メッカとは

 

 皆さまはメッカと言う言葉を聞いたことがあるであろう。 『何々のメッカ』と言えば、その分野の中心地を指す。また、サウジアラビアにあるイスラム教の大聖地がメッカと呼ばれる。これらが良く知られているメッカなのだが、このメッカの語源はコーランにある。

 

コーランには、

 

 『ムスリムには数々の試練がある。日常生活でたびたび起こる試練もあれば、一生に一回、自身の全てを打ち壊す大試練もある。これらはムスリムにとって苦痛であろうが、ムスリムはこれらの試練を巡礼と考えて乗り越えていかなくてはならない。すなわち、人生の内で、たびたび起こる試練は小巡礼と心得よ。また、一生に一回受ける大きな試練は大巡礼と心得よ。』要約

 

 このように記されている。これらの言葉の内、『自身の全てを打ち壊す』と言う言葉として『マッカ(完全破壊)』と言う言葉が使われており、このマッカが変化したものがメッカである。ここから先は推測となるが、『巡礼だから場所を示すのだろう』となり、『では、このマッカとはどこなのか』と、イスラム教徒たちは考えたようである。ここから、『ムハンマドが神から啓示を受けて生まれ変わった場所』こここそが大巡礼の聖地としてふさわしいという事となった。そして、このコーランの記述から、マッカと言う場所が制定された。次に、場所の名が完全破壊(マッカ)ではまずいだろうと言うことになり、マッカからメッカへと変化したようである。

 

 コーランに記されている『ムスリム』とは、日本語に訳せば菩薩と言う言葉となる。では、イスラム教徒はムスリムなのかと言えば、決してムスリム(菩薩)ではない。勝手にムスリムと自称しているだけの輩である。このムスリムの任命権はアッラーの神権に属し、コーランでは『人が犯す全ての罪は許されるが、アッラーの神権を犯す行為は、永遠の裁きの地獄に定められる』となっている。つまり、彼らはムスリムと名乗ることにより、『永遠の裁きの地獄。上等。』と、アッラーに反旗を翻している事となる。自分で反旗を翻しておきながら、毎日五回祈る??・・・火獄の刑が怖いので火葬はいやだ??・・・・「いったい何やってるの」となる。

 

 では、真のムスリムならばどうなるのか。『永遠の裁きの地獄???・・・何が怖いの???   アッラーの神権違反???・・・・罰則、恐くないし・・・・どうして、違反してはいけないの??・・・アッラーの神権違反も人が犯す罪でしょ・・・・人が犯す全ての罪は許されるで良いんじゃないの???』このようになっていく。

 

 実は、コーランは、このようになっているムスリム(菩薩)に対する導きの書なのだ。人には数多くの試練がある。これらの試練を乗り越える事こそが人生そのものと言えるかもしれない。人は悩み、苦しみ、これらの試練を乗り越えていくのだが、ムスリム(菩薩)しか遭遇しない試練も存在する。これが完全破壊(マッカ)なのだ。生老病死は、すべての人に共通するが、マッカ(完全破壊)されることはない。完全破壊(マッカ)することにより、ようやく成れるのがムスリム(菩薩)なのだ。つまり、ムスリム(菩薩)となるためには完全破壊(マッカ)は必須であり、自我の完全破壊(マッカ)をしたものがムスリム(菩薩)なのだ。

 

 では、この自己の完全破壊(マッカ)は、どのようにすればできるのか。どうすれば菩薩(ムスリム)となれるのか。

 

 人が自分自身であると思っているものは、実は自己愛である。自己愛は現世欲と未来欲の二つから構成される。例えば、人が死を恐れるのは、死が人の現世欲を絶つからである。このように、自分自身であると思っているものの一部を失うことであっても、人は恐れ、悩み、苦しむ。それでも、人は未来に対する希望を持ち続ける。では完全破壊(マッカ)とは何か。この自己愛の自我の全てを打ち砕かれることこそが、完全破壊(マッカ)なのだ。

 

 人は『死ねば仏となれる』などと語るが、実際には『死んだくらいでは仏はおろか菩薩にもなれない』のだ。しかし、現世欲を捨て未来欲も捨てたとしても、それでも人は生きることができる。この現世欲も捨て未来欲も捨てた人が菩薩(ムスリム)なのだ。

 

 人は、強制的に現世欲を捨てさせられる。これが死である。しかし、自分の意思で、現世欲を捨てたならば、生きてはいるが、一般人ではない人と言うことになる。これが縁覚、声聞である。これが悟りと呼ばれるものである。

 

 死によっても、捨てる事が出来ないものが未来欲である。この未来欲の自己愛まで捨てないと、人は菩薩(ムスリム)とはなれない。では、これはどのようにすれば捨てる事が出来るのか。永遠の裁きの地獄に入ればよい。阿鼻獄に入ってしまえばよい。このように語るのは簡単であるが、実際には、このような覚悟を決める事は容易ではない。

 

 コーランのマッカ(完全破壊)とは、人の自我の全て、すなわち現世欲と未来欲の両方を捨て去ることである。

 

 菩薩(ムスリム)には自我がない。このため、他者の自我の真似をして現世で生きる事となる。すると、他の者では簡単に受けない報いをすぐに受ける事となる。この報いを受ける事がコーランで小巡礼と記されているものとなる。菩薩(ムスリム)は、このように他者の真似をしてはその報いを受け、また、別の者の真似をしてはその報いを受け、『このような考え方はこのような報いとなる』と覚えていくのだ。やがて、それが体系的にわかるようになっていく。このように、菩薩(ムスリム)としの自我を新生していくのだが、この菩薩(ムスリム)としての自我と、他の人々の自我との間に決定的な違いがある事もわかっていく。この違いを生んでいるのは何かと考えると、そこにマッカ(完全破壊)があったのか、なかったのかの違いである事がわかる。

 

 これがコーランの巡礼の記述の意味である。ここまでは、誰でも分かることであり説明の必要などないと考えて、ここから先を語ったのだが、『それでは誰もわかりません。』と言われてしまった。直さないと、また小言を言われるので、書き直す事とした。

 

 

真のメッカを設定する

 

 わたしはこのように語る。『菩薩となるためには、火と硫黄の燃える地獄に入れ。』『菩薩となるためには無間地獄に飛び込め。』と。世の中には、この話を聞き『なるほど』と、思う者たちもいるはずである。ところが、実際問題、『どのようにすればよいのかわからない』となるのではなかろうか。イスラム教徒は、マッカをメッカに変えて、そこに巡礼すると聞く。では、ある場所をある条件下で訪れれば、強制的に火と硫黄の燃える地獄、無間地獄に堕とされるようにすれば、これが人の入り口になるな。と言うことはわかる。

 要するに、真の菩薩、真のムスリムとなるための場所を設定しておけば、そこが本物のメッカとなるというわけである。

 

 実際には、訪れようとすれば、家の眷属にさんざん脅される。脅され、捕まえられ、縛り上げられ、地獄に叩き込まれるのだ。逃げ出さなかった者だけが、実際に訪れる事ができる場所をつくることは簡単なのだ。わかってはいたが、『そんなもの作っても誰も来ないでしょ。』『猶予は千年以上あるのだから、あわてる必要もないでしょ』と、なっていた。

 

 現状はひどいもので、世は餓鬼界・畜生界止まり。日本と言う国では、『人界はおかしい、餓鬼界畜生界こそが正しい』という思想を広めた大バカ者を偉人として敬い、一万円札にまでする始末。この大バカ者の弟子たちが国を運営するから、あちらへふらふら、こちらへふらふら。

 六道輪廻とは言うけれど、現状は畜生界が正しい、いや、餓鬼界が正しいと戦争している始末。・・・・・まず、六道自体を教えないと話にもならない。一番、分かっているのが日本のはずなんだけど、その日本でもお話になるレベルではない。

 まず、人界・天界があることを広めなくちゃ。次に、六道輪廻しないように、声聞界・縁覚界を教えなくっちゃ。そのあとに、菩薩界への入り口開ければよいのではないのかな。

 

 多くの事を、一度にすすめようとするとろくな結果にはならない。少しづつ進めていかないと、不具合が出てきそうだ。

 

 確かに、『千年後にどのようにして菩薩の門を開けるのか』と言う問題は残るが、それは何とかなるだろう。

 

これが私の考えであった。

 

 

 

太陽の真珠

 

 わたしのブログに、太陽の真珠さんからコメントがあった。コメント自体はさほど大きな意味はないのだが、重要なのは『真珠』と言う名前の方である。ヨハネの黙示録には、『新エルサレムの門は真珠で造られていた』と記されており、門は人が入るためのものであり、人は門からしか入ることができないからである。つまり『真珠』と言う言葉には、『人の入り口』と言う意味となる。つまり、真珠の名によるコメントには『人の入り口を開けよ』、または『人の入り口を開けて欲しい』と言う、わたしに対する要望とか指示となるのだ。

 

 「え、本当に開けるの??・・・まぁ、開けよと言われれば開けるけど、本当に誰か来るの??・・・指示出した本人もこんな意味知らないだろうし、開けたからと言って、誰がそれを管理するのだろう??・・・人の入り口だから、人が管理することになるはずだけど、それは誰???・・・太陽の真珠・・・と言うことになるのかな・・・まぁ、何とかなるのだろ。」

 

「指示出したのだから来いよ!!!」

 

とは言いたいのだが、本人が知らないこともわかっているから、何も言えない。

 

 これからの事は、よくわからない。全知全能などと言うが、実際は『空』からの全知全能であり、無知蒙昧でもあり全知全能でもあるのだ。人の思考は原罪からのものである。原罪から考える全知全能とは、言葉は同じでも全く別物なのだ。

 

 『人を導く』と言うが、わたしなら『まず、裁きの地獄に叩き込め』となる。ここが、導きの基点となるからである。しかし、これは人々にとって、到底受け入れる事が出来ないことであることも知っている。

 

 自己愛の自我と『空』との間には接点がない。この接点がないものの接点をつくろうとすれば、それは裁きの地獄への導きとなる。これが真のメッカなのだ。

 

 わたしの許を訪れたからと言って、このこと自体にはさほど意味はない。しかし、裁きの地獄、火と硫黄の燃える地獄、阿鼻獄に実際に堕とされると知りながら、あえて尋ねるという事に重要な意味がある。これは真の菩薩にしかできないことである。真のムスリムにしかできないことだからである。

 

 偽ムスリムはメッカと言う場所に大挙して訪れる。しかし、彼らはムスリムではなく、そこも真のメッカではない。真のムスリムにとって、メッカ巡礼とは、裁きの地獄、火と硫黄の燃える地獄、阿鼻獄に実際に堕ちることである。私の話を聞き、実際にその覚悟を決める者たちもいるであろう。覚悟を決めたからと言って、本当にそのようになると確信はできないものである。これゆえ、形としてのメッカを設定することも必要ではなかろうか。とは、考えてはいた。そこに、『入り口を開けよ』と言う指示が来たのだ。

 

 わたしは、人としていつまでも生きるつもりはない。しかし、『メッカ』を場所として指定しておくことも、後々の人々のためになるかもしれない。このため、わたしが今いる場所を、菩薩が訪れるべき場所『メッカ』として定めても良いのではなかろうか。

 

                     JHVH