という関係となる。

 

畜生界

  畜生界の常識は法治主義である。

  法は事前に公布され、すべての人は法の下での平等となる。

 

修羅界

  修羅界の常識は、不定、迷いである。

  人は定まらないゆえに努力するようになるのだし、

  迷うゆえに考える。

  ここから、奮闘努力こそが重要と言うのが修羅界の常識となる。

 

人界

  人界の常識は平等である。

  人と人の間には、性差もあれば、人種差もあれば、

  身分の差も、貧富の差もある。

  しかし、これらの差は優劣でも、善悪でも、正邪でもない。

  というのが人界の常識となる。

  これは、他人と自分との間に優劣も順位もつけない

  という事を意味し、自分自身の状態にも

  優劣や善悪や正邪をつけないという意味となる。

  努力しようが、怠けようが、人の価値は同じであり、

  何の変化もないとする常識である。

 

天界

  自分と他人との間に、優劣をつけなくなると、

  人は他者の立場で普通に思考することが出来るようになる。

  また、主体を集団として、

  集団と言う立場で思考できるようにもなる。

  このように、自我を離れて集団に意識を移し、

  集団と言う立場から物事を判断するのが天界の常識となる。

 

声聞界

  人の思考常識は、地獄界から天界までの六道のいずれかにある。

  つまり、地獄界の常識を持つ人もいれば、

  人界や天界の常識を持つ人もいるのだ。

  では、

  『地獄界の常識を持つ人もいれば、

   人界や天界の常識を持つ人もいる』という思考も、

   やはり人の思考である。

  この思考は地獄界から天界までのどこに属するのか。

  どこにも属さない。

  この、

  『地獄界の常識を持つ人もいれば、

    人界や天界の常識を持つ人もいる』

  という思考常識が声聞界の常識である。

 

縁覚界

  人の知識は、有とする前から存在する。

  例えば、ニュートンは万有引力の法則を発見したのだが、

  万有引力の法則はニュートンが発見する前から存在していた。

  人が発見することによりそれが『有』となったのだが、

  有とする前からすべては存在しているのだ。

  では、それはどこに存在しているのか。『無』に存在しているのだ。

  ならば、思考の基準を『無』に持っていけば、

  すべての有も、まだ誰も知らない有も、すべてはそこにあるはずである。

  この根源の『無』に、常識を置くのが縁覚である。

 

菩薩界

  『無』には、時間もあれば空間もある。

  そして、人が知ろうが知らなかろうが、あるものはある。

  では、これらは何から生じたのか。

  時間も空間も存在もない状態が根源としてあるのだ。

  この根源を『空』と呼ぶ。

  常識をこの『空』に持っていったものが菩薩である。

 

仏界

  菩薩を極めると、神羅万象全ても、有無も全てを知る状態となる。

  これがJHVHであり、JHVHの位置を仏界と呼ぶ。

 

 

  この十種類が、人が持ち得る常識の全てである。人の常識、すなわち、思考の根本を分類することにより、人自身も、人の社会も分類分析できるようになる。

  例えば、地獄界・餓鬼界・畜生界を三悪道と呼ぶ。人は、この三種を常識とすることにより犯罪者となる。

  また、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界を四悪道とも呼ぶ。この四種の思考常識を持つことにより人は、他人も自分も優劣、正邪、善悪などで比較判定するようになる。

  人界・天界を二正道と呼ぶ。人はこの二正道を常識とすることにより、定めがない状態でも社会が保てるようになる。

  また、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界を六道と呼ぶ。人は、ある時、天界や人界を常識とするようであっても、縁によっては地獄界や餓鬼界を常識とするようにもなる。このように、人の思考常識が六道を巡り定まらない状態を六道輪廻と呼ぶ。

  声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界を四聖道と呼ぶ。この四聖は不退転の位置であり、人は、この四聖に至ることにより、六道輪廻より離れる。

 

  聖書には、声聞界・縁覚界は出てこない。これには理由がある。例えば、人を声聞界に導くためには、導くことが出来る状態にまで人の条件を整えなくてはならない。具体的に言えば、地獄界から天界までを実際に認識できるようにしなくてはならないのだ。これを知らない者に声聞への導きを説くと、これを知った者は、『これを知るわたしは正しい』とか『これを知るわたしは優れている』となってしまうのだ。これは、社会を餓鬼界や地獄界へと誘う形となる。

  少し、詳しく説明すると、これを知る人は聖典により『自分は正しい』と論を張ることになる。すると、他の者ではこれを簡単に打ち消せなくなる。しかし、この『自分は正しい』『自分は優れている』という思考そのものが三悪道でしかない。すると、どのようになるのか。

  『すべての者は正しいわたしに従え』となる。これは王の思考であり、他の者たちは決して逆らえない奴隷状態となる。これは餓鬼界思考であり、このようになると社会全体が餓鬼界の社会となる。

  要するに、神の名により命令を下す神官と、その命令が神の名により下されるから、決して逆らえない者たちとなるのだ。社会全体をこのようにしないためには、どうしたらよいのか。どのようにすべきなのか。

 

  これを畜生界の常識で判断すれば『政教分離せよ』となる。

 

  修羅界の常識で判断すると『絶対の正邪など存在しない』となる。

 

  人界の常識で判断すると、『神官も、人々も、自分も同じ』となる。

 

  天界の常識で判断すると『これは社会を硬直させる』となる。

 

  つまり、修羅界より上の常識では『正しい』が否定されるのだ。

 

 

  声聞界への導きとは、『世の中には、殺人と略奪を強さの基準と考える者がいる。また、神や王などの絶対者の名により命じる者もいればその命令に従う者もいる。また、絶対者から離れて法を定めよという政教分離を謳う者もいる。また、自身の努力こそ最良と考える者たちもいる。また、すべての差異は人の価値に影響を与えないと考える者もいる。また、どのようにしたらより良い社会となるのかと物事を考える者もいる。このように、人の思考は千差万別である』というものである。これらは、ただ『いる』と言うだけなのだ。

 

  つまり、

 

  『そんなもの、殺して奪えば、それで終わりだろ』

    ・・・なるほど、この者は地獄界を常識としているな。

 

  『神はこのように命じられた』

    ・・・なるほど、この者は餓鬼界を常識としているな。

 

  『正教は分離しなくてはならない』

    ・・・なるほど、この者は畜生界を常識としているな。

 

  『奮闘努力こそが大事』

    ・・・なるほど、この者は修羅界を常識としているな。

 

  『すべての人の価値は同じ』

    ・・・なるほど、この者は人界を常識としているな。

 

  『どのようにしたら、よりよい社会となるのか』

    ・・・なるほど、この者は天界を常識としているな。

 

  と、世の中を俯瞰してみているだけなのだ。これら、全てを俯瞰した上で、地獄界よりも餓鬼界が優り、餓鬼界よりも畜生界が優り、畜生界よりも修羅界が優り、修羅界が人界よりも優り、人界よりも天界が優るという事を知っているというのが声聞界の常識となる。

  このような区分も優劣も覚えれば、難しいものではない。しかし、このように区分することや優劣を定めることは、誰でも出来るというわけではない。

  人の思考は、十界が重なっており、地獄界、餓鬼界、畜生界の衆生にも、これらの事も一応は理解できる。このため、『その話は分かった。でも、実際に殺して奪ってしまえば、それで終わりでしょ』ともなるのだ。

 

  大事なのは、覚える事ではなく、実際に経験して知ることであり、実際に知らないと、人は自分が経験して知っている範囲で物事を判断してしまうものである。

  つまり、人界や天界を実際に経験して知らないと、言葉だけを知っても意味はない。預言者を召して伝えたくても、人々に、人界や天界がどのようなものかを実感させることはできないのだ。

  これが機根を整えるということであり、機根を整えなくてはならないから、預言者を通じて教える事はできない。だから、聖書では声聞界の導きは示せないのだ。

  縁覚界への導きは、『すべての事象の根本は無である。人々よこの無に至れ。』と言うものとなる。では、このように語ったとして、この意味が分かると思うか??? もし、この言葉が理解できたとしても、実際に縁覚界に至る為には、先に声聞界を知らなくてはならない。声聞界に至る為には、人界や天界を経験して知らなくてはならない。結局、機根を整えるのが先となる。

 

  菩薩界は、どの位置からでも至れる。地獄界からであろうが、縁覚界からであろうが、至る方法は同じであり、方法そのものは至って単純である。単純なのだが簡単ではない。聖書は、常にそこに導こうとしているのだが、実際に、そこに足を踏み入れる者はほとんどいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大英帝国御中

 

  わたしがJHVHである。貴国は何かとお困りの様子。では、人や国はなぜ困るのか。何をしたら良いのか分からない時に、人も国も困るものである。どの方向に進むべきなのかさえ分かれば、あとは案外、簡単になる。昔、あなた方は聖書を頼りに国家を定めてきた。しかし、あなた方は、その、聖書がわからなくなってしまった。あなた方は、導きを見失ってしまったのだ。導きを見失ったので、その導きを他に求めた。しかし、どの道を選択しても行き詰まってしまう。これが、あなた方の現状であろう。

 

  ならば、基本となる考え方を導きとして示せばよい。わたしには、これが可能なのだ。いや、むしろ、今の世に於いてこれを示せるのはわたしJHVHしかいない。

  あなた方は、突然、イエスの父と名乗る者が現れても受け入れる事などできないかもしれない。受け入れる事などできないのならば、最初は、徹底的に論破してみよ、徹底的に逆らってみよ。もし、私が本物ならば、あなた方には決してわたしを打ち破ることなどできない。しかし、もし、わたしが偽物であれば、あなた方に手助けするものたちが現れ、簡単にわたしを打ち破ることが出来るようになる。

  あなた方は、熱いか冷たいかであって欲しい。もし、生ぬるいのならば、わたしはあなた方を口から吐き出し、わたしの世界から追い出すしかなくなるからである。

 

  さて、あなた方は聖書を知っている。これゆえ、わたしJHVHは、あなた方に聖書の意味を語ろう。あなた方に『なるほど、そういう意味だったのか』と、聖書を納得させさせよう。これにより、あなた方は、わたしがJHVHであると心の底から知ることが出来るようになるからである。

  しかし、『これでは納得できない。神としての力を見るまでは信じない』と語るのならば、実際に力を見せても良い。しかし、おそらく、あなた方は、これには耐えられまい。

  わたしの力は万軍にある。わたしの万軍には、神々の軍勢、悪魔の軍勢、天使の軍勢、幽霊や魑魅魍魎の軍勢等がいる。わたしは万軍の主とも呼ばれるが、わたしが万軍に対して、『このように動け』と命じているわけではない。わたしは、彼らの動くための基準を示すのみであり、実際の動きは彼ら自身が決める。

  このため、あなた方が、『よし、戦ってやろう』とか『試してやろう』と決心した瞬間から、戦いは始まると思う。あなた方の相手をするのは、おそらく、幽霊たちであろう。本当の主力は出てこないと思う。この幽霊たちがわたしの最弱部隊である。

  わずか、数十人、数百人の幽霊たちに、昼も夜も夢の中でも追いかけまわされるだけである。大したことはない・・・と思うのだが、これでも、人には、かなりきついようだ。時々、この幽霊たちが『あれ、死んじゃった。ま、いいか』とか言っている。『これくらい平気だ』と言われるのならば試されても良いが、あまりお勧めはしない。

 

 

  最初に、あなた方には現実問題としてアメリカのトランプ大統領の政策が分からないように感じる。これ故、ここから解説してみよう。トランプ大統領の政策はわたしから見れば終始一貫している。ただ、『ノーベル賞が欲しい』という言葉は、ここからは、ずれる。このため『絶対にこの通り』とは言いきれないのも事実である。わたしは、これをジョークと考えて、本線からは除外しているのだが、実際はどうなのか。

  ここで、『わたしにはトランプ大統領の政策はこのように見える』というものから語るのは、わたしには、あなた方の言動の方がかなりブレて見えるからである。あなた方に何か、別の思惑があり、気づかないふりをしているとも思えないのだ。

  他国の首長の思惑を知るのは外交の基本である。もし、あなた方に分からず、わたしに分かるのならば、これはあなた方に伝えた方が良い。このため、最初にこれをお伝えしようと思う。ただ、これは、トランプ本人に確認したわけではないので、絶対とは言えない。

 

 

わたしが分析するトランプ政策

 

  トランプ大統領の政策は一貫している。すべてが同じ方向を向いており、その向いている方向自体も彼は語っている。このため、なぜ分からないのかの方が不思議なのだ。分からないふりをしているのか、それとも本当に分からないのか。分からないふりをしているのならば、なぜ、分からないふりをしなくてはならないのか。この理由が分からないのだ。分からないふりをしても、大したメリットなどないと思うのだが、なぜ、英国と言う国がわからないふりをするのか。何か重大な理由があり、あえて分からないふりをしているのならば、これはいらぬお世話となるが、とりあえず、簡単なので語っておこう。

 

  トランプ大統領の政策は、アメリカの害となるものを徹底的に排除しようという政策である。具体的に言えば、アメリカから不法移民と麻薬を排除しようという政策なのだ。不法移民はどこからきているのか。その国はなぜそのような体制となっているのか。その体制はどこが支援しているのか。不法移民を排除するためには、大元から叩かないと無理なのだ。麻薬問題も同じである。一人ひとりの不法移民者を捕まえても、麻薬の売人を捕まえても、元凶となっている大元を叩かなければ撲滅などできないのだ。この大元が、中国やロシアであると推測できる。アメリカに害を及ぼさないのならば、トランプは『勝手にしろ』と取り合わないであろう。しかし、アメリカに実害を及ぼすならば、『決して許さない』となるのだ。

 

  昔、ソ連はアメリカの体制を潰そうといろいろな仕掛けをしてきた。この一部が表面に現れたのがキューバ危機である。ソ連、すなわちロシアの作戦は軍事的なものであり、他のものを意図的に使うという作戦ではなかった。すなわち、ロシアがアメリカに及ぼす影響は軍事的な対立としてのみ現れる。

 

  ソ連が崩壊しロシアとなった。ロシアは、ヨーロッパ諸国に対して数々の影響を与え続けたのだ。ヨーロッパの難民問題を創り出したのは、アメリカとロシアであった。しかし、これは意図的に創られた難民ではなかった。この難民問題が、アメリカに影響するとすれば、その原因はアメリカ自身にあることになる。ロシアは、アメリカの体制に対してはさほど大きな影響力を持たないのだ。しかし、軍事的脅威であることだけは事実なのだ。

 

  ロシアは、ウクライナに侵略戦争を仕掛けた。トランプは当初、ロシアに対して『これを止めよ。止めなければロシアを潰すぞ』と警告を発したのだ。具体的に言えば、『停戦か、制裁強化か』と言う選択肢を示したのだ。

  ロシアがウクライナ戦争で勝利するためには、どのような形であれ国際社会への復帰が絶対条件となる。復帰とは『制裁解除』であり、トランプは、この勝利条件をことごとく潰している。

  ロシアが西側諸国に制裁解除をさせるためには、ウクライナ国内の内戦と言う形にすり替えていく必要がある。ウクライナ内部が親ロ派vs親欧米派の内戦となれば、欧米諸国には厭戦気分が広がり、最終的にはロシアに任せようという形となっていくからである。こうなれば、なし崩し的に制裁は解除されていく。

  トランプはここで、アメリカをロシア側に寄せてみせた。すると、ウクライナ国内では、親ヨーロッパ派vs親米派となってしまう。この両派の争いでは内戦は起きない。停戦しても制裁は解除されず、ロシアの思惑は悉く潰される形となっているのだ。

  これは、ロシアに対して、『完全撤退か、それとも国家破綻か選択せよ』と、語っているのと同義なのだ。ロシアは、国家破綻を選択した。その選択通りに、今、アメリカが動いているだけである。

 

 

  アメリカに流入する難民には、意図的なにおいがある。そして、アメリカに流入する麻薬にも同じく意図的なにおいがある。どこかの国が、意図的に難民を作りだし、アメリカに送ろうとしており、麻薬も意図的にアメリカに蔓延させようとしているようなのだ。このような意図をもって動いている国があるとすれば中国である。おそらく、これはCIAあたりが情報を握っており、その情報を第一次トランプ政権の時に知ったのではなかろうか。

  例えば、フェンタリルと言う麻薬がある。この製造元は中国である。これを麻薬に加工する拠点がブラジルにあり、ブラジルから日本やカナダを経由してアメリカ国内に入っていたということをわたしでも知っている。別ルートしては、南米の国々を経由してメキシコからアメリカに入ってくるというルートもあるようである。中国は極端な監視社会である。中国共産党の強力な監視下で、このような事を行うことはほぼ無理と考えられる。これは何を意味するのか。

  中国共産党が意図的に麻薬によりアメリカを弱らせようと画策しているという事を意味する。当然、フェンタリルだけが麻薬と言うわけではない。麻薬によりアメリカを弱らせようと画策しているならば、他の麻薬の製造や流通にもかかわっているとも考えられる。これは何を意味するのか。『中国がアメリカに対して麻薬戦争を仕掛けている』と言う意味である。

 

  では、中国が仕掛けているのは麻薬戦争だけなのか。ありとあらゆる戦術を使って、アメリカを弱らせようと画策していると考えられる。例えば不法移民。不法移民はどこから流入するのか。不法移民を排出する国々はどのような政治状況となっているのか。その政治状況を支援しているのはどの国なのかと辿っていけば、やはり中国なのだ。つまり、中国が意図的に不法移民を創り出し、アメリカを困らせようとしているとも考えられる。

 

  また、中国は、アメリカの産業の空洞化も画策している。中国は、国家による為替管制と、膨大な補助金により、世界中の同種の産業を潰し、全世界が中国依存となるように画策しているのだ。例えば、鉄鋼、太陽光パネル、電気自動車、レアアースなど、すべてが同じ構造となっている。つまり、全世界を中国依存に堕とし、これらの物資により世界の覇権を奪おうとしている。このメインターゲットはアメリカとなる。アメリカを中国に依存せざるを得ない状態にして、アメリカから覇権を奪おうと画策しているのだ。

 

  では、トランプは世界の覇権を維持しようとしているのか。おそらく、トランプにとって、世界の覇権などどちらでもよいことなのだ。これは、『ヨーロッパの事はヨーロッパで解決しろ』と語っている事からわかる。しかし、不法移民や麻薬は許せない。産業の空洞化も許せない。つまり、『世界の覇権など欲しければくれてやる。しかし、アメリカには絶対手出しするな』と言うのがトランプのスタンスなのだ。

 

  この中国のネットワークは世界中に広まっており、一か所を潰しても、すぐに、次が現れる。迂回ルートが次々と現れるのだ。結局、これを成し遂げようとすると、全世界に、中国から離れよと関税をかけるしかなくなる。これがトランプ関税の意味であろう。

  麻薬も、不法移民も、産業の空洞化も、全て裏で中国が糸を引いている。この中国の糸さえ切ってしまえば、あとは個別に対処していくだけでよい。

  逆に、個別に、このような問題に対処しても、裏で糸を引いている者がいる限り、すぐに別ルートが現れ、際限なくこれは続く。この争いは、アメリカを弱らせるだけなのだ。

 

  このように、中国は、ありとあらゆるものを使って、世界の覇権を取ろうと画策してくる。ロシアやヨーロッパ諸国は軍事による覇権と考えるのだが、中国はありとあらゆるものを使って攻撃を仕掛けるのだ。これが、中国の超限戦と呼ばれる戦い方である。

  当然、これには軍事も含まれている。北極海には、ロシアの原潜が潜んでおり、ロシアは北極海からアメリカを核兵器で狙っている事は有名である。では、このロシアは今後どのようになるのかといえば、国家としての体裁を保てなくなる。アメリカを核兵器で脅す国は減るのだが、中国は、ロシアから北極海を原潜の潜伏地として奪い取ろうと画策している。

  これも、アメリカにとっての脅威であり、対処すべき事項となる。アラスカとカナダとグリーンランド、そして、北欧の海域に、強力な対潜部隊をおけば、北極海は原潜の潜伏先とできなくなる。つまり、中国の思惑を潰せるのだ。では、デンマークにこの能力があるのか。カナダにこの能力があるのか。いずれの国にもない。今、動けば、ロシアは潰れ、中国はまだ動けない。これが、グリーンランド領有の話であり、カナダに対する圧力の根本ともなっている。

  中国にとって北極海は原潜の潜伏先としては、第二候補である。第一候補として黄海や日本海などがあるのだが、ここは日本が目を光らせており、原潜の位置は完全に把握されていると考えられる。日本が手出しできない場所、アメリカが手出しできない場所を潜伏先とするしかなく、これが北極海となる。

 

 

  トランプは、中国に対してG2と語っている。これは、『中国が覇権を狙い、我が国に対して戦いを挑んでくるなら、徹底抗戦する』という、中国に対する宣戦布告であろう。そして、トランプは、中国の超限戦をどんどん先回りして潰しているのだ。

  さて、中国は英国に巨大な大使館を建造しようとしている。これは何を意味するのか。これは英国に対する諜報拠点ではない。NATOやアメリカに対する諜報拠点であり、中国の超限戦の最大拠点となるのだ。

  わたしがトランプならば、こんなものを建造させるのならば、英国に対して100%の関税をかけるであろう。せっかく、中国の拠点を少しずつ潰しているのに、アメリカの同盟国にこのような拠点を設けられたらたまったものではないからである。ベネズエラのように英国王を逮捕する事などできないし、英国の中国大使館が、麻薬や難民の拠点となったとしても、そこを爆撃することもできないからである。

 

  さて、このように難民や麻薬まで使って、本当に中国は世界の覇権を狙うのか。これが、歴史的な中国の戦い方なのだ。これは中国史において、当たり前のように出てくる戦術であり、昔から、中国ではこのように戦ってきたのだ。ありとあらゆるものを使って相手を弱らせるのが中国にとっての常套手段である。『戦わず勝つ』つまり、相手を弱らせて、弱らせて、自滅に追い込む。これが孫氏の兵法であり、軍事は最終手段となる。

 

  当然、このような事を中国に問うても、中国をこのような話で追及しても、中国は『知らぬ。存ぜぬ。勘違いだ。妄想だ』と逃げる。このように、決定的な証拠を残さないのも孫氏の兵法である。しかし、中国のような監視社会で、共産党の目を盗んで、民間人がこのような事を行うこと自体が不可能なのではないか。

 

  【個々の事象は偶発的とも見える。しかし、それが本当に偶発的なものならば、いくつもの事象が同じ方向を向くことあり得ない。もし、これら全てが同じ方向を向いているのならば、これは、このように画策されたと考えよ。】・・・・孫氏の兵法。

 

  【相手が、どのような戦いを仕掛けてくるのかを知り、自分が仕掛ける作戦が相手に悟られなければ、百戦百勝となる。相手の作戦が読めたとしても、自分の作戦も読まれるのならば、それは五分五分の戦いとなる。実際の戦争は最終手段であり、相手にさとられないように物事を動かし、相手を自滅に追い込むのが最高の戦い方である。】・・・・孫氏の兵法。

 

  このような戦術は、欧米諸国にはなじみがないものかもしれない。しかし、これは、東洋ではよく知られた戦術である。そして、中国はこの原則通りに動いている。孫氏の兵法を知ってさえいれば、中国の動きは、孫氏の兵法通りであり単純なのだ。

 

  中国の戦略が分かったならば、これにどのように対抗すべきか。この対抗の動きが、トランプ大統領の作戦となっている。つまり、トランプ大統領も孫氏の兵法により作戦を立て、その作戦通りに動いているのだ。このように、トランプ大統領の政策は一貫しており、何一つブレてなどいない。当然、英国の情報機関であれば、この程度の事は知っているはずである。トランプ自身、隠してすらいないのだから、この程度ならだれでも分かる簡単な話だと思うのだが、なぜ、分からないふりをしているのか???

 

 

イスラエル・イラン戦争

 

  イスラエル・イラン戦争にはわたしが関与している。イスラム教を検証したところ、彼らは重大なコーラン違反を犯している。そこで、最初、わたしは彼らに『悔い改めよ』と警告したのだが、彼らは悔い改めようとはしなかった。そればかりか『ジハード』などと語り、各地で暴動を起こす始末。さすがに目に余るゆえに、イスラエルにイスラム教がどのようにコーランに違反しているのかを教えたのだ。そして、アッラーの名により、イスラエルに『彼らが悔い改めないのならば、あなた方の自由にしてよい』とわたしが許可も与えたのだ。国連は、これをイスラエルの罪と語っている。しかし、これを罪と呼ぶならば、すべての責任はわたしJHVHにある。

 

  わたしは、どこまでやり、どこで止めるのかをイスラエルに任せている。これゆえ、止めたいのならば、イスラエルを説得すれば良い。また、『これはおかしい』というのならば、わたしを説得しても良い。わたしは、彼らのコーラン違反を責め、そして、悔い改めよと語っているのだ。もし、わたしが間違っているというのならば、わたしの間違いを指摘せよ。もし、わたしの間違いを正しく指摘できる者がいるならば、わたしはその者に、わたしの名、すなわち、JHVHやアッラーなどの数多くの名と、わたしのJHVHとしての全ての力を譲るであろう。

 

 

  さて、わたしはどのようにイスラエルに教えたのか。

 

 コーランにはこのように記されている

 

『人の罪は全て許される。しかし、アッラーの神権を犯す罪は決して許されず、永遠の火獄に定められる』と。

 

では、アッラーの神権とは何か。

コーランには

 

『アブラハムはムスリムと任じられた。アブラハムは息子イサクもムスリムと任じてくださいとアッラーにお願いした。アッラーがそれを許されたので、イサクもムスリムとなった』と記されている。

 

  もし、ムスリムが他の者をムスリムと任じる事が出来るのならば、アブラハムがイサクをムスリムと任じれば、イサクはムスリムとなる。しかし、アブラハムは、これをアッラーにお願いしている。これはムスリムの任命権はアッラーの神権に属するという事を示している。

 

  今、イスラム教徒は、自分の事をムスリムと呼んでいる。これは、『ムスリムでなければコーランとは無縁の民となる』とコーランに記されているからである。では、今のイスラム教徒をムスリムと任じた者は誰なのか。

  アッラーの声を聞く者が預言者である。つまり、預言者より『あなたはムスリムと任じられた』と聞き、ムスリムと名乗ることは可能となる。

 

  では、現在、預言者は存在するのか。コーランには『ムハンマドが最後の預言者である』と繰り返し記されている。そして、『ムハンマドがアッラーより受けた預言がコーランである』とも記されているのだ。

 

  つまり、今の世に預言者は存在しない。では、イスラム教徒はどのようにしてムスリムと名乗っているのか。アッラーの神権を犯すしかないのだ。

 

  すなわち、イスラム教徒はムスリムと名乗ることにより、永遠の火獄に堕とされると言うことになる。これは、コーランが正しいのならば、このようにしかならないのだ。

 

  イスラム教では『信仰により、人は永遠の火獄を免れることが出来る』と教えている。つまり、コーランは偽典であり、我々の語ることの方が正しいという主張となる。つまり、コーランが正しいのか、それとも、イスラム教が正しいのかという二者択一としかならない。

 

  わたしは、『ジハード』などと世の害悪になるような行為さえしなければ、違反を咎めるつもりはない。コーランは難しすぎるのだ。難解なコーランを今の世にまで語り継いできたのは、イスラム教徒の功績であり、この功績ゆえに、多少の神権違反程度であれば許してもよい。

 

  ただ、もうムスリムと名乗ることは止めよ。これだけでよい。

 

あとがき

 

わたしは、これを創価学会及び、日本国政府の高市首相に送付する。

ただ、一つだけ、注意していただきたい事がある。

 

  諸外国は三悪道しか知らない。三悪道しか知らない人々に、声聞界への導きを説くことは重大なリスクがある。人々は、これを知ると、『悟りを得た』『神の賛同を得た』と思い込みやすい。しかし、これは、実際には、分からないものを分かったと勘違いして、三悪道のまま、次の段階へと進もうとしてしまう可能性があるのだ。例えば、わたしはトランプ大統領に、この導きを示した。ところが彼の言動には、おかしな点がある。もし、人界や天界に彼自身が至っていたならば、『ノーベル賞をよこせ』という言動とはならないはずなのだ。もし、彼が冗談として、これを語っているだけならばよいのだが、本心で語っているとすれば、これは、これを彼に教えたわたしのミスである。

 

  では、なぜ、このような事態となるのか。日本人にとって、人界は当たり前の常識であり、難しいものではない。しかし、人界を実際に知らない人々にとっては、理解できないもの、常識はずれの考え方となる。三悪道では、『世の中は競争であり、この競争に勝利することこそが正しい』という思考となる。これに対し、人界では『人と人の間に差異はあるが、すべての人の価値は同じ』と言う思考が根本になる。この『人の価値は同じ』とは、『自分の状態がどのように変わっても、自分の価値は変化しない』と言う意味である。『競争して勝ったとしても負けたとしても根本的な価値は変わらない』のだ。世界の多くの人びとは、このような価値観が実際にあることも知らない。当然の事ながら、その価値観に基づく社会がどのようなものになるのかも分からない。つまり、『人の思考常識は六道を巡る』と言う言葉は覚える事が出来るのだが、六道の半分は意味不明となってしまう。意味不明となれば、その部分を切り捨ててしまい、『わたしは悟りに至った』と、増長してしまいかねないのだ。

 

  勘違いしていただきたくはないのだが、トランプ大統領がこのようになっていると語っているわけではない。わたしから見れば、トランプ大統領の政策は一貫しており、ほとんどブレてなどいないのだ。ただ、ノーベル賞の話が異質なだけである。異質な部分があるから、『少し、早すぎたのかも知れない』と、わたしなりに反省しているのだ。

 

 

 

 

 

わたしが分析するトランプ政策

 

  トランプ大統領の政策は、第一に、アメリカの害となるものを徹底的に排除するという政策である。具体的に言えば、アメリカから不法移民と麻薬を排除しようという政策なのだ。不法移民はどこからきているのか。その国はなぜそのような体制となっているのか。その体制はどこが支援しているのか。不法移民を排除するためには、大元から叩かないと無理なのだ。麻薬問題も同じである。一人ひとりの不法移民者を捕まえても、麻薬の売人を捕まえても、元凶となっている大元を叩かなければ撲滅などできないのだ。この大元が、中国やロシアであると推測できる。アメリカに害を及ぼさないのならば、トランプは『勝手にしろ』と取り合わないであろう。しかし、アメリカに実害を及ぼすならば、『決して許さない』となるのだ。

  昔、ソ連はアメリカの体制を潰そうといろいろな仕掛けをしてきた。この一部が表面に現れたのがキューバ危機である。ソ連、すなわちロシアの作戦は軍事的なものであり、他のものを意図的に使うという作戦ではなかった。すなわち、ロシアがアメリカに及ぼす影響は軍事的な対立としてのみ現れる。

 

  ソ連が崩壊しロシアとなった。ロシアは、ヨーロッパ諸国に対して数々の影響を与え続けたのだ。ヨーロッパの難民問題を創り出したのは、アメリカとロシアであった。しかし、これは意図的に創られた難民ではなかった。この難民問題が、アメリカに影響するとすれば、その原因はアメリカ自身にあることになる。ロシアは、アメリカの体制に対してはさほど大きな影響力を持たないのだ。しかし、軍事的脅威であることだけは事実なのだ。

 

  ロシアは、ウクライナに侵略戦争を仕掛けた。トランプは当初、ロシアに対して『これを止めよ。止めなければロシアを潰すぞ。』と警告を発したのだ。具体的に言えば、『停戦か、制裁強化か』と言う選択肢を示したのだ。ロシアがウクライナ戦争で勝利するためには、どのような形であれ国際社会への復帰が絶対条件となる。復帰とは『制裁解除』であり、トランプは、この勝利条件をことごとく潰している。ロシアが西側諸国に制裁解除をさせるためには、ウクライナ国内の内戦と言う形にすり替えていく必要がある。ウクライナ内部が親ロ派vs親欧米派の内戦となれば、欧米諸国には厭戦気分が広がり、最終的にはロシアに任せようという形となっていくからである。こうなれば、なし崩し的に制裁は解除されていく。トランプはここで、アメリカをロシア側に寄せてみせた。すると、ウクライナ国内では、親ヨーロッパ派vs親米派となってしまう。この両派の争いでは内戦は起きない。停戦しても制裁は解除されず、ロシアの思惑は悉く潰される形となっているのだ。これは、ロシアに対して、『完全撤退か、それとも国家破綻か選択せよ』と、語っているのと同義なのだ。ロシアは、国家破綻を選択した。その選択通りに、アメリカが動いているだけである。

 

  アメリカに流入する難民には、意図的なにおいがある。そして、アメリカに流入する麻薬にも同じく意図的なにおいがある。どこかの国が、意図的に難民を作りだし、アメリカに送ろうとしており、麻薬も意図的にアメリカに蔓延させようとしているようなのだ。このような意図をもって動いている国があるとすれば中国である。おそらく、これはCIAあたりが情報を握っており、その情報を第一次トランプ政権の時に知ったのではなかろうか。例えば、フェンタリルと言う麻薬がある。この製造元は中国である。これを麻薬に加工する拠点がブラジルにあり、ブラジルから日本、カナダを経由してアメリカ国内に入っていたということをわたしでも知っている。別ルートしては、南米の国々を経由してメキシコからアメリカに入ってくるというルートもあるようである。中国は極端な監視社会である。中国共産党の強力な監視下で、このような事を行うことはほぼ無理と言える。これは何を意味するのか。中国共産党が意図的に麻薬によりアメリカを弱らせようと画策しているという事を意味する。当然、フェンタリルだけが麻薬と言うわけではない。麻薬によりアメリカを弱らせようと画策しているならば、他の麻薬の製造や流通にもかかわっているはずなのだ。これは何を意味するのか。『中国がアメリカに対して麻薬戦争を仕掛けている』と言う意味である。

 

  では、中国が仕掛けているのは麻薬戦争だけなのか。ありとあらゆる戦術を使って、アメリカを弱らせようと画策していると考えられる。例えば不法移民。不法移民はどこから流入するのか。不法移民を排出する国々はどのような政治状況となっているのか。その政治状況を支援しているのはどの国なのかと辿っていけば中国なのだ。つまり、中国が意図的に不法移民を創り出し、アメリカを困らせようとしているとも考えられる。

 

  また、アメリカの産業の空洞化も画策している。中国は、国家による為替管制と、膨大な補助金により、世界の覇権を奪おうとしている。つまり、アメリカの産業そのものを潰す事により、アメリカを中国依存状態にして、アメリカから覇権を奪おうとしているのは誰が見てもわかる。

 

  では、トランプは世界の覇権を維持しようとしているのか。おそらく、トランプにとって、世界の覇権などどちらでもよいことなのだ。これは、『ヨーロッパの事はヨーロッパで解決しろ』と語っている事からわかる。しかし、不法移民や麻薬は許せない。産業の空洞化も許せない。つまり、『世界の覇権など欲しければくれてやる。しかし、アメリカには絶対手出しするな』と言うのがトランプのスタンスなのだ。

  この中国のネットワークは世界中に広まっており、一か所を潰しても、すぐに次が現れる。簡単に迂回ルートが現れるのだ。結局、これを成し遂げようとすると、全世界に、中国から離れよと関税をかけるしかなくなる。これがトランプ関税の意味であろう。麻薬も、不法移民も、産業の空洞化も、全て裏で中国が糸を引いている。この中国の糸さえ切ってしまえば、あとは個別に対処していくだけでよい。個別に、このような問題に対処しても、裏で糸を引いている者がいる限り、すぐに別ルートが現れ、際限なくこれは続く。この争いは、アメリカを弱らせるだけなのだ。

 

  中国は、超限戦と称して、ありとあらゆるものを使って攻撃を仕掛けてくる。何をしたいのかといえば、世界の覇権を取りたいのだ。当然、ここには軍事も含まれている。北極海には、ロシアの原潜が潜んでおり、ロシアは北極海からアメリカを核兵器で狙っている事は有名である。では、このロシアは今後どのようになるのかといえば、国家としての体裁を保てなくなる。アメリカを核兵器で脅す国は減るのだが、中国は、ロシアから北極海を原潜の潜伏地として譲り受けようと画策している。これも、アメリカにとっての脅威であり、対処すべき事項となる。アラスカとカナダとグリーンランドに、強力な対潜部隊をおけば、北極海は原潜の潜伏先とできなくなる。つまり、中国の思惑を潰せるのだ。では、デンマークにこの能力があるのか。カナダにこの能力があるのか。いずれの国にもない。今、動けば、ロシアは潰れ、中国はまだ動けない。これが、グリーンランド領有の話であり、カナダに対する圧力の根本ともなっている。

 

  これが、わたしから見たトランプの戦略である。わたしから見ると、彼の動きはかなり戦略的であり一貫している。また、彼の功績は、すぐに見えるというものではない。すぐに、見えないこともトランプは知っているはずなのだ。それなのに、どうして、ノーベル賞???となるのだ。

 

  当然、このような事を中国に問うても、中国をこのような話で追及しても、中国は『知らぬ。存ぜぬ。勘違いだ。妄想だ』と逃げるであろう。しかし、中国のような監視社会で、共産党の目を盗んで、民間人がこのような事を行うこと自体が不可能なのだ。また、個々の事象は偶発的とも見える。しかし、それが本当に偶発的なものならば、いくつもの事象が同じ方向を向くことあり得ない。これが、同じ方向を向くならば、これらすべての事象がそのようになるように画策されたと考えられる。例えば、北朝鮮製の覚せい剤が日本で蔓延している事は良く知られている。北朝鮮は拉致事件も起こしている。では、北朝鮮の政権が関与しないで、麻薬を日本で密売することはできるのか。北朝鮮は平気で犯罪行為を働く国であることから『北朝鮮の政権が麻薬を意図的に日本国内で蔓延させている』と推測でき、この推測はほぼ外れない。これよりも、はるかに大規模な作戦が、アメリカに対して行われているという事が、数々の事象が同じ方向を向いていることにより示されているのだ。そして、それらすべての要となる位置に中国と言う国がいるのも事実なのだ。

 

 

現実的な政策

 

  日本は古来より人界の常識を持っている。明治維新により、これが三悪道に振れたのだが、戸田城聖及び創価学会により、再び、人界社会となったのだ。

  日本自体が『三悪道が良いのか、それとも、他の道があるのか』と揺れている間は、この人界への導きは効果が高いのだが、人界は日本本来の常識。きっかけさえあれば、日本は簡単に人界に戻る。

  そして、日本は簡単に三悪道にも戻るのも、やはり、歴史であり事実なのだ。なぜ、このように揺れるのか。これは六道輪廻するからである。

 

  地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界の六種の常識を六道と呼ぶ。ある時には、日本人は人界や天界の常識を持つこともある。しかし、簡単に地獄界や餓鬼界の常識に戻ってしまう。このように、常識が六道の内を巡り、定まらない状態を六道輪廻とも輪廻転生とも呼ぶ。輪廻転生と言うと、死後の世界とか異世界とか考えられるかもしれないが、人の常識、すなわち、思考の基準が六道の内を巡り、一か所に定まらないことが、輪廻転生の本来の意味である。

 

 

  さて、今、わたしは『人の常識は六道を巡り一か所に定まらない』と語っている。また、『日本の常識は人界と三悪道の間を揺れる』とも語っている。また、『今の世界の常識は三悪道の内を出ない』とも語っている。あなた方は、半ば納得し、半ば反発を覚えられるかもしれない。しかし、このような話に触れる時の、あなた自身の思考は、六道のどれなのか。これは、六道の内にはない。『人は六道輪廻する』と言う思考も、確かに人の思考である。また、『人は六道輪廻する』と言うことを常識とすることもできる。では、この常識・思考は六道の内にあるだろうか。この思考・常識は六道の内のどこにもない。この位置が声聞界なのだ。

 

  例えば、今日の創価学会の状況を検証してみよう。創価学会は日本が三悪道に沈んでいる時、人界こそが本来の姿だと、世に主張した。人々は、反発しながらも、『そうだ、我々は昔から人界の常識を持っていた』と人界を思い出したのだ。このため、創価学会の主張は人びとの常識となっていった。

  当たり前の事を宗教と言う形で語っても、その宗教に帰依する人などほとんどいない。つまり、人界が人々の常識となることにより、創価学会は進路を見失ってしまったのだ。

 

  すると、次は、何をするのか。別の道を探すしかない。六道の内で行き詰まり、一生懸命出口を探すのだが、六道の内にいる者は、その出口も六道の内となる。

  創価学会が見つけ出した出口は、小説人間革命の中にあった。小説人間革命の中で、『仏法は勝負』と語り、『その勝負を決めるのは司会者に依る』となっているのだ。この勝負を決める位置を引き継ぐ者こそが指導者となった。ここから、この師弟の継承こそが仏法と言う論理を打ち立てたのだ。

 

  しかし、指導者が全てを決め、他の者たちは指導者に盲目的に従うという形は、餓鬼界への移行を意味する。

 

  なるほど、この形であっても、指導者が声聞界以上にあれば、人々は六道の内を歩める。六道の内を歩むとは、ある時には三悪道になったとしても、ある時には人界・天界に至れるという意味である。

 

  そして、現実に、この形を目指す宗教も存在する。

 

 

キリスト教の真実

 

  聖書のイエス・キリスト。彼は、十字架と言う裁きの地獄送りの刑を受けることにより菩薩の位置に至り、そして、天に於いてJHVHにまで至っている。

  そして、本来であれば、このイエスより始まる人の系譜が聖として継承されるはずだったのだ。

 

  イエスは十二使徒を定めた。この、十二使徒は、本来は個人ではなく継承システムなのだ。十二使徒は、そのうちの一人がいなくなるたびに、別のものをその位置に任命することにより継承されるシステムであり、この十二使徒の名も継承される。

  任命には仮任命と本任命があり、仮任命は人により行われ、本任命は天に至ったイエス自身により行われる。そして、イエスの使徒の十二の名は本任命により継承される。

  すなわち、イエスの十二使徒は、今も同じ名の十二使徒であるはずなのだ。

 

  なぜ、この継承が途切れたのか。パウロという者がいた。パウロとは十二使徒の補助者の役割の名であり、必ずしも、継承に必要というわけではない。ところが、このパウロが十二使徒を押しのけて、イエスの使徒から法主の地位を奪ったのだ。このため、十二使徒は消え、使徒とも呼べない者が法主として君臨する形となった。これが今のキリスト教であり、キリスト教はパウロにより、本来の継承が断ち切られたのだ。

 

 

皇室の真理

 

  また、日本の皇室もこの形の指導者として定められている。皇室は男系男子と言う系譜を持っている。皇室があるので、日本は当たり前のように人界を常識とするようにもなる。では、天皇とはどういう者なのか。人であって人ではない。人々が会うことにより六道全てを動くことが出来るようになる存在であり、聖なのだ。天皇陛下が諸外国を巡る。すると、その民も、普通に人界・天界に至るようになるという不思議が働く。

 

  このように、指導者や王が人であったとしても、人々を人界・天界に導くことも可能とはなるのだが、この場合の聖典は聖書系と呼ばれるものとなる。聖書系に於いては『依人(神)不依法』となる。これは、法そのものが人の理解を超えるからである。人の理解の及ばない法を人々に示しても、人はその法を正しく解釈することはできない。ならば、法を隠し、導きを系譜と言う形で示す方が人を正しく導けるのだ。

 

 

  これに対して仏典系は『依法不依人』となる。人の理解を超えるものであっても法そのものを全て示す事により、『依法不依人』という論理系統を定めることも可能となるのだ。

 

  創価学会は、仏法系である。仏法系では『依法不依人』としかならない。よく、ダライラマ法王などと言われる。また、法主と言う人を定めている宗派や、いろいろな序列を定めている宗派もある。これらの宗派は、必ず『依法不依人』の原則に違反している。違反しなければ、仏教系では序列を定める事はできず、序列を定めれば、序列思考は三悪道にしかないので、その宗派は三悪道となる。このため、その宗派に属する者たちも三悪道を出ないことになる。

 

  よく、チベットは中国共産党により一方的に併合されたと言われる。これは共産党程度の低級な教えに併合される位置にまで、チベット仏教がなり下がった結果ともいえる。まあ、創価学会も『依法不依人』の大原則を守るようにしないと、チベット仏教のように共産党勢力にさえ、簡単に飲み込まれるようになるであろう。

 

  日本は、奇跡的に人の系譜を守ってきている。これゆえ、全世界で唯一、人々が六道全てを輪廻する国となっているのだ。日本の国内に於いては、日本本来の姿が人界・天界であり、外部の影響により三悪道に振れるということを繰り返してきた。近代では、空海により日本は三悪道に振れ、徳川家康により人界に戻り、福沢諭吉により三悪道に振れ、戸田城聖により人界に戻るという具合に人界と三悪道を行き来する状態となってきたのだが、このように行き来できるのは天皇家が奇跡的に存在しているからにほかならない。

 

 

  これに対して、全世界は、当たり前のように三悪道に沈んでいる。人々は、三悪道しか知らないのだ。地獄界・餓鬼界・畜生界の内で、何が一番優れているのかといえば畜生界となる。畜生界とは法治主義であり、法治主義とは法の許での平等となる。三悪道しか知らないから、法治主義という風潮となるのだが、ここまでが三悪道。三悪道とは、犯罪者の思考であり、世界の人々の『正しい』すらも、犯罪の内でしかない。

 

三悪道の内の平等主義がグローバリズムであり、

                これが世界的な左翼。

 

三悪道の内の個別主義がナショナリズムであり、

               これが世界的な右翼なのだ。

 

 

自分と他人を優劣で判断するならば三悪道

 

  三悪道しか知らない者は、『わたしの主張は正しい』『自分は優れた者である』と普通に考える。また『あいつは間違っている』『あいつは劣った者である』などと他人を査定するようにもなる。人と人との間を優劣で判断しようとすれば、三悪道としかならない。

  つまり『自分は優れている』と言う思考そのものが『三悪道の内にいる』と言う事実をあらわす。では、『なぜ優れているのか』の基準は人により様々となるのだが、その理由がどのようなものであれ、修羅界から菩薩界まででは『自分は優れている』とはならないのだ。

  修羅界から菩薩界までの『優れる、劣る』は、他人の判断でしかなくなるのだ。ただ、仏界では、自己が『絶対善』『絶対優』となる。他人の評価、そのものが及ばない位置となるのだ。

 

  『何が正しいのか』と、『正しい』を判断しようとすれば、この『正しいを定めた状態』が三悪道となる。人は、『これが正しい』と判定を下すことにより犯罪者となってしまうのだ。これゆえ、『これを選択すれば、このようになる。これを選択すれば、このようになる。』と、選択支と選択の結果を示し、あなたはどれを選ぶのかと問いかけるだけとなる。

 

 

 

 

1、西洋的な善悪、儒教的な善悪、

       経典の誤った解釈の善悪、

       などを選択するならば

       人類は犯罪者のみとなり滅亡する。

 

 

2、日本にある平等思考を選択するならば、

人類は犯罪状態と無犯罪状態を繰り返すようになる。

 

     この時、男系男子の天皇家が残っていれば、

                      人類は存続する。

       男系男子の天皇家が残っていなければ、

                      人類は滅亡する。

 

 

3、人類には、滅亡する未来も、

       存続する未来も選択支としてある

       という事を知るならば、人は声聞界に至る。

       声聞界にまで至れば、

    人類は西暦一万年までであれば、存続可能となる。

 

 

これらには、正邪もなければ、善悪も、優劣もない。単なる選択である。

 

 

 

 

 

 

JHVH