さすがに、これは・・・・・
はじめに
このようなものをお送りするのには、理由がある。顕正会と名乗る者たちがわたしの許に来た。普通ならば、これは何の不思議でもないことであろう。しかし、わたしの周りには結界が張ってある。これは、わたし自身が張ったものではないのだが、眷属たちが一応の用心のためと張ったようである。まぁ、結界と言っても、その目的は、わたしが怒り世を滅ぼさないためのものであり、人々をわたしに近づけないようにするものではないのだが、わたしが怒り出す相手、宗教関係の者たちには、一般的に言う結界と言う働きともなる。
つまり、顕正会と名乗る者たちでは、わたしの家には近づけないはずなのだ。確かに、一度であれば、近づくことができないというわけではない。しかし、面会する数日前にポスティングしてあったのだ。当然の事ながら、このようなものは読むこともなくそのままゴミ箱行きとなる。ただ、この状態で、顕正会に対して結界が発動するはずである。つまり、この状態で顕正会は近づけなくなるはずなのだ。ところが、実際に面会に来た。つまり、結界が働かなかったという意味である。このため、わたしは、とりあえず、『誰かが寄こしたのだろう』と応対することにしたのだ。この誰かはとは、人ではなく、わたしの眷属。すなわち、神々やサタン悪魔や天使などの誰かと言う意味である。
わたしは、顕正会と名乗るとは、要するに日蓮系であろうと推測した。そこで、『日蓮系ならば法華経の語句を並べて語ればよいだろう』と、実際にその通りに対応した。これはどのような対応なのかと言えば、最初の一言から最後まで法華経の語句を並べる方法であり、これは日蓮如来の対応の真似である。要するに物まねをしたのだが、それほど、明確に覚えているわけではない。あちら、こちらで語句が詰まったのだが、まぁ、これは人まねだから致し方なかろう。ところが、彼女らは、『間違っている。正しい信心をしなさい』と語る。わたしが語ったのは法華経の迹門であり、本門ではない。これを間違いと決め付けられたら、本門に入るしかないが、おそらく、本門となると彼女らは付いて来れない。彼女らの言う『正しい』は、わたしから見れば、根本的な間違いであり、それを説明しようとしても、彼女らは『話がまわっている。おかしい』と受け付けないのだ。わたしは、最初から最後まで、法華経迹門を説いた。しかし、これをおかしいと言われると、打つ手なしとなる。要するに、彼女たちは法華経とは、完全に別の何かを正しいとして語っているというわけである。
そこで、眷属たちに『誰だ。この者たちを寄こしたのは。』と聞いたのだが、これに誰も答えない。眷属たちに尋ねたのは、『わたしに何をさせたいのか???』と聞くためであり、彼らにシーンと静まりかえられるとさすがにどうしようもなくなる。結局、意味が分からないままで終わった。
彼女らは顕正新聞なるものを置いていった。わたしはその表題を見た。瞬間に『これはひどい』となった。そして、これと同時に彼女らが何を考えていたのかもわかった。日本人ならば、普通は人界思考をする。しかし、顕正会は正法と称して、畜生界思考をしているのだ。なるほど、このような考え方をしていれば、相手の事を『間違っている。これが正しい』とか、『正しい信仰』とかいうわけだ。そして、自分たちが理解できないものを『間違っている』と断じるから、法華経を説いても、『それはおかしい』『それは間違っている』と語るわけだ。彼女らは、わたしが法華経を説いている事すらわからず、自分たちが理解できる範囲のみを正しいと語っていたのだ。これは畜生界思考の典型的な形である。
しばらく、その顕正新聞を見ていたのだが、『どうしようもない。助けよ。』と言う声が聞こえてきた。『うん???誰だ???』となったのだが、すぐにその声の主が分かった。日蓮本人であった。わたしは『なんだ。あんたか。あんたが寄こしたのか。何をすれば良いんだ』と尋ねたのだ。彼は『わかるだろ。出来るだろ』と言う。わたしは、『できないわけじゃないが、簡単ではないな。一応やってみるが、下手すると滅ぼすしかなくなるぞ。それでも良いのか。』彼は『あぁ、構わない。』と答えたのだ。何を言っているのかと言えば、日蓮本人が彼らを導こうとしても彼らは受け付けない。つまり、彼らは畜生界思考により物事を判断しており、自分の理解できる範囲でしか物事を観ない。つまり、道を糺す事自体ができないという状態となっている。これでは、滅ぼすしかなくなるのだ。わたしは肉体を持っているので、もう少し事細かく説明することも出来る。わたしの方がまだ可能性がある。だから、日蓮はわたしに『彼らの道を糺してくれ』と頼んできたというわけである。そして、『駄目なら滅ぼせ』とも語っているのだ。
まぁ、『南無妙法蓮華経。日蓮大聖人こそ重要』と唱える、彼らを滅ぼすのは、忍びないから、一応、手を尽くしてみてくれと言うことなのであろう。日蓮本人に頼まれた以上、わたしとしても出来る限りの事はしてみようとは思うのだが・・・・強引に人界から畜生界へ、三悪道へと足を引っ張る者たちを、方向転換させることはできるのか。強引に無間地獄に叩き込んでよいのならば、話は簡単であり、これならば日蓮本人が行うはずである。さて、どうしようか・・・・
顕正会
顕正会と名乗る者たちが『顕正新聞』なるものを置いていった。そこには『広宣流布・王仏冥合の憲法改正を』と記されていた。憲法とは、社会を畜生界に導くための決まり、つまり、法の一種である。つまり、政治と仏教を畜生界の段階で合一させようという意味となる。
今の日本の政治は、畜生界と言う段階で動いているわけではない。このため、憲法の条文を厳格に守るのではなく、かなり柔軟に解釈して、それなりに守っているという状態なのだ。日本は基本的に人界社会である。人界社会では、人々が他の人びとを気遣う事が主流となる。例えば、道を歩く時、他の人の妨げとならないように、自分と同じ方向に向かう人々の動きに合わせる。この時、人が歩く位置が決まっていれば、人々は迷わず、その決まり通りの位置を歩くのだ。法とは、この人が歩く位置をあらかじめ定めるという働きであり、その決まりが人々の動きに支障が生じなければ自然と守ることになる。これが、日本人は法を守るということになる。では、もしその決まりが人々の動きを阻害するものであれば、どのようになるのか。これは当然のように無視する。法を守る事が、他の人びとの妨げとなるのならば、その法は全く機能しなくなる。
憲法も、結局、人の世を円滑に進めるためのガイドラインであり、もし、それが世の妨げとなるのならば、当然のように無視する。『無視するのはおかしい』と語る者たちもいるのだが、社会全体の総意として、不具合は解釈により、不具合ではなくすという運用をするのだ。
人界社会では、法は社会の不具合を解消するためのガイドラインであり、個々の条文まで絶対に守らなくてはならないというものではない。人々は、違反する必要がなければ、当然のように法を守る。しかし、その法により不具合が生じるとなれば、これまた当然のように全員で法を無視する。つまり、絶対法として『他の人々の妨げとならないように行動する』が根幹にあり、それを叶えるためのガイドラインが法と言う形となっているのだ。
では、仏法とは何か。『この社会ではこのようになる、別の社会ではこのようになる』という人々の行動原理の集大成なのだ。つまり、『社会を良くしたいのなら、このように変革すべきだ』ともなるのだが、『そんなことをしたら、社会はこのように悪くなる』という言葉ともなる。これらを読み、人々は、『こうしなくてはならない』『このようなことはしてはいけない』ともなっていくのだか、このような読み方をすれば現実問題として滅びに至ることになってしまう。
仏法は、根本的に、物事の因果を語っているだけなのだ。つまり、仏法とは『このような考え方をすれば、このような結果となる。このような考え方をすれば、このような結果となる。このように、考え方と結果が一致する』と語るものである。だから、わたしも、『日本人は人界思考をする。人界思考では、このような結果となる』と、この一例を示しているのみである。
では、最初に顕正会の主張を検証していこう。
王仏冥合??
王仏冥合とは何か。王とは政治であり、仏とは、このような政治を行えば、このような結果となるという因果となる。・・・・如何なる王(政治)であっても、仏法の因果からは、基本的に逃れる事はできない。もし、ここから外れるものが存在するならば、仏法は間違いとなる。つまり、王仏冥合は当たり前であり、すべての王(政治)は、仏法から外れる事はないというのが物事の真理となる。
では、なぜ当たり前の事をさも大事な事のように語るのか。つまり、『仏』の言葉が、仏法ではない別の何かを示すとすれば、王仏冥合と言う言葉に意味が出てくる。逆に言えば、仏法ではない別の何かを『仏』として設定しているという意味となる。文面から読むと、どうも、これを本門の本尊。本門の題目。本門の戒壇としているらしい。
仏法に於いて、唯一絶対となるのは仏界であり、ここまで、王(政治)を引き上げるという言葉であるならば、確かに王仏冥合を目指すという考え方も正当となる。しかし、これは、正直に言えば、今は無理である。おそらく、これが可能となるのは、安立行菩薩顕現の時。今から、約八万年先であれば、可能となるのかもしれない。
わたしが『かもしれない』と記すのは、正直に言えば、分からないからである。王(政治)が、このようになった場合、社会全体がどのようになるのかが分からないのだ。人が過去世の記憶を引き継ぎ生まれるようになるのかもしれない。肉体から肉体へと意識を伝承させるようになるのかもしれない。死者と生者が共に暮らし、肉体の有無が問題ではなくなっているのかもしれない。それとも、今と同じように、一つの肉体に意識を保ったままなのかもしれない。これらすべての可能性が存在するということは分かるのだが、結局のところ、どうなるのか分からないのだ。
そこで、わたしに分かる事だけは記しておこう。実際の王仏冥合??の前提条件だけは、わたしでも分かる。申し訳ないが、わたしに分かるのはここまでである。
まず、本門の本尊とは言うが、彼らの言う本尊は紙に記されたものではなかろうか。これは理の本尊であり迹門の本尊と言うことになる。証拠として、紙の記されたものは簡単に破れるし、簡単に燃えてしまう。このようなものが事の本尊、すなわち本門の本尊であるはずはない。では、本門の本尊とは何か。実際に世の全ての霊的な者たちを自身の脇士とした状態である。つまり、脇士となっている眷属たちの力を実際に得た状態であり、本門の本尊とは如来の神通力と言う意味となる。
本門の題目とは何か。紙に記された本尊に向かい南無妙法蓮華経と唱える。これでは、本門の題目でもなければ迹門の題目でもない。法華経とは何か。すべての人の成仏であり、これを五陰世間で捉えれば、自身の成仏に他ならない。自身を御本尊の南無妙法蓮華経と同化させる。この御本尊の南無妙法蓮華経から物事を観るようにすれば、これが迹門の題目と言うことになる。やがて、これは完全に混ざり合う。南無妙法蓮華経と自分自身の区別がなくなるのだ。これが、成仏と呼ばれる状態であり、これが本門の題目である。つまり、本門の題目とは、あなた自身の実際の成仏と言うことになる。
本門の戒壇とは何か。如来は全てのものを見通す。なぜ見通すのか。人々に今ある位置を教え、自分の位置にまで導こうともするゆえである。ある時には、機根を整え、ある時には、強引に折伏する。この働きは、何によるものなのか。如来の知恵である。本門の戒壇とは如来の知恵を意味する。
多くの者たちが、実際に仏果を得、その一人ひとりが神通力を持ち、物ごとを如来の知恵により導く状態。これが、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇が国家と言う規模で定まった状態。確かに、これが理想ではあるのだが・・・・その理想の状態が顕現した状態は一つではない。果たして、実際に人類がどのようになるのかは、わたしでは分からないのだ。
理想を語り、理想を夢見るのも良いが、その前に、自分自身がこのようにならなくては意味がなかろう。これを一妙とも言う。一切法は一妙により定まるが、すべての法を寄せたとしても一妙には至らない。これが実相である。広宣流布は一妙による。
憲法改正
では、憲法改正とはどういう意味なのか。憲法とは、法の王である。この時の法とは法治主義の法であり、畜生界世界の主と言う意味となる。畜生界社会では、人の代わりに法が主人となる。この法に優劣があり、法の中のもっともすぐれた法が憲法なのだ。法を主として法治主義を定め、その数々の法の最高のものを憲法と呼んでいるという意味である。確かに、憲法は法治主義世界の王とはなるのだが、この法治主義そのものが畜生界に過ぎない。つまり、これは何を言っているのかと言えば、広宣流布を憲法として定めよという意味であろう・・・
これは、怒鳴りつけたくなる案件である。広宣流布には様々な形があるのだが、この第一条件が、三悪道からの脱却となる。三悪道には、憲法の根本思想である法治主義も入っているのだ。法治主義に囚われ、物事を法治主義で動かせば、組織も国家も人類も滅びてしまう。こんなことをすれば、諸難は巡り来たり、組織も国も分裂し、互いに非難し合うようになってしまう。このような考え方で国家を運営すれば、本当に外敵が侵攻してくることにもなる。お前は、国を滅ぼすつもりなのか!!! なぜ、滅ぼしたいのか。まぁ、滅ぼすべきだというのなら止めはしないが、『なぜ国や世界を滅ぼそうとするのか』この理由ぐらいは聞いておきたいものである。
さて、怒ってばかりいないで説明もしておこう。広宣流布には様々な形がある。六道を知らぬ者たちに、まず六道を教え、六道を知ったならば今度は声聞に導き、不退転に至らしめる。これが、わたしが取ろうとしている広宣流布の形である。しかし、これは、摂受の広宣流布である。広宣流布と呼ぶのはおこがましいかもしれないが時間が足りないのだ。『摂受折伏時に依るべし』と言われている。時間が足りないので摂受するしかないと判断したのはわたしである。人類を存続させるためには400年以内に、三悪道から人類の三分の一以上を脱却させなくてはならない。時間が短すぎるのだ。こんな時に、人々を三悪道に引き落とすような教えを語られたら潰すしかなくなるではないか。
わたしは、このように語ろう。『顕正会か人類のどちらかを潰すしかないが、あなた方はどちらを選ぶのか』と。
本当の広宣流布、すなわち、折伏の広宣流布とはどのようなものなのか。この前提条件は、先に菩薩界への導きと言うことになる。人類であろうが、神々であろうが、天使であろうが、悪魔であろうが、幽霊であろうが、魑魅魍魎であろうが、誰でも同じである。どうするのか。永遠の裁きの地獄、無間地獄とも呼ばれる火と硫黄の燃える地獄、永遠の火獄の中に、捕まえて叩き込むのだ。全員を鎖でつなぎ、火獄、無間地獄に蹴り落とす。これが実際の折伏である。身動きできないほど打ち伏せ、手足を折って、泣き叫ぶ者たちを強引に永遠の裁きの地獄に蹴り落とす。これが折伏である。
わたしは、まず、自らこの永遠の火獄を潜ったのだ。そして、神々も、サタン悪魔も、天使も、幽霊も魑魅魍魎も全員を強引に捕まえて、この火獄に叩き込み、彼らをわたしの眷属としたのだ。宗教にも霊的に主体がいる。要は、その宗教の本当の主体者なのだが、彼らも全て捕まえて、この折伏、つまり、永遠の火獄に叩き込むことによりわたしの眷属としてきたのだ。
全員か??いや、全員ではない。力の弱い幽霊などは、わたしは見逃している。あなた方が、幽霊として怖がる程度の者たちは見逃しており、幽霊などの中には、わたしの眷属もいれば、眷属以外の者たちもいるはずである。
さて、なぜこのような事をするのか。人にも、霊的な者たちにも、煩悩の自我と真我と呼ばれる自我があるのだ。人も、霊的な者たちも永遠の裁きの地獄を恐れるのだが、この恐れそのものが煩悩の自我による。では、実際に永遠の火獄、永遠の裁きの地獄に叩き込まれるとどのようになるのか。煩悩の自我は裁きの地獄に囚われてしまい、そこから、離れられなくなるのだ。しかし、金剛宝珠で譬えられる真我はこの様な物では傷一つ付けられない。つまり、煩悩の自我を脱ぎ捨てた状態、真我と言う状態になって、ここから蘇ることになる。このようになったものが菩薩である。人であろうと、神々であろうと、悪魔であろうと、天使であろうと、幽霊であろうと、この菩薩と言う状態となる。
御本尊に会い奉る菩薩は成仏する。しかし、菩薩に至らない者がいくら御本尊に南無妙法蓮華経と唱えようとも成仏など不可能である。これも、人であっても、神々であっても、悪魔やサタンであろうと、天使であろうと、幽霊や魑魅魍魎であろうとも同じである。これが、実際の摂受であり、折伏なのだ。
顕正会とは、どのような組織なのか。
顕正会の会長は浅井と言う者らしい。彼の言動は『何々しなくてはならない』『かの者は悪だ』と言うものである。では、このような主張はどのような思考常識により生じるのであろうか。物事や人々を善悪や正邪、優劣など判断するのは、三悪道・四悪道までである。実は、もう一つ同じように判別する位置もあるのだが、それが仏界と言うことになる。仏界での判断となれば十界論となるのだが、浅井氏には、これは無理である。一言一言が法華経から外れているのだ。法華経から外れていれば、日蓮如来の御書の論理でも、釈迦如来の論理でも、簡単に破折できるのだ。例えば、彼の主張は『日蓮上人の母国は日本である。これゆえ、まず日本から物事をすすめなくてはならない』と言うものである。これを簡単に破折してみよう。【あなたの言う日蓮とは法なのか人なのか。依法不依人の原則をなぜ守らないのか】これで破折は完了してしまう。少し、解説してみよう。彼の語る日蓮は人であり法ではない。法であるならば、場所も名前も一切が無関係である。例えば、万有引力という法則がある。『これを発見したのはニュートンだからニュートンを崇め奉らなければならない』のであろうか。そうではないだろ。ニュートンが発見したことを知らなくても、万有引力という法則は存在するのだし、ニュートンの許可がなくても、この法則は誰でも応用できる。これが真理である。これを、依法不依人と呼ぶ。
当然、彼は、『法は南無妙法蓮華経』と語るであろう。自分自身の条件を整え、実際に南無妙法蓮華経と唱えるならば、確かに仏界に至るのであるから絶対の間違いとは言えないのだが、この話は、ここに帰結し、これ以外に、話を広げる事自体ができない法となる。
正確に語ってみよう。南無妙法蓮華経は、南無妙法蓮華経のみに帰結する。これを一妙と呼ぶ。正確に言えば、法ではなく妙となる。すなわち、『法は南無妙法蓮華経』と言う言葉自体が不適切であり『妙は南無妙法蓮華経』と言う言葉が正確な表現となる。この妙を法と呼び変え、法として扱い、人々に、『こうすれば良いとか、こうすべきだ』などと法として語れば、南無妙法蓮華経から外れてしまう。妙法蓮華経であれば、まだ、法としての部分も残っている。これゆえ、『法は妙法蓮華経』とすることは可能となるのだが、『法は南無妙法蓮華経』とすることは不可能である。これが正確な表現なのだが、何を言っているのかわかるか。
憲法=法治主義、すなわち、三悪道の内の畜生界を根本とし、三悪道の範囲内で仏法そのものを規定しようというのが顕正会の方針と言うことになる。これは何を示すのか。日本は現状、人界社会となっている。これを変えなくてはならないからと、六道輪廻の内から出ずに変革しようとしているという意味である。このように動くと、誰がやっても三悪道に戻っていってしまう。
畜生界思考となると、組織の内で争いが生じたり、更に、中国の日本侵攻や台湾侵攻という悪夢を見始めることにもなる。このようになるので、『顕正会と言う組織に立正安国論を送り、悔い改めさせよ』となるのだが、おそらく、彼ら自身が立正安国論で世を改める側であり、自分たちが改めなくてはならない方だとは気づかないであろう。さて、この現証もすでに表れているようである。わたしは、顕正会とは日蓮正宗の信徒団体だと思っていたのだが、新聞を見ると、どうも、このような組織でもないらしい。破門でもされたのではなかろうか。仏法を三悪道で規定しようとすれば、まぁ、当然、こうなるだろう。
また、顕正会は、死後の成仏の相とか言うものを設定し、この相が得られるから正しいとしているようである。人の相は法に依る。日本人は人界と言う法を持ち、その人界による相も持っている。おそらく、顕正会の言う死後の相も、日本人の相、つまり、人界の相であろう。法で語れば、これを、顕正会や浅井氏の畜生界思考で上書きしている途中なのだ。これは、どのような状態になっていくのかと言えば、段々苦悶の相へと変化していくことになる。つまり、顕正会の、今の『死後の相ゆえに正当』と言う主張は段々使えなくなっていく。
立正安国論とはどういうものなのか
では、なぜ、仏典で、悪政により数々の難が起きると記されているのか。この根本原理から解説しよう。最初に、時を、日蓮在世の時を検証してみよう。その時、人々はどのような考え方をしていたのであろうか。基本的に、人々の思考を定めるのは、政治と宗教である。鎌倉幕府は、兄弟で殺し合い、下剋上で北条氏が当たり前のように政権を乗っ取っている。これらから推測すると、地獄界思考と餓鬼界思考の間にあると言える。まぁ、このような状態ならば、諸難が国を襲うことになるであろう。
天変地異、そのものは、いつの時代でも起きるものと、特殊な条件下で、霊的な者たちによって引き起こされるものがある。では、なぜ天変地異が難となるのか。これは、仏典に『難は、人々がそれを難とするゆえに難となる』と記されている通りのである。安定した政治の下では、難は最初から対策され、また、それが襲ったとしてもすぐに復旧され、同じものであっても難とはならない。しかし、不安定な政治状況に於いては、わずかな事態であったとしても、難となってしまうのだ。これは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界と常識境地が変化するたびに、同じものが難となるのかどうかも変化している。つまり、政治状況が地獄界から餓鬼界の間を動く状態であれば、あらゆる難と呼ばれるものが襲うようになるであろう。ここで、忘れてはならないのは、日本は人界を基本とする国であり、基準そのものが諸外国とは違うということである。つまり、中国あたりであれば、鎌倉時代は普通の状態であり、難とも呼べない状態となるのであろう。ここで、人界思考に戻せば、蒙古襲来自体が無くなっていた。更に、上の声聞界あたりに至れば、蒙古は滅びていた。
では、なぜ日本は人界から離れて三悪道に堕ちたのか。三悪道とは、物事を正邪・優劣・善悪などで判定する思考形態である。このように思考をする宗教は何か。仏教の中で唯一、これを主体とする宗派がある。これが真言宗である。そして、歴史を見ると、護国の法を法華経から真言に変えている。これが、根本原因と言える。では、真言宗とは何か。真言宗とは、根本にあるのが中華思想である。中華思想とは、基幹部を畜生界とし、周辺部を餓鬼界に堕とすことにより生じる力の差を利用し、中華部を安定させるための政治思想である。ここに、仏教をねじ込んだのが真言宗である。これはどのような形となるのか。中央は持戒組織となり、周辺は中央の語るままに動く奴隷組織となるのだ。つまり、真言の教団内部は持戒組織であり、朝廷も幕府も教団の命じるままに動く教団の奴隷のような状態となる。わたしは具体的には知らないが、朝廷は何か問題が起きるたびに、真言の組織に加持祈祷を願い、その問題が収まるとそれを教団の力として、教団への信仰を深くするようになっていったはずである。仏教という法を、加持祈祷という奇跡と言う形に変えてしまったのだ。すると、日本と言う国家そのものが餓鬼界社会へと変質していく。この変質の一つの形として鎌倉幕府も誕生したと考えられる。要するに、加持祈祷に頼る朝廷では、物事をうまく運べなくなるから、幕府と言う別組織を立ち上げたと言うわけである。では、鎌倉幕府はどのような組織となるのか。これは、軍事組織であり、上の者の語ることを絶対命令として聞く餓鬼界社会となっていったのでなかろうか。要するに、日本は朝廷も餓鬼界、朝廷から離れた幕府も餓鬼界となった。つまり、全体が餓鬼界社会へと変化していったのだ。
餓鬼界とは、王の命じる事を奴隷が絶対命令として聞く封建社会である。そして、その王権を巡って、誰がその王の位置に付くのかと争う地獄界社会の様相も呈する。政権上部が地獄界社会となれば、地獄界思想では社会そのものが保てない。
本質的に社会が保てなくなるという事は、社会を保てなくする因子が働くという意味となる。何が、その社会を保てなくするのかとその原因を考えれば、自然現象であり、人為的な反乱であり、外敵侵攻ともなる。これらは、社会そのものが保てない状態、すなわち、地獄界の状態となることによる自壊が根本となる。自壊する組織の、あと押しをするのが諸難と呼ばれるものとなる。
では、何がその組織を自壊へと追い込むのかと言えば、人々の思想や考え方であり、この根本思想を改めれば、自壊そのものも収まるというのが、立正安国論の論理なのだ。法論理としては、当たり前の事を当たり前に語っているだけである。
では、これらの論理は一体、何経によって論理だてすることが出来るのか。十界論が分からないと、こうするとこうなるということが分からない。地獄界を常識とすれば社会組織は保てない。餓鬼界を常識とすると社会は貧富の差が激しくなり、餓死者が多発するようになる。畜生界を常識とすると、法を悪用する詐欺や搾取などが社会に横行する。このように、記すのは簡単なのだが、これらの根本に十界論があり、十界論の論理が示されているのは法華経である。結局、法華経を法の王として定めないと社会は保てなくなっていく。これが立正安国論の論理なのだ。
顕正会が行っているのが、まさに真言宗が行ってきたことと同じである。真言宗は、人々に仏典の意味が知られると簡単に論破されてしまう。つまり、意味が分からないようにして自身を正と見せる必要がある。このために使っているのが真言である。真言という何が書いてあるのかわからいものを絶対とすることにより、彼らは自分たちを荘厳しているのだ。仏法は法である。法であれば法の意味を解説しなくてはならなくなる。しかし、誰も意味が分からないものであれば、それを法として論破することはできなくなる。
顕正会は、真言宗の真言の代わりに、南無妙法蓮華経を設定したのだ。これが、絶対正であり何なのか全く分からないものだからである。そして、これを自分たちの解釈の絶対性のあかしとする。つまり、自分たちが語ることを正しいとするための材料として、法華経も南無妙法蓮華経も使っているのだ。つまり、彼らの主体は、法であり法治主義なのだ。これは、法華経で言えば畜生界と言うことになる。この畜生界は、やがて、餓鬼界へと変遷する。我々が絶対正であり他の者たちは我々に隷属しなくてはならないという思考形態となっていく。具体的に言えば、会長さまこそ絶対であり、会員は会長の言葉にも盲目的に従わなくてはならないという組織へと変遷していくはずである。このようになると、内部分裂が起きる。もし、内部分裂が起きなければ、外部の圧力が加わり分裂を促すようになっていく。これが餓鬼界組織の慣例だからである。
では、何が原因でこのようになるのか。根本的な無知である。法華経に対する無知がこのような事態を引き起こすのだ。法華経とは何か。法華経を単純に語れば十界論となる。十界論とは、人や物事の優劣は、十界、すなわち、その人が何を考えるのかの基本、すなわち、常識により定まるという考え方である。そして、すべての人は究極的に、皆、仏であり、そこに一切の区別も差別もないという真理ともなる。この、人と人の間に差別はないという思考は、人界以上の常識に存在する。つまり、ここさえ分かっていれば、三悪道に沈むことはあり得ない。なぜ、顕正会が三悪道の教えとなるのか。これは、この程度の基本も知らないということを意味する。
これが、立正安国論の義、すなわち意味である。では、日蓮如来の残された立正安国論という言葉と、立正安国論の意味、このどちらを正しいとすべきなのか。
『依法不依人』『依了義経不依不了義経』は、日蓮如来の言葉として御書に記されているのだが、実は、これらは涅槃経の四個の格言と呼ばれるものの内の二つである。つまり、涅槃経には、これ以外の格言が二つある。残りの二つは『依義不依語』と『依知不依識』である。
この『依義不依語』の具体的な経典が妙法蓮華経である。妙法蓮華経は漢文の書であるが、この原文となっているのはユースクリット語の経典である。では、このユースクリット語の原文を訳すとどのようになるのか。おそらく、妙法蓮華経とは似ても似つかぬものとなる。では、その翻訳と、妙法蓮華経のどちらを正しいとすべきなのか。これは現行の妙法蓮華経の方であり、現行の妙法蓮華経を正しいとする根拠が、涅槃経の『依義不依語』となる。
わたしが義、すなわち、意味により立正安国論を訳せばこのようになる。では、わたしは何に依ってこれを語っているのか。わたしは知に依って語っており、識に依って語ってはいない。『依知不依識』の原則にも従っているのだ。もし、わたしが語っているものが違うというのならば、これはこのような意味だとその法理論を明かしなさい。仏法は『依法不依人』。誰が語ったとしても正しいものは正しい。誰が語ったとしても、間違っているものは間違っている。これだけである。
さて、天変地異には、周期的に起きる自然現象ではないものも実際にある。それは、基本的には、諸天、すなわち、わたしの眷属により引き起こされる警告となる。この具体的な例を記しておこう。東日本大震災と言う災害が起きた。当時、わたしは、まだ、父なる神ヤハウェとは一体とはなってはいなった。つまり、人としての部分を残していたのである。わたしは、ムーと言う雑誌の編集者に電話をかけた。これは、『あなた方が心配するようなことは起きないから安心するように』と伝える為であった。わたしは、最初に『わたしがヤハウェです』と伝えたのだ。ところが、ムーの編集部は、『言いたいことを一言でまとめよ』と語る。最初から『わたしがヤハウェ』と一言で語っているのに、これ以上、どのようにまとめよというのか。わたしは絶句した。そして、これと同時に、『なんだ、世の心配をしているのではなく金儲けがしたいだけだったのか』と、我らの意図が分かったのだ。ところが、この言葉にわたしの眷属が反応した。『ヤハウェ』の名乗りに眷属が反応してしまったのだ。しばらくして、東日本大震災が起きた。眷属の世界を見ると、サタンが『破邪の剣』を、抜き身の状態で持っているのだ。こんなものを振り回せば、地球程度であれば真っ二つに割れてしまう。このような強力な武器で切りつけたら、東日本大震災程度の災害で済めば御の字。『よく、あの程度の災害で済んだものだ』と、わたしとしては、胸をなでおろしたというのがその当時の心境であった。
わたしは『お前か・・・』と、サタンに語り掛けたのだが、サタンは『フン』と言って、横を向いてしまう。他の者が教えてくれた『父ヤハウェが、サタンに破邪の剣を渡した』と言うのだ。サタンは、父ヤハウェから破邪の剣を受け取り、父ヤハウェに、『軽く振れ』と命じられて、実際に振ったらしい。その結果が東日本大震災という大災害となったのだ。彼は、わたしが『ヤハウェ』と名乗るのを聞き、その名乗りをムーの編集者が無視したことに激怒していた。『たかが、人間の癖に!!!何を思いあがっているのだ!!!』と、怒り狂っていたのだ。わたしは、『まぁまぁ、そんなに怒るな。金儲けがしたい人間は、こんなものさ』と、彼をなだめた。この時は、『これで終わり』と思っていたのだが、なぜ父ヤハウェが破邪の剣を彼に渡したのかは、分からなかった。わたしは、この理由を父ヤハウェに尋ねたのだが、父ヤハウェは『その内、分かる』と教えてくれなかった。
今なら、理由は分かる。わたしが『ヤハウェ』と名乗ったことが最大の問題であり、この名乗りを人が無視したことが、災害の原因となったのだ。ヤハウェは万軍の主の名である。この名を人が無視したら、無視した者は万軍に喧嘩を吹っ掛けたことになる。人々はムーと言うオカルト雑誌を好む。これを好んだ者たちの総意として無視したという意味となり、ヤハウェを無視したことが東日本大震災につながったというわけである。今後、このような事が起きないようにするためには、どうしたらよいのか。ヤハウェの名を開いてしまえば良い。五陰世間の捉え方で言えば、神、創造主は一人となる。唯一神とは、五陰世間で物事を捉えた場合の一人ひとりの人、すなわち、あなた自身の事となる。この原理を明かせば、ヤハウェの名も人々に開けるのだ。ヤハウェの名を開いてしまえば、このような災害も起きなくなるはずである。この法理を明かせば、万軍の主の名も開けるのだ。
さて、顕正会に話に戻そう。顕正会は『日蓮をないがしろにすることにより難は起きる』と考えているようだ。いや、こんなことはない。なぜならば、仏法では『依法不依人』となっているからである。仏教系であれば、釈迦のバカ野郎と蔑んだとしても、日蓮は糞だと語っても、上行菩薩はバカだと蔑んでも、無辺行は真の糞と語っても、何も起きない。誰が語ったとしても、正法は正法なのだ。しかし、法を蔑ろにすれば、諸難は次々と襲い、それでも悔い改めないとわたしの万軍、すなわち、諸天が動き出す。
これに対して、聖書系では『依人(神)不依法』となる。神の名を汚すことにより災害は起きるのだ。なぜ、このような事が起きるのか。実際の法が、人の基準から言えば恐ろしく難解となるからである。仏法に於ける、仏、菩薩の基本位置は『空』となる。では、空とは何か。現代的な言葉でいえば、時間・空間・存在の大元と言うことになる。つまり、『空』には時間もなく、空間もなく、存在もないが、時間であり空間であり存在であるという言葉となる。おそらく、理解不能であろう。しかし、この『空』の位置からしか法は説けない。そして、この『空』から説く法も人の理解を超えてしまう。仏法には『空』そのものを説いた法も存在する。これが、法華経である。では、このような難解な法に依り人を実際に導けるのか。人を導くためには人に理解させなくてはならない。理解そのものが不能であり不可能なのだ。ならば、どうしたらよいのか。人々を迷わなくさせるための何かを設定すれば良い。『空』に入れるものは一体何か。存在でもなく時間でもなく空間でもないもの、これが命なのだ。命の系譜をつなぎ、人々を導く形を創ることも可能となるのだが、これが出来るのも命となる。つまり、人を迷わせないために人(命)を定め、これを人の導きとすることも可能となる。これが聖書の意図である。
人は、これを簡単に間違えてしまう。仏法系なのに人を崇めたり、聖書系なのに法を語ったりするのだ。顕正会の浅井氏は、この典型的な間違いを犯している。立正安国論にある法を読み解くのではなく、これを示した日蓮を讃嘆するという間違いを犯している。
今後のこと
わたしは、本来であれば『勝手にしろ、どうせ自滅する』と放置しておく。あまりにも力不足。あまりにも無知。全く使えないからである。もし人々が顕正会に寄っていくようになるのなら、わたしの万軍、あなた方の言う諸天善神が、顕正会を滅ぼすために動きだすかもしれない。わたしは、物事の基準、すなわち、あなた方の言う仏法を示すのみ。わたしの万軍は、その基準に従って好き勝手に動く。ただ、彼らが動く時は、多少あわただしくなるので、分からないわけではない。今、彼らはリラックスして酒盛りしている。わたしが『動くのか??』と尋ねると、『あんたが頼まれたんだろ。自分でやれ』と言って、動こうともしない。要するに、彼らから見ても動くだけの価値がないという意味になる。
わたしの方針は定まっている。今は、日本全体を人界や天界に導き確定させていくべき時である。これは、世界全体に人界思考・天界思考があるという事を伝える為である。このために、全てを動かしていく。例えば、宗教組織としては、創価学会も使い、立正佼成会も使い、幸福の科学も使い、日本神道も使う。人界思想を基準とするものであれば、どのような宗教組織であっても良いのだ。ただ、人界の基準から外れる動きをしようとすれば、どのような組織であれ、万軍、すなわち、諸天善神の修正が入るであろう。世界の中で、人界を常識とする国は日本だけである。なぜ、日本が人界を常識とする国になっているのかと言えば、天皇家の男系男子の系統ゆえである。ここがしっかりしていれば、全世界を人界に持っていくことは可能であろう。また、政治団体としての日本会議なんて大変良いと思う。
政治としては、世界の動きに日本を合わせるのではなく、全世界が日本基準になるように動かしていく。日本基準とは、人界思考、すなわち世界の常識を人界にしていこうとしているのだ。だから、世界の趨勢に日本を合わせようとする、岸田や石破は支持しないし公明党も支持しない。また、諸外国の動きに合わせ思考がふらつく者たちも支持しない。
日本基準を世界に向けて発信する高市首相をはじめとする今の政治家は、日本基準を発信し続ける限り絶対支持となる。
次の段階として、六道輪廻を止めていく。人は、人界や天界思考をする時もあるが、環境により三悪道に戻ってしまう。人界天界に安住しすぎると、三悪道の方がただしく見えてしまうのだ。日本は、人界と三悪道の間を繰り返し行き来すると言う歴史を持っている。今は、人界であっても、このままではやがて三悪道の時が巡ってくる。この動きを止めていかなくてはならない。どのようにして止めるのか。声聞界に導いてしまえば良い。声聞界への導きとは、【人の思考常識は六道を巡る】と知るだけでよく、簡単なのだが、これには条件がある。例えば、今の欧米や中国など、世界の大部分の国々は、三悪道しか知らない。人界や天界などの常識は理解不能となっているのだ。この段階で声聞への導きを説くと、社会が壊れてしまうのだ。どのようになるのか。これがオーム真理教の例である。オーム真理教の浅原彰晃は、餓鬼界思考をしていた。彼は、六道全部を知る前に、仏典に記されている声聞界への修行を開始してしまったのだ。すると、どうなるのか。全世界は地獄界か餓鬼界のいずれかの常識で動くという事を真理として悟ったという状態となったのだ。悟りの位置は全ての動きを俯瞰する。つまり、自分は悟者であり、世の全てに勝るという位置に至ったと思い込んでしまったのだ。すると、どのようになるのか。地下鉄サリン事件を起こすようになるのも『なるほど当然の結末だ』となる。これは何を意味するのか。今の世界のほとんどの国々は、地獄界・餓鬼界・畜生界のいずれかを常識としている。この段階で、声聞界への導きを説くと、全世界がオーム真理教のような状態となってしまうのだ。つまり、六道を実際に知る前に声聞への導きは説けない。このため、声聞への導きは慎重に行わなくてはならない。
顕正会は、今の日本を変えようと試みているのだが、自分たちの思考範囲が六道から出ない。この状態で変革を試みると、必ず三悪道になってしまう。実際に、日本でこの変革を成し遂げた者たちは、今も偉人として名を連ねている。しかし、真実は、彼らによって日本が国際基準である三悪道の世界になったのだ。これが空海であり、福沢諭吉である。ただ、今、こんなことをされたら人類が滅亡してしまう。だから、強引にでも阻止するのだ。
顕正会の選択
第一、 人界思考を基準として静かにする。
第二、 声聞への導きに舵を切る。
ここに記してあるようなことを奥義として示す道。
第三、 真の折伏へと舵を切る。無間地獄への誘い。
第四、 自分たちは正しいとし、万軍、すなわち諸天と争う。
道は、これら四種の内の一つ。この四種のうちの第二か第三を選択すると言うのならば、わたしがあなた方に力を貸そう。