近代史

 

スペイン・ポルトガル

 

  では十界論により、近代の人間社会を分析してみよう。近代世界では、まず、スペインやポルトガルが世界の覇権をとった。彼らの手法はこうである。彼らは、侵略先の人々を、まず、地獄界の思考に堕すのだ。つまり、『自分が殺されようとも、あいつらは絶対許せない。絶対に殺してやる』と、言う思考に追い込むのだ。この場合、侵略者である彼らは、冷静に物事を遂行する。そして、彼ら自身の国は、絶対権力者の王と、王に忠実に従う奴隷という関係を保つ。つまり、彼ら自身は王に命じられるままに虐殺や略奪を行う奴隷に過ぎない。すると、虐殺された側、略奪された側の現地の人々は『絶対に許せない。何が何でも殺してやる』と言う思考となる。このようになった者たちであれば、征服するのはたやすい。このように、十界論で、自分たちは餓鬼界、相手は地獄界と言う関係に持っていけば、簡単に相手を征服できるようになる。だから、戦略として、このように行うのだ。

  これと同じ手法をロシアがウクライナでも用いてきた。これがブチャの大虐殺である。ロシアの常識は餓鬼界そのものである。餓鬼界の常識を持つ者たちが侵略するのに、一番効果があるのが、相手の考え方を地獄界に堕すという手法なのだ。これに対して、感情的になれば征服するのはたやすい。しかし、冷静に検証などされたら逆効果となる。このような行為を行う者たちは、王に命じられたまま行う奴隷に過ぎない。餓鬼界思考では奴隷は何の判断もできない。ただ、ただ、命じられるままに行うだけである。

 

 

イギリス

 

  スペイン、ポルトガルの次に世界の覇権を取ったのがイギリスである。イギリスの施策は、このようなものである。イギリスを君主とする奴隷の国となれば、その地は一応、治まる。イギリスが手を引くと、殺し合いの地獄界の世界となる。つまり、裏で手をまわし、植民地に餓鬼界と地獄界という差を創り出し、『どちらが良いか』と、一応、選択させたのだ。この場合、イギリス本土が餓鬼界ではうまくいかない。王に命じられるまま動く奴隷では、植民地の人々を操れないのだ。このため、イギリス本土は、法治主義、すなわち法の下の平等という畜生界に移行させた。

 

アメリカ

 

  イギリスに代わって、世界の覇権を握ったのはアメリカである。このアメリカとは、バイデンが大統領を務めるアメリカ合衆国ではない。ドルの発行権を持つロックフェラー家、俗に言うディープステイトが真のアメリカである。アメリカ合衆国政府も、アメリカ議会も、司法も、実はディープステイトが裏で支配している。では、ディープステイトはどのようにしてアメリカを支配しているのか。百人の人が町をつくったとしよう。もし、その百人の中で一人だけが他の人の百倍稼ぐならば、残りの99人は、食べることもできないほどの貧困に陥る。すると、この百人の町は暴動が起き崩壊してしまう。しかし、もしこの百人の誰もが生活するのには支障がなく、この中の一人だけが他の人の百倍稼げるとするならば、この百人の町はどのようになるか。全員がこの一人を目指して努力する世界となる。これがアメリカンドリームである。このようにできるのは、ディープステイトがドルの発行権を持つからである。では、ディープステイトが持つ権利とはどのようなものなのか。何によってアメリカンドリームを叶える事が出来るのかを決定する権利である。あとは、このアメリカンドリームを叶えた者しか、大統領にもなれない、議員にもなれない、司法官にもなれない、官僚にもなれないというシステムさえ作ればよい。こうすれば、名目上は三権分立であっても、全員がアメリカンドリームの信奉者となる。このようにして、陰に隠れてアメリカを、そして世界中を支配しているのがアメリカ、すなわち、ディープステイトである。『努力し続ける者がその報酬を得られる』というのは、修羅界の思考である。修羅界は畜生界よりも一つ上の常識であり、畜生界社会で覇権を握る手法とも言える。これにより、覇権国として君臨し、世界中を法治主義である畜生界に移行させることが可能となる。つまり、世界の全ての国や国民に『法を守れ』と語ることによりイギリスから覇権を奪ったのだ。

 

 

  このように、十界論で言えば、覇権国は、他の国よりも一つ上の常識を持ち、自分よりも一つ下の常識に他の国々を導くことにより、世界の覇権を確立させてきたと言える。また、覇権を確立させるために使う手段も、各段階により異なっている。スペイン・ポルトガルが使った手段が武力であり、イギリスが使った手段が権威である。そして、アメリカが使った手段が経済である。

 

  では、次の覇権はどの国がどのような手法で握ることになるのか。順当に行けば、次は人界思考により覇権を確立させるということになる。現在、人界の常識を持つ国は日本だけである。つまり、次の覇権国は日本と言うことになるのだが、では日本はどのような手法で世界の覇権を握るのだろうか。これは文化であろう。つまり、今後、世界の日本化が起きる。人々が平等思考をするようになるゆえに、犯罪は減り、街はきれいになっていくと考えられる。覇権国とは言うが、人界の常識には、覇権と言う思考そのものがない。全部が平等であり、この平等を当たり前とするようになっていくはずである。

  しかし、これが絶対というわけではない。なぜならば、人界も六道輪廻の内であり、覇権国が餓鬼界、世界が地獄界と言う図式に陥る可能性もある。例えば、ロシアの常識は餓鬼界である。プーチンは『この餓鬼界思考そのものこそがロシアである』としている。世界が動乱の世となり、ロシアがその動乱を収める盟主となることを夢見ているのだ。

  また、中国の習近平は他国を餓鬼界に堕す事による世界の覇権を狙っている。ただ、彼の施策は十界論で言えば統一が取れていない。中国国内は、今、畜生界思考となっている。それを餓鬼界の手法により、人々を奴隷化し、奴隷化による国内統一を行おうとしている。畜生界の民を餓鬼界の手法によりまとめるのは難しいが不可能と言うわけでもない。しかし、今度は餓鬼界思考により、修羅界から人界へと移行しようとしている他国を従えなくてはならなくなる。

  十界で二つ以上離れると対抗手段がなくなる。上の常識を持つ者たちが下の常識に堕ちてくるのを待つしか、彼らに勝つ手段はないのだ。つまり、中国国内を餓鬼界によりまとめたとしても、簡単に世界の中に飲み込まれてしまう。手詰まりをおこすのだ。

 

 

 

 

 

東洋史

 

中国

 

  東洋では中国が覇権を持ち、周辺国が中国の属国となるという形をとってきた。実は、この中国が覇権を確立させてきた方法も、十界論で簡単に分析できる。中国の歴代王朝は、中華部分が畜生界社会、周辺部が餓鬼界社会となるように誘導してきた。要するに、周辺の国々は王が支配し人々が奴隷となる社会となるように、中華部分は法治主義となるように誘導してきたのだ。このために、機能するのが中華皇帝である。中華皇帝は、人民には姿も見えず声も聞こえない権威の塊となる。この中華皇帝に謁見できるのが、周辺国の王である。中華皇帝は、この周辺国の王を奴隷として扱う。そして、その周辺国の王に、その王の国民を奴隷として扱う許可を与えるのだ。すると、周辺国は餓鬼界の社会となる。では自国の民に対してはどうするのか。宮殿の奥深くに隠れ、一切姿も見せず、声も聞かせないようにするのだ。そして、内政の担当官が、法治主義となるように法を公布し、その法に従って取り締まるようにもっていく。こうすると、中華部分は畜生界、周辺部は餓鬼界と言う社会の差が生まれる。こうすることにより、国力も、軍事力も、経済力も、文化においても、中華部分が圧倒し、周辺国では敵わない状態をつくってきたのだ。

 

 

日本

 

  日本は人界の常識を持つ国である。しかし、今、上層部と呼ばれる者たちは畜生界や餓鬼界思考をしている。なぜ、日本が人界の常識を持つようになったのか。まず、日本の国王である天皇の影響がある。

  日本の天皇は昔から、物事を聞くことは聞くが、何の命令も下さない王である。この人々の声を聞き、世間の声も聞くが、何も命じないという姿は、実は声聞界の特徴なのだ。

  国の常識は、その国の国民の常識により定まる。国民は王の常識を手本とする。このため、王の常識が国の常識となることも多い。例えば、ロシアのプーチンは典型的な餓鬼界思考をしている。自分が王であり、国民は王の所有物、すなわち奴隷と考える。また、ロシアが王であり、ウクライナはロシアの所有物、すなわち奴隷と考える。王がこのような常識を持つと、その国の国民も同じように常識となる。

  つまり、上の言うことは『ご無理ごもっとも』であり、下の者相手に対しては『絶対に従え』と言う思考となる。

  では、日本のように国王が声聞界の場合、国民はどうなるのか。人界・天界に普通に至るようになる。また、国民の内には、思考や心を無とする修行に志す者も現れる。このように王が声聞界に至ると、国も人界・天界に普通に至るような状態となる。

 

  日本は争いがなく武器も退化する三百年近い天下泰平の時代も創り出している。これが江戸時代である。この江戸時代をつくった徳川幕府の政策はこうである。まず、支配者階級である武士と、被支配者階級である平民と言う身分の違いを定めた。ここまでは、世界各国が同じである。ここからが違う。武士と平民の守るべき法が異なるのだ。

  武士に対しては、失敗しても切腹、汚職を行っても切腹、不正を行っても切腹と、何かにつけて自らの命で償う事が定められた。

  これに対して、庶民には『武士を敬まえ』と言うことだけが定められ、後は寛容な許しの政策がとられたのだ。

  これを庶民から見ると、『何かにつけて自分の命で責任を取らされる武士にはなりたくない』となる。人々が支配者となることを望まなくなったゆえに、武器が退化し、三百年近い天下泰平の世の中となったのだ。

 

  国などの組織を運営するためには、必ず指導層が必要となる。庶民から見て、その指導層が憧れの的となるようならば、全員がその指導層を目指し争う状態となる。しかし、その指導層が憧れの的とならないのならば、庶民は庶民であることに満足する。この時、人々の意識の上では、平等ということになる。このように、意識の上で平等となるように持っていけば、国を意図的に人界とすることも可能となる。

 

  日本は、諸外国の影響により明治維新を起こした。庶民が庶民のままでよいなどと考えるのはおかしいとしたのだ。『上下関係があるのは当然だ。何によって上下関係を定めるべきなのか』と日本人自体が考えるようになった。つまり人界の常識はおかしい、畜生界や餓鬼界の常識を持つべきだと変化したのだ。人界も六道の内。人界に慣れすぎたため畜生界や餓鬼界の方が魅力的に見えるようになったと言える。人界思考がいきなり餓鬼界に堕ちることはない。人界思考は修羅界思考へと変化し、畜生界思考へと変化し、餓鬼界思考へと変化していった。最終的には『鬼畜米英』と言う地獄界思考にまで落ちていったのだ。これが日本の敗戦の原因である。

  では変化したのは江戸時代の支配者側の層なのか、それとも庶民側の層なのか。武士階級側の層だけである。支配層側はこのように変化していったのだが、庶民側の層は『武士を敬え、後は自由である』という、江戸時代の思考をそのまま継続したのだ。つまり、指導者が指導者の役割を果たす限り庶民はそれに従うという思考となる。つまり、指導者がその役割を果たしていないと庶民が判断すると、日本の政治は大きく動く。

  例えば、日本はアメリカを指導者として敬ってきた。ところが、アメリカの大統領選挙により、明らかな不正が行われ、不当な者が大統領となった。これは、日本人の意識として、アメリカは指導者ではなく自分たちと同じと言う位置に引き下げる事となる。

  日本人の思考として、指導者は不正など決して行わない武士でなくてはならない。不正を行えば、不正が許される庶民と言う事となり、指導者としては認めないと言うことになる。

  この『上の位置にいない』と判断する者が、さらに上の位置にあるとして命令すると、今度は非人扱いとなる。これも江戸時代の名残である。

  江戸時代、武士が武士にあるまじきふるまいをすれば、庶民より下の非人となるのが定めだったのだ。これは、例えば切腹を申し付けられて切腹しなかった場合などに適応される。

  指導者が明らかな不正を行うならば、潔く指導者の位置から降りなくてはならない。降りないのならば人として扱う必要はない。と言うことである。

  例えば、韓国や中国は明らかな不正を行いながら、自分たちが日本よりも正しいとしてきた。日本人は、明らかな不正と言う行為に対して、『自分たちと同じ』もしくは『人間扱いしない』このどちらかの対応を取る。これは一人ひとりが判断するのであり、誰かに強制されるわけではない。また、各人は自分の判断を他の者に強要することもない。つまり、表面上は何も変わらないのだが、各人の判断が動くゆえに、国の判断も動くという状態となる。ここから、日本人は表面的には出さないが、韓国や中国を、彼らの行動ゆえに見下している。指導者と言うのならば、清廉潔白な武士であることが当たり前であり、嘘をつき相手を貶める行為は非人(人ではない)と言う判断となるからである。

  日本では、誰でも指導者になりたいと言えば指導者となれる。しかし、その人が本当に指導者としてふさわしいのかと人々は常に観察している。相応しくないと大勢の人々がみればクビとなる。この時点で止めれば、これ以上の追求はしない。しかし、それでも、その人が指導者の位置から降りないとなれば、今度は人として扱ってもらえなくなる。他の国では、指導者の地位に就くときに争いとなるのだが、日本ではこの地位に就くこと自体は比較的容易なのだ。その後、指導者となった者たちは武士として振る舞う事が要求される。これが江戸時代から続く、日本の庶民感覚である。指導者が絶対的な力を持ち、庶民がそれに一方的に従うという思考からはこのようにはならない。指導者と従う者という立場の違いは、単なる差異である。身分の上下でもなく、支配・被支配と言う関係でもない。だから、希望すればだれでも支配者となれるのが基本なのだ。しかし、支配者が支配者としてふさわしくないとなれば、庶民に首にされる。

  支配者は武士でなくてはならない。武士は清廉潔白であり、品行方正であり、曇りがわずかでもあってはならない。もし、そのような事があれば、潔く切腹しなくてはならない。もし、支配者がこのようでないのならば、庶民をその者を人間としてすら扱わなくなる。これが日本の庶民感覚であり、庶民感覚で言えば日本はいまだ江戸時代のままである。

 

  ただ、高学歴となればなるほど、この庶民感覚から離れ、優劣を競う欧米感覚となっている。これは、日本の教育が欧米思想よりつくられているためである。教育は、その考え方の基本が変わればすべて変わる。

  欧米の常識が三悪道であり、常識が三悪道だから、性悪説となる。欧米では常識通りに振る舞えば、人の行動は犯罪としかならない。犯罪としかならないから倫理を設け規制しなくてはならない。このように三悪道を常識としたところから、論理を展開しているのが現代の西洋哲学であり、その西洋哲学から、唯物論、唯心論が生まれ、それが理科系、文科系と言う学問系列となっている。この学問系列で優秀とされた者たちが、日本の上層部をつくるから、上層部の思考が三悪道を常識とする思考となる。

  と、言っても、日本の庶民感覚を、彼らも幼少のころには知っていた。彼らは単に、日本の庶民感覚と、西洋哲学の優劣を、西洋哲学側を優であると勘違いしているだけでもある。この日本の庶民感覚が人界であり、西洋かぶれをした文化人達の常識が畜生界なのだ。実際に日本の独自文化を創り出しているのは、日本の庶民感覚の方である。

 

 

 

 

 

現状分析

 

  現在、民主主義vs独裁と言う形で、議論されている事が多いようである。では、その民主主義とは、何が起源なのか。ある人はフランス革命にその起源を求め、ある人はプロテスタントの台頭にその起源を求める。王権と言う権威に立ち向かったのか、それとも教会と言う権威に立ち向かったのかと言う事であろう。

  民主主義の起源はヨハネの黙示録にある。ヨハネの黙示録に従えば、イエスを信じるならば、火と硫黄の燃える地獄に入らなくてはならなくなる。これは嫌だとなり、入らなくても良い方法を探したのだ。ここから、何によってこの火獄を逃れられるのかと言う事になった。カトリックは免罪符なるものを売り出し、プロテスタントは信仰を金もうけの手段とすることはおかしいではないかと、聖書に答えを求めようとした。つまり、カトリックもプロテスタントも『信仰すれば、火獄を逃れることができる』と言う教えなのだ。

  では、本当に聖書に従えば、『イエスを信仰するならば、火と硫黄の燃える地獄に堕ちよ』と言う事となる。これが真理であり、これが真実なのだ。この真理、この真実に耐え切れないのがほとんどの人なのだ。ここから、真実かどうか、真理かどうかではなく、『人々の支持を集めたものが正しい』という思考が生まれた。この人々の支持を集めるという行為が、今の民主主義の起源である。

  これに対して、ロシアなどは、神の名により教会が支配権を指導者に与えるという形をとる。つまり、『正しいのは指導者である』と言う事となり、指導者に従う者は火と硫黄の燃える地獄を免れるということになる。このどちらが正しいのかと争っているのだ。

  ローマカトリックも、東方正教会も、プロテスタントも、すべてのキリスト教と呼ばれる教えが語っていることは『信仰により火獄を逃れられ、天国に導かれる』である。民主主義も『皆が欲するから、信仰により火獄を逃れられるというのは正しい』と言う思考であり、権威主義も『教会の権威の移譲を受けた指導者に従えば、火と硫黄の燃える地獄に堕とされることはない』という思考である。

  しかし、聖書に従えば、『イエスを信じるならば火獄に入れ』となる。ヨハネの黙示録は明らかに、イエスを信じる者たちに対して示された教えであり、そのヨハネの黙示録に従えば地獄に堕ちるしかなくなる。これが聖書なのだ。結局、どのような名目を設けるのかは別にして、聖書の聖霊に逆らうことは同じなのだ。民主主義も権威主義も『目くそ、鼻くそを笑う』程度の違いしかない。わたしから見れば『なぜ、聖典に記されている通りにしないのか』、『お前たちはどこまで臆病なのだ』と言うしかなくなる。

 

 

 

十界論による戦争の帰着

 

  今、ロシアとウクライナが戦争している。これも権威主義vs民主主義と捉えられているようだが、実際の勝敗を決するのはウクライナの姿勢である。なぜならば、プーチンは餓鬼界常識そのものをロシアと定義している。このため、ロシアの位置は動かないのだ。これに対し、欧米は畜生界を常識としている。ウクライナは、元々餓鬼界を常識とする国であった。餓鬼界vs餓鬼界であれば、これは大国の勝利となる。つまり、ロシアが勝利する。また、もしロシアが圧倒的な勝利を収めたいのならば、ウクライナの人びとを『ロシアは許せない。自分たちが滅びたとしてもロシアを追い出さなくてはならない』という地獄界思考に堕せば、ロシアの完全勝利が確定する。

  これに対して、もし、ウクライナが国際法を遵守するという戦い方をみせれば、これは畜生界思考であり、ウクライナが有利となる。

  ウクライナが完全勝利する方法もある。ウクライナの人びとがロシア人もウクライナ人も同じと言う人界思考となれば、ウクライナの勝利は確定する。この時、ロシアは滅びることになる。

  では、どのようにすれば、ウクライナの人びとの間に人界思考が広まるのか。この方法は、まず、指導者が、日本の天皇と同じく、すべてを聞き質問はするが、何の判断も下さない状態。つまり、声聞界に至る必要がある。戦争を継続するのか中止するのかの判断も国民に任せるのだ。今、ロシアは再び攻めてくるとして欧米の支援を求めているが、責めてくるのか、それとも終わりにできるのかの判断も国民に求める。大統領は、自分では何の決定も下さずに、『人々はどのように考えているのか』と質問していくだけにする。そして、部下たちが出してきた答えに承認を与えるようにする。

  このようにすると、ウクライナの人びとの間に、自分たちの意見が国を動かすという考え方が芽生える。各人が『何が本当に良いのか』と考えるようになっていく。

  今、ウクライナの人びとは指導者の言うことに盲目的に従うだけである。ここが一番の問題であり、ここを改めないと勝利を得る事はできない。しかし、ここを改めればウクライナの勝利が確定する。ウクライナの勝利が確定するとは、実はロシアの消滅を意味する。

  ロシアは餓鬼界思考である。餓鬼界思考では、修羅界以上に対する対抗手段がないのだ。つまり、ウクライナの人々が人界思考に至れば、その人界思考がロシア国内に伝染していく。このようになると、プーチンが定義するロシアは滅ぶしかなくなる。

  このような方法は一朝一夕に行えるものではない。また、これが完成した姿では、ロシア領なのかウクライナ領なのかはほとんど関係なくなる。戦争の勝敗など、あまり意味がなくなるのだ。人界の常識では文化力により相手を占領してしまう。短期決戦ではなく数十年、数百年という文化侵略ともいえる。これは、もし、わたしがウクライナの大統領であったならば、このようにするであろうという手法である。

 

  トランプ大統領が一気に終結させると語っている。これは、おそらく、ロシアが侵攻し占領してきた地域からロシア軍を引かせるはずである。ウクライナにも帰属させない、ロシアにも帰属させない空白地帯をつくろうとしているのではなかろうか。これは、ウクライナ戦争で疲弊したロシア軍には、もうアメリカ軍やNATO軍に対抗する力はないとみているという意味となる。ウクライナから出ていけとアメリカ軍の全戦力を終結させ、その上でロシアと交渉するようにすれば、ロシアにはアメリカと戦う力は残っていない。

  もともと、このウクライナ戦争はアメリカ大統領選挙の不正が発端であった。不正選挙によりバイデンが勝利したことが、プーチンがウクライナに侵攻した原因なのだ。バイデンはウクライナの汚職に絡んでいる。ロシアがウクライナに侵攻すれば、その汚職問題はうやむやになる。つまり、都合がよいはずである。ここからアメリカは表立っては動かないと判断した。また、ヨーロッパ諸国もロシアにエネルギーを依存している。このため、ここも動かない。中国も漁夫の利を狙っているので、表立っては反対しない。誰も反対者はいなくなるのだから、単純に軍を進めるだけで済む。このように考えて、プーチンはウクライナに侵攻したと考えられる。もし、トランプが大統領であったのならば、何をするのかわからないという怖さがあり、とても侵攻などできなかった。ロシアは、アメリカのうごきを見て、オバマの時にクリミアに侵攻し、バイデンになったからウクライナ全土を取りに来たのだ。

  実際の戦争になり、はっきりわかったことはロシア軍がはりぼてだったという事である。はるかに格下のウクライナ軍に対して軍事的な勝利も収められない張りぼて軍隊に過ぎないという事が露呈してしまったのだ。ならば、うつ手はこのようなものになると予想できる。これも、わたしがトランプだったらこのように行うという手法である。

 

  もう一つ、戦争と言えば、ハマスがイスラエルを攻撃し、イスラエルvsイスラム社会と言う図式の戦闘もある。この戦闘の勝敗は既に定まっている。この争いの本質は、イスラム教とユダヤ教のどちらが正しいのかという宗教論争である。相手を論破できる法を持てば、論破する方が勝利する。実は、これにはわたしも関係している。わたしはイスラム教を論破する法をイスラエルに授けたのだ。つまり、宗教論争上では、イスラエルがハマスを圧倒する。正当性を主張できなくなれば、武力は早く勝利するのか、ゆっくり勝利するのかの違いでしかなくなる。

 

 

地球環境問題

 

  地球環境問題と呼ばれる問題がある。CO2の排出が地球環境に影響を与え、これゆえ気温が上昇し、人類は地球上に生存できなくなるから何とかしなくてはならないと騒いでいる。この現状はひどいもので、実際にCO2を削減しようというよりは、地球環境問題を名目として、いかにして自分の利益を上げるのかと争っているのだ。

  考えてごらん。人は何のためにCO2を多大に排出しているのか。自己利益のためである。つまり、自己利益を求める事を是とする地獄界・餓鬼界・畜生界の思考常識が地球環境問題を引き起こしているのだ。その名目をいくら代えたとしても、三悪道思考そのものは変わっていない。目先をいくら変えても、根本をかえないとこの地球環境問題には対処できない。中には、地球が住めなくなるのならば、地球以外に住める場所を探そう。とか、温暖化するならば核の冬を創り出して寒冷化させればよいなどと考える者たちもいるようだ。

  しかし、地球はJHVHにより創られたJHVHを創り出すための揺りかごなのだ。今の人類は、JHVHとなる候補である。候補は、過去にも存在し、未来にも存在する。もし、今の人類がJHVHとなる道を踏み外し修復不能となるならば、早々に滅ぼし、次の人類のために地球を使った方が良い。あなた方も失敗作はどこがどのように間違ったのかと分析し、廃棄するではないか。その対象が自分たちだとしても仕方ないことぐらいわかるのではないのか。

  さて、実際はどうなのか。今、異常気象、地球温暖化などと騒いでいる。これらの問題にCO2が完全に無関係と言うわけではない。CO2の影響は3~5パーセント程度しかないのだ。異常気象の最大の原因は、降るはずのない雨を降らそうとしたり、降るはずの雨を降らすのを止めたりしていることにある。

  地球も人間の体と同じで、いろいろなものバランスにより成り立っている。このバランスを壊すと病気になる。この病気を治そうと、起こるのが異常気象などの天変地異なのだ。異常には長期的なものと短期的なものがあり、CO2は長期的なものと言える。まぁ、人間で言えば慢性病と言える。

  しかし、昨今の異常気象は、きわめて短い周期で動く。この原因は、短期的、反射的なものと言える。人間で言えば火傷や怪我をした状態なのだ。では、短期的な原因とは何か。例えば核兵器を空中で爆発させると雨が降ることが知られている。これは殺傷兵器として使った場合も、実験で使った場合も、地球にとっては同じである。

  戦争によって、人と人とか殺しあう。これは人にとっては重大な事となるが、地球にとっては、工場から排出される煙と同じである。しかし、人が地球の天候を強制的に動かすことは、地球にとって核兵器に匹敵する、もしくは核兵器以上の作用となる。人が、天候をいじればろくなことにはならない。昨今の異常気象は、その七割は人が地球の天候をかえたことの反動だという。この中の半分弱を中国が行っているという。つまり、中国政府の政策が今の異常気象の最大の原因であり、CO2自体は、まだ、目に見えない程度の影響だという。これらはわたしの眷属からの情報である。

  まぁ、異常気象を抑えたいのならば、まず、天候の変動を試みることを止めるべきだな。ただ、今、止めてもすぐには異常気象が収まるわけではない。それでも、徐々に収まっていくはずである。

 

  さて、CO2が実際に重大な影響をもたらすのは、約1500年後である。この間、地球は温暖化と寒冷化を繰り返す。振り子のようにその振幅が大きくなっていく。これが臨界点を迎えると、一気に平均気温が大きく変動する。この臨界点が1500年程度先に来ることとなる。このようになると人類は全滅する。

  何が、この振り子を動かす原因なのかと言えば、人の我欲である。例えば、今日でも、自分たちの欲する場所に雨を降らせようとしている。また、我欲を叶えるために、大量のエネルギーも消費する。これがCO2であり、CO2がすべての元凶のように人々は語っているが、実は、この地球環境問題自体が、『三悪道から離れよ』と言う警告なのだ。

  つまり、決まっているのは人類滅亡の方であり、環境問題に依る地球環境のジャンプではない。今の人々は、三悪道を常識とし、その常識から物事を定めている。このこと自体が人類滅亡の原因である。

  この原因を解消しさえすれば、すべては順調に進む。と、言ってもわたしが関与できるのは8000年先、つまり、西暦一万年までである。この時には、次の者が現れる事となっている。

 

  さて、いつまでに、三悪道の常識から離れればよいのか。実は意外と近く、400年先には、離れる必要がある。この時にまで、三悪道から離れられないとなれば、人類滅亡への一本道を歩むこととなる。この滅亡への道を歩む場合、最大の障壁は、わたしの存在である。このため、まず、わたしの存在を知る者は誰もいなくなる。人々は、三悪道のまま推移し、実際に滅亡するのは、1500年程度先のこととなる。

 

  では、人類は滅びるとしたらどのように滅びるのか。はっきりわかることは、三悪道から思考する現代の政策を推し進めれば滅びるという事だけである。例えば、わたしの存在は嘘だとし、科学技術こそが真実であり、正しいとすれば、これは滅びへの最短距離となる。あなた方自身がこれを知っている。だから、現代科学の範囲で何とかしなければと努力しているのではないのか。他にもいろいろ考えられる。偽キリストが現れ、イエスを信仰すればヨハネの黙示録により火と硫黄の燃える地獄に堕とされることは決してないとしても、これも滅びへとつながる。簡単に言えば、今のカトリックやプロテスタントが正しいとするならば、これも人類滅亡へとつながる道である。このように、滅びへの道は舗装された高速道路のように広い。しかし、いつ、どのように滅びるのかは、今のわたしにはわからない。

  あなた方が、滅びへの道を選択するのならば、わたしはあなた方の選択を尊重する。『今の人類はダメであった。しょうがない。早々に滅ぼし、次の人類のためにこの地球を使おう』これが私の考え方である。

 

 

 

さいごに

 

  あなた方の中には、『こんなはずはない』と考えられる方々もいるであろう。『JHVHと名乗る行為は許せない』と言う方々もいるだろう。また、『今の文明が遅れた文明であるわけがない』と語る方々もいるであろう。

  今、わたしは人間としての肉体を持っている。これは、預言者を通して語ろうとしても語れない微妙な物事を語るためである。人の思考を有とすれば、有は無より生じるという程度のことであっても、預言者を通して理解させることなど不可能に近い。ましてや、有無は空より生じるなどと教える事など不可能なのだ。私が人となったからと言って、『空』を人の思考である『有』で語り示す事などできない。しかし、それでも、何も理解できていない預言者が語るよりは、少しはわかりやすいはずである。

  この肉体を持つということが、わたしの最大の弱点となる。つまり、わたしを殺し、これらをすべて消し去ってしまえば、あなた方でもわたしを簡単に打ち破ることができるのだ。

  あなた方の大統領は、SPなどに何重も守られている。殺そうと近づくことも容易ではない。しかし、わたしは一人だけである。周囲にほとんど人がいない田舎の小さな村で、一人で生活しているのだ。殺そうと思えば、殺す事など簡単であろう。また、わたしの言葉は小さなブログでしか公表していない。大規模な改変を行わなくても人々の記憶から消し去ることも簡単であろう。

  わたしが手紙を記す相手は、各国の日本大使館が主である。全世界の指導者が集まって握り潰せば、一般の人々に知られることもなく消去できるであろう。

 

 

  わたしは、わたしの力により人類を導くのではない。あなた方に選択肢を提供し、あなた方に『どうするのか』と問うているのだ。あなた方が『これは不都合である。消し去るべきである』と思うのならば、わたしを殺し、わたしが書いたものを封印してしまえばよい。これも一つの選択肢なのだ。

 

  あなた方が選択した通りに、世界は動き未来は定まる。わたしはここに、人類存続の道を記した。しかし、これをあなた方に強制するわけではない。あなた方には『こんなわけはない。人類が滅びるわけはない』と、ここに示してある滅びを選択する自由もあるのだ。

 

  わたしの肉体は、やがて死に、やがて朽ち果てる。このような肉体に、わたしの本体があるわけではないが、これは事実である。また、あなた方の肉体も、わたしと同じようにやがて死に、やがて朽ち果てる。これも事実である。JHVHの本体は法にある。ここに記してあることがわたしの肉体よりもJHVHに近い。だから、もし、真にわたしを打ち破りたいのならば、朽ち果てる肉による勝利を求めるのではなく、法によりわたしを打ち倒すべきである。つまり、まず、法論によりわたしを退けよ。この挑戦権は、あなた方一人ひとりにある。

 

  私は肉体としては日本人である。日本に住み、日本語でこれらの言葉を記している。なぜなのか。日本語が万能と言うわけではないが、日本こそが仏教の終着地であり、日本語には仏教、特に法華経の考え方が浸透している。このため、一番説明しやすいのが日本語なのだ。このため、わたしに法論を挑もうとするならば、仏教用語も理解した上で、日本語で挑んできなさい。

 

  また、証拠が残らない言語による論戦はわたしは受けない。このため、わたしを論破しようとするならば、必ず証拠の残る文書によってわたしを論破しなさい。

 

  もし、わたしを論破する者が現れたのならば、あなた方はわたしではなく、その者に従うべきである。わたしは自分が法により勝つことも、負けることも重要だとは思わない。人類がより良い未来を得る事が重要なのだ。だから、わたしに勝る者が現れ、わたしが論破されるのならば、これこそが、わたしの望みなのだ。

 

これらの言葉は自由に翻訳してもらって構わない。

 

 

 

以上全文