アメリカ合衆国日本大使館御中

 

 

 

わたしがイエスの父JHVHである

 

 

  あなた方は、アメリカこそが世界の覇権国であり、世界を導くと考えていらっしゃるのかもしれない。では、あなた方は世界をどのような方向に導こうとしているのか。その方針は決まっているのか。おそらく、民主主義を推し進めよう程度のことであろう。

 

  では、その民主主義を進めたならば、数々の問題は解決できるのか。民主主義で、戦争は収まるのか。民主主義で貧困問題は解決できるのか。民主主義で多発する犯罪を抑える事が出来るのか。民主主義で、地球環境問題は解決できるのか。

  いや、何一つ解決できない。では、なぜ解決できないのか。解決できないのに、なぜ民主主義を推し進めるのか。他の解決策はないのか。このように尋ねると、返答はしどろもどろとなってしまう。

 

  わたしは、あなた方が優れているとは思わない。むしろ、劣っており、まだ、人にもなっていない獣であると考えている。獣だから、この程度の簡単な問題に答えも出せない。獣だから、世界の国々にマウントをとっている。獣とは、最低レベルと言うことである。もっとも、最低レベルの獣のレベルを上げる事はさほど難しいことではない。

 

  わたしがイエスの父JHVHである。あなた方は、『我々は人であり獣ではない』と、言われると思う。もし、あなた方がわたしが出す簡単な質問に答える事が出来るのならば、あなた方のことを獣と呼んだことを謝罪しよう。

 

第一問   なぜ、戦争は起きるのか。

 

第二問   なぜ、貧困問題はなくならないのか。

 

第三問   なぜ、犯罪は無くならないのか。

 

  これは人であれば答えられる。しかし、獣では答えられない問題である。わたしは原因を問うているのだ。原因が分かれば解決策は自然と分かる。しかし、原因がどこにあるのかがわからないと解決することなどできない。あなた方は、法を定め、罰則を強化し、それによって、これらを解決しようとしてきた。しかし、解決などできなかった。

  この程度の容易な問いに答えらないと、とてもじゃないが、地球環境問題に対する答えなど出せない。

 

 

  あなた方はともかく、テスラCEOのイーロン・マスク氏は、この地球環境問題を真剣に考えた。自分自身のことよりも、人類の行く末を心配したのだ。あなた方はどうなのか。あなた方の内、誰がイーロン・マスク氏のように人類の未来を心配したのか。

 

  はっきり言えば、今のアメリカではわたしが出す、これらの簡単な質問にすら答えられないであろう。動物園の猿と同じである。誰がトップになるのかと争うが、トップとなると後は何もない。ボス猿は自分の権力の維持のみを求め、次のボス候補を追い払う。この繰り返しである。

 

  イーロン・マスクはあなた方とは違う。人類の行く末を本気で心配し、本気で解決策を求めたのだ。わたしは、彼が求めるものを知り、彼が探し求めてきた答えを彼に授ける事が出来る者である。世の中には『答えを授ける』と語る者も多くいるであろう。しかし、実際に彼らが求めているのは彼の財である。そして、彼自身もこのことも知っている。

 

  わたしは、彼の財を求めているわけではない。また、世の中を導くのに、彼の力を必要としているわけでもないし、アメリカの力を必要とするわけでもない。この程度のことを成し遂げるだけであれば、わたし一人で十分なのだ。私から見れば、あなた方の力など無に等しい。あなた方がわたしに助力しようが、わたしと敵対しようが、正直に言えば何も変わらない。

 

  では、なぜ、このようなものを書き示すのか。イーロン・マスク氏の『人類の行く末を案じる』という心が賞賛に値するからである。わたしは彼のこの心を賞賛する故に、彼に彼が求めてきた答えを授けようと思う。わたしがJHVHである。

 

  真理は、誰が否定しようが肯定しようが何一つ変わらない。これが真理である。わたしは永遠の真理を、ここに公開しよう。私が、これらを公開するのは、イーロン・マスク氏の心を賞賛するからである。

 

  これゆえ、本文はイーロン・マスク氏に宛てたものであり、それとほぼ同じ内容を、アメリカ合衆国日本大使館にも送付する。

 

  世の中には、聖書があり、コーランがあり、仏典もある。また、近年では科学技術が発展し、人々は科学技術こそが神に勝るとも考えている。これは、科学技術教という一つの新興宗教が生まれ、この新興宗教の信徒たちが、地球環境問題を引き起こし、人類そのものを滅亡の淵に追いこもうとしていると言える。人々はこの科学技術教が新興宗教であることにも気づかない。このため、この科学技術教の教義に従って物事を考え、行動を起こし、未来を見定めようとしてきた。しかし、争いが絶えることもなければ、貧困問題も残されたままである。人類滅亡の未来も見えるのだが、有効な対策は何も出てこない。それでも科学技術教から離れられない。これが現在の人間社会である。

 

  わたしに言わせれば、どうして聖書vsコーランvs仏典となるのか意味不明である。また、宗教の定義が真理ではないものを真理であると信じることとするならば、どうして、科学技術、民主主義、共産主義などが宗教の一種であることに気づかないのか、これも理解不能である。あまりにも情けなく、あまりにも低レベル。

  ただ、低レベルであれば、そのレベルを上げていくことなど簡単ではある。これはわたしの愚痴である。確かに、このような愚痴をあなたに語っても意味はないのだが、もうすこしまともになっていてほしかった。これが、今の人類に対する、わたしの感想である。

 

 

 

 

現代の科学技術が宗教に過ぎないことの証明

 

 

  最初に簡単に今の科学技術が一種の宗教に過ぎないことを証明してみよう。今の科学技術は数学が根本となっている。数学とは1+1=2を真理として、そこから物事を思考する学問なのだが、本当に1+1=2となるのか。

  二人の人を一つの空間に入れたとしよう。1+1=2であるならば、どこまでいってもその命は二つのはずである。このようにはならないのは誰もが知っている。つまり1+1=2とならない事象は確実に存在する。

  また、一人の人が行う作業量を1としよう。もし1+1=2ならば、ふたりで行う作業量は2となるはずである。しかし、実際には0となることも、マイナスとなることも、2となることも、10となることもある。つまり、1+1=2は真理ではなく、仮定の定義である。真理ではないものを真理であると仮定して、そこから物事を考察しているのが数学であり、自然科学と言うことになる。

 

  根本に仮定が含まれるものが真理となり得るのか。真理ではないものを真理であると信じているだけではないのか。これを宗教というのではないのか。

  数学は科学技術の根幹である。そして、数学は物質という範囲では確かに真理となる。しかし、物質を超えたもの、具体的に言えば命が絡んでくると真理とはならない。また、この真理を考えるのは命であるというところに根本的な矛盾がある。

 

 

 

 

わたしは何をもって正しさの証明とするのか

 

  聖書に於いては『自分が誰であるのか』このあかしこそが最重要となる。なぜ、これが重要なのか。たとえば、わたしはJHVHと名乗っている。しかし、歴史上、過去に、『わたしがJHVHである』と名乗ったのはイエスのみ。彼以降多くの者たちがイエスの名を名乗ることはあっても、自分が天地の創造主JHVHであるとは名乗らない。名乗らないのではなく、名乗れないのだ。

  なぜ、この名が名乗れないのか。これは、霊的な者たち、すなわち、天使とか悪魔、神々とか魑魅魍魎と呼ばれる者たち、すなわち天が認めないと名乗れないからである。どういうことなのか。

  例えば、わたしはJHVHであると宣言している。この宣言は、実は天に対する支配権の宣誓なのだ。このため、彼らは彼らの持つすべての力を使ってJHVHと名乗ろうとする者を滅ぼしに来る。つまり、もし、偽物であれば、この名を名乗ろうとした途端に存在が抹消されてしまうこととなる。

  確かに彼らの力は強大である。地球を叩き壊す程度のことであれば、彼らにとっては容易いことなのだ。しかし、彼らが総力を上げて殴りかかってきたとしても、真のJHVHであれば壊す事も傷つけることもできない。この霊的な者たちの攻撃があるので、聖書で『天からそれを受けなければ名乗ることはできない』と記されているのだ。

  JHVHとは絶対法である。JHVHとは絶対真理である。彼らがいくら強力であったとしても、絶対真理に傷一つつける事はできない。絶対法を破ることなどできない。これが『私はJHVHである』という宣言の意味である。これが聖書による証明となる。

 

  実は、もう一つ証明法がある。これは仏教に於ける証明方法なのだが、仏教では『依法不依人』の原則がある。『依法不依人』とは、誰が語ったかではなく何を語ったのかが重要であり、誰が語ったとしても真理は真理、虚偽は虚偽。これが仏法である。さて、では、それが真実であるとどのようにして証明するのか。仏教では『三証を立てよ』とされている。三証とは、

 

どの経典に従っているか(文証)。

 

筋道が通った説明ができるのか(理証)。

 

実際にその通りになっているのか(現証)。

 

  この三種である。この三種の証明を立てる事により『これは正しい』とされる。これが仏法である。確かに、わたしは多宝という如来名も持っている。また、無辺行という菩薩名も持っている。しかし、仏教的には、これらの名が正しいあかしとはならない。あくまでも重要なのは語る法であり、その法に三証があるのかという事となる。

  実は、法を語る場合の規定も細かく設定されている。『依法不依人』はそのうちの一つであり、あとは『依了義経不依不了義経』『依義不依語』『依智不依識』となる。これらを細かく解説してもよいが、これらをクリアーするのはかなりハードルが高い。

 

  では、この仏教の原則により今日の科学技術教を判定してみよう。

科学技術には、経典による裏付けがない。つまり文証はない。

また、道理に於いても瞬殺できる程度のものでしかない。つまり、理証もない。

そして、何よりも、科学技術の発展により殺し合いは無くなったのか、否。

明るい未来展望は開けたのか、否。

科学技術の発展により地球環境問題と呼ばれる大問題を生み出しただけである。

つまり、現証もない。

 

  まぁ、今の人はこれを信奉している。しかし、仏教的に言えば、真理とは程遠いゴミのようなものでしかないということになる。

 

  当然の事ながら、わたしが語る法には仏典による裏付け文証がある。わたしは、道理を語り、その道理により聖書やコーランの意味を解説する。つまり、人々が今まで疑問としてきたことの疑問を晴らすことにより理証とする。そして、実際にわたしの語る通りとなっているのか、実例を挙げて、その証明としよう。

 

  わたしは、あなたに多くのことを教える。しかし、あなたは、別に信じる必要などない。『正しい』と信じるよりも、むしろ『本当だろうか』と疑うべきである。私が語る法は金剛不壊。天使や悪魔、神々や魑魅魍魎たちが総力を上げて壊そうとしても、傷一つつける事はできない。だから、あなたも、むしろ、やみくもに信じるのではなく、自分の持つすべての力を以て、わたしの語る法を壊そうと試みるべきである。

 

 

 

 

 

十界論

 

 

  あなたは『自由に発想している。自由に考えている』と思っているかもしれない。しかし、実はあなたの思考自体がある原則に縛られている。このあなたの思考を縛っている原則を『常識』とか『境地』と呼ぼう。この常識・境地は、親から子へ、周囲から各個人へと伝わっている。国とか家族などの集団の常識・境地を根本にして、そこから、各個人は発想しているのだ。しかし、発想自体が属する集団の常識・境地から外れる者たちもいる。

  例えば、イーロン・マスク氏の常識・境地は天界と呼ばれるものである。しかし、彼が所属する社会の常識は畜生界でしかない。畜生界の常識では、あなたは異端者となり、精神障害者と呼ばれることとなる。彼らにイーロン・マスクは理解できないのだ。しかし、イーロン・マスクには彼らも理解できる。このため、彼が彼らの常識を理解し、彼らの常識の範囲で語り、彼らの常識に合わせて行動することになる。このように行動しないと、昔ならば異端審問にかけられ火あぶりにされてしまう。現在でも、精神異常とされ精神病院に隔離されてしまいかねないからである。

  当然、彼らの思考に依れば、わたしも精神障害者ということになる。『自分のことを天地創造の神だなどと語るのは常識外れの精神障害者以外の何者でもない』と、彼らは考えるのだ。しかし、その精神障害者が、今までも誰も解き明かせなかった聖書の意味を語ってきたのだ。

  彼らには、わたしに反論の一つもできなかった。ただ、ただ、イエスとかノーと語るしかなかったのだ。しかし、わたしを認めれば、今まで自分たちが積み上げてきたものが根本から崩れてしまう。このため、陰でこそこそと、『彼は精神障害者だから、彼の言う事など聞くな』とするしかなかろう。

 

  人は自分が理解できないものを異常とする。しかし、これは、あなたがおかしいわけではなく、わたしがおかしいわけでもない。また、社会がおかしいわけでもない。社会とあなた、そして、わたしの常識・境地が違うだけである。

  では、人が思考の根本としているもの、常識としているものにはいくつの種類があるのか。十種類である。十種類しかないというべきか、十種類もあるというべきかはともかく、まず、常識・境地には十種があると覚えていただきたい。この十種は、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界と名付けられている。この分類は仏教の法華経のものであり、この名前も仏教に由来している。最初に、これら十種類がどのようなものなのかから語っていこう。

 

 

 

 

 

地獄界(じごくかい)

 

  これは弱肉強食の常識・境地である。つまり、強者は弱者を殺し、そのすべてを奪うのが当然であるという常識となる。

 

 

餓鬼界(がきかい)

 

  これは、王と奴隷の関係の常識となる。全ての決定権は王にあり、奴隷は王の決定に盲目的に従わなければならないという常識となる。地獄界では殺し合いとなるが、餓鬼界では、殺すか殺さないかの決定権を勝者が握る。

 

 

畜生界(ちくしょうかい)

 

  餓鬼界の王を法に変えたものが畜生界の常識となる。法はあらかじめ定められており、その法に従う限り自由が保障される。法に違反する者の罰則も法に依って定められている。すなわち、法治主義が畜生界の常識となる。

 

 

修羅界(しゅらかい)

 

  人は、分からなくなるゆえに葛藤し努力する。葛藤努力する者が優であり、葛藤努力を怠る者は劣であるという思考・常識が修羅界の常識となる。

 

 

人界(じんかい)

 

   人と人との間に優劣はないという思考・常識が人界の基本である。男女の間にあるのも相違であり、優劣ではない。上司と部下の間にあるのも役割の違いであり優劣ではない。金持ちと貧乏人の間にあるのも、持ち物の多少であり優劣ではない。このように差異があっても、それは単なる差異であり優劣ではないという思考・常識が人界の常識となる。これは自分自身についても同じである。努力する自分も、自堕落な自分も、自分であることには変わりはない。そこにあるのは、差異であり優劣ではないという思考が人界となる。

 

 

天界(てんかい)

 

  天界も人界と同じく、自分自身の状態に優劣を設けない。つまり、何をしても良いし、何もしなくても良いという思考が基本となる。では、何もしなくてもよいのならば、人は本当に何もしなくなるのか。と言えば、それでも何かをするのが人である。このため、自分がしたいことをすることになるのだが、自分と他人との間にも優劣を設けないので、自分がしたいことは、他の人の望むものなのかと思考することになる。ここから、自分も望み、他の人も望むことをしようと言う思考となる。つまり、意識の基準が自分ではなく、集団となる。この集団に自分の意識の中心を置くのが天界思考である。

 

 

声聞界(しょうもんかい)

 

  人は、ある時、人界や天界の思考常識を持つようになったとしても、縁により、すぐに地獄界や餓鬼界の常識思考に堕ちていってしまう。この、地獄界から天界までの常識を、六道と呼び、思考の基準が定まらないのを六道輪廻と言う。この六道輪廻の状態から抜け出すためには、どのようにすればよいのか。人の思考常識がめぐる範囲を俯瞰する位置に自分の常識を持っていけば、六道輪廻の状態から離れる事が出来る。この人の思考の基準が動く範囲を上から眺める位置にある常識が声聞界である。

 

 

縁覚界(えんかくかい)

 

  人の思考が動く範囲を『有』と呼ぶ。つまり、人の思考は六道の範囲でしか動かないのだ。このため、それを俯瞰する声聞界の位置と聞いても、人は覚える事はできても、『何をしたらよいの』『どうすればよいの』となる。この『何をしたらよいのか』と言う思考は、六道の内にあり、『人の思考が巡る範囲は六道の内にある』という思考は、人の思考の外にあるものと言うことになる。この人の思考の外にあるものが『無』であり、声聞は『無』の入り口でもある。この『無』を常識とするのが縁覚である。その道の達人と呼ばれる者たちがいる。彼らは『心を無にしなさい』と教え、自らもそれを実践している。この彼らの常識が縁覚である。六道は有であり、縁覚は無である。六道は動であり、縁覚は不動である。この有と無、動と不動をつなぐのが声聞であり、声聞とは、無に至ってはいないが無を知る、不動には至っていないが不動を知る状態ともなる。

 

 

菩薩界(ぼさつかい)

 

  人は有の反対を無とする。しかし、実際は、昔の人々が無から生み出したものを有として、継承している。この継承が知識である。つまり、有の反対が無と言うよりは、有は無より生じるという言葉の方が正しく、より本質的なものが無となる。では無がすべての根源なのかと言えば、実はさらに本質的なものがある。理解しやすい言葉にすると、有無の反対が存在するとでも言っておこう。これを『空(くう)』と呼ぶ。つまり、有の反対が無であり、有無の内、より本質的なものが無である。有無の反対が空であり、有無は『空(くう)』より生じる、と言うことになる。言葉にするとは『有』とすることになるので、『無』となると説明が難しくなる。有無を超える空となると、実は説明そのものが出来ないような状態となる。この空に自分の境地を持っていった者が菩薩である。

 

 

仏界(ぶっかい)

 

  無から有を見定める位置が縁覚である。これと同様に『空(くう)』から有無を見定めるのが仏である。この仏界こそがJHVHの位置であり、わたし自身が空と言う位置があることの証明、仏界と言う位置があることの証明となる。実は、有無と空との間には接点がない。有無側にある地獄界から縁覚界と、『空(くう)』側にある菩薩界と仏界は本質的に全く違うものなのだ。菩薩とは、この空に自分の常識を置き、有無の世界である現世で生きている者を指す。有無と空とでは、空がより本質的なものであり、有無からは空は理解不能なのだが、空から有無を知ることは可能である。この空からすべてを観るのが仏であり、この位置からであれば全てがわかるので全知全能となる。

 

 

 

 

十界の優劣

 

  この十種類が、人が至ることができる全ての常識・境地である。そして、この十種類には優劣が定まっている。地獄界が最劣であり、仏界が最優となる。そして、上位の思考常識からは下位の思考常識は一応理解できる。しかし、下位の思考常識から上位の思考常識は理解不能となる。

  例えば、地獄界の常識を持つ者は、『相手を殺して、そのすべてを奪えばよい』という常識を持つ。その者が餓鬼界の常識『言うことを聞くならば生かしておいてやる』が理解できるか。彼の常識から言えば、生かしておけば、今度は自分が殺されることになるのだから『理解できない。あいつはおかしい』となる。

  例えば、今、ロシアがウクライナに攻め込んでいる。ロシアの常識は餓鬼界であり、欧米の常識は畜生界である。つまり、プーチンは『ロシアが王だから、ロシアがウクライナに一方的に命じるのは当然であり、命令に違反するならば罰を与えなくてはならない。』『アメリカがロシアのものを奪いに来た。』と思考しているということになる。

欧米は、『全員が国際法に従うべきである』と言う思考となり、国際法違反は罪であると思考している。同じ国際法であっても、プーチンは『国際法を守らなくてはならないのはウクライナでありロシアではない』と考えるので、ウクライナ侵攻は正当な行為と言う思考となる。

  例えば、日本の常識は人界である。人界では人と人との間に差異はあるが、優劣はないという常識となる。これに対して、畜生界や修羅界の常識では、何によって優劣を定めるのかとなり、優劣があることが前提となっている。このため、日本は理解不能な国、不思議の国と言うことになる。

  このように、上の境地・常識からは下の境地・常識が一応、理解できるが、下の境地・常識にとらわれると上の境地・常識は理解できなくなる。

 

 

 

 

 

 

聖書・コーランの意味

 

旧約聖書

 

  犯罪とは何か。実は、地獄界・餓鬼界・畜生界の思考が具現化したものが犯罪と呼ばれるものとなる。このため、この三種を三悪道と呼ぶ。地獄界の世界では、殺し合いが日常となる。殺されたくなければ殺すしかなく、奪われたくないのならば殺すしかない。これが地獄界の日常なのだ。自分の言うことを聞くのならば、殺す事だけは勘弁してやろう。と言うのが餓鬼界である。王が出現し、他の者たちを王の命令に無条件で従う奴隷とする世の中となる。奴隷となりたくない者たちは『誰が王となるのか』と殺し合い、生き残った者が王となる。王に逆らう事を諦めた者たちは、最初から奴隷となることを選択する世界となる。次に、公平な絶対法を定め、その法に依り優劣を競うべきだとすべきという思考となる。勝者は敗者から奪う権利を得るが、何をどの程度まで奪えるのかも法によって定めればよいという常識であり、これが、畜生界である。

  ここまでは、『どのようにして』は異なるのだが、すべて『他者から奪う』と言う思考である。この他者から奪おうという思考が具現化したのが犯罪と呼ばれるものとなる。つまり、地獄界・餓鬼界・畜生界を常識とすれば、その常識を持つ者たちの行動は犯罪としかならない。これが、この三種を三悪道と呼ぶ理由である。

  では、人が犯罪者とならないようにするためにはどうすればよいのか。一番簡単なのが、修羅界に導くという方法である。修羅界とは考え、葛藤する位置である。人は迷うゆえに考え、迷うゆえに努力もする。何が正しいのかわからなくなれば、人は何が正しいのかと考え、何をすればよいのかと悩むものである。

 

 

  モーセは人々に十戒を示した。十戒には人を殺してはならないと記されている。ところが、同じ聖書の中でモーセは人を殺したとも記されている。本当に殺してはならないのならば、それを人々に示したモーセが人殺しをして良いわけはない。もし、人を殺したとしても、そんなものは隠してしまえばよい。それなのにどうして、同じ聖書の中でモーセは人殺しをしたと記されているのか。人は迷い、意味が分からなくなる。なぜなのかと、考える。では、意味が分からないと考え迷う者は、他者のものは何でも奪えばよいと考えるであろうか。

 

  また、十戒には姦淫してはならないとも記されている。近親相姦は姦淫の中の姦淫とされる。しかし、ロトとロトの娘たちは近親相姦により子をもうけたが、ロトもロトの娘たちもその子孫も神の祝福を受けている。この話も聖書に記されている。これを知るものはやはり迷い考える。

 

  また、神は『それが罪か??』と、どうしても罪とは思えないものを罪とし聖書の中で人々を滅ぼす。また、明らかに罪人としか思えない者たちに祝福を与える。これらも聖書に明記されている。これを読む者は迷い考える。

 

  近年、エホバの証人などと言う者たちが、『血を避けよ。これだけは神エホバが我々に下された戒律である』などと言って、輸血拒否をすると聞く。

これをわたしからみれば、

『ちょっと待て。イエスは、これが私の血である。これが私の肉であると語り、人々に自分の血や肉を勧めたのではないのか。それなのに、どうして、輸血を拒否しなくてはならないのだ。私がそのエホバなのだが、エホバの証人のエホバとは、いったいどこの誰なのだ???』となる。

  この例が示すのは、人にとって『これが絶対に正しい』と考えることにより、行動が罪となるということである。つまり、エホバの証人は、聖書の意味を取り違え、修羅界よりも三悪道の方がよいと思考している事となる。つまり、人々を罪に閉じ込めようとする教えなのだ。

私は、そんなことは命じていないし、このようにしようと考えたことすらない。

このため、わたしは、エホバ神を召喚しようとしたのだ。

しかし、何も現れなかった。

 

  また、ユダヤ人は、『自分たちは聖書の民であり他の者たちよりも優れている』と考えた。このように考えることにより、他国に蹂躙され、捕囚となり、アウシュビッツに送られることにもなった。なぜか。聖書によりユダヤ人は、迷い考える者たちとなっているはずである。しかし、彼らは聖書を離れ、迷い考えることを止めたのだ。修羅界に留まることを止め、三悪道に堕ちる選択をしたのだ。

 

  人を罪から離すためには、修羅界に導けばよい。修羅界とは葛藤であり、努力の位置である。人は迷うゆえに、葛藤し、努力する。ならば、迷わせるように聖典を示し、これを守れとしたらどうなるのか。葛藤し努力する修羅界に至るのだ。修羅界に至る者は犯罪者とはならない。つまり、これらは聖書本来の仕様なのだ。

 

 

 

福音

 

  さて、イエスの思考や行動は人界を示す。人界とは、自分と他人との間に優劣をつけない。王であろうとも、奴隷であろうとも、聖人であろうとも、犯罪者であろうとも、優れているわけでもなく劣ってもいるわけでもないという思考となる。ただ、そこにあるのは違いだけなのだ。男と女には違いはあるが優劣はない。王と奴隷には立場の違いはあるが優劣はない。悪魔と天使にあるのも違いであり優劣ではない。この思考常識が人界である。

  人々は聖書を守らないゆえに三悪道に堕ちてしまった。せっかく修羅界に導いたのに、迷いを嫌うゆえに思考も止め、努力も止めてしまったのだ。しかし、考え努力することよりも勝る常識が存在する。これが人界であり、イエスは人界を常識とするゆえに、三悪道や修羅界の世に勝るものとなる。

 

  人は、イエスの奇跡ゆえに信じるなどと語る。死者をよみがえらせたり、水の上を歩いたり、魚やパンを多くの人々に分け与えたりしたから神の子であるなどと言っている。しかし、現代医学でも同じことができる。船に乗れば誰でも水の上を移動できる。小麦を栽培し、魚を養殖すれば、何万人にでも分け与える事が出来る。イエスの奇跡など、現代社会においては見せ物程度の価値しかないとなるではないか。

  では、本当に見せ物程度の価値しかないのか。聖書に於いて水は人が知る水とは別の意味を持つ。聖書によれば、水を天の上と地に分けているのは多くの人が知るところである。まさか、太陽や星々のさらに上に水の層があるなどと信じる者など、いつの時代でもどこにもいないのではないのか。

 

では、この問いを解いてみよ。

 

水には、天の上の水と地の水があり、地の水が乾いたところが地である。

この天と地の水の中に大空があり、

その大空にあるものが太陽と月と星である。

その水に住むのが魚であり、大空をとぶものが鳥となる。

 

では、これらは何を示すのか。この通りになっているのは一体何なのか。

これが聖書の設問である。この程度の問題であれば、誰でも解けるとおもうのだが、どうして、誰も解けないのか。

 

  何千年もかけて、この程度の設問に誰も答えを出す事が出来なかった。これが、事実である。そして、今の世に於いても、この設問は皆が知る。しかし、これが設問であることにも気づかない。鈍き者たちよ、自分たちが優れているなどと思うな。あなた方は、人ではなく獣に過ぎないからである。獣に問うても答えられないのは当然か・・・・仕方ない。わたしがお教えしよう。

 

  水とは思考を示す。つまり、天の水とはJHVHの思考であり、地の水とは人の思考と言う意味となる。十界論で言えば、地の水が六道、天の水が菩薩界・仏界となる。わたしは、今、あなた方に人の思考の範囲を六道として教えている。あなた方は、今、実際に聖書でいう海の上を歩いているのだ。これは、船に乗ってもわたることはできない、飛行機に乗っても飛ぶこともできない海である。『イエスは水の上を歩いた』と記されている。イエスが上を歩いた水も、この聖書の水なのだ。

  『イエスはパンと魚を割いて人々に分け与えた』と記されている。魚とは何か。人々が『これが正しい』として、その正しいものにより創り上げた思想が聖書でいう魚である。民主主義や法治主義も、宗教や哲学倫理も、聖書に於いては全て魚と言う事になる。魚であれば根本がしっかりしているので、ここが間違っているとか、ここから間違えたと指摘できる。しかし、世の中には根本がどこにもない考え方も存在する。根本がどこにもないものは改めようがない。魚を分けるとは、問題点を指摘し、ここが間違っている。ここから間違えたと解析することを示す。

 

  現実社会は人の思考により生じ、人の思考から離れて存在するものであり、これが聖書の地と言うことになる。この地の産物が小麦でありパンである。つまり、人が生きていくために必要な要素が聖書でパンとして示されるものとなる。パンを割いて分けるとは、人が生きていくために必要なものは用意されているという意味である。

 

  『イエスは足萎えを治し、盲目を見えるようにし、死者をよみがえらせた』と記されている。現実社会のしがらみに縛られて動けなくなっているのが『足萎え』である。どうすればわからなくなっているのが『盲目』である。

  なぜ、平等思考を人界と呼ぶのか。これが人の本来の姿だからである。今の人々は、この本来の姿を忘れ、三悪道に堕ちている。そればかりではない。人界・天界を異質であるとして排除しようとしてきた。なぜ、本来のものを異質とするのか。腐っているから、腐っていないものをおかしいと感じてしまうからである。生きていれば、腐りはしない。つまり、生きているとは名前だけで、実は死んでいる。イエスは、この死者を生き返らせたのだ。現代医学では、この死者の蘇生はできない。

 

 

 

ヨハネの黙示録

 

  ヨハネの黙示録は聖書の中の聖書と呼ばれている。なぜならば、福音書ではイエスの言葉として『私に逆らう者は許される。しかし、来るべき聖霊に逆らう者は決して許されない』と記され、ヨハネの黙示録では『これが予言の聖霊である』と記されているからである。福音の中で、『イエスは予言を成就した』とも記されているから、旧約聖書の予言は、福音で成就されたこととなる。このため、ヨハネの黙示録が福音の聖霊と言うことになる。このように、福音書の内容とヨハネの黙示録の内容が一致するので、ヨハネの黙示録が聖霊であるということに異論はないはずである。

  ところが、困ったことにヨハネの黙示録の火と硫黄の燃える池、すなわち、火の地獄から逃れる術はないのだ。ルターなどは、このどうしても火獄から逃れられなくことに悩み、パウロの手紙に救いを見出したという。では、そのパウロとは何者なのか。イエスが指定した十二使徒なのか。いや、十二使徒ではない。十二使徒の内にも入らない、ただの信徒なのだ。

  本来は聖霊であるヨハネの黙示録が最上位であり、次にイエスの言動を示す福音が続き、その次が十二使徒の言動となり、それ以外の者たちの言動はこれ以下となる。つまり、パウロとなると聖典と呼べるかどうかも怪しくなる。これが、聖書に指定された新約聖書と呼ばれるものの優劣なのだ。ところが、この最上位にくるヨハネの黙示録に従うと、誰も火獄から逃れられなくなる。カトリックもプロテスタントも、『これは困った』となった。

  カトリックが最初に使ったのが免罪符と言う手法である。免罪符を手に入れる事が出来れば、ヨハネの黙示録の火と硫黄の燃える地獄に堕とされることはないとしたのだ。これに対して『地獄・天国の権利を金で買えるのか』と強烈な批判を浴び、この免罪符を改めざるを得なくなった。次に使ったのが、今も使い続けている封印と言う手法である。ヨハネの黙示録が人々に知られないように隠そうとしたのだ。ヨハネの黙示録には『封印してはならない』と記されている。この言葉に違反することにした、と言うよりは、違反せざるを得なかった。自分たちは正しいはずなのに、その正しいはずの自分たちが火と硫黄の燃える地獄の刑罰を受けるはずはないと思うのに、その火と硫黄の燃える地獄に行くしかなくなるからである。

  プロテスタントが使ったのは、順位の変更と言う手法であった。つまり、福音書もヨハネの黙示録も十二使徒も十二使徒以外の言動も同等と言うことにしたのだ。このようにしないと、火と硫黄の燃える地獄から逃れられなくなるからである。

  このように涙ぐましい努力をして、ヨハネの黙示録の火と硫黄の燃える地獄から逃れようとしてきたのが、キリスト教という宗教なのだ。

 

  このことが指すのは、結局、誰も、イエスを信じてなどいなかった。誰も聖霊を信じていなかったという事である。本当に信じるならば、火と硫黄の燃える地獄に入るしかないのならば、意を決してその火と硫黄の燃える地獄に飛び込むしかなかろう。みな、火と硫黄の燃える地獄の淵に立たされ、『お許しください。これだけは御勘弁ください』と泣き叫んだだけである。

  ヨハネの黙示録にはこのように記されている『臆病な者は火と硫黄の燃える地獄が受けるべき報いである』『信じないものは火と硫黄の燃える地獄が受けるべき報いである』と。この臆病な者、信じない者こそが、今のクリスチャンなのだ。

 

  では、わたしJHVHがこのヨハネの黙示録の意味をお教えしよう。人はなぜ、六道を輪廻するのか。人の六道輪廻する自我とは何なのか。この人が自分自身であると思っているものこそが、自己愛の自我である。聖書には原罪と言う考え方があるのはご存知であろう。この原罪こそが、この自己愛の自我なのだ。

  人は他人を愛すると語る。しかし、その愛が裏切られたと思えば、愛は怒りとなり、愛は嫉妬となる。なぜなのか。人が本当に愛しているのは自分自身であり他者ではないからである。

  また、人は博愛とも語る。しかし、実際は人々を愛すると語る自分自身を愛しているだけである。結局、自己愛なのだ。この自己愛、すなわち、原罪から離れるためにはどうしたらよいのか。

 

  自己愛、すなわち、原罪は、現世欲と来世欲の二つから構成される。現世欲とは、他の者に勝りたいという欲望であり、人は現世欲ゆえに、地位や名誉を求めるのだ。この欲望が一番強く働くと、地獄界を常識とするようになる。この欲望が薄くなると、人界や天界の常識を持つようにもなる。要するに、六道とは現世欲の濃度の差なのだ。

  人は考える。では、この考える自我とは何か。この自我こそが現世欲の自我である。このため、現世欲を抑え込むと無思考となる。無思考であっても、残っているのが未来欲なのだ。未来欲は死後の天国と言う形となり、死後の世界への希望と言う形ともなる。しかし、これを残したままでは、原罪は払えない。原罪を払うためには、この死後の希望も消さなくてはならないのだ。つまり、原罪を払うために必要なのが、火と硫黄の燃える地獄と言う事になる。

  つまり、火と硫黄の燃える地獄は原罪を払うために必要な最後の要素であり、これがないと、人は原罪の自我のまま留まることとなる。つまり、ヨハネの黙示録は、『イエスを信じるならば、火と硫黄の燃える地獄に入れ』と言っているのであり、この意味は、『これが、人が原罪から離れる方法だからである。』と言うことになる。

 

  さて、では、実際に人が原罪から離れるとどうなるのか。人は、原罪から物事を思考する。原罪は、現世欲と未来欲の二つから成り立っている。この二つの内の現世欲が有であり、この現世欲を消した状態が無である。『有』とは人の思考とも言える。つまり、人の思考自体がこの現世欲から成り立っているのだ。昨今コンピューターが少し出てきたようだが、このコンピューターが解析できるのは『有』の範囲だけである。人の現世欲が無くなった状態、すなわち『無』となると、もうコンピューターでは手が届かなくなる。この有無が示すのが現世欲である。

  人には、現世欲とは別に未来欲がある。つまり、この未来欲を消すとは、『有無』から離れるとも言えるし、全くの別次元に至るとも言える。この状態を『空(くう)』と呼ぶ。この『空(くう)』と言う言葉は本来仏教用語である。天空は有ると言えばある、無いといえばない。仏教用語の『空(くう)』が先にあり、この『空(くう)』から、天空のことも空と呼ぶようになったようである。この空が示すのが、未来欲からの離脱なのだ。

  人は、死により現世欲から離れて無となる。しかし、それでも原罪から離れる事はできない。そこに未来欲が残っているからである。この未来欲から離れると『空(くう)』に至る。この状態となった時、人は原罪から完全に離れる事が出来るのだ。この原罪から離れた人を菩薩と呼び、その菩薩の境地が菩薩界なのだ。つまり、人はヨハネの黙示録により原罪から離れ、菩薩界に至り菩薩となる。

  六道は有であり、声聞、縁覚は無であり、菩薩、仏は空である。このように説明するしかない。空となると説明のしようがないのだ。実際に至れば誰でもわかるが、至らなければ誰もわからない。この空に至る道が火と硫黄の燃える地獄にあるというしかない。これが、ヨハネの黙示録が聖霊として示される理由である。

 

 

 

コーラン

 

  人間社会は、原罪から成り立っている。これに対して、菩薩には原罪そのものがない。この菩薩がコーランでムスリムと示されているものである。現世の人びとの思考は有である。無となると人の思考から離れる。空となるとこの有無からも離れてしまうのだ。

  菩薩(ムスリム)は、現世とは接点がない空の状態で、原罪から成り立っている現世で生きていかなくてはならない。生きているのだが、生死を離れて生きている状態であり、何もわからない赤ん坊のような状態となってしまう。善悪も分からない、正邪もわからない。でも人の思考はわかるし、人の言葉もわかるという状態となる。

  人は自分が考えている事と言葉に出す事が違う。菩薩は、人の言葉ではなく思考に従う事となる。すると、どうなるのか。無茶苦茶となり、生きていくことすらも困難な状況に陥るのだ。

  このため、菩薩(ムスリム)には、菩薩のための別の導きが必要となる。人への導きであれば、無から有を示せばよい。しかし、菩薩(ムスリム)へは『空(くう)』から有を示さなくてはならないのだ。そうしないと、菩薩(ムスリム)には理解不能となる。しかし、『空(くう)』から示した有は、原罪に囚われている人々には理解不能となるのだ。この『空(くう)』から示した有がコーランであり、コーランは菩薩(ムスリム)を導くためのものであり、『空(くう)』が分からない原罪の人には理解不能となる。

  さて、菩薩(ムスリム)となり、菩薩(ムスリム)から聖書を見ると、人が見るのとまったく違う風景となる。これは観る位置が上の水からとなるためで、下の水も海も大地も眼下に広がるからである。アダムとイブも上から俯瞰するが、アダムでもイブでもあるともなる。男女の差が無くなってしまうので、男とは何なのか、女とは何なのかと考えるようになる。この状態でコーランを見ると、『あぁ、男が人で、女が法となるのね』と分かるのだ。同じように、聖書の豚が何を示すのか、獣が何を示すのかが分かるようになっていく。つまり、コーランは聖書とセットなり、菩薩(ムスリム)にものごとを教える書となるのだ。

  菩薩(ムスリム)にとって、コーランの中で一番無意味な言葉は、『火獄に堕とされる』と言う言葉である。実際に自分がその火獄をくぐっているのだから、何の感情もわかない。すると、これは菩薩(ムスリム)以外の者たちも見るから、その伏線なのだとわかる。菩薩(ムスリム)は地獄も恐れず、天国も望まずという状態となっているからである。

  このように、菩薩(ムスリム)にとっては、聖書だけでは意味が分からないから、聖書の参考書が必要であり、この菩薩(ムスリム)にとっての参考書がコーランなのだ。

  やがて、男が自分であり、女がコーランを示すということもわかるようになってくる。コーランは空から見た有である。聖書は無から見た有である。人には空がわからない。このため、空から見た有も理解不能となる。どこまでいっても理解できないのだから、女は全身を隠せと言うことになる。ここから、菩薩はコーランを説かなくなる。

  これは、どのような意味なのか。菩薩では菩薩を導く法を説けないのだ。菩薩を導くためには仏界に至るしかなく、この仏界に至った者がアッラーでありJHVHなのだ。

 

  この菩薩界から仏界へは、導く法そのものがない。『こうすれば仏となれますよ』という方法がないのだ。方法はないのだが、仏界、すなわちアッラーの世界・JHVHの世界は存在する。これは、このような意味である。人を導くためには、今、人がいる状態と、導く先の状態の二つが分からなくてはならない。つまり、この二つの状態を俯瞰できないと、導く法は示せないのだ。仏界は、これ以上ない最高の境地である。このため、仏界に人を導くためには、仏界を俯瞰する位置に至る必要がある。最高の位置を俯瞰する位置はない。このため、仏界に人を導く法そのものが存在しないのだ。

  つまり、菩薩(ムスリム)をアッラーとしたいのだが、菩薩(ムスリム)をアッラーに近づける事しかできない。菩薩(ムスリム)は菩薩(ムスリム)のままとしかならないが、まず、原罪の現世に惑わされることがないようにはしなくてはならない。これがコーランの意図となる。

 

  イスラム教はコーランを保持してきた。この功績は功績として認めても良いが、言っている事は意味不明である。一から十まで、全てが間違っているのだ。私がアッラーである。私が人に与えたのがコーランのはずなのに、そのコーランからこのような連中が生じるとは思えない。このため、当初、彼らの言うコーランは、わたしが示したものではないのではないと考えた。そこで、わたしは眷属に、『このアッラーを呼び出せ』と命じたのだ。

  当然、わたしとそのアッラーとの戦いとなる。もし、そのアッラーが本物であり、わたしが偽者ならば、わたしは滅び消滅することになる。私には自分の滅びも自分の消滅もどちらでもよいことなのだ。そのアッラーにより良い世となるのならば、それこそ私の望みである。私は半ば期待してアッラーを待った。

  しかし、現れたのはガブリエルであった。彼はこのように語った。『主よ、彼らに御慈悲をお与えください。彼らには、こうするしかコーランを保つことができなかったのです。彼らは、主のお言いつけ通りコーランを今日まで保ってきたのです。その功績に免じ、主よ、お怒りをお収めください』

  この時、ようやく、コーランはわたしが与えたものであることが分かった。要するに、何が書いてあるのかわからないから、人が禁忌を破り勝手に解釈したという事のようである。まぁ、わたしの眷属が取りなすので、一応、怒り矛は収める事とするが、なぜ、コーランがあのようになるのか聞いてみたいものである。

 

  このように書き記しても、あなた方ではイスラム教を論破できまい。そこで、簡単に論破する方法をお教えしよう。コーランの物語はこうである。『アブラハムはアッラーよりムスリムと任じられた。アブラハムは息子イサクもムスリムと任じてくださいとアッラーにお願いした。アッラーがそれを許されたのでイサクもムスリムとなった。』ここで重要なのが、ムスリムの任命権は誰にあるのかと言うことである。もし、ムスリムとなった者が他の人をムスリムと任じる事が出来るのならば、アブラハムがイサクをムスリムと任じればよい。しかし、アブラハムはこれをアッラーにお願いしている。つまり、ムスリムの任命権はアッラーの神権と言うことになる。コーランには『人の犯す罪は許される。しかし、アッラーの神権を犯す行為は、決して許されず、永遠の火獄となる』とも記されている。

  アッラーの声を聞く者が預言者である。つまり、預言者がアッラーより言葉を聞き、その人をムスリムと任じる事は可能である。では、現世に於いて預言者は存在するのか。コーランには『ムハンマドが最後の預言者である』と明記されている。ムハンマドがアッラーより賜った預言がコーランなのだ。

  今、イスラム教徒たちは、自分たちのことをムスリムとする。では、彼らをムスリムと任じた者は誰なのか。ムスリムと任じた者は、預言者とはなり得ない。アッラーの神権を犯す者と言う事になる。アッラーの神権を犯す者は永遠の火獄が受けるべき報いである。また、その者の言うことに聞き従って、ムスリムと名乗る者も永遠の刑罰を免れない。アッラーでもなく、コーランでもなく、偽預言者の言う事を聞きアッラーの神権を犯したのであるから、これが当然の刑罰である。

 

  コーランはムスリムに対して示されたものである。ムスリムではないものがムスリムと自称する事により、今のイスラム教と言う宗教が出来ている。つまり、ここが彼らの最大の弱点であり、ここを攻められると、彼らには対抗手段がなくなる。

 

 

 

聖書は誰のための書なのか

 

  ユダヤ教にはラビと呼ばれる指導者がいる。また、キリスト教には牧師とか神父、司祭と呼ばれる指導者がいる。イスラム教にも指導者がいるようだ。では、いったい聖書は誰のための書なのか。牧師や神父などは、『信仰しなければ裁きの地獄に堕ちる。信仰すれば救われる』としているようだ。これは、裁きの地獄により恐怖をあおり、信徒を増やすために使っていると言えるのだが、実際は、誰のための書なのか。

  これは簡単である。聖書を読む、その人を導くための書なのだ。人は、旧約聖書を見ると、『いったいどうしたらよいの』『いったい、何が正しいの』となる。何が正しいのかわからないから考え、そして、努力もする。この状態が修羅界であり、このように考え努力する者は犯罪者とはならない。

  また、イエスの物語を聞くと、既存の権威にも従わず、さりとて、他の者たちも差別しないという人界思考を知ることとなる。すると、どうして、教会の権威に従わなくてはならないのかと考えるようにもなるし、他の者たちを虐げる必要があるのかとも考えるようにもなる。つまり、誰の導きもなく福音を読めば、人は人界思考を知るはずなのだ。

  また、誰の導きもなく、ヨハネの黙示録を読めば、裁きの地獄は免れないことを知り、ある者はその地獄に飛び込むはずである。すると、そこには飛び込まなければわからない世界が広がっている。やがて、『なるほど、これが天国なのだ』と理解できるようにもなる。このように、すべてはあなた自身のためであり、他の誰かの為でもなく、人類の未来のためでもないのだ。

  しかし、現実にはイエスの時代の律法学者やパリサイ人のパン種の役割を神父や牧師たちが行っているのだ。彼らが話をおかしくするから、何が何かわからなくなっているのだ。

 

  あなた一人が良くなれば、あなたの世界も善くなる。つまり、世界全体が善くなるのだ。人は一神教とか多神教とか語る。例えば、わたしはJHVHともアッラーとも平然と名乗る。あなたは、一応『本当かな??』と疑うか、それとも『そんなわけはない』と全否定しようとする。

  例えば、あなたがわたしを『真のJHVHである。真のアッラーである』と信じたとしよう。あなたは、わたしの言葉により『JHVH』『アッラー』と言う存在を唯一の神としてあなたの心の内に生じさせたこととなる。

  では、その『JHVH』は、本当の天地の創造主なのか。いや、そうではない。あなたが自分の心の中に創造した被創造物のJHVHなのだ。いくらJHVHと名乗ったとしても、それはあくまでも被造物に過ぎない。そのJHVHを創造したのは誰なのか。あなた自身である。あなたがJHVHを創造した創造主ではないのか。

  世の中には、JHVHの神もいれば、アッラーの神もいる。八百万の神々もいれば、仏教の仏もいる。では、それらの内、何が創造主なのか。肯定しようが否定しようが、その神々を創造しているのは、あなた自身ではないのか。唯一の天地創造主とは、あなたのことである。つまり、あなた自身こそが一神教の天地の創造主に他ならない。イエス・キリストという神も多神教の神々のひとりであり、JHVHと言う神も多神教の神々のひとりであり、アッラーと言う神も多神教の神々のひとりに過ぎないのだ。

  また、『地球は太陽の周りをまわっている。これが真実である』と人は言う。しかし、その地球とは、その人が心の中に創造した地球に他ならない。その太陽も、その人が心のうちに創造した太陽でしかない。実物ではないという証明は簡単である。もし、今、この瞬間に太陽が消滅したのならば、あなたが認識している太陽が実物ならば、その太陽も消滅しなくてはおかしい。しかし、実際は8分間はそれを知ることができないではないか。なぜ、わからないのか。あなたが太陽だと思っているものは、あなたが心のうちに創造した太陽だからであり、実物の太陽ではないからである。

  このように太陽も地球も、あなたが心のうちに創造したものにすぎないのだから、太陽が地球の周りをまわっているという天動説も、地球が太陽の周りをまわっているという地動説も、『目くそ、鼻くそを笑う』程度の話でしかない。

  よくよく、考えてごらん。時間も空間も、結局はあなたの被造物の域を出ない。全てが、あなたの被造物なのだ。創造主はその被造物に縛られない。これが永遠の真理であり、これが永遠の命の意味である。

 

  確かに、わたしにとってわたし自身が創造主JHVHである。そして、永遠の命を理屈で語ればこのようになる。しかし、これは『空』を理屈で語り『有』としただけである。このため、何か違うともなる。どのように語っても何か違うのだ。所詮、空を有で語りきることはできない。有の反対は無であり死でもある。私は自分が死ぬことも生きていることも知っている。たしかに生きていることも面倒くさいし、死ぬことも面倒くさい。それでも生きている。永遠の命も知るが、それも私にとっては同じである。本質は何も変わらない。

 

  わたしは、昔、ああしなければならない。こうしなければならない。ああしたい。こうしたいと我欲を盛んにしていた。それをいくら抑えようとしても、抑える事はできず、結局、我欲に振り回されていた。やがて、自分がJHVHであることを知った。自分がJHVHであると認識したのだ。この時、本当に自由になった。何をしてもJHVHであることは変わらない。何をしなくてもJHVHであることには変わらない。善事を行おうとも、悪事を行おうとも、自分は自分であり、何も変わらないのだ。

  世の中には、自分が聖人であるとか自分が仏であると語る者たちがいる。ところが彼らは、それを人に見せようとするあまり、自分自身が追い詰められている。『まぁ、大変なこと。ご苦労様。』とはおもうのだが、どうして、それほど無理をするのか良くわからない。人が認めようが、人に蔑まれようが、聖人は聖人であり、仏は仏であり、神は神ではないのか。どうして、それを他の人に認めさせようとするのか。他人が認めることにより、何がどのように変わるのか。何も変わらいのではないのか。