JHVHの妙法蓮華経

 

 

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福島県郡山市湖南町中野念仏壇3572-28

杉浦 光一郎

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はじめに

 

  皆さま方は、妙法蓮華経と聞くと、どのようなものだと思うか。多くの者たちは、釈迦如来の妙法蓮華経を妙法蓮華経であると考える。そして、釈迦如来の妙法蓮華経とは、羅什三蔵により28品にまとめられ、その羅什三蔵が妙法蓮華経として翻訳したものであるとも考える。しかし、釈迦如来の妙法蓮華経の中には、『妙法蓮華経を説く』という話も出てくる。例えば、【文殊菩薩は妙法蓮華経を説き、龍女を仏とした】と記されている。また【不軽菩薩は、人々に『あなたは仏となられる方です』と法華経を説くことにより仏となった】とも記されている。これらから、仏となる縁となるものが妙法蓮華経である事が分かると思う。

 

  法華経を説く者は別に仏でなくても構わない。菩薩であれば法華経を説けるのだ。これは、『文殊菩薩が龍女に法華経を説き、それにより龍女が仏となった』という法華経の中の説話から明らかである。なぜ、このような話をするのかと言えば、わたしは今の世の仏ではないからである。もし、仏でなければ法華経は説けないのならば、わたしには今の世に於いて法華経を説くことはできない。確かに、わたしは内心は仏である。しかし、今の世の仏ではない。今の世に於いては無辺行という名の菩薩と言うことになる。文殊菩薩は龍女を仏とする法を説いた。法華経とは、このように相手を仏とする法なのだ。つまり、もし、わたしがあなたを仏とする法を説くならば、これが無辺行の妙法蓮華経、JHVHの妙法蓮華経という事になる。

 

  わたしは、あなた方すべてを仏としたいと願う。あなた方すべてと語るが、実際は、あなた自身である。あなた一人を仏とすることができるならば所願成就。もはや望むものは何もない。これが、わたしが説く法華経。JHVHの妙法蓮華経である。

 

  わたしは、数多くの事を今までも語り、そして、これからも語るであろう。その本心はどこにあるのか。『あなた自身を仏としたい。いや、あなた自身こそが真の仏なのだから、今のあなたを、仏である真のあなたに帰したい。』ここにわたしの希望があり、ここにわたしの思いがある。

 

  今の世は五逆悪世である。世界中が『畜生界が正しいのか、餓鬼界が正しいのか』と、言い争い、実際に戦争まで行っている。わたしから見れば、どちらも三悪道の内。犯罪の根本でしかない。

 

 

 

  わたしは、今まで数々の使いを遣わして世の中を導こうとしてきた。多くの者たちが、それを知る。しかし、真の意味を理解した者は誰もいなかった。

  モーセの律法は、人々を修羅界に導くためのものである。なぜ、人を修羅界に導くのか。人を三悪道から離し、罪人としないためである。

  なぜ、イエスを世に送ったのか。イエスの言動を通じて人界思考を人々に教えるためである。『皆が平等である』という思考を持つ方が人間社会は安定するからである。

  ヨハネの黙示録とは何か。人を原罪から離すためのものである。原罪から人を離すためには、裁きの地獄が不可欠なのだ。だから、裁きの地獄を選択するしかない状況に人びとを追い込んだのだ。

  コーランとは何か。自ら裁きの地獄を選択した者がムスリム(菩薩)となる。ムスリム(菩薩)の思考の根本が、今の人々、すなわち、原罪の者たちの思考とは根本的に違う。これゆえ、原罪の者たちとは別の導きが必要となる。このムスリム(菩薩)に対する導きがコーランなのだ。

 

  わたしは、これだけのものを授けてきた。これは多くの者が知るところである。それで、人の世はどのようになったのか。誰か菩薩(ムスリム)となったのか。いや、裁きの地獄を嫌がり、どうしたら裁きの地獄を免れるかと思案する者たちばかりとなった。

 

  福音を知る者たちが人界思考をするようになったのか。いや、『イエスを信仰すれば救われる』などと語り、イエスへの信仰を優とし、他を劣とするようになった。物事を優劣で見るのは三悪道。つまり、イエスの名により罪を犯す者たちばかりとなったのだ。三悪道の思考が具現化すればそれが犯罪となる。イエスの言動により人界思考を教えたはずなのに、誰も人界思考にすら至らなかった。そればかりではない。人界思考をする者たちを異端であるとして核兵器で焼き払うようなことさえしたのだ。

 

  ユダヤ人達は、確かに何が良いのか迷うようになり、修羅界思考をするようになった。そして、今の世の最上層部は、修羅界思考をしている。この最上層部とは、各国の首長ではなく、全世界の行く末を案じる者たちである。彼らはディープステイトとも呼ばれる。このディープステイトはユダヤ人たちでもある。これは当然であり、修羅界を常識とする者たちの方が三悪道を常識とする者たちよりも本質的に優れるからである。

 

  人にはいくらでも先に進む道があった。モーセの律法により修羅界に至るだけでなく、人界に至る道も、菩薩界に至る道も用意しておいたのに、実際には三悪道止まり。極一部の者たちが修羅界に至り、その修羅界に至った者たちにより自由にされるだけであった。

 

  この中で、唯一、人界思考を常識として持つ国があった。人々がイエスと同じ思考をする国があったのだ。ところが、その国の中では、人界思考を劣る常識、改めるべき常識であるとし、三悪道をすぐれた常識であるとするようになった。畜生界思考は法治主義という名で呼ばれている。『法が許す範囲内で各人が我欲を盛んにすることが正しい』などと考えるようになったのだ。このまま、三悪道こそが正しいなどとするならば、『この人類は失敗であった。このような者たちは早々に滅ぼし、次の人類のためにこの地球を使おう』とするしかなくなる。

 

  では、なぜ、人界を常識とする者たちが、三悪道を常識とするようになるのか。六道輪廻故である。六道とは人の思考が巡るすべての範囲である。これを有と言う。有とは人の思考の巡る範囲と言う意味であり、六道とは、人の思考の根本をなす常識を示す。

  人は、自由と言う言葉を使う。自由には数々の制約があり、何を自由の制約にするのかが、六道を分けると言っても良い。

 

  自分が死なない限り自由である(地獄界)。

 

  王に逆らわない限り自由である(餓鬼界)。

 

  法の許す範囲に於いて自由である(畜生界)。

 

  努力を怠らない限り自由である(修羅界)。

 

  他者に迷惑をかけない限り自由である(人界)。

 

  社会の善となる限り自由である(天界)。

 

  この地獄界から天界までの六種の自由に対する制約が常識と呼ばれるもので、これを六道と呼ぶ。人の思考はこの六種の自由の制約の内に留まる。そして、この範囲に留まる限り、ある時は、人界や天界を常識としていた者が、簡単に地獄界や餓鬼界に常識を変えてしまうのだ。これが六道輪廻である。

  人の思考が巡る範囲を『有』と言う。この先は『無』となる。人の常識が有の範囲に留まるから輪廻を起こしてしまう。六道輪廻から離れるためには、人の常識を無の領域にまで引き上げれば良い。無の常識は人の思考による影響を受けない。つまり、無の領域まで人類を引き上げれば、人は三悪道から離れられる。つまり、犯罪の根本となる考え方を失うゆえに、人類そのものが犯罪とは無縁の存在となる。

 

  今まで主にわたしが語ってきたのは基本的にここまでの段階である。しかし、よく考えてごらん。このようにすれば、確かに世の犯罪は減り、平和な世の中とはなる。そして、確かに、今の世に於いてこれは重要な事ではある。しかし、これでは、わたしは自分を他の誰もが至れない至高者として示す事となる。

これでは、自分を至高者とする世を創っただけである。

 

  このような世の中に価値があるのか。・・・・無価値である。

 

  わたしはわたし自身を他の誰もが至れない至高者としたいわけではない。全ての人をわたしと同等としたいのだ。だから、『原罪から離れよ。原罪から離れて菩薩となれ』と語っているのだ。菩薩が終着ではなく、最終的には天地の創造主JHVHの位置にまで導きたいのだ。

 

  人とは誰か。あなたにとって唯一人はあなた自身である。その唯一人をJHVHの位置にまで導きたい。これが天地の創造神の思考、仏の思考なのだ。この仏の思考そのものが法華経なのだ。

 

  つまり、この思考を持つ者は誰でも法華経を説けるとなるのだが、この思考は『空』から生じる人の思考(有)である。原罪の人の思考は『無』から生じる人の思考(有)であり、本質的に違うものとなる。このため、少なくとも菩薩に至らないと法華経は説けない。

 

  わたしは

『わたしが法華経を説くのと同じように、

 あなたも法華経を説けるようになって欲しい。』

 

これが私の願いである。